一話
「こんなことにならないように生きてきたんだけどな」
呟く少年の姿はどこか異様だった。
アジア系の顔立ちに、それなりに引き締まった身体。顔立ちは比較的整っている。十人に二、三人はかっこいいかも、と思うくらいだろう。問題はその衣服だ。着古しているというのとは違う、無理矢理引き裂かれたかのようにボロボロだ。それに反して、身体のほうには傷一つない。乱暴されたのであれば、身体のほうが傷ついていなければおかしいではないか。
では、少年の服はなぜ引き裂かれているのか。
周囲をみれば多少の推測はたてられるだろう。
むき出しになった岩盤、砕け散った建造物、倒れ用を為さない石柱、どれも数時間前までは神々しいまでに美しく輝く遺産として、管理されていたものだ。
それが、今や爆撃に晒されたかのように無残な姿を晒している。その中心に横たわっていたのがこの少年だ。
少年はここで何を見たのか。状況を見れば、歴史遺産の崩壊に巻き込まれたのは間違いない。では、なぜ彼は無事なのか。
世の科学者を集めても、決して解けない難問の解は、この少年だけが知っている。
少年の名は草薙護堂。
日本の高校に通う高校生。
いろいろあって、彼はこの日、カンピオーネとなった。
□ ■ □ ■
草薙護堂は、ごく一般的な家庭に生まれた。
父は蒸発、母は女王、祖父は誑しと内側を覗けばぶっとんだ家庭環境だが、虐待があるわけでもなく、育児放棄があるわけでもなく、家族仲が悪いというわけでもない。
しかし、護堂には悩みがあった。それも生まれたその瞬間から。
そう、護堂には母の腹から出たそのときから自我があったのだ。しかもその瞬間にはまだ、それ以前の記憶――――即ち、前世の――――があった。
護堂と名を呼ばれたその瞬間に、もしや、という予感があり、妹が静花である段階で諦めた。
ここは『カンピオーネ』の世界だと。自分は草薙護堂になったのだと。
それは、かつての自分が愛読していたライトノベルの世界。なぜ、この世界にやってきたのかまったくわからない護堂は、ひたすらに身の振り方を考えるしかなかった。
この世界は、その他多くのファンタジー小説と同様に、魔術があり、神様が出てきて大暴れする。一般人と呼ばれる全人口の大半を占める人間はそのことに気づかず、安寧とした生活を送れるが、裏社会に出れば、魔術、騎士が跋扈し、指先一つで国を滅ぼすまつろわぬ神などというチートな存在が出現する危険地帯だ。
しかも自分は草薙護堂。
カンピオーネの主人公。
神様と戦う可能性は、決してゼロではない。
そして、この護堂には、そうなったときに生き残れる自信がまったくなかった。
このまま行けば、カンピオーネとして神様と戦うことになるかもしれない。
死ぬかもしれない、死ぬのは嫌だ。だから、決めた。
見た目は、普通の世界なのだ。だったら原作に関わらないように生きていこう、と。
以降の護堂の生活は、質実剛健素直実直と表現していいだろう。
なにせ前世の記憶があるのだ。
当然他の子供と異なる思考をするし、学力面では他者は相手にならない。それでいてほかの子供にあわせる気もなかったので、中学時代はぶっちぎりの学年一位。生徒会長まで務めるまでになってしまった。部活は野球部ではなくサッカー部に入った。ちなみに部長で都の代表にもなった。
別に目だっていけないわけではない。ようは、訳の分からない連中に関わらなければいいだけの話。であれば将来のことを考えて多くの実績を積み重ねることこそが肝要だった。なんだかんだで上に立つのが楽しかったということもある。
めざせ、一流企業。もしくは国家公務員。
社会的地位の保証された一般職に就きたいと、努力を怠ることはなかった。
順風満帆、この上ない完璧な人生を送った結果、卒業後の進路は進学校で有名な私立城楠学院高等部だった。
「なんで、だ……」
進路が決まった瞬間の護堂はこう漏らした。
高偏差の学校に悠々と進学を決めたのだ。普通は喜び勇み新たな生活に心を弾ませるところだろう。
しかし護堂は見るからに狼狽し、最後には肩を落とした。
(ここにだけは行きたくなかった……!)
妹が通っている手前口に出すことはないが、心の叫びはいかほどのものだったであろうか。
なにせこの学校は『原作で護堂が通っていた学校』なのだ。
原作から離れようとするならば、選択肢に入れることなどありえない。が、困ったことにこの学校は進学校で、護堂は成績優秀。そして、妹も中等部に在籍と三拍子そろっていた。第一志望を公立の、幼馴染の徳永明日香と同じ高校にして、いざ、私立は?となったとき、必然的に選ばざるを得ないのだった。選ばないというのは、明らかに不自然だからだ。
内心の葛藤を押し殺して、受験し、見事に合格だった。
そして運命の悪戯か、第一志望の公立校は、受験日に事故にあって受験できず、母がそのまま私立に手続きを強制的にしてしまったものだから、護堂のこれまでの計画は実に危険水域にまで達してしまったのだった。
「ま、そのほうがあんたのためになるわよ」
と、残念そうに幼馴染は呟いていたのは、記憶に新しい。
しかたないと、護堂は頭を切り替えた。
同じ学校に行くことになったからといって、必ずしもカンピオーネになるわけではない。
関わらなければいいのだ。原作と。普通の高校生活を楽しむさ、と護堂は入学に向け、学校から出された春休みの課題に取り組むことにした。
□ ■ □ ■
原作に関わらない、ということを非常に甘く見ていたということを今まさに護堂は痛感していた。
三月上旬。中学を卒業した護堂は春休みだ。
目の前には二人の老人が酒を酌み交わしていた。
一人はおなじみの草薙一郎。護堂の祖父で、原作同様女誑しで有名だ。もう一人はその古い友人で都内の私立大学で教鞭を振るっている高松先生。
ああ、知っている。この展開を護堂は知っていた。
「待て待て、あの女とは二度と会わないって千代さんと約束しただろう!」
「約束? あれはたしか空港までは見送りに行かないとかじゃなかったかな?」
他者はそうは思わないだろうが、これは護堂の人生を一変させる会話だ。
また、有意義な情報もある。
この会話は原作時系列において最も初期のものなのだ。ゆえにそれ以前の情報はまったくなかった護堂にとって、この会話の有無によって護堂という個人ではなく、世界全体の流れを知ることができたのだ。
(……今のところは原作通りに事が進んでいるってことかよ)
護堂自身は城楠学院への進学を決め、目の前にはプロメテウス秘笈を巡る老人達の口論が展開されている。護堂がどれほど努力しようとも、結局進路一つ変更できなかったのだ。世界規模の事象の流れに干渉できるはずもなかったのだろう。
(だけど、ここでイタリアに行くことがなければ、俺は神様に出会うこともなく、間違ってもカンピオーネになることもない。そしてアテナも来ないから東京が闇に沈むことはない……)
少なくとも、一巻の内容くらいなら、なんとかなりそうだ。
万里谷祐理は完全に赤の他人なのだから、ヴォバンから助ける義理もなくなる。というかできない。見捨てることになるのは、多少良心は痛むが、それは不要の感傷だろう。
(結局、ここでイタリアに行くのか、行かないのかということが将来を別つことになるわけだ)
よくよく考えれば、これまでの努力など、このイベントを乗り切った後に必要なスキルを身につけるためのものだった。
原作に関わらないというのであれば、このイベントにこそ、関わらなければよいのだ。
(茶菓子は出したし、もう退席していいだろう)
と思って腰を浮かせた瞬間に、高松先生がこちらを向いた。
いやな予感がしたのはそのときだった。
おいまて、ヤメロ。
「頼む、君からも何か言ってやってくれないか。護堂君!」
「え゛、いや、俺は……」
「このままでは一郎さんは、千代さんとの約束を平然と破って海外に行ってしまう!それは止めないといけないんだ!」
えらく真剣は表情で、高松先生は護堂に詰め寄った。
高松先生は実直な人間だ。亡き護堂の祖母のためにここまで言ってしまえる人間を護堂は他に知らない。
そして、その内容も、護堂の家庭に関わる問題なのだ。決して無関係とはいえないというところがあった。
「確かに、高松先生のおっしゃるとおりです」
だから護堂は高松先生を援護せざるを得なかった。流れが危ういところに向かっていることも確かだが、草薙家長男として家風を乱すわけにはいかないし、『最近お爺さんに似てきたねえ』などと言われてしまうのも論外だ。これ以上、祖父の浮名を流すわけにはいかない。
「その石版みたいなものは壊れにくそうだし、郵送でいいんじゃないのか?何もじいちゃんが届ける理由はないと思う」
「いや、とても貴重なものみたいだからね。手渡しするべきだと思うんだよ。僕も伊達に民俗学を教えていたわけじゃないんだ。こういった貴重品を郵送するのは学者として気が引ける」
「む……う」
こじ付けがましく聞こえるが、残念ながら護堂には言い返す術がなかった。そもそも、旅行すること自体止める資格があるわけでもない。草薙一郎は曲がりなりにも老後を楽しく過ごさんとする一老人なのだから。
「だけどじいちゃんが行けば、ばあちゃんとの約束を破ることになるって言うじゃないか。それは孫として認められない。これは、家の問題でもあるんだ」
なぜか、そこで高松先生と一郎はほう、と感心したような息を吐く。
そして、視線を交わした。
長い付き合いの親友同士だからできる無言の意思疎通。
まずい、と護堂の直感が告げていた。
「じゃあ、護堂に聞くけど、郵送と僕が手渡しする以外の代案があるかい?」
「それは、ないけど」
「そうか、だったらこうしよう。これは護堂に預けるよ。僕の代わりにルクレチアに届けてくれ」
「ちょ……」
「それがいい。護堂くんもずいぶんと頼もしくなってくれたみたいだしね。海外の一人旅もいいものだよ」
「待……俺の話を聞いてくれ」
「じゃあ、よろしく」
といって、話をたたもうとする二人。
彼らからして見れば、ただ祖母との約束をどうするのかという一点のみが焦点だったわけで、護堂がイタリアに行った挙句、金髪騎士に剣で脅され、正真正銘の神様相手に命がけでドンパチし、魔王にまでなってしまうかもしれないという可能性を予見しているわけでない。
「だ、だったら、俺のほうからも頼みがある!! イタリアに行く前に、他の国も見てみたい!! ユーロ圏のどっかでいいからお勧めの場所を教えて!!」
最早イタリアに行くことは回避できそうにない。
だから、最後の手段。
時期を遅らせることを選択した。
ほうっておけばウルスラグナとメルカルトがぶつかり合って消える。もしくはそれに類する状態になるだろう。とにかく、この二柱の神が通り過ぎてからサルデーニャに行こうと考えたのだ。
■ □ ■ □
結局海を渡った護堂だったが、概ね目的は達したといっていい。
ヨーロッパ各国を電車の旅で巡ることになった護堂はその途中でイタリアで発生した異常気象の情報をネットで知り、歓喜した。
メルカルトの嵐だ。
これが過ぎ去った後で、悠々とサルデーニャに上陸すればいいと、護堂はイタリアの北部に入ったところでほくそ笑んでいた。
「ここ、いいかな?」
「え、はいどうぞ」
金色の髪の少女が発した言葉が日本語だったことに驚いたが、心ここにあらずの護堂はまったく気にしなかった。
いま、護堂の脳内は順風満帆の一般人生活への妄想に突入していたからだ。
これが、普段の、とりわけ神や魔術といった非常識を意識しまくっている護堂であれば、気づいたかもしれない。そこまでいかなくても、注意はしていただろう。
この窓を優雅に眺めている少女が、放つ、ある種の神気に。
■ □ ■ □
そして、冒頭に戻る。
全てが終わって、護堂は慄然とした。
「やってしまった……」
手元にはプロメテウス秘笈。すでに力を失ってただの石版と化していた。
使い方は原作の通りだった。
電車でご一緒した少女が神様モドキだとはまったく思いもしなかった。
正体を現したところで、護堂は秘笈の力を行使した。せざるを得なかった。魔術師に知り合いなんていなかったし、神様が暴れればどんな事態を招くか、それはネットで見た大嵐で一目瞭然だろう。
知識ではなく、現実の脅威としてそれを認識していたから、抵抗するしかないと意を決することができた。
少なくとも、対処することのできる道具を持っていながら逃げることはできない。逃亡を護堂の良心が咎めたのだ。
だからできる限りのことはしよう。
石版を使えば相手の権能を盗むことはできるし、そうすれば戦力はガタ落ちだ。あとは、駆けつけてきた魔術師が何とかするだろう。と思っている間に、あれよあれよと事態が深刻化し、気がついたときには、倒していた。
消えていく少女の優美な微笑が瞼から離れない。
それは、今後戦いに明け暮れることになる護堂への手向けの笑顔だったのか。
頭を抱えながら、このままではいろいろとまずい。仕方がないからルクレチアのところに行って日本に帰ろう、とサルデーニャに向かうことにしたのだった。