ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第22話 頂の剣士 (2)

 

 

「聞きしに勝る絶景とでも言うのかネ? キー坊も良い趣味してるじゃないカ」

 

 寝室からしずしずとテラスに降り立ち、木目の床板を踏みしめる音が微かに耳を打つ。小柄な少女は俺の隣に立ち並ぶと、そのまま手すりから身を乗り出し、これまた夜の静寂をわずかに乱す軋んだ音色を刻んだ。

 間近に迫る外周部に突き出した我が家のテラスからは、闇に沈む湖面と森の木々が映り、さらに遠方を望めば広大な夜空が視界一杯に広がる。石と鉄の城が世界の全てであるアインクラッドで、これほどの開放感をもたらしてくれる場所は多くないだろう。そう思ってしまうのは身贔屓が過ぎるというものだろうか?

 

 しかし。

 普段攻略にかかりきりで迷宮区に篭りがちになってしまう俺にとっても、そして情報屋としてアインクラッド全域を飛び回っているアルゴにしても、忙しなく動いているという事情は同じだ。今夜のようにゆっくり景色に心を移す余裕などそうは取れない。だからこそ俺もアルゴも人一倍感じ入るものがあるのだろう。

 

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

 そんな風に芝居がかった一幕を演じてみた。

 

「それより珍しいな、お前がそんな格好してるなんてさ」

「スルーされたらどうしてやろうか考えてたんダ」

 

 俺の言葉を受けて手すりに添えていた指を離し、身を翻して目を合わせてくる。アルゴは相も変わらず人を食ったような笑みをひけらかしていた。

 

「乙女なアルゴオネーサンがわざわざおめかししてきたんだゼ? 何か言うことがあるんじゃねーノ、黒の剣士様」

 

 不安そうな素振りなど一切見せることはなく、自信たっぷりに嘯く。どこか悪戯っぽく、けれど挑戦的な眼差しを浮かべていた。

 知らず苦笑が零れ、改めて彼女を見やる。まず目につくのは肩紐つき重ね着風のシャツだ。彼女の装いは首元や肩口が大きく開いているため、華奢な首筋から鎖骨のラインが非常に艶かしく映る。そこからゆっくりと視線を落とせば、ベルトを通したショートパンツからすらりと伸びる足がいかにも健康的で、肉感的な太腿から下を膝丈上のオーバーニーソックスが包んでいた。

 

 上下黒のシャツとズボンに漆黒のコート姿が半ば正装と化してしまっている俺と同様、アルゴも丈夫な生地で作られたファンタジー風味たっぷりの旅装束で装備を固め、全身をすっぽりと隠すフード付のマントを羽織っているのが見慣れた姿だった。言うなれば《鼠のアルゴ》スタイルだろうか。

 しかし今は別で、そんな野暮ったい装いから一転、男の目をしっかり惹きつける魅惑の立ち姿に不意をつかれた思いだ。月明かりの下でぼんやりと佇むしなやかな肢体からは、仄かに薫る艶やかな色気が感じられるのだった。

 

「もしかしてそのままの格好で来たのか? ちょっと薄着すぎると思うけど」

「オレっち公序良俗に反するほど過激な格好はしてないゾ」

「もちろんわかってるよ」

 

 季節柄やや肌寒そうな衣装だと思うが、人目を引く要素としてはそれくらいだ。みだりに着崩さず、不必要に肌蹴てもいない。ただし《鼠のアルゴ》の面影は頬にペイントされた三本髭くらいのものだった。

 

「アルゴにその服は良く似合ってる、すごく綺麗だ。でも俺としては不特定多数に見せびらかしたくないなあ、なんて」

「にゃハハハ、心配しなくても外では外套を羽織ってたサ。ほーんと、キー坊ってば独占欲強いんだから」

 

 軍の連中に絡まれた時もそうだったナ、と可笑しそうに喉を震わせ、軽やかな響きを奏でる。そうやって俺を見透かしてくるのは大歓迎なんだけど、あまりからかわないでほしいとも思った。

 だって仕方ないだろう? 軍の徴税部隊のメンバーはアルゴの装備を引っぺがそうとしてたんだから。元々俺の沸点は高くないのだし、そんなことをされては頭に幾分血が昇るのだって至極当然の反応というやつである。奴等にソードスキルを直接ぶち込まなかっただけ冷静な対応だったと思うんだ。

 アルゴに触れるのもその柔肌を目にするのも俺だけで良い。

 

「そいつに関しちゃ自覚もあるけど、アルゴ的には駄目か?」

「うんにゃ、もちろん構わないヨ? そうやって所有権をちょこちょこ主張してもらえると、女としての自尊心も良い感じにくすぐられるもんだしネ。つっても毎度やられるとうざったくなるもんだし、匙加減を間違えないようたまーに囁くと良いヨ、キー坊」

「わかった、覚えとく」

 

 お前を相手にする以外に囁く機会があるとは思わないけど、折角のご教授だし記憶に留めておくさ。……少しだけ、切なくなるけど。

 

「ところで――」

「ん?」

「寒くないか?」

 

 ひとまず俺の嫉妬心を煽られることもなくなったので、些かならず内心の安堵と共にそんな問いを放つ。アインクラッドでは現実世界での風邪に対応するようなバッドステータスがないため、殊更体調不良を心配する必要はないのだが、だからといって気遣いをしなくても良いことにはならない。

 

 無論層によって寒暖の差はあるし、22層は比較的穏やかな気候が売りの階層だ。ただそれは急激な天候の変化がないというだけで、年中温暖なわけではない。残暑の残っていた先月から一転、暦も10月に入り、夜になれば肌寒さを噛み締めざるをえない風も吹くようになっていた。

 アルゴが防寒対策を施しているならともかく、今の彼女は首筋や肩口の開いた涼しそうな服装である。生地も薄めだし今夜テラスで月見をするにはいかにも頼りないように見えた。

 

「……確かに、少し肌寒いかナ?」

 

 だったら部屋に戻ろうと口を開きかけたところで、風に揺れるほつれ毛に指を絡ませたアルゴが楽しそうに笑う。細めた双眸には悪戯っ子の光が宿っていた。

 

「こんな機会はなかなかないから、もう少し月を眺めていたいんダ。――って言ったらどうする?」

「もちろん付き合うさ」

 

 是非もない。アルゴの挑発染みた問いに間髪入れず答えるも、どうやらそれだけでは不足だったらしい。からかい混じりの弾んだ音色を含ませ、「もう一声」とハードルを用意すると同時に、俺にそれを蹴っ飛ばすよう求めてくるのだった。戯れに一手、また一手と積み上げていく。それもまたいつものことだ。

 

 ――さて、この気まぐれな少女をどうしてくれよう。

 

 じっと見つめてくる瞳に篭る熱は、はたして俺への期待と受け取るべきなのだろうか、受け取って良いのだろうか。ますます深まる苦笑は、けれどまったく不快なものではなく、むしろ心地よいものでしかなかった。

 そうして何も言わずにアルゴの背後に歩を進め、寒風を遮るようにふわりと優しく抱きしめる。彼女の白いうなじに目を落とすと、まるで引力に導かれるように吸い込まれていくようだった。その抗い難い誘惑に逆らうことなく顔を埋め、頬を擽る金褐色の巻き毛の感触を楽しんでいると、俺の手の甲へとそっと人肌の暖かみが重ねられた。

 

 俺の胸に寄りかかるように委ねられた重みが愛おしく、添えられた指先から伝わる熱が心を柔らかなものでいっぱいに満たす。

 今、この時が永遠に続くのならば、と。そう思わずにはいられなかった。

 

「……ありゃ、躊躇わなかったナ。折角、『キー坊が(あった)めて』って台詞を用意してたのに」

「それは是非とも聞かせてほしかった。でも、及第点は貰えたってことでいいのか?」

「大丈夫、ケチのつけようがないくらいあったかいから」

「それは良かった」

 

 その言葉を一区切りにして、幾ばくかの時が過ぎ去っていく。

 しばしの無言は心地よい沈黙で、示しあうでもなく二人で秋の夜長を楽しんでいた。ますます密着する身体ははたして俺が抱き寄せたからなのか、それともアルゴが身を預けてきたからなのか。そんな些事は追及するだけ無駄だろう。強いて言い訳をこねるならば、肌に吹き付けられる冷気に負けじと、二人密着させた身体で高めあう熱を少しでも逃がさないようにしていた――という感じでどうだろう?

 

「なあアルゴ、はじまりの街って今どうなってるんだ?」

 

 ぽつりと漏れた一言とともに、ユイの消えた日のことを思い出す。徴税部隊も解散したらしいけど、あれはキバオウ派からシンカー派への牽制というか、必要以上に物資を放出するなって警告込みの嫌がらせだったんだろうなあ……。

 

「シンカー達のことが気になるのカ?」

「そっちのことはあまり気にしてない。特に大きな混乱も起こってないみたいだし、このまま落ち着くと思ってるよ」

 

 キバオウが起こしたPPK紛いの騒動を最後にはじまりの街は平穏そのものだ。もちろん今のところ、という但し書きは必要だが。

 

「軍の内紛を全部公表しちまえば《黒の剣士》と《閃光》の関与を大々的に宣伝できたし、そうなればキー坊を後ろ盾としてシンカー達穏健派の後押しになったんだけどナ。シンカー達もギルド運営をやりやすくなっただろうサ。……キバオウに同情したのカ?」

「単純に俺のリソース不足だよ、そこまで俺の手は長くないってだけさ。それに名前だけ貸すってのも無責任だ」

「元々軍の問題は奴等で解決することだしナ。表向きキバオウの追放ってことであの件はケリがついてるし、オレっち達は所詮部外者ダ。そこまではじまりの街の安定のために骨を折ってやることもないカ」

 

 片手間で下の事情に首突っ込めるほど最前線も安穏としていないし、ギルド運営に関しちゃ俺もアルゴも門外漢だ。下手に突っつくと泥沼に嵌りそうで怖い。

 

「そうそう、はじまりの街で攻略組と軍の合同でバーベキュー大会をやったのが良い方向で抑止力になってるヨ。場合によっちゃ攻略組が出張るって前例が出来ちまったから、下の層で好き勝手やってたはねっ返り連中も、ほとぼりが冷めるまでは大人しくしてるんじゃないカ?」

「嬉しい誤算だな。アルゴもそこまで計算してたわけじゃないんだろ?」

「そりゃそうダ。キー坊じゃあるまいし、オレっちにそこまで求めないでくれ」

「俺も大して変わらないんだけどなあ……」

 

 いつだって目の前のことで一杯一杯だ。

 

「とりあえずはじまりの街と軍の後釜に関しちゃオレっちが今まで以上に目を光らせておくし、キー坊とシンカー達とのパイプ役にもなってあげるヨ。けど、それ以上はキー坊の領分だゾ? うまく動いてくれヨ」

「任せておけ。にしても、至れり尽くせりで悪いな」

「ふふん、オレっち出来る女だからネ。つっても貸付分はきっちり返してもらうから、キー坊もそのつもりで頼むゼ」

「了解。お手柔らかに」

 

 とにもかくにもシンカーとユリエールさんには奮闘してもらいたい、というのが嘘偽りない気持ちである。キバオウのその後の風聞まで考えると全てを公表するのは避けたい、というのがシンカーの意向だった。まあ、お人好しなのだろう。

 事勿れ主義だと見る向きもあるし、その甘さと優柔不断さがギルドの混乱を招いたことも事実だ。しかしその自覚と反省があってなお、事を荒立てるを良しとしない処断に落ち着いたのだとすれば、俺から言うことなど何もない。せいぜい二の轍を踏まないよう気をつけてくれと注意を促す程度のことだ。

 

 寛容を以って範と為す。

 そういう在り方を貫けるのだって一つの強さだし、尊ぶべき選択だと思う。少なくとも攻略組には――俺には難しい生き方だった。

 

「で、キー坊は何が気になってたんダ?」

「ユイのことでちょっとな。アルゴには大分無理させたし、感謝してるんだ。俺の個人的な依頼だったのに最優先で動いてもらって助かったよ」

「なんだ、そんなことカ。気にすんナ、つうかキー坊の無茶振りは今に始まったことじゃないだろうに」

 

 もう慣れた、と言わんばかりの口調だった。

 

「うわ、ひっでえ言い草」

「それこそお互い様だしナ。好きでやってることだもん、ユイユイに限った話でもないサ」

「……サンキュ」

「ん、そこで謝らなかったのは褒めてあげるヨ。何にせよ心配無用。オレっち嫌なことは嫌って言うし、無理なことはちゃんと無理って言うから」

 

 ほんと、頭が下がるよ。

 でも、お互い様か……。どうせだ、ここで釘刺しも兼ねてお願いの一つもしておこうか。

 

「迷惑ついでに頼みがある。いい加減、お前の無茶振りも控えてくれると助かるんだが?」

 

 抱きしめる腕に力を込めながら「俺の手には余る」と情けない台詞を口にする俺だった。

 

「おや? 何のことかナ?」

 

 本気で心当たりがないのか、それとも全力で惚けているのか。さて、今回はどちらだろう?

 

「俺の情報を売るなとまでは言わないけど、情報屋としての領分を超えてまで私情に走らないでくれってことだよ。そいつを俺が歓迎してないことくらいわかるだろう?」

 

 それこそ『サチやアスナを焚きつけるな』と極太の釘を二、三本刺しておきたいくらいだった。

 アルゴが何を考えてるかはわかる、何を望んでいるのかも。でも、仕方ないだろう? 人の心はそんなに器用にはできていないんだから。

 

「私情、ネ。そいつも含めて《鼠のアルゴ》のお仕事だヨ、そう強弁してもいいんだけどサ。ふふん、オレっちのプライベートにまで口出しするなんて、キー坊も言うようになったじゃないカ。それこそ領分を超えてるんじゃないかイ?」

「こればっかりは唯々諾々と受け入れるわけにはいかないんだよ。――アルゴ。お前にとって、俺はそこまで頼りない男なのか?」

 

 アルゴの中でキリト――『桐ヶ谷和人』は未だに泣き虫で情けない男のままなのかと、そう、問いかけた。

 

「……その言い方はずるいヨ。あーあ、キー坊もすっかり女泣かせになってくれちゃってサ」

 

 多分、アルゴは困ったように笑っているんじゃないかと思う。言葉につまったのか、あるいは口に出すつもりがなかったのか、細身の身体に廻された俺の腕を取り、歳相応に膨らんだ胸に躊躇いなく、それでいて優しく抱え込む彼女の仕草が答えだったのかもしれない。

 

 ふっと息をつく。それはそれとして……不意に指先からもたらされた柔らかで弾力に富んだ感触に、思わず我が手に力を込めてしまいそうになったことはご愛嬌というものだろう。いや、俺だって男ですし? そんなわけで自制には多大な精神力を要したものである。これがわざとならアルゴは悪女確定だな。

 

「女泣かせかどうかは知らないけど、俺をそうしたのはアルゴだぜ?」

「駄目だなあ、キー坊。そういうのは責任を相手に求めるもんじゃないゾ」

 

 空に浮かぶ白い月。満月にはほど遠い三日月がゆるりと弧を描き、たなびく雲が陰影となって月に化粧を施し、景色に彩りを加えている。彼方から来たる乾いた冷気が頬を撫でていく様は、なるほど秋の寂しさを感じさせるものだと納得させられてしまった。決戦を前に荒ぶる心を鎮めるには良い夜だ。

 

「こんな時は『月がきれいだ』って素直に言うべきなのかもな」

「文学的な修辞を期待するなら相手を間違ってないカ。『もう死んでもいい』なんて返せるキャラじゃないだろ、オレっち」

 

 そこは月の魔力補正で補完できないだろうか? しばしその情景を想像してみようとするのだが、どうにも俺達では様にならなかった。率直に言って似合わない。

 

「と、いうかだな。真顔でそんな台詞を口に出来る奴って滅茶苦茶経験値高いと思うんだ」

「キー坊はまだまだレベリングが足りないナ」

「ゲームをクリアできるだけの最低限のレベルさえあれば満足なんだよ、俺は」

「夢がないなあ。無双するのがゲーマーの嗜みダロ?」

「俺は移り気のにわかゲーマーだからやり込みプレイって苦手なんだ」

 

 軽妙に弾む会話なのにどこか物寂しさを感じさせられるのは、やはり今宵の月が放つ魔力のせいなのだろう。勝手に理由としてこじつけられたお月様には申し訳ないが、今晩だけはそう思わせてもらいたかった。

 

「そっか、なら仕方ないネ」

「ああ、仕方ない」

 

 所詮は言葉遊びで、どこまでも戯れでしかない。だからこれ以上言の葉を重ねる理由もなく、伝えるべくを伝えるだけ――。

 

「アルゴ、お前は最後まで俺を見てろよ。俺の隣で、俺と一緒にこの世界の終わりを見届けろ。それでいいだろ?」

 

 一拍の沈黙。その声ははっきりと俺の元に届いた。

 

「ん、それでいいヨ。《鼠のアルゴ》は店仕舞いまできっちり《黒の剣士》に付き合ってやる。それこそ、最後の最後までネ」

「悪いな」

「いいヨ、お互い様サ」

 

 ここまで来たんだ、我侭を貫かせてもらうさ。俺もお前も、きっとどうしようもない大馬鹿だけれど……それでも俺は最後までこの手を離したくないと、そう思ってしまったんだから。

 

 見上げる月はどこまでも高く。夜の静寂はどこまでも深く。二人寄り添う時間はゆったりと流れていく。

 そこでやせ我慢も限界だったのか、腕の中で可愛らしいくしゃみが微かに空気を震わせた。その小さな変化を合図にもう一度「部屋に戻ろう」と提案すると、今度は断られることなく了承されたのだった。

 

 

 

 

 

 しん、と静まり返った寝室へと足を踏み入れると、外気が遮断され暖められた空気に出迎えられた。

 壁に設えたランプは一つも稼動させていない。ともすればテラスに出ていた時よりも深い闇が常駐している。早速ランプに火を入れようとオプションを操作しようと伸ばした俺の腕は、しかし不意に横合いから絡めとられてしまった。

 そんなことをするのはこの場に一人しかいないため、どうかしたのかと疑問を込めて顔を向けると、「明かりは最低限で」といたずらっぽく告げる少女がいた。曰く、そっちのほうが雰囲気が出るだろう、だそうで。

 

 特に目くじらを立てるような願い事ではないため、一つ首肯を返してベッド脇のナイトテーブルへと手を伸ばす。デフォルトで部屋に備え付けられた照明とは別に用意した、シックな佇まいの小型ランプスタンドが暗闇に淡く光を灯した。部屋の隅々まで照らす明度の高い蛍光も良いが、薄ぼんやりとした光の揺らめきもこれはこれで味があると感じてしまうたび、俺には懐古趣味でもあるのだろうかと感じ入るのだった。

 

 寝室はさして広くもなく、来客用の椅子も用意していない。そもそも寝室に来客を迎えるというのもおかしな話だと内心でセルフ突っ込みを入れつつ、アルゴに今は使用者のいないベッドに腰掛けるよう身振りで示した。

 扉を閉めてしまえば建物内は完全防音がされてしまうのに、何故こうも内緒話をするように静寂を保とうとしているのか。これが雰囲気に流されるということかと苦笑いを浮かべていると、いつまでも座らない俺を不審に思ったのか、不思議そうな顔で俺を見上げるアルゴと目が合った。いかんいかんと思考を切り替え、使い慣れた寝台に腰を下ろし、改めて彼女と向かい合う。

 

「明日のことで確認しておきたいんだけど、中層下層の反応はどうだった?」

 

 我ながら色気に欠ける話題だったが、答えるアルゴもさして気にした素振りは見せなかった。想定済みの質問だったということだろう。

 

「今日はどこもかしこも決闘の話題一色だったゼ。オレっちが動くまでもなく口コミで広がりきったんじゃないかってくらいダ。皆娯楽に飢えてるから当然の結果なのかもネ。明日のコロシアムにアインクラッドの生き残りプレイヤーの大半が集まってもオレっち驚かないゾ」

「そこまでか……。生き残りプレイヤーの三割が集まれば御の字、それ以上は奇跡だって考えてたんだけど」

「確認した限り今のアインクラッドの生き残りは7104名、三割だけでも二千人を超えるんだから大したもんだと思うけどナ。ま、《聖騎士》対《黒の剣士》のカードはそれだけの価値があるってことなんだろう。まして事の発端がアインクラッド一の美女争奪戦だってんだから、そりゃ野次馬根性だって発揮するだろうサ」

「それを言わないでくれ」

 

 けらけらと心底楽しそうに笑み崩れる《鼠》とは対照的に、俺はこれ以上となく情けない顔をしていたのだろう。俺の表情を目の当たりにしたアルゴの笑みがますます深まったのだから、よっぽど変な顔をしていたはずだ。

 乙女心を弄び過ぎじゃないかイ、キー坊? と一頻り俺をからかい倒し、頭を抱えたい心境の俺を尻目に軽やかな笑い声が響く。そうしていながらふとした沈黙が訪れた時、間隙を縫うように雰囲気を引き締めるのもアルゴのやり方だった。

 

「今回の件に連動してるわけじゃないだろうけど、オレっちのほうにもちっとばかし気になる情報が入ってる」

「緊急の要件か?」

「多分違う……と思う」

「多分? はっきりしない物言いだな」

 

 実際よくわからないんダ、とお手上げをしてみせるアルゴだった。

 

「とりあえず聞かせてくれよ。判断はその後だ」

 

 どのみち明日の結果次第で俺の動きも変わるのだから、よっぽど突飛な事態が起こっているのでもなければ保留ということになるだろう。アルゴもそのつもりで口に出したのだろうから、今は耳に挟んでおけばいい。

 

「ここ最近下層と中層の間――そうだな、この層より少し上、30層の手前ってとこだけど、そのあたりで活動するプレイヤーが数を増やしてるみたいダ」

 

 潜めた声は何処か重々しく聞こえた。一度頷き、先を促す。

 

「アルゴが気になってる点は?」

「そいつら、揃いも揃って挙動不審なんだとサ。人目を気にする素振りが多くて、索敵スキルも頻繁に使ってる節があるらしい。臆病なくらい周囲を警戒してるくせに、活動する時は何故かソロ狩りが主体で野良パーティーにも消極的ときた。他のプレイヤーとの交流も最低限で口数少ないし、ちょっと不気味だって聞いたヨ」

 

 なるほど、確かに妙だ。

 

「そいつらが下から登ってきたのか、それとも上から降りてきたのかはわかってるのか?」

「断定は出来ないけど、多分上からなんじゃないかって話。情報をくれたのは元々そのへんの層を根城にしてたプレイヤーなんだけど、仲間内でも新顔に見覚えがないっつうか、誰に聞いても詳しい事情を知ってる奴が出てこないらしいんだよナ。20層後半の層なんてそこそこ真面目に狩りに出てる中堅プレイヤーには実入りの悪い場所だし、かといって今となっては下から這い上がってくるような意欲的なプレイヤーなんてほとんど残ってないわけダロ?」

 

 そいつらが何を目的に降りてきたのか、あるいは降りてこなければならなかったのか、それが問題だ。

 

「活動してる場所が中途半端なんだよな。30層前は迷宮区のトラップ難易度が上がる境界線のせいか、フィールドの敵もそれまでより難易度が幾らか引き上げられたラインに設定されてるわけだろ? 安全を求めるならもっと下のほうがはっきりするし、効率を求めるならもう少し上にいったほうが経験値もドロップアイテムも旨い。あの辺りは過疎りこそすれ、今更プレイヤーの流入が起こるとも思えないんだけどなあ」

「特殊なクエストが発生してるわけでもなし。どっかに狩場効率の良い穴場スポットでも見つかったのか思えば、既存の狩場で安全にソロプレイに励むだけなんだと」

「よくわからん連中だ」

「そういうこと」

 

 直接話を聞いてみるのが手っ取り早いんだろうけど、聞く限り周囲を警戒してるのか接触を歓迎してなさそうだ。

 上から移住、さして穴場でもない狩場、周囲を警戒……。ん? ちょっと待て、そいつら一体何を怖がってるんだ? もしも彼らの警戒がモンスターではなく、プレイヤーにこそ向けられているとしたら――。

 

「アルゴ、その新顔連中とつなぎを取る予定はあるのか?」

「うん? まあ知り合いも気味悪がってたし、折を見て接触してみようとは考えてたケド?」

「だったらその時は俺にも声をかけてくれ。心配はいらないと思うけど、念のためだ」

「おや、何か思い当たったみたいだネ」

 

 にやりと唇を歪ませ、面白そうに目を光らせるアルゴの様子から、本当はおおよその事態を掴んでるだろうと突っ込みを無性に入れたくなった。溜息一つでスルーに決定。迂遠な言い回しはアルゴの常だ、いちいち気にしてられない。

 

「つまりそいつら、元オレンジの可能性があるってことだろ? オレンジギルドに所属してたグリーンプレイヤーが嫌気が差したか何かで逃げ出したってとこか。人目につくほど人数が増えてるってんなら、オレンジギルドが分裂解散して一部が娑婆に復帰って線も有りえるのかね」

 

 俺の言にふむ、と得心したようにアルゴが頷く。

 

「キー坊もそう思うカ? 単純に上から降りてきたってよりはよっぽどしっくりくるんだヨ」

「人目を避けるのは過去の所業からくる後ろめたさ、本命は素性を隠すため。それと元同業者への警戒。犯罪組織から足を洗うのに何事もなくってのは想像しづらいな」

「報復、粛清の可能性カ。ギルド員総出で仲良く更生、社会復帰ってのが理想なんだけど」

 

 言いたいことはわかるが……。

 

「あったとしてもレアケースだろう。多分、問題になってる連中は街にグリーンプレイヤーとして潜んで犯罪の片棒を担いでた奴だとか、要注意リストには載らない軽犯罪の前科者あたりなんじゃないか」

「良心の呵責に耐えかねたってより、オレンジでいることのデメリットを実感し始めたのかナ? 連中、ようやく火薬庫で火遊びをしてるんだと思い至ったんだろうサ」

 

 皮肉気に唇を吊り上げるのもそこそこに、意味あり気な流し目で視線を寄越すどこぞの《鼠》からそっと顔を逸らす俺だった。結構やんちゃしたもんなあ。がおー、悪い子はいねがー。

 

「ま、どっかの逆鱗持ちは放っておくとして、ラフコフ壊滅以降少しずつオレンジからグリーンへの復帰が進んでたと考えるのが自然かナ。そいつが最近になって表面化してきたんだとすれば筋は通る」

「くれぐれも言っておくけど――」

「わかってるって。オレっちだって進んで騒動に関わりたくないし、裏取りをするときはちゃんとキー坊を頼るヨ」

「ならいい」

 

 挙動不審が目立つだけで悪事の類は犯してないのだし、今は日々の糧のために真っ当な狩りをしているだけなのだろう。しかし、だからといって不用意に近づくこともあるまい。

 もちろんこのまま放置するのは論外、火種が燻ってるだけならいいが暴発されると面倒だ。タチの悪い火付け屋もいるのだし、出来れば犯罪者の寄り付かない人口の多い街に居を移してもらいたいものだが……。

 

 どうする? 将来的には彼らと誼を通じ、適当な代表を立てて互助ギルドを設立させてみるのも手だ。いや、そうなると不穏分子が徒党を組んでるってことで危険視するプレイヤーも出てくるか? それなら――と、そこでどうにも先走っている思考に気づいた。

 懸念はあっても差し迫った危険はなく、優先順位も低い。この件は後回しだ、腰を据えてじっくり取り組むべきだろう。最前線の問題が片付き次第動く、それまでは静観でいい。

 

「オレンジプレイヤーも色々だよナ。魔が差してとか、勢い余って手が出ちまったとかならオレっちにもわかるんダ。つっても、それだけならさっさとカルマ解消してグリーンに復帰すればいいところを、オレンジギルドなんてもんを結成してまで安いプライド振りかざす事に関しちゃ閉口するしかないけどナ」

「階層移動にハンデがかかるのはかなりのデメリットなんだけどな。損得計算をするまでもなくオレンジに良いことなんて何もないってのに」

 

 システム上のデメリットを別にしても、俺の場合は『犯罪者である』という烙印があるだけで心は荒み、日々重圧を感じていた。だからこそかもしれない、望んでそんな身分になろうとするプレイヤーに怒りを覚えたものだ。

 

「カルマ浄化クエストが広く知られるようになって以降、グリーンとオレンジを梯子する小悪党も増えタ。まあギルドなりパーティーなり、徒党を組むのにも利点としがらみがある。抜けるに抜けられなくなることだってあるんだろう」

「クエストを発見次第広く情報を流すよう頼んだのは俺だ。アルゴが気にする必要はないぞ?」

「でも、キー坊は後悔したんだろう? システムを有効利用するのがゲーマーの常とはいえ、善意に悪意が返されるのは結構堪えるもんダ」

「それも含めて俺の見通しの甘さだったってことだな」

 

 俺のような望まずにオレンジ化してしまったプレイヤーの助けになればと思った。アルゴにはそんなつまらない感傷は捨て置けと忠告されていたし、事実、同情や自己投影で動いた結果は碌でもないものでしかなかったけれど……。

 だから昔リズに『俺がオレンジプレイヤー跋扈の一因になった』と言ったのも、故ない事ではなかったのだ。遅かれ早かれ同じことになっていたという点を語らなかったのが、自虐精神の発露だったとしても。

 

「そのままでいいんだヨ、情をなくしたキー坊なんて見たくもない。ゲームクリアを大義名分に、何でもかんでも削ぎ落としていくこともないだろ?」

「ああ、そうだな」

「キー坊は悪意を跳ね除けるのが下手っぴなんだから、悲観主義よりは楽観主義を気取ったほうが幾らかマシだヨ。少しは善意に感謝してくれるプレイヤーもいたはずだって考えておけばいいのサ」

「俺のは悲観ってより卑屈なだけだった気がするけど」

「わざわざオブラートに包んでやったんだゼ、オレっちの気遣いを台無しにするのは許さないゾ」

 

 コミカルに語気を荒くするアルゴに対し、真面目くさった顔で頷きを返してから、二人して笑みを交し合う。アルゴが一瞬だけ安堵したように息をついたことは気づかないふりをした。

 

「俺もずっと考えてたことがあるよ。どうしてラフコフという無法集団が誕生したのか。何故あそこまで大きな集団になりえたのか。なによりあいつらを突き動かす原動力は何だったのか。そんな疑問をさ」

 

 善良な人間を血塗られた人殺しへ、一人のプレイヤーを怪物に変えてしまったものは何なのか。その正体がわからず、わからないまま俺は奴らに恐怖し、対峙して、その果てに大半のレッドプレイヤーを牢獄に放り込んだ。そのためにこの手にかけた命さえあった。

 

「キー坊、ラフコフは敵だヨ。敵以外の何者でもなかっタ。……それだけじゃ駄目なのカ?」

「そう心配すんなって。別にあの戦いを否定してるわけじゃないんだから」

 

 命の重さが平等だなんて嘘っぱちだ。俺はこの世界で幾度となく命の取捨選択を繰り返した。目の前でプレイヤーが結晶として散り行くたび、その事実は冷たい現実を俺へと突き付け――命に優先順位をつけて剣を振るう意味を悟らずにいられなかったのだ。

 近しい人と、遠い他人。共に戦場に立つ者と、志を違え道理を踏み外し敵対する者。二度と還らぬものを奪ってでも守りたい現実があった。

 

「そっか」

「そうさ」

 

 必要な戦いだった。潰すべき敵だった。だから戦った。

 その事実を前にわだかまりはあっても今更懺悔する気はない。燻り消えない火種のように、この胸に満ちる痛みを抱いたまま俺は生きていくのだろう。過去を想い、前を見て一歩一歩。

 そんな俺を一頻り眺め、アルゴは安堵を含ませた表情で一つ頷き、「アーちゃんとも少し話したことがあるんだけどネ」と続けた。

 

「オレっちは殺人者(レッド)が怖い。……この上なく怖いんダ。理解できないってのは恐ろしいとつくづく思うヨ。オレっち達と同じ姿形をしていても、奴等が本当に同じ人間なのか疑わしくなってくるんダ」

 

 俺も怖かった。怖かったからこそ必要以上に攻撃的になっていた。

 

「シィちゃんから、キー坊と一緒に思い出の丘で奴等と遭遇した時の話を聞いたことがあるけどサ。あの子、思い出すだけでもつらそうだったヨ、すごく怖がってタ」

 

 シリカが特別臆病だったわけじゃないんだ。それどころか実力的には奴らを上回っているはずの攻略組ですら、奴らを前にして平常心を保てるプレイヤーがどれだけいることか。あるいは俺を含めて誰一人冷静に向かい合えていなかったとさえ思う。……《聖騎士》はその中には含まれないか。奴はあらゆる意味で別格だし、論ずるだけ無駄だ。

 

「オレっちはラフコフのメンバーと剣を合わせたことはないけど、シィちゃんが必死に震えを隠そうとしてたのもわかる気がするんダ。得体の知れない恐怖……。本来『化け物の前に立つ』っていうのはそういうことなのかもしれなイ」

「それは特別なものじゃない。ラフコフを別にしても、俺達がモンスターと普通に戦えてることが既に異常なんだ。俺達プレイヤーはこの世界を《死》が存在する現実だと認めてはいるけど、やっぱりゲーム感覚も残してるってことなんだろう。心を鈍らせて、恐怖を眠らせたからこそモンスターと戦えた」

 

 はじまりの街に閉じこもったプレイヤーの行動こそが一番真っ当な反応だったと思う。そうでもなけりゃ人間大どころか身の丈を超える昆虫やら植物、動物、果ては御伽噺でしか語られないような巨大幻想生物相手に剣一本で挑めるものか。

 そう、少なくとも最初はゲーム感覚の名残があったはずだ。そこから『こいつらは剣で倒せるのだ』という事実に伴う実感を積み重ね、異常な現実を受け入れていった。その果てに辿り着く場所が何処なのかは……あまり考えたくはない。

 

「モンスターじゃなくて人間相手だったからこそ、忘れていた現実感覚が色濃く表に出てきたってことカ」

「殺し合いって意味じゃモンスターもラフコフも似たようなもんだろう。でも、攻略組はフロアボスよりラフコフの存在のほうを恐れてたよ。データ上の強さではボスモンスターのほうがずっと上なのにな」

 

 人間だからこその搦め手はラフコフのほうがはるかに上手だが。

 

「ソードアート・オンラインはどこにでもいるゲーマーを冷酷非道の殺人者へと変えちまっタ。もちろんそれが極一部の例外だってことも理解はしてるけど、一体何が奴らをそこまで狂わせたんだかナ。オレっちにはどうあっても紐解けそうになイ」

 

 力なく首を振り、らしくもなく重い溜息をつく。

 それはそうだろう、アルゴは時に破天荒にすら映る振る舞いや珍妙な口調で強烈なキャラクターを印象付けてはいるものの、その実、誰よりも現実感覚を残した常識人だ。博識の持ち主だし知恵も回る、しかし突飛な思考を得手としてはいない。そういうのは俺の領分だった。

 

「憶測でいいよな?」

「この薄気味悪さが消えるなら何だっていいゾ」

「なら遠慮なく。ギルド《ラフィンコフィン》はゲームクリアを望まない破滅思想を持ち、殺人の禁忌を有しない倫理に外れた集団だ。これが一般的な認識」

「そうなるネ。だからこそ現実に帰ろうとしてる大多数にとっての異端であり、理解しがたい連中だったわけだけど……わざわざ確認したのは何でダ? まさかそいつが誤りだったとか言わないよナ?」

 

 それこそまさかだ、と笑う。

 

「奴等が長期的な展望を持たない阿呆の集まりってのは変わらないさ。破滅上等、目先の快楽優先だってんだからどうしようもない。ただ、その危険思想っぷりはあくまでわかりやすく眼前に置かれた姿だ、いわば目に見える結果――奴等の動きから俺たちが推し量ったものでしかないよ。全体の意思と個々の思想は違う」

「……お手上げ。そこまで言われてもオレっちには何も見えてこないヨ」

 

 アルゴには共感できないだろう、むしろ俺だってわかりたくない。

 すぅっと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して気を落ち着けた。

 

「果て無き超人願望。そいつがラフコフの根底にあったんじゃないかって思ってる」

「超人? 確かニーチェが唱えた哲学思想だったカ? 自身の価値観の絶対視って奴」

「いや、そっちじゃなくてフィクションで語られるほうの超人。VRMMOだからこその弊害、仮想世界に由来する病だ」

 

 多分、PoHは彼らの深奥にあるそれを見抜いて《PKギルド(ラフィンコフィン)》という《器》を用意したのだと思う。

 

「あー、なるほどネ。字面通りの超人欲求充足って形になるのカ。そりゃまあアメコミの主人公さながらに飛び跳ねられる世界だし、現実感覚の喪失につながってもおかしくないよナ」

「連中はもっと能動的だった、と思う。現実に付随するあれこれを自然に忘れていったんじゃなくて、自分から捨てたんだ。俺達よりもはるかにこの世界を《唯一の現実》と認め、適応した。それがどれだけ歪でも、彼らはこの世界こそを自らの世界だと定めたのだと思う。ちょっと乱暴な結論になるけど、現実世界に不満を持った奴ほどアインクラッドを『現実』と見做しやすくなるんじゃないか?」

 

 現実世界に価値を見出せなくなっている人間は特に危険だろう。何らかの劣等感コンプレックスを強く抱いている者や、己の居場所を見失ってる人間が仮想世界で不満を解消し、『生きている実感』を見出す。ありえないことじゃない。

 恥ずかしながら俺にも身に覚えのある気持ちだった。もっとも俺の場合はゲーム開始一ヶ月でこの世界から強烈に逃げたくなったため、アインクラッドを安住の地と見ることが出来なくなったわけだが。

 もしも攻略に関わることなく利己的なプレイを貫いていたなら、あるいは俺も『この世界に骨を埋めても良い』という答えに行き着いてしまった可能性はある。……さすがにレッドにまで身をやつすとは思いたくないが。

 

「この場合、連中を満たす一番手っ取り早い手段がPKだったのが一番救えない点なんだろうよ」

 

 加えてこの世界は肉体的、技能的な意味でひたすら平等だ。時間をかければかけただけ成長し、それはレベルとステータスという目に見える数値となって表れる。この世界に没頭すればするほど成果が出るし、他人に先んずることも出来る。優越感を満たすために払う最も大きなリソースは才能や運ではなく、狩りやスキル使用に費やした時間の総計なのだ。

 無論、技能で言えばユニークスキルという例外はあるし、剣の腕にしても諸々の才能――現実世界と似て非なる仮想世界に呼応するための戦闘センスに左右されもする。しかし大部分においては現実世界よりもシンプルかつ平等であるし、それはMMORPGの基本でもあった。

 

「ゲーム上で操るキャラクターへの過度の自己投影と付随する価値観の逆転。現実を捨ててゲームに没頭する奴ってのは一定数存在するし、昔からその手の『嵌り過ぎ』は取り沙汰されてきた。一時期は社会問題として大きく取り上げられたこともあったらしいけど」

「そこまでいっちまうのは極端な例だけどナ」

「加えてVR空間だ、おかしくなる下地は揃ってる」

 

 MMOには中毒性があると昔から言われてきた。『より多くの時間というリソースを費やした者こそが強い』。その単純にして明快な論理で組まれた世界を愛すゲーマーは多い。

 五感を電脳空間にダイブさせるナーヴギアが発明される前、パソコンの画面と向かい合うクリックゲーだった頃のMMOですら現実世界よりもゲーム世界に没頭する人間、いわゆる《廃人》と呼ばれる人種が存在していたのである。彼らはゲームのために現実世界を仕方なく生きている、一般的な観点からすれば本末転倒な生活を送る人間だったとさえ言える。

 

 その中毒性のある世界が茅場晶彦によってVRという形態を可能にし、まさに異世界に飛び込むが如き様相を示した。そこで何が起きるかは未知数の上、《デスゲーム》という極限状態だ。

率直に言って、どんな馬鹿な理由で人道を踏み外しても不思議ではなかった。

 

「ラフコフのメンバーはどいつもこいつも性根の腐った連中だけど、幹部三人衆の中ではザザが一番純粋だったんじゃないか? あの針剣(エストック)使いは一際強さに執着を持っていたよ。で、わかりやすさではジョニー・ブラックが一番だな。あいつは他者への優越と強者である自分に酔ってる典型だったと思う」

 

 どちらも倫理を欠いているのは今更だ。

 

「でも、PoHは毛色が違うよナ? キー坊はあいつだけは殺しが目的じゃないって言ってたろ。そうすっと超人願望なんて欠片も持ってなさそうだゼ?」

「だろうな。ラフコフを率いちゃいたが、ラフコフの掲げた思想なんて鼻で笑っていただろうから。というか俺にもあいつは未だによくわからん」

 

 ラフコフという殺人集団を率いておきながら、あの男にとってはその活動の悉くがフェイクでしかない。ラフコフという器は、奴にしてみれば社会に馴染めない外れ者を集め、そいつらが望む餌を投げ渡して飼う遊び、その程度の認識だったんじゃないか? その外道と欺瞞っぷりはこの世界で一、二を争うだろう。

 

「奴はこの世界で死ぬ気はないはずなのに、やってることは攻略の妨害だ。その時点で矛盾してる」

 

 では、その矛盾を解消する論理は何処にあるのか。

 

「人間同士の潰し合いを見るのが目的だとしても、最後までそれを貫けるもんかな? 奴にこの世界を自分の手で脱出するビジョンがあるかは疑わしいぞ。つまり――PoHに攻略組を潰す意図はなかった」

「『ソロでクリアするなんて土台無理な話だ』ってのがどっかのユニークスキル使いの結論だったしナ」

 

 茶化すな、と一応の抗議を入れておく。

 

「PoHは攻略組クラスの力を持ってるかもしれないけど、言ってみればそれだけだ。フロアボスを相手にするなら有能な剣士止まり、それこそ《聖騎士》ばりの絶対的な戦力を示せるわけじゃない。そんな奴が攻略組を潰した後にこの世界を一人でクリアできるかと言えば、まず無理だ」

 

 それとこれはPoHに限ったことじゃないが、純粋に戦力として見た場合、ラフコフは装備から戦術まで対人に偏り過ぎててボス戦に使える人材かどうかは不明である。いや、もちろんあいつらだってレベリングはしてるんだからモンスター戦闘だって一通りこなせるのだろうが、フロアボス戦の経験には乏しいし期待薄だ。

 そもそも奴等に背中を預けるなんざ悪夢以外の何者でもないけど。間違いなく背後から斬りつけられる。

 

「PoHだってゲームクリアはしなきゃならない。となるとどっかでギルドの方針を変えるか活動を休止する必要があったんだが……。あいつ、もしかしたら適当なところでラフコフを潰す計画さえ立ててたかもしれない」

「……マジか? 自分で作ったギルドだろ?」

「そう、自分の愉しみのためだけに作ったギルドだ」

 

 用済みになった玩具の末路は一つだ。アルゴの顔に浮かぶのは予想外のことを聞いたという驚きと、そこまでやるのかという侮蔑だった。

 

「奴にはこの世界に囚われたまま俺達と心中するつもりはない。なら、さんざんプレイヤーからのヘイトを稼いだ後で攻略組に情報を流し、不必要になったラフコフとぶつけ合わせればいい。そうやって最大規模の殺し合いをプロデュースした挙句、自分自身はさっさと雲隠れ。その後はゲームクリアを攻略組に任せ、悠々自適に過ごす。どうだ?」

「最悪だナ。吐き気しかしないヨ、邪悪極まる策謀って奴ダ」

「同感」

 

 実際は俺が計画を立て、討伐隊を組んで奇襲を成功させ、PoHの機先を制する形でラフコフ討伐を主導した。そのため奴がラフコフの去就をどのように考えていたのかはわからない。

 しかしあの男ならば俺が口にした程度の悪辣ぶりは苦もなく発揮するだろう、というどうしようもなく嫌な信頼がある。そうなればPoHはゲーム世界で存分に自身の目的を楽しみ、達成し、労せずしてゲームクリアのお零れに預かれるという寸法だった。

 

 自分で語っておいて何だが、どうにもむかむかしてきた。これらはあくまで推測でしかない。しかし、もしもそれが奴の描いたゲームクリア戦略だったとしたら、それこそ反吐が出るというものだ。

 

「そうなると75層でクラディールを攻略組に(けしか)けたのはおかしくないカ?」

「別におかしくないぞ。あれはクラディールがベラベラ内情を暴露したせいでPoHの思惑とずれたってだけで、順当にいけば真相は闇の中だったはずだし」

「どういうことダ?」

「PoHの企図した本命はラフコフの完全壊滅、つまりあれは邪魔になったクラディールの切り捨てだったんじゃないかと踏んでる。多分クラディールは俺を殺して逃げた後、PoHに報告に行ってもそこで始末されてたよ。そうなれば下手人がいつの間にか死亡で裏切りの動機はわからずじまいだ」

 

 俺を狙ったのはPoHがクラディールの為人を考慮したのが半分、自身の命を脅かされないようにするのがもう半分。どちらにせよPoHの元まで火の粉は飛ばない――はずだった。

 ある意味でクラディールはPoHの思考の上をいったのだろう。いや、この場合は予想を超えて下回ったと表現するべきか。PoHの最大の誤算は俺が生き残ったことではなく、クラディールが俺のみならずヒースクリフまで殺そうとしたことだろうな。PoHにしてみれば、ヒースクリフはクリアのためにも生き残っていてもらわなくては困るプレイヤーのはずだ。

 

「……頭が痛くなってきた。もうPoHの野郎だけ茅場のゲームマスター権限でこの世界から追放してくれよ。オレっち文句言わないゾ?」

 

 アルゴが心底辟易とした口調で心情を吐露した。俺もその意見にゃ賛成するよ。PoHは害虫並にうざったい上に、極悪の毒を持ち合わせてる危険指定生物だ。いないほうがずっと平和に違いない。

 

「まあそういうわけでな、ラフコフとPoHは別物として見たほうが良いんだ。そうでないと奴等の本質を読み違える」

「なるほどねぇ。考えてみりゃPoHが戦線離脱してもラフコフから戦意が消えなかった事とか、ワンマンギルドにしちゃおかしな特徴があったもんナ。ったく、PoHは邪悪の権化、外道の極みみたいな奴だけど、部下は部下でメルヘンこじらせて無法に溺れた社会不適合者の集まりかヨ。徹底した壊れ具合っつうか、オレっちには到底理解できない世界だゼ」

 

 お互い疲労のこもった溜息が出た。

 

「良きにつけ悪しきにつけ、この世界では生きている実感ってのが得やすい。茅場が攻撃手段を実質《剣》に限定した意味はそこにあると思う」

「遠距離武装を制限したことカ? そういえばキー坊の持ってるスキルに《射撃》ってのがあったっけ」

 

 ちなみに射撃スキルに対応する弓カテゴリの装備が発見されたという話は未だに聞かない。

 

「《射撃》がユニークスキルなら仮説としてはそこそこ成り立つかな。ゲームコンセプトとして《剣の世界》と銘打った以上、システム上アインクラッドに魔法的な要素が制限されるのはわかる。でも、弓が武器選択に入ってないのは如何にも不自然だ」

「根拠は?」

「《剣の世界》とはいうけど、刀や槍ならまだしも、斧やら棍やら鞭やら、およそ剣の範疇にない武器のバリエーションが多すぎる。だってのにファンタジー世界の定番である弓がないのは妙だと思わないか?」

 

 ふむ、とあごに手をやって考え込むアルゴ。

 

「投剣スキルで放つスローイング系の武装はメインウェポンにはなりえなイ。そして、仮に《射撃》スキルがユニークスキルだとするなら弓はあくまで特別であり、汎用性を持つ武器としての立場は獲得できずに終わる。――結論、アインクラッドではゲームマスターの意思によって飛び道具が徹底的に制限ないし排除されている。キー坊はそれを、茅場がデスゲームを想定して作り上げた仕様だと踏んでるわけカ」

「戦術を接近戦に限定することで、プレイヤーに直接獲物を狩る感触を覚えさせ、生の実感を強く抱かせる。ひいては現実世界を生きてきた人間の価値観を極自然にアインクラッドで生きる剣士のそれへと変貌させようとした。茅場の狙いはそういうことだったんじゃないかな」

 

 アスナが言っていた。まるでこの世界で生まれ、ずっとこの世界で生きてきたようだ、と。

 それは狩り、すなわちモンスターを『殺す』ことが生きる手段であり、生活の糧だったからだろう。現実世界と大きく異なる生活様式、日々繰り返される異常を日常として刻み込み、知らず知らずのうちに向こうの感覚を忘れ、こちらの何もかもに迎合してしまった。

 無論、それが悪いことだとは言わない。生き残るためには下手に現実のあれこれを引きずるのは危険だったからだ。

 

「全ては茅場晶彦の掌の上ってカ、ぞっとしない話だゼ」

「もちろん単なる偶然で終わる可能性もある」

「おーい、最後にそれを持ってきちゃ台無しじゃないカ」

 

 呆れ顔のアルゴにひょいと肩を竦めてみせる。そう言うなよ、人の心理の全てを見通せるなら俺だって苦労しない。

 

「ゲームマスターとして神様を気取っていても、そしていくら天才の誉れ高い男だろうとも、茅場だって一人の人間であることには変わらないんだ。一から十まで想定しきれるゲームデザイナーはいないだろ? 開発者の意図しえない攻略法や既存スキルのトンデモ利用法をユーザーが編み出すなんてのも珍しくもないし、実際システム外スキルの幾つかは開発者にとっても盲点だったんじゃないか?」

「キー坊はそういうシステムの抜け道を探すの好きだよナ」

「ゲーマーらしいだろ?」

「開発者泣かせのユーザーなんじゃねーノ?」

「茅場への嫌がらせになることなら喜んで」

 

 もっともアインクラッドでのシステムに規定されていない戦闘関連スキル、いわゆる《システム外スキル》と俺達が呼ぶ技術は『わざと』残されている気がしてならないが。それらを発見する楽しみを見出してもらうという開発陣の目論見が透けて見える。

 何せどれもこれも難易度と実用性の釣り合いが取れていないため、デスゲーム渦中の実戦で容易に使えるようなものではなく、ゲームバランスに及ぼす影響は微々たるものなのだ。曲芸はどこまでいっても曲芸でしかなかった。

 

 まあ釣りスキルを利用したスイッチみたいな日常スキルまで開発スタッフが検証していたとは思えないけどさ。あれは確率で発生する偶然の産物ではなく、発想に至れるかどうかが全てなのだから。

 

「俺としちゃ二年近く稼動させ続けてるMMOで、システムバグやバランス調整失敗の形跡がほとんど見られない現状のほうが恐ろしいけどな」

「《カーディナル》とか言ったっけ? スケールのでかすぎる話だヨ」

 

 人の手を介さず世界を管理し続ける精緻極まりないシステム――神の代理人。その優秀すぎる巨大システムに俺達への悪意がないことが救いだ。おそらく根底にあるのは茅場の意思なのだろうが、その点だけは感謝している。クリアを絶望的にさせるようなゲームバランス崩壊だけは勘弁だった。

 

「スケールねぇ。アインクラッドの基部フロアは直径およそ10キロメートル。上に登れば登るほど敷地面積は狭くなっていく浮遊城。それが全ての世界。現実世界に比べればずっと規模の小さな箱庭にあってさえ、俺達人間はちっぽけな存在だってことを思い知らされるんだから堪らないよな」

「で、こうしてる間も現実世界は何事もなく時間が進んでいく、と。クリアを諦めた連中の気持ちもわかるヨ。オレっちだって時々やってらんねーって思うもの」

「今までのペース換算だと首尾よく攻略に弾みをつけたしても、頂上に辿り着くまであと半年から一年はかかるもんな」

 

 俺達の肉体的なタイムリミットを示唆したアスナや、ゲームクリア後の社会復帰を危ぶんだニシダさんの顔が思い出される。クリア後のことも考えると、二次被害を抑えるためにも攻略スピードの加速は必須ですらあった。浦島太郎なんて冗談じゃない。

 

「あんま逸りすぎるなヨ。まあキー坊にそんな忠告するのも今更すぎるけど」

「俺が喜ぶから無意味じゃないぞ?」

「その程度でよければいくらでもやってやるけどサ、安上がりな男になるのも損だゼ?」

「お前にとって都合の良い男になれるなら、それも悪くない気がする」

 

 割と本気でそう思った。

 

「……まーたキー坊はコメントに困るようなことを言うんだから」

「素直な気持ちだぞ?」

「だったらなおさら説教が必要かもナ。キー坊、ちょっと反省させてやるからそこで起立」

「イエス、マム」

 

 あれ、正座じゃなくて?

 そんな内心を押し止めてベッドから立ち上がり、おどけた敬礼をしてみせると、すかさず「動くの禁止」とありがたいお言葉が飛んできた。アルゴも興が乗ってきたのか幾分声が弾んでいる。どんないたずらを企んでいるのかとわくわくしながら見守っていると、アルゴはおもむろに立ち上がり、しげしげと俺を眺め回しながら不思議そうに首を傾げてみせた。

 

「こうしてキー坊のとぼけた顔を見てると、勇猛果敢な比類なき剣士ってのも評判倒れに思えるなあ。痩せっぽちだし、この通り身長も足りてないもの」

 

 噂話にまで責任は持てないぞ。ともあれ――。

 

「俺よりずっとちっこい奴に言われてもなあ」

「甘いなキー坊、これでもシィちゃんよりはおっきいゾ。身長もそれ以外も」

「シリカが泣くからやめろ」

 

 主に『それ以外』の部分で。

 アインクラッドではプレイヤーの姿が二年前のまま固定されてるせいで、シリカも結構そのへん気にしてるっぽいんだぞ? そもそもアルゴだってアスナとかリズと比べられるのは厳しいだろうし、サチだって実は結構――と、危険な方向に進みかけた思考を慌てて振り払った。

 そんな俺の苦悩を面白そうに眺め、瞳を輝かせて「シィちゃんの半泣き顔ってそそるんだゼ」と不穏当極まりない発言をしてくれる輩がいた。性懲りもなく想像の翼を広げ、納得しかけてしまった自分が憎い。すまん、シリカ。

 

「冗談はさておき、キー坊は誇って良いんじゃねーノ? 今現在の生存者七千人ちょい、その大半の期待ってやつを一身に背負ってるんだから」

 

 その台詞だけなら素直に頷けたのかもしれないが、これだけよいしょしておいて叩き落すのもアルゴという女だった。

 

「ほんと感慨深いものがあるよナ。二年前、茅場の気味悪いアバターに衝動的に斬りかかったガキが、今じゃアインクラッドの希望だゼ? よくもまあここまで騙し通せたもんダ」

 

 俺の弱みがアルゴに知られすぎてる気がするぞ。もっとも俺が自分から口を割った結果なのだし、文句を言うのもお門違いなんだが。

 そんな俺を横目に「《黒の剣士》殿は演技達者なことで」とけらけら笑い飛ばすアルゴはとても楽しそうだった。とりあえず「お前だけには言われたくない」とだけ返しておく。アルゴも自分の事を棚に上げてよく言えたものである。スキル欄にはきっと《棚上げ》の文字が躍っているに違いない。

 

「安心しなヨ。《はじまりの剣士》は鍍金(メッキ)に彩られたなんちゃって勇者様だったかもしれないけど、《黒の剣士》は本物になっタ。嘘から出た真って奴かもネ、キー坊の自覚あるなしに、もう『そうなっちまってる』んだヨ」

「結構重いよな、それ」

 

 彼らの期待に応えたいとも思うし、そのための努力を怠る気はない。それでも……何も知らず我武者羅に駆け抜けていられるなら、そちらのほうが楽なのかもしれない、と。ふとそんな考えが過ぎった。

 弱気になったわけでも、気負いを滲ませたつもりもない。やることはいつだって一つだ。アインクラッド攻略に全力で取り組み、限界の一歩先を常に念頭に置き、目指し続ける。いつかその一歩がずっと見上げてきた頂に辿り着くのだと、俺にはそれが出来るのだと信じて戦えば良い。

 

「――なら、オレっちが少しだけ軽くしてやるヨ」

 

 いつかの聖夜とその顛末を思い起こさせる台詞回し。けれどそれはあの時にはなかった軽妙に弾んだ声音で、それでいていつも通り耳に心地よいイントネーションをしていた。彼女に抗えなかったのはその悪戯な笑みに見惚れていたのか、それとも彼女の声に安らぎを覚えて注意散漫になっていたためか。きっとその全てが真実で、その実、言い訳に過ぎなかった。

 

 ぐいと腕を抱え込まれ、その場でくるりと半回転。俺との位置を入れ替え、勢いそのまま背中から寝台へと倒れこんでしまうアルゴ。俺もまたそんな彼女に引っ張られる形で、今しがた座っていた柔らかなベッドの上へと引きずり込まれてしまう。

 抵抗する気は欠片も起きない。むしろその誘いを歓迎している俺がどうして拒まなければならないのか。とはいえ、一足早く寝台に身を横たえている少女を我が身の加重で押し潰すわけにはいかないため、そこだけは気をつけて両手を差し出し、身体を支えた。

 小柄な少女の顔を、上からじっと見下ろす。

 

「強引だな」

「最初くらいはネ。それにユイユイが寝てたベッドで、ってのは背徳感が半端ないし」

 

 俺の身体の下で組み伏せられたまま、にんまりと笑う。アルゴらしい言い草だと苦笑が漏れた。

 

「何時の間にそんな細々とした情報(ネタ)を仕入れたんだか。情報屋の面目躍如ってか?」

「んー、女の勘でもいいゾ? キー坊の好きなように取っておけばいいサ」

「そうしとく」

 

 我が家の寝室の間取りを知っているプレイヤーは多くない。情報源はアスナかサチか、はたまたシリカかリズか。あるいは今日この場での俺の振る舞いから当たりをつけたというのも十分考えられることだった。しかし追及する意味がないというのもアルゴの言う通り、優先順位は限りなく低い。

 重要なのは今、目の前に広がる光景。華奢な少女を組み敷き、息の触れ合う距離で見詰め合っている甘やかな現実。それだけだった。

 

「今夜はキー坊がやけに情熱的な文を寄越すから、一体何事だと思ったもんだけど……」

「迷惑だったか?」

 

 くすっとアルゴの口元が綻び、俺の頬へと細い指先を伸ばすと。

 

「そういうのを野暮っていうんだヨ、キー坊」

 

 答えのわかりきっていることを聞くんじゃない、と笑って窘められてしまう。

 

「特別な夜を望んだんだ、それなりの理由があるんダロ。……明日のことで何か思うところでもあるのカ?」

「ちょっとな。聞きたいか?」

 

 アルゴはうーん、と唇に人差し指を当て、答えに迷うような素振りをわざと見せてから。

 

「別にいいや」

 

 と、あっさり口にする。

 

「うわ、話を振っておいて簡単に引き下がりやがった」

「折角の逢瀬に無粋な話はいらないってこと。ま、本当は『キー坊のことならオネーサン何でもお見通しなんだゼ』って主張したかっただけなんだけどサ。まさかオレっちに独占欲がないとは思ってないだろうネ、キー坊」

「せめて俺の半分くらいは持っててほしいかなあ」

「ふふん、そいつは秘密にしておこう。良い女には秘密が付き物なのサ。そうそう、女に隠し事をしたいときは何も言わずに抱きしめてやればいい、って教えてやったっけ?」

 

 からかい混じりの笑顔が眩しく、愛おしい。胸に込みあがる気持ちに素直に身を委ねてしまいたくなる。

 逢瀬につまらない話はいらない、とアルゴは口にした。

 なるほどその通りだと思った。殊更俺の存念を隠したいわけではないが、ここで口にするのはどうしたって無粋に違いない。それに……愛しい人からの抱きしめてほしいという願いを無碍にするほど、俺は意地の悪い男ではないつもりだ。今はお互いに温もりを確かめ合うほうがずっと大事だろう。

 彼女の願いのままに、壊れぬように、そっと――。

 

「ん、やっぱり、こうしてると落ち着くナ……」

 

 腕の中で安心したように微笑む様子に胸が温かくなり――同時にアルゴの全てを奪いつくしてしまいたい、そんな黒い衝動を毎回どうにか押さえつけている事を、はたして目の前の少女は気づいているのだろうか。

 

「どうせキー坊は忘れてるんだろうけど」

「ん?」

「今日はもう一つ、特別な意味を持った夜なんだゼ?」

 

 何か忘れていることでもあったかと思索を巡らせても、これといったものは思い浮かばない。アルゴの言う通り、何時まで経ってもその意味するところをまったく描き出せなかった。

 

「降参。明日の決闘以外に何か大きなイベントってあったっけ?」

「やれやれ、間抜けもほどほどにしときなヨ」

 

 そうして少し動けば唇が触れ合える距離で、囁くように一つの事実を告げられる。それはどこか厳かで、同時に優しい響きをしていた。

 

「――16歳の誕生日おめでとう、キー坊」

 

 その思いがけぬ祝いの言葉を受けて、そういえばそうだった、と今日という日の意味を今更思い出す俺は、アルゴの指摘通りに間抜けだったことだろう。うむ、反論できん。

 

「サンキュ」

 

 短く告げる。

 今日の日付は西暦2024年10月7日。俺はアインクラッドに閉じ込められてから二度目の誕生日を迎えていたのかと、しばし感慨に耽り――。

 

「ところで、その台詞はアルゴが今夜のプレゼントだと受け取っていいのか?」

 

 蝋燭を挿したケーキはいらない、その代わりにお前が欲しいのだと厚かましく要求してみた。この時の俺は結構良い笑顔をしていた自信がある。つまるところ口実であり、互いに承知した言葉の繰言でしかなく、だからこそ楽しむ。そういうものだった。

 

「にゃハハハ、キー坊のエッチ」

 

 少しだけ、気恥ずかしそうに。

 

「でも……キー坊がそれを望むなら」

 

 ほんのりと赤く染まる彼女の頬があまりに艶やかで、柔らかな双眸はあまりに優しくて。

 だから、こんなにも愛おしい。

 

「じっとしてろよ」

 

 言葉の鎖で絡めとり、ゆっくりと手繰り寄せていく。焦らすかのように緩慢な動きだったのは、きっと少しでも長くこの一時を愛でていたかったからだろう。

 最初に手をつけたのは彼女の愛らしい耳だった。いや、まあ、触れたのは俺の手ではなく口だったりするのだけど。いつものようにぱくりと唇で()み、親愛を示すように甘噛みを続けた。

 

 アルゴはくすぐったそうに身をよじり、我慢しようとしても漏れ出すか細い吐息を押さえ込むためか、左手の人差し指を口元に運んでいく。けれどそれを許すまいと画策した俺の右手がアルゴの細い左手首を掴み、万歳させるように頭上へと持ち上げてしまう。慣れた手つきでもう片方の腕も掴み取り、手早く自由を奪ってしまうのも珍しいことではなかった。

 

 むぅ、と恨めしそうに睨んでくる抗議に知らんぷりを決め、首筋に唇を落とすと舌の感触に驚いたのか、普段は絶対に聞かせてくれない甲高い鈴の音が空気を震わせる。

 大きく仰け反らされたおとがいにイタズラ心が疼き、眼前に晒された健康的な白く滑らかな肌に本能を刺激され、これ幸いと頭を忍び込ませる。しめしめと存分に意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「んぅ……ひゃぅ……」

 

 繊細に、優しく、けれど急所を一突きするかのような至極真剣な心持ちで、露わになった喉の正中線をなぞるようにそっと舌を這わせる。すると今度は途切れ途切れに息を乱し、可愛らしくも艶やかな嬌声がアルゴの口から発せられた。

 口や手と並行して視線も忙しく滑らせる。アルゴの手はぎゅっとシーツを握りしめ、複雑な皺模様を作り出していた。無防備に投げ出された柔らかな肢体が、俺の脳髄をこれ以上となく痺れさせていく。

 

「わぷ」

 

 不意に反撃を貰った。

 首筋から下って開いた胸元に到達し、さらにその先へ向かおうとした矢先に、それまでされるがままだったアルゴの腕が俺の首に回され、一時の間不埒な動きを封じ込めるように強く抱きしめられてしまう。頬に当たるふくよかな感触を堪能して夢見心地になる一方、息を乱した少女に意識を向けて言葉を待った。

 

「……キー坊の、いじめっこ」

 

 上擦り、濡れそぼった声音にぞくりと昂ぶりを覚える。

 目の端に涙が浮かび、切なげに潤んだ瞳と熱を帯びて上気した艶やかな表情が目に映った。そうやって息も絶え絶えに訴えかけられると、たまらず罪悪感が刺激され――ることはなく、むしろもっと乱れさせたいと不健全な嗜虐心がむくむくと膨れ上がってくるのは、はたして俺の性格の悪さ故だろうか。

 

「これでも誠実なつもりだけど?」

 

 手を伸ばし、彼女の目尻に光るものを拭い取りながら白々しく惚けてみると、案の定ジト目が返された。

 

「オレっち、キー坊に倫理コード解除設定を教えたのは間違いだったんじゃないかって思うことがあるんダ」

「いやあ、何だか楽しくなって、つい」

「つい、じゃないっての」

 

 唇を尖らせ、「ああもう、妙にツボを抑えてくるし、手癖は悪いし……」と一頻り文句を言われるものの、本気で責められているわけでもなかった。それに手癖が悪いというのもそれだけアルゴが魅力的なせいだ。可愛らしい反応を引き出したくて、ついつい手が伸びてしまうのである。

 つまり俺は悪くない、アルゴが悪い。

 以上、論破。証明終了。

 

「よし、だったら次はアルゴのリクエストに応えるぞ?」

「それはどんな羞恥プレイだ……。第一、何言ってもキー坊の得にしかならないじゃないカ」

「大丈夫、俺は奉仕精神も持ち合わせた男だぞ? ほら、これでWin-Winの完成だ」

 

 何もおかしいことはないと言外に込め、悪ぶれずに告げた俺に贈られたのは頬を優しくつねる制裁だった。「にゃにをする」と抗議立てする間抜けな男をくすくすと笑う少女が一人。

 

「まったく、調子の良いこと言ってくれちゃってサ」

「そりゃ、招いた以上は精一杯もてなすのがホストの務めだからな」

 

 そう言って笑う俺にアルゴも微笑を浮かべながら顔を寄せ――なら、ちゃんともてなせヨ、と耳元で甘く囁かれるのがとてもこそばゆかった。

 

「今夜はずっと一緒にいてほしいんだろ。だったらオレっちを掴まえて離さなければいい。逃げる気をなくすくらい強引に、キー坊の腕の中に閉じ込めておいてくれヨ。もしもオレっちのお願いを聞いてくれるなら――」

 

 ――今宵一晩、オレっちの全部をキー坊にあげる。

 

 もしかして俺は色に溺れて窒息死するんじゃないかと、そんな危惧さえ浮かぶ有様だった。……ほんと、どうしてくれよう。

 純な男心をこれでもかと擽る言霊と、小悪魔を彷彿させるあざとさを持ち合わせるアルゴは、もう俺の中で悪女認定してしまって構わないのではなかろーか。その所作も計算だけじゃないのが余計始末に負えない。最初から最後まで演技だけならこっちでストッパーもかかるんだけどなあ……。

 

 艶やかに咲き誇る一輪の花の香りに誘われ、罪悪感を覚えながらも無思慮に茎を手折るために手を伸ばすような、そんな些か歪んだ高揚を覚えていた。否応なく高まる暴力的な欲求が心を支配し、今か今かと解き放たれるのを待っている。それはこの世に理性を放り捨てたくなる瞬間が確実に存在するのだという証左であり、同時に俺達の秘めやかな逢瀬の再開を意味するものでもあった。

 

 熱く、熱く、さらに熱く。

 刻々と身の内から湧き上がる熱が限度を知らず上昇していく。その原始的な欲望の前にこれ以上の抑えは困難だった。仄暗く染まる寝室で、ナイトランプの灯火によって淡く描き出された陰影がゆらゆらと不定形なシルエットを刻み、ぎしりと寝台の軋む音が妖しく耳朶を打つ。

 

 欠けた半身を埋めるように互いを求め合う、その魂の交感を人は何と呼ぶのだろう。

 やがて二つの影が重なり、心と言わず身体と言わず、その全てが安息の内に溶け合っていくのだった――。

 

 

 

 

 

 俺が十六回目の誕生日を迎えた翌日、十月八日は快晴そのもので、まさしく決闘日和と呼ぶに相応しい一日だった。あるいはどこぞのゲームマスターが余計な気を回してくれたのかもしれないな、と皮肉混じりに思うくらいには気持ちの良い風が吹いている。

 そんな詮無い思考も、今は凪の心境で受け流せているのだから問題ない。今日の俺はここ最近で類を見ないほど心身共に充実していた。我が事ながら現金なものである。

 

 ちなみに俺のコンディションをマックスまで引き上げてくれた女神様はすでに我が家を辞している。昨夜(しとね)の上でしどけなく乱れた艶姿(あですがた)も何のその、朝食を取った後に「オレっち一足先に会場入りするから」とさばさばしたものだった。あいつらしい奔放さだとすぐに納得してしまうのは彼女に相当毒された結果なのだろう。しかし気にするようなことでもない。

 

 大方アインクラッド全土の注目が集まっている一大イベントを利用して、ここぞとばかりに情報屋の商売に励むのではないだろうか。情報を扱う者にとって一番の財産は人脈だ、それを疎かにするようではすぐに立ち行かなくなってしまう。モンスターと戦ってるほうが気楽だと考えてしまう俺には到底務まらない役目だった。

 

 決闘の開始時間は正午。イタズラ心――もとい、勝利のために宮本武蔵を気取って決闘場所にわざと遅刻する、という計略に勤しんでみたいという誘惑に駆られたが、今日の趣旨に見合わないため泣く泣く見送りとなった。いつかやってみたいという野望だけは胸に残して。

 ともあれ、俺が第75層主街区《コリニア》のコロシアムに到着すると、それはもう大変な熱気に迎えられ、圧倒されたものである。メインイベントの開催を今か今かと心待ちにしている人、人、人。会場外には多くの露店が立ち並び、引っ切り無しに呼び込みの声が交錯している。

 自分で画策しておいて何だが、こうして見るとちょっとばかし腰が引けるくらい盛況な様子だった。皆、娯楽に飢えてんなあ。

 

 幸い本日のメインイベンターの片割れが、道端で間抜け顔を晒しているのを気づかれた様子はない。このまま目立たず会場入りして開始時間を待とう、そう密かに決意して歩を再開させた時――。

 

「あ、キリト君、こっちこっち」

 

 コロシアムの入り口付近に設けられた受付席に人影が三つ。そのうちの一人が弾んだ声で我が身に呼びかけを行った。にこやかに手を振るのは血盟騎士団副団長その人である。白の布地に赤の刺繍が映え、細身の剣を腰に提げた栗色の髪の少女は、今日も今日とて輝かんばかりの美貌を振り撒いていた。

 

 アスナの鈴の音を転がすような美声がやけに明瞭に響き渡り、その瞬間、ざわりと周囲一帯が揺れたのがわかった。ぶしつけに声をかけられるのも願い下げだが、気のない素振りを装ってちらちらとこちらに視線を寄越し、ぼそぼそと何事かを囁きあうのも勘弁してもらえないだろうか。

 こう、身の置き場に困る感じがだな……。とはいえ、今日ばかりは仕方ないかと内心の嘆きを押し殺し、何食わぬ顔で人垣を割いていく。

 

「ようアスナ、副団長直々のもぎりとは豪華だな」

「ちなみにわたしが受付をやってるのはダイゼンさんの提案で、NPCを雇わずにすませる経費削減策よ」

「……マジか?」

 

 いくらなんでも世知辛すぎやしないかと冷や汗を流す。すると案の定アスナがおかしそうに噴出した。

 

「あはは、嘘に決まってるでしょ」

 

 それからわずかに身を乗り出し、幾分声を潜めて内緒話に近い格好で言葉を続ける。

 

「わたしがここにいるのは万一のトラブル対策よ。血盟騎士団(わたし達)が安全に気を配ってるっていう意思表示をしっかりするためのね」

「なるほど」

 

 だからこれ見よがしに剣を提げてるのか。《コリニア》は主街区のため、オレンジプレイヤーは入り込めない。しかしそれはあくまでカーソルがオレンジのプレイヤーをシステム的に弾いているだけであって、カルマ浄化クエストを達成さえすればいくらでも街に入り込める。

 アスナ達の目的は不審者をチェックし、要注意プレイヤーリストに載ったプレイヤーならば会場入りさせない、ということだろう。警戒すべき筆頭は当然PoHだろうな。血盟騎士団としても立て続けに失態を繰り返したくあるまい。

 

「何かあったときは俺にも声をかけてくれ。全面的に協力するから」

「わかった。まあ、今のところ平和なものだし、圏内で大それた騒ぎが起こせるとも思えないけど」

「何事もなければそれが一番だ」

「うん、そうだね」

 

 ポーズで終わるならそれに越したことはないしな。それに嵐は俺が起こすものだけで十分だと内心で独りごちていると、アスナの隣に座る少女にぺこりと頭を下げられてしまった。

 

「こんにちは、キリトさん」

「ああ、うん、こんにちは? ところで、どうしてシリカがここで受付をしてるんだ?」

 

 疑問符を盛大に飛ばしたまま反射的に挨拶を交わす俺だった。

 先ほどまでアスナと話し込む俺をにこにこと眺めていた一人と一匹がいたのだが、それは小竜のピナを頭に乗せた竜使いだった。彼女はごく自然に血盟騎士団主催のイベント会場で受付嬢をやっていたのである。

 うーむ、何と面妖な……。それとも俺の知らない間にシリカは血盟騎士団に入団していたのだろうか? だとしたら血盟騎士団のユニフォームを揃えていないのが解せない。

 と、まあ、適当につらつら考えてはみたものの、正答はアスナの口からあっさりと語られた。曰く、お手伝いである、と。

 

「手伝い? 血盟騎士団はアルバイトでも募集してたのか?」

「どっちかというとわたし付きのお手伝いさんかな? 話し相手から雑用まで手広くやってもらってるの。というわけでキリト君は控え室までシリカちゃんに案内してもらってね」

 

 なにがどうなって『というわけ』につながったんだよ。

 

「会場の下見は昨日の内に一通り済ませてあるよ。案内されなくても迷ったりしないぞ」

「あれ、キリト君って戦闘前は一人で集中したいタイプ?」

「いや、そんなことはないけど」

 

 むしろ誰かと話していたほうが気持ちが落ち着くタイプじゃないか? まあ剣を握れば自然と集中力は高まるから結局はどちらでも大差ないのだけど。

 

「なら構わないわね。それに一応うちが主催なんだから係員の指示には従ってね?」

「取ってつけたような理由だなあ。でもまあ折角の好意だ、ありがたく受け取らせてもらうよ。よろしくな、シリカ」

「はい!」

 

 今ひとつ流れが読みきれないのだが……まあ、危険な企みとかじゃないみたいだしいいか。正午まで少し時間があることだし、シリカがそれで良いなら決闘が始まるまで話し相手を務めてもらおう。

 

「それじゃシリカちゃん、ここはもういいから、キリト君をお願いね」

「ありがとうございます、アスナさん」

「どういたしまして。わたしもすぐに交代要員がくるから気にしなくていいよ。それとキリト君、わたしは立場上応援できないけど、心から無事を祈らせてもらうわ。どうか危険なことだけはしないでね」

「サンキュ」

 

 アスナに見送られ、シリカと連れ立って闘技場につながるルートを歩く。道中、シリカは何故かピナを俺に預けてきた。もちろんティムモンスターは主の傍を離れられないため、預かるといっても擬似的なものに過ぎない。可愛らしく鳴き声をあげて俺の肩に止まる小竜は確かに癒しになっているのだが、相変わらず俺の頭には疑問符が渦巻いていた。

 

「アスナさんに頼み込んでどうにか無理を聞いてもらったんです」

 

 シリカは控え室に着くまでのわずかな時間で大まかな経緯を話してくれた。シリカは血盟騎士団を正式に手伝っているわけではなく、あくまでアスナ個人のスタッフという扱いだったらしい。アスナの手伝いと引き換えに現在の案内役を拝命したとのことだが、そこまでされて光栄と思うべきなのか、申し訳ないと思うべきなのか。

 ちなみにアスナもアスナでシリカのことは副団長としての権限で押し通したというのだから大概だった。シリカは愛され気質なんだよな、俺もシリカに頼まれたら否とは言えないかもしれん。

 ともあれ、何故シリカがそこまでしたかと言えば――。

 

「占い?」

「はい、あたしが毎朝チェックしてる《今日のアインクラッド占い》です」

 

 俺が首を傾げたのは安直なネーミングに突っ込みを入れるかどうかを迷ったわけではなく、それがどのようにしてシリカの今日の行動につながったのかが掴めなかったためだ。

 

「それでですね、今日のラッキーシンボルは《竜》なんだそうです。ですから決闘前に竜に触れてもらえばキリトさんの験かつぎになるかなあって思って、こうしてピナを連れて来ちゃいました」

「そういうことか。ありがとな」

 

 一瞬言葉につまり、それから搾り出した言葉は心からの感謝がこもったものだった。シリカの心遣いが嬉しい。

 ところで竜がラッキーシンボルだとすると、今日は種族が竜のモンスターが盛大に狩られてしまったりする日なのだろうか? モンスターにしてみれば勘弁してくれといいたくなりそうな占いだな。

 

「意外、ってほどでもないな。シリカってそういうの好きなのか?」

「信じてるかどうかで言えば首を傾げちゃうんですけどね」

「当たるも八卦、当たらぬも八卦が占いだからな。そんなもんだろ」

「ですよね」

 

 そんな会話を交わしつつピナを撫でて心行くまで癒される。こうしていると確かに運気が上昇していくような気がする。……むしろアニマルセラピー?

 シリカと楽しくお喋りしている内に控え室に辿り着いた。扉を開き、小さな空間に足を踏み入れ――その瞬間、妙な違和感を覚える。この感覚は過去幾度か味わったものに類似していたのだが……。

 すぐになるほど、そういうことかと納得。うむ、危険はないな。

 

「あの、キリトさん」

「ん?」

 

 緊張を含ませた声に振り向くと、そこにはやけに真剣な顔をしたシリカがいた。ピナもシリカに触発されたのか、翼を羽ばたかせるとそこが自分の居場所とばかりにシリカの元へと戻っていく。

 

「シリカ?」

「あのですね、ピナからだけじゃなくて、あたしからの贈り物もあるんです。受け取ってもらえますか?」

「もちろん。ただ受け取るのは構わないけど、その前に――」

「大したものじゃないですし、お時間は取らせませんから」

 

 声を荒げるなりすれば止められたのだろうが……結局機を逃し、制止できなかった。シリカの気迫に押されてしまったのかもしれない。

 もちろんシリカにとってはそんな俺の事情は与り知らぬことである。すぅーっと深呼吸をしたかと思えば、俺の前で歳不相応の大人びた微笑みを浮かべ、ぴんと伸ばしたしなやかな人差し指を自身の唇に触れさせた。瑞々しく色づく唇に俺の目が引き付けられるのと同時に、その指先が俺へと伸ばされる。シリカの指先がちょんと俺の唇に触れ、やがて名残惜しげに離れていった。

 

「えへへ、勝利のおまじないです。決闘、頑張ってくださいね、キリトさん」

「ありがとう。これで負けるわけにはいかなくなったな」

「ピナと一緒に応援してます! そ、それじゃあたしはこれで……っ!」

 

 ぺこりと一礼し、部屋を出る直前に「あたし! アルゴさんにだって負けませんからっ!」とはにかんだ笑みで告げると、頬に朱を散らしたまま駆け足で去っていく。内実は混乱冷めやらぬものだったことは年上の意地で隠し通せただろうか?

 ふぅと長い息を吐き、椅子に腰を下ろした後もしばらくぼうっとしたまま放心したように押し黙っていた。

 驚いた。唇を間接的に触れ合わせる気恥ずかしいおまじないに、ではない。シリカの見せた、幼くも色気を薫らせた思いがけない一面に完全に虚をつかれてしまったのだ。

 参ったな、シリカもあんな顔が出来るのか。あるいは……出来るようになったのか。

 

「あんなこと言われてるぞ。どうするアルゴ?」

 

 既にシリカの気配は遠く離れている。今しがた俺の意表をついてくれた少女の師匠筋に当たるプレイヤーの名を呼ぶと、すぐに隠蔽スキルを解除して部屋の片隅に女性が姿を現した。

 

「なんだ、やっぱり気づいてたのか」

「気づいてなきゃシリカを止めようとはしなかったよ」

 

 もっともシリカの贈り物を激励の言葉とか、何かのお守りくらいにしか思ってなかったから強く止めようとは思わなかったんだけど。

 

「キー坊をびっくりさせて緊張を解すサプライズのつもりだったんだけど……。失敗したヨ、思いがけない場面に遭遇しちまったみたいダ。モンスター対策以外でハイディングを利用するのがマナー違反だってのがよくわかる。……いや、マジでシィちゃんには悪いことしちまったゼ」

「謝るわけにもいかないからな」

「まあネ。怒らないのか、キー坊?」

「シリカを唆して見物に興じてたのなら、さすがに悪趣味だと言ってやるとこだけど……」

 

 俺が咎めるまでもない、アルゴには珍しくとてもバツの悪い顔をしていた。絶賛自己嫌悪中なのだろう。

 アルゴは確かに人をおちょくるのが好きだしよく俺やシリカをからかう悪癖持ちだ。しかしそれはあくまで悪戯の範囲で仕掛けるものであって、決して後に引き摺らないよう配慮した遊びである。進んで人を傷つけるような悪趣味な真似はしない。

 

「こうなっちまったからには仕方ない。シリカにはアルゴが隠れてたことは内緒にしておくってことでいいよな?」

「そうしてもらえるか? オレっちもあの子の純粋な気持ちに余計な茶々を入れたくないし」

 

 神妙に告げるアルゴの姿は少しだけ新鮮だった。

 

「その気遣いはシリカの姉として?」

「違う違う、同じ女としてだヨ。あの子だってもう子供じゃないんだゼ? キー坊もシィちゃんを必要以上に妹ちゃんと重ねてやるなよ、それはどっちに対しても失礼ってもんダ」

「……わかってるよ、さっき思い知らされた」

 

 くすり、とアルゴが笑う。ようやくいつもの調子が出てきたらしい。

 

「覚えておくと良い。女はネ、男よりも少しだけ早く大人になるんダ。誰かに恋をした瞬間、子供のままじゃいられなくなるのが女って生き物なんだヨ」

 

 お前もそうだったのか、と聞こうとして止めた。

 

「了解、置いていかれないよう肝に銘じておく」

「とはいえ、シィちゃんのことはオレっちもびっくりしたんだけどネ。これはあと一年もいらなかったかナ?」

「一年? 何のことだ?」

「こっちの話。気にしなくていいゾ」

 

 深く聞くなというので軽く頷き、追及は取りやめる。聞いたところで素直に話すとも思えないし、遠くから雑多な喧騒に満ちた歓声が飛び込んできている。イベント開始のアナウンスでもしているのか、会場はますます盛り上がっていた。俺も闘技場入りする頃合だ。

 

「そろそろだな。それじゃ、ヒースクリフから最強の看板を奪ってくるとしよう」

「にゃハハハ、嘘ばっかり。そんなもんに大して興味ないくせに語るねえ、キー坊」

 

 いやいや、看板に興味はなくてもそれなりに挑戦心ってのはあるぞ。強さへの自負は人並み以上に持ってるし。

 

「何事にも建前って奴は必要だろ?」

「違いなイ」

 

 ところで、と不敵に笑ってアルゴに告げる。

 

「シリカからは大層なものを貰ったけど、アルゴからは何もないのか?」

「勝利の女神の祝福はシィちゃんのあれで十分だろ。それ以上は贅沢ってもんだゼ」

 

 そもそも、と今度はアルゴがにやりと笑って返した。

 

「散々オレっちを好き勝手弄んだ癖に、キー坊はまだ足りないっていうつもりなのカ? それはもう贅沢を通り越して不敬ってもんだゾ」

「返す言葉もございません」

 

 降参だと両手を掲げたところで時間切れとなった。

 ついにあの男と雌雄を決する時間がやってきたのだと自然と気分が高揚していく。高まる闘争心に好戦的な笑みが口元に引かれ、勝利の二文字を手にせんと必勝の気合を胸に刻む。二本の剣を背に携えた感触を確かめ、いよいよ光の漏れ出る通路の奥へと足を踏み出した。

 

「キー坊」

 

 それはきっといつものいたずらっぽい顔で。

 

「勝ったらオネーサンが御褒美をあげる、でもって負けたら慰めてあげるヨ。だから思う存分戦ってこい」

「言ったな、忘れんなよ」

「心配しなくてもオレっち約束は守る女だゼ」

「なら褒美を用意して待ってろ」

 

 あいよ、と彼女の軽い返事に愛しさと切なさがないまぜになって、すぐに胸をいっぱいに満たしたのだった。

 

 

 

 

 

 今を遡ることおよそ二千年前、古代ローマ帝政期において剣闘士が鎬を削ったのがコロッセウムと呼ばれる円形闘技場だった。ここアインクラッドでは現実世界の歴史建造物を模したものも多いが、この《コロシアム》も例に漏れず立派なものだ。剣士の腕を競い合うにこれ以上の舞台はない。

 闘技場を一望できるアーチ状に形成された観客席にはぎっしりとプレイヤーがつめかけ、その中に見知った顔もちらほら確認できた。最前列に陣取っているクラインやエギルと目が合うや、クラインは良い笑顔で親指を突き出し、エギルに至っては首を掻き切るジェスチャーまでしている。

 どちらも意訳すると『やっちまえ』である。あいつらも何だかんだで熱気に当てられてやがるなあ。

 

 と、その時、会場のボルテージが一層の高まりを見せ、観客の多くが興奮の坩堝に飲み込まれていく。俺の登場の時とどっちが盛り上がってるかな、などとくだらない感想を抱きながら対戦相手を静かに睨みやる。真紅の鎧に身を包み、白地のマントを翻した長身の男は口元に淡い笑みを浮かべて歩み寄ってくるところだった。一歩踏みしめるたび、奴の足元で粒の細かい砂地が微かに砂埃を立てて舞う。

 ヒースクリフの左手には奴の代名詞とも言える巨大十字盾が構えられ、一際大きな重圧を放っている。《神聖剣》の補正を受けた奴の間合い――鉄壁の結界をいかに破るか。その激突と挑戦を前に戦意がぞくりと込み上げてきた。

 

「満員御礼とは盛況なことだ。これほどの大観衆を見るのは二年振りだな」

 

 闘技場の中央に立ち、ぐるりと周囲を見渡したヒースクリフが感慨深く胸の内を吐露した。思い出しているのは俺達がこの世界に囚われたはじまりの日のことだろうか。

 しかしその感嘆の声を耳にした俺はいかにも無思慮な言葉だと苛立ち、内心の侮蔑を押し込めることに傾注せざるをえなかった。あの日のチュートリアルを皆がどんな絶望の気持ちで聞いていたと思っているんだ? 不愉快だぜ、ヒースクリフ。

 

「どうだろうキリト君。彼らは君と私、どちらの勝利を期待していると思うかね?」

 

 黙して語らない俺を気にもかけず、機嫌のよさそうな顔で問いかけてくる。渋々口を開いた内心を悟られぬよう、努めて平静を装い肩を竦めた。

 

「どっちが? そんなの俺に決まってるさ」

「ほう、何故かな?」

「そりゃ、あんたの勝ちじゃ順当すぎて面白くないからな。観客ってのは大抵番狂わせを期待してるもんだぜ?」

 

 なるほどと感心したように頷くヒースクリフ。だが、と面白そうな口ぶりで会話を続けた。

 

「残念ながら今回は見当違いのようだ。既に締め切ったオッズでは五対五(フィフティ・フィフティ)、つまり彼らは私達を実力伯仲と見積もっている」

「へえ、そいつは嬉しいね」

 

 なら観客の皆さんを退屈させないよう頑張りますかね、っと。

 それはそれとして……。

 

「あんたら、決闘をネタにトトカルチョまで開催してんのかよ。随分楽しんでるみたいじゃないか」

「私も部下任せなので詳細は把握していないのだが、良心的な商売を心掛けるように、とだけ言付けておいたよ」

「ああそうかい」

 

 ギャンブルに良心的とか、これほど似合わない言葉はないよな。胴元の取り分が何パーセントに設定されているのか、それが問題だ。まあヒースクリフが関わっていないのならアスナが決済しているはずだし、俺が心配することもない。

 

「さて、長々と話し込むのも観客に悪い。そろそろ始めるとしようか」

「望むところだ」

 

 決闘を申し込むメッセージが俺の眼前に出現し、画面を一瞥してすぐに受諾。事前に照らし合わせた通り、オプションはどちらかのHPが50%を下回った瞬間に勝敗が決する半減決着モードだ。

 カウントダウンが開始され、俺は背の鞘から二振りの愛剣を、ヒースクリフも同じく細身の長剣を盾の裏から抜き放つ。その瞬間、歓声が爆発したように轟いた。盛り上がりも最高潮だな。

 

「私が勝てばキリト君は晴れて血盟騎士団の一員だ。既に君の装備を団員服にカスタマイズする用意は整っている。安心して負けてくれたまえ」

「嫌だね。おたくの副団長殿に降るならともかく、あんたの下に付くのは御免被る」

 

 誰があんたに負けてなどやるものか。

 

「私には同じ意味に聞こえるのだが気のせいかな」

「なに、気分の問題というやつさ。どうせ馬車馬のように働かされるなら美人の上司に鞭打たれたいんでね」

「プライベートまで口出しはせんよ、アスナ君と相談してくれたまえ。無論、私に敗北した後で結構だ」

「残念だな、俺の目にはそんな未来図は映ってない」

 

 そんな無駄話をしている内にいよいよカウント数も残り一桁に突入した。だらりと下ろした両手、意識的に脱力させた身体は既に躍動の準備を終えている。弦を振り絞った弓のごとく、開始の合図を今か今かと待っていた。

 

「ふっ!」

 

 カウントゼロ。

 決戦の火蓋が切って落とされた瞬間、先手必勝とばかりに地を蹴って肉薄し、真正面から袈裟懸けの一閃を放つ。馬鹿正直に繰り出された一撃は当然ヒースクリフに届くはずもなく、余裕を持って十字盾に迎撃されてしまった。

 そんな些細な事実に頓着することもなく、第二撃、第三撃と斬撃を見舞うも悉く打ち落とされる。時に弾き防御も駆使して機械の正確さで俺の剣を防ぐヒースクリフは堅牢な要塞のごとき存在感を示していた。

 

 立て続けの猛攻を縫う様にヒースクリフの反撃が開始される。もっとも俺の防戦一方になったわけではなく、互いに乾いた音色を奏であう剣の応酬を開始しただけのことだった。剣戟の最中、技後硬直で隙を晒さないソードスキルを幾つか混ぜ込むも、それらはヒースクリフの盾によってほぼ完全に威力を殺されてしまう。

 

 それこそが《神聖剣》の誇る特性で、とにかく堅いのだ。いくら盾に防御ボーナスがつくとはいえ、普通ソードスキルを受け止めればそこそこのダメージは通る。これはゲーム世界ならではの仕様なのだが、盾はあくまでダメージを一定量軽減するものであって完全遮断するものではない。そこまで利便性の高い装備なら盾なし剣士など存在していない。

 

 しかし神聖剣の特性は、その軽減率を通常の盾持ち剣士とは比較にならないレベルで引き上げてしまう。だからこそ凶悪な攻撃力を誇るクォーターボスを相手にしても短時間のソロプレイを可能にしてしまうのだった。

 無論、無敵ではない。

 神聖剣の補正はあくまで盾にかかるものであり、プレイヤーの基本防御力に寄与するものではないため、プレイングスキルを駆使して正確に盾で相手の攻撃を防げなければ何の意味もなさない。

 

 俺が神聖剣をヒースクリフほど使いこなせないと判断した理由はそこにある。ヒースクリフの堅さは相手の攻撃を読みきる洞察力と正確無比な身体制御、迅速極まりない攻守の入れ替えに支えられた、いわば《名人芸》なのである。

 およそ余人には真似できない最優技術の持ち主、それがヒースクリフなのだ。

 

 そしてもう一つ、神聖剣の特徴が目の前に開帳されていた。

 純白のエフェクト光を撒き散らしながら、剣ではなく盾が俺へと迫り来る。突き出された巨大な質量に慌てて後方に飛び退ることでどうにかヒースクリフの攻撃を回避した。

 これが神聖剣のもう一つの特性、すなわち盾による攻撃である。攻撃判定が存在せず、本来武器として使えないはずの盾が武器の特性を帯びる。これによって奴は手数を増やし、擬似的な二刀流すら可能にしているのだ。

 

 二刀流と大きく異なる点は攻撃力の低さだろう。右手に握る長剣と比較しても盾による攻撃はさしたるダメージにはつながらない。ただし無視できるかと言えばそんなことはないのだ。盾による攻撃はノックバックを発生させやすいために油断していると盛大に弾き飛ばされてしまうからである。

 神聖剣とは重厚なようでいてトリッキーな側面を持ったスキルなのだった。そいつを苦もなく縦横無尽に使いこなすのだからヒースクリフの器用さは相当なものである。

 

 しかしいつまでも守勢に回ってなどいられない。攻めに転じなければ押し切られるのはこちらなのだ、一瞬の隙をついて回し蹴りからのフェイントで溜めを作り、片手剣四連撃スキル《ホリゾンタル・スクエア》を放つ。水色の光が正方形の軌跡を描き、儚く散っていく。四つの剣閃の内、一閃のみがヒースクリフのHPバーを削ることに成功した。

 

「ほんっと堅いなこいつ……」

 

 辟易した表情で呟き、改めて気を引き締め対戦相手を睨みつける。戦況は互角だった。幾たびの接触を繰り返し、お互いのHPバーもじりじりと減少し、七割のラインまで削られている。

 どうする、と自問に沈む。このまま消耗戦を続けるのも良いが、ここらで勝負を決めにいってみるのも手だ。感触は悪くない、もう一段ギアをあげればあるいは……。

 

 思考は迅速、決断も一瞬だった。迷いを捨てて集中力を高めていく。クライン、お前のギルドの旗印、ちょいと拝借させてもらうぜ。

 疾きこと風の如く、侵略すること火の如く、その動くこと雷霆(らいてい)の如し。

 己が剣を災禍の刃とし、ますます烈しさに戦場を燃え上がらせ、一気呵成に攻め立てていく。二振りの剣が繰り出す軌跡は瞬速の太刀筋と化し、強固極まる要塞を崩壊させんと迫った。

 

 迸る戦意を力に変えて、喉から溢れ出るは裂帛の気迫。

 一時たりとも止むことのない攻めは颶風(ぐふう)もかくやの激しさを増していき、其の様は剣の嵐以外の何者でもなかった。吹き荒れる暴風にやがて耐え切れなくなったのか、ついにヒースクリフの鉄壁を誇る防御に綻びが出る。もちろん俺も反撃を一発も貰わず封殺、というのはさすがに無理だったが、HPゲージが減少するペースはヒースクリフのほうがずっと早い。

 

 虚々実々の駆け引きを可能にする膨大な戦闘経験をぶつけあい、一手一手の速さを比してわずかに俺が勝るアドバンテージを、ヒースクリフの深遠な読みが追いつけないほど積み重ねた結果――あるゆる意味で順当にして力業以外の何者でもない《回答》でもって《神聖剣》を凌駕し、《聖騎士》を圧倒したのだった。

 

 『抜いた』、との確信。とどめの一太刀を浴びせかけようと振りかぶった右の剣を振り下ろし――その瞬間、ヒースクリフの身体がぶれた。それはあたかもアバターが加速したヒースクリフの動きに追随できず悲鳴をあげているかのような不可思議な現象だった。そして俺の渾身の太刀を回避せしめた絶技にして、おそらくは奴にとって窮余の一手。

 俺は空振りに終わった剣撃の勢いを殺しきれずに無防備な背中を晒し、ヒースクリフはその絶好の隙をついて冷静に右の一突きを放つ。

 

 もしも……。

 もしも勝敗の天秤を傾けたものをあげるのならば、俺はそれをあると予測し、ヒースクリフは俺とは逆の見解でこの戦いに臨んでいたことだろう。すなわち、『俺に出来ることでこの男に出来ないことはない』。明暗を分けたのはその前提の差だ。

 

 システムに規定された速さを一足飛びに超えた超常の回避を認識した刹那、意識せずとも左のダークリパルサーが逆手に握りかえられていた。肩越しに一瞬捉えた、背後から迫る白銀の刺突に寸毫のずれもなく剣を合わせる。精緻極まりない正確無比な一撃は、鋭い切っ先同士の激突というおよそ冗談としか思えない結果を生み出した。

 

 それは『意識の外で人を斬る妙技』ですらあったのかもしれない。古の剣術家が《夢想剣》と呼んだ剣人一体の極致であり、心技体を極めた先にあるそれだ。あるいは現代でいう一流のアスリートが時折体験するという『《理想的な心理状態(ゾーン)》に入った』状態。もしもその現象をアインクラッドの流儀で呼び表すとしたら――。

 

 システム外スキル《加速世界(アクセル・ワールド)》。

 

 無論、この知覚認識の加速は現実世界の俺の身体では体感することは叶わないだろう。しかしながら仮想世界ではこうした意識の覚醒体験を得やすいのではないか、というのが俺の仮説だった。だからこそサチの前でニシダさんに語ってみせたように、現実世界と仮想世界の認識の差を埋める研究をしてみたい、という夢を持ったのである。

 

 とはいえ、今は将来の目標より目の前の現実だ。

 予期せぬ展開に珍しく驚愕を浮かべたヒースクリフに対し、俺の唇は悪役さながらの弧を描く。奴が晒した一瞬の自失を逃すほど間抜けではない。すぐさま軌跡半回転を描き、お返しとばかりにエリュシデータを勢いよく突き出す。

 その一撃は狙い違わずヒースクリフの顔面へと迫り――しかし直後出現した紫色の壁に俺の剣が衝突し、激しい衝撃と共に弾き返される結果に終わってしまう。

 

 勝利を決定付けたはずの一撃を阻んだ壁の正体は《Immortal Object》。ユイのようなイレギュラーを除いて、俺達プレイヤーが持つはずのない不死属性だ。つまりヒースクリフのHPはシステムに保護されていて、決して半分を下回らず、危険域に落ち込むことはない。

 それはデスゲームの根幹を否定する反則措置だった。もしもその属性を自由にできる絶対的権限を持ち合わせているとしたら、それはアインクラッドの創造主にしてゲームマスターを請け負う男ただ一人。

 

 この事態を前にした驚きは当然俺にもある。ただしそれはこの男の正体に向けられたものではない。この場で正体が明かされる可能性を是とした判断にこそ驚いたのである。

 ともあれ、これで一つの区切りだ。攻略のためだの何だの、それっぽく聞こえる適当な理由を並べ立ててまでこんな茶番を演じた甲斐があったな。

 

「すばらしい……。まさか《オーバーアシスト》に反応できるプレイヤーが現れるとは思わなかった」

 

 一筋の動揺も見せず、余裕の笑みを浮かべて心からの賛辞を口にする男に、しかし俺の目は冷ややかなものだった。当然だ、事ここに至って、どうしてこの男に好意的な視線など向けられる?

 

「俺を褒めるより先に、まずはこの場の収集をつける算段を練ったらどうだ」

 

 今は観客席の連中も驚きに放心しざわめきも小さなものだが、すぐにブーイングの嵐になるぞ?

 俺の皮肉にヒースクリフは笑みを深くするだけだった。まるで堪えた様子はない。……やはりこの男にとっては正体が露見することも想定の内か。

 

「それはおいおい考えるとしようか。なに、ここで怨嗟の集中砲火を浴びたとしても本懐というものだろう」

「悪趣味だな、ヒースクリフ。いや、もう茅場晶彦と呼んだほうが良いか?」

「今まで通りヒースクリフと呼んでくれたまえ。このアバターにも愛着があるのでね」

 

 あんたの都合なんざお断りだと口にしようとすると、俺の反応を読んでいたかのように「聞き入れてもらえなければキリト君の本名を晒すことになる」と付け加えられてしまう。どうやら茅場の提案を受け入れざるをえない状況にされてしまったらしい。にゃろう、ずっけーぞ開発者、人の個人情報を盾に脅しやがって。

 親しい関係にある知人友人ならともかく、さすがに俺のプライベート情報を不特定多数にばらまかれるのは遠慮してもらいたかった。

 

「しかし狐と狸の化かし合いはキリト君のほうが一枚上手だったようだな。よく気づいたものだ、加えて舞台演出も手が込んでいる」

「ぬかせ。二年近くも俺達を騙し通したんだ、もう十分だろう」

「少々口惜しくはあるがね」

 

 俺がこの決闘の終わりに見ていた可能性は三つ。

 一つ目は俺が決闘に勝ち、ヒースクリフの影響力を削ぎ落としながら攻略を続け、なお正体を暴く機を窺う未来。二つ目は俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団し、奴の獅子身中の虫となって次の機会を待つ未来。いずれにせよヒースクリフを泳がせ、その力を利用し、攻略組の犠牲を最小限に抑えて最上階を目指す傍ら、この男の狙いを探り妨害していくつもりだった。

 そして俺が一番低い可能性として想定していたのが三つ目、この決闘を通してヒースクリフがその欺瞞の衣を脱ぎ捨てる最良にして最悪の未来。

 

 賽は振られた。あとはこの男の出方次第――。

 

 極度の緊張。

 今にも張り裂けそうな心を無理やり落ち着かせている俺とは対照的に、ヒースクリフは絶対者の風格を漂わせ、鷹揚とした不敵極まる笑みを見せていた。その発する声も無造作に佇む姿も今までと変わらないはずなのに、プレイヤーとしての仮面を脱ぎ捨てただけでここまで威圧感が増すものなのかと戦慄を覚えていた。

 それもそのはず、聖騎士としてのロールプレイを終わらせたならば、次にこの男が取るべき役割(ロール)は一つしかないのだ。

 

「まずは見事だと言わせてもらおう。キリト君、君は間違いなくアインクラッドの頂点に立つ剣士だ。何せ我が《聖騎士》を打倒してみせたのだからね。そこでだ、《黒の剣士》の成した偉業を称えると共に、ゲームマスターとして君に一つの選択肢を提示しようと思う」

 

 ひたすら上から見下ろす傲岸不遜、天上から俺達プレイヤーを見据える絶対の格差がそこにはあった。それが許されるただ一人の男は涼しい声で、されど厳かに口を開く。

 

「――キリト君、この場で魔王に挑んでみるかね?」

 

 挑発めいたその言葉。

 言わんとすることはわかる。しかしラスボスとの一騎打ちとか、それはもう遠回しでもなんでもない、ただの処刑宣告だと思うんだ。まさか正体を暴かれた意趣返しとかじゃあるまいな、茅場晶彦?

 

 むぅ、交渉の余地、残ってるといいなあ……。

 




 システム外スキル《加速世界》は原作に存在しないスキルです。スキルネーミングは原作者による別作品『アクセル・ワールド』から持ってきていますが、作中で語られているように中身は別物です。あしからずご承知置きください。

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