ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

5 / 24
第05話 嗤う黒猫、薄氷の呼び声 (3)

 

 

 血盟騎士団トップ二人との会談からほどなく、密室PK事件に関しての詳細と対策が広く周知された。

 この件に当たってのヒースクリフの動きは驚くほど迅速だった。俺が相談に赴くまで何ら手を打たずに事件を放置していた様からは信じられないほどの辣腕ぶりである。それこそ前もって準備しておいたのではないかと疑いたくなるほどだ。

 しかし、これでここのところ頭を悩ませていた密室PK事件についてはひとまず解決を見たと判断して構わないだろう。

 多少の混乱はあるかもしれないが、そう時を置かずに事件は収束すると考えて良い。

 その立役者にヒースクリフの名があることに小さな不満を覚えるも、反りが合わないという理由だけでヒースクリフの言動や功績を否定するだけではいかにも子供だ。素直に良かったと思うべきなのだろう。

 

 もちろんやつに対して言いたいことは山ほどあった。

 今回の事件の解決を企図し、唐突に呼び出した俺の問いに逡巡することなく答えたヒースクリフだ。その気になれば俺の推論を待つまでもなく、事件発生後そう時を置かず今回の手口と対応策を突き止めることもできただろう。

 買い被りだとは思わない。俺自身ヒースクリフの知恵を頼ってあんな席を用意してもらったのだ。あの男に向けられた情報屋を凌ぐ博識さという評価は伊達じゃなかった。

 多分、この世界における知識の深さであの男に勝るプレイヤーはいない。俺の知る限り最も優秀な情報屋であるアルゴですら及ばないだろう。そのくせ攻略組でも随一の剣の冴えを見せるのだから反則級のプレイヤーである。誰もがあの男を頼り、尊敬の眼差しを向けるのも無理はない。俺があの男から感じる得体の知れなさも、見る者が変わればそれを超人的な、そして神秘性に包まれた得難い魅力だと捉えもしよう。

 

 ――英雄。ただその一語に集約するのかもしれない。

 

 もしかするとヒースクリフ自身そういった英雄像を意識して振舞っている可能性もある。種々様々な怪物が闊歩し、そんな幻想の存在を相手に剣を頼りに渡り合う、この上なき非日常の世界にあってなお非日常を演じる男。浮世離れした非人間性を押し出すことで攻略組の象徴として君臨し、この世界に秩序と希望をもたらす。ありえないことではない。あの男自身も口にしていたではないか、攻略組の士気を高めようと奮闘しているのだと。

 そうとわかっていて、それでもあの男への反感を抑えきれない俺はやはり子供なのだろう。

 軍が前面に出て牽制されたとは言うが、別に軍を通してヒースクリフ自身の推理を発表させたってよかったはずだ。まして今の軍は精鋭部隊を失って発言力を大きく減じている。名実共にトップギルドの座を固めつつある血盟騎士団、その団長が遠慮する必要などどこにもなかった。軍に手柄を横取りされることを恐れたなら独自に発表することもできたのだ。その程度の軋轢を気にするような弱腰な男でないことを俺はよく知っている。

 それでもあの男が沈黙を選んだ理由は結局のところ――。

 

 そこまで考えて俺は深くため息をついた。

 ヒースクリフに下層プレイヤーを気にかけるつもりがないと言っても、それは殊更責めるような問題ではないのだ。今更ということでもあるし、彼らを一度見捨てた俺がヒースクリフに不満を持ってどうしようと言うのだか。ヒースクリフとて懸命にゲームクリアをしようと足掻き、血を流しているのだ。俺にできないことを出来る力があると言って、それを押し付けるのはやつにだって良い迷惑だろう。それにヒースクリフを責める言葉は攻略組を責める言葉となり、最終的には俺自身を苛む言葉の刃となる。億劫になるだけだった。

 この世界では誰もが生き残ることに必死だ。自分のことに精一杯で他人を気遣う余力などない。生死を左右するギルド仲間やパーティーメンバーならばともかく、見知らぬ誰かのために尽力しろなどと無理難題を要求できるプレイヤーなどいない。それでも他人のために何かを為そうと考えられるのはよほど人の良い、人間のできたプレイヤーなのだろう。この無慈悲な世界にあって見返りのない無償の厚意などそうかけられるものではなかった。

 そんな良識派のプレイヤーは俺の知る限りでは三人だけだ。エギルにクライン、そしてディアベル。もっともディアベルの場合はベータテスターだった責任感と贖罪も混じり合っているように思える。……第一層フロアボス戦後、ベータテスターとしての責務をディアベルに押し付けた俺が、訳知り顔で語るもんじゃないか。

 

 《初心者プレイヤーがベータテスターに向けた悪意と裏切りを隠蔽しろ》。

 あの日、第一層フロアボス攻略線で俺はディアベルにそう要求した。

 どうしても必要なことだった。あの戦いで死者が出た事とオレンジプレイヤーが誕生したことは隠し様がない。噂が出回るのは避けられなかっただろうし、それが噂だけで済むはずもなかった。やがては真実が明らかにされただろう。

 かと言って43人全員で秘密を共有し、決して外に漏らさないという方法は取れなかった。俺はそこまで奴らを信用できなかったし、俺のオレンジカーソルを見たプレイヤーが不審を抱くことは止められない。そこからは雪崩式に事態が悪化していったはずだ。なにより、秘密なんてものは何処かから漏れるものだと相場が決まっている。そんな不確かな可能性にかけてゲーム攻略を不可能にするべきではなかった。

 つまり俺が提案したのは次善の策だ。

 あの場で起きたことが知れ渡ればもはやベータテスターと初心者プレイヤーの対立を解消することは出来なくなる。だからこそいがみあう両者の決定的な亀裂を防ぐためには、あの惨劇をなかったことにするべきだと思った。その上でもっともらしい偽の情報を流すことで、嘘を真実にしてしまえば良い。おあつらえ向きにオレンジプレイヤーと死亡プレイヤーが揃っていたのだ、真っ赤な嘘ではないのだから疑われにくい。嘘をつく時は真実を織り交ぜて嘘をつけ、というやつだった。

 

 加えてあの場にいた連中を中心に対迷宮探索、対ボス戦における情報交流の徹底を示唆した。交流の場さえ出来れば不満をぶつけ合うこともできる。対立ばかりを深め、鬱屈を溜め込んでいくことほど怖いものはないのだ。何よりベータテスター、初心者プレイヤー、両者共に共通の敵を作れば軋轢など自然と解消され、協力体制も出来上がるだろうと考えた。敵、すなわち怒りをぶつける対象である。それが迷宮区エリアであり、フロアボスであり、そしてPKという裏切りを為した俺だった。

 ソロとしてレベル至上主義で活動してきた自らを省みず、ベータテスターとして責任を取れと、そうディアベルに突きつけた俺の厚顔無恥さこそ恥じ入るべきものだっただろう。ディアベルは俺のそんな無茶な要求に誠実に応えてくれたのだ、感謝のしようもない。

 ディアベルがどんなカバーストーリーを語ったのかまでは確認していない。アルゴも俺を慮ってかその手の話題を出すことはなかった。

 しかし今現在の両者の反目がほとんどないことを考えれば、ディアベルはよほど上手くやったのだろう。それに俺の予想を超える形で、パーティーやギルドの枠を超えて協力しあう、現在に続く体制の雛形をも作り上げた。もちろんこれらはディアベルだけの功績というわけでもないが、そのためにディアベルと共に尽力したというアスナやエギルもさすがとしか言いようがなかった。その間ひたすらソロでバーサーカーをしていた俺としては肩身が狭い限りだ。土下座して詫びろと言われればその通り頭を下げただろうと思う。

 

 まぁその要求の代償として、俺には《仲間殺し》やら《ビーター》やら色々と不名誉な二つ名が押し寄せてきたんだけどな。《仲間殺し》はPKの事実そのまま、《ビーター》は特別なベータテスターとずるを表すチーターをかけ合わせた造語らしい。

 あの日起こった裏切りの事実からプレイヤーの目を逸らすため、そして両者の不和を解消するために、オレンジへと堕ちた俺の名前を利用しろと言ったのは俺自身だ。その程度の罵声は覚悟していたからいいんだけどさ。そもそもあの時は、死ぬ前の最初で最後の孝行のつもりだったし。生き残れるとは思えなかったから後先なんて全く考えていなかった。

 はじまりの街から散々好き勝手にソロプレイをしてきたツケがPKという重過ぎる罰だったというのなら、せめて最期くらいはディアベルを見習って、他のプレイヤーに何かを残して死にたかった。そんな感傷も幸か不幸かこうして生き残っていることで遠い昔のことに変じようとしている。

 《キリュウという悪者プレイヤーの醜聞を隠すために、それ以上の悪者としてオレンジプレイヤーキリトの名を喧伝しろ》。

 つまりはそういうことだった。事実の歪曲、隠蔽、捏造。それら全てを自らの手で行わず、人任せにした。いくら俺にはオレンジというどうしようもない事情があったとは言え、要求だけしておさらばした俺の行動は決死の覚悟と称すには身勝手が過ぎる振る舞いだ。どんな言い訳をしようとも、俺はディアベルやアスナたちに全て押し付けて逃げたのだから。

 

 だからこそ。

 この世界で俺が尊敬し、感謝を捧げていたのはあの時汚れ役を引き受けてくれたディアベルであり、大人としての責務を粛々とこなそうとするエギルのような良識派プレイヤーだ。俺みたいな生意気なガキを事あるごとに構ってくれるクラインにだって感謝している。戦場で最も頼りになるのはヒースクリフかもしれないが、俺が胸に抱く大人像としてはよほどエギルたちのほうが上だった。ヒースクリフのあの人間味のなさがどうしても俺は好きになれない。

 しかし大多数のプレイヤーにとってはそうしたディアベルやクラインのような良識派プレイヤーよりも、圧倒的な実力者であるヒースクリフのほうがその知名度も寄せられる期待も大きかった。そして攻略を第一にするプレイヤーが間違っているかと言えば決してそんなことはないのだ。何故と言って、ゲームをクリアしないことにはプレイヤーが開放されないからである。今日を生きるために明日を犠牲にするようでは本末転倒だった。

 だからこそ攻略組の存在は大多数のプレイヤーにとっての希望であり、憧れなのである。月夜の黒猫団団長であるケイタのように、攻略組へ憧憬と羨望を抱く者は珍しくもない。中層下層プレイヤーにとって攻略組プレイヤーは時に鼻持ちならないような連中であっても、それ以上に尊敬し、願いを託している存在なのだった。

 

 ――強さ。

 それこそがこの世界で最も重視されるステータスだった。

 ヒースクリフもアスナも悪くない。彼らを糾弾する権利は俺にはない。むしろレベル的に抜きん出ていながら最前線から引いている、そんな今の俺の立場こそ卑怯者と謗られるものだった。

 フロアボスと単独で渡り合えるレベルにステータス。それらを支える特異なスキル。磨き上げられたスキル熟練度。強力な装備に豊富なコル。俺のレベルや保有スキルが公表されていないから許されているだけであって、仮にそれらの情報が漏洩してしまえば皆が俺を後ろ指さして非難することになるだろう。少なくとも逆の立場なら俺はそいつを許せないと思うし文句の一つも言いたくなる。なにせ白眼視する理由に事欠かないのだから。そして俺自身、今の自分を中途半端極まりない存在なのだと軽蔑していた。

 月夜の黒猫団に身を寄せたことは仕方なかった。あそこでサチを見捨ててソロに戻ることが出来るほど俺は良心を捨てることはできなかった。なにより、オレンジプレイヤーに堕ちた俺を懸命に支えてくれたアルゴに顔向けできなくなるような不義理な真似など、出来なかったししたくもない。

 

 月夜の黒猫団、そしてサチに手を差し伸べたことに全く後悔がないとは言わない。ではあの時彼らを振り切って協力を断ることが出来たかといえばそれも難しかった。結局はそういうことなのだろう。

 だというのに、仕方なかったのだと自分に言い聞かせる一方で、未だに彼らと出会ったことそのものを厭っている自分が心のどこかにいるのは俺の弱さだろうか、それともずるさだろうか。

 知り合ってさえいなければ今の深入りはなかったのだと、そんな無意味な仮定を並べ、そのたびに今の自分の境遇に焦燥感を募らせるのだ。身動きの出来ない現状に不満を持っているのに未練がましく現状にしがみついている。最前線への復帰だってヒースクリフからの要請がなければ一体何時になっていたことか。月夜の黒猫団との決別だってずるずる引き延ばされていた可能性が高い。

 アットホームな彼らに絆されかけているということもある。ケイタは言うまでもないのだが、他の男性メンバー三人にしても最初はともかく今はギルドに加入して欲しいという内心がわかってしまう。俺の能力目当てだけでないから余計に始末が悪い。打算だけの関係ならこうも思い悩むことはなかった。振り切るのも容易かっただろう。

 そして何より俺を引きとめているのは、月夜の黒猫団紅一点の存在だ。

 

「えっと……またきちゃった。いいかな、キリト?」

 

 扉をノックする音に気づいて部屋に招きいれた俺に向かって、恐る恐るそう口にするサチ。庇護欲をこの上なく刺激するその姿に、頷く以外に答えなどなかった。

 時刻は夜半も半ば過ぎのこと。夕食を済ませて各自が割り当てられた部屋に戻った就寝前の時間だ。

 そんな時間に簡素な寝間着に着替え、持参した大きな枕を抱きかかえて年頃の少女が一人男の部屋を訪ねる。他人に知られたら議論の余地なく誤解されること必至な状況だ。そして俺自身、内心でどんなに頭を抱えていようとサチを拒まなかったのだから、この事態を招いた責任の半分は俺にあった。

 始まりはあの朝に判明した忌まわしい密室PK事件だった。

 安全であるはずの街ですら命が脅かされる可能性に、元々精神が限界だったサチは耐えられなかったのだろう。不安定な状態でモンスターと戦う境遇に戻ったことも悪かったのかもしれない。事件発覚からそう時を置かず、サチは震える身体を引きずるように俺の部屋の扉を叩いた。

 眠りについた自分の横で剣を構える犯人の姿を悪夢に見て以来、サチから安眠の文字は消え去った。それからは眠れぬ夜が続いたらしい。

 無理もない。俺だって眠りについて無防備な自身の横で犯人が舌なめずりをしているような光景を想像し、怖気が走ったのだ。人一倍臆病なサチが恐れ慄いても不思議はなかった。まして死への感覚を鈍磨させていないサチがどう思ったのかなど今更考えるまでもない。

 

 一人で寝ることに耐えられなくなったサチがケイタや気心の知れた他のメンバーでなく俺を頼ったのは、単に俺のレベルがずば抜けて高かったせいだろう。俺の人格よりもこの世界での強さ、男女の倫理より身の安寧を選んだ。意識的にせよ、無意識的にせよだ。

 あの日、恐怖に押し潰され、朦朧とした風体で訪ねてきたサチはとても尋常な様子ではなかった。怖い、助けて、と口にした表情は青褪め、小刻みに震える身体は痛々しいと表す以外にないほどだった。

 俺はサチを追い返すこともできず、かと言って何といって慰めるべきなのかもわからなかった。結局何も言わずに彼女の望むまま布団を共にしたことが、果たしてサチにとって良いことだったのかどうか。それからサチは毎夜俺の部屋を訪ねてくるようになった。

 同情と憐憫、使命感と罪悪感。きっとお互いにあったのは男女間の好意のような甘やかなものではなく、傷を舐めあおうとする野良猫のような共感でしかなかった。サチにとって俺は自分を庇護してくれる守護者であったのだろうし、俺にとって彼女はわずかでも自尊心を満たせる庇護すべき弱者でしかなかった。彼女を守ることで俺の罅割れた心を守ろうとした。誰に対しても失礼な動機だったのだろうと思う。

 

「構わないよ。俺はアイテムの整理があるからまだ寝ないけど、それでよければ」

「うん。ありがと、キリト」

 

 俺の承諾の返事にサチははにかむように笑い、その仕草に合わせて綺麗に切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。俺の部屋を訪れるのも初めてというわけではないのだからもっと堂々としていてもいいものだと思うのだが、それでもサチは毎回遠慮がちに部屋を横切り、いつもの定位置へとおっかなびっくり歩を進めていく。

 そんなサチの姿を横目に、部屋に備え付けの木製のテーブルに装備品をオブジェクト化しては耐久限界値のチェックをしていくのも珍しいことではなかった。部屋にいる時にしていることなどそう多くはない。情報を整理するか、スキルのチェックをするか、狩りでたまったアイテムの仕分けをするか、そんな程度だ。月夜の黒猫団に身を寄せるまでは宿で睡眠を取ることすら少なかった。それを思えば随分ゆとりのある生活に戻ったものだと思う。

 今夜は装備品と消耗品の確認だった。装備類は先日メンテナンスを終えたばかり。確認をするまでもなく耐久値は最高値近い数値になっているはずだし、メンテナンスを済ませて受け取ったときにも一度は確認している。それでも改めてチェックしていたのは、万が一にも手抜かりがあっては命取りになるからだ。なにせ――。

 

「明日、キリトはフロアボス討伐戦に参加するんだよね」

 

 俺の内心に答えるかのような疑問、いや、確認の声だった。

 ベッドの上に女の子座りで腰掛け、持参した枕を抱えたままじっと俺を見つめてくるサチ。不安に揺れる瞳はある種見慣れたものだったが、その内実は随分違っていた。常はモンスターとの戦闘や明日の知れない世界への不安からだったものが、今ばかりは異なる色をしていたからだ。そのことを嬉しいと思い、そして少しだけ寂しくも思う。彼女の精神安定剤という俺の役割もそろそろ終わりが近づいている証左だ。

 

「心配してくれてるのか」

 

 装備品の示す耐久数値のチェックを終え、ポーション類や各種結晶の残り個数の確認をしようと指を踊らせる。

 出会った頃のサチに比べて、今の彼女は大分心に余裕を持てるようになった。そのことを密かに喜び、小さく笑みが漏れた。

 

「当たり前だよ」

 

 弧を描いた俺の口元がサチに誤解を与えてしまったのか、答えるサチの声は幾分咎めるような強い調子だった。

 心配する俺、心配されるサチ。守る側である俺、守られる側であるサチ。強者である俺、弱者であるサチ。

 今日まで変わることなく存在し続けた俺とサチの関係だったが、しかし今夜ばかりはその身を慮る役目は俺でなくサチに与えられていたらしい。

 ヒースクリフ達との会合から間もなくフロアボス攻略会議が開催され、俺も何層かぶりに参加する運びとなった。軍の失墜以降定番になりつつある血盟騎士団副団長アスナを中心に進められる話し合い。そこで討伐のための情報収集として先遣隊が集めたボスの能力や特徴が開示され、本番に当たっての分担が決まっていく。

 その様子を特に意見を出すことなく傍観する俺。

 最終的に俺に振られたのは遊撃としてのソロだ。このあたりは復帰以前と何ら変わることはなかった。パーティーを求められることもないし、俺から求めることもない。最低限ペアが鉄則のフロアボス戦でただ一人のあぶれ者、それが俺だった。

 

 勝手に戦え、俺達の邪魔をするなと言わんばかりの配置だが、真実その通りならそもそも俺がボス戦に参加できるはずもない。一度のフロアボス戦に参加できる最大人数は48人。その貴重な枠を消費してまで不要なプレイヤーを参加させ続けるほど攻略組は酔狂じゃない。

 要は臨機応変に動けということだった。

 そんな俺の立場に物申したい連中もいるのだろうが、フロアボス攻略会議に絶大な影響力を持つヒースクリフとアスナが何も言わないために黙認されているのが現状だった。ただし血盟騎士団の構成員、特にヒースクリフやアスナに熱狂するほどの忠誠心を持っているやつらからは射殺さんばかりに睨まれていたことには辟易としたが。

 

 アインクラッドで何が危険かと言えばフロアボス戦に勝る危険はない。少なくとも大多数のプレイヤーの認識としてはそうだ。だからこそサチはフロアボス戦に参戦する俺の身を心配しているのだし、俺は明日に備えて万全を期してアイテムのチェックに余念がない。そして今日ばかりは夜間のレベリングも控えてじっくり休息を取るつもりだった。

 サチが俺の部屋で眠るようになってからも、俺は変わらず夜間狩りにソロで出かけていた。多くのプレイヤーが寝静まる夜間のほうが経験値効率は上がるというメリットもある。黒猫団の世話をする以前から夜間の攻略とレベリングは俺にとってのルーチンワークと化していた。

 それに日中、月夜の黒猫団に付き合っているだけでは俺のレベルが上がらない。ならば自由の身になれる夜中から朝方にかけてレベル上げをするしかなかった。この世界でも睡眠は必要だが、それは現実世界ほど長時間必要としない。精神的な疲れさえ無視できるのならば短時間の休息で戦闘を続けることなど造作もないことだった。

 勿論それが現実の身体に悪影響を及ぼしている可能性もある。しかしそんなことは全部終わってから後悔するのだともはや割り切ってしまっていた。今までの道程がそうさせたということもあるし、寝たきりの生活を送っている現実の身体に全く不具合が起きないなどという楽観など持って居なかった。開き直ったとも言う。

 

 俺が夜間も狩場に出ていることを黒猫団の皆は知らない。同じベッドで眠るサチも気づいてはいないだろう。俺が宿を抜け出すのはサチが寝静まった後だ。そして朝餉の時間に間に合う頃合を見計らって帰ってくる。転移門が使えるからこそ出来る忙しない動き方だ。グリーンであることの有り難さをこんな形で実感することになるとは思わなかった。

 ……それが俺を頼ってきたサチへの不実な行動だと知っていて、それでも俺はレベリングと迷宮区マップの攻略に赴くことを止めなかった。

 止めることは出来なかったのだ。例の密室PK事件の調査のために夜間も走り回っていたという側面はあったが、それ以上に攻略から完全に足を遠のかせてしまうことは俺にとって到底許容できないことだった。かつての俺の過ち、俺の保有する破格のスキル、そして突き抜けたレベル。その全てが俺を最前線に、攻略に駆り立てる理由となっていたからだ。

 

 《償え》。

 あの日の悪夢が怨嗟となって俺の頭の中で木魂し続け、立ち止まることを許さない強迫観念として絶えず襲いかかってくる。その声に掻き立てられるように俺は毎夜宿を抜け出していたのだった。

 だからこそ日中行われるフロアボス戦への不参加は、俺が月夜の黒猫団に提示できる最大限の、そして俺自身にとってのギリギリの譲歩でもあった。

 それ故、ヒースクリフが俺を中途半端と断じたのは何より俺を端的に物語っていたのだ。

 攻略組に全力で尽力できず、さりとて月夜の黒猫団にも心から仲間入りすることができない。中途半端極まりない有様である。

 二律背反によって揺れ動く心と日々募る焦燥感に限界も近かった。攻略組への復帰を打診するヒースクリフに逡巡することなく承諾したのが良い証拠だ。

 

 ――月夜の黒猫団は、俺にとって背負いきれない重荷だった。

 

 それでも、そうと理解してなお、彼らを見捨てたくなどなかった。俺に縋ってきた震える女の子を突き放したくなんてなかった。

 これが俺の弱さだというのなら、きっと俺は一生強くなんてなれない。そう思う。

 

「確かに私達はキリトがとっても強いことを知ってるけど、だからってフロアボス戦で絶対大丈夫だなんて思えないよ。……思えるはずない。ねえキリト、私ね、ずっとずっと自分が死ぬことが怖かった。ケイタたちの誰かが死んじゃうとか考えたこともなかった。ううん、考えられなかったんだと思う」

 

 サチは目を伏せ、恥じ入るようにぽつりぽつりと口にする。誰かを、仲間を気遣えなかったことを悔いている。しかし俺としてはサチがそう自分を卑下する必要もないと思っていた。精一杯生きる、たったそれだけがひどく困難な世界だ。誰もが強くあれるわけじゃない。

 

「明日キリトがフロアボス戦に参加するって聞いた時、心臓が止まりそうになった。キリトが死んじゃうかもしれないって思って、怖くて怖くて泣きそうになっちゃった。ごめんね、大変なのはキリトなのに……」

「……フロアボスと戦うのは初めてじゃないよ。攻略組だって死ぬまで戦うことなんて義務付けてない。ライフがイエローゾーンを割るようなら即時離脱も許されてるんだ。早々死んだりしないさ」

 

 それが気休め以外の何者でもないことを俺は知っていた。そんなことでどうにかなるなら今までフロアボス戦で死傷者など出ていない。最大限の安全策を施してなお、階層最後のボス戦は死者必至の激戦になる。それは今までの戦績が実証していた。

 ただ俺個人に限って言えば、25層のような極端にレベル差を無視したような凶悪ボスが相手でさえなければ、それなりに生き残ることは出来るだろうと自負していた。支援の望めるフロアボス戦で数値的な意味で死を実感したことは未だにない。勿論危険域に陥ったプレイヤーは撤退するという不文律のせいもあるが、それ抜きでも戦線を離脱したことは一度たりともなかった。

 ただし、単独ボス戦は別だ。今までレッドゾーン、すなわち瀕死域にまでHPが減らされたことも一度や二度じゃない。あと一撃貰えば死ぬという場面に出会ったことも、累積すれば片手じゃきかないくらいだ。この事実はアルゴですら知らない。知られれば例えアルゴであろうと異常者を見る目に変わることは避けられまい。わざわざそんな目を向けられたいと思うような被虐趣味は俺にはなかった。

 

「……死んじゃ嫌だよ。私、キリトが死んじゃったりしたら、もうどうしていいのかわからなくなっちゃうよ」

 

 俺の気休めはサチを安心させることは出来なかったらしい。それはそうだろう。俺自身が信じてもいないことで他人を納得させられるはずがない。それにフロアボス戦の実態を知らないプレイヤーのほうが攻略組以上にフロアボスを恐れる傾向がある。彼らにとっては雲の上の存在である攻略組。その攻略組をして死を前提とするような戦場だということがイメージを悲惨なものにしているのだろう。

 知らないからこそ怖い。楽観されるよりはマシだが、過ぎればそれも毒だ。良し悪しである。

 

「サチはさ、今でも逃げたいと思ってる? モンスターから、戦いから、この街から、黒猫団の皆から。――そしてこの世界から」

 

 いつかサチ自身が語った言葉だ。どうしてこんな世界に閉じ込められてしまったのか、どうして命を懸けて戦わなくちゃならないのか。こんなことに何の意味があるのか。そして逃げたいと訴えた。

 俺はその時、サチに意味なんてないと答えた。そんなものがあるはずがない、と。

 開発者の狂気が俺達をこの世界に閉じ込めた。やつがそこに何らかの意味を見出しこそすれ、俺達がそこに意味など見付け出せるはずもなかった。死にたくない、ただその一念で俺達は戦い続けている。

 

「……うん。今でも思ってる、帰りたいと思ってるよ。でも、キリトに会えたから。キリトがいてくれたから、私は前よりもちょっとだけ頑張れるようになれたんだ。本当はね、ずっとお礼を言いたかった。初めて会ったあの日に。何も言わずに隣で眠らせてくれたあの夜に。でも結局言いそびれちゃって、今日まで言えなかったけど。だからね、言わせてほしいんだ。私はキリトと会えて、一緒にいられてすごく嬉しかった――」

 

 ――私と出会ってくれて、ほんとにありがとう。

 

 それは不意打ちだった。目尻に浮かんだ涙を拭いながら柔らかく微笑んでみせたサチは、今まで見てきた中で一番綺麗な笑顔を浮かべていたと思う。なにせ俺はしばらくの間サチの表情に釘付けにされて、馬鹿みたいに見惚れていたのだから。

 

「キリト?」

「あ、いや、うん。どういたしまして?」

 

 そんな要領を得ない俺の返答が可笑しかったのか、サチはくすくすと小さく笑った。

 こんなとき、俺はサチの仕草から彼女に大人っぽさを感じているのだった。もちろん気恥ずかしいので口に出したりはしないけど。

 バーチャルリアリティの世界では個人情報を秘匿するのが普通だ。しかし月夜の黒猫団は自己紹介のときに何気なく全員が高校生だということを口にしていた。この世界に閉じ込められた当初、俺は現実世界で中学二年生だったわけだから、彼らは最低でも2つは年上だった。

 だから俺がサチから年上の女性の魅力を感じ取ってもおかしくはない……はずなのだが、それを素直に認めるのには何故か抵抗がある。これが世に言う思春期というやつなのだろうか。自分のことなのにさっぱりわからないのはどうなんだろう。

 とはいえ、いきなり面と向かって礼など言われても面映いばかりである。

 

「感謝してもらえるのは嬉しいけど、どうしていきなり?」

「今言っておかないと、最後まで言えずにお別れになっちゃうかな、って心配になったから」

 

 湖面に浮かぶ波紋のように涼やかな声音だった。

 しかし一瞬聞き間違いかと目を見開いたのは、その落ち着いた声に比して内容は別れを示唆するものだったためで――。

 

「サチ?」

「元々キリトがケイタと約束したのは密室PK事件の調査が終わるか、安全地帯であるギルドハウス購入までだったでしょ。密室PKについて解決した段階でキリトが私達に協力してくれる理由はなくなっちゃったから。それとねキリト、私、キリトが夜に宿を抜け出してること知ってるんだよ。だから近いうちに攻略組に戻ることになるんだろうなって思ってた」

 

 ……気づかれていたのか。上手く誤魔化してた自信はあったんだけど。

 

「本当は戻ってほしくない。キリトにはずっと一緒にいてほしい。でも、血盟騎士団の団長さん――ヒースクリフさんみたいな人にまで戻ってくれって言われるほどだもん。キリトは私達、ううん、私が考えてる以上にすごい人なんだなって思った。それがなんだかとっても嬉しくて、すごく誇らしくて、少しだけ……寂しかった。――だからね、いつまでも私がキリトの自由を縛っちゃいけないんだって思ったの。ここにいるよりキリトには相応しい場所があるんだ、って」

 

 サチは強くなった。

 それこそ、俺が守るなんて臆面もなく考えていることを恥ずかしく思うくらい、サチはわずかの間に強くなっていたように思う。

 ゲームの、ステータス的な意味での強さじゃない。誰かを支える強さ、誰かを優しく包み込む強さ。それは俺がこの世界に閉じ込められて最初に捨てたものだった。

 サチは俺を安心させようと、何の心配もいらないのだと穏やかに微笑んでいて。

 私は大丈夫だからと気高く告げる姿は、儚くも美しく俺を圧倒するばかりで。

 そのくせ、不安と寂しさに震える身体を俺に気づかれまいと押し隠そうとする、そんなサチの心が切なくて、愛しくて――。

 

「もういい、もういいんだ。サチの気持ちはわかったから。全部、伝わったから」

 

 サチを抱きしめることに躊躇いはなかった。

 腕の中の華奢な体躯。出会った頃の弱弱しさとは違う、臆病な心を必死に奮い立たせ、勇気を振り絞る健気な女の子がそこにはいた。

 サチは強くなったのだろう。しかし変わらず臆病で怖がりな、この世界に囚われたことを嘆く普通の少女でもあった。

 

「死なないで。絶対に死んじゃ駄目だよキリト。それだけ約束してくれれば私も頑張るから、頑張れるから」

 

 その日、同じベッドの中で初めてサチと向かい合うことができた。

 ずっと目を合わせるどころか背を向け合うようにしてきたことが嘘のように、決戦前夜のその日は息の触れる距離で短く言葉を交し合った。お互いに指を絡ませ、心を通わせ、温もりに包まれながら眠りに落ちていく。

 愛おしいと、初めてサチを異性として欲しいと感じた。

 

 

 

 

 

 天罰だったんだと、後に思った。

 何の覚悟もなしに月夜の黒猫団に肩入れし、中途半端に彼らを鍛え上げて、鍛える俺自身が最前線の戦場と安穏とした平穏の間で揺れ動く、使命感もなければ責任感もない子供だった。上っ面の数字だけを優先する、強引なパワーレベリングの代償を俺は知っていたはずなのに、その事実こそを軽視した。優先順位を誤った。

 ソロで生き抜かなければならなかった俺は、プレイヤースキルの未熟と危機感の欠如が何を招くかを誰よりも知っていたはずだ。フロアボス戦で、あるいは迷宮区の罠で死んでいく攻略プレイヤーをつぶさに見てきた俺が、どうして気づかないはずがある。気づいていて、その上で放置した俺の罪は重い、何よりも重かった。

 ……間違っていたのは俺か。俺こそが、キリトという存在そのものが過ちの原因だった。

 俺と出会わなければ、きっとケイタは攻略組を目指そうなんて思わなかった。俺がいなければ、月夜の黒猫団は平穏に暮らせていた。少なくとも、こうも短期間で攻略組に追いつこうなどとは考えもしなかったはずだ。

 

 ――俺の存在がケイタを狂わせた……!

 

 夢と理想に浸る甘美な道を知らず知らずの内にケイタの眼前に敷き詰め、その先を示してしまっていた。その道はまやかしなのだと、歩く先には落とし穴があるのだと理解させられなかった。理解させたつもりになっていただけだった。

 だからこれは必然だ。起きるべくして起きた、そんな惨劇。

 何もかも中途半端に事に望んできた、そんな俺の愚かしさが招いた自業自得なのだと、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

 順調だった。何も問題などないと思っていた。

 久しぶりのフロアボス攻略戦は犠牲者なしで上手く終えることが出来た。あわよくばと狙っていたラストアタックボーナスこそ逃したが、討伐参加メンバーから死者が出ることもなくボス撃破が出来たことは素直に喜ばしいことだった。参加メンバーの誰もが明るい雰囲気で各々の場所へ解散していく姿を横目に、ひとまずの区切りが着いたことに充実感すら覚えていた。

 月夜の黒猫団のギルドハウス購入も目処がつき、彼らを手伝う契機になった密室PK事件はひとまず解決の目を見た。犯人はいまだわからずじまいだが、大事なことは再犯の可能性を潰すことであり、その点を見れば論理的に矛盾のない手口と対応策が示されたことで誰もが納得のいくものとなった。ヒースクリフ率いる血盟騎士団による発表だったことも安心感につながったのだろう。実際、あれ以来事件が起きる気配はないし、プレイヤー間に蔓延っていたぴりぴりとした緊張感も消え去った。

 俺個人にとってもアインクラッド全体にとってもひとまずは懸案が片付いて良い方向に向かっていると楽観できていたのだ。

 

 後はケイタたちに攻略組に戻ることを告げるだけだ。

 ケイタたちの話では今日、俺がフロアボス戦に参加している間に物件を見繕っておくとのことだった。気に入った物件が見つかれば購入しておくから、ボス撃破祝いと合わせて今夜は派手に騒ごうと笑っていた。

 俺の無事と帰還を疑いなく信じてくれているケイタたちには申し訳ないが、その時にでも月夜の黒猫団を離れることを告げようと考えていた。

 もちろん彼らとの関係全てを断ち切るわけではない。流石にそれは不義理だし、これからも今ほどではないが彼らを手助けするつもりはあった。

 だからフロアボス討伐を終え、予定通り彼らに連絡を入れようとしたところで、黒猫団の反応が主街区にないことを知って思わず顔を顰めることになったのだ。急いで宿に戻ると案の定、メッセージボードに《27層迷宮区に向かう》旨が記銘されていた。……なんだってそんなことを!

 

 黒猫団の皆は今日は狩りをオフにして物件探しに行っていたはずだった。少なくとも俺はそう聞いていたのだ。

 彼らの帰りを大人しく待つという選択肢も考えたが、妙な胸騒ぎを感じて彼らの行方を追うことにした。フィールドダンジョンならここまで心配したりもしないが、彼らが向かったのは迷宮区なのだ、心配になるのは当然だった。

 月夜の黒猫団メンバーの現在レベルと以前共に潜った27層の踏破エリアを思い出し、幾つかの候補を絞りだした上で黒猫団の面々を探し当てようと全力で走り回った。時を経る度に焦燥は増していく。

 かつて俺を追い掛け回したアルゴはどんな気分で俺を追っていたのだろう、ふとそんなことを思った。

 

 幸い皆とはすぐに合流できた。

 聞けば今日の探索は元々予定に入っていたらしい。オフにすると今朝がた聞いていた身としては、悪ぶれずに嘘をついたのだと告げるケイタに文句の一つでも言って構わないだろうと思った。単純な予定変更程度なら問題ないのだが、なにか不測の事態や事件にでも巻き込まれたのかと思ってえらく焦ってしまったからだ。

 ケイタたちの不実をなじるつもりなどないが、事情の説明くらいはしてもらおうと問い詰めれば、フロアボス戦に赴こうという俺を心配させまいとしたケイタの発案だったという。

 嘘をつくくらいなら初めから狩りになどでないか、正直に言ってくれてよかったのだ。もちろん多少の心配はしただろうが、その程度のことでボス戦に支障をきたすような事態になどならない。戦場における優先順位くらいは弁えているし、余計なことを考えていれば死ぬのは自分なのだ。冷たいようだがフロアボスを前にして戦場を共にしていない人間のことまで慮ってはいられない。

 

 どうもケイタはこういうところが抜けているというか、近視眼的なところがある。いや、それは黒猫団全員に言えることか。詰めが甘いというか危なっかしいというか。意図せずピントのずれた行動をしてしまうのは出会った頃から変わらない。

 あまり心配させるなと苦言を呈せば、彼らは皆で顔を見合わせた後おずおずと詳しい事情を口にし出した。俺を心配させないように黙っていたというのは理由の半分というか建前だったらしい。

 なんでも俺なしでも月夜の黒猫団は大丈夫だということを見せて、最前線に戻ろうとする俺を安心させてやろうという目論見が本命だったとのこと。まあPK事件が解決し、俺の離脱を薄々感じていたところにフロアボス戦に復帰をすると告げられたのだ。サチのみならず黒猫団全員が別離の予感を感じたのも仕方ないことか。俺が別れを告げようとしていたように、ケイタたちも俺がそう言い出すことを感じ取って今日の行動につながっていたらしい。

 

 彼らのなんとも殊勝な、そしていじらしい気持ちに複雑な思いを抱かざるをえなかった。

 実際、レベルだけ見れば月夜の黒猫団は中層でも中堅ないし上位陣に迫る水準に成長している。フィールドの狩場に比べれば迷宮区は危険だとはいえ、この第27層迷宮区タワーにおいてもモンスターに限ればそうそう遅れを取ることはないと俺自身判断していたくらいだ。一度連れてきたことだってあるのだ、その時も俺のフォロー込みとは言え問題なく戦えていた。だからこそケイタらも実力の証明に丁度良いとこの階層を選んだのだろう。

 今現在、27層迷宮区で戦うには安全マージンに足りてないメンバーもいる。しかし、本来安全マージンは未知の階層を安全に踏破するための目安レベルでしかない。詳細なマップ情報やモンスター情報が知れていれば当然難易度は下がる。情報さえ揃っていれば一つ二つのレベル不足程度、十分カバーできる範囲なのだった。

 

 そして攻略マップ情報の精査はディアベル率いる青の大海が主導し、安価で広く公開されている。攻略組の考える安全マージンと中層プレイヤーの考える安全マージンの数値が異なるのは当然とも言えた。

 そう、厳密に言えば安全マージンなどそれこそ人それぞれなのだ。俺のようなソロで未知の最前線に挑むプレイヤーは必然的に大きくなり、徒党を組んで既知の攻略済みマップでモンスターを狩る中層下層プレイヤーの想定する安全マージンの数値は小さくなる。ソードスキルの熟練度やパーティーメンバーの人数、プレイヤー個々人の錬度や装備品の充実といった要素をざっくばらんに踏まえた上で、あくまで目安として示されているマージンが現階層に10レベル上乗せした数値なのだった。

 

 黒猫団の面々も迷宮区マップの地図や出現モンスターの種類を確認し、十分な対策情報を集めていたこともあって気楽なものである。

 そうした事情もあり、嘘をついたことを真っ先に頭を下げて謝罪してきたケイタたちにそれ以上文句を言えるはずもなく、なし崩しにパーティーに合流することになった俺だった。我ながら流されているなぁ、と密かに溜息をつく。

 俺抜きでも十分戦えるというケイタの言葉を証明するかのように、黒猫団の皆は前線から俺を外して積極的にモンスターと戦い、そして勝利し続けた。後方から観察する限り前衛の不足は解決していないし連携の粗もまだまだ随所に現れてはいたが、概ね及第点をつけられる戦いぶりだった。メンバー全員の急速に上昇したレベルと質の向上した武装、なにより集団戦の指揮に慣れてきたケイタがリーダーシップを発揮できていたことが大きく、以前の黒猫団とは見違えるほど戦力は充実していたのだった。

 俺の合流以降も特に危なげなく戦闘を繰り返す彼らを見やって、なるほど言うだけのことはあるかと感心した。

 

 そうしてそろそろ宿に戻ろうかというところだった。偶然以外の何者でもなかったのだが、黒猫団の皆が歓声を挙げた対象に俺が思わず舌打ちしそうになったのは致し方ないと思う。……厄介事がやってきた。隠し部屋の発見である。

 ディアベル率いる青の大海のようにマップ作成を熱心にこなすギルドや、迷宮区で発見される希少な宝を求めるトレジャーハンター的な性質を持つ幾つかのギルドにより、通常こうした隠し部屋は早々に発見されてしまう。少なくとも攻略組が突破してから長い時間が経過した場所で貴重なアイテムが取り残されていることはまずない。

 今回のケースはそんな滅多にないレアなケースなのである。皆が色めき立ったこともわからないではない。俺だって隠し部屋に秘められた伝説の武器とか未発見のレアアイテムという単語にはロマンを感じもするさ。すぐさま宝箱に駆け寄って開け放ちたいという感情だってわかる。

 

 しかし俺がもしこうした事態に直面した場合、隠し部屋に踏み込むかといえば答えはノーである。迷宮区に仕掛けられたトラップは、こうしたいかにもな場所にこそ仕掛けられていることが多い。トラップ解除専門のトレジャーハンター仕様のスキル構成持ちどころか、完全戦闘特化ステータスでありスキル所持者である俺では罠に対する耐性が低すぎる。まして俺はソロプレイヤーで助けを求めることが出来ないのだ。その結果、迷宮区で見かけた宝箱は全スルーという決断を泣く泣く下すことになった。なにせ命あっての物種である。仕方がない。

 なにより、宝箱はベータテスターにとっての鬼門だった。

 ソードアート・オンライン開始当初、攻略に有利な立場にあるとされていたベータテスターの死因が、こうした迷宮区に張り巡らされたトラップ群によるものであったことは否定できない事実だ。攻略深度がいまだ一桁の階層だった時分、ベータテスターは一般プレイヤーに嫌われやすいこともあって、ソロないし少数のパーティーが常だった。そうした連中が希少なアイテムを入手できる宝箱という誘惑に負け、トラップに引っかかって実力を発揮できずに死んでいくというケースが多々あったのだ。それは頻度こそ減らしてはいたが現在までその傾向に変化はない。だからこそトラップ解除のような専門スキル持ちが重宝されるようにもなったのだ。

 

 翻って月夜の黒猫団にはそうした探索特化のスキル構成持ちはいない。攻略組志向だけあって戦闘力の確保にまず主眼が置かれ、選択武器の差はあれど皆、戦闘特化のステータス構築とスキル構成に勤しんでいた。唯一サチだけが後方支援スキルの幾つかを取得し始めていたが、それも生産系のものであって探索系のスキルではない。

 だからこそ止めた。迷宮区の宝箱を不用意に開けることは危険なことだと言を尽くして説明したのだが、どうも説明しすぎたようだ。ソロや少人数のパーティーであるからこそ不覚を取りやすいのであって、ある程度の人数と対策アイテムを用意しておけば問題は小さいと読み取ってしまったらしい。

 こんな時ばかり無駄に頭を働かすんじゃねえよ!

 思わずそう怒鳴りつけたくなったのだが、既に場の雰囲気は隠し部屋に置かれた宝箱を開けることに傾いていた。サチだけは俺の心情に気づいているのか、どこか不安そうな面持ちをしていたが、俺が消極的ながら口を閉じてしまった以上声高に反対できるほどでもない。

 俺自身にも楽観はあったのだ。

 念入りに準備しておけば、この宝箱が仮にトラップだったとしても問題なく切り抜けることが出来るだろうと。

 そこにはヒースクリフが指摘したように、全プレイヤーでもトップクラスを誇るレベルを維持する俺の驕りと過信があったはずだ。あるいはこれまで単独であろうとフロアボス戦を切り抜けてきた自信か。月夜の黒猫団だけならともかく、俺が加わればどうとでもなるという傲慢なまでの意識が心の何処かにあったことを俺は決して否定しない。否定出来ない。

 

 だからと言って唯々諾々と彼らに迎合したわけでもなかった。

 油断が死につながることなど、攻略組に身を置いていれば嫌でも思い知る。無策でトラップに向かい合うような真似など怖くてできるはずがない。

 確かに宝箱を開けることそのものには渋々ながら同意した、しかしそれ以上の軽率な真似を許す気はなかったのだ。

 まずケイタ以下月夜の黒猫団の面々には出入り口付近に留まるよう言い聞かせ、さらに虎の子である転移結晶を片手に用意させた。トラップだった場合はすぐに部屋から出ること、閉じ込められた場合は迷わず転移結晶で逃げること、その際宝箱を開ける俺の安否を考慮に入れないことをきつく言い聞かせた。

 俺を見捨てて逃げることに不満を述べたケイタたちだが、「従わないのなら力ずくでも帰らせる」と脅し染みた警告をしたことで渋々ながら納得してくれた。

 もっとも最初から部屋の外で待つよう告げた俺の提案は頑として跳ね除けられただけに、その程度の譲歩はしてくれないとこちらが困る。

 

 問題はないと思っていた。

 まず宝箱がトラップかどうかはせいぜい半々の可能性だ。無事にアイテムが出てくるなら最上である。

 仮にトラップだったとして、いわゆるデストラップと言われるような危険な罠は宝箱を開けた当人に状態異常として麻痺を付与、それから数体のモンスター召喚陣発動による包囲戦闘開始あたりが鉄板だ。ソロならほぼ生存は絶望的。出現するモンスター次第では少人数パーティでも危険である。ベータテスターの屍の上に刻まれた教訓だ、無駄にすべきではなかった。状態異常への耐性を一時的に強化するポーションだってある。対策が出来ないわけじゃなかった。

 もちろん麻痺に限らず幾つかの状態異常を引き起こす別種の罠もあるし、悪質なものだとトラップにかかった本人だけ別の場所に転移させるようなものまである。そこでいわゆる《モンスターハウスだ!》とかなると絶望的だが、幸いというべきかそこまで凶悪な罠はまだ確認されていない。

 

 まあ今回の場合はトラップにかかるのは俺だからそうした最悪の事態になったとしてもどうにでも出来るから問題ない。この程度の階層に出現する敵ならどれだけ数がいようが剣の一振りで切り捨てられる。もう一つ二つ上の階層レベルでも同じだ。これが最前線にプラスアルファしたレベルのモンスター群だったら危なくもなろうが、ここは27層だ。そこまで心配することもないだろう。経験値ブーストスキルの恩恵はそれだけすさまじい効果を俺にもたらしているということだ。

 それら全てが思いあがりだったのだと、後に深く後悔することになる。しかし後悔は先に立たないから後悔なのだ。その言葉の意味を俺は正しく実感することになる。

 俺の肝を冷やしたのはそれから間もなくのことだ。

 

 宝箱は結局罠だった。

 デストラップの異名通り、引っかかった俺には麻痺その他諸々の状態異常が付与された。

 さらに幾つも浮かび上がる召喚陣から次々とモンスターが現れる。

 そして出入り口である扉の遮断だ。

 ここまではいいのだ。懸念はあったが想定の範囲内だ。部屋内部に召喚されたモンスターを殲滅するまでは出入り口が開かない、というのはアインクラッドにおいてポピュラーな罠で驚くようなことではない。

 麻痺も痛いが問題ない。事前に対麻痺ポーションを飲んでいるから無防備に受けた場合よりよほど短時間で状態異常は解けるだろう。

 

 問題は――敵の数が多すぎることだった。

 普通は多くとも4、5体だというのに、この場に召喚されたのは十や二十ではきかない、まさに見渡す限りのモンスター群だった。冗談ではなくこんな数のモンスターに囲まれたことなどないし、そんな大規模召喚を可能にするような罠が存在すること自体、今の今まで知る由もなかった。最前線でもそんな情報は出回っていない。

 油断した……!

 俺の想定を遥かに上回る事態だ。このままではまずい。

 

「皆、すぐに転移結晶を使え!」

 

 麻痺にやられたせいで立つこともままならず、冷たい石床に貼り付けられた俺を召喚されたモンスターが好き勝手に攻撃していく。背に頭に腕に足に剣や槍の攻撃を受けながら、それでもあらん限りの声を尽くして叫んだ。しかし――。

 

「転移できない!? なんでだよ!?」

 

 返った言葉は余りに無情なものだった。

 結晶無効化空間……!

 その名の通り結晶と名のつくアイテム類を全て使用不可にしてしまう恐るべきフィールドのことだ。

 即時撤退の切り札とされる転移結晶が使えなくなるだけではない、瞬時に戦線を立て直すために必須とも言える回復結晶や解毒結晶すらこの空間内では使用が禁止されてしまうのだ、プレイヤーにとってこれほど恐ろしい場所はなかった。

 まさか、と思うこと自体が油断の証左だったのだろう。しかし今更悔いても遅い。

 結晶無効化空間はその存在こそ発見されていたが、罠によって結晶無効化空間を作り出すなどという話は聞いたことがない。まさかそんな悪辣な罠を、今まで一度も宝箱を開けてこなかった俺が初めて引き当てたなどと、いったい何の皮肉だ。しかもトラップ発動以前はこの部屋で問題なく結晶が使えることを確認していたせいで、驚きも人一倍だった。

 

 扉は閉まり、転移結晶は使用不可。よって俺のみならず月夜の黒猫団全員がこの部屋から脱出することは出来なくなった。

 残る手段は出現したモンスター群を全滅させることによる扉の開閉しかない。

 しかしここで問題なのは数も勿論だが、それと同じくらいモンスターのレベルと種類もまずかった。

 召喚されたモンスターは通常この階層に出現するモンスターではなく、三階層上のフロアで出現していたモンスターだった。当然この階層の雑魚モンスターよりも数段強い。HPや守備力が低い代わりに攻撃力がやけに高く設定された、多種多様な武器を操る癖のある人型モンスター種だ。同種でありながら個体毎に別の武器カテゴリーを操るために、間合いの取り方や戦闘の呼吸を掴むのが難しい相手だ。それも集団を相手にするとなると難易度はさらに跳ね上がる。

 月夜の黒猫団のメンバーでは一対一かそれに近い状況ならともかく、多勢に無勢である今の戦場ではとても太刀打ちできない。これで月夜の黒猫団が血盟騎士団並に戦闘センスに優れた精鋭のプレイヤーギルドならどうにでもなるのだが、レベルはともかく戦闘勘が未熟な彼らではこの死地を生き残れないだろう。これは懸念ではなく確信だ。

 だからこそ迷いはなかった。迷うことは出来なかったというべきか。

 

「動くな……っ!」

 

 そう警告を発した俺は、まさに死に物狂いで叫んでいたはずだ。

 

「絶対に動くんじゃないぞケイタ、やつらのヘイトはトラップに引っかかった俺に全て向かってる。攻撃を仕掛けたり下手に騒いでヘイトを高めるような行動をとるんじゃない。いいな!」

 

 幸いと呼ぶには皮肉が効き過ぎているが、敵は人間でなくモンスターなのだ。システムに規定された、プログラム通りにしか動けない虚構の怪物でしかない。やつらのアルゴリズムは小さなゆらぎこそあるものの概ね単純だ。なればこそ、そこに付け込む余地がある。

 今、この場には何十というモンスター全てが俺を中心に集まっている。未だに麻痺にやられたまま動けない俺だが、そんな俺を嬲り殺しにするかのごとくモンスター連中は俺以外のプレイヤーキャラに目もくれていない。まるで誘蛾灯にでもなったような気分だ。

 トラップによって召喚されたモンスターであることに感謝しよう。自然ポップのモンスターではここまで高いヘイト値は得られない。

 

 やつらの動きは今のところセオリー通りだった。

 まずトラップを引いたプレイヤーに対して召喚されたモンスターのヘイト数値が極めて高く設定される。このセオリーに対してプレイヤー側はヘイトの向く先を分散させ、隙を見てトラップに引っかかったプレイヤーの状態異常を回復させることで戦線復帰をさせる。その上で協力して事態を切り抜けるのがこの手のトラップに対抗する一般的な対処法だ。

 迷宮区においてパーティープレイが必須というのは、こうした場面において生存率が飛躍的に増すだけの手段が持てるという点が大きい。ソロでは麻痺を食らってモンスターに囲まれてしまえばそこで終わりだった。経験値効率だけなら秀でているソロプレイヤーが増えない所以である。

 しかし今回は定石とされる対処法を取るわけにもいかない。ヘイトを分散させて黒猫団を戦闘に参加させるわけにはいかなかった。

 

「でもキリト! お前麻痺か何かをくらったんじゃ!?」

 

 だから叫ぶな、聞き分けの悪いやつだな。

 

「トラップで麻痺と毒と出血をもらった。今はリスクブレイクも追加だ。けど助けはいらない。お前らは動くな。動けば死ぬと思え。こいつらは今のお前らのレベルじゃどうしようもないんだ。俺のライフにはまだ余裕があるから大人しくしてろ!」

 

 背後にいるであろうケイタたちに口早に忠告をする傍ら、成すすべもなく減少していく己のライフゲージをじっと見つめる。

 一方的に減らされていく命そのものの数字を見やりながら、己の思考が時々刻々と冷え切っていくのがわかった。

 懐かしい感触だ。心臓が激しく鼓動を刻みつつも思考は無機質で冷たい演算装置と化していく。たった一人でフロアボスを前にした時のような、得もいわれぬ高揚が俺の身を包み込んでいくのだった。

 敵を討つ、ひたすらにモンスターを斬り伏せる、ただそれだけのために意識が集約し全能力が総動員され、何もかもが研ぎ澄まされていく感覚に静かな興奮すら覚えていた。

 しかし時を追うごとに高まる戦意とは裏腹に、俺の身体は未だ自由を取り戻せない。無抵抗に嬲られるばかりだった。

 ……これは部位欠損の追加も時間の問題か。片腕だけならともかく両腕を落とされると少しばかり厄介なんだけどな。

 

 そんな俺の懸念はすぐに現実のものとなった。槍で背後から胸を貫かれ、斧を肩にめり込まされ、宝箱を開けた状態で前方に差し出されたままの左腕を剣で切り飛ばされた。すぐさま視界に赤く染まった警告が出現し、部位欠損を知らせる。なんとも悪趣味な演出だ。

 溜息をつく。

 部位欠損――これで一時的にとはいえ隻腕だ。

 ステータスもさらに低下した。状況はどこまでも悪くなっていく。それでも今の俺に出来ることはない。時がくるまでじっと耐えるだけだ。

 血のように真っ赤なダメージエフェクトが途切れることなく俺の身体から散華していく。刃物が俺の身体に突き入れられるたびに痛みではない、この世界独特の不快感が繰り返され、蓄積されていく。我慢しようと思っても口からうめき声が零れるのは止められなかった。吐き気がしそうだ。

 

 そうして徐々に徐々に削られていくライフ。そろそろ50%を切る。状態異常さえなければこんな格下モンスターにここまで短時間で削られることもないのだが、出血やらリスクブレイクやらのせいで防御力が大幅に低下している。今の俺は防御数値がほとんどゼロに等しい無防備状態だった。その上毒効果で一定時間ごとにごっそりとHPが持っていかれる始末だ。この分だとすぐにライフはイエローゾーンを超えてレッドゾーンまで突入しそうな勢いだった。風前の灯とはきっと今の俺のような立場を指すのだろう。

 

「動くなって……。だって、このままじゃお前が……!」

 

 ――うるせえよ。

 つぶやく。自然と悪態が吐いて出た。

 煩い。煩わしい。いい加減黙れ。幾つもの罵声が脳内に浮かび上がり、それでも怒鳴りつけるに至らなかったのは、きっと俺の最後の理性だ。

 こっちが精一杯全員が生き残る手段を考えて警告してるんだから、せめて大人しく従っててくれ。今のところモンスターのヘイトが全部俺に向いてるからお前らが無事なのであって、何かの拍子に攻撃の矛先が変わってしまう可能性だってあるんだ。俺だってやつらの優先順位全てを把握してるわけじゃない、妙な条件付けに反応しないようお前らには大人しくしててもらわないと困るんだよ。

 プレイヤーの接近どころか、声の一つに反応するモンスター種だっている、俺が動けない状態でお前らにヘイトが向いたらそれこそ絶体絶命なんだって。それくらい理解してくれ、頼むから。

 

 奇妙に冷めた思考が脳を支配し、やがて爆発するように理不尽へ対する怒りが溢れだす。

 何が悪いって、彼らの甘い判断をよりにもよってこの俺が容認してしまったのだから始末に困る。

 月夜の黒猫団がその理想に見合った実力を持たないことなど、彼らに付き合ってきた自分自身が一番わかっていたことなのだ。その判断が常に楽観的であったことも、その根拠がいつだって実態のない自信と勢いだということも。それをわかっていて、どうしてそれを諌めるべき己が彼らに迎合してこんな死地を招いてしまったのか。

 情けない。どう考えても俺の戦場に対する認識が鈍っているとしか思えなかった。

 

「くそ! これ以上は無理だキリト! 待ってろよ、今助けに行く……!」

 

 その言葉にカッと頭に血が昇った。

 ケイタが俺を救い出そうとしていることはわかる。ケイタたちからも俺のライフは見えているのだ、イエローに染まり、レッドに踏み込もうとする今の俺のHPバーは、アインクラッドの常識に照らし合わせれば即撤退を決断するには十分だ。ケイタならずとも、仲間の死を目前にして平静ではいられないのは無理のないことだろう。だからこそなんとかこの局面を打開しようと必死なのもわかる。ケイタの正義感と矜持が黙ってみていることを良しとできないことも。それはケイタの美徳であり、優しさだ。本来は誇るべきものである。

 それでも……それでも……!

 俺の言葉は、俺の警告はそこまで軽いのか。一月に及ぶ俺の尽力は、お前たち月夜の黒猫団のなかでは、危地にあって簡単に無視できる程度の重きしか為していなかったのか。俺がしてきた努力の全てが徒労だったのだと、他でもないお前自身が言うのかよ……!

 

「足手まといだから動くなって言ってんだ! 俺にお前らを見殺しにさせるんじゃねえよ!」

 

 なんとか黒猫団の全員を生還させる。そのためのか細い蜘蛛の糸をお前たちが自ら断ち切ってどうする。

 気に入らない。身の丈に合わない理想ばかりを追い求めるケイタが、危険を危険と認識できない月夜の黒猫団が、そしてなにより――そんな彼らに絆されようとしている俺自身が。

 見殺しにされるのはいい。その程度の覚悟はもう出来ている。そう願ってさえいた。

 だが、見殺しにするのだけは駄目だ。誰も死なせないなんて思いあがったことは言わない。せめて目の前にいる誰かを見捨てるようなことだけはしたくなかった。そんなことに耐えられるほど俺は強くないと思い知ってしまったのだから。

 

 それきり、後ろから聞こえる声はなくなった。

 俺の警告を素直に受け入れたのか、それとも余りの暴言に何も言えなくなったのか。

 どちらでも良かった。必要なことは黙ってじっとしているというその一点のみ。彼らの心情などこの死地にあって何の意味があるというのだろう。文句も罵声も生き残ってから聞いてやる。それは死者には出来ないことなのだから。

 あるいは今こそ彼らと決別する覚悟が出来たというべきなのかもしれない。彼らを切り捨てるかのような発言に自分の逃げ道を失くすという意図があったことは否めない。そうしなければ、いつまでたっても木漏れ陽のような月夜の黒猫団に寄りかかってしまいそうな怖さがあった。

 そんなこと、許されるはずがないというのに。

 

 人を殺した。許されないと思った。死んでしまいたいと思った。死ぬんじゃないと諭された。ならばせめて一刻も早くこのゲームを終わらせてやろうと思った。裁かれるのは向こうの世界に帰ってからだと。

 だというのに安息に浸って攻略から足を遠のかせた。そして今になっても未練がましく縋ってしまっていた。

 

 これほど度し難いことはない。

 だからこれでいい。

 予想外ではあったが、迷宮区の怖さを黒猫団の面々は知った。判断ミス一つで簡単に死地に落とされる場所だということを彼らは学んだのだ。後はこの場を切り抜けることさえできれば、今まで彼らに足りなかった慎重さや用意周到さを身に着ける日もくるだろう。

 そしてこの場を切り抜けることは決して難しいことではなかった。

 レベルだけではない。武器だけではない。ましてプレイヤースキルだけでもない。

 どういった星の巡りあわせによるものなのか、キリトというキャラクターにはよくよく特異なスキルが発現するものらしかった。俺がソロでフロアボスを狩ることに成功した最大の要因の一つ。俺の知る限り情報の全く存在しない希少スキルにして、今まで月夜の黒猫団に付き合ってきたような戦場では決して発動しないスキル。そもそもフロアボス戦以外でライフが注意域に落ちることなど滅多にないため、そうそうお披露目することのない能力値ブースト系スキル。

 

 

 

 スキル名:薄氷の舞踏(ダンスオブナイトメア)

 スキル効果:条件発動型パッシブスキル。

       ライフが50%未満で全能力値30%増加。

       ライフが25%未満で全能力値50%増加。

       ライフが10%未満で全能力値100%増加。

 

 

 今現在の俺のライフは、イエローゾーンからレッドゾーンに差しかかったところだった。すなわち25%を下回ったところである。よって今の俺は薄氷の舞踏の効果により、全能力値50%アップというブースト補正がかかっている状態にある。そこまで確認したところでようやく数々の状態異常が回復し、痺れの抜けた身体は俺の意志のコントロール下に戻った。

 

「――ここからは俺の時間だ」

 

 待ち望んでいた反撃の到来に知らず唇が吊り上る。

 散々好き勝手攻撃してくれた手近のモンスターを今までの鬱憤込みでなぎ払った。

 一撃のもとにポリゴン結晶へと還る硬質な甲冑型モンスター。人の姿を模したそれを粘土細工のように容易く粉々にしていく様にひるむこともなく、感情を窺わせないモンスター群は遮二無二俺を殺そうと襲い掛かってくる。

 この場を満たす数十という数は確かに脅威となる数字だろう。ここが現実ならばどうしようもない戦力差となって嬲り殺されることになっていたはずだ。もちろん現実で暴漢数十名に取り囲まれる状況などまずないだろうけど。

 

 しかしここはソードアート・オンライン、剣を手に戦うアインクラッドである。この世界は数値が全てであり、残酷なまでにシステムが支配するゲーム世界でしかなかった。隔絶したレベル差の横たわる格下モンスターがいくら群れようが俺の剣の糧となるだけだった。

 俺のライフをここまで追い込んだのもトラップによる大幅な防御数値低下と毒効果によるもので、本来の実力差ではやはりここまで追い込まれるはずもなかった。そしてレベル差に加えて、俺の場合追い詰められれば追い詰められるほど凶悪なステータス補正がつくという反則スキル持ちのため、格下モンスターの末路などもはや語るまでもなく明らかだろう。

 ソードスキルの放つ燐光が途切れることなく輝き、その都度ポリゴン結晶が散っていく。

 薙ぎ、払い、貫き、切り刻む。繰り返す。繰り返す。ただただ繰り返す。

 唐竹、袈裟、薙、逆袈裟、刺突。ありとあらゆる斬撃に燐光を纏わせ、ソードスキルの剣閃を叩き込んでいく。時に蹴り技すら駆使して最適な間合いを維持し、剣技に不可避のディレイを極少に留めて殲滅速度を上げる。片手剣スキルの攻撃力には遠く及ばない体術スキルだが、この手の連撃と隙のない戦闘運びを実現するには必須のスキルでもあった。使いこなしてこそのスキルである、隻腕でなければ投剣スキルも交えて徹底的に戦域を支配するところだ。もっともヘイトのコントロールなど必要ないくらい次々と向かってきてくれるので楽なものだった。

 笑みが零れ、腹の底から歓喜の叫びが迸る。もう我慢しなくていい、心の赴くままにひたすら剣を振るうだけだった。沸き立つ胸に抱くは殲滅の二文字のみ。余計なものなど何もいらない。それだけで俺は戦える。

 事ここに至っては部位欠損による隻腕だろうが何の障害にもならなかった。部位欠損で減少したステータス値以上に理不尽なステブーストが俺にかかっているのだから。

 

 おそらくはエクストラスキルに分類されるであろう《薄氷の舞踏》。

 ライフがイエローに突入した時点で撤退が常識と化しているアインクラッドでは死にスキルも良いところの代物だが、俺にとってはこれ以上ないほど《向いている》スキルだった。なにせオレンジ時代はイエローだろうとお構いなしにボスと戦い続け、瀕死を示すレッドに至っても勝機さえあれば戦闘を継続した前科がある。それも一度や二度じゃない。撤退も合わせれば相当数生死の境を垣間見てきた。アインクラッドにおける常識を俺だけが破り続けてきたのだ。――それが命を見切った代価だった。

 グリーンからイエローへ、イエローからレッドへ。HPバーの示す死への足音を意図的に無視する悪癖が俺の中で芽吹き、二度と取り除けないほどに根を張り巡らせていた。

 

 スキルが発現したのも多分そのあたりに理由がある。スキル名称通り、瀕死域を数回、もしかしたらそれ以上繰り返すことがスキル取得条件にでも設定されていたんだろう。他のスキルに比べれば想像しやすい取得条件だった。

 しかしわかったところで公開できるようなスキル獲得情報じゃない。仮に公開したとして、スキル欲しさに自殺紛いの戦闘をされた挙句本当に死なれてしまっては寝覚めが悪いどころの話ではない。今度こそ俺の心が折れる。身勝手と言われようが俺はこのスキルの情報を公開するつもりはなかった。もう、これ以上の罪を重ねたくなかった。

 そんな俺の感傷はともかく、元々のレベル差とエクストラスキルによる破格のステブーストがあるのだ。たかだか30階層クラスに出現する敵程度全て一撃必倒の下に処理できるため、そう時を必要とせずに召喚された全てのモンスターを結晶の光に返すことが出来た。10%近くもHPが残ったのだ、上々だろう。殲滅速度と残HPの予測精度は許容範囲内に収まった。俺の戦闘演算まで鈍ってなくてホッとしたよ。

 

 殲滅か……大仰な表現だな。

 そこにあったのはただの作業だ。喉の奥から激情の声があがろうが気合の剣戟を振るおうが、本質的には怜悧かつ冷徹に、最大効率で以って敵戦力を撃滅するという、極めて単調な繰り返しの作業でしかない。まして戦力差の隔たりが存在するために防御を捨てたところで何の問題もなく、ただただ力押しの可能なつまらない戦場でしかなかった。これでは月夜の黒猫団の参考にもなりはしない。

 かといって殲滅速度を犠牲にして無駄に回避をするほど酔狂な真似を出来るはずもない。俺にとって危険がないからと言って、月夜の黒猫団にとって危険がないかと言えばそんなことは全くないのだから。だからこそ殲滅速度を全てにおいて優先したのだった。

 

 危険だった。本当に危険だったのだ、この部屋は。俺達がかかったトラップは危険極まりない悪質な罠だったと言えよう。

 複数の状態異常を引き起こす第一の罠。

 類を見ないほど多量のモンスターを召喚する第二の罠。

 出入り口どころか転移結晶すら封じ、即時回復のための結晶群をことごとく無効にした第三の罠。

 第27層が最前線だった折にこの部屋が発見されていれば、攻略組ですら甚大な被害が生じていたかもしれない。それほど悪辣な仕掛けだった。

 今回はたまたま隠し部屋が発見されたのが27層を中層と呼べる程度に時間が経過した頃のことであり、たまたま宝箱を開けたのがこの層にいるはずのない高レベルかつ希少スキル持ちだったプレイヤー、つまり俺であったから回避できたに過ぎない。よほどに鍛え上げられたパーティーでない限り全滅必至な罠だった。

 

「ここまで――」

 

 見上げた先には石造りの天上。こればかりは迷宮内部だろうがフィールドだろうがさして違いはない。アインクラッドという石と鉄の城をありありと感じさせる無機質さがそこにある。

 

「ここまでやるのか、茅場晶彦……ッ!」

 

 攻略組だろうが油断すれば待つのは死だというパフォーマンスのためだけに、こんな悪辣な罠を仕掛けるのがお前の流儀か茅場晶彦。

 どうやら思っていた以上に俺達の先行きは暗いらしい。茅場晶彦は最終的には参加プレイヤーにこの世界をクリアさせることを目的にゲームを運営しているのだと考えていたが、どうもその辺りの俺の推測は怪しいものになってしまったようだ。

 隙あらば皆殺し。まさかそこまで極端な運営方針とも思えないが、十分な安全マージンと攻略準備を整えたとしても、そこかしこに全滅の危機が転がっていることは今回のことで背筋が震え上がる程に理解させられた。

 最前線で似たような罠にかけられた時、果たして生還できるプレイヤーがどれだけいることか。

 

 一万人をゲーム世界に閉じ込めた最低最悪の犯罪者だ。人命など大した重さを持ち得ないことはわかっていたが、こうも簡単に人を殺す罠を仕掛けてくるとは。この分では茅場の目的が俺達に命がけでゲームクリアをさせることではなく、命がけでこの世界を生きる人間を観察することにあるんじゃないかと思えてくる。すなわち結果でなく過程の重視だ。俺達が試行錯誤し、剣を手に生き抜く姿を見ることが重要であって、クリアそのものの成否は決して重くはない。むしろ二の次なのではなかろうか。最終的に俺達が全滅しようが、モンスターと命がけで戦い、日々を全力で生き抜く姿さえ見られればそれで良いのだと。

 もしも茅場がそんな思惑で俺達を閉じ込めたとなると、いよいよ生きて現実に帰ることが難しくなる。上層に進めば進むほど死を前提とするようなモンスターや罠が溢れかえるようになってしまうだろう。地獄絵図の未来だった。

 そうならないことを切に願うところだが、さし当たってはトラップによる結晶無効化空間の発生が現実になったことへの警告が必要だろう。今回の俺のように攻略組が不用意に宝箱の罠に嵌るとも思えないものの、結晶無効化空間を発生させる新種の罠の存在は早急に周知しなければならない最優先懸案事項だった。取り急ぎアルゴに連絡を取らねばなるまい。最前線の攻略にはより一層の注意が必要になった。

 

 何がこれからのアインクラッドは良い方向に向かうだ。どん底の中でアルゴという理解者が出来て、カルマ浄化クエストを達成したことでオレンジカーソルの解消に成功し、死者の出ない最近の攻略組の順調さにすっかり警戒を緩くしていた己に呆れ返ってしまいそうだ。

 俺達プレイヤーの未来は決して明るくない。

 このまま何事もなく最上階に行けるなどと思うのは夢物語でしかないと思い知った以上、早急に攻略組に戻って今まで以上にレベリングと装備の拡充も求めなければならないだろう。迷宮区の踏破、そしてラストアタックボーナス狙いのフロアボス戦も積極的に参加するべきだ。今は良くともこれからの攻略組に余力などありえない、可能な限りの総力を結集して攻略に邁進する必要があった。それにレベルアップが必要なのは俺だけじゃない、攻略組全体の戦力の充実も急がねばならなかった。

 幸いというべきか、血盟騎士団のトップ二人とは今回の件で多少の縁が出来た。ヒースクリフはともかくアスナとは攻略について色々と協力できることもあるだろう。

 

 問題は俺自身と各ギルドとの協調関係をどう強めるかだ。ヒースクリフは俺を評価しているようだったが、攻略組のプレイヤーの中には俺を嫌っている連中も少なくない。その筆頭が俺に好意的なヒースクリフとアスナの束ねる血盟騎士団だというのだから皮肉なものだった。あそこの団員が多分一番俺に対する反感が強い。攻略組でもトップギルドという自負があるせいか、ソロで好き勝手動いて協調を乱す俺を面白く思っていないのだ。

 そこまで考えて重いため息が漏れた。やつらの反目は故ないことではない。全ては俺の過去の行状のツケだった。

 やはりオレンジ時代ほどではないにせよ、他プレイヤーとの接触を最小限にして四六時中フィールドや迷宮区に篭るべきか。アルゴには悪いがやっぱり俺にはそっちのほうが性に合っている。というか気楽ですらある。どうせ元ベータテスターで元オレンジプレイヤーの嫌われ者なのだ。

 ならば。

 

「いっそのこと」

 

 全て振り切って全精力、全時間を攻略とレベリングに費やすほうが、結果的には生きて現実世界に帰る可能性が高くなるのではないだろうか。アルゴに諌められて以来フロアボスに単独で挑むことこそ控えているが、なにもボス戦は決戦のみを指すわけでもない。威力偵察程度ならそう文句も言われないだろうし、場合によっては余勢を駆って撃破につなげてしまっても構わない。

 周りから文句も出ようが、ボスドロップ品を格安で譲る姿勢を見せれば不満はあっても黙認する流れには持っていける。攻略組とてフロアボスとなど出来れば戦いたくないのが本音だ。誰だって命は惜しい。

 それにメリットだってある。階層が進めば進むほど経験値効率は上がるし武器防具も充実していく。その恩恵は俺だけでなく全プレイヤーに益するものだ。俺が直接手助けをする必要もなく、各自が勝手に強くなっていくことで戦力を充実させることができる。それを思えば今のうちに行けるところまで行っておくのも悪い選択肢じゃない。問題があるとすれば勝手を繰り返す俺が攻略組から弾き出される可能性だが……。

 

 ――たいしたことじゃないか。

 元々が風来坊のソロプレイヤーなのだ。独断専行も嫌われ者も今更だった。

 ソロが通用しなくなるまでただひたすらに突き進む。最善手とは思わないが十分に利はあるはずだ。

 攻略組にはそっぽを向かれるかもしれない。結果としてソロが通用しなくなった時が俺の命運の尽きるときとなるだろうが、そのときの事はそのとき考えればいい。攻略組にはヒースクリフにアスナもいる。俺が倒れようとも後顧の憂いはなかった。

 命を粗末にするわけじゃないんだ、アルゴも許してくれるだろう。

 

「キリト……!」

 

 背中にぶつかるような勢いで抱きついてきたサチの柔らかな感触と、嗚咽を堪えて震わせる声を耳にして、ようやく月夜の黒猫団を忘れて放置していたことを思い出した。

 

 

 

 

 

「――ここまでやるのか、茅場晶彦……ッ!」

 

 今まで見せたことがない、憤怒を宿したキリトの姿に身震いした。

 すでにモンスターの姿は無く、キリトの失った片腕も時間経過と共に回復していた。目を背けたくなるような凄惨な戦闘は終わったのだ。本来なら仲間の無事を喜びに駆けつけるべきなのだろう。

 しかし言葉無く佇むキリトの背中に僕は声をかけることをできず、ただただ呆然と立ち竦んでいた。

 ここにはいない全ての元凶、まるで最上階にいるグランドボスこそが茅場晶彦なのだと言わんばかりのキリトの姿だ。……そういえばその可能性を最初に指摘したのもキリトだったか。《はじまりの剣士》。彼を呼ぶ異名を一つ思い出す。

 キリトの呟いた声は小さくとも聞き逃すには迫力に満ち満ちていて、とても無視できるようなものではない。嘆きの声のようでいて、決死の声にも聞こえたその言葉。正しくキリトの魂の慟哭だったのだと、そう思うのだ。

 

 思えばキリトには悪いことをした。

 僕の夢のために、サチを出汁にしてまでキリトを僕ら月夜の黒猫団に付き合わせた。キリトを最前線から引き離すことは攻略組にとっても損だということをわかっていながら、それでも僕はキリトを引きとめてしまったのだ。悪いと思いながら、どうしても夢を諦めることは出来なかった。

 実際にキリトの活躍は目を瞠るものがあった。

 効率的なレベリングを可能にする狩場の選定、戦場における的確な指示、そしてモンスターの攻撃をいなし、かわし、弾く妙技。盾無し前衛とは思えない完璧な壁役だった。キリトが加わって以来、回復アイテムの消費がほとんどなくなり、武器の消耗速度が信じられないくらい速くなったのだ。つまり防御の機会がほとんどなくなり、攻撃を仕掛ける回数が飛躍的に増したということだった。当然だが獲得経験値もキリトが加わる以前とは比べるだけ馬鹿馬鹿しい開きがあったわけで――。

 

 あれでキリトの専門は攻撃偏重のダメージソースなのだからどれだけ器用なんだと感心しきりだった。

 それに集団統率の指示もキリトは如才なくこなしていた。僕の面子を慮ってか大抵は僕の了解を取る形だったが、キリトを加えた黒猫団の戦闘ではキリトが影のリーダーだったことは間違いない。この頃、僕がギルドメンバーの皆から「最近戦いやすくなった」と感謝されているのも、キリトの統率を模倣していたことが大きい。もちろん、いずれは自分の力としてみせるつもりだったけど。

 キリトはずっとソロでやってきたというのだから、あの統率力は生来の資質か、もしくはフロアボス戦の中で身に着けたものなのだろう。

 

 そして今日、キリトの真価をこれでもかというほど見せ付けられた。

 叫び。雄たけび。裂帛の気迫。あれほどに猛るキリトの姿など想像すらできなかった。サチにどこか似た物静かな印象が強かっただけに、余計にそのギャップに戸惑ってしまう。

 なにより圧倒的多数における包囲をものともしない攻撃力、凶悪な罠を受けても冷静に最善を選べる判断力と胆力。僕らの手伝いであったころのキリトは完璧な戦闘運びではあったが、そこに激しさや荒々しさは感じさせなかった。しかしそれは全力を振るうまでもない余技に過ぎなかったのだと今ならわかる。

 暴風のような剣技の嵐。一太刀振るえば確実に敵がポリゴン結晶に還る。その姿に頼もしさや敬意よりも先に、圧倒されるほどの畏怖や恐怖を感じた。怖いと感じるほどの強さに肌が粟立ち、次いで憧れた。僕は麻痺にでもかかったかのように一歩も動けず立ち尽くしていたのだ。

 キリト一人いればゲームクリアなど難しくないのではないかと、そんな夢想すら抱かせる強さ。

 ふと浮かんだ、そんな詮無い疑問を軽く首を振ることで振り払った。キリトに抱いた嫉妬と無責任な期待、いや、押し付けを隠すように。

 

 キリトとは長い付き合いではなかった、まだ出会って一月そこらでしかない。それでもキリトは寡黙だが決して口汚い男じゃないということくらいはわかっている。そのキリトがあれだけ言を荒くして僕らを押さえつけたのだ。今回のトラップは本当に危険なものだったのだろう。

 直接敵と矛を交えたわけではなかったが、無数に出現したモンスターの一体一体が最低限この階層レベルのモンスターであったことは間違いない。下手をすればそれ以上のレベルだった可能性もある。僕らもキリトのおかげで大分レベルが上がっていたものの、それでもあれだけの数だ。とても冷静に戦うことは出来なかっただろう。

 実際に僕らはキリトを除いて全員が浮き足立ってパニックになっていた。そんな状態だったからキリトが強い声で指示を出してくれなかったら、それこそわけもわからず暴走する人間が出たかもしれない。そもそも僕自身が感情の赴くままに戦闘へ突入しようとしていたのだ。本来は皆を落ち着かせなきゃいけなかったはずなのに。

 

 足手まとい、足手まといか……。言われても仕方ない醜態だったな。

 胸に去来する情けなさに溜息が零れた。

 キリトにもずっと言われていたことなのだ。死を実感するようなぎりぎりの戦場で、それでも冷静に動けるかどうかが攻略組に加われる一番大事な資質なのだと。それが出来ないプレイヤーから死んでいく。レベルのうえでは攻略組に属していても、フロアボス戦で醜態を晒した挙句に死んでしまうのは、死を目前に冷静になるべき場面でパニックを起こしてしまうプレイヤーなのだと何度も警告されていた。

 僕は今に至るまでキリトの言葉を本当には理解できていなかったのだと思う。理解できたつもりになって、そして本番になれば自分にだって出来るのだと根拠もなく思い込んでいた。そして今日、それがはっきり無理だったのだと思い知らされた。

 

「いっそのこと」

 

 そう呟いたキリトを止めたのはサチだった。

 多分、見ていられなくなったんだろう。戦闘中のキリトの激情は怖いくらいに荒々しいものだった。圧倒的なまでの存在感があった。だというのに、今のキリトの背中からは寂寥と儚さしか感じられない。今にも消えてしまいそうな、そして何もかも振り切って死地に向かってしまいそうな、そんな危うさしか感じられなかった。

 もしかしたら、キリトの尋常でない強さは命そのものを無理やりに業火にくべている代償として得たものなのだと、そう思えてしまったからなのかもしれない。それくらい戦闘中のキリトからは鬼気迫る何かが見て取れた。

 僕ですらそう感じたのだ。僕よりもずっと心情的にキリトに近い場所にいたサチが、そんなキリトに何を思ったのか。

 サチの行動が全てを語っていた。僕らの目を気にすることなく、あの内気なサチが異性を戸惑いなく抱きしめた。そのことに結構なショックを受ける一方で、心の何処かでああやっぱり、という諦めの声が零されていた。

 

 サチがキリトを頼りにしていたのは出会ったその日からだ。それから時を重ねるごとにサチはキリトに惹かれていくようだった。それを止めるでもなく、そして割り込むでもなく、ただ眺めていた僕には何も言う資格はないのだろう。

 そもそもキリトをサチから遠ざけることは簡単だった。キリトは僕らに協力してくれながら、いつでも攻略組へと心を残していたように見えたから。だからキリトとサチを引き離すのなら、少しだけキリトの背を攻略組に押してやればそれで済む話だった。そうすればサチのキリトへの気持ちはただの憧れ、頼れる人止まりで終わっていたと思う。

 それがわかっていても僕はキリトの協力を選んだ。強くなる道を選んだのだ。

 たった一ヶ月だ。だというのに今までの苦労が嘘のようにレベルがどんどん上がっていった。それが嬉しくて楽しくて、サチへの想いよりレベル上げに、目指すべき目標――攻略組への参加にばかり気が逸って優先するようになった。だからサチの心がキリトの元にあるのだと思い知らされたとしても、それは誰のせいでもない、僕自身の責なのだろうと納得できた。……納得できてしまった自分を少しだけ情けないと思う。それは競争相手としてキリトには敵わないと、戦わずして認めてしまったということだったから。

 

 キリトは僕らの前から去るだろう。

 サチを見捨てるとも思えないから完全にキリトとの縁が切れるとは思わない。でも、これ以上僕らに付き合ってはくれないはずだ。そこまでの義理もないし、あの時のようにサチを理由にしても、恐らくキリトはもう残ってくれない。

 はじまりの街で誰よりも茅場晶彦への怒りを示したキリトだ。そのキリトが茅場への怒りを思い出し、再燃させ、真っ直ぐに射抜くように鋭い眼差しを見せた。今までキリトの随所から感じさせた迷いのようなものが綺麗さっぱり消えてしまっている。多分、オレンジだったことへの引け目があったんじゃないかと思う。攻略組に戻ろうとしながらも気が引けて、だからと言って僕らに迎合するかと言えばそんなことはなく、決して打ち解けようとはしないまま一線を引いて距離を置き続けた。

 サチはきっとそんなキリトの繊細な部分に踏み込んだ。そうでなければいつも内気で控えめなサチが、僕らの前であんなにも思い切った行動を取ったりはしないだろう。

 

 ……正しく僕らはキリトにとって足手まといでしかなかった。

 いつかは攻略組に加わるのだと夢見ていた。

 そしていつかは今ではないのだと告げる苦い現実がここにある。

 攻略組に、そしてキリトに追いつきたいと願ったのだ。だというのにキリトの背中が遥か遠く霞んで見えることに改めて気づかされ、こんなにも落ち込んでしまっている。

 もちろん、今までの思いを忘れたわけじゃない。力不足を思い知らされたからと言って、簡単に諦められるわけがない。

 それでも我武者羅に上だけを見ていることがいかに危険なことなのかはキリトが身を持って教えてくれた。これからキリトが抜けて月夜の黒猫団は大幅に戦力がダウンする。だからこそ余計に足元を固めて、一歩一歩目標に近づいていかなければならない。

 

 とりあえずはギルドホームの購入か。

 そして、サチの意志の確認。

 このままモンスターと戦い続けるのか、それともキリトに薦められたように後方支援に役割をシフトさせるのか。

 サチは戦うことを選びはしないだろう。キリトの薦め通り、このゲームがクリアされるそのときまで、後方に退くことを決めるはずだ。サチがあれからも戦えていたのはキリトがサチを守って心の支えとなっていたからだし、元々の予定からしてサチは戦い続けるはずじゃなかった。

 それに今回の件で支援スキルの重要性を改めて考えさせられた。製造スキルである鍛冶やポーション作成、それに商売のような主要支援スキルはこれから先大きな力になる。なんなら裁縫や料理のような日常スキルでもこの際構わない。戦闘方面のサポートでなくても、ギルドホームで留守番や情報整理、アイテムの相場を調べてもらうだけでもかなり助かるのだ。何よりサチにはキリトとのつながりをこれからも維持してもらわなくちゃならない。こればかりはサチが一番の適任だった。

 

 着実に、堅実に、そして諦めず。

 まだまだ僕達の戦いは始まったばかりなのだ。

 誓いを新たに、誰に告げるわけでもなく決意を固めながら。

 アインクラッドの誇る最強の剣士と傷ついた黒猫のどこか切ない抱擁を、ほんの少しの寂寥と共に暖かく見守ることを決めたのだった。

 

 




 《薄氷の舞踏》はオリジナルスキルです。原作には存在しません。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。