カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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古代編 4

 春先の朝は恐ろしく冷え込む。

 まして、川に隣接した水車小屋は、雨を凌ぐことはできても風までは凌ぎきれない。隙間風が否応なく吹き込み、身体を凍えさせる。幾重にも毛布を重ねなければ、眠りに就くことすら難しかっただろう。

 ひんやりとした空気を肺に取り込んで、リリアナは水車小屋の外に出た。

 青と黒のケープが、朝日に鮮やかに浮かび上がる。

 東の空は明るく、西の空は群青色に染まっている。穏やかに流れる雲を見れば、天気の好転を予想することくらいはできるだろう。

 しかし、それでもリリアナの心中には暗いものがある。

 まつろわぬガブリエルの存在。

 まつろわぬメンルヴァの存在。

 二柱の『まつろわぬ神』のうち、一柱とはすでに戦うことが決定してしまっている。そして、もう一柱ともどうなるのかは未知数のままである。

 草薙護堂とメンルヴァの共闘が実現しなければ、護堂は二柱の神を相手に戦わなければならない可能性すら出てくる危険な状況である。そんな中で天敵たる女神と同じ屋根の下で就寝するというのは異常とも言うべき暴挙であったが、メンルヴァが目を醒ますことはなくリリアナも寒さで目を醒まさなければ、朝日が昇るまでそのまま寝ていただろう。真っ先に女神と敵対するはずの護堂が、落ち着いていたからリリアナも安心感を得ることができた、ということだろうか。

 肌に染み入る寒さに身震いしたリリアナは、水車小屋の周囲に張り巡らせた結界の様子を見て回ることにする。

 寒さのおかげでまったく眠気を感じない。

 夜更かししなかったこともあって、十二分に睡眠を取ることができている。身体の調子も非常にいい。

「しかし、毛布を借りられたからよかったものの……」 

 この時代には毛布すらも持っていない貧民はいくらでもいる。生活保護などという概念は存在しない時代だ。下層社会の劣悪さは、イタリアの貴族階級で生まれ育ったリリアナには本質的に理解できないものである。

 しかし、それでも土の地面に毛布を敷いて、寒さを凌いだというのは得るもののある経験だったのではないだろうか。

 女神とカンピオーネに挟まれる形で眠るとは、我ながら命知らずなことをしたものだと今になって思う。

「特に異常らしいものはないか」

 呪力の変動もなく、結界にほつれもない。放っておいた使い魔たちにも可笑しな点はなく、問題らしいものは特に見つけられなかった。

 まつろわぬガブリエルが、まつろわぬメンルヴァの封印を抜け出すのも時間の問題ではあるのだろうが、夜の間に現れることはなかったらしい。

 ほっと、リリアナは安堵の吐息を漏らす。

 それから、この先どうなってしまうのだろうかと漠然とした不安を覚えてしまった。

 魔女術に造詣の深いリリアナならば、五世紀前半のガリアでも生活していくことは難しくないだろう。この時代は中世の魔女狩りも起こっていない頃だ。もちろん、十字教圏で、異教の呪術を行使すれば問題になるがそれもローマの支配圏が中心である。民草の中に溶け込むのは、さほど難しくはないし、重宝されるであろう。

 だが、それでも二十一世紀の生活が恋しい。

 本もなければテレビもない。それほど興味を持っていなかったローマやナポリの雑踏が、輝いて想起される。

 ちょっとしたホームシックだ。

 何の準備もなく、どことも知れない場所に飛ばされたのだから当然であり、むしろ平然としている護堂や晶のほうがおかしいのである。

「いかんいかん。わたしがしっかりしなければ!」

 リリアナはパンパンと自分の頬を叩いて活を入れる。

 護堂は普段の言動に惑わされがちだが、カンピオーネなのだ。放っておけば何を仕出かすかわからない。そして、晶は護堂の言動を全肯定するイエスガールであるようだ。盲目的なのはいいのだろうが、この時代にあって歴史を狂わせる可能性のある存在に諫言の一つもしないのでは、好からぬ未来に繋がりかねない。晶が主に意見しないのであれば、自分がするしかない。

 前向きに前向きに――――人にとやかく言う前に、この状況を楽天的に捉える努力をする必要があるのではないか。

 そもそも、時を超えて旅をするなど、普通に生きていては経験できない珍事である。そして、ファンタジー物には、異世界に旅立った先での大冒険というのはありふれた題材なのである。

 往々にして、物語の主人公は不可抗力によって異世界の扉を開く。それは運命であり、旅先で様々な不幸に襲われつつも出会いと別れを繰り返し、世界の命運を背負う大冒険へと発展していく――――。

 もちろん、その過程でヒロインの存在は大きくなるだろう。

 世界を救う英雄とそれを影で支える健気なヒロインの組み合わせは、古今東西あらゆる物語の必須条件で……

「ハッ、だ、だめだだめだ。こんなことを考えている場合ではない」

 頤に手を当てて物思いに耽っていた時間は、どれくらいなのだろうか。

 腕時計に目を落とすと、三、四分程度だろうか。

 リリアナは、慌てて周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認して再び安堵の吐息を漏らす。

 心臓がバクバクする。

 こんなところを見られたのでは、また何を言われるか分からない。護堂と晶には、自分の趣味が知られているが、それでも弱みを追加する必要もないのだから。

 この時点でリリアナは自らの不注意に気付いてはいなかった。

 普段の彼女ならば、苦もなく勘付くことができただろうが、自分の精神を落ち着かせることに躍起になったためか、背後に佇む不可視の存在を見落としたのである。

「リーリアナさん、おはようございます(ブォンジョールノ)!」

 リリアナの両肩に飛びつくような勢いで背後から飛びつく影は、それと同時に流暢なイタリア語で話しかけてきた。

「うわああああ!?」

 まったくの不意打ちにリリアナは素っ頓狂な声を挙げて飛び退き、慌てて振り返ってそれが晶だと理解して呆然とした。

「た、高橋晶。い、いつの間に?」

「リリアナさんが、何かぶつぶつと言いながら棒立ちしてた頃からです」

「な、何!?」

 リリアナは愕然として、頬を朱に染めた。

「み、見てたのか……?」

「何やら深刻そうな顔をしていたので、どうしたものかと思っていたのですが、特にそんなこともなかったみたいですね」

 言いながら晶は、にやりと意味ありげに口元を歪ませた。

「ぐ……」

「ふふふ、リリアナさんの新ネタは、異世界冒険物ですか。ブームと言ってはブームですが、マンネリ感を打ち消す新要素も欲しいところで……」

「うわあああああ、もういい! 弄るな! そういうのは、本当に苦手なんだああああああああああ!」

 リリアナはポニーテールを振り乱して喚いた。

 顔は羞恥で真っ赤に染まっている。

 聞かれただけでも恥ずかしいのに、それを面と向かって言われるのは全身を掻き毟りたくなるような恥ずかしさだ。

 畜生、後で覚えてろ、とリリアナは内心で晶に向かって毒づくものの、これといって実行に移せる機会があるわけでもなく移すつもりもなかったりする。

 そんなことを考える必要もないような事態が直後に起こったからだ。

 地響きを伴う爆発と荒れ狂う呪力の炸裂を見た。

 護堂とメンルヴァがいるはずの水車小屋が、激しい炎を噴いて吹き飛んだのである。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 木っ端微塵になった水車小屋。

 吹き飛んだ瓦礫は上空数百メートルまで舞い上がり、ライン川と周囲の大地に降り注いだ。

 西洋で火薬が調合されるのは十三世紀以降のことだという。

 ならば、落雷などの自然現象を除いてこの時代で大爆発が生じることなどまずない。

 無論、この爆発に神力が関わっている以上は原因となるのは『まつろわぬ神』かカンピオーネのどちらか、あるいは両方であると言える。

 爆心地は小規模なクレーターができていた。

 瓦礫の類は粗方吹き飛ばされたのか、お盆型に抉れた地面には何も残されていなかった。

 否。

 粉塵が去った後、無傷で向かい合う神殺しと女神がそこにはいた。

 険悪な雰囲気は、あまりない。

 互いに相手の出方を見ているのか、泰然とした様子で向き合っているだけである。

 護堂の手には輝ける黄金の楯と剣。

 女神の両手には、青白く輝く雷光。

 何事かと駆けつけてきた二人の少女は、遠巻きにその様子を眺めていることしかできない。

 迂闊に近付けば、この均衡を崩すことになる。

 だから、動けない。

 静観を決め、無関係の人間が巻き込まれないように人払いをする。それが、晶とリリアナにできる最低限の支援だった。

 そして、護堂はチリチリとした女神の戦意を感じながらも決して護堂のほうから手を出すような真似はしなかった。

 多少の行き違いは覚悟の上だった。

 相手は女神でこちらはカンピオーネ。敵対する可能性のほうが高かったのだから。

「さっきも言ったケド、俺はあなたと戦うつもりはないぞ」

「今のところは、だろう。それに――――」

 バシ、と大気を焦がすような音。

「神殺しの言葉、容易く信じることはできまい」

 メンルヴァが放った雷撃を護堂は楯で受け止める。

 普通の楯ならば、跡形もなく消し飛んでいるところだが、《鋼》の神具はそう簡単には破れない。

「さらに、あなたがわたしと共闘するのは、あなたがガブリエルよりも弱いからではないか? 自らの保身のために、共闘を持ちかけるのは勇士のすることではないな」

 さらに一発、雷撃が襲う。

『弾け』

 護堂の言霊がメンルヴァの雷撃を捻り上げ、空に逸らした。

「何……?」

 メンルヴァは訝しげに護堂を睨む。

 今の権能に覚えがあったからだ。

「ガブリエルは、啓示を司る天使。相手の第六感に訴えかけ、神の言葉を届ける存在だっていう話だ」

「あなたは、まさか……」

 目の当たりにした言霊の権能とガブリエルについてこれ見よがしに語る護堂の口ぶりにメンルヴァはある可能性に思い至った。

 ありえないことではない。

 神話がこの世にある限り、神々は不滅の存在なのだから。

「お察しの通り。俺は前にガブリエルを倒して権能を簒奪してる。だから、アイツと俺が戦うのは成り行きではあっても避けられるものじゃないんだろう」

「ほう、戦う運命は変えられぬと分かっていながらわたしと手を結びたいとはどういう了見だ?」

「少なくとも、そうすればガブリエルとあなたを同時に相手にする危険は避けられる。もちろん、強大な『まつろわぬ神』の助勢を得られるのはありがたいことだし、持ちかけて損はないだろ」

「なるほど、確かに一理ある。わたしのほうもガブリエルの手の内を知っているあなたを味方にするのは利となるか」

 メンルヴァは思案げな顔をして、少しの間黙り込んだ。

 この間にも彼女の両手に弾ける雷光は輝きを失くさず、護堂を打ち抜くときを今か今かを待っている。

 やがて、メンルヴァは口を開いた。

「あなたを味方にする利はある。だが、それは女神の戦にあらず。わたしはわたしのやり方であの無礼者を始末するつもりだ」

「どうしてだ? 利があるんだから、手を組んだほうがいいはずだろ?」

「ふん、神殺しと易々と手を結べるか。まあ、わたしの快復を助けてくれたことには礼を言っておくがな。わたしも恩知らずではないのだ。この場では、あなたを討ち果たさずにおいておこう」

「おいおい……それは、礼でも何でもないじゃないか」

 呆れた護堂にメンルヴァは淡く微笑んで見せた。

 戦士と女の双方が綯い交ぜになったかのような笑みである。

「勇敢なる戦士ならば、臆せずに戦えばよい。生を拾うか死を受け取るかは、あなた次第。それはわたしにも言えることだな」

 生死は問わず、戦うことこそが重要だとメンルヴァは述べている。

 人間とは根本的に異なる考え方。しかし、命よりも名誉を重んじる時代もあった。もしかしたら、『まつろわぬ神』の性格は、その神話が形成された当時の世相を反映しているのかもしれない。

 いずれにしても、一緒に戦うという線は消えた。

 メンルヴァとここで戦わなくていいということが救いだろうか。

「では、もう一つあなたに伝えておこう。わたしが施した封印が解けるのは、おそらくは今夜だ。ヤツの神力は日没と共に高まるであろうから、あの封印ではそう長く持つまい」

「そうか、ありがとうな。それだけ分かれば、心構えくらいはできそうだ」

「まあ、あれを討ち果たすのはわたしだ。あなたの出番などありはしない」

 メンルヴァはそう言うや否や姿を変えた。

 一羽のフクロウである。

 女神アテナの象徴でもあるフクロウは夜に活動するハンターとして魔の象徴としても扱われる。聖と魔の双方の顔を持つ地母神ならではの神獣であろう。

 羽ばたく音もなく、メンルヴァが変身したフクロウは飛び立っていった。

 彼女は封印を施した張本人である。ガブリエルがいつ出てくるのかも、手に取るように分かるに違いない。

「行っちゃいましたね、女神様」

 メンルヴァが去った後、晶がやって来た。

 跡形もなく消し飛んだ水車小屋のクレーターは高熱で融解してガラスのように艶やかになっている。晶の足音が妙に響くのも地面が固くなっているからである。

 さらに、晶と一緒にやって来たリリアナが護堂に言った。

「不戦の約束をしたのは、よかったと思います。ガブリエルとの戦いもメンルヴァ様が引き受けてくださるようですし、護堂さんにも余裕ができたのではないですか?」

「そうだな。もしも、メンルヴァがガブリエルに勝てば、俺は何もすることがないから最高なんだよな」

 何も好き好んで戦いたいと言うわけではない。

 メンルヴァを救ったのは、偏に自分の身を守るためであった。ガブリエルに目を付けられたから、同じくガブリエルと敵対しているメンルヴァに共闘を持ちかけただけのことなのだ。

「けど、どっちが勝っても戦わないとダメなのは変わりないみたいだ。勝ったほうが俺に突っかかってくるのは目に見えてるんだよな」

「確かに、『まつろわぬ神』の中でも軍神の相を持つメンルヴァ様ですから、神殺しである御身と戦おうとするのは分かりますし、ガブリエルはすでに敵対していますから……本当に猶予ができたというだけですね」

「あのとき、メンルヴァを拾わなければよかったなんて思うけど、それでもガブリエルが近くにいる時点で遅かれ早かれこうなったんだろうか」

「まつろわぬガブリエルの権能が、広範な知覚力を伴うのは先輩の権能を例に挙げるまでもなく予想できることですし……」

 どれだけ護堂がガブリエルを避けたとしても、向こうからやって来るのではどうにもならない。

 護堂の気配を察して、ガブリエルがやって来る、あるいは色々な行き違いが重なってガブリエルと戦闘に突入する。護堂がカンピオーネである以上、『まつろわぬ神』と戦うのは運命と言ってもいいのだから、理屈はどうあれ、ガブリエルが敵となっていただろう。

 まつろわぬメンルヴァとまつろわぬガブリエル。どちらが敵となったとしても、強敵となるのは確実である。そして、戦いの刻限は刻一刻と近付いてきている。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 メンルヴァが派手に水車小屋を消し飛ばしてしまったために、護堂たちは雨風を凌げる場所を改めて探さなければならなかった。

 幸いにして、この辺りは田園である。

 集落から多少離れても、物置などは点在していた。

 日差しを避けるために、ある物置を仮の宿とした護堂たち三人。『まつろわぬ神』の襲撃に備えて、集落に帰ることもできないので、この場で徒に時が過ぎるのを待つしかなかった。

「暇を持て余すっていうのは、正直苦手なんだよなぁ」

 護堂が言った。

 物置の中から外の田園を眺める。

 春の風に包まれる麦の若葉が、さわさわと音を立てる。どこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声は、平穏さを感じさせてくれる。

 本当にこれから死闘に赴かねばならないのだろうかと疑問すら湧いてくる始末である。

 そう呟くと晶は、

「嵐の前の静けさだと思うといいのではないでしょうか」

 と言った。

 戦意を損なわないためにも、戦いは意識しておかなければならない。

 護堂は頷くものの、どうにもやる気にならないのである。目の前に『まつろわぬ神』がいれば、また変わってくるのだろうが、今回は明確に戦う理由がないから盛り上がりに欠ける。誰に頼まれたわけでもなく、誰に迷惑がかかるわけでもない。神様同士の戦いに巻き込まれただけなので、モチベーションが低いのだ。

 暖かな日差しは、やがて西の空に消えていく。

 空が橙色になるにつれて、空気が冷ややかさを帯びてくる。昼と夜の寒暖差もまた春らしい。

 ガブリエルが動き出すのが、日没後だとメンルヴァが言っていたが、果たしてどうなるか。

「今のところ、大気に呪力の乱れはありませんね。護堂さんは、何か感じていますか?」

「いや、特に何も。まだ、封印は破れてないみたいだな」

 リリアナは終始ガブリエルの動きを捉えようと使い魔や呪術を使って監視の目を張り巡らせてくれていたが、現状では大きな変化はない。女神の封印を破るとなれば、それなりに大きな呪力の変化があってもおかしくはないので、それがないということはガブリエルはまだ虜囚の身に甘んじているということであろう。

「ですが、まだ夕暮れ時というだけですから。夜は長いので、いつかの大天使が復活するか分かりません。準備することがあるのでしたら、抜かりなく準備されたほうがいいでしょう」

 リリアナがそう言うと、晶が護堂の袖をつついた。

「あの……先輩。リリアナさんの言うとおり、戦いに備えて最善を尽くしたほうがいいと思うんです……」

「晶……」

 もじもじと恥ずかしげにしながら、晶は言った。

 彼女の言わんとすることを、分からない護堂ではない。

「『剣』か……確かに、あれがあれば大抵の敵に優位に立てるけど」

「なら、先輩はその準備もしておくべきです。後で必要になったけど使えなかったでは、笑い話にもなりません。命が懸かっているわけですから……」

「そう、だな」

 護堂もまた羞恥で顔を紅くする。

 ウルスラグナの言霊の剣を砥ぐということは、そのための知識を護堂が手に入れなければならない。この場合、ガブリエルとメンルヴァについての知識である。護堂がそんなものを持っているはずもないので、誰かから与えられなければならない。

 しかし、ここで問題になってくるのがカンピオーネが持つ呪力への高過ぎる耐性である。

 カンピオーネは善悪の区別なくあらゆる呪術を無効化する。

 知識を与えるための教授の術も例外ではない。

 ただし、カンピオーネが無効化するのは身体の表面に触れた呪力だけであって、体内からは別である。つまりは、最も手軽にカンピオーネに術をかける方法は、経口摂取であり、キスという形になるのだ。

「分かった。晶、頼めるか?」

「はい! それは、もち、ろん……で……」

 喜びの絶頂に飛び上がった晶のテンションはすぐさま下降線を辿る。

 あからさまに元気をなくし、落ち込んだ。

「ど、どうした?」

「いや、あの、その……本当に、何ていうか……今気付いたんですけど……」

 晶は、ぶつぶつと小さな声で呟く。

 そして、ふっと笑って呆然とした表情で護堂に言った。

「ワタシ、ガブリエル、シリマセン……」

「え?」

 晶はどんよりとした雰囲気をそのままに護堂に謝る。

「だって、そんな西洋の天使の来歴なんて知ってるわけないじゃないですか……霊視、できませんし。わたし、日本とかアジア系なら何とかいけますけど、西洋なんて、無理で……ごめんなさい……」

「いや、別に責めたりしないからな。『剣』はあれば便利だけど、なくてもどうとでもなるからさ」

 消沈する晶を護堂は励ますように言った。

「はい……」

 晶は項垂れながらも頷いた。

 何とか護堂の力になれる機会はないものかと思っていたところだっただけに、知らないという根本的な問題に直面して精神的にダメージを負った。

 護堂と晶の会話についていけなかったリリアナは、会話の内容をつまみ食いして不完全な理解をした。

「これからガブリエルと戦うというのですから、その知識を学ぼうというのは正しいことでしょう。護堂さんの戦いに有利になるのは間違いありませんし、よろしければわたしがお教えしますが?」

「は?」

「え!?」

 リリアナの申し出に、護堂は唖然とし、晶は目を剥いてリリアナを見る。

「別におかしくはないでしょう。わたしはイタリアで生まれ育った魔女ですよ。大天使ガブリエルについて講釈するくらい何ということもありません」

「え、ああ、うん。そうだな」

 リリアナはウルスラグナの権能の特性について知らない。だから、単に教えればいいという程度の認識なのだろう。いや、そもそもウルスラグナの神殺しの剣を発動する要素として必要不可欠なのが神の知識であるということすら知らないのだから、今のリリアナはただ「彼を知り己を知らば百戦殆うからず」という諺の通りにガブリエル対策に知識を求めているだけだと思っている。

 しかし、現実にはただ教えてもらうだけでは意味がない。

 護堂自身がその知識を完全に覚え、そして理解しなければ敵の神格を斬り裂く『剣』を作り出すことはできない。

「どうかしたのですか?」

 気まずそうな沈黙にリリアナは首を傾げた。

 護堂も晶も、リリアナから視線を逸らしている。

「別にガブリエルの知識が必要なのですよね?」

「それは、まあそうなんだけど、ただ教えてもらうだけじゃなくてだな……まあ、何だ……」

「教授の術をかける必要があります」

 言いよどむ護堂の言葉を、晶が代弁した。

「教授?」

 晶は、一回護堂と目配せし、それから理由を説明した。

「先輩がウルスラグナと戦い、黄金の剣の権能を簒奪したことはもう知ってますよね?」

「それはまあ。効果までは分からないが、賢人議会のレポートには外見だけは載ってたな。セルピヌスと戦ったときのものだけだが」

 やっぱり報告が行ってたのか、と護堂は思った。

 セルピヌスとその分身であるカンヘルと戦ったのが日本国外ということもあり、護堂の情報はほとんど筒抜けになっていたらしい。

「そのウルスラグナの権能を使うのに、『まつろわぬ神』の知識が必要なんです。それも、概要だけじゃなくて成立過程とか背景とかも要るらしく……先輩はその辺りに詳しいわけじゃないので、知っている人が教授の術をかけなければならないのです」

「なるほど。それで、ガブリエルのことを。――――高橋晶はガブリエルの背景まで説明できないから教授ができないと」

 晶はぎこちなく頷いた。

 世界的に有名な大天使の背景を説明できないのは呪術師としてどうか、と思われそうで嫌だったのと、この流れがリリアナと護堂をくっ付けることに繋がりそうで不安だったことの両面から晶の不快感は顔に出てしまった。

 ウルスラグナの権能についてもリリアナに知られたところで問題にはならない。

 原作の草薙護堂はウルスラグナの権能しか持たないこともあって、その発動条件を公にしていなかった。しかし、この世界の護堂にはそのような縛りは必要ない。ウルスラグナ以外にも使い勝手のいい権能を保有しているからである。

 とはいえ、対象となった権能、神格は例外なく斬り捨てることができるという点でまさしくジョーカーとなりうる権能である。使えるのと使えないのとでは戦略幅が大きく変わる。

「教授の術はわたしでも使えます。どうしてそこで躊躇するのです? メンルヴァ様によれば、もう直まつろわぬガブリエルが復活するというのに」

 リリアナは護堂に尋ねた。

 当然であろう。

 権能が使えるか使えないかが『まつろわぬ神』という強大な敵と対峙するのにどれほどの影響をもたらすか分からぬリリアナではない。

 ウルスラグナの『剣』を用意するのに教授が必要ならば、教授をしろと一言命令するだけですむ。

「リリアナさん。あなたはとても大切なことを見落としています」

 そんなリリアナに晶は訳知り顔で言った。

 ずい、と身を乗り出して、

「先輩はカンピオーネなんです。カンピオーネに、人間の呪術は一切効果を発揮しません。それをお忘れですか」

「あ、そういえば、そうだった」

 カンピオーネなど身近な存在ではないリリアナにはそこまでの気が回らなかった。

 権能の有無が普通の呪術師との大きな違いだが、細かく見ていくと鋼よりも固い骨格や強靭極まりない筋肉繊維、そして呪力耐性と権能を除いてもただの呪術師にどうこうできる相手ではないのである。

「では、どうやって術をかける? 術が効かないのでは、そもそもウルスラグナの権能は使えないじゃないか」

「まあ、正面からかければ弾かれて終わりですけど、内側からは別です。要するに経口摂取、キスすることで内側から術をかけるんです」

「な……!?」

 リリアナは顔を真っ赤にして慄いた。

 聞き及んだことはある。呪術の世界に伝わる有名な故事に神殺しと巫女の話がある。それが事実とすれば、別段驚くこともないのだが、しかし、今の話の流れからするとリリアナが護堂にキスをしなければならないということではないか。

「だから、言いたくなかったんです」

「な、なるほどな。そうか、キスか」

 リリアナは護堂をちらりと見る。視線が合って、すぐに逸らした。

「それで、リリアナさん。どうするんですか?」

 晶は語気を強めて尋ねた。

「ど、どう、ちょは」

 座りながら後ずさるという器用な行動で晶から距離を取るリリアナ。

「当然、先輩とキスするのかどうかです」

「いや、確かに教授はできる、が、やっぱりそういうのは正しく恋人とすべきだと思うぞ。そう軽々にしていいことではないはずで、あ、いや、別に護堂さんが嫌だとかそういうことではないが、いきなりというのは」

 しどろもどろになりながらリリアナは早口で言い訳を並べる。

「そ、そうだ。高橋晶。わたしがあなたに教授をかけるから、あなたが護堂さんに教授をすればいい」

 名案だと言わんばかりに、リリアナは言ったが晶は渋い顔のままだ。

 どうしてなのか。

 晶は護堂の恋心を抱いているはずで、他人が彼とキスをするのを良しとするはずはないのに。

「わたしは先輩の式神です。身体は呪力で構成されていて、人間の呪術は基本的に効きません。理屈は先輩と同じです。リリアナさん。わたしとキスするんですか?」

「ううぇえええ!? いや、あなたに術が効かないなんて、初耳なんだが」

「いちいち言いませんよそんな情報。……ちなみにわたし、先輩が必要だっていうならリリアナさんとでもしますよ」

 護堂も晶も呪術は効かない。晶の場合はそれに加えて呪力を伴わない物理攻撃も無効である。身体が呪力で形作られているために、この世ならぬ力を介さなければまともに干渉できないのである。

 リリアナは護堂にキスをするか晶にキスをするかの二択を示された。

 晶のほうにそれを嫌がる様子はない。

 本当に護堂のためになるのなら、リリアナに唇を差し出すことにすら欠片の躊躇もしないのだ。

「まあ、待て晶。別にウルスラグナの権能がなければならないというわけじゃないんだからさ」

 護堂はヒートアップする晶をなだめるように言った。

「ウルスラグナを倒す前から俺は『まつろわぬ神』と戦ってきたんだし、ガブリエルなんてそもそも権能がない頃の相手だ。大きな問題にはならないって」

「それは、そうかもしれませんけど……」

 護堂の戦闘にウルスラグナの『剣』が必須というわけではない。

 しかし、それでも『剣』があることの安心感は大きいのだ。敵を斬り裂くだけではない。攻撃や呪い、毒、相手の神格に関する様々な力を無効化する言霊の『剣』は、護堂が有する権能の中でも最大の防具として機能するだろう。生存率を高める上でこれほど頼れるものはない。

「あの、護堂さん」

 リリアナはおずおずと話しかけた。

「ん?」

「そのウルスラグナの権能というのは、ガブリエルやメンルヴァ様と戦う上でかなり重要な役割を果たすのでしょうか?」

「……そりゃ、まあ、あれば便利だよな。知識さえあれば、ほぼすべての神様に対して劇薬になるものだから」

 ウルスラグナの『剣』の権能は、護堂が最近になって手に入れたものである。そのため、情報が少なくリリアナはその効果を把握していない。

 しかし、ウルスラグナの十の化身の中に黄金の剣を持つ戦士のモチーフがあることは知っている。

 ならば、『戦士』の化身を権能として簒奪したのであろう。

 外敵を討ち果たす武勇の象徴だ。

 あらゆる神を相手に通じるというのだから、かなり頼れる権能なのだろう。

「……分かりました」

「え?」

「ガブリエル、それとメンルヴァ様の来歴についてわたしが護堂さんにご教授いたします!」

 茹蛸のように顔を紅くしたリリアナは、意を決して叫んだ。

 護堂はその剣幕に圧され、晶は護堂の隣で小さくため息をついた。

「それは、ありがたいんだけど、いいのか? 本当に?」

 護堂は念を入れて確認する。

 これまで、複数の女子とキスをしてきた罪深さは今更言うようなことではない。

 護堂自身も自覚していることではある。彼は、戦うのに必要な切り札を手に入れる機会があるのなら、容赦なく奪っていく男であると。人並みの良識があるから無理矢理はしない。しかし、僅かでもその隙があるのなら、付け入るだろう。

 リリアナから言質を取れば、躊躇はしつつも強く断ることはない。

 それが戦いに利用できるのであれば、護堂はリリアナとキスすることも辞さない男だ。

 だからこそ、あえて尋ねる。

 無理矢理ではないと、自分を納得させる最後の一押しになるからだ。

「あ、う……」

 リリアナはそこで躊躇し、それからこくんと頷いた。

「ウルスラグナの権能さえ使えればという状況もありえます。そのときにわたしが教授しなかったからとなっても困りますから」

 搾り出すようにそう言った。

 その言葉そのものが、羞恥のせいか震えているように思えた。

 リリアナが宣言したのを聞いた晶はすっと立ち上がった。

「じゃあ、わたし外に出てますから。五分したら戻ってきます。それまでに済ませてくださいね」

「あ、ああ」

 色々と諦めたような晶の表情に申し訳なさを感じつつ、護堂は頷いた。

 晶は護堂の返事を聞いて、小屋から出て行く。彼女の気配が十数メートルほど遠のいたところで、リリアナが護堂に迫った。

「あの、勘違いしないでくださいね。これは、人口呼吸のようなものです。……必要でわたし以外にできないからするだけですから」

「ああ」

 護堂はそれだけを言うと、リリアナの腕を掴んで引き寄せた。

「悪いな」

「いいえ、お気になさらず……」

 そして、リリアナは呪力を練り上げて唇にガブリエルの知識を乗せ、護堂とキスをする。

 初めてのキスに固くなるリリアナは、ゆっくりと教授の術を護堂の中に送り込む。

「……あなたが始めて弑逆し、そしてこれから対峙するであろうガブリエルという天使は、一神教成立当初から重要な役割を持って描かれた神格です」

 リリアナが知識を送り込み、そして息をするために唇を離す。それを数秒おきに繰り返す。まだ、慣れていない女騎士は、緊張しつつも献身的に護堂に唇を押し付ける。

 そのたびに、護堂の脳裏に輝ける天使の姿を浮かび上がる。

 光を纏う正義の象徴。

 神の言葉を告げるメッセンジャー。

 ガブリエルという神の情報が、護堂の脳に刻み込まれていく。

「ガブリエルが属する階級を熾天使(セラフィム)としたのは中世に入ってから、有名な大天使という階級も六世紀に偽ディオニシウス・アレオパギタが『天使の九階級』を定めたことによります。ですので、五世紀以降のガブリエルと今この時代にいるガブリエルは異なる神性を持っている可能性を考慮に入れるべきでしょう」

 『まつろわぬ神』は降臨した時代の伝説や神話によって権能を変える。

 ならば、五世紀に降臨したあのガブリエルには、後世付け加えられる設定の影響を受けていないはずなのだ。

 リリアナはやっと肩の力が抜けたのか、それとも護堂とキスをしてきて自分も流されたのかさらに深く求めるようになっていた。護堂もそれに応え、知識をリリアナから能動的に吸い上げるようにする。

「聖書は、西洋からアジアに至るまで様々な国の神話や伝説を取り込んで形成されています。その名残は、ガブリエルを初めとする高位の天使にも見ることできるのです。初期から名前の挙がる天使たちは、その起源をオリエント、特にバビロニアに遡るのですから」

 燃える炎の蛇が空を行くイメージが次いで想起される。

 ガブリエルに関連してミカエル、ラファエル、ウリエルといった著名な天使たちの名が現れる。

 そして、その行き着く先。

 西洋を出て東へ。

 遙か古代の受難の民の歴史へと続いていく。

 

 

 きっかり五分、席を外していた晶が戻ってきたときには、教授の儀式は終わりを迎えていた。

 ガブリエルとメンルヴァの知識を得た護堂は、この二柱の神のどちらと戦うことになったとしてもウルスラグナの『剣』を作ることができる。

「どうですか、先輩?」

 晶は護堂に尋ねた。

 護堂は自分の右手を見て答える。

「大丈夫そうだ。リリアナと晶のおかげでしっかりと戦えそうだ」

「わたしは何もしてませんけど」

「きっかけを作ってくれた」

「もちろんやでしたよ。しかたないことですけど」

 あからさまに拗ねた態度で晶は言った。

「悪かったよ」

「本当に分かってます?」

「分かってるって」

 ジトっとした目で護堂を見る晶。

 しかし、彼女はそれ以上追及することはなかった。護堂は、どうせ同じような事態になれば誰かから教授を受けるのだろう。それを止める権利は晶は持たない。感情としては嫉妬してしまうが、それによって護堂の生命を脅かすことがあってはならないと自制する。

「リリアナさんは……」

「い、今話しかけないでくれ。落ち着くまで待って」

 リリアナは身悶えするようにして、小屋の隅で縮こまっていた。

 かなりの羞恥を感じているのだろう。薄暗がりの中でも分かるほどの、顔が紅い。行為を終えて数分は経っているのに、まだ赤みが引いていないのだ。

 晶はそんなリリアナは見た後に、護堂の隣に腰掛けた。

 それから、晶は護堂の二の腕辺りをトントン、とつついた。

「どうした」

 護堂が振り返ったとき、晶の唇が護堂の唇と重なった。

 同時に、晶から護堂に何かしらの呪力が送り込まれる。

「わたしにもできることはないかって考えてました」

 晶は言う。

「クシナダヒメの権能で先輩をサポートします。大したことではありませんけど」

「いや、助かるよ。神様が相手なんだからな」

 そのとき、川を遡った上流で大きな閃光が立ち上った。

 青白い雷のような光が柱となって空を貫く。

 地鳴りと豪風が辺り一帯を駆け抜ける。呪力の爆発的な膨張は、まさしくまつろわぬガブリエルの復活を意味していた。

 


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