カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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中編 古の女神編 Ⅳ

 エリカにとって人生最大の危機と言っていい。

 人跡未踏の秘境くらいであれば、持ち前の知識と呪術を駆使していくらでも乗り越えることができるだろう。人跡未踏と行っても、現在の人類の文明が届いていない地域はあまりない。地続きの場所ならば、エリカは生還する自信がある。

 しかしながら、ここは人跡未踏という表現も生温いと言っていいところだ。

 大地母神が形成した異界。大自然が広がるそこは、人間が足を踏み入れていい場所ではない。まさに神域と言うべき空間で、どれだけ歩いても出口に行き着くことはない。

 権能で作られた空間だけに、その強度は非常に高い。エリカの呪力で穴を開けることは不可能だった。やはり救出を待つか、何らかの形で穴が開くのを待つか、その二択しかない。

 サルバトーレという頼みの綱がなくなってしまったので、エリカは絶体絶命の状況に陥った。念のため、この任務を引き受けるに当たって遺言を書き残してきたが、まさかそれが現実のものになろうとは。

(わたしらしくもない。この程度で弱音だなんて)

 気を取り直してエリカは寝床から外に出た。

 こうなっては何としてでも生き延びる。保存食はもう直尽きる。できれば神の領域の食物を口にしたくはなかったが、生き延びるためにはやむを得ない。

「できる限り殺生は控えておかないといけないわよね」

 古今東西、様々な文献で異界の食べ物の危険性は語られている。この世のものではない食べ物を口にしたことで、この世の住人ではなくなってしまうという話は珍しくない。

 幸い、エリカの推測が正しければ、この異界を生成した『まつろわぬ神』はその手の神格ではないが、だからといって「大地の母」である女神が自分の領内での狩りを簡単に容認するかというと疑問が残る。動物性蛋白質は、女神の勘気を被る可能性を考慮すると控えるべきだろう。そういうわけで、エリカは山菜で空腹を凌ぐ方針にしたのだった。

 原始的な森林を踏み越えて、エリカは小川に辿り着く。呪力は生命力そのもので、大気にそれが満ちている。そのおかげが、エリカは疲労を外界よりも抑えることができていた。思ったよりも体力を温存できている。環境のおかげだろう。それはサバイバルを強要されている現状では、実にありがたい。

「ふう……」

 エリカは小川のほとりで休憩をすることにした。

 起伏のある地形を歩いていたので、ふくらはぎがパンパンだ。いざというときに動けないと困るので、無理はしない。

 竹を使って作った水筒に水をくみ、呪術で沸かして殺菌する。古代人が苦労した様々な工程を呪術は省略することができる。一から火を熾すような肉体労働はエリカの主義に反するので、可能な限り省エネにするのだ。

「気候と大気中の呪力以外は、外と概ね一緒なのね。植生も馬鹿みたいに現実離れしたものじゃないみたいだし」

 今日はこの辺りでキャンプにしよう。そう思ってエリカは手近な巨岩に目をつけた。小川の水深は深いところで大体一メートルくらいだろう。対岸までは五メートル弱。しかし、川岸の木々の倒れ方や下草の様子からこの川は増水して周囲を水浸しにすることが分かったので、地面に寝るのは危険だと判断した。エリカが巨岩をキャンプの場としたのは、水面から三メートルは上にある巨岩の頂ならば、急な増水にも対応できると考えたからだ。

 薪を運び、小石を並べて薪を囲い、火をつける。せっかく小川が近くにあるのだから魚を獲りたいが、血を流すのは神の機嫌を損なうかもしれないので我慢する。

「キャンプも悪くはないのだけど、こうも制約が多いとげんなりするわね」

 あれもダメ、これもダメではキャンプの楽しさはまったくない。サバイバルという過酷な状況だからこそ、せめて食事は美味しくいただきたいが、そこにすら制限があるのは精神衛生上よくない。

「このエリカ・ブランデッリが木の実を囓ってばかりの生活をする羽目になるなんて」

 そう言いつつ、採取してきた木の実を鍋で煮る。金属を操る術はエリカが最も得意とするところだ。鍋を作ることなど造作もない。

 このような雑多な日用品を作るために呪術の研鑽をしたわけではないのだと内心で文句を言いつつ、そればかりは口には出さない。

 つくづく呪術師でよかった。

 呪術によって生きるのに必要な道具は確保できるし、食べられる植物とそうでないものの区別もできる。

 魔女ではないので専門とは言えないが、植物の区別は呪術を学ぶ上での基本だ。

 現代人の淑女でありながら、狩猟採集の時代に近しいことをしなければならないのは甚だ不本意だったが、自分の知識が実用できると証明されたことは誇らしく思う。

 脱出は困難でも、数週間は生きていられる確信は持てた。

 エリカは懐から懐中時計を取り出す。こんな状況でも古めかしい時計は正しく時刻を紡いでいている。この異界の一日の長さは、外と変わらない。二十四時間は二十四時間だ。日の出から日の出までの時間を計ったおかげで、時間感覚を維持できている。後はこの異界の中の時間の流れが外の時間と同じであることを祈るだけだ。

 戻ってみたら何年も経過していたという事態もあり得る。笑えない話だが、神隠しに遭った人間は、得てしてそういう不条理に囚われるものだ。

 まさか異界でフィールドワークをすることになろうとは思わなかったが、前向きに考えるのならそれもまたアリだ。現状を力尽くで変えられないからこそ、力と知識を蓄える。

 十分ではないが最低限の栄養摂取を終えたエリカは、総身が震え上がるほどの呪力を感じて身構えた。川の上流から、とてつもない呪力の塊が近づいてくる。

「……来たのね」

 エリカは喉を干上がらせながらも、決死の覚悟を抱いた。

 剣を置き、巨岩から飛び置いて跪いた。

 そして、時を置かずすぐに圧倒的な力を持つ存在がエリカの眼前に降臨した。

文明の火(プロメテウス)の気配を感じて来てみれば、人の子が一人迷い込んでいたか」

 涼やかな声だった。 

 理知的で大らか。威圧感はなく、包み込んでくるような慈愛を感じた。エリカは顔を伏せたまま、神への敬意を表す。

「なるほど、お前は我が遠い末であり、ヘルメスの弟子でもあるようだ。差し詰め、息子に従って我が領域に引き込まれたのだろうが、聡明さに助けられたな。神への礼儀を忘れた不忠者であれば、この場で神罰を下していたところだった」

 押し黙るエリカは理性を保つので精一杯だった。今まで『まつろわぬ神』とここまで接近したことはない。遠目で見ても背筋が凍えるほどの強大な存在が、ほんの数メートル先にいて、しかも自分のことを認識している。

 これは、由々しき事態だった。

 人が普段の生活の中で足下の蟻に気づかないように、『まつろわぬ神』も人の存在など気にも止めない。

 しかし、何らかの拍子に認識してしまえばどうなるか。

 人が気まぐれに、あるいは害意を持って蟻を踏み潰すように、一瞬先の未来でエリカが肉片に変わっていても不思議ではない。

「ふ、そう固くなるな、わたしにお前を害するつもりはないぞ。名は、エリカ・ブランデッリと言うのだな?」

「わたし如きを気にかけていただき、光栄の至りでございます。ご推察の通り、わたしの名はエリカ・ブランデッリ。若輩ながら御身に拝謁の栄を賜りましたこと、誠に幸甚の至りでございます」

 名前を知られたことにエリカは内心で驚愕する。顔には出さず、ただ只管に礼を尽くすことだけを考える。

「ふふ、驚くことはないだろう。わたしにとってはお前もあの神殺しもすべては我が子も同然なのだ。サルバトーレ・ドニ、アンドレア・リベラ、そしてエリカ・ブランデッリ。間違ってはいないだろう? 母が子の名を知らぬわけにはいかぬからな」

 得意げに『まつろわぬ神』は言葉を紡ぐ。

 エリカだけではない。

 サルバトーレも含む、この異界に侵入した三人の名をすべて把握している。

 この神は自らを母と呼んだ。

 やはり、大地母神の類いで間違いはない。

「……恐れながら、御身は大いなる大地の神であらせられると愚考いたします。御身を何とお呼びすればよろしいか、ご教示くださいますか?」

「お前ならば我が名の一つや二つ、すでに思い至っているだろうが、なるほど、だからこそわたしの名を問うのだな。やはり、お前は聡い子だ」

 艶然と母神は微笑んだ。

 まるで、それは出来のよい我が子を誇らしく思っているかのような慈母の如き笑みだった。

「いいだろう。わたしにはいくつもの名があるが、敢えてお前の期待に応えるとしよう。以後、メーテール・テオーン・イーダイアの名を胸に刻み、その生を全うせよ」

 大地母神の言葉を受けて、エリカは自分の推測が的を射ていたことに安堵する。

 この神の名は、その信仰地、とりわけギリシャでは直接呼ばれることはなく、婉曲的な表現をされていた。それがメーテール・テオーン・イーダイア。すなわち、「イーデー山の神々の母」である。

 大らかな気質の『まつろわぬ神』だからといって、不敬が許されるはずはない。

 サルバトーレを息子と呼びながら、激しく戦っていたのがその証左である。

 もしも、本当の神名をエリカが口にしたとき、果たしてどのような反応が帰ってくるかは未知数だった。

「偉大なる神々の母よ。御身に、お教えいただきたいことがございます」

「皆まで言わずともよい。あの神殺しの魔王を追い、この世界から抜け出す術を知りたいのだろう?」

「はい」

「その必要はない。お前はわたしの元で生きよ。鉄と石にて木々を切り開き、神の恩寵を忘れた外の世界で汚れずともよい」

「……あ、し、しかし」

 女神が身を翻す気配を感じて、エリカは咄嗟に顔を上げてしまう。

 この女神はエリカを外に出すつもりはない。今までと違って、エリカの存在を認識した上でそう言うのだから、脱出は絶望的になってしまう。何とかして、女神から外に出る許可をもらうか見逃してもらうかしなければどうにもならない。

「あ……」

 そして、エリカは呆然と固まった。

 女神の裸体を目視したことによる呪詛――――等ではなく、ただ見てしまった物を脳が理解できなかったからだ。

 美しいという言葉が陳腐に思えるほどの輝かしい裸体だった。金色の髪を編み上げた細面の美々しい女神は、地母神らしい豊満な乳房を持っていた。だが、エリカが見たのはそこではない。跪いていたエリカが顔を上げたことで、ちょうどそこが目に入った。

 女神の股間に女には存在しない器官がぶら下がっていて、大いなる女神はそれを隠そうともしていないのだ。

(ひ――――い)

 エリカは頬を上気させて顔を下げた。

 同年代の人間の中では並ぶ者のいない美少女であると自負するエリカではあるが、男性経験は皆無だ。知識として知ってはいるだけで、本物を目にする機会があるはずもなく、また自らを淑女とするエリカの身持ちは固い。 

 まったく想像もしていない形で、それを眼前に突きつけられれば、さすがのエリカは思考回路がショートする。

「ふふふ、ヘルメスの弟子も生娘だな。そのように恥ずかしがることもあるまい」

「も、申し訳ありません」

「謝罪も不要。アルテミスのように素肌を見た男を撃ち殺すようでは神々の母の度量が疑われよう。母の玉体を見て顔を伏せずともよいのだ。姿を隠して信仰を得る者もいるが、わたしはそうではない。思う存分に母の玉体をその目に焼き付けよ」

「ご、ご冗談を。あまりにも恐れ多いことでございます」

「謙虚だな。神への礼を弁えている。ふふふ、ますます気に入ったぞ。我が国の住人として申し分ない。その人生を大いに楽しめるよう、後で番いを用意してやろう。お前に相応しい聡明で敬虔な男をな」

 気分をよくしたのか大きく笑った母なる神が口笛を吹くと、空から二頭のライオンが引く戦車が降りてきた。

「では、さらばだ。我が娘よ。サルバトーレのような愚物に育ってくれるなよ」

 そう言い残して、『まとろわぬ神』は去って行く。

 戦車の車輪は空を踏みつけ、雲を纏い、何処かに消えていった。

「はッ――――ふはッ、はあッ」

 『まつろわぬ神』が去って、エリカは激しく喘ぎ崩れ落ちた。

 ずっと押し潰されそうな重圧を感じていた。

 気力がすっからかんだ。

 一つ間違えば殺されていた。あの地母神はエリカを娘と呼びつつ、数多の命と人間の命の価値に差を設けていない。不出来な子どもを間引くくらいは平然とやってのけるだろう。

「なんて、屈辱ッ」

 そして、エリカはあまりの屈辱に悶えていた。

 よりにもよって『まつろわぬ神』の身体を直に見てしまうとは。しかも、そこに男性器がそのままついているとは想像していなかった。

(まさか、キュベレーじゃなくて、アグディスティスとして降臨していたなんて!)

 キュベレーとアグディスティスは、ほぼ同一視される神格である。エリカの推測は間違っていないし、あの女神もキュベレーであることを匂わせる発言をしていた。

 とはいえ、身体的には全く異なる特徴がある。

 キュベレーは肉体的にも女であるが、アグディスティスは両性具有の神だ。女性的な肉体に、男性器がついている。神話上は女神と呼んでいいのかどうかも分からない。

 命の危機が去って冷静になった後で、エリカに残ったのは乙女として最大級の屈辱であった。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 サルバトーレ・ドニが引き起こした『まつろわぬ神』の事件が、一ヶ月の内に二件も発生するというのは、イタリアの呪術師からすれば迷惑極まりないことだった。

 サルバトーレは剣の王として確かな実績がある。降臨した『まつろわぬ神』を率先して退治してくれるのは、ヨーロッパでは彼だけだ。ヴォバン侯爵は、ここ数年は自分に見合わない相手とは戦わないというスタンスを取っているからだ。 

 しかし、それにしても今回の件はやり過ぎだ。半月前にアイーシャの権能を目当てに神獣狩りと称して多くの騎士を巻き込んだのは記憶に新しい。

 今回の『まつろわぬ神』探索に巻き込まれた《赤銅黒十字》はいい迷惑だろう。そのために、優秀な人材が一人、行方不明になっているのだ。

 そして、そのために護堂も再びイタリアの土を踏むことになった。

 カンピオーネになってから、世界各国に飛び回って大忙しの一年だったが、イタリアはもう何度行き来したことか。

「一ヶ月も経たないのに、またイタリアなんて、まともな高校生じゃありえないわよ」

 と、幼馴染が呟く。

「なんだかんだでお前も来たじゃないか」

「……まあね。てか、お金自腹じゃないんだから、来るでしょ。イタリアだよ」

 明日香はさも当然とばかりに言い切る。

 『まつろわぬ神』の驚異はあるが、そうと知っていれば関わらないようにするなど自衛はできる。ここまで来れば、護堂が対処するしかない案件だ。明日香はおまけでしかない。深刻な事態だと自覚はあるが半分は観光気分であった。

 ここはトリノ。ミラノに並ぶイタリア屈指の工業都市であり、二千年の歴史を持つ古都である。

「俺、トリノって正直名前しか知らなかったし、最近までどこにあるかも知らなかったな」

「それを言ったらあたしもそう。オリンピックあったけど、地図まで見なかったし」

 ローマを経由してトリノ空港にやって来たイタリア遠征軍。到着した時にはすでに日が暮れていた。春休みを利用した長旅で、背骨がバキバキ鳴っている。

「すみません、護堂さん。遅くなりました」

「リリアナさんは、もう来てるかな?」

 祐理と恵那が揃って歩いてくる。

「清秋院は無理するなよ」

「大丈夫大丈夫。うちの秘湯で湯治したら、一発だよ。あ、そうだ。王さま、日本に帰ったらうちに泊まらない? 清秋院の秘湯、すっごい気持ちイイよ」

「いいな、それ。でも秘湯ってくらいだから、行くの大変なんじゃ?」

「大分山道だけど王さまなら大丈夫だよ、きっと」

「秘湯は、雪が溶けてからにしよう」

 規格外の野生児である恵那が言う秘湯だ。奥多摩の奥地だろう。それも、きちんと道路の整備もされていないようなところにあるに違いない。護堂なら大丈夫という言葉の裏には、それだけの身体能力が求められるということでもある。

「護堂さんの仰るとおり、恵那さんも身体には気をつけてくださいね。降臨術の多用は心身に危険を伴うのですから」

「大丈夫だよ、若雷も使ってもらったしね」

 心配する祐理を余所に、恵那は平然と答える。

 先日の飛騨の鬼神との戦いで、恵那は降臨術を使用して大きく消耗した。湯治で治したというが、そう簡単な話ではない。若雷神の化身による生命力の活性化がなければ、半年は伏せっていただろう。

「先輩、リリアナさんです」

 晶がふと視線を向けた先に、銀色の騎士がいた。

 その隣に、背の高い男性がいる。柔和な顔つきだが、身体は大きくがっしりとしている。

「ご足労いただき、ありがとうございます。護堂さん」

「お疲れ、リリアナ。そちらの人は?」

「こちらは、トリノの呪術結社《老貴婦人》の聖ピントリッキオ様です」

 リリアナに紹介された男性が深々と頭を垂れる。

「《老貴婦人》のピントリッキオと申します。お見知りおきくださいませ」

「草薙護堂です。そんな、畏まらないで欲しいのですが」

「申し訳ございません。王への礼を失すれば、他への示しがつきません。何卒、ご寛恕いただきたく」

「そういうことなら、はい……」

 きっぱりと断られ、護堂は鼻白む。

 王だから仕方がないとはいえ、見るからに年上の男性に恭しくされるのは、とても気後れするのだ。

「車を用意しておりますので、どうぞこちらに」

「ありがとうございます。リリアナは?」

「わたしは別に向かいますので、気になさらないでください」

 リリアナは一歩下がって一礼する。

 トリノを管轄するのは《老貴婦人》だ。《青銅黒十字》のリリアナはあくまでも護堂の窓口役でしかないというスタンスである。

 リリアナが護堂にエリカ捜索を依頼したというのは、秘密である。よって、この遠征は護堂側から発案したという体で話を進めている。

 護堂がエリカの行方不明を知り、リリアナを使ってイタリア行きを画策した。そういう流れである。護堂からリリアナに命じたとなれば、《青銅黒十字》も組織的に護堂を支援しなければならなくなる。

 そして、護堂がトリノに来るとなれば、《老貴婦人》の出番というわけだ。

 護堂たちを乗せた車は、トリノ空港からホテルに向かって走り出す。途中、いくつかの世界遺産の前を通過した。

 トリノ王宮は言うに及ばず、歴史的にも貴重な建物がひしめき合っている。美術館や博物館もあり、色濃い歴史を感じさせる街なのだ。

 

 

 

 イタリアは美食の国だが、フランスと接するトリノはその代表格であろう。酪農が盛んなアルプスに近いので乳製品も発達している。

 日本で生活していると、なかなかお目にかかれない美味しい食べ物が多く、レストランでは夜景を楽しみながらの食事となった。

 もちろん、ホテルのレストランは完全貸し切りだ。

 初めて食べるアニョロッティが護堂のお気に入りだった。

 食後、一時間後にミーティングだ。

 『まつろわぬ神』に関する事件なだけに、空気は重たい。サルバトーレと『まつろわぬ神』が戦ったイズラン峠は、山をいくつも越えた先にある。直線距離はおおよそ七十キロほどか。車で行けば山々を迂回しなければならないので何事もなく三時間弱といったところだ。

「今の状況をご説明させていただきます」

 ピントリッキオは重々しく口を開いた。

「サルバトーレ卿と《赤銅黒十字》の騎士たちが、イズラン峠で『まつろわぬ神』と戦闘をしたのは五日前になります。降臨した神の力でイズラン峠周辺の植生が変わり、半径三キロメートルが森に覆われることになりました」

「……今は、そうじゃないんですよね?」

「はい。サルバトーレ卿との戦いで、森の異界は消滅しました。しかし、その際に『まつろわぬ神』は別の異界を作り上げたようで、そこにサルバトーレ卿とアンドレア卿、《赤銅黒十字》のエリカ卿が引きずり込まれました。サルバトーレ卿とアンドレア卿は、異界から脱出なさいましたが、エリカ卿の行方は分かっておらず、おそらくは異界の中に取り残されているのではないかと思われます」

 エリカの生死が分からなくなってから五日が経過している。 

 『まつろわぬ神』の権能で生じた異界だ。時間の流れからして、護堂たちと異なっている可能性もある。場合によっては、異界の中は数ヶ月、あるいは数年の月日が流れていてもおかしくはない。時間の流れに差異がある場合、僅かな対応の遅れが、致命的な事態になることもあり得る。

「サルバトーレは、今どうしてますか? 外に出てるんですよね?」

「サルバトーレ卿は、現在別の『まつろわぬ神』と交戦中です。イズラン峠の『まつろわぬ神』に由来する神格だと思われますが、卿をして未だに決着をつけるに至っていないのです」

「降臨したっていう『まつろわぬ神』の正体とか分かりますか?」

「申し訳ありません。現在、調査中です。魔女による霊視を行っておりますが、どうも素性を隠されている様子」

「そうなんですか」

「信仰が広まる過程で、見せるのではなく隠すことで神秘性を高める選択をしたのかもしれません。そのほか、貴人の姿を俗人から隠すというのは普遍的に見られる文化です」

 霊視によって『まつろわぬ神』の正体を知るのは難しいということか。

 ウルスラグナの黄金の剣が宝の持ち腐れになってしまうのはもったいない。

「それと、調査が進んでいない理由として、もう一つ、神獣の存在があります」

「神獣ですか」

「イズラン峠周辺で神獣の目撃情報が寄せられているのです。《老貴婦人》でも呪術師を派遣しましたが、イズラン峠に近づくこともできていないのです。さらに、活動的になっているのは神獣だけではありません。普通の動物たちも活気づいているようで、昨日も二人の若者が立ち入り禁止区域に侵入し、熊に襲われ負傷しました。命があったのは幸いなことでした」

「熊……この時期にですか」

 まだ肌寒い三月の終わりだ。冬眠から覚めるには、少し早いように思う。最も、先日の土砂崩れ等もあったので、たたき起こされた熊はいるのかもしれない。そういう熊は空腹で気が立っているだろうから、むしろ襲われてよく生きて帰れたものだ。それも『まつろわぬ神』の加護が、何らかの形で生きたのか。

「アルプスの神獣や獣たちは、間違いなく『まつろわぬ神』の守備兵でしょう。神に害意ない人間は、追い返すくらいに留めるようにしているのかもしれませんね」

 と、ピントリッキオは言う。

「エリカを探すためには、イズラン峠に行かないとダメなわけだ。ただ、そのためには神獣をくぐり抜ける必要がある」

「到着してからも異界に侵入するにはどうするかという問題があります。『まつろわぬ神』が作り上げた異界は、アストラル界とも異なるものです。侵入するにしても、その方法が分かりません」

 とはいえ、こちらには時間がない。

 手を拱いていればエリカが持たない。リリアナはこのままではエリカの命が危ういと感じていたが、この状況ならばそうだろう。

 救出作戦がほとんど動いていないのだ。そもそも《老貴婦人》からすればエリカは赤の他人で別組織の人間だ。そのために命を賭ける理由がない。彼らが動いているのは、偏に現場が自分たちの管轄のすぐ近くだからというその一点だけであって、そもそもエリカの救出を試みようとはしていない。

 神獣が犇めいている土地に救出部隊を送り込めるはずもない。この案件はカンピオーネでなければ対処できないところまで事態が進んでいたのだ。

「リリアナの飛翔術でイズラン峠まで送ってもらうのはできそう?」

 後ろで話を聞いていたリリアナに護堂は尋ねる。

「神獣の妨害を考慮しなければ可能です。危険を伴いますが」

「うん、じゃあ、こうしよう。俺とみんながいったん別行動する。俺は、アルプスの麓辺りで一暴れして神獣をおびき寄せる。その隙にみんなはリリアナの飛翔術で目的地に移動。最後に俺がみんなと合流するって感じでどうだ?」

 護堂だけで『まつろわぬ神』が潜むという異界へ潜入するのは難しいと思われる。そういう力業でどうにもならない相手に対処するには、知見のある仲間の支援が必要だ。しかし、今回は場所が場所だけに移動する間にも危険がある。護堂が囮になるのは、やむを得ないだろう。

「それではアルプスの麓までは、我々が車を出しましょう。飛翔術は優れた移動手段ですが移動中は無防備になります。空中にいる時間は少ないに越したことはありません」

 《老貴婦人》が何もしないで座していることはできない。ピントリッキオの提案を護堂は受け入れた。

「それじゃ、明日は《老貴婦人》で用意した車で行けるところまでいって、そこから別行動だな」

「護堂、悪いけどあたしはここに残るわ」

 そこで明日香が割り込んで言った。

「どうも向こうに行ってもあたしは役に立てなそうだし、こっちで観測役に徹することにするわ」

「そうか、分かった。悪いな」

「別に悪くはないわよ。こっちの方が楽なんだしね」

 明日香は自分の能力を付き合わせて現実的な判断をした。

 確かに現代では失われた強力な呪術を使用できる明日香ではあるが、その力は神獣には及ばない。天叢雲剣を持つ恵那や護堂の式神として神獣を圧倒できる晶に比べれば戦力としての期待値は低いのだ。

 明日香の本領は呪術的な知識が活かせる場面であって、『まつろわぬ神』やその眷属との実戦は荷が重い。

 

 

 明日は朝早くから行動を始めることになる。

 『まつろわぬ神』との戦いに慣れたとは決して言わない。命を賭けたくて賭けるほど、護堂は戦闘狂ではないし、そこにスリルを求めてもいない。

 ただ、降りかかる火の粉を払わないほど危機意識が低くはないし、友人の危機に立ち上がらないヘタレでもない。

 護堂の力が求められているのなら、力を貸すくらい何と言うことはない。

 ホテルの部屋割りはそれぞれ一部屋ずつ与えられている。カンピオーネを受け入れるだけあって、最高級の調度品が並んでいる。広く柔らかいベッドは肌触りも最高だ。庶民派の明日香は、今頃落ち着かない時間を過ごしているに違いない。

 荷物の整理をしていると、ドアがノックされた。リリアナの気配だ。

「護堂さん、申し訳ありません。今、お休みでしたか?」

「まさか。まだ寝るには早いよ」

 時刻は八時半を過ぎたくらいだ。明日に備えると言っても、まだベッドに入るには早いだろう。

「それで、どうしたんだ?」

「はい、お礼とお願いに参りました」

「ん? 分かった。とりあえず、入って」

 護堂は、リリアナを部屋の中に通す。

「すごくいいホテルを取ってもらったな」

「これから『まつろわぬ神』と戦われる御身が心やすく寛げるよう配慮するのは当然です。もっとも、このホテルの準備にわたしは関わっていませんが」

 ホテル関連は《老貴婦人》が担当したということだ。リリアナは護堂との連絡調整が主な担当だ。組織が異なるので、このホテルにした理由なども当然把握はしていない。

「リリアナ、なんか今日は全体的に気を回してたみたいで、疲れただろ」

「そのようなことはありません。《老貴婦人》のお膝元で大きな顔をするわけにもいきませんので、本来であれば、この辺りでお暇をいただくことも考えていたんです」

「そうなのか?」

「はい」

 と、リリアナは頷いた。

 ある程度落ち着いたら、《老貴婦人》に任せて引き下がるつもりでいたとのことだ。あまり、リリアナが出しゃばると《老貴婦人》のメンツが立たないからであり、

「エリカもわたしに助けられたとは、あまり思いたくないでしょうし」

「そういうもんか」

「立場が逆ならそう思います。助けられたくないという意味ではなく……」

「ライバルに後れを取った感じがして嫌だ?」

「ふふ、そうですね」

 リリアナは小さく微笑んだ。

 組織的に見れば単純な関係ではない。しかし、個人では幼少期から家族ぐるみでの付き合いがある。互いにホームパーティに招待し合うこともあるので、クラニチャール家とブランデッリ家の間は険悪ではないのだ。

 素直にはなれないが、お互い影で認め合っている幼馴染というところだ。

「ピントリッキオさん、なんかすごい人なんだってな」

「それはもう。あの方は聖ラファエロの弟子の一人で、イタリア国内の大騎士の中でも、特に優れた方ですよ。ゆくゆくは《老貴婦人》の総帥にもなられるでしょう」

 リリアナは自分より一回りも年上の大騎士をそう評した。

 護堂に武芸や呪術の才能はないのだが、人類最強クラスの怪物や、神々を相手にしてきたからか、向き合った相手の脅威度がなんとなく掴めるようになってきた。

 ピントリッキオの実力は、素人目にもリリアナ以上であろうことが分かる。

 話が途切れたところで、リリアナがすっと居住まいを正し、跪いた。

「護堂さん、このたびはわたしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございました。改めて御礼申し上げます」

「……急に畏まったことするなよ、気恥ずかしい」

「いえ、今回の件、護堂さんがトリノに足を運ばれたのは、わたしが話を持ちかけたからです。さらに、こちらの事情を汲み、口裏を合わせてくださいました。沙耶宮馨が言った通り、わたしの依頼はあなたに命を賭けていただくことを前提とするもので、そのリスクに相応しい見返りをわたしは用意できません」

 『まつろわぬ神』と戦うことは、死を前提とするのは当たり前のことだ。

「別にそれは、まあ、いいホテルに泊めてもらったし、エリカは俺の友達でもある。それに、そっちの認識だとカンピオーネの義務なんだろ? 神様の相手をするのは」

「はい、その通りです。『まつろわぬ神』が現れた時、非力な人類の代表として戦うことが唯一の責務と言えます。無論、これはわたしたちがそのように求めているということですが」

「だったら、それでいいだろう。俺は責務を果たしに来た。そんなんだから、見返りとか、気にしなくていいんだ」

「……ふう、やはり、そうなのですね。いえ、そのように仰ると思っておりました」

 呆れたようにリリアナは言った。

「ですが、それではあなたの不利になるだけです。依頼したわたしが言うのも筋違いかもしれませんが、王に相応しい振る舞いというのは、ただ施すだけではないのです。施してばかりですと、いずれは首が回らなくなります」

「もちろん、分かってるよ。俺だって好き好んで危ない目に遭うわけじゃないからな」

「でしたら、せめて見返りを要求してください。施されている者は、いずれはその状況に慣れてしまう。無償で助けてもらうことが当たり前になっては、あなたの威勢に傷がつきます」

「威勢とか、興味ないけどなぁ」

「与しやすいカンピオーネだと思われれば、名を上げるためにあなたを倒そうとする者が現れるかもしれません。その際には、ご家族に迷惑をかけることもあるでしょう。記録によれば、今ほどカンピオーネの情報がなかった時代には、神殺しの噂を聞いてヴォバン侯爵に挑み、誅伐された者もいるくらいなのです」

「そ、そうなの?」

「はい」

 リリアナは真剣な表情で頷いた。

 ヴォバン侯爵は、洋の東西を問わず最悪の魔王としてその異名が鳴り響いている。今の時代に、彼に挑もうとする者はまずいない。本人曰く、『まつろわぬ神』ですら避けて通ると豪語するくらいなのだから。

「何が言いたいかと言いますと、カンピオーネの権威、絶対性というのは、いつの時代にも通じる完全無欠のものではないということです。誤った情報が流布すれば、あなたの力に疑念を持つ者も、遺憾ながら現れるでしょう。そしてそれは、あなたの日頃の言動にも左右されるのですから、お気をつけください」

「そうだったのか。うん、気をつける。忠告、ありがとうな」

「いえ、申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」

 リリアナは咳払いをして、

「すみません、本題から逸れてしまいました。見返りという点で、一つ、提案がございます」

「提案? 見返りで?」

「はい」

 リリアナは騎士の礼を取ったまま、しばらく黙り込んだ。

 それから、徐に口を開いた。

「わたしをあなたの騎士として召し抱えていただけないでしょうか?」

「……ええと、それはどういうこと?」

「先ほど申し上げたとおり、わたしの頼みのためにあなたは命を賭けることになるのです。ならば、わたしもあなたのために身命を賭するのは当然のこと。わたし一人では、確かに御身の命とは天秤にも掛けられませんが、これが今、提示できる精一杯。何卒、あなたの元で奉公させていただきたく」

「奉公っていつの時代だよ。大体、うちにお手伝いさんみたいなのはいらないぞ」

「日々のお世話だけではありません。戦場での露払い程度ならこなせますし、必要ならば、教授の術を施すことも厭いませんし、いかなる命で忠義を試していただいても構いません」

 リリアナは言葉を紡ぐ内にどんどんと覚悟を決めたような口調になってくる。ここに来るまでに多くの葛藤があったのだろうが口火を切ったことで、すべて割り切ったのだ。

「忠義を試すとか、そういうのはしないし、別に、なあ……」

 堅物の騎士は、納得はしないだろう。彼女なりにいろいろと考えた結果だということは分かる。

「それ、組織の人とかどう考えてるんだ?」

「はい。祖父にはすでに話を通してあります。草薙護堂に忠を尽くすことについて、反対はございませんでした」

「あ、そう……」

 護堂は悩んだ。

 リリアナの言葉を鵜呑みにするのはよくないが、だからといって突き放すわけにもいかない。

 《青銅黒十字》と護堂の関係はすでに、大分誤解もあるが広まっている。その中心にリリアナがいるのも周知の事実だ。

 サルバトーレが《赤銅黒十字》を利用したのも、背景にあるのは《青銅黒十字》と護堂の親密な関係性を突いたものだ。

 となると、護堂がリリアナから距離を取れば、逆に彼女を追い込むことになるのではないか。

 組織の事情とか政治とかは疎い護堂だが、カンピオーネの影響力を考えると十分に想像できることではあった。

 どうやら、いつの間にか外堀が大分埋められていたようだ。

 これを受け入れて護堂が直接困ることもなさそうだ。護堂は、とりあえず頷いてみせる。

「リリアナの言葉はすごくありがたいし、これからも助けてくれるって言うのなら、お願いしようかな」

「は、はいッ!」

 リリアナは嬉しそうに、相好を崩す。

「わたしたちは比翼の鳥にして連理の枝、以後、末永くお傍に置いてくださいませ」

 そして、リリアナは跪いたままうっとりとした表情で護堂の手を取る。

 何事かと思ったとき、そのままリリアナは護堂の手の甲にキスをした。

 騎士が主君に忠誠を誓うように。性別が逆な気もするが、リリアナはまったく気にしていないようであった。

「リリアナ、何もそこまで」

「今のは、忠誠を誓う騎士の礼として、伝統的な方法をしたまでですので、はい」

 リリアナはすっくと立ち上がった。

「そ、それでは本日は失礼いたします。明日の支度がありますので」

 一礼したリリアナは足早に出口に向かう。

 ドアノブに手をかけたリリアナは振り返り、

「そ、その、以後、よろしくお願いいたします」

 そう言い残して部屋を出て行った。

 

 

 

 護堂の部屋を出たリリアナは逃げるように自分の部屋に駆け戻った。

 すべて終わってから我に返った。自分が何を口走り、とてつもなく恥ずかしいことをしてしまったと理解したからだ。

 護堂に仕えるのは間違っていない。

 護堂との関係性を考えれば、これが正しい判断だ。中途半端な立ち位置では、状況に振り回されるだけだ。組織的にも個人的にも護堂との確固たる繋がりを保証しなければならない。

 ああ、だがしかし、あそこまでする必要はなかったのではないか。ついつい興が乗ったというか、勢いに任せてしまったというか、湧き上がる熱い思いのまま忠誠のキスまでしてしまった。明日からどんな顔をして護堂に会えばいいのか。

「どうかしたのですか、リリアナ様。まるで、愛しの王子様と初めての口づけを交わした直後の生娘みたいな顔をして」

「そ、そこまではしてないッ! それにわたしはれっきとした生娘だぞ、カレン!」

「そこまで?」

「うッ……ん」

 自分に仕える年下のメイドに指摘され、うっかり口を滑らせたリリアナは慌てて口を噤んだ。

「はて、今リリアナ様は草薙様の元に行かれていたはず。やはり、そこで何かありましたか」

「ない。わたしにはそんな、恥ずべきことは何もない。騎士として、騎士として正しい行いをしたのだ。絶対に間違いなどではないぞ」

「……何をそこまで慌てているのですか?」

 わたわたするリリアナにカレンは面白いものを見たとばかりに邪悪な笑みを浮かべた。

 愛しの主人を弄るために、ライバルであるエリカとも繋がるという捻れた愛情表現をするカレンがリリアナの慌てようを見逃すはずはなく、この後しばらくリリアナはカレンの追及を受けることになるのだった。


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