ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第23話 剣が紡ぎし物語

 

 

 ――《魔王》ヒースクリフと《黒の剣士》キリトの一騎打ち。

 

 ヒースクリフによって唐突にもたらされた提言は、まるで神託のごとき響きを帯びて広大なコロシアムの隅々まで浸透していった。

 俺とヒースクリフが向かい合う闘技場の中央ではぴんと張り詰めた沈黙が横たわり、観客席に詰め掛けた数多のプレイヤーの間では消えないざわめきが満ちている。

 そんな彼らは今、闘技場にて向かい合う俺とヒースクリフをこれでもかと注視している。その胸の内に尽きせぬ混乱を抱えながら、そこかしこで『今何が起こっているのか』を交し合っていた。少しでも意味ある答えを求め、押し寄せる不安を紛らわせるように囁きあっていたのである。それも当然だろう、こんな展開が待っているとは彼らの誰一人とて想像していなかっただろうから。

 

 すっと双眸を細めて見据えるは、俺達攻略組が、あるいはこの世界の大多数のプレイヤーが相対を待ち望んで止まなかった最終ボス――魔王ヒースクリフ。

 超然とした佇まいを崩さず、ヒースクリフは穏やかに笑んでいた。どこまでも穏やかに、それでいて瞳の中に無邪気な喜びを凝縮したような、ぞくりと背筋に寒気を走らせる危うい光を瞳に湛えている。

 自らの箱庭で囀る、いと小さき者達にこれ以上とない慈愛の眼差しを注ぐような――その様は正しく俺たちを見守る《神》だと思った。傲慢にして不遜。人として持ち合わせているべき何かを踏み外してしまったような、本能的に恐れを抱かせる危険な匂いが漂ってくる。

 

 ヒースクリフは『この場で決着をつける気はあるか』と問い質す先の一言を言い放った後、目立ったアクションを起こさぬまま沈黙を貫いていた。剣士として、戦闘者として獲物を見定めるように楽しげな顔でにぃっと唇を歪め、それでいて研究者然とした温度のない怜悧な目をしている。奴にはマグマのようにドロリと流れる高熱と、吹きすさぶ吹雪のように容赦のない低温が奇妙に同居しているのだ。それが何とも不気味だった。

 

 小さく吐息を一つ。舞台は整えた、後は存分に踊るだけ。いいや、存分に躍らせるだけだ。

 ならば恐れるな、覚悟は決めてきたはずだろう?

 そう自らに言い聞かせ、必要以上に気負うのも馬鹿馬鹿しいと内心の怯懦(きょうだ)を切って捨てる。交わすのならばつまらない視線の応酬などではなく、もう少し建設的な舌戦であるべきだろう。そこから新たに見えてくることもある。

 

「あんたは楽しそうだな。ふん、よほど聖騎士としてのロールプレイは窮屈だったと見える」

「だとしたらそれは君が原因だろう。君の為した予想以上の活躍に胸が弾む思いなのだ、ゲームマスターとしてこれほど喜ばしいことはないよ」

 

 俺の皮肉を一顧だにせず肩を竦める落ち着き払った様子に内心で舌打ちする一方、まずは言質を取ることから始めようと冷静に計算もしていた。大丈夫だ、保険もかけてある。多少強気に出たところで問答無用の展開になりはしない。

 

「そう何度も褒め言葉を繰り返されると、あんたに賞賛されているんじゃないかと本気で思えてくるよ」

「私は初めからキリト君を称えているつもりなのだがね? 君へ抱く敬意と感歎に寸毫の曇りもないよ」

「あんたのは本気なのか冗談なのか区別がつかないんだ」

「ならば全て本気だと考えてくれたまえ」

 

 本当、好き勝手をほざいてくれる。叶うことならすぐさま地を蹴り、刃の切っ先を叩き込んでやりたいくらいである。

 そんな内心の煩悶を押し込め、やや大仰な仕草で溜息を放つ。ちょっと演技過剰だったか?

 

「信頼してほしけりゃ少しは気を遣ったらどうなんだ? あんたはシステム的不死があるからいいけど、俺にそんな反則属性はついちゃいないんだぜ。俺にだけ常在戦場を強いるのがあんたの流儀か?」

「これは失礼をした、そういえば《聖騎士》と《黒の剣士》の決闘は続いているのだったな」

 

 君の不満はもっともだと惜しむ素振りなど一片たりとも見せず、無論のこと悔しがる顔も一切浮かべず、ヒースクリフは短く「降参(リザイン)」と告げて決闘に終止符をつけた。そのまま白銀に煌く長剣を十字盾の裏側へと収めてしまう。

 一旦引いて見せたヒースクリフの挙動を受け、俺も二本の愛剣を鞘に収める。鞘走りの硬質な音が響く中、奴に悟られぬよう密かに胸を撫で下ろす。肝は冷えたが交渉の余地は残された。ここで決断を迫らず静観の姿勢を見せた以上、わずかに残っていた問答無用の可能性は消えたと判断して良い。

 

「最初に確認しておきたい。あんた、どこまで本気だ?」

「どこまで、とは?」

「魔王に挑むかどうかを問うたな。それは前哨戦という意味で口にしたのか? それともここで決着をつける文字通りの決戦か? 俺が命を懸けるに値する舞台なのかを聞かせてくれ」

「この期に及んで無体は言わんよ。心配しなくとも不死属性は解除する。その上で一対一で私と戦い、君が勝てばゲームはクリアされたと見做そう」

 

 その瞬間、潮が引くように会場から音が消えた。

 

「アインクラッドからの開放。それこそが君の、そしてこの場に集った皆の悲願だったはずだろう? 未だ76層という道半ばで提示する報酬としては悪くないと思うがね」

 

 しん、と静まり返った会場は奇妙な静寂に満たされ、張り詰めきった空気はこれ以上となく不穏な気配を帯びていた。それはあたかも鳴動中の活火山を見ているような、そんな落ち着かない気分にさせられ――次の瞬間、臨界に達したプレイヤーの感情が一斉に導火線に火をつけたかのように爆発した。

 怒号。罵声。叫び。

 皆が声を揃えていたわけではない。事実会場に反響した数多の金切り声はてんでばらばらの内容だったし、まとまりなど欠片もなかった。けれど共通するのは『現実世界に帰せ』という希求の心だ。それこそ二年前を思い起こさせる騒乱と狂騒ぶりだった。

 

「お望みの怨嗟の声が届いてるぜ。気分はどうだ?」

「ふむ、悪くない。悪くないのだが……思ったほどのものではないな。君と剣を交えることに比べれば、心の臓に響いてくるものが足りない」

 

 ちらと元凶たるヒースクリフに目をやれば、憎たらしいくらい涼やかな表情を浮かべて佇んでいやがった。いや、それどころか失望しているようにすら見える。面の皮が厚いとはまさにこの事だろう。

 

「少々時間をくれるかなキリト君、落ち着いて談笑をするには些か騒がしいのでね」

「待てよ」

 

 不遜な物言いに反発を覚えている暇もなく、左腕を振り下ろしてメニューウィンドウを開いたヒースクリフに慌てて制止を入れる。

 俺達プレイヤーは通常右腕を振り下ろすことでメニューを展開させるため、おそらくはゲームマスター用か何かの特殊なシステム表示なのだろう。ユイという前例もある、プレイヤー以外のアカウントに用意されている特別コマンドなのかもしれない。どちらにせよそれは使わせるべきじゃなかった。

 

「わざわざあんたの手を煩わせることもない。時間を貰うのは俺の方だ」

「では任せるとしよう」

 

 お手並み拝見と言わんばかりの様子だった。溜息を堪えながらすっと右腕を掲げるように持ち上げ、広げた手のひらを観客へと向ける。

 動作にすればそれだけ。たったそれだけの、けれど俺からの明らかなアクションにブーイング一辺倒だった観客席に変化が生じた。ヒートアップするばかりだった罵声が途切れ始め、少しずつざわめきが収まっていく。

 そうしてヒースクリフの声を聞き取ることすら困難だった怒号の嵐が過ぎ去り、残ったのは痛いほどの沈黙だった。これで静かにならなかったら格好がつかないと内心では冷や汗たらたらだったものだから、こうして面目が立ってなによりだ。

 

「なかなか面白いものを見せてもらったよ。舞台を作る手間が省けた、と礼を言わせてもらうべきなのかな?」

「好きにしろ」

 

 ウインドウを消し、愉悦と観察が半々の顔で軽口を叩くヒースクリフに気のない返事をくれてやると、ますます笑みを深める奴の反応に自然苛立ちが募った。こっちはあんたの一挙手一投足に過敏なまでに反応しなくちゃならないってのに、本当良いご身分だと悪態だってつきたくなる。

 これは幾らなんでも不公平すぎるだろう。一目でリラックスしてるとわかるラスボス様と違い、俺はさっきから神経がごりごり削られるというか、真綿で首を絞められている気分なんだが……。

 

「しかし驚いたな、アインクラッドの支配者様は類を見ないほど勤勉な働き者だ。古今東西、RPGにおける魔王の仕事なんて最上階でふんぞり返ってることだろうに」

「攻略には長い歳月が必要だからね、悠長に最上階で君達を待つだけではあまりに芸がない」

 

 勝手なことをほざきやがる、と小さく吐き捨てる俺を見やるヒースクリフの目は優しかった。遥か上空から見下ろしているような、間違いなくこの男が俺の敵なのだと確信するに足る傲慢ぶりだ。

 

「では改めて問おうじゃないか。キリト君、全プレイヤーの開放を賭けてこの私と一対一で雌雄を決する勇気はあるかね?」

 

 挑発じみた言葉回しは俺を煽っているのか、それともそれが『魔王としての役割演技(ロールプレイ)』なのか、どちらにせよ俺の答えは決まっていた。第一、可能性は低いとは言えヒースクリフが黒幕であることを明かす可能性とて想定していたのだ、この場での最終決戦は当然取りうるべき選択肢の一つだ。

 実を言えば俺の方こそ渡りに船だったというべきだろう。俺は決闘の果てに奴が魔王として君臨するのであれば、初めから一対一の決戦を挑むつもりだったのだから。

 俺の至上命題は一分一秒でも早いプレイヤーの開放だ。聖騎士に勝つことでもなければ百層に辿り着くことでもない。わざわざラスボス自らこちらの土俵に上がってきてくれてるんだ、この機会を逃すこともないだろう。だからこそ俺の答えは決まっていた。

 

「寝言は寝て言え」

 

 否、と。

 聞き間違いの余地なく明瞭な言葉で、ついでに挑発のおまけ付きでヒースクリフの誘いに『NO』と突きつけたのである。そんな俺の答えはヒースクリフは気落ちするでもなくふっと微笑を浮かべ、口を開いた。

 

「これは手厳しい」

「ここであんたと戦うのは正気の沙汰じゃない、それだけで十分だろう?」

「私にはその一言で十分かもしれないが――」

 

 そこでヒースクリフは不意に闘技場をぐるりと囲う観客席に目を移す。そこからは一片の憐憫を含ませた同情に近い感情が見て取れた。物分りの悪い生徒に教師が向けるような目とでも言おうか。

 

「それだけでは納得できないプレイヤーもいると思うがね。君の判断の根拠を彼らにわかりやすく示してはどうかな?」

 

 今度こそ溜息が漏れた。隠す気もないそれには、重量感を増した疲労が多分に込められている。この男は『思慮の足りないプレイヤーにも懇切丁寧に解説しろ』と、取り繕う気もなく俺に促しているのだ。

 

「親切面しながら、その内実は辛辣そのもの。正しく魔王だな、あんた」

「お褒めに預かり光栄だ。大仰に過ぎて小物に見えないかと心配していたのだがね」

「安心しろ、大物なのか小物なのかは知らないが、憎たらしさは間違いなくアインクラッドでトップスリーに入るから」

 

 それは重畳、とやはり笑みを浮かべる。奴が喜べば喜ぶほど俺の気分が急降下していく気がしてやるせない。そのまま貴様は地獄に落ちてしまえ。

 

「さて、あんたの提案を蹴った理由を話せ、だったか? 簡単なことだよ、今のままぶつかったところで俺に勝ち目がないからだ」

「断言するね」

「事実だからな」

 

 ヒースクリフに俺が試されているのか、それともヒースクリフの提案を蹴った後の俺の立場を慮ってわざわざ説明させようとしているのか。どちらにしても気分はよろしくない。というか余計なお世話である。

 

「フィールドや迷宮区で湧出(ポップ)する雑魚モンスターと、階層の番人たるフロアボスを隔てる最も大きな違いは何か。それはHPだ。攻略組が何十人も群がって何百何千と攻撃を繰り返す事でようやく撃破できる強靭さ。それこそがフロアボスをフロアボス足らしめる特徴と言える」

 

 攻略組ならば俺が退いた理由を言われずとも察する。特にフロアボスの経験があるプレイヤーには今更なことだろう。

 ヒースクリフが幾分かの失笑と共に説明を促したのは、つまり『ゲーム攻略を諦め、最前線にわずかの関心も抱かない無責任なプレイヤー』を対象にしていたからだろうと思う。勇なき者は認めない、そんなヒースクリフの言外の声が聞こえてくるようだ。

 もっとも茅場晶彦の判断基準において路傍の石のように扱われる彼らとて、諸悪の根源である世紀の犯罪者にそこまで悪し様に罵られたくはないだろう。それこそ侮蔑の目を向けられる謂れはないと抗弁するだろうさ。

 

「《魔王》としてのあんたがどれだけのステータスを誇るのかは知らないが、プレイヤークラスのHPしか持たない俺じゃどうあがいても勝ちの目が見えないんだよ。たとえあんたが《聖騎士》のままだったとしても、ラスボスに相応しいタフさを持たれたら俺のほうが先に息切れするのは明白だ」

「さすがだね、正確な分析だ」

「馬鹿にしてんのかあんた」

 

 これ見よがしに頷かれると本当に馬鹿にされているように思えてしまう。

 《聖騎士》を相手にした決闘はすなわち《プレイヤーとして許されるルール下での戦い》である。俺はその勝負に勝ったし、その結果としてヒースクリフは俺をプレイヤーの頂点に立つ剣士だと評したのも間違いじゃない。最強の看板は確かに貰い受けた。

 だが、それはあくまでも『プレイヤーに限った』強さの相対評価ではあり、モンスターを考慮に入れたものではないのだ。

 

 ああ、断っておくが階層ボス程度なら俺はソロで下すことも出来るぞ。勿論それには何度かの偵察を元にした対処戦術の構築は必須だし、万全の準備の下にリスクを度外視して、という条件はつくが決して不可能なことではなかった。実際何度かソロでやらかしてるわけだし。

 そういう意味ではモンスターを含むアインクラッドの強さランキングで俺はそこそこの位置につけているのだろう。ざっくばらんな目安として、俺の力は通常のフロアボス一体分、そんなところか。もちろん相性の問題もあるし、これくらいは《聖騎士》にだって出来るから俺が飛びぬけて強いわけでもなかった。

 

 問題は幾度もの偵察と死を覚悟したリスクを負ってもソロでは十戦して全勝とはいかず、六、七回の勝利が限界だということだ。

 俺がボスの単騎撃破を重視しないのは、いいや出来ないのは、ひとえにゲームクリアまでにこなさねばならない階層ボス戦が一度だけではないという点に尽きる。常勝を維持できなければどこかで必ず力尽きることになる、ミスの一つでお陀仏になることを考えれば取り得る選択肢としては現実的ではなかった。

 

 『ソロでゲームクリアは不可能』。それが俺の持論であり、結論だ。

 俺は剣士として自身が持つ価値を知っている。蛮勇に逸って十や二十のボスと引き換えに《黒の剣士》の戦力を失うくらいならば、攻略組の一員として百層まで尽力する方が確実にゲームクリアに近づけるだろう。この二つの選択肢を前にして答えに迷う方がおかしい。――うん、低階層を攻略してた頃の無謀なやり方は黒歴史だから。俺はもう忘れた、だから皆も忘れてくださいお願いします。

 

「戯れに尋ねるけどな、100層で待つ《魔王》の力は75層のクォーターボスだった《スカルリーパー》に劣るのか?」

「戯れに答えるがね、当然ラストバトルに相応しい難易度を用意しているよ」

 

 ありえないよな、という意を込めた俺の質問にヒースクリフは鷹揚に頷く。つまり魔王ヒースクリフはスカルリーパー以上の強さということである。まあ今更というか、想像に難くない事実に過ぎなかった。そもそもの話、ラスボスが中ボスより弱いゲームなんてありえないだろう。

 

「スカルリーパーにソロで勝てない俺が、どうして魔王にソロで勝てると思えるんだか。俺は自殺志願者じゃないぞ」

「それでも君ならば何とかする、と期待しているのだがね」

「生憎、レアドロップ確率よりも悲惨な勝率に賭けるほど俺はギャンブラーじゃなくてな」

 

 ここで戦端を開いても俺に待つのは敗北だけだ。彼我の戦力差を分析すると俺の言い分もよりはっきりする。

 まず獲得経験値アップのスキル恩恵でレベルが馬鹿みたいな数値になっている俺を除けば、アスナに代表される現在の攻略組のトッププレイヤーはおおよそ20の安全マージンを取っている。そうした現状を踏まえて単純に数値を当てはめるとすれば、100層で待つ魔王に挑む推奨レベルは120となる。現在の俺のレベルが123であることを考えればぎりぎりの数値だ。……断っておくが、これは『攻略組の猛者と共に挑む』レベルだということを忘れてはならない。

 

 今の状況、すなわちソロで挑むのなら最低でもさらに倍の安全マージン、すなわち140台のレベルは欲しいところだ。とはいえ、ここで始末に負えないのは、たとえそれだけの安全マージンを確保してもヒースクリフに勝てるとは思えないことだった。

 参考までに75層のクォーターポイントを戦った時の俺のレベルは121、安全マージンにして46という数値を誇っていた。しかしそれだけのレベルを確保し、二刀流というユニークスキルを引っ提げていようとも、単独でスカルリーパーを倒せるとは到底思えなかったのである。事実ソロで挑めば無駄死にという結果に終わるだけだったろう。

 

 ここからは仮定の話だ。スカルリーパー戦はボス情報に乏しい中で挑んだだけに単純に比較することは出来ないが、あの時俺がスカルリーパーにソロで挑んだとして、奴の大鎌を回避に徹することでやり過ごし、多様な死の顎を掻い潜りながら戦うのは十五分から二十分が限界ラインだろうと思う。

 スキルを全開にして決死の覚悟で戦った果てに、あの骸骨百足の五本あったHPバーを削り切る事が出来るか。残念ながらどれだけ奮戦し、どれほどの幸運に恵まれても、俺が与えるダメージが五割に届くことはあるまい。百回戦ったところで百回死ぬだけ、それが俺なりの結論だ。それだけプレイヤーが脆いとも言えるし、クォーターポイントのボスはそれほどまでに規格外なのだとも言える。

 

 そうした戦力差を冷静に計算すると、魔王と化したヒースクリフを相手にするのは俺一人では些かならず戦力不足だった。百層到達時点でトッププレイヤー48人を集めてなお互角、それが想定しうる最終ボス《魔王ヒースクリフ》の強さだ。そんな相手に76層時点でソロで挑むなど甚だ無謀であるし、控えめに言って絶望的という他ないのである。

 

 今ここで決戦に臨むのは時期尚早。その一言に尽きる。

 とはいえ、隠し札が隠し札として機能すればあるいは、とも思うが。しかしボス戦を何度も共にしている以上、《薄氷の舞踏》によるステータス恩恵を受けてブーストされた動きもヒースクリフに何度か見せてしまっている。気づかれていないと思うのは望み薄なんだよなあ……。

 何せ奴こそが茅場晶彦なのだ、当然自身のデザインしたスキルくらい頭に入っているだろう。わずかな情報でもそこから当たりをつけられてしまうのだからたまらない。くそぅ、知識だけでも反則級だぞ。

 

 これだけの退くに足る理由を提示してもゲームクリアのためにソロで魔王に挑めという奴がいたら、そいつは間違いなく鬼畜だろうと思う。ぶっちゃけ俺を殺したいから魔王へと嗾けている、そう疑わざるをえないレベルで人でなし認定してもいいのではなかろーか。

 同時に『それでも』と願ってしまう気持ちも否定できなかった。俺が観客の立場ならやっぱり無責任だろうとゲームクリアを期待する、してしまうと思うからだ。儚い蜘蛛の糸だろうと、目の前に垂らされてしまえば縋らずにはいられないのが人間という生き物だ。……まあ、身体張るのは所詮他人だし。

 

 しかし悲しいかな、俺は当事者なのである。お気楽に頑張れと言っているだけではすまない身なのだった。だからこそ、ここから先は今まで以上に舌先三寸口八丁の戦場、楽しい楽しい交渉のお時間になるのだった。

 ……あー、きつい。胃が死ぬ、マジで死ぬ。誰かこの綱渡りの立場を代わってくれ。

 

「腹芸は得意じゃないんで正直に言わせてもらうぞ」

 

 若干の呆れを含ませた溜息をこれ見よがしに披露する。

 

「俺を公開処刑にしたいだけなら話はこれで終わりだ。あんたも無駄なお喋りに興じてないでさっさと《紅玉宮》とやらに帰れ。そこで一人寂しく俺達の到着を待っているがいいさ」

 

 くく、と低く喉を震わせるヒースクリフを無感動に眺めやる。

 焦りはない。俺の胸には『この男ならば乗ってくるはずだ』という奇妙な確信があった。その程度にはヒースクリフという男を理解しているつもりだ。

 

「今この時、圧倒的に不利な局面でそう言えるからこそ君は面白い」

「おべっかはいらねえよ。俺が欲しいのは茅場晶彦が持つゲームマスターとしての矜持だけだ」

「キリト君の胆力と勝利への執念には頭が下がるよ。良いだろう、私とてワンサイドゲームは望むところではない。君の要求通りゲームバランスは調整させてもらうとも。だが、その前に――」

 

 にぃっと愉悦に歪むように持ち上がった唇が、ヒースクリフの内心を如実に表していると思った。

 ったく、大した狸だよあんた。俺の要求を受け入れると口にしたのも所詮演出なんだろう? 逡巡の欠片も見せず、元よりそのつもりだったと言いたげな顔をしている以上、決戦を前にしたバランス調整は初めからこの男の規定路線でしかなかった。

 

「まずは私の疑問に答えてもらいたい。君への譲歩――いや、報酬(リワード)はその結果如何としよう」

「……わかったよ、ただし採点は甘めに頼むぜ」

 

 苦々しく告げる以外に俺に出来ることもないな。こちとらゲームマスターの掌の上で踊る哀れなプレイヤーなのだ、ヒースクリフが上から見下ろす構図に変わりはなかった。

 

「君が私の正体――『ヒースクリフこそが茅場晶彦である』というこの世界最大の爆弾に、いつ、どのように気づいたのかを話してくれたまえ。君が何を以って確信に辿り着いたのか、その理由をね」

「いつから、ねぇ……」

「おや、答えづらい質問だったかな?」

「そういうわけじゃないんだが……そうだな、ここで『あんたに初めて会った時から疑っていた』って嘯いたら信じてくれるか?」

 

 幾分はぐらかすかのような稚気の混じった答えを返していた。そんな俺の韜晦(とうかい)にもヒースクリフは気を悪くした様子は見せず、穏やかに笑んだまま滑らかに言を紡ぐ。

 

「他ならぬキリト君の言葉だ、素直に信じておくよ」

「……降参、あんた間違いなく大物だよ」

「ありがとう」

 

 迷いなく断言され、流されてしまったことに若干の毒気を抜かれてしまった。どこまで本心なのか今一判別つかないあたり、こいつは冗談と本気の境界が曖昧で周りを困惑させるタイプの人間だ。絶対友達も少ないはず。

 

「最初から疑っていたってのも嘘じゃない。ああ、誤解するなよ。疑いを抱いたと言っても、それはあんたが茅場晶彦かどうかを疑ったわけじゃない。俺はあんたを《アーガス》のスタッフだと考えてたんだ、それこそ最近までな」

「もう少し詳しく聞かせてもらえるかね?」

「あんたの戦いぶりを初めて見たその時に、『ああ、こいつは俺達とは違うんだ』と思ったのさ。……あんた、最初から強すぎたよ。《聖騎士》と呼ばれる前から強すぎたんだ、言ってみれば序盤から戦い方が完成してた」

 

 ヒースクリフは盾を持ったオーソドックスな片手直剣使いとして洗練され過ぎていた。皆が試行錯誤しながら戦闘スタイルを確立させていく中、当時のヒースクリフからは稚拙さや迷いが全く見受けられなかったのだ。少なくとも俺の目には、経験が育む成長という過程がすっぽり抜け落ちた奇妙な経歴のプレイヤーとして映った。

 

「あんたの強さは天性の才能やセンスに頼ったものじゃない、膨大な経験に裏付けされた熟練の技だ。当然疑問に思ったさ、こいつは一体どこでそれだけの経験を積んだんだって」

 

 ベータテストではヒースクリフほどの凄腕プレイヤーの噂は聞いたことがなかった。そもそも俺がヒースクリフから感じたのは、一ヶ月や二ヶ月の先行どころではない圧倒的な剣技の冴えだ。

 

「ソードアート・オンラインは世界初のフルダイブ対応ソフトだ、ベータテスターを超える経験を積めるとすれば製作側の人間しか残されていない。あんたの前歴として俺が当たりをつけたのはゲーム開発スタッフのテストプレイヤー担当、そんなところだな。もしかしたら茅場とも面識があるんじゃないか、って考えたこともある」

「何故尋ねてこなかったのかね?」

「リアルの追及はマナー違反だし、意味があるとも思えなかったから、かな」

「追及しても答えが返るはずがない、そういうことかね?」

「いいや、聞くべきじゃないと思った。誰にだって言いたくないことの一つや二つあるもんだし、あんたは率先してボスの前に立ち、誰よりも危険な役目を自身に課していたんだ。そんなプレイヤーに対して無用な疑いを抱くのは失礼だ、ってな」

 

 それでいいのだと思っていた。誰だって痛みを堪えながら戦っている、ならばクリアへの意思だけを共有できれば十分だと。

 攻略組の先頭に立って危険を引き受ける姿に、あるいはこいつも俺と似たような理由――罪滅ぼしのつもりで戦っているのではないかと、そんな親近感を抱いたことすらあった。

 第一アーガススタッフなんて経歴が公になれば吊るし上げに発展しかねないのだ、軽々に口に出せるはずもない。

 

「どうやら私は君に気を遣ってもらっていたようだね。不覚といえば不覚だ、これでもキリト君に隔意を持たれていることをずっと気に病んでいたのだよ?」

「そいつは悪かったな」

 

 心配せずとも今でもあんたのことは嫌いだよ。

 

「……長いことあんたを見てきたよ。あんたの剣技を初めて目にした時から、ずっと、ずっとあんたのことが嫌いだった。俺にない全てを持ってるあんたを妬んで、嫉妬して、そして……この世界の誰よりもあんたに憧れた。ゲームクリアのための王道を歩めるあんたの心の強さと見識、全プレイヤーの希望として立つ比類なき強さと、それだけの期待を背負って揺ぎ無く立つ威風堂々とした佇まいに、尊敬と憧憬を抱かずにはいられなかったんだ」

 

 滔々と語る唇は滑らかで、留まることなく言の葉は紡がれる。

 

「焦がれたというのなら、俺は《聖騎士》の剣にこそ惚れこんでいたのだろうさ。――俺はきっと、あんたにこそなりたかった」

 

 万感の思いと共に吐き出したその言葉は、一片の偽りなく俺の本心だった。

 強大なモンスターを苦もなく屠る圧倒的な武勇と、精強極まりない騎士団を編成する人望、人徳を併せ持ち、憂いなく王道を往く《聖騎士》の威風。それを可能にしたアインクラッドを見通す深遠の知識、何者も寄せ付けない最高峰の剣技、絶望を払い揺るぎなく立つ英雄そのものの姿。《聖騎士》こそが俺にとっての『道を指し示す者』だった。

 

「君ほどの剣士にそこまで評価してもらえるとは光栄だ」

「間抜けた話だ。俺は始まりから終わりまで滑稽な道化だったんだな。現実世界で茅場晶彦という男に憧れ、尊敬し、アインクラッドでヒースクリフという名の剣士に魅せられた。俺は何も見えていなかったとつくづく思うよ。『俺が茅場なら何を仕掛ける?』『茅場なら俺達をどうしようと考える?』『茅場の真意は、望みは何処にある?』。そうやって、ゲーム開始以来ずっとあんたの思考を追ってきたつもりだったのにな」

 

 自嘲に歪んだ唇が三日月の弧を描く。おかしくておかしくて、笑い狂って泣きたくなるほどに俺はピエロだった。

 

「私は無上の喜びを噛み締めているよ。かつて君ほど私を理解しようとしてくれた人間はいなかっただろう。これも口惜しいと言うべきかな、君がもう少し早く生まれていれば良き親友となれていただろうに」

「俺はあんたの親友なんざまっぴらごめんだ」

「そうかね、少なくとも退屈はさせないつもりだが」

 

 そんな世迷言に付き合ってられるかと内心で散々罵倒し、力を込めてヒースクリフを睨み付けた。

 

「あんたの望み通り、最初の質問に答えてやる。俺がヒースクリフと茅場晶彦を同一人物だと確信した契機は、75層のボス戦後、クラディールに毒を盛られた時に見せたあんたの不自然さからだ。……こいつに見覚えがあるだろう?」

 

 右手を振り下ろしてシステムウィンドウを出現させ、素早く操作する。アイテムストレージから取り出したのは穂先の鋭い短槍――罪の茨(ギルティソーン)だ。かつてクラディールが麻痺状態のヒースクリフに追い討ちをかけて磔にした武器だった。

 

「あの激戦を極めた死闘の最中ただの一度も注意域に落とすことなく戦い抜き、討伐隊を守る絶対の盾の役割を全うしたのは大殊勲だ。だが、いかに聖騎士といえど75層のクォーターボスを相手に無傷で切り抜けられはしなかった。休息を挟まず俺達全員が杯を取った時、あんたのHPも五割に近づいたままだったことは俺も確認してたよ」

 

 ヒースクリフは徒に狼狽することもなく、静かに俺の口上へと耳を傾けていた。

 

「そんな状態で串刺しにされて、まして左手を部位欠損に追い込まれて回復も儘ならない中、あんたどうやって安全域(グリーンゾーン)を維持していたんだ? 神聖剣の補正が盾だけじゃなく、鎧にまで適用されるなんて知らなかったぜ」

 

 どこか嘲りの混じった解説になった。もしも神聖剣がそれほどまでに完全無欠なスキルならば、先の決闘で俺が勝利することもなかっただろう。

 まったく、《罪の茨》とはお似合いだ。本気で皮肉が効いてるよな、もう一回茅場に突き立ててやろうか?

 

「それからもう一つ、俺のHPがクラディールに危険域(レッドゾーン)まで追い込まれた時のことだ。止めの一撃を貰いかけたその瞬間、どうしてあんたは俺の救援に駆けつけることが出来た?」

 

 そう言って次に俺が出現させたのは解毒ポーションだった。サチが丹精込めて作り出してくれる珠玉の一品、俺の生命線だ。

 

「ポーション作成スキルは74層でボスフロアに結晶無効化空間が仕掛けられていた事実が発覚して以降、ようやく日の目を浴びたスキルだ。市場でも俄然プレイヤーメイドのポーションが値上がりしたもんだが――っと、そいつは置いておこう」

 

 一時も目を離すことなくヒースクリフと相対する。余裕すら感じられる奴の佇まいに何ら変化はなかった。 

 

「ありがたいことに俺には凄腕のポーション作成師がサポートについてくれててな、俺が使うポーションは全て最高級の質を誇ってる。これは75層の攻略当時、血盟騎士団ですらポーション作成スキルをコンプリートしているプレイヤーはいなかったことを考えると、とんでもなく恵まれた環境にいたことになるな。さて、ここで疑問が出てくるわけだが……どうしてあんたはそんな俺より早く麻痺毒を解除できた?」

 

 やはりヒースクリフは答えない。慌てて狼狽することもなく、薄笑いを貼り付けて俺を眺めていた。

 

「この際だ、HPのごまかしと併せて麻痺毒の件も神聖剣の補正に理由を求めてみるか? いや、それとも未だ発見されていない新種のスキルの効果だと言ってみるのもいいかもな。あんたならこの場で新スキルを作り出すことだって出来るだろうし」

 

 ここでようやくヒースクリフが口を開く気になったらしい。俺のことを辛辣だと笑い、それはそれは楽しそうに口角を吊り上げる。

 

「75層の事件は私にとっても痛恨だったな。確かにあの時、私はシステムに介入して不正を働いた。気づくとしたらキリト君かアスナ君のどちらかだろうとは思っていたがね」

「攻略組の最精鋭が勢揃いしてたんだぜ。あんたのHPの減少速度や麻痺からの回復時間に、おかしいと違和感を覚えた奴だってそこそこいたんじゃないか?」

 

 ふとクラインやエギルはどうだったのかと、観客席の最前列に陣取った二人に目を向けてみたのだが、彼らは揃って「ないない」と腕を振り振り否定のジェスチャーを返してくれていた。あー、うん、正直者なのは美徳だけど、別に『実は俺も気づいてた』って感じにそれとなく頷いてくれてもいいんだぜ? ほら、ハッタリって大事だし?

 

「他にも真実に気付く者がいたのかどうかは大したことではないな。今この時、私の眼前に立っているのは君だけだ。君だけが私に剣を向けた、それが全てだよ」

「孤軍奮闘はきついんだけどな。まあいいさ、元よりあんたがこの世界のルールなんだ、文句をつけるだけ無駄だとはわかってる」

「潔いことだ」

 

 文句がないって言ってるわけじゃないからな?

 

「キリト君は二週間前には既に私が誰かということに辿り着いていた。ならば何故75層で仕掛けなかったのかね?」

「首尾よく事が運んだとしても、そこであんたが『全部なかったことにする』可能性を排除できなかった。『史上最悪のフロアボスを撃破するも死傷者多数、生存者は《聖騎士》一人のみ』。こんな無茶な筋書きだって、偵察部隊が数分で全滅した惨状を踏まえれば信憑性を持って皆に受け入れられもするだろうさ」

「私が口封じに走るか……。確かにキリト君の立場なら危惧して然るべきものだ。だが、それは杞憂だとはっきり言っておこう。いくら私とてそこまで理不尽を押し付けようとは考えていない」

「へぇ、自分が一万人を拉致してデスゲームをさせてる極悪人だってことを忘れてないようで何よりだ。これで俺も遠慮なくあんたを罵ることができるな」

「手厳しいことだ、程々に頼むよ」

「安心しろ、俺は無駄なことはしない主義だ」

 

 あんたが俺達をこの世界に閉じ込め、気の赴くまま無体な仕打ちを繰り返していることに、毛ほどの痛痒も抱いていないことは嫌ってほど思い知ってるよ。ここでどれだけ責められようが柳に風だってこともな。

 

「そしてキリト君の危惧を解消する答えが今日の舞台というわけだ。なにせこれだけの目撃者がいれば、私の正体を隠蔽することも不可能だからね」

「もう一つ追加しといてくれ。俺達を謀ってきた黒幕を知る権利は誰にでもあるはずだってな」

「それも道理だな」

「あんたの力は攻略に有用だ、利用できるなら利用したほうが良い。プレイヤーに扮したあんたの思惑への警戒は必要にせよ、100層まで茅場晶彦の存在は黙ってようかとも考えた。――だが、俺にはできなかった、あんたを許せそうになかったよ」

 

 感情を排し、淡々と口する。

 

「残念だ、私には君達への害意はなかったのだがね」

「ああ、それどころか好意すら持って眺めていたんだろうな。何もせず、何も言わず黙ってさ。……ふざけんなと思った。75層で軍の全滅を予期しながら座視していたように、あんたの知識と力は《茅場晶彦の望む筋書き》を完成させるためだけにしか使われない。悲劇を知りながら必要な犠牲だからと涼しい顔で許容し、放置する。殺人者(レッド)に負けず劣らず外道の所業だろうよ」

 

 弁解はあるかと吐き捨てれば、罪悪の欠片もなく平然とした顔で「ないな」と口にする、そんなあんたが大嫌いだ。

 ヒースクリフに害意がないからこそ余計に吐き気がする。迷宮区のマップ構造やフロアボスの詳細な情報は言うに及ばず、74層で結晶無効化空間の罠が仕掛けられていたことも、75層が脱出不可能で偵察隊が間違いなく全滅することも、全てこの男は知っていたはずだ。全てを知りながら、自身の目的を成就するためにプレイヤーの犠牲を許容した。いいや、望んですらいたんだ。

 

 何も出来なかったはずがない。この男の知識と立場なら幾らでも犠牲者を減らすことが出来た。血盟騎士団を訪ねて決闘を申し込んだ折に俺が口にした程度のことならば、事前に警告という形で取り繕うことだって難しくなかっただろう。

 結局、茅場晶彦にとって俺達プレイヤーはどこまでも世界を完成させるための歯車、使い捨ての駒でしかない。そんな男に俺達の命運を預ければどうなることか。ゲームを盛り上げるためにこれまで通り犠牲者の数を調整もしよう。劇的なドラマを望んでどこかで俺達を裏切って攻略組を窮地に陥れようとすることだって考えられる。――いつか魔王として君臨する、その予定通りの筋書きに沿って。

 

「死に物狂いで今を生きるプレイヤーを、絶対者を気取って傍観するだけのあんたの遣り口がなによりも許せなかった。それだけじゃ舞台に引きずり出す理由としては不足か?」

「いいや、十分だ。君の怒りは正しい。その義憤は何ら恥じるものではないよ、胸を張りたまえ」

 

 どこまでも抜けぬけと……。

 これは真面目に口喧嘩をすれば絶対徒労感に打ちのめされるな。茅場晶彦という男はおよそ常人に理解できる価値観の持ち主じゃない。保身を考えない邪悪は周囲全てを破滅に導く。理由がなければ『君子危うきに近寄らず』を徹底しなければならない相手だ。

 俺の背筋を撫でる悪寒は一向に止む気配を見せなかった。昂ぶった気分を落ち着かせるようにふっと息をつく。――仕込みはこれで十分だろうと、内心でほくそ笑みながら。

 

 75層のクォーターボスを下した後、クラディールの裏切りに端を発す騒動を経て、《黒の剣士》はついに世界の黒幕こと茅場晶彦の存在に気付いた。それから二週間、葛藤を抱えながらもヒースクリフの正体を暴く機会を待ち、大観衆の見守る中で《聖騎士》に挑んだ。その結果白日の下、高らかに茅場晶彦の正体を突き止めるに至ったのである。全てはゲームクリアへの意思と義憤を抱いたが故に――。

 と、まあ、ここまでの話をまとめるとこんな感じになるのだろうか? 何というか、こうして並べてみると不思議と俺が格好良く見える。実際、感心したように頷くヒースクリフや俺の話を聞いていた観客席の連中は、概ねこんな認識に落ち着いているのではないだろうか?

 

 ――無論、そんなわきゃねーのである。

 

 俺が75層時点で全てを暴いていたとか真っ赤な嘘だ、嘘っぱちだ、完全無欠に口から出任せでしかなかった。75層でどうしてヒースクリフの正体を暴くために仕掛けなかったかだと? そんなのヒースクリフが茅場晶彦だと本気で気付いてなかったからに決まってるだろうが。

 もちろん全てが偽りだったわけじゃない。ヒースクリフの正体に辿り着いた論拠は確かに俺が口にした通りの理由なのだし、奴の失策が俺に疑惑を与え、確信につながったことも事実だった。だが、俺がヒースクリフの不審に気付いたのは75層の騒動時点ではなかった。ヒースクリフ達と別れて76層に辿り着き、駆けつけて来たアスナと会話を交わしていた時のことだ。

 

 あの時、クラディールを無感情に刺し貫いたヒースクリフの姿を思い出し、そこで奴のHPバーがグリーンのままだったことに気付いた。そして一つ疑問に思えば次々とおかしな点が頭の中に浮かび上がり、捨て置くにはあまりに真実味を帯びてしまった。

 あくまで疑惑だ、その時は未だ疑惑のままだった。いや、疑惑だと思いたかったのかもしれない。けれど――。すぐに検証が必要だと密かに動き出すことにしたのである。

 

 解毒ポーションに関しては以前サチとアスナが同席した折にスキルコンプにまつわる話も小耳に挟んでいたし、結晶無効化空間の脅威が膨れ上がっていたため改めて話題に出すのも自然な流れだった。それとなくアスナに尋ねればすぐに答えを得ることが出来た。

 その結果、75層時点では血盟騎士団にスキルコンプしたプレイヤーは存在せず、ヒースクリフも団員の作り出したポーションを使っていたはずだと言質を取れた。

 

 ギルティソーンはリズに頼みこんで調達してもらった。俺が直接買い付けずリズに頼んだのは、万一俺がヒースクリフに疑いを抱いている事実を本人に知られないよう警戒していたからだが、生憎ギルティソーンは市場に出回っておらず、結局リズに一から作り上げてもらう羽目になった。

 ちなみに短槍が完成したのはシリカと決闘した日の事で、リズはその日の内にメンテに出していた俺の愛刀と一緒に届けてくれたのだった。

 

 そうして槍の効力を確かめるために人目につかないよう狩場を厳選し、自身の身体に手早くぶっ刺して貫通ダメージを確かめてみた。とりあえず不快感がすごかったとだけ言っておこう、もう二度とやりたくない。

 そのおかげもあってか検証の結論はすぐに出た。いくらギルティソーンが中層ゾーンの武器だろうと、すぐに引き抜かなければダメージは相当蓄積される。元々減少していたヒースクリフのHPがあの状況からグリーンを保つのは考えられなかった。

 加えてあの時ヒースクリフは部位欠損によってすぐに槍を引き抜けず、回復も儘ならない状態だったのだから確定だろう。一応、クラディールもあれでヒースクリフは殺せると思っていたようだし。少なくともグリーンのまま、というのは不自然すぎた。

 

 ヒースクリフと茅場晶彦が同一人物だと気付いた時、まさに灯台下暗しだと愕然とした。まさかデスゲームの主催者が何食わぬ顔でプレイヤーに混じっているとか予想外に過ぎるだろう。

 そして茅場の面の皮が分厚すぎることにびっくりである。とことん俺達をなめた真似をしてくれる。思わずヒースクリフの闇討ち計画を立ててしまうほどブチ切れた。そんなことをしても返り討ちに遭うに決まってるから自重したけどさ。ちなみに口封じの可能性に気付いたのはこの時だったりする。

 

 俺がヒースクリフとの対決を決意したのは数日前、ユイとの別れを経てはじまりの街に帰ってきた時のことだ。直接の要因は俺がユイに尋ねた『システムコンソールが使われた形跡があるか否か』の答えだった。あの時ユイは自分以外に履歴は残っていないと口にした。

 俺が欲しかったのはヒースクリフの正体を暴いた後、奴がどんな行動に出るかの材料だ。あくまで一プレイヤーとして動き、いわば《縛りプレイ》をしているなら問題なしと出来る。逆に頻繁にアインクラッドのシステムに介入しているようだと、『気に入らないゲーム展開になったらリセットボタンを押す』ような幼稚なメンタルを警戒しなければならなくなる。

 

 とはいえ、どこまでいっても気休めだ。ゲームマスターがアインクラッドに干渉する手段だってシステムコンソールが全てではない。事実、ヒースクリフは75層で小規模ながらゲームマスターとしての権限を振るっていたのだから。

 けれど、信じてみようと思った、茅場晶彦のゲームマスターとしての矜持を信じることにしたのだ。……どのみちヒースクリフに俺達をクリアさせる意思があるのだと仮定する以外になかった、というやや後ろ向きな理由込みで。

 

 決闘に始まり、ここまで回りくどい真似をしてまでこうして大勢のプレイヤーを集めたのは他でもない、俺の命を最低限保障するための小細工である。

 つまり俺は茅場にこう突きつけたのだ。この場にいる全員を消してゲーム続行を不可能にするか、それとも大人しく自身が黒幕だと認めるか選べ、と。ふふん、七千人を人質にしてゲームマスターを脅迫する悪辣プレイヤーの完成である。今日から魔王キリトと呼んでくれたまえ。

 

 俺が意図してヒースクリフを誤解させたのは勝利のための布石だ。単なるハッタリや意趣返しでもなければ見栄っ張りの格好付けでもない、ゲームをクリアするために組み立てた戦略そのものだった。

 

 ――茅場晶彦に勝つためには、奴の望む展開に沿いながら、最後の最後で出し抜く必要がある。

 

 相手はゲームマスターなのだ、極論を語れば俺達をいつでも皆殺しに出来る生殺与奪の権限を持っている。今、この瞬間だって俺の心臓は奴に握られているようなものなのだから、その重圧たるや筆舌に尽くしがたかった。

 同時にそうした問答無用の現実を踏まえて勝利の鍵を見つけ出さねばならないのが今の俺の立場だ。その七面倒くさい命題に挑まなきゃならないことを考えれば、ちょっと小細工を弄したところで文句を言われる筋合いはないと思う。そもそもラスボス騙しても誰も損はしないのだからいいじゃないか。

 

 少しだけ現実を捻じ曲げるために、頭の良い人間の特性を利用させてもらった。俺の口にした少ない情報から最も現実的な、いわば整合性の取れた論理を組み立てさせたのである。ヒースクリフは元々俺を高く評価しているから、それに沿った現実を作り上げることでヒースクリフの望む舞台に近づいていく一挙両得なのだ。――無論、皮肉だが。

 

 ともあれ俺は俺のためにヒースクリフに誤解を押し付ける言葉の詐術を用いた。つまり《黒の剣士》は75層で全てを知りながら万一を予見して引いてみせた、そういう事実と異なる現実に塗り替えさせてもらったのである。

 《兵は詭道なり》。この際、虚名やハッタリ、俺がこの世界で培ってきた全てを使わせてもらう。ヒースクリフとの決闘を組もうと思い立った時、いや、聖騎士がそのベールを脱ぎ捨てる可能性を想定した時からそう決めていた。

 

「ところでヒースクリフ、俺からも75層のことであんたに質問があるんだが?」

「答えは確約できないが、それでよければ聞こう」

「ありがたい。それじゃ、あんたの伝説の逸話――《ヒースクリフにイエローなし》だったか? あんたが頑なにその伝説を守ろうとした理由が今一わからなかったんだ。あれはあくまで戦場の伝説だし、モンスター相手でなくプレイヤー、まして不意打ちにやられた時までこだわる必要もないと思ってたから。けど、これについてはもう答えを貰ったから納得した。不死存在が発覚しちまうんじゃ介入も止む無しだったんだろう、あの場で正体を明かす気がなかったってことで説明がつく。だが――」

 

 すぅっと目を細めてヒースクリフを睨む。

 

「75層であんたはゲームマスターとしての権限まで使って麻痺を解き、瀕死の俺をクラディールの剣から守ろうとした。――らしくもない恣意的な介入だ。あの時、何故俺を助けようとした?」

「あれは思い出してみると些か赤面ものの失態だったな、私が手を出すまでもなく君は窮地を抜けていたのだから」

 

 ぎりぎりには違いなかったけどな。あの時俺が生き残ることが出来たのは、時間稼ぎに付き合ったクラディールが間抜けだったからだ。

 

「ゲームマスターとしても著しく公平さを欠いた行動だったぜ。本来なら俺を見殺しにするのが正しいゲームマスターの在り方だったはずだ」

 

 結果的にヒースクリフの行動は無駄骨に終わり、それどころか俺に茅場晶彦につながる決定的な証拠を提供してしまった。ヒースクリフにとっては踏んだり蹴ったりの顛末だ。もしもあの時ヒースクリフが《プレイヤー》に徹していれば、俺はその正体にも気付かなかった公算が高い。

 

「私は君のファンだからね、早々に退場させるには忍びないと思った」

「俺にあんたの冗談に付き合う余裕はないぞ」

 

 一度そのふざけた頭をぶっ叩いてやろうか?

 胡乱な目付きでそんな文句を吐き出す寸前の俺に、ヒースクリフはそ知らぬ顔で「冗談ではないよ」と口した。

 

「私以外に唯一確認されている貴重なユニークスキル保持者(ホルダー)を、あのようなつまらない計略で失いたくなかった。そういえばキリト君に満足してもらえるかな?」

「唯一? あんたも把握してないのか?」

「見ればすぐにわかるスキルもあれば、そうでないものもある。スキル保持者が人目に触れないよう隠蔽しているなら私にだってわからないさ。私の知りえる情報は『プレイヤーとして得られる情報』に制限しているのだよ、そうでなければつまらないからね」

 

 そこでヒースクリフはぐるっと観客席を見渡し、口元をわずかに歪めた。

 

「私が用意したユニークスキルは全十種ある。それぞれ取得は困難だが決して不可能な条件を設定した覚えはない。つまり可能性だけならこの大観衆の中にユニークスキル保持者が潜んでいることも十分考えられる」

「それ以上は止めておけ。プレイヤーの結束を乱すことはあんたの本意じゃないだろう」

 

 ヒースクリフもそれ以上こだわる気はなかったのか、軽く観客席を一瞥しただけですぐに俺へと視線を戻した。

 

「キリト君らしい考えだが、やや過保護ではないかね?」

「足手纏いはいらない、それだけだ」

 

 強制されて最前線を戦うようでは末期だろう、モチベーションの低いプレイヤーなんぞ最前線ではすぐに死ぬぞ。

 

「あんたこそ過保護が過ぎるぜ。今でも攻略組筆頭のつもりなのか?」

「おっと、二年近く続けたロールプレイだったせいかまだ癖が抜けていないようだ。まあ予定では95層まで《聖騎士》の役割を全うするつもりだったのだがね」

 

 苦笑を零すヒースクリフだった。 

 

「老婆心ながら忠告しておくと、ゲームも終盤になればますますユニークスキルの重要性は高まるよ。今のままではゲームクリアは遠いぞ、キリト君」

「どうせサービスするなら言葉は正確に選べ。今の攻略組じゃラスボスを倒すのが難しいってだけだろうが」

 

 迷宮区の攻略やフロアボスの撃破に戦力が足りないとは思わない。クォーターボスも残っていない以上、懸念があるとすれば最終戦のみだ。

 

「ふふ、君ならばわかるだろう? 物語の途上で不可解な助言を残すのは悪役の美学だよ」

「ゲームのお約束を現実に持ち込むな、不愉快だぜ」

「《現実》か、最高の褒め言葉だな」

「強制的に巻き込んでおいて何て言い草だ」

 

 まあいいさ、と溜息しか出ない俺と愉しげに笑うヒースクリフの姿はいかにも対照的な図だった。

 それでも……つながった、と思った。ユニークスキルはMMOの公平さ(フェアネス)を壊すバランスブレイカーだ。その規格外な存在を茅場が設定した謎にようやく答えを得ることが出来た。

 この時、俺の身体を重くしていたのはどうしようもない疲労感だった。俺もまた奴の物語を構成する歯車だという事実が浮き彫りにされ――全てがあの男の掌の上という現実に改めて気づく。

 

「ユニークスキルは対魔王を想定した、ゲームクリアの切り札としての役割を負ったスキル。あんたが言いたいのはそういうことだろう?」

「ご名答。君は察しがよくて助かる」

「……予想できなかったわけじゃないからな」

 

 何せ俺自身がユニークスキル使いだ。

 

「俺はあんたが公平さ(フェアネス)を崩してまでユニークスキルを制定した意味を、クォーターボス、ひいてはグランドボスの強さとトレードオフしたものだと考えていた。つまりラスボスはユニークスキルがあって初めて対等に戦える相手なんだろうってな」

 

 最初に気づくべきだったんだ、と吐き捨てるように続けた。

 

「二年前、最初のチュートリアルであんたは最上層でラスボスを倒し、ゲームクリアすることでアインクラッドからの脱出が可能になると口にした。その時点でこの世界はMMORPGの形式からも外れたのだと理解しておくべきだった」

「興味深い見解だね」

「MMORPGの大きな特徴の一つに《終わりがない》ことがあげられる。クエストはあくまで冒険の一環であって、クリアしたからと言ってエンディングが訪れることはない、それが本来の形だ。なのにあんたはそのMMORPGの世界に明確な終わりを用意した、筋書きのあるドラマ(シナリオ)を望んだんだ。ソードアート・オンラインはMMOというより、むしろフリーシナリオ型のコンシューマーRPGに近い」

 

 それを理解した時、ユニークスキルにも明確な意図があったのだと気づいた。

 

公平さ(フェアネス)が売りのMMOではなく、シナリオの存在する一般的なスタンドアロンRPGだと考えれば、ユニークスキルはあって当然の舞台装置になる。魔王に立ち向かう勇者だの伝説の剣に選ばれた戦士だの、そうした唯一の特性(ユニークネス)はコッテコテのファンタジー系要素だもんな。そうした《特別》がないほうが珍しい」

 

 主人公属性と言い換えても良い。古今東西、物語の勇者には秘めたる力が眠っているものだ。それがファンタジー世界のお約束という奴である。

 アインクラッドをそうした《ファンタジー要素の金字塔》に当てはめるなら、強大な力を持った《魔王ヒースクリフ》に抗うための選ばれた十人の勇者(ユニークスキル使い)となるわけだ。まあヒースクリフの口ぶりから十種全てが最前線に揃うことまでは考えていないようだけど。

 

「キリト君の語るゲーム形式については意識していたわけではないが、言われてみれば思い当たる節もある。私が具現しようとした世界、その基礎になった原初の風景は、確かに君が語るコンシューマーゲームから色濃く影響を受けているはずだ」

 

 うん、茅場の幼少の思い出とか人格形成とか、その辺りの事情は正直どうでもいい。最悪なのは、ゲームの世界に人間を放り込んだために、形式上同時接続したプレイヤーが冒険に励むMMORPGが成立してしまっているということだろう。勘弁してくれ、ほんと。

 

「ユニークスキルを攻略に生かすも殺すもプレイヤーの意思次第だ。そういった意味では君の二刀流は特別だよ、然るべき者に然るべきスキルが渡る典型として用意されていたのだから」

「どういうことだ?」

「二刀流スキルは全プレイヤー中最大の反応速度を持つプレイヤーが手に入れることになっていた。この反応速度だが、仮想世界における活動は全て脳内の電気信号に支配されている、つまり反応速度を高めるということは脳内信号の受け渡しを最適化させ、脳機能そのものの活性化を図るということだ。君も薄々気づいているのではないかな? 反応速度を高める一番の近道は、仮想世界において複雑かつ精密な動作を短時間で濃密に繰り返せば良いのだと」

「……まあ、経験則でいいなら実感してる」

「構わんよ。私とてまだ人体と仮想世界の関係性の全てを把握しているわけではないのだから」

 

 ヒースクリフの言ってることは、反応速度を鍛えたいなら四六時中強敵との戦いに身を置いておけば良い、となる。戦って戦って戦い抜くのが一番この世界に最適化される方法だというのは、俺の経験則でも正しいと語っていた。

 しかし科学の最先端たる仮想世界で、よりにもよって最も重視されるのが戦闘主義の脳筋理論ってのは何か間違ってないか?

 

「最前線に要求されるのが意思と力を併せ持った剣士だというなら、その先頭に立つ君に二刀流スキルが宿るのは必然だった。二刀流こそが魔王に対抗するための勇者たるスキルだったのだと、今はそう思うよ」

 

 ユニークスキルを得たから勇者になるのではなく、勇者だったからこそユニークスキルを得たのだと、そんな大仰な物言いをするヒースクリフに思わず失笑が漏れた。

 

「笑わせてくれるなよヒースクリフ、何が反応速度が最大のプレイヤーに二刀流が与えられる、だ。その反応速度だって俺は二番手のはずだぜ、目の前に二刀流を得るに最も相応しいプレイヤーがいるんだから」

「私は員数外だよ、なにせ神聖剣を得ることが決まっていたからね。取得条件を満たしても他のユニークスキルが被らないようにあらかじめ設定を加えていた」

「親切設計なことで」

「その取得条件にしても早々達成できないようにしていたつもりなのだが……。複数のユニークスキルを身に着けてしまうプレイヤーが現れるのだから面白い」

「予定外だったからってあんたの設定ミスのツケを今更こっちに回さないでくれよ」

「私の正体に気づいたことも含めて、この世界最大のイレギュラーは間違いなく君だろうな」

 

 実に楽しませてもらった、と。

 

「キリト君が《半減決着モード》の決闘を提案してきた時、よもやと思ったよ。同時にまだ正体を明かすのは早い、とも」

「へぇ、妙なことを言うじゃないか。俺はあんたがプレイヤーを相手に宝探しゲームでもやらせてるつもりなのかと思ってたぜ。あからさまにヒントをばらまいて自分の正体が暴かれるのを待ってたように見えたからな。注意域に落ちる攻撃を食らえば、これみよがしにシステム的不死まで表示されるように設定してたのはそういうことだろう?」

 

 それはどこかで自身の正体が暴かれることを期待していたのではないかと疑いを抱かせるに十分な振る舞いだ。そして、隠した宝を見つけてもらえるようわくわくしながら見守る子供のメンタル――遊び心に富んだ稚気を多分にこの男は持っていた。

 

「宝探しゲームとは言い得て妙だな」

「あんたは一度クラディールの手で正体を暴かれかけてるんだ。万一を考えてHPが注意域に落ちても問題ないように再設定されてるもんだと思ってたぜ?」

 

 ちょっと設定を弄くって不死存在が発覚するラインを押し下げるくらいは造作もないだろう。だからこそ俺が決闘に求めた一番の目的はヒースクリフの《伝説》を終わらせることだった。

 

「初志貫徹は大事だよ? ただ、非礼を承知で言わせてもらえば、私が茅場晶彦だと名乗り出ることも含めて決闘の勝敗はどちらでも構わなかった。いや、それどころか私は、どこかで君が私の思惑を超えることすら期待していたのかもしれん。決闘の最後に私が見せた動きを覚えているかね?」

「ああ」

 

 アバターがぶれるほどの人智を超えた速さのことだな。

 

「キリト君には謝罪しておかねばなるまい、オーバーアシストは本来聖騎士が使って良いスキルではないのだ。焦りと期待、そのどちらが大きかったのかは私にも定かではないが、ついつい禁を破ってしまった」

「つまりオーバーアシストはシステム外スキルじゃないってことか」

「その通りだ。ユニークスキルが魔王を打倒するためのスキルならば、オーバーアシストは複数のユニークスキル保持者を相手取るための魔王専用スキルとして用意した。先の決闘では最後の一瞬、君の攻撃を回避するために使わせてもらったのだが……まさか追随できるプレイヤーがいるとは思わなかったよ」

「ぎりぎりで反応できただけだ。最後まであの速さを維持されたら俺の迎撃も間に合わなかった」

 

 あれはもうステータスが云々という次元じゃない。俺がどれほどステータスをブーストしたところで、ヒースクリフが見せたようなアバターがぶれるほどの速さを実現したことはないのだから。まさしくユニークスキル使いを複数同時に相手取るためのスキルだった。

 

「だが、事実として君はオーバーアシストがもたらす『加速された』世界に自力でついてきた。いわば魔王と対峙する資格を自らの力で証明したのだ。あの瞬間、私は沸き立つ歓喜に打ち震えていたよ。人とは未だ深遠の先に立つものなのだな、君は人間の行き着く一つの可能性を見せてくれた」

 

 超反応をもたらすオーバーアシストは、原理としては俺の《加速世界》に近いもの……なのか? とりあえずシステムの補助で入るという差異こそあっても、自由に使えるという意味では汎用性はあちらのほうが上だろう。おそらくは俺が身に着けたシステム外スキルの発展系か完成系になる。

 しかし――。

 ご機嫌なヒースクリフに自然舌打ちをしたい気分で一杯になった。こっちはそんな学術的興味よりも生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよちくしょう。本気で逃げ出したくなってきた。

 

「聞きたいことは聞かせてもらった。そろそろ約束の報酬とルールを提示させてもらおう。まずはプレイヤー開放を賭けた一対一の決闘を選択する権利を与える。次に当然のこととして不死属性の解除を約束しよう。最後に私のHPを聖騎士のまま据え置きとし、決闘はお互いのHPがレッドゾーンに踏み込んだ状態から開始するものとする。この条件でどうだね?」

「悪くないな、観客を退屈させずに手早く結果が出る」

 

 強がることで自身を鼓舞するのだってもう慣れた。

 この戦いは初撃決着モードと完全決着モードを併用した変則ルールとなる。ソードスキル一発でHPバーが吹き飛ぶ、文字通りに一刀が全てを決する真剣勝負だった。

 

「《オーバーアシスト》は封印してくれないのか?」

「HPをレッドゾーンに設定した意味を理解できない君ではないだろう? キリト君には《聖騎士》と渡り合う程度で満足して貰っては困る、今こそ君の底力を見せてくれたまえ」

 

 やっぱり隠し札は機能しないか。

 

「わかった、それでいい」

「了解を得られてなによりだ。では早速決闘申請を――」

「ちょお待ってんか……っ!」

 

 突然木霊した関西弁が、決闘申請を出そうとしていたヒースクリフの動きを止めた。

 あ、なんかデジャブ。一瞬遥か彼方の記憶の端っこに引っかかる既視の思いが俺を回想に導こうとするも、すぐに気を取り直して声の発生源を探った。ヒースクリフのみならず全員が声の主へと視線を向ける。

 案の定というか、そこにいたのはキバオウだ。観客席から勢い良く飛び降り、闘技場の砂地へと着地を決めたところだった。いや、乱入者はキバオウだけではない。まるでキバオウの叫びが合図だったかのように次々と闘技場の土を踏むプレイヤーが増えていく。迷いなく迅速に行動を開始したのだった。

 

 ――違う、これは偶然じゃない。

 

 瞬く間にヒースクリフ包囲網を完成させた手腕と、キバオウを除いて降り立った全てのプレイヤーが俺の知己――攻略組でも中核を成す最精鋭であることを考えると、これは偶発的な暴発ではなく、統率された集団の動きに他ならない。

 

「キリト君、ここは引いて。魔王との一騎打ちなんて無謀よ。わたし達はここであなたを失うわけにはいかないの」

「アスナ……」

「そうか。首謀者は君だな、アスナ君」

「ええ、僭越ながらわたしが指揮を執らせていただきました。まさかここで弓引くは背信だ、などとはいいませんよね?」

 

 俺の隣で静かに剣を抜き放つ玲瓏の少女は痛みを堪えるように苦しげな表情をしていた。数刻前までは敬愛すべき上司だったのだ、いきなり不倶戴天の対象とは見れないだろう。視線を滑らせばゴドフリーが先頭に立って数名の血盟騎士団のメンバーを引き連れている。彼らは皆内心の憤りを必死に押さえつけているようだった。裏切られた、との思いだろうか。握り締める武器の柄が悲鳴をあげているようだ。

 

 他にもエギル、クライン、ディアベル、シュミットもいる。フロアボス戦の常連メンバーを厳選して集めたか、この短い時間によくこれだけの臨時編成を組めたものだ。

 くそ、と内心毒づく。それは悪手なんだよ、どうしてわからない。……いや、俺の失態か。交渉に時間をかけすぎてみすみす彼らを舞台にあげてしまった。

 

「無粋な闖入者を許した覚えはないのだが、この場は好都合か。アスナ君には伝えておくべきことがあったからね」

「なんでしょう?」

「団長の引継ぎを済ませていなかったと思ってね。今日から君が団長として血盟騎士団を率いると良い。何ならキリト君にその座を譲り渡してもかまわんよ」

「あなたは……っ!」

 

 あまりの言い様に不愉快げに顔を顰めたアスナだが、どうもアスナよりも周囲のプレイヤーのほうが怒気を高めているようだ。特に血盟騎士団の連中は怒髪天の勢いだった。

 そしてもう一人。全身から立ち上る怒りを抑えることなく、元凶を睨みつけるプレイヤーがいる。

 

「ほんまけったいな真似しくさってからに、《黒の剣士》もいけ好かんけどあんたはそれ以上に気にくわんわ。落とし前はきっちりつけてもらうで、ヒースクリフ……ッ!」

 

 今にもヒースクリフに斬りかかりそうだった。

 殺気だった面々が警戒心剥き出しでそれぞれの武器を構え、高まり続ける緊迫感はまさに一触即発を示している。このままではまずい。

 

「――アスナ、他の皆も下がってくれ。悪いけど俺はここで引くつもりはない」

「キリト君、どうして……」

「意地を張るなキリト君、一刻も早いクリアを望む君の気持ちはわかる。それでも今は戦うべき時じゃない」

「ディアベル、今だからこそ勝機があるんだ。ラスボスが自分から枷をつけて戦ってくれるっていうんだぜ、このチャンスを逃す手はないだろう?」

「だが君一人で戦うんだぞ!」 

 

 聞き入れられない、と示すように無言で首を振る。そんな俺にアスナやディアベルが悲痛な顔で翻意を促してくるが、ここで頷くわけにはいかなかった。

 話は平行線を辿るのみで進展の様子はない。それ以上にまずいのは、この場には彼らを歓迎していない絶対者がいるということだ。さっさとアスナ達に諦めてもらわねば。

 しかしそんな俺の思いも既に時遅しだった。

 

「無粋な横槍はそこまでにしてもらおう。これは私とキリト君の舞台だ、君達が出る幕ではない」

「――チッ!」

 

 無造作に左手を掲げようとするヒースクリフを邪魔せんと、無意味と知りながら即座にスローイング・ダガーを取り出し、投げつけた。しかしながらその一撃は何ら効果を発揮することなくシステムに弾かれ、刀身を地面に落とすだけに終わる。

 不死属性によるものではない。これは単に圏内設定、つまりアンチクリミナルコードに阻まれただけだ。そもそもヒースクリフは、メニューウインドウを開くつもりもなかった。微かに「システムコマンド」と呪文のように唱え――。

 

 ――『(ひざまず)け』、と。

 

 力ある言葉を唱え、現実がその言葉に従った。

 それはこの世界から排除された魔法のようにすら思えた。おそらく管理者権限を発動させたのだろう。かつてユイが一時的に用いた、世界に君臨する絶対者の力だ。

 全てが決した。局地的に重力変動でも起こったかのように、コロシアムに集った何千というプレイヤーが地面に縫い付けられ、ただの一人の例外もなく麻痺という名のシステム異常を押し付けられていた。そこかしこからひしゃげた呻き声があがり、その様子はさながら地獄絵図のようだ。

 

「すまなかったねキリト君、君まで巻き込んでしまった」

 

 淡々と告げるヒースクリフは今度こそ左手でメニューを開き、何度か画面をタップした。するとすぐに俺の身体を縛っていた状態異常が消える。一人だけ状態異常から解放され、ぐるりと周囲を見渡すと非常に罪悪感を刺激される光景が広がっていた。

 

「……どうするつもりだ? まさかこのままちゃんばら始めるわけにはいかないだろう?」

「闘技場に降りてきた者達はすぐに観客席に転送し、以後はこちら側にこれぬよう結界で仕切るとするよ。覚えているかね、二年前にはじまりの街を覆った不可視の壁だ」

「話にだけは聞いてるよ」

「では速やかに送り返すとしよう。ああ、もちろん麻痺も解いておくから安心したまえ」

 

 再度メニューを開いて操作を始めたヒースクリフを半ば無視するように努めて平静を装い、麻痺に囚われたアスナの傍らに膝をついてそっと抱き起こした。

 

「今更俺が引かないことも、ゲームマスターの不興を買えばこうなることもわかってたはずだろう。聡明なお前らしくもない、どうしてこんな無茶をしたんだ」

「……ごめんね。わたし、どうしても許すことができなかった」

「ヒースクリフをか?」

 

 いいえ、違うわ、とアスナはゆっくりとかぶりを振って否定した。

 

「君が一人で死地に向かう事を許すことが出来なかったの。前に言ったよね、『死ぬ時は一緒だ』って」

 

 きっとこの気持ちはわたしだけじゃないよ、と視線で促すアスナの手を取ってわかってると頷く。アスナの、そして彼らの寄せてくれる芳情を誇りに思う。

 それでも俺はこれが最善だと判断した。できれば俺の我侭を笑って許してやってはくれまいか?

 

「迷惑かけてごめんなさい、これ以上君を引き止めたりはしないわ。でも……でもね。勝てるよね? 死んじゃうつもりじゃないよね?」

「この手のことに関して、俺の信用のなさっぷりはガチだな……」

「君には前科がいくらでもあるもの」

 

 否定できないけど、だからこそ俺が勝つって言ったらちゃんと信じてほしいもんだ。そんな悲壮感に溢れた顔してないでさ。

 

「丁度良いや、ゲーム初心者のアスナにベテランゲーマーを自負する俺のゲーム哲学を教えてやるよ。『無双してよし、玉砕してよし、全部ひっくるめて楽しめ』だ。それがゲームを長く楽しむ俺なりのコツ」

「キリト君、何を……?」

「いいから聞いておけ」

 

 どんなゲームにだって攻略法はあるし、俺はそういった最適解に近づく試行錯誤が得意な人間だった。勘と経験と、ゲームコンセプトを紐解く力。どんなジャンルのゲームでも卒なくこなす器用さ、それが俺にはあった。まあ、声高に誇るようなものじゃないけど。

 

「この世界が正真正銘のゲーム世界だったらよかったのにって、何度も思った。それなら『全力で負けること』を楽しむことが出来たんだ。だからさ、アスナと剣を合わせることは本当に楽しかったよ。勝っても負けても純粋に楽しめる、そんな勝負が出来た」

「お願い、不安にさせるようなこと……言わないで」

 

 アスナの懇願するような声に思わず苦笑いが出た。相変わらず人を安心させるのが下手な男だ。

 デスゲームに支配されたアインクラッドでは、負ける時は死ぬ時だった。いや、それよりもなによりも――突出した戦力を誇る俺に、死ぬ自由などないのだと考えて戦ってきた。戦えば戦うほどにクリアは近づく。ならば俺に戦わない道理などないのだと、その一心だった。

 もしも俺の命を燃やし尽くすことでこの世界を終わらせられるのならそれも悪くない、そんな馬鹿なことを本気で考えていた時期すらあったのだ。

 

「なあアスナ、君は俺の戦い方を誰よりも近くで見てきたはずだろ? 俺がこの世界でやってきたのってさ、勝つための効率だけを求めた、楽しむ事を捨てたつまらない戦い方なんだよ。黒の剣士はそれしかやっちゃいけなかった。だから心配はいらない、これから俺が臨むのはそうしたつまらない戦いなんだ」

 

 なるべく軽い調子で伝えてみたのだが、アスナの愁眉はますます曇ってしまったのが残念だ。まあ『今から殺し合いにいくけど本気出すから平気』とか明るく言われても反応に困るわな。

 

「……死んじゃったら本当に許さないから。ちゃんと一緒に現実に帰るんだからね。約束だよ、キリト君」

「わかってる、死ぬつもりはないよ」

 

 アスナを勇気付けるようにぎゅっと手を握ると、彼女の強張った表情も少しだけ和らいだように見えた。そうそう、そうしてたほうがお前はずっと美人だ。

 しかし、アスナや他の連中はともかくとして――。

 

「おいこらクライン、お前まで後先考えずに突撃するとか何やってんだよ」

 

 クラインが抵抗できないのを良いことに俺は遠慮なく文句を口にしたのだった。

 

「面目ねえ。だがな、俺もアスナさんと同じ思いだぜ。最後の最後までこんな秘密を一人で抱え込んで、その挙句に魔王と一騎打ちだ? ったく、この大馬鹿野郎が……。いいか、ぜってー勝てよ。こんなとこで死ぬんじゃねえぞ……!」

「わかったわかった」

 

 だから大の男が泣くな、そこまで心配されて嬉しいやら気恥ずかしいやらでどんな顔をしていいかわからなくなっちまう。

 

「お前がゆっくり恋人探しできるようにきっちりゲームクリアしてやるから、安心して俺の勇姿を見学してろ。ついでにエギルもな」

 

 ついでとはなんだ、と毒づく雑貨屋店主にひらひらと手を振り、挨拶の代わりとする。サンキューな、お前にも本当に世話になった。

 できればこの場に駆けつけた全員に頭を下げたいところだが、そういうわけにもいかないか。

 

「わざわざ待ってもらってすまなかったな。もういいぞ、ヒースクリフ」

「なに、礼には及ばんよ。君の心残りを解消させておいたほうがより楽しめるだろうと思ったまでだ」

 

 ヒースクリフが軽やかに指を動かす。すると転移の光が幾つも出現し、コロシアムを照らした一瞬の後、闘技場に残ったのは俺とヒースクリフの二人だけだった。

 見上げれば変わらず大観衆が目に入る。ヒースクリフの振る舞いを見て下手に騒ぎ立てるのは危険だと悟ったのか、皆が皆固唾を飲んでじっとしていた。最前列に陣取るプレイヤーが不可視の壁に触れていたが、特に弾かれるとかはないようだ。

 

「先立って警告を出しておこう。姿形が同じと言えども、《聖騎士》を相手にする程度の認識では瞬きほどの間に勝負が決してしまうぞ。努々(ゆめゆめ)油断することのないように頼むよ」

 

 絶対の確信と共に言い捨てられた言葉にぞっと肌が粟立ち、真実この男は本心を語っているのだと否応なく理解させられる。魔王と一人で剣を交えるのは早まったか、と今更ながらに後悔するほどの怖気が我が身を総毛立たせた。

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 

 心の臓を押しつぶそうとする怜悧な威圧が恐ろしい。ヒースクリフから痛いほど伝わってくる強烈な気配は殺気とは違う、もっと純粋な戦意だった。剣気というのが現実に存在するならば、このような純度の高い意思を叩きつけられる感覚を指すのだろう。

 ヒースクリフの放つ威風に押されるように脳裏に幾つもの敗北のイメージが駆け巡り、慌ててその死の想像を打ち払う。仮想世界で手に入れた鋭敏な感覚も今だけは欲しくなかった。

 

「どうせだ、もう一つ心残りを解消しておきたい。悪いが聞いてやってくれないか?」

「何だね?」

「闘技場を囲む結界を、どちらかのHPがゼロになり次第解除する、そういう設定にしてほしいんだ。ゲームクリアの喜びは皆で分かちあうもんだろう?」

「キリト君は自信家だな、頼もしいことだ」

「いいや、俺自身を背水の陣に追い込むためだよ。こうやって格好つけておけば絶対達成してやるって気になるんでな」

 

 意識して不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「その程度の変更はさして手間もかからないため、君の頼みを聞くのは吝かではないが……」

「何か問題でも?」

「キリト君の弔い合戦をされては面倒だ、結界を解除するのは私のHPがゼロになった時にしておこう。私に勝った時は胴上げでも何でも楽しんでくれたまえ、それでいいかね?」

「抜け目ないな、あんた」

「君ほどではないよ」

 

 そんな軽口を叩き合いながらも頭の中ではいかにヒースクリフを出し抜くかの算段が駆け巡る。時間にしてごくわずか、戦意を高めて牙を磨いている内に設定の変更は完了したらしい。サービスはここまでだと言って向かい合うヒースクリフに「手数をかけた」と短く返す。

 時を追うごとにヒースクリフとの間にある空気が緊張に張り詰めていくのがわかる。激突はすぐそこだった。

 

「いいかね、キリト君は私を力ずくで舞台に引きずりだした。ならば全力を尽くして私と戦う義務とてあろう。互いの力が拮抗してこその決闘なのだ、興醒めの未来だけは遠慮願うよ」

 

 その道理の通らない支離滅裂な要求も、この男が世界のルールである以上は拭いががたい真実がそこに含まれてしまう。いかにも魔王らしい傲慢さを見せてくれるものだと感心してしまった。

 

「あんたの無聊を慰めるつもりはさらさらないが、その身勝手な期待には応えてやるよ。――刮目(かつもく)しろ、今日があんたの生み出したアインクラッドの命日だ。《ソードアート・オンライン》の物語は俺が直々に幕を引いてやる」

「良い気迫だ。では、始めるとしよう」

「ああ、決着をつけようぜ、ヒースクリフ」

 

 眼前に出現した決闘申請に躊躇わず指を押し付ける。すると俺とヒースクリフ双方のHPが真っ赤に染まった。ソードスキルをクリーンヒットさせればそこで勝負はつく。そしてこの勝負は決闘ではなく殺し合いだ。――七千人の命運を背負うと決めた時に迷いは捨ててきた。それが彼らを人質として扱った俺の、せめてもの誠意だ。

 なにより、俺の大好きな人達を、愛する人を、無事に現実世界へと還す。そのために俺は剣を執り、この最終決戦を迎えた。あとは最後の仕上げを残すのみだ。

 

 愛刀を鞘から抜き放つ。迸る気迫が昇華されて剣気となり、洗練された闘気はもはや鬼気となって空間を鳴動させていた。抜き放った剣は無機質な刃だというのに、握り締めた先から血管の鼓動が伝わってくるようだ。既に刃は己が身体の一部となっていた。裏切ることのない、絶対の相棒の感触を頼りに、じっとカウントダウンがゼロになるのを待つ。

 そうして、全プレイヤー開放を賭けた最終決戦の火蓋がついに落とされたのだった。

 

 戦闘開始直後、攻撃を先に仕掛けようと地を蹴ったのは俺の方が早かった。けれど、先制に相応しい一撃を繰り出したのは俺ではなくヒースクリフだ。

 ただただ速い。視界に捉えていたはずなのに、気がつけば俺の懐へと入り込まれていた。初速から最高速に入るそれは、ユイを連れて潜った地下迷宮の死神を彷彿させるものだった。

 常識の通用しない加速度に度肝を抜かれ、ヒースクリフの薙いだ剣が抜き胴の形となって俺へと迫る。迎撃も間に合わぬと判断した刹那、咄嗟に踏み出した先の足を強引に沈め、バネを利用して一気に跳躍した。それ以外に回避する術はなかったのだ。

 

 しかしその安堵も束の間、着地した俺を待っていたのは背後から袈裟懸けに斬りつける魔王の一撃だった。体勢も整わぬまま背中を庇うように剣を盾にするが、やはりというべきかそれだけで防げるはずもなかった。背に走る痺れを歯をくいしばることで封殺し、振り向き様に横なぎの刃を振るう。

 牽制目的に放った剣は半ば予想通りに神聖剣の補正を受けた左手の大盾に弾かれ――そこでようやくヒースクリフと向かい合うことが出来た。

 

「これが《オーバーアシスト》かよ、ちと反則すぎやしないか?」

「凌ぎきれなかったとはいえ、反応してみせたのも君だよ。泣き言はポーズにしか聞こえんな」

 

 ポーズのわけあるか、本心だよ。

 繰り出す剣がぶつかりあい、鍔迫り合いの合間に少しでも情報を、隙を得ようと軽口を叩く。できれば《オーバーアシスト》に制限を入れてほしいくらいだった。

 

「そら、君の力はまだまだこんなものじゃないだろう」

「お互い無駄口を叩くくらいには、な!」

 

 突き出された盾をサイドステップでかわし、回避の動作をそのまま反撃へとつなげる。奴の顔面を狙った突きが空気の層を突破しながら鋭い音響を響かせるも、俺の攻撃は完全に見切られているのか、わずかに首を傾げて皮一枚残す回避という末恐ろしい技を披露されるに留まる。気落ちする暇もなく連続で攻撃を繰り返すが、一向にヒースクリフのHPを削ることは出来なかった。

 けれどヒースクリフの反撃は少なからず俺へと届く。致命傷こそぎりぎりで避けているものの、お互いのHPバーを見ればどちらが有利に戦局を進めているのかは一目瞭然だ。互角どころか一方的に嬲られているかのようだった。

 

 先の決闘とは明らかに違う展開を見せていた。攻め込まれているのは俺のほうだ、そして反撃に転じ、主導権を握る隙を見出せない。力ならば拮抗している、けれど速さという一点において俺はヒースクリフについていくのが精一杯だった。

 俺の《加速世界》はあくまで認識の加速とそれに伴う無駄の排除、つまり動きそのものを洗練させることで結果的に速さを増す技だ。けれどヒースクリフの《オーバーアシスト》は、おそらくシステム上プレイヤーに許された限界を越えた速さを魔王にもたらす。

 ユニークスキル使いを複数相手取るためのシステムとはよく言ったものだ、これだけの動きを出来るなら確かに数の不利を覆すことも叶うだろう。

 

 喉から気合の叫びが搾り出される。忙しなく動き回りながら幾度も剣を繰り出し、そのたび完璧ともいえる迎撃に迎えられ、難攻不落という言葉の凄みをひしひしと感じさせられていた。

 純粋な速さ勝負ではヒースクリフには敵わない。ヒースクリフの動きを目で追うことは出来ても肝心の身体がついてこないのだ。俺が微かにヒースクリフをかすめる攻撃を与えるのに成功した時、ヒースクリフは似たような雀の涙ほどのダメージを俺に三度は突きつけてくる。瞬く間に俺のHPは二割を切って一割に突入しようとしていた。

 

 参ったな、ソードスキルを発動させる余裕がない。ここまでは自らの力だけ、通常攻撃だけで戦闘を組み立てていたが、それも限界が近づいている。このままではジリ貧のまま押し切られて俺のHPが吹き飛ばされる。逆転するためにはソードスキルをぶち当てねばならないのだが、お互いに警戒しあっているのだから早々うまくいくはずもなかった。

 生半可なタイミングで繰り出せば必ず防がれ、返す刀で勝敗を決せられてしまう。それはヒースクリフがこの世界のソードスキルを全て知っているから――ではない。技の軌道を知っているだけで防げるほどバーチャル世界は甘くない。

 

 俺とて主要武器のソードスキルなら予備動作や威力も含めて相当の知識を溜め込んでいる。しかしそれでソードスキルを確実に防げるかといえば否だった。目にも止まらぬ高速で動きあう戦闘の最中に相手の予備動作全てを見切れるかといえば無理だし、たとえ出来たところでソードスキルが描く刃の軌道は一定ではないのだ。

 たとえば使い手や受け手の身体の大きさや間合いで同じ技だろうとずれは生じるし、繰り出した先の刃は使い手の技量次第で剣筋をわずかに変更することだって出来る。知識はあくまで知識であり、それを生かすだけの下地がなければ何も意味をなさないのだ。

 

 事実《聖騎士》を相手にした時は、体勢を崩した瞬間を狙ってソードスキルを放つことで俺の攻撃を何割かだけでも通すことが出来た。つまり熟練者同士の戦いでは必殺となるソードスキルを読まれても、簡単に迎撃できないように上手く考えて戦闘を組み立てろ、ということだ。

 けれど、魔王たる男には俺の培ってきた戦術が通じないのだ。ソードスキルは出さないのではなく出せなかった。もう少し拮抗できるかと思ったんだが……。

 

 ――潮時だな、どれだけ技巧を凝らそうとも俺ではヒースクリフに敵わないらしい。

 

 魔王とはここまでの存在なのか、と戦慄と諦観だけが残った。確かにこれでは魔王と戦うためにユニークスキル使いが複数欲しくなる。はっきり言おう、今のまま攻略組が順調に成長してもこの男に勝てるとは思えない。よしんば勝てたとしても、その時の生き残り人数を数えたくなかった。それほど圧倒的なのだ、この男は。

 

 何十合と剣を合わせて、こいつは俺の手には負えないのだとよくわかった。正攻法では俺の剣は通じないと否応なく理解させられたのだ。だからこそ何度目かも忘れた攻防を取りやめ、一気に後方へと飛び退いて距離を置く。

 戦意の衰えた俺の様子にヒースクリフの顔に不審の色が宿る。心底楽しんでいたところに水を差された、そんな顔だな。この男も存外子供のようなところがある。

 

「悔しいがまともにやりあっても勝てないってことがよくわかった。一応聞いておくけど、ここで降参は許してもらえるのか?」

「興醒めはごめんだと言っておいたはずだがね。介錯なら務めさせてもらうよ」

「ったく、冗談の通じない奴だな。心配するな、ここまできて勝負を投げ出すつもりはない。きっちり白黒つけてやる」

 

 怒りではなく決意。あるいは誓いか。闘争に臨む烈火に燃える炎と冷徹に勝機を探る澄んだ水面の心を同居させ、凪いだ面持ちのまま剣の切っ先をヒースクリフへとぴたりと突きつけた。

 俺の意思を叩きつけるように。勝利を望む執念に些かの陰りもないのだと証明するように。

 

「俺から一つ提案をさせてもらう。次の激突を最後にしようぜ、ヒースクリフ。俺は最速の二十七連撃であんたに挑む。そして、あんたはそれを防ぐ。どうだ?」

「二十七連撃……二刀流最上位剣技《ジ・イクリプス》か、確かにアインクラッドにおいて最強の一手に違いない。だが――」

 

 ヒースクリフの双眸がぎらりと光を放ち、威を伴って俺を圧してくる。

 

「キリト君はソードスキルを私に読ませてもなお、力ずくで神聖剣を食い破ってみせる。そしてそれが出来るのだと言うのだな」

「もちろんだ、俺の挑戦を受けてくれるのならば必ずあんたの防御を抜いてみせるさ」

 

 睨み合うように視線が交錯し、幾ばくかの時間が過ぎていく。ヒースクリフの目は俺の胸の内を悉く推し量り、暴こうとするかのように強い。その圧迫感を冷や汗の出る思いでやり過ごし、静かにヒースクリフが口を開くのを待った。

 

「そうか、君はソードスキルを加速させる妙なるシステム外スキルの使い手でもあったな」

「俺に残った最後の勝機だよ、俺の剣は必ずあんたの想像の上をいく。……俺の繰り出す二十七の連撃の内、一太刀でも入れれば俺の勝ちだ。わかりやすくていいだろう?」

「確かにシンプルな決着のつけ方だ。ジ・イクリプスが一太刀でも私に届けばキリト君の勝ち。逆に全て防ぎきれば技後硬直に囚われる君に私の剣を避ける術はない、勝負ありだ。しかし、私がその提案を素直に受けると思うのかね?」

 

 言外にこのまま続ければ勝つのは自分だと言っていた。それを否定するつもりはないよ。そして俺はそれを認めた上であがいてるんだ、恥じる気もない。

 

「この期に及んでつまらない揺さぶりをかけるなよ。わざわざあんた好みの展開にしてやるって言ってるんだぜ? もちろんこのまま何ら盛り上がりもなく、淡々と俺のHPバーを吹き飛ばせば満足だってんならそれでもいいさ。負けるのが怖ければこのまま俺を押し切ることをお勧めする」

「ふふ、安い挑発をしてくれる」

 

 ああ、その通りだな、あからさまなほど幼稚な誘いだ。けれどあんたは受けるはずだ、その笑み崩れた顔がその証拠だった。

 

「しかし面白い、君の挑発は心躍る挑戦状でもある。よかろう、魔王として君の全力に応えようではないか」

「ありがたい。感謝の証としてあんたに敗北の味を教えてやるよ」

「やれるものならば、な」

 

 そうだろう、あんたなら俺の提案を受ける。いや、あんただからこそ受けざるをえないはずだ。それがヒースクリフの強みであり、同時に弱点でもあるのだから。

 ヒースクリフは魔王であるがために、何者をも平伏させる絶対の力を振るうことができる。そして魔王であるがために、魔王の持つ物語上の役割に縛られねばならないのだ。それがヒースクリフの越えてはならない一線であり、俺がヒースクリフに求めたゲームマスターとしての矜持だった。

 何故ならその制限をなくした時、魔王はただの暴君と化すからだ。アインクラッドもゲームでもなんでもない蹂躙劇の舞台に堕してしまう。故にこそヒースクリフは役割(ロール)を外れない、外れる事ができない。

 正攻法では敵わない俺が魔王を相手に勝利の糸口を見出すとすれば、もはやそこにしか残されていなかった。

 

 それでも、いいや、それだからこそか。腹を括れと言い聞かせる。

 今こそかつてないほどに決死の覚悟で臨まなければならないだろう、それほどの苦境だった。俺は奴に力も速さも及ばない。技術もヒースクリフのほうが上だ。知識、経験、共に敵うものはない。

 それでもなお俺が奴に勝っているものがあるとすれば――それは勝利への執念だけだ。

 

 すぅっと調息を開始し、丹田に力を込めて集中力を高めていく。脳裏に鮮やかに浮かぶのは剣の日々だ。

 幾千の剣戟を切り結んできた。幾万の剣閃を紡いできた。火花散る白刃の戦場を死に物狂いで生き延びてきたのは、今この瞬間を迎えるためだったのだと、柄にもなく運命を感じていた。

 

「いくぞ、ヒースクリフ」

 

 はたしてつぶやきが先だったのか、剣撃が先だったのか。俺は一歩も動いていない。剣の先を向けたのは足元――砂地の地面オブジェクトだった。環境エフェクトによって砂煙が舞い、煙幕となって俺の身体を覆い隠していく。

 

「慎重だな、キリト君」

「馬鹿正直にソードスキルを振るうだけじゃあんたには届かないだろう? それとも、卑怯とでも言ってみるか?」

 

 少しでも仕掛けのタイミングをごまかせればそれで良い。こんな小手先の技に劇的な効果までは期待していないのだから。

 

「いいや、そのがむしゃらさは嫌いではないよ。――お互い、悔いのない戦いにしよう」

「……それだけ聞いてると、どっちが悪役かわかったもんじゃないな」

 

 今この場でスポーツマンシップに溢れているのは間違いなくヒースクリフだった。正面から食い破るのだと言わんばかりの超然とした佇まいだ。けれどそれもすぐに砂煙に隠れて影となる。頃合だ。

 予備動作を開始し、剣から燐光が迸る。その光は砂のカーテンが遮っていようとも間違いなくヒースクリフの元まで届いているだろう。このソードスキルの特性は奇襲や隠密とはかけ離れたものだ、正面決戦万歳である。

 一拍。二拍。三拍。心臓が刻む鼓動をゆっくりと噛み締めながら、心を細く鋭く尖らせていく。今ならばあの75層の時のように、最高の心理状態に入れそうだ。

 

 ――システム外スキル《加速世界》。

 

 緩やかに流れる時の歩みの中、最速の剣を実現せんと身体から、心から、魂の奥底からエネルギーを引っ張り出す。これで最後だ、ありったけをこの瞬間にぶつけろ。そう言い聞かせて力強く地を蹴った。

 粉塵を纏い、暴風を引きつれ、剣から零れる儚い光の粒子を撒き散らしながら魔王へと肉薄する。一歩、一歩、さらに一歩。ついに魔王の間合いへと到達した。

 

 一太刀目を、全力で。

 二太刀目も、力の限り。

 三の太刀、四の太刀、五の太刀。止むことのない閃光は魔王の構える十字盾に阻まれるたび、雷鳴のような轟音を響かせる。鳴り響く金属音すら置き去りに、疾風迅雷はますます加速する。加速して、加速して、加速し続ける。

 

 もっとだ、もっと速く。それはさながら風雷のように。

 もっとだ、もっと強く。それはさながら業火のように。

 鬼が必要ならば今こそこの身に鬼神を宿す時だった。荒れて荒れて荒れ狂えと猛って吼えた。勝利を掴めと裂帛を叩き付けた。システムに許された限界の速さに達せよと、システムを超えた未知に辿り着けと、ただただ剣の切っ先を魔王へと向けていた。

 

 その火花散る攻防は、しかしヒースクリフに傾いた天秤を再度傾けようとはしない。俺の剣尖の悉くが弾き返されてしまう。十を超えて二十を数えてもその単調な勝敗の行方が変わることはなく。速さが足りないとなお先を求めてもヒースクリフの立つ頂は未だ遠い。

 二十三、二十四、二十五、防がれる。そこで今だ、と勝負をかけた二十六撃目を繰り出した。ヒースクリフの盾が素早く俺の剣の軌道上へと振り向けられ、その瞬間刃の軌道をわずかにずらす。

 ここまでの全てが見せ札だ、必殺の気配を纏わせた二十五の刃はそのほとんどをヒースクリフの右手側――盾から遠い箇所を集中的に狙った。しかし俺の狙いは初めからヒースクリフの十字盾だ、その鉄壁の防御の要を打ち砕くためだけに二十五の剣撃を囮に使った。

 

 ほんのわずか、力の矛先をずらして剣と盾の衝突を俺の下に制御した。盾を横合いから殴りつけるためだけに全力を注いだ一撃は思惑通りに仕事を果たし、ヒースクリフは盾に加えられた衝撃に逆らえなかった。左腕を外へ外へと流されたことで身体が大きく開く。

 千載一遇の好機だ。そのこじ開けた隙間を狙い打つように、引き絞られたダークリパルサーによって二十七撃目の刃――鋭利な刺突が繰り出される。

 

 その時、確かにヒースクリフの口元が綻んだ。賞賛だったのか、それとも嘲笑だったのかは知らない。けれど――。

 ヒースクリフの体勢は崩れ、迎撃もできない。それほどの完璧な一撃だった。およそどのような可能性を探ったところで回避不可能な、絶対の一撃だった筈だ。だからこそ、それだけの自信があった二十七撃目に劇的な反応を見せたヒースクリフの盾が間に合った事実は、もはや悪夢でしかない。

 それは超反応と呼ぶことすらおこがましいものだった。あれは違う、断じて違う。《オーバーアシスト》に対する認識が根本的に間違っていたのだとようやく気づいた。《オーバーアシスト》とはベクトルを反転させることすら可能にしてしまう、慣性制御を実現した技術なのだと。

 なんて反則……ッ!

 

 だが、今更気づいたところでもはやどうにもならない。引き戻された絶対防壁の前にダークリパルサーが衝突し、一瞬甲高い音を立てて硝子のように砕けて散った。神聖剣があれば盾でも武器破壊を成立させられるのだなと、どこか遠い感慨を持ちながら現実を受け入れる。これで俺の繰り出す二十七の刃はおしまいだ。俺の剣は届かなかった。

 

「さらばだ、キリト君」

 

 リズの打ってくれた剣の砕け散った残滓がきらきらと幻想的に舞う。光の粒子が最後の輝きだとばかりに俺の周囲で煌いていた。

 俯き気味に動きを止めた俺に、ヒースクリフの別れの言葉が降り注ぐ。ヒースクリフの剣にはソードスキルの紅いライトエフェクト。鮮やかな血の色は確かに最期を彩るのに相応しく思えて――。

 

 ――この時を待っていたぜ、ヒースクリフ。

 

 きっと俺は哂っていたのだろう。俯いた(かんばせ)に悪役の笑みを貼り付け、一日千秋の思いで待ちわびた黄金の一瞬を歓喜と共に迎え入れた。

 信じていたんだ、信じていたんだよ。あんたなら俺の攻撃全てを防ぎきってくれると、きっとこの場の誰よりも俺こそが信じていた。

 右肩に振りかぶった剣が水色の輝きに染まる。それは疑いの余地なくソードスキルの輝きだった。本来なら技後硬直で動けないはずの俺が反撃に転じたことにヒースクリフは愕然とした顔を隠せない。その唇を「馬鹿な」と小さく震わせた。

 

「幻の二十八撃目だ。とくと馳走してやるよ、ヒースクリフ……ッ!」

 

 そうしてヒースクリフのクリムゾンを灯す太刀と俺の淡いブルーを灯した太刀が、鏡合わせのように袈裟懸けに振り下ろされ、二人同時にHPをゼロまで追い込んだのだった――。

 

 

 

 

 

 手品の種は至極単純なものだ。

 

「偽りのジ・イクリプスは、本物よりも本物らしかっただろう? 数あるソードスキル、その全容を知っていることが仇になったな」

 

 俺は最後の攻防で《ジ・イクリプス》を放っていない、それが全てだ。

 まずはソードスキルを発動させ、すぐさまキャンセル。この一連の動作を見破られないよう煙幕を発生させ、スキルキャンセルに伴う細かな動きと技後硬直時間をごまかした。そしてシステムアシストを一切用いず、《ジ・イクリプス》の基本動作を正確になぞりあげることで誤認を誘ったのである。

 

 ソードスキルを使っていないのだから技後硬直が訪れるはずもない、といいたいところだが、実は二十七撃目の突きはソードスキルを発動させていた。初期剣技だったから硬直も無視できるレベルだったけど。

 二十七撃目で決まっていればよし。よしんば防がれた時も二十八撃目を間に合わせることで最悪相討ちに持ち込む。それが俺の策だった。ちなみにヒースクリフに致命傷を与えた袈裟懸けの一撃は、二年前のチュートリアルで茅場のアバターをぶった斬った初期剣技《スラント》である。なかなか皮肉がきいているだろう?

 

 このゲームの上限レベルが幾つなのかは知らないが、百層という階層の数と今までのゲーム難易度を踏まえるに、《賢者の才》で鍛え上げたレベル、その上で瀕死状態に陥り、《薄氷の舞踏》によってブーストされきった俺の能力値は数値限界――いわゆるレベル上限(カンスト)に迫るものだったはずだ。その数値を最大限生かせばシステムアシスト抜きで最速の《ジ・イクリプス》を模倣することは可能だった。

 

 奴を打倒するに当たって最大の問題は、ソードスキルを発動する際に不可避であるライトエフェクトの有無を誤魔化せるかどうか、通常攻撃とソードスキルの速さと重さの違いをどれだけ埋められるかだった。そのために幾つかの小技は弄したが、所詮は小細工だ。

 最も重要だったことはこの世界を、ソードスキルを知り尽くしているからこその陥穽(かんせい)にヒースクリフを落としこむことだ。最終決戦に相応しい決着作法の雰囲気に酔わせること、それが何よりの肝だったのである。その認識こそが奴の目を曇らせた最大の要因だ。

 

 リズの剣が折れたことは計算違いだったけど。神聖剣は盾ですら《武器破壊》を可能にするとか、さすがに予想外だ。

 しかしそんなアクシデントですら演出の一部になった。意気消沈して打ちひしがれて見せた俺のアドリブは中々真に迫ってただろう? リズが俺に託してくれたのは剣そのものじゃないんだ、刃が折られたとて俺が自失する理由はなかった。

 

 スキルは使いこなしてこそスキル。俺は俺に出来る全てを駆使し、魔王相手に《正面からの騙まし討ち》を成立させた。ヒースクリフの油断を引きずり出すために命すら見せ札として扱ったのだ、俺の16年そこそこの人生でこれほど緊張したことはない。こんなギリギリの綱渡りはもうたくさんだ。

 ヒースクリフをペテンに嵌めきれないようなら、あとは出たとこ勝負しか残されていなかった。リズの剣が折られていた以上、俺の敗北は覆せなかっただろう。まさに紙一重の結果だ。

 

「よもや相討ちに持ち込まれるとは思わなかった。すばらしい戦いを感謝するよ」

「ちょっと待てよ、褒めるのはまだ早いと思うぜ?」

 

 終幕を迎える前にもう一つ演目を加えさせてもらう。ただし踊るのはあんたじゃない。

 

「どういうことかな?」

「残念ながらあんたは引き分けてすらいないってことさ。この決闘は俺の勝ちだ、ヒースクリフ」

 

 にぃっと唇を持ち上げて満面の笑みで応える。今ならば勝利の美酒に酔いしれることが出来るだろう。訝しげに目を細め、未だ事態を把握できていないヒースクリフの姿が痛快極まりなかった。

 切り札は最後まで残しておくものだぜ? そして鬼札(ジョーカー)の持ち主は必ずしも俺である必要はない。いいや、むしろそのカードを配るのは俺以外でなくてはいけなかった。

 そう、この最終決戦は相討ちに持ち込めれば俺達の勝利なのだ!

 

「クライン!」

「応よ!」

 

 俺の呼びかけに応える声もまた弾んだものだった。勝利の確信を得た響きが心地良い。

 エンディングを飾るための最後のピースも既に揃っている。俺達と観客を隔てるシステム障壁は決着と共に消えていたのだ――決戦の前に心残りと称して通した俺の要望通りに。

 

「まさか……!?」

 

 事ここに至ってヒースクリフも気づいたのだろう。この男がここまで目を見開くことなんて早々ないはずだ、ざまあみやがれ。

 俺達に駆け寄るクラインが手にしているのは七色に輝く美しい宝玉だった。かつてクラインら風林火山が、死んでいった仲間のために命懸けで手に入れたこの世界に一つしかない秘宝にして、唯一の蘇生アイテム。十秒間のみの奇跡を可能とするアイテムの名は、《還魂(かんこん)聖晶石(せいしょうせき)》。

 

 ――これが俺の伏せていた最後の隠し札だ。

 

 先日クラインの下を訪ねた時、俺はヒースクリフが茅場晶彦の疑いがあるとは口にしていない。ヒースクリフとの決闘では少し無茶をするかもしれない、万一の時は頼むと、それだけを伝えておいた。その願いに対する条件は、『対価として現実世界でメシを奢ること』。

 

「見事だ、それ以外に賞賛の言葉が浮かばない。キリト君こそが《魔王》ヒースクリフを打倒した者、《ソードアート・オンライン》をクリアした勇者だ」

 

 ヒースクリフは俺に穏やかな笑みを向ける事で全ての答えとした。それはどこまでも満足げで、思い残すことなど何もない満ち足りた男の顔だった。

 徐々に景色に溶け込むように存在を薄くしていくヒースクリフに何も返さず、無言で見送る。消え行く怨敵に贈るべき言葉もあったのかもしれないが、今はこの胸を一杯に満たす達成感にただただ浸っていたかった。

 

 意識が遠のくにつれ、俺の身体も幽鬼のようにあやふやなものに変じていく。だが、不安など何一つとてない。俺の意識が奈落に沈む前に引き上げてくれる手が、確かにそこまで近づいているのだから。

 お前は最高の親友だよ、クライン。向こうの世界に戻ったら約束通り何でも好きなものを奢ってやる。ただし学生の俺が奢れるもの限定だぜ? RMT(リアルマネートレード)になる事は黙っててやるから、それくらいの譲歩はしてくれよ。

 

「蘇生――キリト!」

 

 そうして俺の意識が完全に途切れる直前、確かにクラインの叫び声を聞いた気がした。

 

 




 これにてタイトル回収完了です。《ソードアート・キリトライン》=《ソードアート》+《キリト》+《クライン》でした。安直な命名ですが、原題の《オンライン》部分が隠れ蓑になるため最終決戦の結末を暗示させることもなかったと思います。
 長く続いた剣の物語も終わり、残すはエピローグのみ。次回が最終話となりますので、あと少しだけお付き合いください。

 それでは軽く補足を。
 全十種のユニークスキルは対魔王を想定したスキルだからこそのオーバースペック、加えてバランスブレイカーの《オーバーアシスト》はユニークスキル使い複数を同時に相手取るための魔王専用スキルと位置づけており、これは拙作独自の設定となります。

 また、スキルキャンセル時の残照の有無や発光時間、通常攻撃とソードスキルにおける一撃の速さや重さの違い等、原作では詳細を明らかにしておりません。通常攻撃をソードスキルに見せかけるフェイクが成立するかは定かでなく、原作の記述やアニメの映像を踏まえた独自解釈、独自設定である旨、改めて明記しておきます。

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