ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第06話 救世主なき聖夜

 

 

 俺達がこの美しくも残酷な世界に閉じ込められたのは2022年11月6日、秋も深まろうとする時節のことだった。

 そして今はぐるっと一年四種の季節が巡り、冬の訪れが肌身に染みる12月の半ばだ。この世界に閉じ込められてから、はや一年を数える年月が経ってしまった。いくらデスゲーム開始時点でクリアに要する時間を年単位はかかると予想していたとは言え、こうして時の流れを実感するたび、焦りと共にやるせなさに胸を焦がすのはどうしようもないことだった。

 

 元の世界で学生だった俺はまだ良い。学業成績や出席日数、それに受験の問題はあるが、それでも親の庇護下にあるのだ。帰ってすぐに路頭に迷うようなこともない。しかしエギルやクラインのような、明らかに社会人の立場にあると思われるプレイヤーの抱える焦燥は俺の比ではないだろう。彼らの職業を俺は知らないが、仮に勤め人だとして、事件に巻き込まれたことで一年以上も昏睡状態にある人間を雇い続けてくれるものだろうか。それを思えば現在のアインクラッドがまがりなりにも静謐を保っていることは奇跡に近いのかもしれない。暴動の一つ二つ起きていたっておかしくない状況だった。

 ……止めておこう。今は向こうの現実を心配している場合じゃない。アインクラッドこそが俺達の生きる現実なのだから。

 

「キリト。頼む、この通りだ」

 

 切々と訴えかける声は旧知の男のものだった。正式サービス開始と同時にログインした俺に真っ先に声をかけてきた、バンダナと無精ひげがトレードマークの男。陽気で気さくな性格をした人の良い年上プレイヤー。そして、この世界で最初にできた友人。

 ……クライン、お前に何があった?

 零れそうになる溜息を懸命にこらえたのは、何もあちらの世界の事情を慮ったからばかりではなかった。今、俺の眼前にて、その一言こっきりで頭を下げ続ける知己の姿に、どう反応すれば良いのかわからないまま途方に暮れていたのである。

 

 

 

 ギルド《風林火山》団長《赤髪のクライン》。

 かつて自身も初心者プレイヤーでありながら、はじまりの街から一貫して他プレイヤーの指導と助っ人を請け負ってきたお人好しにして、他者のスキルアップ援助や他ギルドへの助力を問題なく請け負えるほどに腕の立つ男。それに扱いの難しいエクストラスキル《カタナ》を使いこなすあたり、顔に似合わず中々器用なやつだと感心もしている。

 刀は片手剣よりは攻勢に長けた前衛向きの武器なのだが、盾なしを余儀なくされることで前衛としては些か脆い。また刀に対応するソードスキルがこれまた癖があるというか、発動準備や技後硬直時間(クールタイム)にわずかだがマイナス補正がかかっているのだ。その分スキル発動中の連撃の鋭さや攻撃力に秀でているため、強いて言えば1.5列目を担当するポジションに向いている、と言ったところか。まあフロアボス戦に代表される集団戦の編成は俺の管轄外だ。ヒースクリフやアスナが盛大に頭を悩ませてくれるだろう。その点での一番の問題児は俺だろうけど。

 

 武器特性としては可もなく不可もない、良く言えば万能、悪く言えば器用貧乏な片手剣をメインウェポンにしている俺からすると、ギルド員の大半が刀使いである風林火山は尖りすぎたギルドだと思うこともある。ギルド名からして《風林火山》だし、やつらには和風な武器や防具への愛着でもあるのかもしれない。趣味が高じての武器選択の可能性も少なからずあると睨んではいるのだが、生憎と確かめたことはなかった。あれでギルドメンバー全員が、刀の特性を生かした戦い方を心得て使いこなしてる以上不満もないしな。ただ、アインクラッドのモチーフは中世欧州風だから、鎧武者の見た目からして浮いてるのは諦めるしかない。

 

 アインクラッドは広大だ。そして出現するモンスターも多種多様に渡るため、選択武器特性による得意不得意はあっても武器カテゴリーそのものに決定的な優劣はない。

 だからこそ攻略にはパーティープレイが推奨されるのだ。ダメージの通りづらいモンスター種を相手にしたときにも、パーティーメンバーでカバーし合うことで不利を覆して互角以上に戦うことが出来る。そういった意味では汎用性の高い片手剣はソロ向きと言えなくもない。……現状、最前線をソロで活動するプレイヤーなんて俺くらいのものだろうけど。もう少し階層を降ればソロで活動するプレイヤーの噂も聞こえてくるのだが、フロアボス戦に参加するプレイヤーで未だに根無し草なのは俺だけだ。

 寄る辺ないこの世界で人とのつながり、もっと直截に言えば《仲間》を実感できるギルドは得難い価値がある。俺自身、誰憚ることなくギルドに参加できたならどれだけ気が楽だっただろうと思うこともある。――所詮は泡沫の夢だ。忘れよう。

 

 俺の自業自得な現況はともかく、はじまりの街から継続して続けてきた草の根活動が実って《風林火山》の名は傭兵ギルドとして親しまれ、非常に好意的な意味で有名になっていた。

 クラインの二つ名の由来はその朱に染まった髪と精悍な顔つきからのものだろう。戦国大名の武田騎馬軍団を意識しているのか、今では団員全員が赤の鎧兜に身を包んだ《赤備え》のおかげで、なおさらイメージも湧きやすくなっているのかもしれない。

 無精ひげをさすって漢臭い笑みを浮かべるクラインの表情を俺などは常々山賊のようだと思っているのだが、あれで頬を緩めてひょうきんに笑うと愛嬌が増して見えるせいなのか、誰からも好かれる実直なプレイヤーとして名を馳せていたのだった。人柄、実力共に申し分なし。時折耳にするクラインの評判がたまらなく嬉しい俺だったりする。

 

 そんなクライン率いる風林火山も、最近になってついに攻略組に参加するほどの精強さを誇るようになった。中層以下のプレイヤーへの支援を優先しているために血盟騎士団や聖竜連合のような最精鋭には一歩譲るものの、フロアボス戦に十分参加できるだけの強さを獲得しているのだ。その事実がクラインの統率力とギルド運営の正しさを率直に物語っていた。

 クラインが初めて参加したフロアボス攻略会議の席で、「やっと追いついたぜ、キリト」と声をかけられたときは不覚にも泣きそうになった。この男は一年以上前にはじまりの街で俺と交わした他愛ない約束を律儀に守り、誰に対しても胸を張れるだけの生き方を送りながら俺の立つ場所――最前線の攻略組へと合流したのだった。

 

 風林火山の名は攻略組の中でも頭角を現しつつある。ギルドの規模は決して大きくはないものの、頼れる精鋭ギルドとしての地位を確保しつつあるのだ。それにクラインはその高い実力だけでなく、ムードメーカーとして集団の潤滑油ともなれる男だ。彼らが攻略組に合流した意味は大きい。

 もう大分昔のことになるが、俺がオレンジプレイヤーになってからは顔を合わせることを意図的に避けた時期もあった。連絡も全て遮断した。それでも変わらぬ友誼を示し続けてくれたクラインに俺がどれだけ救われていたことか。一度俺の不実を詫びに頭を下げにいったこともあったのだが、クラインはそんな俺を笑い飛ばすだけだった。謝るより先にお前はもうちっと愛想良くしやがれ、と冗談めかして言われて苦笑するしかなかったな。器が大きいというのは、きっとこいつみたいなやつのことを指すんだろうとしみじみ思ったものだ。

 

 もっともクラインと風林火山の躍進に喜んでばかりもいられない。

 今は冬も深まる12月。現実世界ではクリスマスシーズンの到来に皆が浮き足だっている頃だろう。そしてその事情は現実の暦とリンクしているアインクラッドでも変わらない。どの階層を訪れてもどこか浮かれた空気があるのだ。……まあ騒ぐ元気があるのは悪いことじゃない、そう思うべきだろう。犠牲者を悼んで塞ぎこむだけでは俺達の明日はない。

 先月行われた第50層フロアボス戦ではやはり甚大な被害が出た。全100層の折り返し地点であり、第25層以来のクォーターポイントの再来だったため、厳しい戦いになるとは戦端が開かれる前から予想されていたことだ。攻略組も厳選に厳選を重ねた精鋭プレイヤーで討伐隊を組み、出来る限りの準備を行って臨んだ一戦だった。それでも片手で足りない数の犠牲者が出てしまった。攻略組最精鋭の血盟騎士団、聖竜連合からも死者が出たのだ。まさに死闘だったと言える。

 

 図抜けた攻撃力と堅すぎる防御力を有した凶悪極まりないフロアボスだった。仏像めいた外観をした、多腕型の大型ボス。幾つもの腕を振り回してプレイヤーに襲い掛かる縦横無尽な痛撃の嵐も然ることながら、金属製の光沢ある皮膚に相応しい硬さが何より脅威だった。堅牢無比な要塞を相手に粗末な武器持て突撃するような、誰もが最悪の戦況に縮み上がり、絶望に暮れる一戦だったのである。

 想定をはるかに上回るボスの防御数値にこちらのダメージがほとんど通らず、遅々として攻略は進まなかった。そうしているうちに、前衛として戦局を支える壁戦士のほとんどが瀕死域までHPを減らし、回復の暇もなく次々と転移結晶によって戦場を離脱した。櫛の歯が欠け落ちるようにぼろぼろと討伐参加プレイヤーが数を減らしていくことで、一時は討伐失敗も止む無しと諦めた程に戦況はひどい有様だったのだ。

 

 それを覆したのが血盟騎士団団長ヒースクリフ――攻略組最強の男だ。あの男が前線に立ってソロに近い形でフロアボスからのタゲを一手に引き受けてくれたおかげで、ガタガタだったプレイヤー戦力をどうにかアスナの元に再編することができた。討伐隊が完全に崩壊する前にアスナへ指揮権を移譲し、猛り狂うボスの眼前に一人躍り出たヒースクリフの勇敢さは、その冷静で迅速な判断と合わせて賞賛されて然るべきものだろう。

 ヒースクリフの奮闘のおかげで俺がフリーハンドを得ることができたのも助かった。やつの奮戦あればこそ俺は防御や回避を気にすることなく攻撃のみに専念できたのだ。あれがなければ犠牲者は片手どころか両手でも足りない数に膨れ上がっていたかもしれない。

 俺のHPバーも後退による回復と前線への復帰を繰り返すなかで三度レッドゾーンに落ち込んだ。最終的には俺達討伐隊が勝利を得たとは言え、討伐参加メンバー全員の心胆を寒からしめる、綱渡りの連続したぎりぎりの戦いだったのである。俺自身、ラストアタックボーナスを取れた喜びよりも、フロアボス討伐戦を生き残れた安堵のほうがずっと強かった。よくぞ生き残れたものだと溜息にも似た安堵を得たものだ。

 クォーターポイントに座すフロアボスの強さは群を抜いていると改めて思い知らされ、次回のクォーターポイントである75層を思うと今から頭が痛くなりそうだ。

 

 瞠目すべきはやはりヒ-スクリフのやつだろう。あの男抜きではとても勝利などおぼつかなかったし、奴が戦局を一人で支えなければ戦死者も倍に増えていただろうと思う。それほどヒースクリフの戦いぶりはすさまじかった。

 ヒースクリフの保持する攻防一体の最優スキル《神聖剣》。恐らくはエクストラスキル、いや、あの破格の性能を考えるとユニークスキル分類かもしれない。

 あの男の先読みの鋭さを考えると、ヒースクリフと神聖剣はまさしく鬼に金棒とも言うべき組み合わせだった。まさか規格外のクォーターボスを相手に、真正面から伍することのできるプレイヤーが存在するなどとは今でも信じられない。あの男と同じことができるプレイヤーはまずいないだろう。数々のエクストラスキルと攻略組でもトップクラスのレベルを保持する俺でも無理だ。あれはヒースクリフの神懸り的な先読みが可能にする見切りと、攻防に極めて高い補正を加えていると思われる神聖剣、その二つが合わさって初めて顕現する強さだと俺は思っている。

 仮に俺に神聖剣が発現したとして、多分、俺じゃヒースクリフほど上手く神聖剣を使いこなせない。あの男ほどスキルを十全に生かせないのだ。それを思えば神聖剣はまさしく奴のためにあるスキルだった。

 

 瓦解する戦線を立て直す為、クォーターボスのヘイトを一身に集めたヒースクリフ。奴の位置に俺を置いてのシミュレーションを何度か繰り返してはみたものの、俺一人で戦局を支えるのは三分が限界だった。それをヒースクリフは十分間耐え抜いたのである。それもHPバーを注意域(イエローゾーン)に落とすことなくだ。目の前で見せつけられていなければ、間違いなくありえないと断じていたことだろう。

 神聖剣も大概ぶっ壊れスキルだが、あの男自身のスキルは神聖剣以上に恐ろしい。プレイヤースキルの洗練の度合いが他のプレイヤーに比べて突出しすぎているし、仮想世界の身体運用法を熟知し過ぎている。戦闘の機微を読んで指揮を執る力量も相当だが、ヒースクリフの動きはステータス数値に規定された限界をとことん突き詰めているかのように無駄がない。ほんと、あいつ現実世界じゃ何やってた人間なんだか。

 ……副団長のアスナですら、もはやあの男の強さに追随できないんじゃないだろうか? ツーマンセルを組むにはヒースクリフは強すぎる。あれではギルド内部でのパーティー編成と役割分担に難儀することだろう。

 

 突き抜けた強さと言うのも考えものだった。あの男はこれから先、その力故に常に大きすぎる期待と負担を背負わされることになるだろう。本人が望む望まないに関わらずだ。とはいえ、あの男の泰然自若ぶりが今更崩れるとも思えない。ヒースクリフは一貫して攻略組を主導する立場にいるのだし、そのプレッシャーすら望むところと考えているのかもしれない。

 今までも攻略組において抜きん出た強さと声望を誇っていた男だが、クォーターボスを相手に冗談染みた活躍を示したことで今では半ば伝説扱いされていた。それも仕方ないかと思う。あの戦いにおけるヒースクリフの獅子奮迅ぶりは、攻略組のみならず全プレイヤーの間で語り草となるに十分な偉業だった。あの男に寄せられるゲームクリアへの期待も極まったと見るべきだろう。それだけの実績も積み重ねている。

 もうヒースクリフを特攻兵器扱いにでもして、毎回フロアボスの広間にソロで放り込んでやれと思った俺は悪くないはずだ。奴ならそれでもなんとかしてしまいそうだし。まあ、効率が悪すぎるし非人道的に過ぎるから承諾されるはずないけど。……決してあいつが嫌いだから無茶ぶりしてるわけじゃないからな?

 

 

 

 ハーフポイントの戦いから一ヶ月。現在の最前線は第55層まで進んでいる。強力無比な新スキル《神聖剣》を団長であるヒースクリフが会得したことで、ますます意気軒昂となった血盟騎士団の士気の高さもあってか、50層以降の攻略はまさに破竹の勢いで進んでいた。結構なことだ。攻略速度が加速するのは俺にとっても願ったり叶ったりである。

 そんな折に俺はクラインから至急だと呼び出しを受けた。呼び出しの文面は丁寧というより、どこか懇願に近いものだったと思う。一体なにが起きたと不安に駆られながらクラインの元を訪ねるや否や、頭を下げるどころか土下座されて諸々を省いた切望の訴えである。もう一度言おう、一体何が起きた?

 

「クライン、それだけじゃ意味がわからない。俺にわかるように最初から話してくれ」

 

 俺より十は年が上ではないかという大の男が土下座である。非常に居心地の悪い思いをしながらどうにかクラインの頭を上げさせ、事の次第を聞きだすことに腐心した。この男に必要以上にかしこまれるのは御免だ。

 そんな俺の願いも空しく、クラインは土下座は止めても居住まいを正したままピンと背筋を張り、緊張に顔を強張らせたままだった。それでもぽつりぽつりと俺を呼び出したわけを口にしていく。

 

「キリト、クリスマスイベントの噂は聞いてるか?」

「クリスマス? ああ、あれか。イブの夜に特別イベントとしてフラグボスが出現するって噂だろ。NPCが口々に話すようになったんだからそれなりに信頼できる情報だと思ってるよ」

 

 俺のように考えてるプレイヤーは多いだろう。イベントボスが出現するポイントの絞り込みに動き出しているギルドもあると聞いている。これで何も起きずに肩透かしをくらうようなら、今までとは違った意味で茅場晶彦への怨嗟の声が増えるはずだ。《このクソ運営!》と、主にゲーマー的な意味で。

 

「……ならドロップアイテムのことは?」

 

 クラインの眼光が一層鋭くなる。向き合って話をしているだけだというのに、クラインの鬼気迫る様子からは並々ならぬ思いを感じ取らざるをえなかった。

 はじまりの日の別れから一度も会ってこなかったわけじゃない。特にクライン率いる《風林火山》が攻略組に迫る強さを身に着けてからは同じ狩場でニアミスするようなことも増えた。効率の良いレベリングを求めればどうしたって選択が被ることも多い。人気の狩場を長時間独占するために、皆が寝静まった夜間をレベリング時間に当てていた俺と、昼間は助っ人稼業に忙しいために夜間、睡眠時間を削ってレベル上げの時間に当てるクラインだからこそ余計に会う機会も増えた。顔を合わせたのは大抵深夜か明け方だ。

 だからここ最近、クラインや風林火山の連中が繰り返していた空恐ろしいレベリング現場も見知っていた。人当たりの良い昼間の顔とは打って変わって、何かに突き動かされるように延々とモンスターを狩り続ける彼らの姿に人知れず戦慄し、声をかけるのも戸惑われる様子だった。それでも俺を見かけるたびに声を弾ませて再会を喜んでくれるクラインに、結局俺は何があったのかと聞くことは出来なかった。

 

「小耳に挟む程度には聞いてるよ。プレイヤーを蘇生させることのできるレアアイテムをドロップする、だったか。皆が血眼になって探すのも頷ける話だ。だが――」

「ああ、ボスはともかく蘇生アイテムドロップの信憑性は低い。俺達がただのデータだって言うならともかく、この世界に生きるプレイヤーはれっきとした人間で、生身の身体があっちの世界に残されてるんだ。茅場の宣言が正しければ、一度現実で脳を焼かれた人間をこっちのアイテム一つで蘇生させられるはずがない」

「だからこそ、蘇生アイテムを機能させるためには脳に電流を流す仕掛けそのものが嘘だった、その上でこの世界においてHPがゼロになったプレイヤーをアインクラッドとは違う空間に閉じ込めておく。それくらいの理屈を用意しないととても無理だ」

 

 茅場が嘘をついている。正直その可能性は低いと俺は思っている。多分、クラインだってはじまりの日に告げられた茅場の言葉を疑ってなどいないだろう。それでも嘘であって欲しいのだと、そんな夢想染みた思いを抱かねばならない事態が起きている。そういうことか。

 

「わかってる。俺だってその程度のことは考えた。そんな奇跡みたいなことが起きるはずはねえと思ってるさ。でもよお、それでも俺はそんななけなしの可能性に賭けたい。蜘蛛の糸にだって縋りたいんだよ」

 

 切々と訴えるクラインの姿に胸が痛む。俺はこの手の反応を知っている。誰かを失い、その現実を認めたくないプレイヤーが浮かべる顔にそっくりだ。いや、多分そのものなのだろう。

 俺の知人にだけ不幸が起こらないなんて、そんな都合の良い話なんてないのだ。この世界では誰の未来も保証されず、明日は我が身だと恐怖に震えながら、それでも剣を手に戦わなければならない。不幸は誰にでも訪れるものだと思い知っていた。

 

「《風林火山》の誰かが死んだのか」

 

 お前の仲間が。いつか仲間のために自分一人俺の世話になるわけにはいかないと言った、お前の大切な仲間が。

 

「ああ。ただ、死んだのは風林火山のメンバーなんだが、おめえが知ってるやつじゃねえ。少し前に入団した新入りでな、この世界に来てから知り合った男だ。そいつは俺なんかを兄貴と慕ってついてきてくれたんだよ。俺に恩義があるとか、俺らのギルドの方針に心を打たれたとか色々言ってくれてな。入団した後も精力的にギルドの力になってくれた」

 

 懐かしそうに、そして嬉しそうに話すクラインだった。こいつにとって本当に大切な団員だったのだろう。古い仲間でなくとも人情味厚いこの男のことだから、なにくれとなく世話をしてやったのだと思う。きっと新入りとやらもすぐに風林火山に馴染めたに違いない。

 ……だからこそ、はたしてクラインの味わった悲哀が如何ばかりか、俺には想像すらつかなかった。

 

「フロアボス戦で死んだわけじゃないよな。風林火山はまだボス戦で戦死者を出したことはない」

 

 もっともクラインや風林火山がフロアボス攻略会議に顔を見せるようになったのは最近のことで、フロアボス戦も数えるほどしか経験していないけど。

 俺の疑問にクラインも無言で頷く。

 

「……トラップか?」

「いいや、トラップにやられたわけでも、モンスターに殺されたわけでもない。あいつはプレイヤーに殺られた。PKだ」

 

 ひゅっと息を飲んだ。

 

「間違いないのか?」

「残念ながらな。《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の仕業だ。生き残ったやつらが教えてくれた」

 

 最近とみに名を聞くようになった犯罪者ギルドだ。PKを好んで犯すことから殺人(レッド)ギルドの蔑称で忌み嫌われている。攻略組のプレイヤーでさえ罠にかけられて殺されたという話もあった。改めてやばい連中なのだと背筋に寒気が走る。

 強張った顔でそれでも続きを促すと、なんでもギルドの中から持ち回りで何人かを助っ人として派遣に出していた時のことだったらしい。団長のクラインと副団長がそれぞれ団員を分けて2つのチームとして動いていた時に惨劇は起きた。

 クラインは隊を分けたせいで事件が起きたときにその場にいられなかったことを心底悔いていた。唇を噛み切ってしまうのではないかと心配になるほど固く口を引き結び、仲間を殺された怒りと後悔に震えていたのである。

 

「蘇生アイテムを狙うのはそいつのためってわけだな」

「その通りだ。わずかな希望でしかないことはわかってる。それでも俺は可能性を諦めたくない」

 

 可能性、可能性か。確かに可能性はゼロじゃない。特別イベントで、それも凶悪なフラグボスだと噂されているくらいだ、蘇生アイテムがふかしだというのも考えづらかった。もしかしたらと思いつめるクラインの気持ちもわからないではないんだが……。それでも希望は余りにも儚い。

 難しい顔で黙り込む俺の姿に何を思ったのか、クラインはもう一度辞を低くして協力を頼み込んできた。

 

 《雪の降り積もる聖夜、巨木を標に背教者は現れる》

 

 出現場所についての情報と言ってもその程度のものだ。12月24日の夜0時までにそのイベント場所を特定し、なおかつボスを撃破できるだけの戦力を揃えなければならない。クラインたちのここ最近の病的なレベル上げは、そのための準備だったはずだ。

 

「情報屋には?」

「何人か知り合いを当たったし、新情報が入り次第流してもらう手筈になってる。俺らも時間をやりくりして場所の特定を急いじゃいるんだがな」

「今のところ有力な手がかりはなし、か。それじゃクライン、俺に頼みたいことってのはイベントポイントの絞り込みとボス戦に力を貸すことでいいわけか?」

「ああ、礼は必ずさせてもらう。頼めねえかな」

 

 クラインに知り合いだからという甘えはない。言った以上は言葉通り俺に十分な協力への礼をしようとするだろう。それがレアアイテムになるか、高額なコルになるか、それとも攻略のための戦力を提供することになるのかはわからない。それでも義理堅いクラインのことだから、俺の想定以上の負担を言い出しかねなかった。

 俺のしてきたことを思えば、ここでクラインに二つ返事で協力したとて文句など一つもない。むしろ積極的に協力を約束するところなのだが、それではクラインが納得できないだろう。

 親しき仲にも礼儀あり。顔の割に礼儀に煩かったりするのだ、この男は。

 現実世界での社会人の生活が自然とそういう意識を持たせるのだろうか。学生であった俺とは違い、コミュニティ内でなあなあに済ませることと、外向きにきっちり対応する公私の顔をしっかり使い分けているように見える。

 

「蘇生アイテム以外のドロップ品は俺が貰う。それと情報収集の段階では独自に動くことを認めてくれるなら協力しよう。どうかな、クライン」

「それでOKだ。感謝するぜ、キリト」

 

 結構厳しい条件だったが、それでもクラインは一瞬の停滞もなく俺の申し出を受け入れた。わかってはいたが蘇生アイテム以外は眼中にないらしい。もっとも、件のボスが通常のフロアボスのように複数のアイテムを落とすかどうかはわからない。プレイヤー蘇生を可能にするのならそのアイテムは超絶なレアアイテムだ。値段などつけようがない価値がある。それほどのアイテムなのだから、イベントボス撃破の報酬がそれ一つという事態は十分にありえた。

 そう考えると俺の出した条件では俺自身は何も得ることなく終わる可能性だって十分ありえるわけだが、それ以上の条件を付ける気もなかった。クラインには散々迷惑をかけた負い目もあるし、照れくさくて口には出さないが俺はこいつのことを得難い友人だと思ってる。まあ友人というには少し年が離れてもいるけど。

 そんな友人の苦境なのだ。なんとしても助けてやりたいと思ったって何の不思議もないだろう。条件なんて単なる口実だった。

 そうして俺の日常はクリスマスイブのイベントを見据えて慌しく過ぎていくことになる。

 

 

 

 

 

「なあ、キー坊も例のイベントを追ってるんダロ。何か見つかったのカ」

 

 クリスマスイブの当日。

 第49層主街区ミュージェンにて。

 情報屋を営む《鼠のアルゴ》との会話はそんな言葉を皮切りに始まった。

 

「さてね」

「隠さなくてもいいじゃないカ、オレっちとキー坊の仲ダロ。心配しなくたって情報を売ったりなんてしないヨ」

「情報を商売にする情報屋が言って良い台詞なのか? アルゴのことは信じてるよ。人間としても、情報屋としてもさ」

「ちぇっ、キー坊もすっかり強かになってくれちゃってサ。オネーサンは悲しいヨ」

 

 わざとらしいくらいの、端から騙す気も見受けられない泣き真似だった。

 わかってはいても苦笑が漏れてしまう。アルゴはこうした愚にもつかない戯れを好んで仕掛けてくる女だった。

 

「俺をそういう男にしたのはアルゴだろ。何言ってんだか」

「心外だナ、オネーサンはキー坊を大人にはしたけど、腹黒くなんてしてないヨ。事実無根というやつダ」

「……アルゴ、頼むからその手のことを開けっぴろげに言いふらさないでくれよな。女性には恥じらいってやつが必要だと思うんだ」

「古風だねぇキー坊。サっちゃんのことが気になるのカ? それともアーちゃんかナ? 隠し事はよくないゾ!」

 

 余計なお世話だ、と反論するには俺の分が悪い。些かバツの悪い思いを抱えて唸る俺を、アルゴはチェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべてからかい倒してきた。しかしサチはともかく、なぜそこでアスナの名が出る。どっちかというと疎まれてるんじゃないか。

 いや、アスナ個人とはそれなりに良好な仲だとは思うんだよ。でもな、どうにもその下の連中との関係が良くない。血盟騎士団の団長と副団長以外のギルドメンバーとは反目が強くなるばかりなのだ。最近はそこまで身勝手なことはしてないはずなんだけどな。他のギルドの連中とはそこそこ上手くやってるし。

 そんなわけで、攻略会議の場でアスナは俺と俺を嫌う連中の意見の調整に、てんてこまいになることもしばしばだった。随分と苦労をかけているものだと改めて思う。そうだな、迷惑をかけてる分、感謝と労いを込めてまた食事でも奢ることにしよう。前回は結構喜ばれたし。

 それにしてもアルゴのやつ、俺をとりまく人間関係の妙なんかとっくに承知しているくせに、あえてつついてくるあたり絶対俺をからかいたいだけだろう。根性悪め。

 

「毎度思うんだけど、アルゴの情報ネットワークって結構謎だよな。一体どれだけ伝手があるんだか」

「これでもオレっち凄腕の情報屋さんだからネ。覚えておきなよキー坊、女は秘密を着飾って美しくなるものなのサ。あ、でもサっちゃんたち見てると恋は女を綺麗にするっていうのもわかるから、最近はそっちも信じてるけどナ!」

「からかうな、そしてオチをつけるな」

 

 カラカラと楽しげに笑うアルゴの様子に痛む頭を押さえてうなだれた。

 毎度毎度アルゴのペースに巻き込まれて主導権を持っていかれてしまうのも致し方ないことだと、そう諦めてしまったのはいつのことだったか。それを悔しいとは思わないが、しかし一度くらいはアルゴのやつを好きに振り回してみたいと思うことだってあるのだ。男としての意地というか、なけなしのプライドというか。

 

「心配しなくても夜はキー坊のほうが強いダロ」

「だから、人の目のある往来でそういうこと言うなっての」

「慎み深い女のほうがキー坊の好みカ。だったらオレっち、ちょっと頑張って淑やかな女になってみようかナ」

 

 からかわれている、そして間違いなく遊ばれていた。にゃハハハ、とアルゴの軽やかな笑い声を背中越しに聞きながら、ますます気分は曇り模様に降っていく。雪化粧に包まれたアインクラッドに相応しく、俺の心も切ない曇天模様に突入していた。アルゴには口で勝てる気がしない。

 

「ま、あんまり長話に講じててもしょうがないしナ。頼まれてた情報、送るゾ」

 

 俺をやりこめて満足したのかそれ以上の追撃はなかった。そしてアルゴの声がわずかに緊張を孕んだ固いものになる。声量も心なしか密やかに絞ったもので、振り返らずともアルゴの表情が険しくなっているのがわかった。

 

「なあキー坊、キー坊がどうしてもって頼むから連中を追ったけどサ。こんな危険な依頼、もう持ち込まないでくれヨ」

「ああ、危ない橋を渡らせて悪かった。感謝してる」

「……ぼったくり価格だったのに、それでいいなんて言うしサ。こんな情報どうするつもりダ。オレっち、そんなことをキー坊にさせたかったわけじゃないんだゼ?」

 

 知ってるよ、俺はお前の優しさをよく知ってる。間違っても俺にそんな馬鹿なことをさせようとは思わないだろうさ。

 そうと知っていて、それでも俺は――。

 痛ましげに俺を見やるアルゴの表情をこの目に映さないよう、自然と視線を逸らしていた。そんな俺の頑是無い態度に処置なしと見たのか、アルゴは聞こえよがしの溜息を吐くことで不満と抗議を表したのだった。

 ……これは結構胸に来るものがあるな。すまん、アルゴ。

 

「そう心配するなって、無茶はしないからさ」

「オネーサン、キー坊のその台詞ほど信じられないものはないと思ってるんダ。だから聞きたいのは《生きて帰ってくる》って言葉かナ。約束してくれないなら調べてきた情報はあげないゾ」

「わかってる、昔みたいに命を粗末にしたりしないよ。必ず生きて帰ってくる。――約束する」

 

 ベンチに腰掛けたままの俺は背後を振り向くようなことはしなかった。ただ正面を向いて決意の言葉を告げるだけだ。アルゴが背後から身を乗り出すように俺を覗き込み、観察を続けていたが、お互いじっと無言で相手の言葉を待つ。

 先に沈黙を破ったのはアルゴだった。

 

「こういうとき、男同士なら殴って止められるんだから同性って羨ましいヨ。エギルの旦那とかクラインのお兄さんとかサ。オレっちもキー坊に一発平手打ちでもしてみようかナ?」

「ここ、圏内だから弾かれるだけだぞ」

「この世界はそういうトコが無粋ダ。ま、オレっちの役目はここまで。イブのイベントにはノータッチだったし、今日はもう店じまいにして退散することにするカ。キー坊、一段落したら顔くらいだしなヨ」

「そう思うならホームくらい作れよ。毎回居場所特定するのも骨なんだから」

「四六時中迷宮区に潜ってるキー坊に言われたくなイ。それじゃあナ、キー坊。――良い夜を」

 

 最後にそんな言葉を残し、アルゴは身を翻して街の喧騒のなかに消えていった。その後ろ姿を見送ることなく、雪の降る薄暗い空をぼうっと眺めてしばしの時を過ごす。定まらない焦点は茫洋としていて、立ち上がるのも億劫だった。クラインとの待ち合わせ時間も近い。いつまでもこうしているわけにいかないことは重々承知していたが、今夜は長くなるという漠然とした予感が俺の足を引きとめていた。

 

「良い夜を、か」

 

 碌でもない夜になることがわかっているくせにあんな捨て台詞を残していくあたり、アルゴの根性の悪さは相当だと思う。あいつはどんな思いで辛辣な皮肉を投げかけていったのか。いっそ無造作に言い放たれたせいでその胸奥を探ることも難しい。

 ……嘘だ。あいつが何を思ってるかくらい容易に想像はつく。ただ、俺がそれを見ようとしないだけ、いや、見ていないフリを続けているだけのことだ。そんな俺を察した上で、それ以上踏み込んでこないのがアルゴという女だった。今はそれが有り難い。

 しんしんと雪は降り積もる。

 イベント開始時刻は着々と近づいてきていた。協力を約束しておいて遅刻したんじゃ間抜けにもほどがある。そろそろ意味のない思索の時間は終わりにして、意識を切り替えないといけないだろう。

 

 ――行くか。

 

 外の現実世界でクリスマスシーズンであるように、アインクラッドでも華やかなクリスマス仕様の街並みに変化している。NPCだけでなく、この世界の虜囚となって今なお生き残っているプレイヤーたち、その多くもクリスマスの喧騒に浮かれていた。そんな夜だ。少しでも楽しみたい、つらい日々を忘れて活力を得たいという裏返しなのかもしれない。

懐かしいクリスマスソングすら聞こえてきた。音楽スキルを取ったどこかのプレイヤーが演奏でもしているのだろうか。

 

 《きよしこの夜》。

 

 この世を救うために降り立った神の子もまた眠りの内にあり、目覚めの時を静かに待つ。

 では、果たしてアインクラッドを救う救世主(メシア)の目覚めはいつの日になることか。俺達に笑いかける救世主は現れるのだろうか。

 ふと、そんな益体もない疑問を抱いた。

 

 

 

 

 

 場所の見積もりは出来ていた。

 第35層フィールドダンジョン、通称《迷いの森》。

 鬱蒼と茂った森林地帯を抜けた先に、とある巨大な常緑樹があることはあまり知られていない。この階層が最前線であったころ、森の攻略の最中に俺が見つけた巨大なオブジェクトであり、今夜のイベントを知った時に真っ先に思い至った心当たりの場所だった。発見した当時、見事なモミの木に圧倒され、感嘆したことを今でも覚えている。そして同時に、あのときは何もイベントが起動しなかったことに少しの落胆と後ろ髪引かれる思いも感じていたものだ。なにかある、と思わせる威容だっただけに余計に印象深かった。

 

 今日のイベントを前に幾つか候補地を見て回ったが、ここが最有力候補だと告げる俺の直感が変わることはなかった。場所が場所であるためか、情報屋がばらまいた候補地リストにもこの場所は記載されていなかったのは幸いだ。うまくすれば蘇生アイテムを狙う他のプレイヤーとかち合う事態も避けられるかもしれない。意欲的な各ギルドが先を争うように情報の取得に躍起になっていた姿を知っているだけに、誰にも知られていないのを幸いに情報の秘匿に努めさせてもらったことは許してもらおう。この場所を教えたのは風林火山の中でもクラインだけだ。メンバーにも秘密にするよう頼んでおいたから、クラインも軽々に口を滑らせてはいないだろう。余計な横槍は勘弁願いたかった。

 巨大なモミの木に通じるマップを待ち合わせ場所に指定し、現地集合としたことに大した意味はなかった。攻略組でも異質の俺があまり親しくするとクラインたちに迷惑がかかるかもしれないという懸念と、顔見知りとはいえクライン以外の風林火山の面々とは多くの言葉を交わしたことがないために気後れしたというのが理由だ。一緒に行動するより単独行動のほうが気が楽だった。それにアルゴと接触したことを隠す意味もある。

 

「よう、早いなキリト」

 

 迷いの森を遅滞なく駆け抜けてきたことが功を奏したのか、到着は俺のほうが早かった。その事実に少しだけ驚いたのだが、元々行軍速度なんてものは人数が増えれば増えるほど遅くなるものだ。道中の安全さえ確保できるなら、ソロで動いている俺のほうが森を抜けるのに有利に決まってるか。幸い日付が切り替わるまではもう少し時間もある。のんびりと声をかけてきたクラインに軽く手を挙げて応じた。

 クラインだけでなく風林火山の面々とも再会を叙して、それぞれと挨拶や軽い世間話に講じて時間を潰した。風林火山は気の良い連中の集まりだから、人と距離を置きがちな俺でも息苦しくない。思いのほかリラックスした時間を送れた。

 異変に気づいたのは、武装や回復アイテムの最終チェックを行っていたときのことだ。

 

「なあクライン」

「あん? どうかしたかキリト」

「招かれざるお客さんだ。俺かお前、どっちか知らないが尾けられていたらしい」

 

 それとも自力でこの場所まで辿り着いたのか。身を潜めてこちらから姿を隠しているあたり、尾行の線のほうが強いが、はてさて。

 これでも索敵に関しては自信がある。道中、後方には最大限警戒していたのだから、一人二人ならともかく集団で俺の網を抜けてくることができるとは思えない。だとすると情報源は俺以外だろう。あの巨大オブジェクトの存在を元から知っていたなら俺の索敵範囲の外から近づいてくることだって出来る。

 とはいえ、今回の尾行対象はクラインと風林火山だろうと思う。彼らはここ最近、精力的なレベル上げと情報の確保に走り回っていたから、同じくイベント参加を意図したプレイヤーたちに目をつけられた可能性が大きい。少しばかり悪どい手段だが、情報を持っていると思われるプレイヤーを張る有効性は理解できる。

 それに。

 

「おいおい、こいつら《聖竜連合》の連中じゃないか」

 

 風林火山の一人が驚いたように声をあげる。

 そう、次々と姿を現したプレイヤー団体は血盟騎士団に並ぶ攻略組大手ギルドの一角、ギルド《聖竜連合》の部隊だった。団長の姿が見えないのが救いと言えば救いなのだが、姿を現した人数に思わず舌打ちしてしまう。数人なんてレベルじゃない、森から姿を現した連中は二十人を超える豪華な布陣だった。4パーティー編成で合計24人。これは偵察部隊とかそういう単位じゃないな、一戦を覚悟した戦力が用意されている。確実にフラグボスを狩ってやる、という意気込みが感じられた。

 

 元々聖竜連合は攻略組でも些か強引なギルドとして知られている。レアアイテムのためなら一時的にオレンジになることも辞さないと揶揄されるほど、希少アイテムや人気狩場の確保、イベント独占に豪腕を振るって介入しているのだ。ことフロアボス討伐戦においてはヒースクリフとアスナという二枚看板を揃える血盟騎士団に押さえつけられている形だが、強力な装備の充実や効率の良い狩場でのレベリングに最も力を入れているのは聖竜連合だろう。当然だがそんなマナー違反すれすれの態度を繰り返せば反感も買うのだが、攻略組きっての有力ギルドという立場が彼らの行いを黙認させている。逆に言えば黙認させるだけの実績を誇る精鋭の集まりということだった。

 

 その大手ギルドの連中が数を揃えて尾行なんて手段まで用いた以上、穏便に事を済ませる気はないはずだ、という俺の推測は的外れなものではない。クラインや風林火山の連中も俺と同じ思いを共有しているからこそ一気に臨戦態勢に入ったわけだし。

 そんなクラインたちに触発されたのか、それとも元々そのつもりだったのか、問答の間もなく武器を構え、隊形を整えていく聖竜連合。重武装の戦士が多いせいか、ごつい鎧姿のプレイヤーが一箇所に集まるとそれだけで結構な圧力になる。ボス戦でもなければそう見れることのない戦力の充実ぶりだった。

 しかし、いくら聖竜連合の悪評が先立つとはいえ、風林火山の対応も割かし杜撰なものだと溜息を一つ。いきなりの喧嘩腰じゃまとまるものもまとまらない。それだけ余裕がない証左だろうか。彼らは皆クラインに似て義侠心と情に厚い人情家ばかりだ、蘇生アイテム確保に先走って好戦的になっていたとしてもおかしくない。

 

「おめえら、待てって。敵は聖竜連合じゃねえだろ」

 

 クラインがそんな団員を諌めたのも、普段にないほど頭に血が昇っている仲間を落ち着かせようとしてのことだ。

 

「でもよ団長、あいつらがボス戦に割り込んできたら滅茶苦茶になる」

 

 不本意そうに続けられた「ドロップだって奪われかねない」という言葉は本心からの危惧だったのだろう。表情は険しく、腰の刀に手をかけたままで警戒を緩めようともしない。このままなら遠からず衝突する。それが風林火山の暴発か、それとも聖竜連合から引き金を引くのかはわからないが、激突必至の空気は高まるばかりで沈静化する様子はなかった。

 しかし、感情のままにぶつかり合っても風林火山、聖竜連合、ともに益はない。クラインたちにしてみれば単純な戦力比で劣勢であるし、そもそもこのままぶつかったら双方オレンジ化だ。後々面倒なことにしかならないだろう。

 ……仕方ない、やるか。

 無言のまま会戦の時を待つだけになった戦場のど真ん中、風林火山と聖竜連合の丁度中間目指してゆっくり歩き出す。剣は構えない。そんなことをすれば俺がこの場の均衡を崩してしまう。

 

「キリト?」

 

 背中からクラインの声が聞こえたが今は無視だ。

 

「キリト……? ――貴様、黒の剣士か!」

 

 だいたいこんなところか、と足を止めて聖竜連合と向かい合えば、なぜか憎憎しげな声で怒鳴られた。

 あれ? 俺、聖竜連合に嫌われるようなことしたっけか? 直接敵対行動取ったことなんてなかったはずだけど。

 

「俺のことを知ってるなら話は早い。あんたらも狙いは蘇生アイテムなんだろうけど、悪いな、この先は通行止めだ」

「またか! また貴重なレアアイテムを独占するつもりなのか貴様は!」

 

 ああ、彼らの怒りの原因はそれか。黒の剣士といえば、フロアボスラストアタックボーナス最多獲得プレイヤーだ。そりゃ、レアアイテム収集マニアみたいなところがある連中にしてみれば、俺はとことん気に食わない存在だろう。だからと言って引くつもりもないけどさ。

 

「とんだ言いがかりだな、手に入れたアイテムの大半は市場に流してるんだ。レアドロップ品を独占してるなんて心外だぞ」

 

 というか、聖竜連合にだけは言われたくない台詞だな。あれか、同属嫌悪ってやつか。

 

「……それで、今日は我らの邪魔立てをするというのか。聖竜連合を敵に回す意味がわかっているのか」

「ギルドの名を錦の御旗にするもんじゃねえよ。あんた、それで何かあったとき責任を取れる立場でもないだろう。逆に聞くけどな、あんたらの団長殿は俺を敵に回す気があるのかよ」

 

 これでも攻略組の各ギルドとは感情面で反りが合わなくとも、実務面ではそれなりに協力しあっているのだ。最前線で手に入るアイテムを格安で融通していることだってその協力の一環だった。下っ端レベルではともかく、ギルドの上層部と俺は実利で結びついていると言える。もちろんそれだけで万事都合よく運ぶなどという楽観は抱いていない。しかし多少の抑止力は期待できる。例えば今回のように、問答無用の展開になったりはしない、というような。

 聖竜連合団長が直々にきていなかったのは不幸中の幸いだった。ヒースクリフ、アスナに次ぐ実力の持ち主ということもあるし、基本的に俺とパイプを持っているのは各ギルドの団長副団長クラスだけだ。ここにいる連中ではすぐに俺を敵と断じて攻撃できない。できる立場じゃない。

 

「クライン、悪いが助太刀は無理そうだ。ここは俺が引き受けるから、ボスはお前らだけでなんとかしてくれ」

 

 ひらひらと手を振ってクラインと風林火山を促す。ボスの正確なレベルがわからないのが一抹の不安ではあるものの、そこはクラインたちを信じるとしよう。やばくなったら逃げるだろうしな。それに建前としては35層に出現するボスなんだ、今現在の最前線に鎮座するフロアボスより強力だなんてことはないと思いたい。

 

「いいのか?」

「蘇生アイテムを必要としてるのはクラインたちだろ? ここで立場を逆にしてお前らが納得できるなら俺がボスを狩ってくるけど」

「……違いない。感謝するぜ、キリト。わりぃがあいつらは任せるわ。負けんなよ」

「そっちこそ死んだりすんなよ。ミイラ取りがミイラになっちゃ格好がつかないぜ」

 

 お互いにふてぶてしい笑みと激励を交し合う。

 時間も押していた。それ以上の問答もなくクラインと風林火山はボスの待つであろう隣接マップへと姿を消していく。後のことはクラインと風林火山の実力次第だった。蘇生アイテム獲得に成功するも失敗するも彼ら自身の奮闘が決することになるだろう。

 ……正直なところを言えば、プレイヤー蘇生アイテムが欲しくなかったと言えば嘘になる。クラインに声を掛けられるより前、情報が出回り始めた段階では俺も蘇生アイテム確保に動こうかと悩んでいたのだ。もしドロップアイテムが噂通りに死んでしまった人間を生き返らせることが出来るものだというのなら、あの日、第一層フロアボス討伐戦で俺が命を奪ってしまったプレイヤーを呼び戻したかった。そうすることで俺の罪を消し去ってしまいたかった。そう考えたことを否定しない。

 

 ベータテスターを深く憎み、この世界に絶望し、クリアを諦めて自ら死を選んで消えていったプレイヤーだ。仮に生き返らせたとして、また同じことを繰り返す可能性だってある。誰も、もしかしたら本人さえ望まない蘇生になるかもしれない。だとしても、俺が背負った重い十字架を降ろせるのならそれでいいじゃないか、と身勝手な考えが浮かんだのだ。

 それでも最終的に諦めたのは、クラインのほうがよほど正しい蘇生の使い方をしてくれるだろうという信頼と、いまさら自分の罪をなかったことにしてはいけないという自戒の気持ちだった。生き返らせれば罪も罰も消えて全部チャラ、なんて都合の良いことにはなりはしない。

 だから今、俺はここにいる。

 クラインに協力し、彼の力となって蘇生アイテムを手に入れさせるためにここにいるのだ。

 そのために俺のほうも始めるとしよう。

 

「今日の俺は風林火山との契約優先の身なんでな、あんたらをこの先に通すわけにはいかない。悪いけど蘇生アイテムは諦めてくれ。それに風林火山のほうが先に来てたんだ、先着順でやつらに交戦権を認めてくれたっていいだろう?」

 

 勝手なことを、と俺を罵る声や不満が上がっているようだが、勝手なのはお互い様だ。

 人気狩場の使用時間の規定のような紳士協定がない場合、イベントにしろクエストにしろ優先権は先に到着していたものにこそある。要は早いもの勝ちだ。今回の場合は先に到着していた風林火山にこそ優先権があり、聖竜連合は風林火山が敗北するなりどんな形であれ一戦した後にボスに挑むのが礼儀だった。

 しかし聖竜連合はそういった暗黙の了解を、時に恐喝や脅し文句を駆使して犯罪者一歩手前で破ってしまうところに悪名の所以がある。今夜もそのつもりで部隊を派遣していたのだろう。しかし今回に限っては聖竜連合の好きにさせるわけにはいかなかった。

 

「もちろんあんたらにもメンツってものがあるだろう。邪魔されました、じゃあ帰りますってわけにいかないことくらい俺だって理解してる。だから、ここは一つ俺とあんたらでゲームをしようじゃないか」

 

 聖竜連合は攻略組の有力ギルドのなかでは比較的嫌われてはいるが、だからといってオレンジギルドではない。真っ当なグリーンプレイヤーの集まりであり、攻略に大きく貢献している精鋭ギルドの一つだった。ギルドの活動方針が犯罪や暴力に偏っているはずもない。話の通じない連中というわけではないのだ。

 というか、名より実を取ることに徹底しているギルド長の方針のためか、利さえ示せるのならば聖竜連合は比較的付き合いやすいギルドと言える。ギブアンドテイクの関係が築きやすいギルドなのだ。そういう意味では潔癖な部分がある血盟騎士団よりよほど交渉は持ちかけやすい。

 

 俺にとって重要なのは風林火山が目的を果たすまでこの場を死守し、やつらを通さないこと。そのためには聖竜連合の足止め、すなわち時間稼ぎに徹する必要がある。そこで大事なのは彼らにとっても旨みがある落としどころを提供することだ。彼らは利を示せば乗ってくる。一時的に敵対していようが攻略を目指す仲間であることには変わりないのだ。ここで後先考えずにお互いオレンジになったって攻略を遅らせるだけで何の意味もない。流血沙汰に益はないのだ。

 しかし聖竜連合はここまで来て何もせず引くわけにはいかない。

 俺は彼らを通すわけにはいかないし、彼らが去るまでクラインたちの助けにもいけない。

 この状況を打破するためにはお互いが納得しあえる妥協点を模索するしかない。

 

「ゲームだと?」

「ああ、俺とあんたたちで決闘をする。こっちは俺一人、あんたらは全員の総当り戦だ。ルールは初撃決着モードであくまで一対一、それと対戦は一人一戦のみ。俺への勝ち星一つにつきレアアイテム一つを報酬に出そう。たとえばこの指輪、これだけで敏捷値が20アップする。他にも最近のフロアボス戦で手に入れたものだって幾つもある。どうだ?」

「……我々が負けた場合は?」

「なにも言わずに帰ってくれ」

「ではこちらも貴様同様アイテムを賭ける必要は?」

「ない」

 

 沈黙が降りた。警戒してるな、当然か。

 

「随分我々に有利な条件のようだが?」

「前提としてあんたらは風林火山が戻ってくるまで乱入は禁止、これさえ守ってくれるなら構わないよ。俺の目的はあくまであんたらの足止めだし。それにただ待っているだけじゃ暇だろうと思ってな、順番待ちの余興にどうかと誘ってるんだ」

 

 そういう名目にしておいたほうがお互い得だろうと匂わせる。

 聖竜連合だって意味もなくグレーゾーンの活動方針を取っているわけじゃない。彼らは彼らなりにプレイヤー開放を目指して、最も効率的と信じる攻略を実践しているだけだ。そうでなければ攻略組なんて命の危険が大きい集まりに参加していない。たとえその動機が弱者でいることへの恐怖からのものだろうと否定する必要もないだろう、俺だって似たような理由で自己強化に励んでいたのだから。

 だからと言って自分達の都合を優先しすぎて攻略組の中で完全に孤立してしまうのもまずい。そのあたりの匙加減が聖竜連合団長殿はとても上手かった。多少嫌われてはいても、ギルド方針を攻略組全員に黙認させている現状はまさしく彼の狙い通りといったところか。聖竜連合は軍に比べればよほど強かな立ち回りをしていると言える。

 

「……いいだろう、その条件を飲もう」

 

 幾度か周りの連中と顔を見合わせた後、部隊長らしき男が承諾の返事をした。これで交渉成立だ。

 たとえ全敗しようがやつらにくれてやる分のアイテムはストレージに入っているから問題はない。そしてそれだけの数の決闘をこなしている間にクラインのほうの戦闘は終わるはずだ。落としどころとしてはこんなところだろう。

 ――それに、一戦たりとも負ける気はないしな。

 対戦相手の中にはフロアボス戦に参加している顔もちらほら見える。だが、それだけだ。負けてやる理由にはならない。それに、中には早くも俺から奪うアイテムに意識が向いているのか、口元をだらしなく緩ませているようなお目出度いやつもいる。それほど自分に自信があるのか、それとも俺を過小評価してくれているのか。まあいいさ。油断してくれているならそちらのほうが手っ取り早く勝負がつく。

 

「ああ、それとあんたらが全敗しても敢闘賞として幾つかアイテムはくれてやるよ。手ぶらで帰れなんて言わないから心配しなくていい」

 

 あからさまな俺の挑発に激昂するプレイヤー、無言で俺を睨むプレイヤー、油断なく俺を見据えるプレイヤーと様々な感情模様を披露するなか、嫌われ者のソロプレイヤーと攻略組きっての有力ギルド《聖竜連合》の決闘の火蓋が落とされた。

 

 

 

 

 

 ……流石に疲れた、な。

 決闘を終えて、俺以外に誰一人いなくなった雪の積もる森に力尽きたように座り込んでいる姿は、果たして他人の目にはどう見えているのだろう。俺の心のままに憔悴しているのだと見えるのか、それともこちらの世界に来て以来すっかり慣れてしまったポーカーフェイスから不機嫌と不満を読み取るのだろうか。

 どちらもきっと正しい。疲れてもいたし、不機嫌でもあった。

 この電脳世界では肉体的な疲れというのは存在しない。少なくとも筋肉疲労や呼吸に苦しむような場面にはまだ遭遇したことがない。だというのに身体が鉛のように重く感じることがあるのは、脳神経が疲れに類似した信号を発しているせいなのかもしれない。心が疲れれば身体も疲れる。この世界では現実世界以上に心と身体が深く結びついているのかもしれない。

 当たり前か。今俺達が動かしている身体は言ってみれば偽者、データの集合体だ。コンディション調整もまた単純な数値に規定されているはずだった。少なくとも現実よりは単純な構造をしているのだと思う。

 

 今思えば、ゲーム開始直後にステータス数値の強化を何よりも優先した俺が、不屈の闘志で戦い抜こうと決意を固めていたアスナを内心侮っていたことこそ滑稽なことだったのかもしれない。無論、レベルや装備が不要などと馬鹿なことを言う気はない。数値の差が絶対の差となってプレイヤーを隔てる壁となることを俺はよく知っている。レベルの格差はモンスター戦はもとよりプレイヤー同士の戦いにも絶対の壁となって現れるのだ。それこそ、今夜のように。

 それでも最後の最後で明暗を分けるのは、死にたくない、生きたい、負けてなるものかという意志なのかもしれない。そんなことを最近はよく考えるようになった。

 

 キャラクターレベルとプレイヤー技術の洗練をこそ最重要視してきた俺が、いまさら宗旨替えするというのも皮肉なものだと笑ってしまう。俺がどこかで馬鹿にしてきた人の思いや気持ちこそ何より大切なことだったなんて、本当にいまさらなことだ。この世界に閉じ込められて最初に捨てたくせに、多くの犠牲を払ってまで辿り着いた結論が最初の分かれ道だったなんて、どんなとんちなのだろう。それとも出来の悪い喜劇だろうか。

 だからイベントボス討伐を終えて戻ってきたクラインを目にして、「ああやっぱりか」という感想だけでは済ませられなかったのだと思う。この世界の残酷なルールに対するやるせなさと怒りと憎しみが、抑えきれないマグマのようにどろどろと俺の腹の中でうずまいていた。

 

「……お疲れ。討伐は無事に終わったみたいだな」

「……ああ」

「蘇生アイテムは――駄目だったか」

 

 俺もクラインも半ば予想していたことだ。ゲーム開始時点での茅場の宣言が正しい限り、プレイヤー蘇生の手段など存在しない。今回のイベントはバグだったか、もしくはデスゲーム開始以前に茅場の企みを覆い隠すカムフラージュとして用意され、消され忘れていたイベントの一つなのだろう。そんなわかりきったことを確認するまでもなくお互い承知していて、それでも一縷の望みに賭けて今日を迎えたのだ。

 そしてやはり希望は希望のまま、儚く散ってしまった。言ってみれば最も可能性の高い未来が現実になったに過ぎない。

 クラインは返答の代わりにオブジェクト化されたアイテムを俺に投げて寄越した。

 場に漂う重苦しい空気と、顔をあげられないほど失意の底にある風林火山の面々に痛ましさを覚えながら受け取ったアイテムに目を落とす。

 

 卵ほどの大きさの、七色に輝く美しい宝玉だった。芸術の極みのように人の目と心を引き付けるそれに思わず感嘆の息が漏れてしまいそうになる。これならばプレイヤー蘇生もあるいは、と思わせるほど美しさと怪しい魔力を感じさせる宝石だった。それでも、このアイテムはクラインたちの求めるものではなかったのだ。噂どおりのものならあいつらがこれほど打ちのめされてはいない。

 アイテムのヘルプ機能を参照し、その説明文に強く歯軋りしてしまう。

 《還魂(かんこん)聖晶石(せいしょうせき)》という名のそれは間違いなく蘇生アイテムではあった。死んだプレイヤーを生き返らせる、確かにそういう効果を持っている。

 

 ――ただし、死んでから10秒ほどの間しか効果がない。

 

 その一点がこのアイテムの持つ欠点であり、そしてどうしようもない欠陥品ですらあった。

 正確に言えば死亡エフェクトの光が消え去るまでの間、それが約10秒ということなのだろうが、そんなもの何の慰めにもなりはしない。過去に死んだプレイヤーを生き返らせることが不可能だということを思い知らされるだけのことだ。

 多分、この効果時間はプレイヤー死亡がシステムに判定され、現実のナーヴギアに電流を流されるまでの猶予時間だ。このアイテムはバグの産物でもなければ消し忘れていたアイテムでもない。デスゲームと化したこの世界で、ほんのわずかな救済策として用意された正式なものだ。制限は厳しいが、それでもとんでもない価値のあるアイテムには違いない。

 それでも……。

 それでも――この仕打ちはあんまりだろう、茅場晶彦。

 あんたはこの世界を呪わせるために俺達一万人のプレイヤーを閉じ込めたのかよ?

 

 

 

 

 

 生と死を隔てる絶対の壁に打ちのめされ、ぶつけようのない気持ちを抱いたままクラインたち風林火山の面々とは別れた。

 クラインは俺に還魂の聖晶石を報酬として渡すつもりになっていたが断った。死亡直後にしか使えない蘇生アイテム。死んでしまった風林火山の仲間に使えないと知ったために、それなら聖竜連合を一人で追い返した俺に報酬として渡そうというのが義理人情に厚いクラインらしい。幾つかレアアイテムを連中との取引に渡したと白状してしまったのがまずかったらしい。素直に聖竜連合全員力尽くで追い払ったと言ってしまったほうが良かっただろうか?

 でもな、俺としては血盟騎士団と併せて攻略組二強の一角である最大手ギルドのメンツを丸つぶれにするのもどうかなあ、と思うのだ。あの場にいたのは俺と聖竜連合の連中だけだから、まさか連中が自分達の醜態を自ら言いふらすとは思えないので対外的には何の問題もない。しかし俺と聖竜連合の関係を考えると一方的に敵対かつ決闘で全員叩き伏せたという事実は些かまずい。

 

 俺が気に入らないと言って俺を背中から撃とうとするほど彼らがトチ狂うことはないだろうが、フロアボス戦における協力や攻略情報の交換に支障をきたすようになるのは痛い。どれだけ険悪な関係だろうと、それでも勝利のためなら協力できるだけの最低限の下地だけは残しておくべきだった。最後までソロという攻略スタイルで通用するかどうかわからない以上、それくらいの逃げ道は残しておきたい。

 だから聖竜連合との争いで無難な落とし所として、こちらが譲歩した姿勢を見せることが必要だった。少なくとも対外的には、俺は《レアアイテムと引き換えに聖竜連合に見逃してもらった》という形になるはずだ。それくらいには今日追い払ったやつらも頭がまわるだろうと思うし、やつらから報告を受ければ、聖竜連合団長として俺の思惑くらい読み取った上で如何様にも処理してくれるだろう。

 それに決闘という示威には今日来ていた連中を黙らせることだけでなく、これ以上の譲歩を俺に求めるなら本気で敵対するぞというメッセージもこめられている。口を閉じてれば双方に益があるのだから後々うるさく言ってくる可能性は少ないだろう。不満が残ろうが協力関係は維持できるはずだ。

 その程度には打算があったため、純粋に俺がクラインたちのために献身を捧げたわけではなかった。

 

 還魂の聖晶石についてはクラインが持っていろと説得した。心情的にも俺は受け取りづらかったし、実用的な面からも使い道がなかったからだ。ソロプレイヤーが仲間を蘇生させるアイテムを持っていようが宝の持ち腐れでしかない。「それはお前の仲間が死んじまったときに使ってやれ」と言って納得させた。

 情報と助太刀の報酬に関しては後日改めて交渉しようと持ちかけてその場は解散させた。ボス戦を終えた疲労以上に、仲間を生き返らせることが出来なかった失意と絶望に打ちのめされていたクラインたちを思えば、さっさと休ませるべきだと判断したからだ。それをそのまま口にしたわけではなかったものの、俺の気遣いはクラインにしてみればすぐに察せられるものだったらしい。苦笑して了承していた。

 

 去り際に「お前は死ぬんじゃねえぞ。絶対生き延びろよな」と言い残したクラインの嗚咽混じりの言葉に、何も返せなかったことだけが心残りだ。仲間を失い、蘇生という唯一の蜘蛛の糸を断ち切られた彼らの後姿は等しく小さなものだった。今日のために真っ当なプレイヤーが見れば眉を顰めるような無茶なレベリングを繰り返し、大金をばらまいて情報屋やギルドを走り回って少しでも多くの情報を集めようと奔走した、そうしてようやくボスを倒した。その努力の全てが徒労だったのだ。心身ともに疲れ果てていることだろう。

 それでも仲間を気遣い、俺を気遣い、震える声で生き延びろと訴えてくれたクライン。

 今、俺がしていることは、そんなクラインに対する裏切りだろうか? あいつが知ればやはり怒るだろうか?

 

 そんなことを考え、自嘲に唇を歪めて内心大きな溜息を吐く。多分、その通りだ。クラインだけじゃない、アルゴにだって申し訳ないと思う。俺の考えに最後まで反対していたのだ。それを押し切って強引に協力を頼んでしまったのは俺だ、後で埋め合わせの一つ二つも必要だろうな。そのためには生きて帰らなくてはいけない。決してここで死ぬようなことになってはいけなかった。

 深く長く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。

 見上げれば薄汚れた教会がそびえ立つように鎮座していた。辺境の寂れた村に相応しくない巨大な建物のくせに、やけに周囲に溶け込んでいるのは見ただけでわかる古びた景観のせいだった。今にも崩れ落ちそうな建物はそれだけで不吉な空気を纏い、薄ら寒い気分が背筋を這い上がってくる。……この悪寒はそれだけのはずがないってわかってるのにな。

 

 溜息を一つ。そして覚悟を決めて眼前の扉を開いた。

 重厚な扉が錆びた金属を擦り合わせるような耳障りな音を立て、少しずつ室内の明かりが漏れ出してくる。

 外観に反して建物の内部は小綺麗なものだった。左右には来賓用の白い長椅子が幾つも並び、正面の細い通路を抜けた先には一段高いステージが用意されていた。その先の壁は十字架の装飾で彩られ、壇上の脇にはパイプオルガンも設置されている。

 そう、ここは故あれば愛し合った男女が神の前で夫婦になることを誓い合い、そして祝福される場でもあった。

 あとは神父でもいれば完璧だろう。もしかしたら昼間にでも訪れればNPCとして用意されているのかもしれない。

 しかし今そこにいるのは聖職に就く男などではなかった。断じてそんな上等なものじゃない、それどころかその真逆にいるはずの男。

 

 ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》団長PoH。

 

 そのユーモラスなプレイヤー名称に反し、途方もない残虐性を秘めた男が眼前に存在していた。

 何の冗談か、PoHのやつはその場で(ひざまず)いて祈りさえ捧げている。神の御許で恭しく頭を垂れ、真摯に両手を組んでいる様は懺悔(ざんげ)でも請うているかのようですらあり、好悪の感情を別にすればその姿は実に堂に入ったものだった。

 だからこそ俺はその一枚絵を目にしたことで吐き気を催し、同時に眩暈がするほどの邪悪を感じ取らずにはいられなかった。こんなにも間違った光景を見たことはなく、これほどに歪んだ信仰があって良いとは到底思えない。日本では馴染みがないものの、宗教、そして信仰の一面は道徳にある。宗教が生活に密着している海外では、《神様が見ていらっしゃるのだから悪いことをしてはいけませんよ》と説法を受けて子供は育つのだ。PoHの振る舞いはそんな信仰の全てに唾を吐きかけているようにしか見えない。

 殺人集団を率いる首魁(しゅかい)が、神の御許で何を祈る……! 何を懺悔する……!

 俺の内から湧き上がるのは言いようもない不快感と堪えきれない怒りだった。衝動的に斬りかかりたくなった俺を止めたのは、なけなしの理性だったのか、それとも背を向ける男から感じる危険なまでの重圧だったのか。

 

「――驚いたな。あんた、敬虔(けいけん)なクリスチャンだったのか?」

 

 俺とPoHの問答は、そんないっそどうでも良い一言から始まった。

 場の静寂を壊すことに躊躇いはなかった。この男にそんな遠慮をする必要なんか認めない。先制攻撃をかけなかっただけ慈悲深いとさえ思う。

 

「現実世界の詮索はマナー違反じゃなかったのか?」

 

 いやに冷静な声が返る、それですら癪に障った。

 このわずかな間に、いっそ斬りかかることが出来たらと幾度思ったことか。

 

「礼儀を語るならまずは自身の行いを(ただ)したらどうだ、殺人(レッド)ギルド団長殿」

 

 俺の皮肉にPoHはくつくつと気味悪い笑い声を零した。そして俺を警戒した素振りもなく無造作に立ち上がり、振り返る。

 長身痩躯の膝上までを覆い隠す艶消しのポンチョに身を包み、目深に伏せられたフードから覗く口元には、世の全てを嘲るような薄ら寒い笑みが浮かんでいた。だらりと下げられた両手には何一つ武器は握られておらず、俺ごとき脅威でも何でもないのだと無言の内に示しているかのようだ。

 気に入らない、この男の何もかもが癪に障る。そのうち、この男が息をすることさえ許せなくなるのだろうか。

 

「こんな辺境の外れまでご苦労なこったな。それとも辺境が黒の剣士殿のホームだったかね、我らが先達殿」

 

 ……嫌味なやつだ。俺の正体を知っていて、俺の事情に通じているくせに、あえてかつての過ちを当てこすってくる。やつの雅かな発声とは裏腹に、その口にする言葉には常に悪意の塊がへばりついているようだった。

 

「労ってくれるのなら素直に監獄につながれてくれないか。そうしてくれれば俺もわざわざあんたの顔を見ずにすむ。このゲームがクリアされるまで大人しくしててくれれば言うことないな。――これ以上無意味にプレイヤーを殺すんじゃねえよ」

「Wow……! 黒の剣士様ともあろうものが随分猛ってるじゃないか、その様子だと目的は仇討ちかい?」

 

 苦い表情で剣の柄に手をかけた俺を見やり、PoHは慌てるでもなく声を弾ませてそう尋ねて来た。こいつ、何が面白いんだ?

 

「さてな」

 

 ぴんと張り詰めた緊張が場を支配し、一触即発の空気となった。今更俺の言葉一つで素直に自首してくれるような相手ではない。ならば力づくでも黒鉄宮の監獄エリアに送り込む。それが出来れば最善なんだが……。

 剣を抜くかどうか、激突の引き金を引くかどうかの判断に迷う俺に、PoHは大仰な仕草で両腕を広げ、芝居がかったような口調で語りだす。その姿は在りし日の茅場晶彦――デスゲームを告げた巨大アバターを想起させる禍々しさを放っていた。

 

「わかってねえな、お前達はなにもわかっちゃいねえよ。プレイヤーを殺すことは、この世界を生きる人間一人ひとりに与えられた神聖不可侵の権利なんだぜ? 俺達はその権利を正しく行使しているにすぎないんだ。まずはそこから理解してもらわないと困るな」

「何を馬鹿なことを」

 

 吐き捨てた声は自分のものかと疑うほど無味乾燥なものだった。怒りも過ぎると感情がフラットになってしまう、そうことなのかもしれない。狂ってる狂ってるとは思っていたが、まさか堂々と殺人を権利などと言い出すとは思わなかった。何を考えて他人にそんな馬鹿な思想を理解させようとしているのか。おぞましいことこの上ない。

 

「馬鹿なことかね? だったらなぜ茅場晶彦はPKを禁止しなかったと思うよ。奴が認めたということは、PKはすなわちこの世界のルールってことだぜ。ルールを守ってこそのゲームだろう、だったらPKもまた許容され得るべきものだ。そうは思わねえか?」

 

 それが世の真理だとばかりに語る男の姿に反吐が出そうだった。

 

「くだらない、茅場を神様に見立てて崇拝でもしてんのかよ。それに法で許された行動なら全てが正しいとでも? それは子供の理屈だろうが」

「逆だ、これは大人の理屈だぜ。守るべき法は守り、許された範囲で可能な限り自由を追及する、まさしく大人の理屈ってやつだ。俺は茅場晶彦を肯定するね。あの男は愚かではあったが、随分とおもしれえ世界を用意してくれた。その点で俺は茅場晶彦を尊敬してるし、感謝だってしてやってるんだ。奴だって俺たちにここまでゲームを楽しんでもらえれば本望だろうよ」

 

 俺は――俺はこんなにも他人を憎むことが出来たんだな。

 この男を許せないと思った。許せるものかと心底思った。

 俺が剣を抜いたのは衝動的なものでしかなかったはずだ。冷たく冴え行く心の赴くまま、刃の切っ先をPoHへと差し伸ばす。真っ直ぐに射抜けと吠えんがごとく。視界が真っ赤に染まりあがる怒りに、伸ばした剣先がわずかたりともぶれなかったのが不思議なくらいだ。

 

「もう一度言ってやる、それは子供の理屈だ。殺人を肯定する道理なんて、現実世界だろうとアインクラッドだろうと存在しない。自分達の愉悦のためだけに悪意と殺意をばらまいて、そのくせ一人涼しい顔をしている、そんな外道が何をもっともらしくほざいてやがる。お前たちみたいな恥知らず連中を生み出したという点で、俺は茅場晶彦を軽蔑し、否定してるんだ」

 

 茅場晶彦は否定されねばならない。

 かつてあの男を尊敬し、あの男の作り出した世界に胸躍らせた一人の人間として、あの男の所業を許してはならなかった。このアインクラッドに強く惹きつけられた俺だからこそ、なおさらに茅場を肯定してはならなかった。そんな俺が殺人を是とするPoHの言い分など認められるはずもない。

 

「平行線だな。通り一遍の正義と道徳ほどつまらないものはねえ。……興醒めだ」

「交わりたくもねえよ。勝手に失望してろ」

 

 この男と会話を重ねる度に胸を満たしていく黒々とした鬱屈を、諸共に吐き捨てるように告げた。

 プレイヤーキラーの過去を持つという意味で、俺とこいつ、そしてこいつの部下連中は同じ穴の狢だ。それは認めよう、しかしそれだけだ。

 俺はプレイヤーを傷つけることに愉悦など覚えない、そしてPKを肯定などしていない。俺達の生きるアインクラッド――剣とモンスターの世界に守るべき法がなかろうと、この世界で犯した罪を現実の法で裁けない可能性があろうと、断じて殺人を肯定なんかしない。してたまるものか。

 問答が無意味ならば、後はお互いの剣にかけて意地を通すしかなかった。結局、この世界の法とは剣そのものなのかもしれない。

 

 《ソードアート・オンライン》。

 

 剣で紡ぐ異世界の物語。

 現実に存在しない法理、現実にありえない倫理が適用される、虚構と本物の狭間を漂う石と鋼鉄の城。アインクラッドという名の巨大な箱庭。

 茅場晶彦はそんな世界を愛したのだろうか。

 己の玩具を自慢するように俺達をこの世界に無理やり閉じ込め、精一杯生きることを強要した。そんな茅場の所業を許せないと思う一方で、俺の心の片隅には常に剣に魅せられた歓喜が存在していた。それがつらい。俺が今ここにいるのは、もしかしたらそんな自分のどうしようもない性根に我慢ならなかったからなのかもしれない。

 

 仇討ちだと、そんなことを大真面目に言えるほど俺は死んでいったやつらに思い入れがなかった。ラフィン・コフィンに殺されたプレイヤーを悼む気持ちはあれど、無念を晴らしてやろうとまでは思わないのだ。死んでいったプレイヤーにしたって、さして親しくもなかった俺に、ラフィン・コフィンの連中を《狩る》名目として勝手に使われるのは業腹というものだろう。

 ならば俺がレッドギルド《ラフィン・コフィン》に敵対するのは義侠心や正義感からのものではない。このゲームを攻略するための障害を取り除く。ただそれだけだ、それだけの理由でしかない。

 プレイヤーの人数を減らされれば当然攻略は遅れ、場合によってはゲームクリアそのものが不可能になる。ラフコフの連中を野放しにしておけば、いつかそんな《最悪》がやってくる可能性がある。だったら戸惑っては駄目だ。誰かが連中の凶行を止めなければならないのなら、それは実力的にも攻略組の誰かということになる。そしてその役目に俺ほど適任なプレイヤーはいなかった。

 

 全プレイヤー中トップクラスのキャラクターレベルと希少スキルを保持し、モンスターを屠るべき剣を同じ人間の血に塗れさせても影響の少ない、攻略に支障の出ないはぐれプレイヤー。それが俺だ。

 血盟騎士団には頼れない。現在の攻略の要たるギルドには綺麗なままでいてもらわねばならないのだ。人望を集めるべきトップギルドに、プレイヤー殺しの十字架を負わせてはならなかった。その十字架は後々の攻略に響く。

 無論、ヒースクリフだけなら遠慮なんてしないのだが、血盟騎士団にはアスナがいる。一途に攻略を主導し、攻略組どころか全プレイヤーを鼓舞しつづける彼女に、悪影響しか残さない重荷を背負わすことなんてできるはずがない。そして、背負わす意味もない。

 

 ……第一、オレンジプレイヤーの台頭に関しては俺にこそ責任がある。

 アインクラッドにおいて最初に確認されたオレンジプレイヤーであり、PKを為したのが俺だ。以後、オレンジプレイヤーの噂は出なかった。犯罪を志向するプレイヤーも俺を通してオレンジの持つデメリットを知っていたが為に自重していたのだろう。

 それが崩れたのはカルマ浄化クエストの発見によってだ。オレンジからグリーンにカーソルを戻すための手段が見つかるのと時同じくして犯罪の報告が急増した。

 とはいえ、初期のオレンジプレイヤーの犯罪は窃盗や詐欺といった悪質ではあっても、命に関わるようなものではなかった。特に軍の連中が取り締まりに力を示していたから、アインクラッドには十分に秩序が保たれていたのだ。第25層において軍の実働戦力が壊滅するまで、軍がアインクラッド最大の影響力を誇っていたのは故ないことではない。アインクラッド最大のギルドと呼ばれるような、ギルドに所属している構成員の多寡だけでその地位を得たわけではなかった、れっきとした実績があったのである。

 しかし当初治安維持に積極的で、かつ攻略にも熱心であった軍が25層の悲劇によってその影響力を一気に削られたことで、もはやオレンジプレイヤーの出現と犯罪内容の悪化に歯止めが効かなくなった。自身の身は自身で守るという意識がより徹底されたのもこの頃のことだろう。

 

 オレンジというタブーをゲーム開始一ヶ月にも満たない早期に破り、さらにその状態からのリカバリー方法を早々に確立させてしまった俺の罪は重かった。もちろん当時はそんなことを考えてはいなかったし、今のような思索を省みる余裕もなかったが――それが過去の罪業から逃げて良い理由にもならないのは明白だ。

 心ならずもオレンジプレイヤーの出現、オレンジギルドの結成、なによりレッドギルドなどというイカレタ連中が生まれる引き金を引いたのが俺だというのなら、その後始末をつけるのも俺であるべきだった。こればかりは他人任せにして知らん振りを決め込むわけにもいかない。そんなことをしてはいけなかった。

 だから俺はここにいる。渋るアルゴに無理を言ってやつらの所在を探ってもらい、ここまできた。

 

 殺人ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》団長PoH。

 この世界最大のタブーである《仲間殺し》を嬉々として犯す犯罪者集団の親玉。

 レッドギルドは通称だ。なにもキャラクターカーソルが赤く染まるわけではない。それでも犯罪者を示す通常のオレンジと区別してレッドと呼ばれるようになったのは、それだけ一般プレイヤーが彼らを恐れ、憎んでいる証拠だった。

 現在のアインクラッドにおいて功略の希望として君臨している血盟騎士団、特に団長のヒースクリフを指して表のカリスマとするなら、法と倫理の外で誰憚ることなく殺人まで犯す笑う棺桶、特にその団長であるPoHは裏のカリスマとも呼べる男だ。

 後ろ暗いプレイヤー達にとっての悪のカリスマ。

 その圧倒的な存在感に傾倒するプレイヤーは決して少なくはない。ヒースクリフを崇拝するプレイヤーがいるように、PoHを崇拝するプレイヤーだっているのだ。善悪のベクトルの差こそあれ、この二人はまさしくアインクラッドを代表するプレイヤーだった。

 

 故にこそ潰さねばならない。

 PoHらの暗躍を見過ごせばこの先どれほどの被害が生まれるのか見当もつかなかった。

 正義の味方がいないのは現実だろうとアインクラッドだろうと同じだ。罪を裁くなどと傲慢なことは言わない。邪魔だから潰す。許せないから許さない。それだけのことだ。

 最善は誰にも知られることなく、ひっそりとラフィン・コフィンの構成員全員を監獄送りにしてしまうことだった。ラフコフ以外のオレンジプレイヤーの数も少なくなかったが、犯罪者ギルドの筆頭にしてカリスマであるラフコフさえ除ければオレンジの活動は一気に縮小されていくはずなのだ。全員が無理でもせめて頭目であるPoHだけでも抑えることができればかなり違う。

 

 だからこそ――出来ることならば、今日ここで決着をつけておきたかった。

 

 この場で雌雄を決せないやるせなさに深く溜息をつき、抜き放たれた剣の刃を再び背の鞘へと引き戻す。

 俺の胸の内で荒れ狂う激情は秘めなければならない。秘めねば俺の命はなかった。

 あわよくばと思っていたのだ。PoH一人ならば奇襲すればいける、そう思ったことも嘘じゃない。犯罪者集団なのだ、組織内部の仲間意識はそう高くないはずだと踏んでいたし、メンバー同士の連携も強くないだろうと思っていた。しかしそれは俺の楽観に過ぎなかったらしい。

 奴らは強い。それも個としての強さじゃない、一つの組織、一つの集団としての精強さを持ち合わせていた。

 認めたくは無いがこれもPoHのカリスマということか。動かしがたいその事実を呑み込むのは気に入らないこと極まりなかったものの、彼我の戦力分析を誤って破滅するわけにもいかない。アルゴにも釘を刺されているし、クラインとの約束もあった。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

「……何のつもりだ?」

 

 戦意の消えた俺を訝ったのか、PoHが初めてその声に警戒を乗せた。

 ここで俺が退くのは予想外だったか? だがな、面白くないのは俺だって同じだ。叶うならこの場でお前らの脅威を除いておきたかった。戦えるものなら幾らでも剣を抜いていたんだ。

 

「アポなしで訪ねてきた俺をここまで歓迎してくれるとは思わなかった、とでも言えば満足か? ラフコフがそこまで気遣いのできる集まりだとは寡聞にして知らなかったよ」

 

 この建物に入った瞬間から気づいてはいた。

 右手の隅に一人。どういうわけか肉眼では姿が見えないのに索敵スキルの視界には存在している。俺の知らない隠蔽系のスキルかハイディング機能つき装備アイテム、その不可視効果の線が有力だった。厄介なスキルだかアイテムを持ってやがる。

 そして俺の入ってきた扉の影にも反応が一つ。俺の後を尾けてきたのか、いつの間にか反応が出現していた。こいつの尾行に気づいていなかったのは不覚だが、確かにそこに一人いるのだ。

 あるいはここまでなら、俺に剣を抜く選択肢も未だ残っていたのかもしれない。

 しかし――。

 伏兵はその二人だけではなかった。注意深く探ればこの建物を囲むようにさらに複数の気配が迫っている。

 反応が早い、早すぎるくらいだ。ラフコフは決して犯罪者が好き勝手している寄せ集め集団ではなかった。PoHを頂点に徹底した指揮系統が確立されている。今となっては俺が奴らの連携を軽視していたことは明らかだ。恐らく奴らの実力は攻略組に混じっても遜色ないレベルだろう。それほど奴らの動きは的確で無駄がない。

 

「へぇ、黒の剣士殿は鼻だけじゃなく目も良いのか。もったいねえな、攻略組の犬なんかやってねえでもっと自由に生きたらどうだい。俺らは何時でも歓迎してやるぜ、キリトよ?」

「気安く人の名前を呼ぶんじゃねえよ、耳が腐る。それとな、大人を自負するなら好き勝手犯罪を繰り返すだけでなく、自由の責任ってやつも取ってみたらどうだ? 人を無差別に殺して全プレイヤーに迷惑をかけてるんだ、その分だけフロアボスを狩り取るくらいしろよ卑怯者ども。アインクラッドに閉じ込めた茅場に屈して、フロアボスが怖いとモンスターに屈して、次は何に膝を折るんだ? 憂さ晴らしにPKを選ぶなんて格好悪すぎるぜ、あんたら」

 

 俺の挑発にPoHはわずかの反応も見せなかったが、部屋の隅と背後からは殺気が吹き出し、包囲の輪はさらに狭まっていた。

 このまま留まれば、間もなく俺はラフコフ総出で血祭りにあげられることになるのだろう。ここでやつら全員を相手に暴れ回るのも一興だと、死を望んでいた頃の俺なら嘯いていたのかもしれない。しかし今の俺がそんな無謀な真似をできるはずもなかった。クライン、アスナ、アルゴ、サチ。それにエギルやディアベル、黒猫団の連中だって。あいつら全員、ここで俺が無駄死にするようなことを許しはしないだろう。

 戦えないとなればこれ以上この場に留まる意味もない。緊急避難用に常に用意してある転移結晶を取り出し、発動の準備を終えた。

 

「ここまできて尻尾を巻いて逃げるか、無様だな」

「安い挑発どうも。挑発ついでに聞いておけ、これは俺からの忠告だ。これから先、あんたらが性懲りもなく他のプレイヤーを殺すようなことがあれば、その時は俺が刺し違えてもあんたを殺す。そこら中に隠れてるあんた子飼いの連中にも伝えておけ。ゲームクリアまで大人しくしてろってな」

「……覚えておこう」

 

 誠意の欠片もない声だった。そんなもの期待するだけ無駄だとわかっているので気にすることもない。

 

「転移――ミュージェン」

 

 視界の端でようやく姿を現してスローイング・ピックを構える小柄なプレイヤーを尻目に、転移結晶の青白い輝きが俺の身体を包み込む。PoHは身動き一つせず俺の姿をじっと見つめ、俺も奴から目を離すことはなかった。そうして放たれたピックが俺の身を貫く寸前、やつらの前から俺の姿は消えたのだった。

 

 

 

 

 

 第49層主街区ミュージェン。結局ここに戻ってきた。

 夜と朝の境界にある中途半端な時間だ。こんな時間に出歩いている物好きなどまずいない。石造りの街の中、その一角にあるベンチに力なく背を預けた俺以外にプレイヤーの姿はなかった。先日のイブの喧騒も落ち着いたのか、それともクリスマス当日の今日はイブ以上の盛り上がりを見せるようになるのか。そんな想像をしながらも気だるい身体と頭はどうしようもなかった。

 思えばハードな数日間だった。

 ルーチンワークである迷宮区攻略を進める傍ら、特殊クエストボスを見据えたレベル上げに始まり、《背教者ニコラス》出現場所の選定と各ギルドの動きのチェックを済ませ、武装のメンテナンスや強化の最終確認。当日は当日でアルゴと連絡をつけて情報を買い取り、風林火山を先行させるために聖竜連合の一部隊相手に決闘を仕掛けて全員抜き。それが終わるやラフコフに奇襲をかけに突撃だ。もっとも、ラフコフ相手には逃げ帰ってきただけだが。

 

 碌な一日にならない。そんなことはわかっていたが、わかりきっていたが、それでも重い疲労が身体の奥深くまで沈殿し、今にも倒れ伏してしまいそうだった。まさかこんな街中で居眠りをするわけにもいかない、小休止が終われば馴染みの宿に戻らなければならないだろう。しかしそうは言っても今は動ける気がしなかった。指先一つ動かすのも多大な苦労が必要な有様だ。

 疲れた。

 疲れきっていた。

 クラインの憔悴した顔が思いだされる。見ているだけで胸が締め付けられる、そんな悲嘆に暮れた男の背中はとても小さなものだった。

 そしてなにより、悪意と毒しか存在しないPoHを相手にした問答。汚泥の底に溜まるヘドロのような耐え難い腐臭が、俺の身に纏わり付いて離れなかった。

 

「今日見る夢は悪夢だな。……それもとびっきりの」

 

 そして起きた時に安堵するのだろう。まだ俺は生きている、と。

 

「――オレっちが買い取ってやろうカ、その悪夢とやらをサ」

 

 唐突に響き渡った声はどこか怒りを帯びているように聞こえた。気のせいじゃ――ないな。

 視線を移せば目に映るのは小柄な体躯とフードからわずかに覗く金褐色の巻き毛だ。耳に届くのはどこか気怠げに間延びした――けれど安心させてくれるイントーション。そこに立って居たのは情報屋アルゴその人だった。

 昨日の夜、皮肉を残して消えたときの再現とばかりに俺とアルゴの位置は寸分違わぬもので、ここまで容易に接近を許した俺の油断が悪いのか、それとも特殊なスキルや装備アイテムなしにラフコフ以上の隠形を見せるアルゴがすごいのか。そんな疑問の答えを見つける作業も億劫だ。許されるならこのまま倒れてしまいたい。

 

「そいつはいいな。それで、俺はアルゴに何を代償として渡せばいいんだ?」

 

 産業廃棄物の処理に手数料は必須だろう。

 そんな俺の言葉を聞いたアルゴは悪役顔負けの笑みを作るや否や、わざとらしく思案の仕草をして見せるのだった。

 

「オレっちとキー坊の仲だし、代金は勉強しといてあげるヨ。そうだナ、ちょっとだけオレっちに付き合ってくれればいいサ」

「……勘弁してくれ、今の俺にアルゴをエスコートする余裕は残ってないぞ」

「あんまりオネーサンを見くびらないでほしいナ、そんな事とっくに承知してるヨ。だからサ、今日はキー坊がオレっちの抱き枕になるだけで許してあげようって言ってるんダ。ふふん、オネーサンは優しいダロ?」

「――そうだな。確かにアルゴは優しいよ。優しすぎて……涙が出そうだ」

 

 アインクラッドでは感情表現があからさまなほど顔に出やすい。赤面しかり涙しかり感激しかり。それを隠すのも容易ではないが、今だけは隠す必要もないのかもしれない。アルゴ相手に強がっても仕方なかった。それでも男として簡単に泣き顔を見せてやる気なんかなかったけど。

 

「ホントはオレっちじゃなくて、サっちゃんにキー坊を迎えにいってもらおうと思ってたんだヨ。今のキー坊にはサっちゃんのほうが適役だろうってサ。時間が時間だから気が引けて、結局声をかけそびれちまったケド」

「いや、アルゴで助かったよ。サチには俺の弱いところをあまり見せたくないから」

 

 いくら以前より前向きになったとは言え、サチがこの世界に向かないのは瞭然のことなのだ。俺のことなんかで要らない負担をかけたくない。

 

「サッちゃんなら心配いらないと思うけどナ。それにもうちょっと頼ってあげたほうがあの子も喜ぶゾ?」

「俺が気にするんだよ」

「……キー坊の、意地っぱり」

 

 憮然とした表情を浮かべる俺の耳元で、そっとアルゴが囁いた。彼女の台詞は俺の頑迷さを咎めているはずなのに、響きそのものはどこか甘やかなものを秘めていて――この世界では感じ取れないはずの吐息がひどくこそばゆい。

 

「悪かったな、意地の一つも張れないような男にはなりたくないんだ」

「にゃハハハ、オネーサン的にはキー坊のそういう可愛いトコもポイント高いけどナ。とはいえ、オレっちに対する気遣いが感じられないのは減点だゼ? 女の子はもっと繊細に扱わないと駄目だって教えてやったダロ」

「気遣いって言っても、俺が本当は情けなくて弱いやつなんだってことくらい、アルゴには今更なことだろ。俺もお前も遠慮なんてしないしさせない、俺達の関係はそれでいいと思ってるんだ。駄目だったか?」

「ま、勝手なのはお互い様だものナ」

「そういうこと。行こうか」

 

 そんなアルゴとの何気ないやりとりがたまらなく嬉しかった。お互い承知していることを改めて口に出すのは、結局のところ言葉遊びでしかない。けれど彼女と交わすそんな言葉遊びの一つ一つがとても心地よくて――。

 悪戯好きで、意地が悪くて、皮肉屋の少女。そのくせ言動の端々に気配りを潜ませる、それが《鼠のアルゴ》だった。

 いつの間にか立ち上がることも苦ではなくなっていた。その事実を苦笑一つで飲み込み、二人連れ立って無言で歩を進めていく。

 女の子にちょっと優しくされるとすぐに立ち直ってしまう、きっとそんな俺はこの上なく安っぽい男なのだろう。それでもいいかと思ってしまうのは、さて、良いことなのか悪いことなのか。

 男女の機微を知るには俺はまだまだ子供なのかもしれない。だからこそ少しくらい背伸びしても構わないだろうと思う。いつだって飄々とした態度を崩さないアルゴが、これほど無防備な好意を示してくれているのだから否やはない。

 今はただ、アルゴの優しさに感謝を捧げていたかった。

 

 

 

 クリスマスイブから一夜明けて今日はクリスマス当日。

 アインクラッドに救世主は未だ現れない。

 それでも俺は、俺たちは今日も生きている。生きていけるのだ。

 このゲームがクリアされる日を夢見て、自身を、仲間を叱咤激励しながら剣を握る日々を送っている。

 死を強制されたゲームが開始されてから一年と二ヶ月。

 遥か遠くの雲海の隙間から光が差し込み、ゆっくりと明けていく空を(かざ)した手の向こうに捉える。

 そうして、アインクラッドの朝を告げる陽光は、今日も変わることなく俺達の前に姿を現したのだった。

 

 


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