ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第07話 生贄の竜巫女 (1)

 

 

 アインクラッドで迎える二度目の新年が明けて、早くも一ヶ月が経ってしまいました。

 最近はようやく浮き立った雰囲気も過ぎ去って、元のアインクラッド『らしい』空気が戻ってきていますけど、それが喜ぶべきことなのかどうかはあたしにはわかりません。少し前には現実世界でのお正月に合わせてアインクラッドでも年明けのお祭り騒ぎもありました。ただ、アインクラッドに和風な建物やイベントはほとんどないので、とにかく節目を祝おうというそれくらいの意味合いしかなかったりします。

 あたしたちのような中層階層に生きるプレイヤーにとっては、こうした娯楽行事は割と身近なものです。脱出不可能なデスゲームに参加させられているつらい現実を忘れよう、そんな気持ちが後押しするのか、システムが発生させるイベントとは別に、有志の皆さんによって企画・運営されるお遊びも少なくありません。あたしも楽しませてもらってますから不謹慎だとかは言えませんけど、時々いいのかなぁ、という気分にはなりますね。

 

 そんな不真面目なあたしたちを横目に、攻略組の方々の奮闘は目覚ましいものがあります。

 現在のアインクラッドの最前線は第58層。

 第一層攻略にゲーム開始から一ヶ月近い時間がかかったことを考えると驚きの攻略速度です。

 その原動力となっているのが攻略組と呼ばれる高レベルプレイヤーさん達。中でも最強ギルドの誉れ高い血盟騎士団の勇戦は、数ある有力ギルドの活躍を霞ませるほどだと伝え聞いています。頭一つ飛び抜けた戦力を保有しているのだと。

 

 誰もが最強ギルドと聞いて真っ先に名を挙げる血盟騎士団。

 その血盟騎士団を率いる団長さんと副団長さんの姿をあたしは直接見たことはありません。ですがどんな外見をしていてどんな戦い方をするのかと言えば、結構知っていたりするのです。それこそ頻繁に新聞記事に紹介されますし、時にはその記事にレトロな白黒写真みたいな形で掲載されることもありました。あまり大きな声では言えませんが、知り合いの方からは本人非公式で記録結晶による鮮明な動画が出回っているらしいと聞いたことがあります。特に副団長のアスナさんはとても綺麗な女の人で、その姿を記録した結晶はかなりの高額で取引されているとか。……なんだか闇取引みたいで怖いです。

 そんなあたしの感想はともかく、血盟騎士団の顔とも言えるこのお二人の名は非常に有名です。

 

 血盟騎士団団長《聖騎士》ヒースクリフさん。

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナさん。

 中層階層を拠点にするあたしのようなプレイヤーでも頻繁に耳にするのですから相当なものですよね。

 ですが今日の攻略組の躍進にはもう一人、異色のソロプレイヤーの存在があるらしいのです。

 らしい、などとあやふやなのは、その情報がほとんど伝わってこないから。攻略組の人達にとっては超有名人らしいのですが、なぜか皆さんその人のことだけは頑なに口を閉じて沈黙を守っているそうです。畏れ多いとか、口にしたくないとか、軽々しく話せないとか。いえ、私も又聞きですから確かなことはわからないんですけど。

 

 ただこの人、キャラクターネームはわかりませんけど色々な呼び方をされているみたいです。名前の代わりとして好き勝手に代名詞がつけられちゃってる感じ。ソロで役職がないせいか、誰かが悪意を持ってキャラクターネーム以外の呼び方を、それはもう面白おかしく浸透させようとした結果なのかもしれません。噂ばかりが先行しているせいもあるんでしょうけど。

 はじまりの剣士、黒の剣士、ビーター、黒尽くめ先生、対ボス決戦兵器、オレンジ野郎etc。なんだか悪乗りが過ぎて敬意と悪意とやっかみがふんだんに込められてそうな呼び名ですよね。どれが本当でどれが嘘なのやらわかりません。

 わからないと言えばその人に纏わるとんでも逸話もたくさんあります。

 何度もソロでフロアボスを撃破しただとか、盾なし片手剣スタイルのくせに盾持ち重戦士よりも硬いだとか、実はアインクラッド一のお金持ちなんていうものまで。果てには聖竜連合相手に決闘を仕掛けて100人抜きしたとかいう話までありました。聖竜連合は血盟騎士団には一歩及ばないものの、やっぱり攻略組きっての大手ギルドの一つですから、その団員さん相手に100人抜きとか誇張もいいところだと思うんですけどね。この人、都市伝説か何かじゃないんですか? そんなふうに思ったこともあります。

 

 とはいえ、実在のプレイヤーであることは間違いなさそうです。

 最も鮮烈な活躍を見せたのは、昨年11月に行われた第50層フロアボス戦でのことでした。

 この戦いは第25層における軍――アインクラッド解放軍の崩壊以来の大苦戦だったそうです。このことから25層ごとに凶悪なボスが控えているのだ、というかねてからの推測が第50層の惨状で確信となって、以後クォーターポイントと正式に表するようになったそうです。次のクォーターポイントである第75層への警戒が嫌でも高くならざるをえない、そういうことでした。

 そんな凶悪なボスが控えていた第50層。全100層のアインクラッドにおいてようやく迎えた折り返し地点に攻略組の士気も高かったと聞きます。しかしその攻略組の最精鋭を持ってしても戦線は崩壊し、血盟騎士団や聖竜連合からでさえ死者を出した悲惨な戦いとなってしまいました。次々に前衛が離脱していき、ついには討伐失敗かと諦めかけたとき、二人のプレイヤーが圧倒的な力を発揮してボスを押し止め、討伐隊の崩壊を防いだそうです。

 

 その内の一人は血盟騎士団団長さん。かねてから攻守最優と囁かれていたエクストラスキル《神聖剣》の特性を存分に生かし、ただの一度も後退することなく最後まで戦線を支え続けたらしいです。一度は崩壊しかけた討伐隊を立て直す時間を稼ぐだけでなく、タゲを引き受けるべき壁役の前衛重戦士がほとんど離脱してしまったために、討伐隊が息を吹き返した後も一人でその役目をボス撃破の瞬間まで担い続けたというのですからすごいです。

 それにこの人、《ヒースクリフにイエローなし》という格言が作られるくらい信じがたい実力の持ち主らしいです。なんでも今に至るまで血盟騎士団団長さんのHPが注意域(イエローゾーン)に陥ったところを見たことがある人はいないとか。攻略組が全滅しかねない戦場でもそれだけ余裕を保ち続けられるのですから信じられません。

 

 そしてもう一人が都市伝説もといソロプレイヤーである黒の剣士さんです。その人も討伐隊が半ば崩壊する中、血盟騎士団団長さんと同じく最後まで前衛に立ち続けたとのことでした。もちろんイエローゾーンを割らずにというわけにはいかず、最後は危険域(レッドゾーン)に瀕してなお戦い続けたと聞いています。正直、それを聞いてすごいと思うより先に怖いと感じたくらい……。

 フロアボス戦では注意域に陥っても転移結晶を使った即時撤退は可能ならば控えて、前衛と後衛の入れ替えによってなんとか回復時間を取ることで全体の戦力が半減しないように戦線復帰を目指すのだと聞きます。もちろん強制ではなく自己責任ではあるみたいですけど……。それでも、HPがイエローゾーンに陥るようならば転移結晶によってすぐに逃げることは推奨されているはずでした。というか義務付けられています。ですからレッドゾーンのHPでも構わず前線に立って戦い続けるというのは間違いなく普通じゃありません。周りの人も何故止めないのかと疑問に思いますし、このプレイヤーさん本人は死ぬことが恐ろしくないのでしょうか? あたしには到底理解できない戦い方です。

 それが、攻略組プレイヤーとあたしたち中層プレイヤーの意識の差、なのでしょうか? 攻略組の戦い方を聞く限り、そんなはずはないと思うのですけど。むしろ第50層で見せた黒の剣士さんの決死の戦いぶりは攻略組でも異色であるように見えます。

 

 けれどそんな命を投げ捨てるような危うい戦いぶりはあまり大きく取り沙汰されていません。むしろ意図的に無視されているんじゃと思ってしまうほど、その戦い方に疑問を向ける人はいないみたいです。それも仕方ないのかもしれませんね、なにせ黒の剣士さんが示したのはそんな無謀と紙一重な泥臭さではなく、鮮烈な新スキルのお目見えだったのですから。皆をなにより驚かせたのは、その黒の剣士さんが新発見のエクストラスキル《二刀流》を操って見せたことでした。

 右手と左手それぞれに片手直剣を一本ずつ装備できるようになるスキル。その効果は単純に攻撃の手数が倍になるだけではなく、二刀流に対応するソードスキルの威力が飛びぬけて高いらしく、防御を省みずにソードスキルを連発することで第50層フロアボスのHPを半分近く一人で削ってみせたとのことでした。偉業、と称すに相応しい活躍です。

 

 この二刀流スキル、一応エクストラスキル分類とされていますが、血盟騎士団団長さんの神聖剣と同様、ただ一人にしか発現されないユニークスキルなんじゃないかって言われています。《神聖剣》も《二刀流》もいまだに二人目の使い手が現れていません。

 このスキルの使い手――黒の剣士さんはとにかく神出鬼没で、情報屋の皆さんが追いかけてもなかなか捕まえられないそうです。だから普段から噂ばかりでプレイヤー本人の実態がほとんど聞こえてきません。ですがこの時ばかりは説明の必要性を感じたのか、情報屋でも名の知れた《鼠のアルゴ》さんが取材する形で二刀流スキルの存在がセンセーショナルに公表されました。

 それによると黒の剣士さんが二刀流を獲得したのは昨年の10月。ハーフポイントの戦いからおよそ一月前のことでした。

 第50層フロアボス攻略戦以前に二刀流スキルの存在が知られていなかったのは、スキル獲得フラグが定かでなく、スキルの全容も不明なのでとにかく熟練度上げとスキル詳細の解明を優先した結果だそうです。

 

 もう少し詳しく言うなら、50層フロアボス戦開始時点ではスキル獲得から時間が足らず、実戦に使うには経験に乏しかったことから従来の戦闘スタイルで挑んだとのことでした。下手に装備を変えて慣れないスタイルに変更すると生存率が落ちるために二刀流スキルを操ることに躊躇したらしいです。

 二刀流スキルを獲得してからしばらくは経験値効率を落としてスキル熟練度を上げることを優先し、碌に街に戻らず二刀を使うスタイルを慣らし続け、それに伴い最低限使える熟練度レベルを確保できたのがたまたま50層フロアボス戦直前だったに過ぎなかった、などなど。

 とにかくたくさんの理由が列挙されていました。……そもそも一月という短い期間でフロアボス戦に通用するくらいの熟練度を確保すること自体、あたしには信じ難いことだったりするのですけど。《黒の剣士は24時間休むことなく迷宮区で戦い続けている》という都市伝説まで信じてしまいそうです。いくらなんでも、とは思いますけどね。

 

 そんなわけで、別に二刀流スキルの存在を意識して隠していたつもりもなかったらしいです。ただ、元々神出鬼没と言われるくらい行動範囲が広く、はじまりの街から一貫してソロ活動だったために黒の剣士が二刀流スタイルで戦う場面が目撃されなかっただけだろう、とはアルゴ記者の追記でした。

 黒の剣士さんの常軌を逸した攻略熱意は割と噂で聞きますから、皆さんもアルゴさんの解説を読んでさもありなんと納得していました。なんといっても黒の剣士さんは迷宮区がホームとか冗談混じりに言われてるくらいですし。

 

 最強のギルドはと聞かれれば皆が血盟騎士団だと答えます。

 でも最強のプレイヤーは誰かと問われれば迷う人が大半。

 血盟騎士団団長さんの《神聖剣》。

 黒の剣士さんの《二刀流》。

 二人ともにアインクラッドで最高クラスのレベルを誇っていると予想され、どちらも非常に強力なスキル保持者でもありました。戦えばどちらが勝つのか、どちらがより最強の称号に相応しいのかという想像は、あたし達中層プレイヤーの多くが抱いている疑問であり、そして娯楽の種でもあったのです。所詮は雲の上の人達の話。でも、だからこそ話の種には最適な話題なのでした。

 

 《最強の剣士は誰だ!?》

 

 そんな見出しで始まる新聞記事にもう一度目を落として、思わず苦笑が漏れてしまいます。新聞の内容自体は噂話を主体にしたゴシップ記事がせいぜいのもので、個人的には硬い論調で事実と裏づけを重視するアルゴさん発行の新聞記事のほうが好きなのですけどね。ただ、アルゴさん名義の新聞は不定期発行で目にする機会も多くありません。

 だから普段はこんな毒にも薬にもならない、あえて言えば現実でのゴシップ週刊誌のような記事にも頻繁に目を通すのですけど、発行者が中層で生活するプレイヤーの新聞はとにかくエンターティナメント重視の姿勢で最近は食傷気味なのでした。

 でもまあ、それも含めて良くも悪くも中層階層の特色なのだと思います。

 最前線を戦う攻略組は常に緊張感に包まれ、毎日の迷宮攻略に忙しいと言うし、逆にはじまりの街を中心とした軍の影響が強い下層では、秩序を守るべき軍の横暴が目立ってとても生活しづらい環境だと聞きます。だったらそこそこに楽しく毎日を過ごせて生活にも心配がない中層での暮らしは悪くないのではないか、そんなふうに思いもします。

 攻略組の皆さんに危ないことを全部任せっきりというのも本当は良くないことなのでしょうけど……。

 

 

 

 それでも、ここには私の大切なお友達がいる。

 この子と一緒ならこれからも頑張っていけると心から思うことが出来る家族が。

 

 

 

 タン、と勢いよくキーボードを叩き、次いで大きく伸びをする。日記をつけるのもここまで、と意識を切り替えることにした。

 フリーのルポライターであるお父さんの面影を探して、こうして暇を見つけては何かしらの記録をつけるようになったのは何時のことだったろう。別に文章を書くことにこだわったわけじゃない。ただ、古いパソコンのキーボードを軽やかに叩くお父さんの背中を思い出して、気がつけばホロキーボードを呼び出していたことは覚えている。少しだけ気難しい顔をして、でも真剣な目で仕事に取り組むお父さんの姿を見るのがあたしは大好きだった。

 そのお父さんはこの世界にいなくて、昔は家族恋しさにすすり泣いた夜もあったけれど、それでもあたしはどうにかこうにか生きてきた。それもこれもこの世界で出会った小さな家族のおかげだ。

 

「頑張ろうね、ピナ」

 

 あたしに急に呼びかけられたピナ――小竜のフェザーリドラがわずかに首をかしげ、それから「きゅる?」と一声鳴いてあたしの肩に止まり、そのまま毛繕いを始めてしまった。その仕草が実家で飼っていた猫のピナを連想させて、思わず笑みが漏れてしまう。大丈夫、この子がいればあたしはこの残酷な世界でも前を向いていられる。モンスターとも怖がらずに戦える。

 《竜使い》シリカとその相棒のピナ。

 血盟騎士団の団長さんや副団長さん、顔も知らない黒の剣士さんほど有名人ではないけれど、それでも中層プレイヤーの間では割と知られた名前だ。決まったギルドやパーティーに入らずとも、たくさんの人たちに誘ってもらえるから狩りに出るときに困ることもない。その事実に密やかに自尊心を満たしながら、今日も一日頑張ろうと小さな手を握って気合を入れなおす。

 ピナがもう一声鳴く姿に頬を緩めながら、足取りも軽やかに宿を後にした。

 

 

 

 

 

 ――今日も外れか。

 第三十五層主街区ミーシェの転移門前で軽く息をつく。

 調査開始から数日。一向に進展がないことにそろそろ苛立ち始めていた。わざわざ中層階に下りてまで自分の手で解決してやると息巻いたまではよかったのだが、肝心の調査相手が何時まで経っても馬脚を表さない。やはりアルゴに任せたほうがよかったかと愚痴を漏らしそうになって慌ててこらえた。

 元々自分が請け負った依頼である。いくらアルゴの得意分野とはいえ、彼女に丸投げしてしまうのは余りに無責任なことだった。調査対象の仮宿を割り出してもらっただけでも十分すぎるのだし、これ以上甘えるわけにもいかない。

 

 なにより最悪の事態になった場合に戦闘を本分にしていないアルゴでは少々厄介なことになる。まあ本人曰くの逃げ足特化の領分が本領発揮されるだけかもしれないが、戦闘適正はアルゴより俺のほうがずっと上だ。そういう意味では俺が出ることが望ましい……のだが、どうも俺には捜査に対する忍耐力が些かならずとも不足していたらしい。進展のない現状に容易く苛立ちと焦りを抱えてしまう俺に刑事とか探偵は向いてない。

 加えて、今の俺は端から見れば最前線からも離れて寄り道している身であることも問題だ。早いところ片付けて戻らないと、またぞろヒースクリフあたりから帰還要請が出されかねない。いや、その前にアスナから文句と説教を貰いそうだ。既に何日か無駄にしているのだし、猶予は少ない。

 かと言って俺のほうから能動的に仕掛ける手段もない以上、現状維持に努めるしかないことに変わりはないわけだけど。

 どうしたものかと嘆きながら歩いていると、夜の帳が下り始めた街の一角で、肥満体の男と痩せぎすの男の二人組みが何やら深刻な様子で話し合っている姿が目に映る。はて、どこかで見たことがあるような二人組だ。いったいどこで見かけたのだったか。

 

「ロザリアさんの話だとシリカちゃん一人で迷いの森に残ったって……」

「やっぱり探しにいったほうが……」

 

 今日は調査を打ち切って攻略に戻るかどうかを考えながら通り過ぎようとして、途切れ途切れに聞こえてきた会話に気になるキャラクターネームが出てきたことで足を止めた。ロザリア? シリカ?

 ……どういうことだ。迷いの森はその性質上、プレイヤーの捕捉がひどく困難だ。もちろん捕捉さえできれば人目にもつかないというメリットはあるが、一度目を離せば見つけることも難しい。それ故、狙いは《竜使い》以外のパーティーメンバーだと踏んだわけだが……俺の失態か?

 違う。そんなことよりも今は優先させなきゃならないことがあるはずだ。思い悩むのはそれからでいい。

 

「ちょっといいか。聞きたいことがあるんだけど」

 

 見覚えはあるはずなのに思い出せない太っちょとのっぽの二人組に声をかけると、何故か二人は俺を見て驚愕に顔を引きつかせていた。……失礼な反応だな、そんなに驚かれるような顔か? 多少軟弱な女顔だがそれだけのはずだぞ。

 

「あ、あ、あんた、なんでこんなとこに……」

 

 なんだこの反応? この大袈裟な驚き方はもしかして俺のことを知ってるせいか。ああ、俺の悪名を知ってればそりゃあ驚くか。しかし彼らには悪いが、俺の色々込み入った事情の説明にただでさえ残り少ない時間を浪費する気もない。さっさと用件を済ませてしまおう。

 

「俺のことはとりあえず置いておいてくれ。で、もしかして今話してた、まだ帰ってきてないシリカっていうのは《竜使い》のシリカで間違いないか? 今日ロザリアと一緒に狩りに行っていたっていう?」

「あ、ああ、そのシリカちゃんで合ってるよ。それよりなんであんたがそんなことを?」

 

 疑惑の視線を向けてくる二人を右手で抑えるように話を打ち切る。ぞんざいな対応だが許してもらおう。それにそれだけ聞ければ十分だ。

 しかしまずいな。あれから結構な時間が経ってる。迷いの森に出現するモンスターはパワー型の物理主体で対処も難しくないが、竜使い一人だと多少てこずるかもしれない。それに加えて迷いの森の特性。文字通り迷って脱出できなくなったか? だとすればすでに死んでしまった可能性も高いが……。

 いや、それでも探すべきだろうな。あそこで保護しておけば何の問題もなかった。それを調査を優先したがために結果的に見捨てる形になってしまったのだから、彼女が今危険な目に遭っているのなら俺にも少なからず責任がある。

 不幸中の幸いだが迷いの森に関してはマップ情報も頭に入っているため、竜使いの足取りもある程度は効率的に追える。少し前のクリスマスイベントで背教者ニコラスの出現場所を割り出す過程でかなり走り回ったためだ、今から情報を収集する必要もない。生きてさえいればそう時を置かずに見つけ出すことができるはずだ。

 

 太っちょとのっぽの二人組を置き去りに一気に街を駆け抜け、辿り着いた迷いの森マップで索敵スキルを駆使し、刻一刻と高まる不安を押し殺して縦横無尽に走り回った。長時間同一マップに留まっていると、この迷いの森特有の位置情報かく乱を目的としたトラップに嵌ってしまう。竜使いが帰れなくなったのも慣れないソロとトラップに消耗したせいだろう。

 このマップに限っては転移結晶ですぐに街まで帰還という手段も使えない。結晶無効化空間ではないのだが、転移制限のトラップが森の大半を覆っているせいでランダムワープになってしまうのだ。緊急避難にはなるが、元々転移結晶は数が少なく幾つもストレージに常備しておけるものではないため、一時的な撤退のために結晶を使っていたらすぐに手持ちが切れてしまう。

 だからこそ、ここを狩り場にするプレイヤーは中層でも腕に自信のある戦い慣れた連中が主体だ。35層という中層にしては経験値やコルの効率も良いし、なにより希少な結晶類がドロップアイテムとして期待できる。それ故に危険を避ける中層プレイヤーでも例外的に人気の高い狩場の一つだった。逆に言えば、準備なしでは中層プレイヤーにとって鬼門になりえる場所でもある。

 

 どうにか間に合ってくれよ……。

 そんな俺の必死の願いは半分天に届き、ドランクエイプの集団に襲われていた竜使いの救出に間一髪間に合うことが出来た。

 そして届かなかった半分の願いのために、竜使いを竜使い足らしめていた小竜の使い魔モンスターがその身を散らして一枚の羽に変じていた。竜使いの手にする水色の大きな羽は、使い魔モンスターが死んだ時に残す形見アイテムの一種だ。

 巨大な類人猿のようなドランクエイプがその手に握る棍棒を振りかぶっても、竜使いはその場にうずくまったまま動こうとはしなかった。

 竜使いもモンスターに攻撃されようとしていたことに気づいていなかったはずがない。そのままなら使い魔モンスターのみならず自分自身の命を散らしたことも理解しているはずだ。それでも逃げることさえ忘れて小竜の死を嘆き、その形見の羽を抱いてうずくまり、大きな瞳を泣き濡らしていた。その光景はどれだけ彼女にとってその小竜――この世界にしか存在できないデータの集合体が大切な存在であったかを知らしめていたのだった。

 

「……ごめん、君だけしか助けられなかった」

 

 あの時、彼女に冠せられた《竜使い》の異名と、自ら袂を別った彼女の様子から、ソロになっても森を抜けて無事に街まで戻れる自信があるのだろうと楽観さえしなければ。

 調査を開始して以来ずっと大人しくしていた対象が、ついに動き出したのだとそちらを優先したりしなければ。

 今、目の前で悲嘆に暮れる女の子の涙はなかったはずなのだ。そのことに苦い思いが込みあがる。

 だからと言って彼女と一緒に落ち込んでいても仕方ない。

 漏れそうになるため息を押し殺し、改めて竜使いを見やると予想以上に小さな女の子だった。

 中学生どころか小学生と見紛うほど小柄な体躯。しかし二房に分けた髪型が生来の活発さを示すように似合っていた。装備は中層プレイヤーとしてはオーソドックスな敏捷タイプの軽レザーを着込み、手数と取り回しの良さに定評のある短剣が主武装だ。話に聞く《竜使い》の活動を考えるとレベルもそこそこなのだろう。少なくともパーティーさえ組めばこの癖のあるマップを恐れず狩場に選択できる程度には戦い慣れている。

 彼女は特定のギルドや固定パーティーに所属していなくとも十分生きていける強さを身に着けていた。しかし、それでも悲劇は誰にでも訪れるものだと俺はよく知っている。少しの油断、少しの驕りがすぐに死に直結してしまう。それがこのアインクラッドという世界だった。

 

「いいえ、いいえ――。あたしが悪かったんです。《竜使い》だなんて呼ばれていい気になって、よく考えもせずに仲間割れを起こしてしまったんです。そのせいで迷子になって、その挙句にピナを死なせちゃって……」

 

 ……強い子だ。ぽろぽろと涙を流しながらも気丈に振舞おうと自分を律している姿に、幼い見た目にそぐわない強靭な精神力の片鱗が見て取れる。湿った声ではあったが声量そのものはしっかりしていた。

 確かに彼女は思いあがっていたのだろうとは思う。アイテム分配で揉めた末にパーティーメンバーの口さがない挑発に簡単に乗せられて、自分の力量も省みずに危険な戦場で仲間に背を向けた。言うまでもなく褒められた行いではない。

 

 しかしそれは彼女に限ったことでもなかった。見た目からして子供だとわかるシリカを、よい大人であるロザリアが嫌味ったらしい口調で扱き下ろし、周りのメンバーはそんなロザリアを宥めることが出来ずに結果的には傍観しているだけだったのだから。いくら現実の年齢が重視されないアインクラッドであろうとあの態度はない、と顔を顰めたものだ。あの女、とことん悪役の似合いそうな嫌味の連発だった。

 シリカを不必要に煽った挑発はやつの目的のためにわざとやってると思ってたんだけどなあ……。単なる素の態度でしたとか、あの女、性格悪すぎないか?

 とはいえそんなことを詳らかに、しかも通りすがりの俺が言っても仕方あるまい。何の気休めにもならないし不審に思われるだけだ。

 

「お礼が遅れちゃいましたね、助けてくれてありがとうございます。あたしはシリカっていいます」

「俺はキリト、ソロプレイヤーをやってるキリトだ。好きに呼んでくれ。街に帰るまでの短い間だけどよろしく」

「……はい。重ね重ねご迷惑をおかけします」

 

 泣き腫らした目をこすりながらシリカが再度頭を下げる。その顔が憂いを帯びていたのは俺への迷惑を慮ったせいか。ソロで森を脱出できずにピンチを招いたシリカだ、ここから一人で無事脱出するのは難しいのだから俺がフォローする必要がある。街まで同行するという俺の言葉にシリカは申し訳なさ気に頭を下げ、意気消沈したまま項垂れた。……仕方ない。俺だって今のシリカを元気付ける方法なんて思い浮かばない。時間が心の傷を癒してくれると願って、後はシリカ自身を無事に街まで送り届けることくらいしか出来ない。

 それに使い魔モンスターが死んでしまったことはシリカにとって痛恨の出来事だったろうが、俺にとってはシリカだけでも生き残っていてくれたことは御の字とも言える結果だった。彼女らを良く知らない俺にしてみればどうしても人の命のほうが重くなってしまう。使い魔モンスターも死んでしまった以上はどうしようもないため、あとはシリカを安全圏まで送り届けてそこでさよならをすればいい。冷たいようだがそれ以上俺に出来ることはない。

 ……待てよ、使い魔モンスター? そういえばどこかで――。

 

「どうかしましたか?」

 

 歩き出そうとして急に考え込んだ俺の様子を訝ったシリカが、警戒感をわずかに滲ませながら疑問の声をあげた。モンスターに対する警戒、見知らぬ男性プレイヤーである俺に対する警戒、さて、今回の場合はどちらのほうが警戒度合いが強いのやら。

 そんなシリカの様子をひとまず脇に置いて、記憶の底を漁るように脳内を検索して情報を羅列させていく。

 ビーストテイマーの名称は通称であって正式なものではない。戦闘中に極低確率でアクティブモンスターがプレイヤーに興味を示すイベントが発生することがあり、その機に乗じて餌を投げ与えるなり飼い馴らし(ティミング)に成功したプレイヤーをビーストテイマーと呼ぶようになった。

 そうしてプレイヤーの無二の相棒となった使い魔モンスターは索敵を担当してくれたり、プレイヤーのHPを少量ながら回復してくれたりと非常に役立つわけだが、だからと言って不死存在ではないのだ。プレイヤーと同様にHPが設定されており、許容限度を超えるダメージを受ければ死んでしまう。そして、プレイヤーと同じく蘇生の手段はない……はずなんだが、どうにも引っかかるな。

 

 考え込む時間が長くなればその分だけシリカから寄せられる懐疑の視線も強くなる。俺に対する警戒が高まったせいか、ピナの形見である水色の羽をまるでお守りのように大事に胸へと抱え直したシリカの姿を眺めやって、そこでようやく思い出した。

 形見の羽。そう、確か羽――というか使い魔モンスターが死んでしまった時に残す心アイテムさえ無事なら、使い魔の蘇生が可能になるのだと小耳に挟んだことがある。それも割と最近の情報だったはずだ。俺には関係ないイベントだと右から左に流していたせいで今の状況とすぐに結びつかなかった。

 

「シリカ……もしかしたらだけど、ピナを生き返らせることが出来るかもしれない」

「え?」

 

 初め、何を言われたのか理解できなかったかのようにシリカは小首をかしげた。その仕草がやけに無防備で可愛らしく、現実の妹であるスグを思い出してしまったのは我ながらどうかしている。見た目も雰囲気もあまり似ていないのに妹とシリカを重ねてしまったのはなぜだろう。一年以上もこのゲーム世界に閉じ込められて、家族恋しさ、ホームシックにでもかかってしまったのだろうか。

 父さん、母さん、スグ。元気にやっているかな……。

 脳裏に懐かしい顔ぶれが浮かび、家族で夕食を囲む団欒まで想像が及んだところで、強く自戒するような気持ちで振り払った。今は家族の思い出に浸っている場合じゃない。

 

「ほ、ほんとうですか!? 嘘じゃないんですよね!?」

 

 俺の言葉を理解したシリカが掴みかからんばかりの勢いでまくし立てた。それだけ必死なのだろう。ピナ蘇生の可能性に、打ちひしがれていたシリカの身体に活力が一気に戻ったようだった。

 

「ああ。その心アイテムと使い魔蘇生アイテムがあればピナを生き返らせることが出来るはずだ。蘇生アイテムの名前は確か《プネウマの花》だったかな? 俺には縁のないアイテムだからすっかり忘れてた。ごめん」

「いえ、キリトさんは悪くありませんし。それより、そのプネウマの花はどこに行けば手に入れることができるか教えてください!」

「えっと、俺の記憶が正しければ第47層の南にあるフィールドダンジョンで、思い出の丘って場所だったと思う。そこのてっぺんにある岩をビーストテイマーが訪ねると《プネウマの花が咲く》って話だったはずだ」

 

 思いがけないシリカの剣幕に思わず口ごもってしまったが、内容そのものは合ってるよな? 学校のテストで覚え間違いをしているのなら点数が引かれるだけで済むが、ここはアインクラッドで、しかもかかっているのは人ではないが命そのもの。記憶間違いだったら洒落にならない。

 

「47層……ですか」

 

 そこでシリカは萎れるように肩を落としてしまった。まあそうなるか。今いる階層よりも10層以上も上のフィールドなのだ。物量とトラップに翻弄されたとは言え、30階層レベルのフィールドで苦戦していたシリカではとても行ける場所ではない。ソロでは間違いなく無理だし、かと言って彼女が懇意にしているような中層を根城にするプレイヤーのレベルではいくらパーティーを組んでも47層を攻略するのは難しい。なにより、そんなレベルに見合わない危険な場所に着いてきてくれる人の良いプレイヤーがどれだけいることか。

 シリカ自身が足手まといになるのはわかりきっているのだから、確実を期すのなら47層よりよほど上で活動しているプレイヤー、つまり最前線で戦う攻略組か準攻略組レベルの実力あるプレイヤーを護衛に引っ張ってくる必要がある。

 

「すぐに行くのはとても無理ですね……。う、ううん、ピナを生き返らせることが出来るとわかったんだもん! 今は無理でもいつかは!」

 

 それはまるで自分自身に言い聞かせているような言葉だった。シリカの発言は間違っていない。今のレベルでは無理なだけで、将来に渡って無理などということはないのだから。着実にレベルを上げ、装備を整え、仲間を募って攻略に挑む。それが出切れば最善なのだ。ただ、今回の場合はその手が使えない。

 

「その……シリカ、言いづらいんだけど、使い魔モンスターを蘇生させることが出来るのは死んでから三日以内なんだ。それ以上時間が経つと形見アイテムが変化してプネウマの花でも蘇生は不可能になる」

「そんな……」

 

 今にも地にへたりこんでしまいそうな青ざめた表情でシリカが呻いた。

 どれだけ効率的なレベリングをしようが一日や二日で10や20もレベルを上げられるはずがない。35層でパーティーを組んで狩りをし、ソロで脱出に難航していたところを見ると、シリカのレベルは安全マージンを踏まえて40そこそこ、高くても45に届くかどうかというところか? ソロで47層を攻略するにはレベルが心許ないし、そもそもソロでの戦い方が身についているかどうか。加えて、情報不足のマップに挑むのなら10程度のマージンは確保したいところだ。今のシリカではまず目的地まで辿り着けないだろう。

 シリカに俺やヒースクリフ並の戦闘技術があればその程度のレベルハンデを覆して無理も通せるのだろうが、そんな無茶を通せるプレイヤースキルの持ち主なら、そもそも今日のシリカの苦戦はない。ピナを失うこと自体なかったはずだ。

 

「プネウマの花を入手するイベントトリガーにはビーストテイマーが必須だから、もし俺がビーストテイマーなら経費と幾らかの報酬だけで依頼を受けてもいいんだが……」

 

 そんなわけにもいかないのである。俺一人なら何の障害もなく《プネウマの花》の咲く岩まで辿り着けるが、肝心の花が咲いてくれない。どうしたってビーストテイマーであるシリカ自身がその場に辿り着かなければならないわけだ。

 上手くいかない。自然とため息が漏れた。

 

「絶対に死なない保障なんて出来ないし、場合によっては強制的に帰らせるけど、それでも良ければプネウマの花を取りに行ってみるか? 今日はもう遅いから明日にでも」

「え? ……それって、キリトさんが連れていってくれるってことですか?」

「シリカに攻略組クラスの高レベルプレイヤーに当てがあるのなら別だけど、そうじゃないなら手伝うよってことだな。協力してくれそうなプレイヤーに心当たりはあるか?」

「い、いえ。そんな強いプレイヤーの知り合いはいませんけど」

 

 目をぱちぱちと開いたり閉じたり。

 

「シリカの正確なレベルがわからないから断言は出来ないけど、いくら47層って言っても最前線であるわけでもなし。迷宮区に潜るわけでもなし。シリカ一人を連れて歩くくらいならどうとでもなる、と思う。足りない戦力は装備で嵩上げをすればいいさ」

 

 勿論言うほど簡単なわけじゃない。

 常に神経を張り詰めさせてシリカの安全に気を配る必要があるだろうし、費やす労力の割に俺にとっては大した益もない。ただ、負担がかかるのはあくまで俺であってシリカではないのだ。問題ないだろう。

 

「その、手伝ってくれるっていうのは嬉しいんですけど。あの、そのぅですね、どうしてあたしにそんなに優しくしてくれるんですか?」

 

 気づけば猜疑心と警戒心に溢れた少女の瞳に射抜かれていた。ああ、そりゃそうか。今日会ったばかりの見知らぬ男性プレイヤーからいきなり親切心を安売りされたら疑念の一つ二つ持つだろう。《美味い話には裏を疑え》というやつだ。それが出来なければ自分の身を守ることもおぼつかない。シリカの懸念は当然のものだった。ましてシリカは数少ない女性プレイヤーであり、《竜使い》として名を馳せている有名プレイヤーでもある。身の危険を感じてもなんら不思議はないだろう。

 

「迷惑だったかな?」

「いえ! キリトさんの申し出はとても嬉しいんですけど。でもでも、キリトさんがそこまでしてくれる理由がわからなくて。だからあたし、どう答えればいいのかわからなくて」

 

 この聞き方はちょっとずるいかな、と思ったが案の定というか、いい感じに混乱しているようだ。

 根が素直で人を疑えない良い子なのだろう。とても心苦しそうな様子で、それでも簡単に信じるわけにはいかない葛藤に苦しんでいる様がありありとわかる。年齢以上に小柄なプレイヤーの知り合いにアルゴがいるが、あいつはこういう純真さとは無縁である。むしろこの子の世間ずれのなさはサチに近いだろう。

 ここで「君に惚れたから」とでも言えれば俺も立派なプレイボーイになれるのかもしれない――何を思ってアルゴが俺にそんな台詞を望んだのかは知らないが。あいつもいい加減俺にそういう機微を期待するのは無駄だと悟ってくれないものか。というか、面白半分に妙な心得を叩き込まないでほしいんだけどな、それはもう切実に。

 

「あー、怒らないで聞いてくれよ」

「はい?」

「そのな、俺、シリカが仲間割れする現場を見てるんだよ。で、一人になったシリカを無視して自分の用事を優先させて街に戻ったわけだ。その後、君がまだ戻ってないって聞いてさ、嫌な予感がして探しに来たんだ。だからシリカの手伝いをするのは償いというか気後れというか。プネウマの花を手に入れるくらいなら大した手間にもならないからいいかなって思ってさ」

 

 恐る恐るシリカの顔色を伺うように告げたのだが、シリカはと言うと顔を真っ赤に染め上げていた。あれ、何かまずいことを言ったか?

 

「わ、忘れてください……! あの時のあたし、今思い出すとすごい嫌な女の子なんです。だから、その……」

 

 どうも羞恥に縮こまっていたらしい。自分の子供っぽい癇癪に色々と思うところがあるのだろうか。売り言葉に買い言葉という事情もあるし、俺としてはシリカより言い争っていたロザリアの嫌みったらしい口調のほうがよほど嫌な女に感じたものだけど。当事者には当事者なりの葛藤ってやつがあるのかもしれない。

 それにしてもこの空気、どうしたものか。

 

「シリカ、プネウマの花のことはともかく、ひとまず街に戻ろう。いつまでもここにいるのは無用心だ」

 

 とりあえず全部後回しにすることにした。何にせよ俺にもシリカにも落ち着いて話せる環境が必要なはずだ、そうに違いない。

 

「あ、そ、そうですね。あたし、多分足手まといになっちゃいますけど、よろしくお願いします」

「そう心配しなくても、モンスターに遭遇したりはしないと思うから安心してくれていいよ」

 

 俺の索敵スキルは既に完全習得(コンプリート)されてるし。

 仮に俺の索敵スキルを抜けてきたモンスターがいようが、この程度の階層に出てくるモンスターなら一撃で葬れる程度の相手なんだから。

 

 

 

 

 

「ここのチーズケーキはあたしのお気に入りなんですよ」

 

 シリカがホームにしているのは第8層のフリーベンらしいのだが、今いるのは35層主街区ミーシェに数ある宿屋の一つだった。名は風見鶏亭。シリカが臨時に借り上げている宿の食堂で、俺とシリカは向かい合って座っている。

 あれからすぐに迷いの森を抜けた俺達は、シリカの案内でひとまずこの宿に腰を落ち着けることに決めたのだった。

 その間、何もなかったわけじゃない。

 迷いの森を抜ける一番単純な方法は、マップトラップに引っかかる前に高速で走りぬけてしまうことにあるから、俺は索敵スキルを全開にしながらモンスターとの遭遇を可能な限り避けるルートで走り続けた。一応加減はしたとは言え、シリカが着いて来れるかどうかは不安だったのだが俺の心配は杞憂だったらしい。シリカは見事な俊敏性を見せて俺の後をぴたりとついてきた。猫のように軽やかな身のこなしには感嘆したものだ。

 

 問題は迷いの森を抜けて主街区に到着した後だった。シリカが喧嘩別れしたパーティーとばったり鉢合わせしたのだ。

 赤い髪を派手にカールさせた女槍使い――ロザリアが早速シリカに絡み、めざとくピナの姿がないことに気づくとその死亡の事実を餌にシリカを甚振るように揶揄し始めた。シリカも最初は黙って耐えていたのだが、やがて我慢しきれなくなったのだろう、ロザリアの悪意を押しのけるようにピナは絶対に蘇生させるのだと声高に宣言してみせた。

 その際、ロザリアは第47層思い出の丘に同道する俺を品定めをするように見やると、薄い笑みを浮かべて悪役としか思えない捨て台詞を残して立ち去っていった。まさしく小悪党の見本そのものである。あれがロザリアの素なのかロールプレイなのかはわからないが、他人の神経をささくれ立たせる才能があることは確かだろうと思った。進んでお友達にはなりたくないタイプだ。

 

 シリカ救出の立役者である太っちょとのっぽの二人組にも再会した。彼らがシリカを心配していたのは本心からのものだったらしく、口々にシリカの身を慮っていた。それからシリカに今度パーティーを組もうと提案していたが、ピナ蘇生のために思い出の丘に向かうシリカが頷けるはずもない。

 それにピナの死を口に出すのも躊躇われたのだろう、俺の腕を取って「この人と今度パーティーを組むことになったからごめんなさい」と少々強引に断った。ちなみにパーティーを組んだことにか、それとも腕を組んだことにかわからないが、二人組にはすごい目で睨まれた。そこまでされるほどのことだろうか?

 

 とはいえ、この二人が契機となってシリカを救出できたことには変わりないので、情報料と称して幾ばくかの謝礼は払っておいた。シリカも彼らのおかげで俺が間に合ったのだと知ると慌てて頭を下げて礼を述べていたし、恐縮したように何度も頭を下げるシリカに逆に面食らっていた様子だったな。去り際の彼らの目が点だったよ。

 何と言うかロザリアの態度に比べてずっと朴訥な性格の二人組に妙に和んだ。やっぱり睨まれるよりはこっちのほうがずっと良い。

 

「チーズケーキか。珍しく現実世界と同じ名前で同じ味なんだな」

「キリトさん、変なところで感心するんですね」

 

 しみじみ呟いた俺が可笑しかったのか、シリカはくすくすと屈託ない笑みを浮かべていた。

 陰を感じさせないシリカの様子に内心でほっと息を吐く。思ったより元気そうだと安心を覚えながらシリカお勧めのチーズケーキを口に運んだ。

 確かに美味しかった。攻略優先の生活をしていると、こうしてゆっくり食事を取るような機会に中々恵まれないため、美味しさも一入である。というか、前回安全圏でまともに食事を取ったのは何時だったろう。食事なんて大抵屋台の買い食いか携帯食料で済ませていたから、NPC提供の料理と言えどまともなものを食べるのはかなり久しぶりな気がする。……なるほど、アスナにだって心配されるはずだ。

 そんな情けない回想もとりあえずどこか遠くに放り投げておいて、夕食のシチューとパンを食べ終えた後、デザートにチーズケーキをつつきながらシリカと迷いの森で交わした会話の続きを始めた。俺の食事事情よりも今はシリカの問題のほうがずっと切実だ。

 

「それでシリカ、さっき威勢よく啖呵切ってたわけだけど、《プネウマの花》を取りに行くのに護衛は要るかな? 今なら出血大サービスのお試しボランティア期間開催中」

「あうぅ、その、よろしくお願いします。……キリトさん意地悪です」

 

 笑いを噛み殺しながら聞いてみると、シリカは身の置き所がないというように小さくなってしまった。非常に感情豊かで可愛らしい。そんなシリカを微笑ましく眺めながらこほんと咳払いを一つ。ここからは冗談抜きだ。

 

「俺のことを簡単に信じられないっていうのはよくわかる。俺が君の立場ならやっぱり信じられないと思うしな。それでも明日は俺の指示に従ってもらうし、勝手に行動させるわけにもいかない。それができないなら危なすぎて連れて行くわけにもいかないんだ。約束してもらえるか?」

 

 じっとシリカの目を見ながら告げる。いくら47層がレベル的に問題ないエリアでフォローが可能とは言っても、それはシリカが俺に協力してくれる場合に限られる。勝手な判断で好きに動かれてはそれこそフォローが間に合わなくなりかねない。その結果死ぬのは俺ではなくシリカである。そんなことになるくらいなら俺はシリカにピナを諦めさせるほうを選ぶ。

 そんな俺の覚悟を見てとったのか、俺から一度も目をそらすことなくシリカはこくりと頷いた。

 

「はい。明日はキリトさんの指示に従います。絶対に勝手な行動を取ったりはしません。だからお願いです。絶対、絶対ピナを生き返らせてください。そのためならあたし、なんでもしますから」

「ピナを生き返らせるのはシリカ自身がやることだよ。俺が出来るのはあくまでシリカを《プネウマの花》の元まで連れて行くだけだ。大丈夫、シリカが俺に協力してくれるなら、俺は絶対に君を無事に辿り着かせてみせるから」

「はい!」

 

 力強い返事を返すシリカに一安心だ。この分なら明日の攻略も問題ないだろう。問題があるとすれば別件の動きについてだけど……まあ明日一日くらいなら問題ないと思っておこう。それにあわよくば一網打尽に出来るチャンスが転がり込んでくるかもしれない。

 

「あ、でもですね」

「ん?」

「あたし、キリトさんのこと信じてますよ? だってキリトさん、見ず知らずのあたしのことを心配して助けに来てくれたんですから。だからキリトさんは良い人です!」

 

 満面の笑みで断言するシリカに思わず呆気に取られてしまう。いっそ天真爛漫に俺を信じられるのだと告げるシリカに二の句が告げられなかった。これほど真っ直ぐに好意を向けられることなどそうはない。

 

「その、ありがとう」

 

 なんと答えればいいのかわからなくなって、結局口から出たのはそんなありきたりの一文だった。しかも気恥ずかしさに目はあちこちを泳いでいて、シリカの顔ををまともに見られない。意味もなく鼻の頭を掻くのは動揺している証だった。

 

「シリカを手伝う理由が増えたな」

 

 しみじみと思う。

 

「理由、ですか?」

「ああ、シリカを見てると向こうの世界の妹を思い出してさ。なんだか見過ごせない気分になってくるんだ」

「妹さん、ですか……。もしかしてあたしに似てるんですか?」

「いや、見た目も雰囲気も結構違うよ」

 

 見た目で言えばサチを幼くして活発にした感じだし、性格ならアスナみたいな凜とした勝気さが目立つ妹だ。まぁ多少内向的なところもあったし、今も当時の印象がそのままということはないだろうけど。

 スグのやつ、今も剣道を続けてるのかな。もうこの世界に来て一年以上経つ。俺のせいで塞ぎこんでいなければいいけど――違うか、不甲斐ない兄と違って出来た妹だ、兄が昏睡状態で塞ぎこまないわけがない。俺に出来るのはスグがショックから立ち直って元気に剣道やってるよう祈ることくらいだな。

 

「それじゃ、仲良かったんですか?」

「昔は良かったんだけど、ここにくる前にちょっと色々あってね。ぎくしゃくしてたかな」

「……ごめんなさい。気軽に聞いていいようなことじゃないですよね、それ」

「シリカが謝ることじゃないよ。俺から話したんだから」

 

 やっぱりホームシックかな。こっちに順応してきた分、あっちのことをどんどん遠い世界のことだと思い出さなくなった反動だ。一度思い出してしまうと途端に会いたくなってしまう。

 切なさの込み上げる胸に無理やり蓋をした。今は家族を懐かしむときじゃない。

 

「じゃあ、どうしてですか?」

 

 シリカにしてみれば不思議だろう。シリカに似てもいなければ仲もよくなかったという俺の妹。そんな妹に自分を重ねて放っておけないと言われたのだ。にわかに納得できるものでもない。

 

「……代償行為なのかもしれない。妹と距離を取ったのは俺からだし、妹に非なんてまるでなかったんだ。あいつにしてみれば、ある日いきなり仲のよかった兄貴と疎遠になったんだから、さぞかし迷惑なことだったんだろうな」

 

 当時の自分の行動がどれだけひどいものだったのかを今更ながらに思い知らされる。スグには何の落ち度もなかった。ただ俺が《父さんと母さんの子供じゃない》《スグとも兄妹じゃない》という現実を受け入れられなくて逃げただけだ。事情も知ってる上に大人だった父さんと母さんなら俺の混乱を察してもくれただろうけど、何も知らない、しかも俺より年少のスグにそんな機微がわかるはずがない。そしてスグと疎遠になったままこんなところに来てしまった。昏睡を続ける俺の身体をスグや父さん、母さんはどんな思いで見つめ続けているのだろう。

 本当、嫌になる。一体どれだけ周りに迷惑をかければ気が済むんだろうな、俺は。

 

「多分、仲直りもできずにこんなところにきたせいだよ。妹の代わりにシリカの願いを叶えることで勝手に償いにしようとしてるんだ。ごめんな、シリカには何の関係もないことなのに」

 

 シリカにもスグにも失礼な話である。しかし理屈の上ではそうなのだが、問題は感情面なので理屈のままに割り切るというのも難しい。

 それからしばらくは俺とシリカの間に会話はなかった。ぼんやりとした頭に過ぎるのは思い出すまいと決めた家族の顔ばかりで、わけもなく泣きたい気分に襲われてしまう。

 不思議な夜だ。こんなこと今まで誰にも話したことがなかった。アルゴにも、クラインにも、アスナにも、サチにも。なのに今日、初めて言葉を交わす年下であろう女の子にいきなりこんなことを話している。ありえないことだった。

 もしかして俺の精神は自覚がないだけで相当追い詰められているんじゃなかろうか。

 

 不意に思い浮かんだそれがやけに生々しく思えてしまう。思い当たる節があるだけに一笑に付すというわけにもいかなかった。

 思えば俺が中層に降りるという判断を下したこと自体、本来ならおかしいことではないか? 情に流されたにしたって、アルゴを介して適当なプレイヤーを紹介するという手だってあったはずだ。幾つもあった選択肢を碌に考慮せずにこんなことをしているのだから、俺の軽はずみな選択を謗られたって仕方ないことだと今更ながらに落ち込んでしまう。

 

「キリトさん」

 

 思考の袋小路に陥ろうとしていた俺を現実に戻したのは、じっと何かを考え込んでいたシリカから差しだされた小さな手の感触だった。小さく細い指がそっと俺の右手に重ねられ、優しく包み込まれた温もりがひどくこそばゆい。

 

「キリトさんはあたしを助けてくれました。明日もピナとあたしを助けてもらうんです。だからもしあたしなんかが少しでも力になれるなら、それこそ誰かの代わりでもキリトさんの助けになれるなら、それはとても嬉しいなって思うんです。……大丈夫ですよ。きっと妹さんは怒ってませんし、仲直りもできます」

 

 この世界から生きて帰れますよ、とシリカは言外に告げていた。恐らくそこまで考えて口に出した言葉ではあるまい。ただ気落ちしている俺を慰めようと口にしただけだろう。それでも今の俺には有り難かった。

 

「仲直りか。出来るかな」

「はい、きっとできますよ。だってキリトさん、とっても優しいですもん。妹さんもきっとキリトさんのことが好きに違いありません。あたしが保障します」

 

 大真面目にそんなことを言い出したシリカ。

 やがて俺とシリカはどちらからともなく笑い出した。暗鬱に暮れる未来も過酷な戦いの日々も、今は全て忘れて笑うことができた。多分こんな夜に、明日はきっと良い日がくるのだと信じることが出来るのだろう。

 胸に去来した寂寥の思いはいつの間にか消えていた。

 

 

 

 

 

 シリカの部屋の前に立ち、トントン、と軽く扉をノックすること二回。

 マナー云々ではなく、こうしないと部屋の中にいるプレイヤーへの呼びかけが届かない。ドアに隔てられた宿屋の個室は完全防音のために音声が遮断されてしまうのだった。決められた手順でノックをすることで一時的にシステム障壁が解除され、30秒間双方向での会話が可能になるわけだ。

 

「シリカ、そろそろいいかな?」

「はーい、いま開けまーす」

 

 間延びした声が聞こえてほどなく、シリカの部屋の扉が開いた。

 

「じゃーん。どうですか、キリトさん」

「へえ、似合ってるじゃないか。可愛いよ」

「えへへ。ありがとうございます、キリトさん」

 

 扉の前で手を広げたシリカは部屋着ではなく、完全武装の旅支度だった。これから就寝の時間だということを考えればひどく場違いのものに違いない。さらに言えば昼間シリカが身に着けていた装備群でもなかった。今のシリカの装いは防具の上下一式のみならず、腰に差された短剣すら新調されていたのだった。そしてその全てが以前の装備よりも高性能品である。

 銀色の胸部装甲に十字をあしらった赤色の鮮やかなブレザーとライトアーマー、クラシックな黒のブーツ。腰に提げたダガーの刀身も黒だ。

 

 ちなみに俺がシリカに向けた《似合ってる》とか《可愛い》は社交辞令でも本心でも好きなようにとってくれて構わない。問題はシリカのステータス値で装備が可能かどうか、戦闘スタイルに合うかどうかなのだから。

 いや、文句なしに可愛いことに違いはないのだが、そういうことにしておかないと少々まずい。高ステータスで非常に有用な装備群なのだが、女性用装備らしくビジュアル面がいかにも華やかなのだ。具体的にはミニスカートとか。

 ……俺、シリカに女性用装備を持ち歩いてる変態とか思われてないよな? もしそんなことになってたら軽く死にたくなるんだけど。

 

「よし、問題なく装備できてるな」

「はい。筋力数値ぎりぎりで危なかったのもありますけど。でも本当にもらっちゃってよかったんですか? 売れば一財産になりそうな装備ですけど」

「否定はしないけど、コルをけちってシリカの命を失ったなんてことになったら本末転倒だからな、気にしないでくれ。それとドロップ品ばかりでほとんど強化されてない。できれば限界まで強化しておきたいくらいなんだが、流石にそこまでするには素材も時間も足りないしな。明日の攻略に間に合わなくなるから今はそれで我慢してくれ。強化は後日シリカ自身でやってもらうということで」

 

 前回アイテム整理してから大分経つ。そろそろ整理する必要を感じていたのだ。そんな事情で俺のアイテムストレージには不要な装備がてんこもりになっていたのだが、そのおかげでシリカの装備を問題なく整えられたのだから何が幸いするかわかったものではない。そうでなければ明日一日はシリカの装備品確保に走り回るところだった。

 

「とんでもないです! 素の数値でもあたしが今まで使ってた装備よりずっと強いですよ、しかも全部。ダガーにアーマー、ブレザーにブーツ、ベルトまで。これ、もしかして全部レアアイテムなんじゃないですか? やっぱり明日お借りするだけにしたほうが……」

「だから気にしなくていいって。そもそも俺、自分の使うアイテム以外は捨て値で売っぱらってるくらいなんだから。気にしない気にしない」

 

 本当のことだ。ただでさえ一日中最前線でモンスターを狩る生活をしている上に、コルも常時三倍獲得できるスキル持ちなので基本金に困ったことはない。というか消耗品や装備強化以外に使い道がほとんどないのだ。武器や防具の多くはボスドロップ品で固めているような状態だから、流通する品をプレイヤーから購入するような機会なんてほとんどない。値の張るプレイヤーメイドの装備は伝手がないせいで利用していないのが現状だし。今のところ数値的な意味でボスドロップ品のほうが優秀という事情もあるけど。

 それ以外には時間さえあれば食道楽でもしたいと思うこともあるのだが、生憎その時間もない。よって使い道のないコルは膨れ上がるばかりだった。

 そういった俺の事情を知らないシリカは納得いかないというか、恐縮しきりの様子だった。そんな真面目な女の子の姿に苦笑しながら、まずは着席するよう促す。

 室内に特に目を引くようなものはない。多少の内装の差はあれ、見慣れた宿の一室だった。高級な宿というわけではないのだからこんなものだろう。

 いくら宿の一室とはいえ、女性の泊まっている部屋をまじまじと見ているのも具合が悪い。さっさと話を進めてしまおう。そう考えて右手を振り下ろし、開いたメニューからアイテムインベントリを呼び出すと、木製のテーブルの上に飲み物カテゴリーのアイテムをオブジェクト化した。現れたのはマグカップに注がれた真っ赤な液体だ。湯気を立てたそれをシリカの前に押し出す。

 

「シリカ、それ飲んでくれるかな。大丈夫、変な飲み物じゃないから」

「そこは心配してませんけど」

 

 それでも見慣れぬ飲み物を口にするのは勇気がいるのか、恐々とマグカップに満ちた液体をじっと見つめ、ゆっくりと口をつけた。

 

「あ、美味しい」

「葡萄ジュースベースの味にホットワイン風味の香りってことらしい。俺は本物のワインを飲んだことないから人から聞いた話だけどな。ちなみに俺も結構好みの味だった」

 

 んくんく、と可愛らしく喉を嚥下させるシリカになんとなく微笑ましい気分になり、目を細めて見守った。量そのものはたいしたことはない。すぐに飲み終え、ご馳走様でしたと行儀よく告げるシリカだ。

 

「それでキリトさん、この飲み物は?」

「それな、一カップ飲むだけで敏捷最大値が1上がるレアな飲み物なんだよ。《ルビー・イコール》って言うんだけど。都合よく手元にあったから、ついでとばかりにシリカに飲んでもらうことにした」

「つ、ついでって……。あの、キリトさん? そんな嬉しそうに言われても反応に困るんですけど」

 

 引きつったような顔のシリカに期待通りのリアクションだと内心喜ぶ俺。

 

「あたし、今までそんな便利なアイテムがあるなんて知りませんでしたよ? とっても貴重なものなんでしょうし、キリトさんご自身が飲むべきだったんじゃ?」

「ところがそれ、使用制限回数があって俺にはもう使えないんだよ。だからシリカにおすそ分け。結構美味かったろ?」

「おすそ分けって……。うぅ、キリトさぁ~ん」

 

 惜しげもなく投入されるレアアイテムの嵐についにシリカに泣きが入ってしまった。まあ無料より怖いものはないっていうしな。一応俺がシリカに協力する理由に納得したとはいえ、それとこれとは別なのだろう。素直に受け取っておけばいいのに、どうしても高価な品を無償でプレゼントされることに抵抗があるらしい。真面目なことだ。

 俺としてはそれくらいシリカに感謝しているんだけどな。もっとも感謝などなくてもシリカの安全のために装備品のプレゼントくらいはしていただろうけど。言葉は悪いが在庫整理みたいなものだったし。

 

「シリカがどれだけ遠慮しても返品は受け付けてないからあしからず。と、まあ冗談はともかく。俺は一度護衛を引き受けた以上、シリカを必ず無事にプネウマの花が咲く場所まで連れて行くつもりだ。そりゃさっきの飲み物は悪ノリの結果だけどな、装備品に関しては絶対に必要なものだ。今のシリカのレベルで装備できる中では最高レベル一歩手前のものだから、それだけで5レベルくらいのハンデは覆せる。もちろん俺もフォローするし、最悪の場合はモンスターは全部俺が処理する。それでもシリカのレベルで47層はやっぱり危険なんだ。想定外の出来事を見据えた最低限の備えだと思ってくれて構わない」

「……はい」

 

 神妙に頷くシリカに俺も頷き返す。と言っても、口で言うほど危険があるとは思っちゃいない。こうして脅し上げておいたほうが慎重になるだろうから言っているに過ぎなかった。最悪の場合も何も、47層程度のモンスターならシリカに近づかれる前に俺が全部狩りつくすことだって出来るのだ。だからシリカが危険な目に遭うような事態にはまずならない。もちろん油断なんて絶対にする気はないけど。

 ……黒猫団のときのような過ちは二度と御免だった。

 まあ俺の言ってることはあくまで装備の新調に関してで、貸し出しでなくプレゼントでなければいけない理由なんてどこにもないんだけどな。無駄に引き締めた雰囲気に流されたシリカはなんとなく納得してしまっていた。ふふん、狙い通り。

 

「素直でよろしい。そんな素直なシリカに一つ俺の秘密を教えてあげよう。実は俺、未公表のエクストラスキル保持者なんだ。スキル名は《宝石鉱山(ジェムストーンマイン)》って言ってな。効果はレアドロップ確率を通常の五倍に引き上げること。シリカに渡したアイテムなんて俺にとっては珍しいものじゃないんだな、これが。そういうわけで装備を返してもらう必要もないってこと、理解してもらえると嬉しい」

 

 正確には宝石鉱山獲得クエストの成功条件らしきものは匿名で公表してあるんだけど、伝え聞く限り二人目以降の成功者が出てきてないんだよな。俺のオレンジ解消直後に街でクエストを成功させたときとは条件でも変わったのか、それとも未だ明らかになっていないフラグでもあるのか。所持コル全額寄付以外に何か条件でもあったのだろうか、あのクエスト?

 

「あはは。はい、わかりました。それじゃキリトさんの好意は有り難くいただいておきますね」

 

 そんな俺の真面目くさった講釈に冗句の類だと判断したのか、シリカの返事は苦笑混じりのものだった。しかしムキになって信じさせようとするのもなんだかな、と思うわけで。納得してもらえたならそれでいいかと流すことにした。

 ……スキルに関しては本当のことなのになぁ。

 冗談で流されたことに一抹の寂しさをおぼえたその時――。

 

「誰だ!」

 

 鋭く声を張り上げて荒々しくドアを開き、すぐさま廊下へと視線を巡らせる。妙な感覚が知覚センサーに走ったことを認識したときには身体は動き出していた。開いたドアから左右を念入りに確かめるまでもなく、廊下の突き当たり、一階に通じる階段を慌しく駆け下りていく人影が確認できた。

 追うか、と一瞬考えてすぐに諦める。どうせ捕まえるなら下っ端ではなくリーダーにしなければ意味がない。潰すなら手足よりも頭である。それにシリカを放っておいて万が一があっても困る。

 

 迷いの森にいたときはシリカはターゲット候補に過ぎなかったのだろうが、俺と接触したことで完全に標的にされてしまったらしい。となると、狙いは《プネウマの花》か。確かに希少品だし高額でさばけるだろう。市場に全く出回ってないせいでプネウマの花の適正相場など誰もわからないのだ。足元を見れば幾らでも値を吊り上げられる。

 値段はともかく、俺だって市場にプネウマの花が出回っていればわざわざ思い出の丘を訪ねようなどとは思わなかった。今のところ入手経路が直接取りにいくことしかないのだ。

 そしてビーストテイマーの数が少ないとは言っても、ビーストテイマーにとって使い魔モンスターは絶対に裏切られることのない至上の相棒だ。万一に備えて蘇生手段を確保しておきたいと望むことは間違いない。流通のほとんどない今ならそれこそ一攫千金も狙えるアイテムなのである。

 

「キリトさん、もしかして盗み聞き(ピーピング)ですか?」

「ああ、その手のスキルを上げてるやつは少ないはずなんだけどな」

 

 通常、システム障壁を隔てた部屋内部の音を聞き取る手段はない。それをするためには俺がしたようにシステムが保護した機能の一部をノックによって解除しなければならないのだが、そんなことをすれば部屋にいるプレイヤーに来客を知らせる合図となり、盗み聞きなど出来るはずがない。

 その例外が探索系スキルの一群に存在する聞き耳スキルなのは割と広く知られている。本来は迷宮区探索に利用する補助スキルだし正式名称もしっかりあるのだが、もはや通称である盗み聞き(ピーピング)で固定されてしまった感がある。覗き見を意味する言葉の誤用だが、まあ通称なんてそんなものだろう。スキルそのものは真面目に使えばそれなりに有効な攻略補助スキルのはずなんだけど、もっぱら犯罪御用達のスキルになってしまっていて頭が痛い。

 とはいえ今回はすぐに気づいて追い散らせたはずだから、俺達の会話はほとんど聞かれていないはずだ。それに向こうさんにしても、あわよくばくらいにしか思っていないだろう。念のために俺、というかシリカに張り付かせたといったあたりか。

 

「そんな、どうしてあたしたちに……」

 

 事情を知らないシリカにしてみればストーカー被害にあっているようなものなのかもしれない。怖気を奮うようにぶるりと身体を震わせ、俺の脇から廊下の左右をもう一度見渡してからドアを閉め、それから念入りに施錠の確認をした。

 ……あの、シリカさん? まだ俺が部屋の中にいるんですけど? いや、まあ、一応話しておくことが残ってるから構わないけどさ。

 

「シリカ、すぐに盗み聞きだと気づいたみたいだけど、もしかして以前にもあったのか?」

「えっと、その。……はい、ありました。随分昔のことなんですけど、ある男性に。しかもその人、あたしにばれた後に付き合ってくれって告白してきて……。あれ以来男の人が怖くなっちゃったんです。それでキリトさんにも失礼な態度を取っちゃいました。本当にごめんなさい」

「いや、それはシリカのほうが正しいというか、無理のないことだと思う」

 

 むしろ男性恐怖症とか人間不信にならなかっただけシリカは偉いと思う。

 

「ありがとうございます、キリトさん。……こんな世界に閉じ込められちゃいましたけど、あたしだって人並みに男性とのお付き合いに憧れはあります。でもですよ、初めてされた告白があれって、そんなのひどいと思いません!? 幸い、知り合いの女性の方に相談して軍に引き渡してもらえたんですけどね。でもでも、向こうの学校じゃ男の子に告白なんてされたことなかったから、人生初めての男女交際の申し込みだったんです。なのにこんなの、あんまりですよぉ」

 

 そう言ってテーブルに突っ伏すシリカ。

 怒ったり嘆いたり忙しないことだが、無理もないことだと思う。ストーカーされた挙句に告白されるとか、軽くホラーだ。犯罪防止コードが抑止力になったのだろう。無理にことに及ぼうとすれば一発で牢獄エリアに放り込まれるため、強硬な手段が取れなかったのだと思う。だからと言って犯罪仕掛けた挙句に告白とか厚顔無恥にもほどがあるだろう、そいつ。

 

「そういえばその人、キリトさんよりずっと年上に見えましたね。二十歳くらいだったかもしれません。普通に告白してくれたならあたしにも女性としての魅力があるんだって思えたのに」

 

 愚痴愚痴とつぶやくシリカさん推定中学生。いや、だってどう見ても俺より2つ3つ年下に見えるしこの子。ついでに言えば一年以上前のスグよりも年下に見える。当時のスグは中学一年生だった。この世界に閉じ込められたプレイヤーは一年と四ヶ月前の姿で固定されているため、小学生と言っても十分通用しそうなシリカの外見である。それを踏まえるにシリカに告白したとかいう男、相当やばい性癖してるんじゃないのか?

 とてもシリカには言えない内心の葛藤である。普通、ロリコンに告白されて喜ぶ女性はいないだろう。

 しかし随分話が脱線したものだ。なんだって俺がシリカの恋愛相談というか愚痴を聞かされているのだろう。シリカ的には恋愛相談というよりもっとおぞましい何かだったのかもしれないが。

 

「その、シリカ? 同じ男としては元気だせ、くらいしか言えないんだが」

 

 むしろ何も言えない。

 

「あ、そうですね。キリトさんにこんなこと言っても仕方ありませんよね。ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」

「迷惑ってほどじゃないけど」

 

 よし、ひとまず忘れよう。俺には手に余る問題だ。

 何か可視化されたかのように暗い影を背負うシリカに冷や汗を流しながら指を動かす。オブジェクト化された《水晶の地図(ミラージュ・スフィア)》は起動するとすぐに立体映像を映し出し始めた。ホログラムとして浮かび上がったのは第47層の詳細な地理だ。

 わあ、とシリカの大きな眼が見開く。その幻想的な粒子の煌きに興味を惹かれたのか、シリカもどうにかこうにか持ち直したようだった。

 

「綺麗な場所ですね。もしかしてここが?」

「そう、明日俺達が行くことになる第47層主街区フローリア、通称フラワーガーデンだ。見てわかる通り、一面花畑の街並が特徴だな。で、ここからこう移動した先にあるのが目的地の思い出の丘になる。このダンジョンの頂上にプネウマの花を咲かす岩があるんだ。ここまでで質問は?」

「出現するモンスターの種類とかはわかりますか?」

「蟻が主体で植物系もそこそこ、数は少ないけど蜂系のような飛行種もいる。隠蔽スキルがほとんど役に立たないダンジョンだからモンスターをなぎ倒して進むことになるかな。敵の強さ的には大したやつは出ない……はずだ、多分」

 

 もちろん隠蔽系スキルの効果が薄いとは言え、モンスターを避けての攻略が絶対に不可能というわけでもない。アルゴあたりならモンスターの徘徊の穴をついて目的を果たしそうだし。本人に言えば誰がそんな危険で旨みのないことをするかと怒られるだろうけど。

 

「多分、ですか?」

「不安にさせるようなことを言ってごめんな。ただ俺も47層は昔一回行ったことがあるだけで、あんまり詳しくないんだよ。モンスターにも苦労した覚えがないから、ほとんど印象に残ってない」

 

 第47層が最前線だった頃に最短で通り過ぎただけだし、攻略に時間もかからなかった。主街区の景観が見事だっただけにその印象ばかりが残っていて、肝心のモンスターとかマップ情報なんてほとんど忘却の空である。観光スポットではあっても攻略に利となる有力クエストはなく、経験値効率の美味しいモンスターも生息していない、そんな俺にとっては《訪れる価値のない階層》だっただけに、記憶が薄れてしまうのも仕方ないことだった。

 それに加えて、俺にとっての強い弱いの基準が他人にとっても同じだと思うなとアルゴに注意されることもしばしばあったせいで、どうも敵の強さに関してはこうだ、と断言できないのだ。ぶっちゃけて言えばフロアボスを除けば大抵の雑魚モンスターはやっぱり雑魚でしかないのだし、大群に囲まれるとかよほど特殊な攻撃をしてくるとかでなければ苦労することもない。

 

 ……そう思えるのは間違いなく俺のレベルのせいなんだろうな。視界の端に表示される98という数字を目を細めて眺めやる。レベル制MMOであるこの世界を駆け抜けるために必要となる数値であり、虚構を虚構足らしめる絶対のステータスだった。

 はぐれ者として生きてきた俺の足跡そのものを物語っているようで暗澹とした思いに沈んでしまう。大切なものだと、必要なものだとはわかっているのだ。それでも、レベルが上がれば上がるだけ自分が自分でない何かに変貌していくようでなんともやるせない。

 

 ――人としての感覚が、ずれていく。桐ヶ谷和人が、遠くなっていく。

 

 強くなればなるだけ向こうの世界との距離が離れていくように思えて仕方なかった。そんなはず、ないというのに。

 

「わかりました。慎重に行けってことですね」

「それと危険を感じたらすぐに俺の背後に隠れること。遠慮はいらないから躊躇わないように」

「えっと……はい。頼りにさせてもらいます」

 

 躊躇うな。割り切れ。出来なければ死ぬだけだ。それはきっとシリカにではなく俺にこそ向けられた思いだった。情けない。

 複雑そうな顔で俺の言葉を受け入れるシリカに気づいていたが、下手なフォローも出来なかった。一度シリカの戦う姿を見て実力を確かめないことには、どの程度モンスターを任せていいのかもわからないのだから。今は安全を最優先にするよう言い聞かせておくしかない。

 

「それと転移結晶の用意なんだけど、予備は残ってるか?」

 

 あ、と口を開けて固まるシリカ。薄々そうだとは思っていたが、やっぱり切らしていたか。多分、今日の迷いの森でモンスターから逃げるのに使いきってしまったのだろう。もとよりそう多く手に入れられるようなものではない。ましてシリカは中層プレイヤーだ。資金にも限りがある。

 

「ごめんなさい。ありません」

「なら転移結晶も渡しておくから、何時でも発動できるよう常に意識に残しておくこと」

 

 トレードウインドウを手早く操作して転移結晶を渡してしまう。なんだかどんどんシリカが萎れていっているようで申し訳ない気分になってきた。必要なことではあるから仕方ないんだけどな。

 しかしこれで説明すべきことはしたし、渡すべきものも渡した。長居は無用だろう。

 

「さてと、こんなところかな。明日の朝この宿まで迎えにくるから、そしたら出発しよう」

「え、キリトさんホームに帰っちゃうんですか? この宿に泊まっていってもいいんじゃ?」

「いや、俺にホームはないよ。ただ、密室PK事件みたいなのもあったから、泊まるにせよ登録してから一日空けないといけないからさ」

 

 面倒なことだと思うが仕方ない。少しの手間を惜しんで殺されるようなことがあってはならないわけだし。それに俺の場合方々で恨みを買ってるから人一倍身辺には注意が必要だ。

 

「そ、それならこの部屋に泊まっていけばいいと思います!」

 

 シリカがそんなことを言い出したのは、水晶の地図を片付けて部屋を出ようとした時だった。

 今日一番の真っ赤な顔で懸命に俺を引きとめようとするシリカに面食らってしまう。

 

「もしかしてさっきの盗み聞きが気になるのか? 個室の中までは手出しできないから心配はいらないはずだけど」

 

 それでも気味悪いことには変わりないか。

 しかし俺の予想が正しければ、さっきの連中はシリカのストーカーとか行き過ぎたファンとかではないはずだ。そしてばれた以上、これ以上こちらを警戒させるような真似もするまい。やつらとしては俺達に予定通りプネウマの花を取りに行ってもらわねば困るはずだし、これ以上迂闊なことはしないだろう。

 この際だからそのあたりの因果も言い含めておくべきだろうか。果たしてどちらがシリカのためになるだろうと考え込んでいる間に、シリカはシリカで色々覚悟を完了させてしまっていたらしい。何時の間にやら俺の贈った装備品を全て解除し、寝間着に着替えてもう寝る準備は出来てますと言わんばかりの姿だった。

 とりあえず今すべきことは――。

 

「シリカ、まずは落ち着こうか」

「あたし、落ち着いてますから……!」

 

 いやいや、明らかにテンパッてるように見えます。

 

「お願いします、キリトさん。あたし、今日一日はキリトさんの妹さんの代わりになりますから、どうか一緒に寝てください!」

 

 ちょっと待て、俺とスグは断じて一緒に寝てたりしないぞ!?

 それとも世間一般の兄妹は夜一緒に寝たりするのが普通なのだろうか? もちろん幼少の頃ならスグとも一緒に風呂に入ったり布団で寝たりした記憶もあるが、それはあくまで小さな子供だから許されることであって、いくら兄妹でも俺くらいの年齢で一緒に寝たりするのはおかしいはずだ。これはシリカの兄妹像がおかしいのか、それとも俺がシリカに妹とそうするのが自然だと思われているのか。どちらにせよまずいことに変わりなかった。

 

「もしかしてシリカって一人っ子だったりする?」

「はい、そうですよ?」

 

 あ、これマナー違反だ。しかしまずいと思ったときにはシリカが何事もなく答えてしまっていた。

 現実の詮索はご法度。そんな基本的なことをまさか自分が破ることになってしまうとは。

 一方のシリカは全く気にした様子もなく、あるいは気づいていないのかと思うほど無防備に答えてくれてしまった。兄妹像に妙な価値観を持っている様子から、シリカは一人っ子で兄か姉に憧れでもあるのだろうという思いが、意識せずぽろりと口から出てしまった。

 わざわざ蒸し返して謝罪するべきかどうか悩み、もしかしたら俺が先に現実世界の事情――妹がいることを話してしまったせいなのかもしれないと思い至って、この話題はこのまま終わりにすることにした。悪用できるような情報じゃないし、そんなつもりもないから許してもらおう。

 さて、では問題の《お泊りのお誘い》に対し、どう言ってシリカを説得しようかと言葉を捜している俺を尻目に、思いつめた様子のシリカが消え入りそうな声で続けた。

 

「……寂しいんです。あたし、この世界に来てからはずっと夜一人で泣いてたんです。でもピナに出会って、あっちの世界でずっと一緒だった猫のピナが帰ってきたようで、やっと安心して眠れるようになったんです。でも今夜はピナがいません。そう思うとあたし、怖くて、悲しくて、寂しくて……。だからお願いです。今夜は朝まであたしと一緒にいてください」

 

 ……そういうことか。

 ようやくシリカの状態に思い至った自分の間抜けさに心底情けなくなる。今までシリカの朗らかで気丈な態度に誤魔化されていた。

 いくらピナが生き返るという希望があっても、今日ピナが死んでしまったことには変わりがない。その衝撃から立ち直るにはとても時間が足りないはずだった。まして蘇生アイテムが確実に手に入るかどうかはわからないのだから。

 俺だって話に聞いただけで実際に手に入れたことはなく、プネウマの花を咲かせる場所を直接訪れたこともない。だから絶対にピナを生き返らせることが出来るなんて言えやしないのだった。それに仮に言ったところで、自分の目で生き返ったピナの姿を見るまでシリカの不安が消えることはないだろう。ピナを支えに生きてきたシリカだ。そのピナを失って心が弱っているのは考えるまでもなく明らかなことだった。気づかなかった俺が間抜けなだけだ。

 

 第一、そうでもなければ出会ったばかりの、さして親しくもない男をこうも頼ろうとはしないだろう。まあ、ここまで大胆なのはシリカが倫理コードの存在を知らないがために、無意識にでも男を近づけても大丈夫という安心感が手伝っているのだろうけど。幼いとは言え一人の少女なのだ、そんな理由でもなければ十分な男女間の知識を持っているはずのシリカがこうも無防備に縋ったりなどしない。

 

 ――嫌だよ。あたしを独りにしないでよ、ピナ……!

 

 ピナがその身を散らした時、シリカの頬を伝った二筋の涙と、震える声でつぶやかれた嘆きが脳裏に過ぎる。ドランクエイプに自身が殺されようとしているときにすら、我を忘れたようにひたすらピナを求めていたシリカ。それを惰弱と謗るのは容易い。しかし――。

 ふっと息を吐く。

 ピナの代わりか。それもいいさ。それでシリカの心の安寧が得られるのならば断るべきじゃない。

 いつかのサチのように、この世界の誰もがぎりぎりの線で踏みとどまって戦っている。その天秤が少しでも傾いた者から脱落していくのだ。だからこそ《せめて頼ってきた相手くらいは受け入れてやれ》とアルゴは言った。それはアルゴが俺を生かすために言い聞かせた諌め事の一つだ。

 俺の胸に湧き上がる苦みばしった思いは一体何に、あるいは誰に対してのものだったのか。それすら黙殺して、俺はシリカの請いに応えようとしてしていた。

 もちろん迷いはある。それでも今の俺にシリカを拒絶する選択肢は取れそうになかったのだから、これ以上思い悩むのは時間の無駄だ。

 

 シリカは願いを了承した俺の手を取って嬉しそうにベッドまで招き、警戒するそぶりもなく横になった。

 その無防備な様に溜息を吐きたくなるのをぐっとこらえて、何を言うでもなくシリカに続いてベッドに入った。息の感じられるほど近くというわけではなかったが、それでも少し手を伸ばせば簡単に触れ合える距離である。

 ……これはシリカには色々言い聞かせておいたほうが良いのかもしれない。いくらなんでも無防備すぎるし危険すぎる。それだけ心細くなっている裏返しでもあるのだろうけど。

 シリカ自身にどこまで自覚があるのかわからないが、竜使いとしてシリカが人気を博すようになった理由が単に物珍しさだけのはずもない。将来を十分に期待させる整った相貌は幼くとも十分に人目を引くものだし、ころころと変わる感情豊かな表情は躍動感溢れる魅力として受け取る人間も多いだろう。俺だってシリカのそうした無邪気さの同居する真っ直ぐな言葉に元気付けられたんだから、俺の抱く懸念も的外れなものじゃないはずだ。

 

 そして、残念ながらこの世界では子供だからと無条件で守られるようなことはない。以前のストーカー騒動で男への嫌悪感が強くなっていればまだマシだった。しかし俺への反応を見る限り、シリカは理由もなしに強く人を疑えるような性格をしていないようだ。必然、警戒心も相応の小さなものにしかならないのだろう。

 だからこそ、妙な男に引っかかる前に自衛くらいは出来るようになってもらわないと……。

 それがお節介の類だと自覚してはいても放っておくわけにもいかない。シリカが話しかけてきたのは、俺が人知れずそんな決意を固めていた矢先のことだった。

 

「キリトさん」

「ん?」

「ありがとうございます、あたしの我侭を聞いてくれて。――こうしていると、なんだかとっても安心できます」

「……そっか。それは良かった」

 

 良いわけがない。良いわけがないんだけど、シリカのようやく安らぐことができたという表情を目にするとどうにも強く拒めなかった。

 それとは別に本格的にシリカとスグを重ね合わせてしまっているのかもしれない。自身の養子という身の上を知ってから、スグのことを遠ざけるように自分の内に閉じこもった。そんな俺の素っ気ない態度にスグの浮かべた切なげな眼差しまで思い出されて、その顔がピナを失って泣き崩れていたシリカと重なり合ってしまう。それこそ俺の感傷に過ぎないというのに、どうしてこうもスグの顔が思い出されてしまうのだか。

 ……感傷か。今はどうしようもないけど。なんとか現実世界に戻ってスグにも謝らなくちゃいけない。

 仲直りは出来るのだとシリカは言った。シリカの言葉には根拠なんて何もなかったのに、その一言ですっと心が軽くなったのはどうしてだろう。

 スグへの負い目、シリカへの感謝。俺がシリカのために手を貸すには十分な理由だ。

 

 ベッドに入るにはまだ時間が早いせいか、眠気は一向にやってこない。

 シリカはどうなのだろうと目をやれば、シリカは男と同じベッドにいるという羞恥を感じてはいるのか、俺と目が合うと頬に仄かな朱を散らして目を伏せてしまう。それでも拒絶するようなそぶりは欠片もなく、少しの逡巡を経ておずおずとあげた表情には親愛を感じさせるはにかんだ笑みが浮かんでいた。

 ややあって、シリカが俺のシャツの袖を摘むように触れていることに気づく。

 

 不安……なのだろうか?

 心の支えだったピナを失い、ピナの代わりを求めて俺と同衾し、その俺ですら目を離せば消えてしまうのではないか、そう恐れたのかもしれない。いつかスグにしてやったように頭を撫でたらシリカは怒るだろうか、さすがに子ども扱いするなと言われるかもな。そんな馬鹿なことを考えて小さく笑みが漏れてしまう。

 異性と枕を同じくするのはこれが初めてというわけでもない。割り切ってしまえばすぐに心臓の鼓動は常のものに落ち着いた。

 そもそもシリカはピナの代わりを求めているのであって、キリトと言う男を求めているわけでもない。変に意識するのは良くないはずだ。年上のプライドにかけて醜態を晒してなるものかという意地も手伝って、シリカを不安にさせるような挙動は絶対に取らないようにしようと何とはなしに決めた。

 

 叶うことならば――。

 明日は嵐などこないまま、何事もなくプネウマの花を回収したい。こんな幼げな女の子ですら懸命に剣を振るって生きている、小さな竜を心の支えに、いつか現実世界に戻れる日を願ってなんとか生き延びようとしているのだ。そんな彼女の希望をどうにか取り戻してやりたい。

 せめて明日だけは、と。心から思う、それがどれだけご都合主義に過ぎるのだとしても。

 

 アインクラッドを我が物顔で闊歩する怪物どもの脅威を知っている。

 目を背けたくなるような人の悪意が生み出す残酷な結末を知っている。

 

 ならばせめて人事を尽くそう。最善なんて神のみぞ知る領域だ。只人に過ぎない俺が出来るのは次善の策を張り巡らせ、可能な限りの望ましい未来を引き寄せるようあがき続けることだけだった。それだけが俺たちプレイヤーに許され、そして課せられた責務だ。

 

 

 

 ――それがお前の望みなんだろう? 茅場晶彦……!

 

 

 

 

 

おまけ話の太っちょ&のっぽ

 

「おいおい、なんでこんなとこにあいつがいるんだよ!?」

「あいつって言うな! キリトさんって呼べ! 誰に聞かれてるかわからないんだぞ!?」

「待て待て、落ち着け落ち着こう俺。キリトさんがここまで降りてきてるってことは中層で何か厄介事でも起こってるのか?」

「まさか! いや、でも……」

「だってキリトさんだぞ? あの人が攻略以外で下に降りてくるなんて異常以外の何者でもないって」

「いやいや、素材集めとか知り合いに会いにきたとか色々あるだろ」

「その知り合いって……もしかしてシリカちゃんか?」

「……バリバリ攻略組のキリトさんと俺らのアイドルとはいえ中層プレイヤーのシリカちゃんだぜ? 接点なんかあったのか?」

 

 二人して黙り込む。今までシリカちゃんが攻略の鬼扱いされてるキリトさんと知り合いなどという話は聞いたことがない。当然、本人から名前が出たこともなかった。だというのにさきほど連れたって歩き去っていった二人はとても親しげな様子で、昨日今日の付き合いでないと自然と空気が語っていた。その事実を前に混乱するばかりだ。

 彼女は数少ないビーストテイマーであるだけでなく、その可愛らしい外見と素直な性格から中層プレイヤーにとってアイドル的存在として扱われている。彼女に不埒な真似をしようものなら非公式ファンクラブ《シリカちゃんを見守る会》の面々に半殺しにされかねないくらい愛された存在なのである。

 

 だからこそ嫉妬かなにかでシリカちゃんにきつい態度であたるロザリアさんのようなプレイヤーに、ここのところずっと苦々しい思いを抱いていたのだ。しかし一時は心配もしたが今はパーティーも解散したようだし、今日も無事に戻ってきてくれたことで一安心、だったのだが。

 闊達で明るい性格のシリカちゃんは多くのプレイヤーと仲が良い。それでも幼い年齢や過去の馬鹿な男の所業のせいで一定以上の距離に男性プレイヤーを近づけようとしなかった。そのシリカちゃんにあろうことか男の影が!

 まさしく緊急事態だ。今まで彼女を父のように兄のように見守ってきた身としては複雑な気分である。

 

「なあ、それよりシリカちゃんを見つけられた情報料だって滅茶苦茶な額のコルを渡されたんだが……これ、どうする?」

「どうするもこうするも、返すわけにもいかないんだから受け取るしかないだろ?」

「そうだよな。そうなるよな……」

 

 お互いにどこか引きつった顔を見合わせ、それから深々と嘆息した。いや、ほんと、どうしよう?

 情報屋から情報を買う相場に比べても破格どころか気後れするような莫大なコルである。一言二言のあやふやな情報に対する対価とは到底思えなかった。これだけの大金を渡されて果たして単なるお礼だと一体誰が思えるだろうか。

 

「これってやっぱ、口止めか?」

「……多分。あれかな、《今日見たことは忘れろ》? それとも《俺とシリカの関係に口出しするな》みたいな?」

「ありえるな。それときもい声出すんじゃねえよネカマ野郎」

「あ、まだその話題引っ張るのかよ。お前だってイケメン顔のなりきりロールプレイしてたくせに」

「何を!」

「何だよ!?」

 

 高まった怒気と不満が臨界に達し、あわや掴みあいの大惨事勃発か! となるはずもなく、互いに深いため息をついて肩を落とす。別にそんな昔のことなんて気にしちゃいない。今となっては軽口の応酬の種にしているだけで、なんの遺恨も残っていないのだ。考えてみると、こいつとははじまりの街からずっとコンビを組んで今に至るわけで、奇妙な縁もあったものだとつくづく思う。

 

「まあ、キリトさんだしなあ」

「ああ、キリトさんだしな」

 

 あの人なら何があっても不思議じゃないし、何か起こってもすぐになんとかしてくれるだろう。シリカちゃんの相棒ピナがいなかったから、もしかしたらそのことも関係してるのかもしれない。とりあえずキリトさんに任せておけばシリカちゃんのことは心配いらないだろう。いらないはずだ。いらないに決まってる。そう決めた。

 

「……俺達も宿に戻るか」

「そうだな。メシにでもしよう」

 

 今日は奮発して美味い肉料理を食おう。そして頭を空っぽにしてぐっすりと眠るのだ。そうだそうしよう。

 俺らは何も見なかった。何も聞かなかった。何も知らなかった。きっとそれでいいのだ。

 触らぬ神に祟りなし。くわばらくわばら。

 




 《ルビー・イコール》の回数制限は拙作独自の設定です。また、《宝石鉱山》スキルは原作には存在しません。

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