カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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中編 古の女神編 Ⅱ

 いつの間にか、何かトラブルがあると七雄神社に集まるようになっていた。昔から正史編纂委員会とその前身となる組織によって管理されてきた由緒ある神社なので、カンピオーネに対しては理解があり、祐理が巫女として務めているということもある。

 カンピオーネというだけで、普通の呪術師は恐怖心を抱いてしまうものらしい。

 護堂の人となりを知り、慣れてくれば普通に接することもできるようになるが、そこまで深い付き合いになることは滅多にない。

 周囲に与える影響を考えると慣れた場所に集まるのは間違いではないだろう。

 護堂の立場ならば、都庁なり区役所なりの会議室を押さえることもできるが、それは大仰に過ぎる。

 七雄神社は護堂が知悉しているメンツだけを集めて、軽く話をするにはもってこいの場所だった。

 社務所の中にいるのは、護堂の他、祐理と晶と明日香、そして冬馬だ。

「それでは、さっそく説明させていただきますね」

 口火を切ったのは冬馬だった。

 無精ひげとよれたスーツ姿は見慣れたものだ。適度に肩の力を抜いて仕事をしているというスタンスを通しているが、その実かなり多忙な生活をしているようだ。

 三日前にフランスで起こった土砂崩れが『まつろわぬ神』に関わるのではないかという疑惑が浮上したことで、正史編纂委員会は情報収集に追われた。

 『まつろわぬ神』は意思を持つ災害と言える。一カ所で災害を引き起こすだけでなく、自由に世界中を闊歩する。例えるなら予測不可能な巨大台風だ。フランスで発生したものが、そのまま日本に流れ着く可能性はゼロではない。

「先日、発生した土砂崩れですが、場所はフランスのサヴォア県、フランスの東端でイタリアと接する県ですが、そこのイズラン峠付近の斜面が大規模に崩落しています。ああ、この山はアルプス山脈の峠の一つですね。峠としてはアルプスの最高峰に位置する峠です」

「ロードレースが有名らしいですね」

「そのようです。私もさほど詳しくはないのですが、標高二千七百七十メートルですから、相当過酷なレースなんでしょう」

 冬馬はA4のコピー用紙を護堂たちに配る。土砂崩れ発生箇所の写真が印刷されている資料だった。

 大きく抉れた斜面は、不自然な削れ方をしていた。その跡は、巨大なショベルカーで削り取ったようで、自然な崩れ方には見えなかった。

「それだけじゃないんです。こちらをご覧ください」

 資料の下方に印刷された写真を見る。

 大きな岩の写真だ。ゴツゴツとした巨岩だったのだろうが、それが綺麗に唐竹割りされている。切断面は鮮やかで磨いたようですらあった。

「機械で斬ったとしても、ここまで綺麗には斬れません」

「……そうですか、サルバトーレ案件ですか」

「ただいま確認中ですが、イタリアの日本大使館にいる職員によるとサルバトーレ卿が『まつろわぬ神』の情報を得てフランスに向かった可能性があるということですね。目を光らせてはいたのですが、あの方、地味に隠密行動が上手いんで、なかなか動向が掴めないんですよね」

 と、冬馬は困ったように呟く。

 サルバトーレはヴォバンと並ぶ大迷惑カンピオーネだ。強敵を求めてフットワーク軽く各地を渡り歩くので、行った先でもめ事を起こす確率が高い。

 そんなこともあって正史編纂委員会としても、兼ねてからサルバトーレの動向をチェックはしていたのだ。

 しかし、彼の厄介なところはそういった追跡から易々と逃れてしまうことだ。側近のアンドレアですら、出し抜かれることも珍しくない。

 まして、遠く離れた日本の正史編纂委員会では、イタリア国内で諜報活動するにも限度があるし、直接的な監視をしようものなら、それを口実にどんな無理難題をふっかけられるか分からない。結局は現地の呪術師や呪術組織からの聞き取りくらいしか情報収集ができないのである。

「『まつろわぬ神』の情報ってどんな?」

「それは不明です。ただ、どうも《赤銅黒十字》を今回かり出しているようですね。意図は分かりませんが、アンドレア卿が出入りしているのが目撃されていますからね」

「あそこって確かエリカの……あまりカンピオーネに関わらない組織だったような」

「《赤銅黒十字》は伝統的に魔王の皆様方とは距離を取ってきた組織ですね。まあ、どうあがいても完全にとは言えないのが苦しいところで、命じられれば当然協力せざるを得ないのが現実です」

 《赤銅黒十字》はイタリアで最も権威ある呪術結社に数えられる大組織だ。それでも、相手がカンピオーネとなると、その要求を突っぱねることはできない。嫌みの一つくらいは返せるかもしれないが、それだけだ。

「サルバトーレ卿の要求は、『まつろわぬ神』捜索への協力要請。捜索から足の確保まで必要なものは《赤銅黒十字》に押しつけたようですね」

「で、《赤銅黒十字》はそれを受けて『まつろわぬ神』を捜索して、フランスでその足取りを掴んだ?」

「そうだと思います。ここからは想像の域を出ませんが、件の峠でサルバトーレ卿と神様が激突して、その影響で報道にあるとおりの土砂災害が発生したということではないかと。場所が場所だけに、現地調査が遅々として進んでいないのが残念です」

 標高二千七百メートルの険しい山の上での出来事だ。冬季で通行止めになっていたので、人的被害はほとんどないのだろうが、そこまでの道が寸断されているというのが問題だ。

 呪術を使えば悪路を無視することもできるのだが、如何せんカンピオーネと『まつろわぬ神』が戦ったと思われる場所だ。誰も好き好んで向かいたいとは思わない。権能の影響が残っていれば、命の危機に陥る可能性もあるのだ。

 安全が確認されない状況では、なかなか人を派遣することはできない。しかし、安全を確認するためには誰かが決死隊となって現地に向かう必要があるということだ。

「というか、サルバトーレはどうなってるんですか?」

「そこですよねぇ、問題は」

 冬馬は困ったように苦笑いを浮かべた。

「実は卿の行方もまだ分かっていません。連絡が途絶えているようです」

「またですか」

「いつもの悪巧みの前兆ということではなく、今回は神様との戦いの中での失踪ですからね。あるいは……」

「……まあ、ないと思いますけど」

「ですよね」

 カンピオーネは例外なく生存能力が桁外れだ。

 基本的に格上の『まつろわぬ神』と戦い勝ち続け、負けたとしても死なずに生還する。そういう実績を積み上げてきた存在である。

 もちろん、殺し合いの世界なので、意外にあっさり殺されてしまうことはありえるだろう。

 しかし、彼の実力と性格をよく知る護堂としては、サルバトーレが簡単に死んでしまうとは思えなかった。

「以上が現時点で分かっていることです。引き続き情報収集は継続しますので、詳しいことが分かり次第報告します」

「分かりました。よろしくお願いします」

 『まつろわぬ神』が降臨しているかもしれないとなれば、地球の裏側の話ではすまない。サルバトーレがちょっかいを出しているということも気になる。

 対岸の火事だと思って気を抜いていると、思わぬところで被害が出るかもしれない。

「『まつろわぬ神』の降臨ペース、ちょっと早くないですか? 去年までを知りませんけど、こんなペースであちこちに出てくるものですか?」

 と、護堂はふと気になったので尋ねてみた。

「確かに、昨年までと比べると格段に今年は多いですね。理由までは定かではありませんが」

 冬馬は無精ひげの生えた顎を撫でながら答えた。

「日本には、これまでほとんど『まつろわぬ神』が来たことはなかったと思いますよ。斉天大聖様がいらしたということもあるのかもしれませんが」

 冬馬に続けて祐理が言う。

 日光に封印されていた斉天大聖は、正史編纂委員会の切り札だった。『まつろわぬ神』を捕えて封印し、さらに戦力として利用するというすさまじいことをしていたわけだが、それも護堂たち現代のカンピオーネの活躍により終止符が打たれた。

 斉天大聖が地上に降臨した竜蛇の神を討伐するために外に出たのは前回が数十年も前らしい。それを考えると、頻繁な『まつろわぬ神』の降臨というのは不自然ではある。

「そんなほいほい神様が出てくるんなら、ヴォバンの爺さんもわざわざ神様の招来なんかしなかっただろうしな」

「先輩たち神殺しの皆さんも、ここ数百年で一番数が多いわけですし、当たり年なのでは?」

 晶が何ということもないように言う。

「当たり年、ねぇ。まあ、確かにそういうことになるのかもしれないけど」

「そういうのは厄年っていうんじゃないの?」

 明日香はげんなりした様子で呟いた。

 カンピオーネは過去最大の七名。『まつろわぬ神』や神獣の降臨回数も、すでに観測史上最大数になっているらしい。

 それに比例して「表向き」の自然災害の発生件数も増大している。世界的な温暖化の影響もあるが、そのうちの一部は護堂とその同族たちが関わっている状況である。

 護堂の戦闘によって生じた被害も世間的にはテロや自然災害として扱われているわけで、やむを得ないとはいえ、自分の行動によって災害の発生件数が増加していることに居たたまれない気持ちになってしまう。

「いや、でも神様もカンピオーネも結局自然災害みたいなものですし、先輩が気にすることじゃありませんよ」

 晶はそんな風に励ましてくれる。

「そうだよなぁ」

 と、護堂も気がない様子で答える。

 考えても仕方のないことだ。

 そして、問題はサルバトーレと戦った『まつろわぬ神』の行方であろう。

 結局、勝敗すらも不明なままなのだ。

 どんな『まつろわぬ神』が降臨して、サルバトーレとどのように戦ったのか。生死はどうなったのか。まるで情報がないのがとにかく不安ではあった。

 

 

 神社を出ると涼やかな春の風が頬を撫でた。

 今日は晴天で、雲一つない穏やかな一日だった。春一番にはまだ早く、かといって冬の寒さも遠ざかっている。こういう日は、グラウンドでボールを追い回したくなるのが元スポーツマンの性だが、それも今は昔の話だ。

 ちらりと視線に入る東京タワー。

 七雄神社のすぐ近くにある東京のシンボルの一つであるそれは、はた迷惑な軍神によって展望台が破壊され、今でも復旧ができていない。鉄骨が落下しないよう落下防止のシートに包まれた展望台の復旧には時間もお金もかかることが容易に予想できていて、残念ながら未だに工事が始まってもいない状況だった。

 ヴォバンと護堂が戦ったときに被害を受けたホテルも、再建できていない。もしも営業を再開することができたとしても、それは数年先の話になるだろう。

 もっとも、カンピオーネや『まつろわぬ神』が世界最大級の都市で暴れた割には、東京が受けた被害は抑えめなのではないか。

 その気になれば都市どころか日本一国に権能を行き渡らせることもできるのだ。人々が今でも生活できているのが奇跡なのだ。

「先輩、先輩、駅に行く前にちょっと寄り道しませんか?」

 晶が護堂の袖を引っ張って言った。

「行きたいところがあるのか?」

「ええ、前から気になってたんですけどね、ウィンターローズってクレープの店がですね、新橋のほうにあるんですよ」

「あ、そこ知ってる。あたしも気になってたんだよね」

「ほら、明日香さんもこう言ってますし、どうですか?」

 晶が行きたがっているのは、半年ほど前にオープンした喫茶店だ。クレープが評判で、クレープを目当てに学生が列を成すことも珍しくない。最近、護堂もテレビで紹介されているのを見たので知っている。

「俺はいいけど、祐理は?」

「わたしも行ってみたいです。そういうお店には、なかなか縁がないものですから」

「じゃあ、決まりですね!」

 晶はスマートフォンを操作して地図を表示し、一行を先導した。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 

 冷たい雨だれの雫が顔に当たって、エリカは目を覚ました。

 身体が冷え切っていて、指先まで血が通っていない。空腹も感じる。とにかくエネルギーが不足していて、そのために頭も回っていない。

 普段から低血圧で朝に弱いのが数少ない弱点(本人からすると優雅な美点)なのだが、この寝覚めはこれまで経験してきた中でも最悪の中の最悪だ。

 湿った苔のベッドに寝ていたせいか、身体はびっしょりと濡れている。

 美しい髪も衣服も泥で汚れていて、エリカには到底受け入れがたい状況であった。

「まあ、助かったのは不幸中の幸いだけれど……どこかしら、ここ」

 意識を手放す前のエリカがいたのは標高二千七百メートルの山の上だ。摩訶不思議な権能によって、異界化し、森林地帯も同然に作り替えられていたが、地理的にはアルプス山脈のフランス側の峠にいたはずだ。

「まだ女神の異界の中ということかしらね。サルバトーレ卿とアンドレア卿はどこかしらね」

 近くにいたはずのアンドレアすら姿が見えない。

 異界がそのままということは、おそらくは『まつろわぬ神』は生きている。サルバトーレとアンドレアの生死は不明だが、エリカが生きているのだから彼らも生きているはずだ。

 幸いなことに愛剣はまだ手元にある。

 名の知れぬ女神とサルバトーレとの戦いで目の前が真っ白に染まってからどれだけの時間が経っただろうか。

 空腹の度合いから、丸一日も経っていないように思うが、そもそもこの女神の空間の特性が分からなければ、それすら安心できない。 

 場合によっては内と外で時間の流れが違うということも考えられる。

 ここは、幽界ともアストラル界とも大霊界と表現する者のいる生と死の狭間の世界とは、些か趣が異なる。ここはあくまでも地上に女神が作り出した異空間なのだろう。そのおかげでエリカは外と同じように活動できる。もしも、ここがアストラル界であればエリカはたちどころに動けなくなっていただろう。

「それこそリリィがいれば、ある程度の方向性を感じ取ってくれたかもしれないのだけど」

 独りごちてもいないものはいない。無い物ねだりをしていても状況が改善するわけでもない。

 静かに呼吸をする。

 空気が濃い。

 大気中の酸素濃度だけでなく、呪力すらも濃密だ。地面にも木々にも生命力が行き渡っているのが分かる。

 命を育む権能。

 生と死を司る大地母神には、ありふれた能力だろう。

「なるほど。命の母が降臨すれば、山の上に密林を作り出すこともできるというわけ」

 信じがたいことではあるが、さすがは神の権能だ。

 サルバトーレのような分かりやすい破壊能力とは方向性がことなるが、これこそ神が神として崇められる所以であろう。

 物を壊すだけならば、現代の科学技術でもかなりのことができるようになっている。しかし、このような大規模な緑化はさすがに不可能だ。人知を超越した権能という点では、こちらのほうが目に見えてすさまじさを実感できる。

 ただそこにいるだけで環境を激変させる。

 『まつろわぬ神』が如何に理不尽な存在か分かるというものだ。

 降臨した『まつろわぬ神』の正体は気になるものの、ここは神の領域だ。迂闊に正体を探ろうものならどんな神罰が下されるか分からない。

 エリカは神殺しを挑もうとは決して思わない。

 武勲は欲しいが名誉欲のために無駄死にするのは御免被る。今は何としてでもこの異界から生還し、情報を届けなければならない。

 かくしてエリカは異界を彷徨うことになった。

 幸い、保存食は携帯していたので三日は持つだろう。それを越えるとサバイバル食を試す必要があるが、神の領域で狩りをするのは危険だ。可能な限り三日以内に脱出したい。そのためにはサルバトーレを探すのが手っ取り早いのだが。

「反応なし、か。困ったわね」

 膨大な呪力の塊であるカンピオーネを探すのは容易に思えたが、この世界では上手くいかなかった。一帯が女神の力で覆われているからだろう。サルバトーレの気配が全く掴めない。こうなれば、サルバトーレ側から一騒動起こしてもらうのを待つか、偶然の助けを借りるしか道はなさそうだ。

 四方に使い魔を放ってみたが、今のところ目立った成果はない。

 体力温存のためにエリカは可能な限り移動を控え、使い魔での探索を重視することにした。

 当てもなく彷徨ったところで、飢えて倒れるのが目に見えている。サバイバルの基本はできるだけその場を動かず、救出を待つことである。

 サルバトーレがいるのなら、何かしらの騒動を必ず起こす。神が形成する異界の中で、あの魔王が大人しくしているはずがないからだ。

 闇雲に動くのではなく、今は雌伏の時と考える。

 じっと待つのも作戦の内だ。

 エリカはそう自分に言い聞かせ、雨風を凌げる巨木の下に身を隠した。

 

 

 動きがあったのは、それから丸一日経ってからだった。

 遠くで大きな爆発音があり、同時に莫大な呪力が渦を巻いているのを感じたエリカは、温存していた体力をここぞとばかりに使って現場に走った。

 尋常ならざる呪力が立て続けに四方八方に解き放たれる。そして、以前見た空から降り注ぐ光の矢。間違いなくあの女神が戦闘をしているのだ。となれば、そこにはサルバトーレ・ドニがいるのは間違いない。

 『まつろわぬ神』とカンピオーネの戦いに巻き込まれる可能性があるので、深入りはできない。しかし、何かあればすぐにでも駆けつけて、隙を見つけて脱出する。

 サルバトーレが女神を倒せば御の字。そうでなくとも、この異界をどうにかしてくれれば、エリカは生還できる。

 ともかく、状況に置いてけぼりにされることだけは避けなければならない。巨大な倒木を蹴って、大きく跳躍したエリカは、さらに巨木を駆け上がる。

「やっぱりサルバトーレ卿」

 二キロほど先で、サルバトーレと女神が戦っているのが見て取れた。周囲の木々が切り倒され、燃え上がり、円形の闘技場のように両者の周りだけが不毛の地となっている。

 サルバトーレの身体は赤熱していて、女神の炎に炙られたことを感じさせる。

「それにしても、卿のお身体にああも傷をつけられるなんて」

 サルバトーレの鋼鉄の肉体は、万全ならば『まつろわぬ神』の斬撃すらも無傷で跳ね返す頑強さを誇る。竜を討ち滅ぼし、その「大地の生命力」を簒奪した《鋼》の英雄神ジークフリートの無敵の肉体を権能として手にしているのだ。

「あの女神も《蛇》の属性を感じさせるのだけど、違うのかしら? 単純な相性だけですべて決まるとは言わないけれど、何かからくりがありそうね」

 《鋼》と《蛇》は『まつろわぬ神』を語る上で外せない属性だ。一部の神が持つこれらの属性は、戦闘時に相性として現れる。《鋼》の属性を持つ神は、主に《蛇》の属性を持つ神や神獣を倒してその力を奪い取った軍神に多い。『剣』を象徴する軍神や英雄神が《鋼》となり、まつろわされる女神が《蛇》の属性を与えられる傾向にある。

 あの女神は、生と死を司る地母神であろう。神名が明らかではないので確定はしないが、《蛇》の属性を持つ女神の可能性は高い。

 となるとサルバトーレの《鋼》の権能には不利な面もあるだろうが、むしろ、あの女神は《鋼》の権能であるジークフリートの不死身を突破して見せた。

 『まつろわぬ神』の正体は、その神の能力や特性を探る上で重要な情報だ。

 カンピオーネが『まつろわぬ神』を倒すための参考にするというのは限定的な使い方で、エリカたち一般の呪術師としては、その神の嗜好や権能を考察することで、市井の人々への被害を最小限するための対策に利用するのである。

 ここでエリカが何も情報を持ち帰らなければ、何のためにサルバトーレに同行したのか分からない。

 エリカの仕事はサルバトーレの『まつろわぬ神』捜索への協力だが、それとは別にサルバトーレが『まつろわぬ神』の討伐に失敗した場合に、どのような神が降臨したのかを報告し、《赤銅黒十字》をはじめとする各結社がこの大災害に対処できるようにするということもある。

 そのため、エリカは注意深く『まつろわぬ神』を観察した。今、エリカの頭の中にはいくつかの神名候補が挙がっているが決定づけるだけの根拠が乏しい。もう少しで確信に至れるという時、呪力の流れが大きく変わった。

「……え?」

 遠く激烈な魔王と神の戦いの現場で、莫大な呪力が荒れ狂っている。

 空間が歪み、大きく撓んでいるような錯覚すら覚える。

「何……? まさか、サルバトーレ卿の?」

 ごう、と猛烈な風が吹き荒れた。

 エリカは吹き飛ばされないよう大木にしがみついた。

 サルバトーレを中心に、莫大な呪力がのたうち回っている。

「これは、もしかして『聖なる錯乱(ディバイン・コンヒュージョン)』!? こんなところで、それを使ったら……!?」

 サルバトーレが最近まで秘匿していた権能の一つだ。狂乱や酩酊を司るディオニュソスから簒奪したというあらゆる呪術や権能を暴走させる空間を形成する切り札だ。

 発動中はサルバトーレですらまともに権能が使えなくなるのだが、生粋の剣士である彼にはむしろ都合がいいという面もあって、奥の手として今まで詳細が明かされてこなかった。

 少し前、サルバトーレはこの権能を使ってアイーシャの通廊の権能を暴走させ、過去の世界へ冒険の旅に出た。

 今、まさに同じことが起きようとしている。

 世界に亀裂が走った。

「う……きゃあッ」

 エリカは暴風に身体を押されてバランスを崩した。そのまま落下すれば命はない。サルバトーレの権能の影響でエリカはまともに呪術が使えなくなっているからだ。

 エリカはとっさに剣を大木に突き立てた。少女の細腕ではあるが、クオレ・ディ・レオーネは稀代の魔剣。その魔剣の刀身は、今のエリカの力でも大木の幹に突き刺さった。

「ぐ、う……」

 歯を食いしばったエリカは必死に近くの枝に足を伸ばし、身体を安定させる。

 そうしている内に、景色が大きく歪んでいった。空に穴が開き、まるでガラス細工が崩れるようにそこかしこに罅が入る。

「サルバトーレ卿!?」

 そして、サルバトーレが空に吸い込まれていくのが見えた。アンドレアも一緒だ。二人の男が、揃って瓦礫とともに空に墜ちていく。

 エリカはそれを呆然と眺めていることしかできない。

 ここは神が作り上げた異界である。それが暴走させられたことで、異物であるサルバトーレを放逐してしまったのだ。

 それがサルバトーレの意図の通りかは不明だ。何せ暴走の権能なのだ。もしかしたら、サルバトーレにとっても想定外だったのかもしれない。

 やがて、暴風が収まると世界は急速に修繕されていった。空の穴は塞がり、焼け焦げた大地には緑が満ちる。緑化事業を早回しで眺めているかのようで、数十年分の緑化がものの数秒のうちに成し遂げられてしまった。

 すべて終わってから、エリカは地上に降りた。

「参ったわね」

 正直、現時点では打つ手がない。

 サルバトーレがいなくなった以上、この空間からの脱出は困難を極めるだろう。外部から誰かが救出に来てくれるのを待つか、あるいは何らかの形で外部への穴を見つけるしかないだろう。それも、魔女の資質のないエリカには難しいことだが。

 こういった異世界探索は、魔女の得意分野である。ライバルのリリアナならば何かしらの糸口を見つけてくれるかもしれないが、今はエリカだけだ。それに、今回《赤銅黒十字》が担ぎ出されたのも、《青銅黒十字》のリリアナが、ガリア探索を終えて帰還したことで一躍注目を集めたからでもある。間違っても《青銅黒十字》の支援を受けるようなことがあってはならないのだ。

 エリカ個人の意地やプライドの問題ではなく、《赤銅黒十字》という組織が背負う看板の問題だ。次代を担うエリカは何としてでも、結果を出さなければならない立場なのだ。

 当面、エリカにできることはなくなってしまった。

 プラスに考えられることはアンドレアがサルバトーレと一緒に外に出たことだろう。彼ならば、エリカがこの中にいると正しく外部に報告してくれるはずだ。それで、『まつろわぬ神』の支配する領域に誰が踏み込んできてくれるかは分からないが、希望を捨てるには早すぎる。

 大きな落胆があったものの、エリカは気を取り直した。ここで弱気になっては、後々に響く。常に気をしっかり持たないと、過酷な環境では生きていくことすらできない。

 


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