ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第21話 頂の剣士 (1)

 

 

 俺が現在足を運んでいるのは第55層主街区《グランザム市》。別名を《鉄の都》と評されるこの街は、ギルド《血盟騎士団》の本部があることで有名だった。

 街の景観も黒光りする鋼鉄で建物が形成され、街路樹の一本も植えられていない。そのせいか鉄と硝煙の匂いが煙る――とまではさすがに言わないが、ファンタジー色の強いアインクラッドにありながらどこか異質な雰囲気の漂う都市である。

 

 鋭角なフィルムで構成される数多の尖塔の中でも一際高い威容を持つのが血盟騎士団の本部であり、俺がお邪魔しているのはその建物の中でも最も高層に位置する円形の部屋だった。この部屋は塔のワンフロアを丸々使っているらしく、とにかく広い。しかも壁が全面透明のガラス張りをしているため、大量の光が常に差し込む作りになっている。その部屋で俺は血盟騎士団の幹部六人と相対していた。

 

「私と剣で立会いたい、とはどういう意味かな、キリト君?」

「そのままの意味だよ、《黒の剣士》キリトが《聖騎士》ヒースクリフに決闘を申し込む。可能な限り早く、叶う限り多くのプレイヤーの前でこの対戦カードを実現させたいんだ。なるべく盛り上がりも欲しいから、ルールは初撃決着より半減決着の方が嬉しいな」

 

 俺の眼前に座す男の名は《聖騎士》ヒースクリフ。ユニークスキル《神聖剣》の操り手にして、血盟騎士団を率いるカリスマの権化である。この男こそがアインクラッド最強を冠する騎士であり、攻略組随一の剣士であることに異論を挟む余地はない。

 机に肘をつき、ゆるやかに両手を組んで思慮に耽る様子をじっと見つめる。鉄灰色の髪が緩やかに流れ、痩せ気味の長身を包む魔術師然とした真紅のローブが妙に似合っていた。

 

「意外だったな、まさか君からこのような提案を受ける日が来るとは思わなかった」

「そうか? 言うほど驚いているようには見えないぞ」

 

 だからあんたは可愛げがないんだ。

 もちろんそんな内心の悪態を表に出すことはないが、それでも若干の呆れを含ませてしまったかもしれない。しかしそんな些事に頓着する様子も見せず、ヒースクリフは感慨深そうに一つ頷いて頬を緩めると、機嫌の良さそうな口ぶりで言葉を紡ぐ。

 

「そんなことはない、驚愕の至りだよ。ただ私は昔から感情が表情に出るタイプの人間ではないのでね、許してくれたまえ」

「許すも許さないもないだろうに。それで、どうなんだ?」

「キリト君が私に面会を申し込む時は、決まってアインクラッドの今後を左右する重要事案が持ち込まれたものだが、今回も同じなのかな? 前回はラフコフ討伐戦の取り決めに関してだったはずだが……」

「あの時は俺の我侭を聞いてもらってどうも。それとあまり思い出したい話じゃないんだ、触れないでくれると助かる」

「確かにそうか。すまなかったね、配慮が足りなかったようだ」

 

 いや、俺への配慮じゃなくてお前さんの部下への配慮が必要だろうって意味なんだけど。この場にいるのは俺とあんただけじゃないんだ、血盟騎士団を除け者にした密約をこれみよがしに示唆するとか、それでいいのか聖騎士。

 それとも部下連中には血盟騎士団をラフコフ討伐からハブった理由も含めて全部ばらしてあるのか? それならそれで構わないけど、俺はあんたが部下に何て説明したのか知らないんだから適当に話を合わせるのは無理だからな。

 

 視線を移せばずらりと並んだ血盟騎士団の面々が視界に映り、そこにはアスナを筆頭に血盟騎士団の幹部が勢揃いしていた。部屋の中央に置かれた半円形の机の向こうには、ヒースクリフを真ん中に置いて右に三人、左に二人並び、合計六人のプレイヤーが椅子に腰掛けていた。その中には副団長のアスナの姿は言うまでもなく、前衛隊長を務める巨漢の男こと斧使いゴドフリーの厳つい顔も見える。錚々(そうそう)たる顔ぶれだといって良い。

 

 翻って彼らと向かい合う俺はと言えば、この場でただ一人直立不動の姿勢である。

 黙して語らず、整然と並ぶ血盟騎士団の幹部勢の迫力はなかなかだ。目の保養になるのは紅一点のアスナだけしかいなかったため、出来ればそっちに俺の目線を集中していたいところなのだが、そうもいかないのが寂しい。案の定というか、幹部勢の幾人かの顔に疑問の色が浮かぶのを見て、喉元まで出掛かったヒースクリフへの文句を慌てて堪えることになった。

 

 やっぱり説明不足なんじゃないか? 事前にそのあたりのことをアスナに確認しておくべきだったのかもしれない。もっとも今となっては後の祭りか。これ以上妙なところに飛び火する前にさっさと話を本筋に戻すことにしようと決め、「そんな昔のことはどうでもいいだろう」と一言断りを入れてから続ける。

 

「シンプルにいこうぜ、ヒースクリフ。俺があんたに勝ったら次のボス戦の指揮権を俺に預けてくれ。76層のフロアボス討伐の日時決定と部隊編成をこっちで進める。これ以上の時間をかけず、今集まっている戦力だけで討伐隊を組むつもりだ」

 

 薄く笑みを浮かべて彼らを挑発をするかのような物言いが素で出てくるあたり、我ながらふてぶてしくなったものである。今となってはこうした振る舞いも自然体で出来るようになってしまった。俺も役割演技(ロールプレイ)が板についたもんだなあ。

 

 しかしながら、否、むしろ当然のことながら、俺の傲岸不遜な要求は幹部連中の癇に障ったらしい。差し向けられる視線の険しさが一段と増してしまった。さすがは血盟騎士団を代表する連中だ、睨み一つでここまでの威圧感を発するとは。……アスナの頭痛を堪える仕草は俺に対するこれ見よがしなポーズなのだろうか?

 そんな幹部一同を宥めるような絶妙なタイミングで、彼らの団長であるヒースクリフが重々しく口を開く。

 

「では、私が勝ったらどうするつもりかな?」

「その時は俺が血盟騎士団に入団するよ。鉄砲玉でも何でも好きに使ってくれて構わない、それで足りるか?」

「ほう、これは思い切ったものだ。もちろん対価としては申し分ない、些か私達に都合が良すぎるくらいだがね。……ふむ、君の存念は何処にあるのだろうか? 今日までの振る舞いを省みるに決闘の勝敗にこだわっているようには思えないのだが、私の推測は見当違いかな?」

 

 何とはなしに溜息をつきたくなった。

 こうやってすぐに俺を見透かそうとしてくるこの男が苦手だ。愚痴だって零したくなる。

 

「トントン拍子に話が進むのは助かるけど、思考の先回りをされるのは面白くないな」

「私も君の考えには興味があるし、どちらにせよ説明は必要だろう? 何故今なのか、どうして私と君が決闘する必要があるのかを説いてくれたほうが、話はスムーズに進むのではないかな。この際だ、隠し事はなしでお願いするよ」

 

 そこまで言われるほど年中悪巧みをしているつもりはないんだけどな。ついでに言えばあんたから『隠し事はなしにしよう』と言われるのは業腹ものだ。

 

「お互い暇じゃないしな。単刀直入に言う、俺とあんた達の不仲説を解消して攻略に弾みをつけたい――ってのは建前で、折角76層のボス部屋も見つかったんだ、ここで足踏みしたくないんだよ」

「察するにキリト君は今日の攻略会議の結果が不満だったのかな?」

「不満というより歯痒い。現時点で48名の定員に満たない以上、すぐに攻め込まず人数の確保に努めたいって気持ちはわかるさ。75層の前例がある以上、先遣隊の派遣はいくら考慮したところで実行には移せない。取れる手段は最精鋭を揃えた総力戦しかないからな」

 

 つまりは75層の再現である。現状叶う限りの高レベルプレイヤーを集め、未知の敵を力ずくで粉砕できる最大戦力をぶつける、それだけのお手軽な作戦だった。人はそれをぶっつけ本番の考えなしと呼ぶわけだが、俺達に贅沢を言える余裕はない。

 

「現時点では慎重論も致し方ないと思うのだがね」

「もちろん堅実ではあるさ。けどな、今はそんな慎重論より強硬論が必要なんだよ。75層の罠とラフコフの妨害に攻略組全体が萎縮してるんだ、その迷いが問題の先送りにつながってる原因だと俺は見てる。ボスの脅威に怯えてるわけじゃないんだから、必要なのは皆に腹を括らせる切欠だけだろう?」

「性急だと警鐘を鳴らすべきか迷うな」

「これはあくまで俺の予想だけど、76層のボス部屋は結晶無効化空間と脱出不可能な鍵付きが併用されているとは思えないんだ。ボスの強さだって通常のレベルに落ち着くだろう。万一を考えると偵察は諦めるけど、あんたさえ賛同してくれるなら俺と血盟騎士団の力だけでもクリアできる難易度だと考えてる」

 

 もっと言えば《聖騎士》と《黒の剣士》の二人だけでも勝てるだろう。だからこそ俺の言を受けた眼前の男が何を考えるか、それこそが問題の焦点だった。

 

「76層の守護者が通常レベルのボスであるという前提に立つならば、確かに賛同できる方針だ。ではキリト君が結晶無効化空間と開閉不可能な扉の存在を無視できる、そう判断した根拠を聞かせてくれたまえ」

「74層でボス部屋初の結晶無効化空間が判明したわけだが、こいつを俺は75層のラストクォーターポイントに備えるために用意された、茅場なりの俺達に対する警告だったと受け取ってる」

 

 インパクトだけを求めるならば結晶無効化空間は74層に設置せず、75層のクォーターボス戦で初披露にしておいたほうが効果的だった。だからこそ74層のそれは75層の仕掛けを暗示させ、プレイヤー側に準備と覚悟を促していたのだろうと思う。

 実際は結晶無効化空間だけではなく出入り口の封鎖まで重なっている。すなわち二重の罠であり、そいつは74層で明らかになった事象から想像して然るべき事態だったと取ることだって出来るのだ。おあつらえ向きに70層以降モンスターが手ごわくなっている事実まであったのだ、攻略難易度の激化は予測して然るべきだったとでも茅場は強弁するつもりなんじゃないか。

 

 同時に今までの経験を信じるならば、クォーターポイントの難易度が継続することはない。結晶無効化空間、出入り口の閉鎖、攻略組プレイヤーですら一撃で葬るボス、この全てが76層でも待っているとは到底思えなかった。……というか、この先全ての階層でクォーターポイント並の困難が用意されているのだとしたら、それこそクリアなんて夢物語と結論付けられてしまう。俺達が全滅するほうが確実に早いだろう。

 

 あくまで茅場の意思が俺達プレイヤー側のゲームクリアにあるのだとすれば、プレイヤー戦力とモンスター戦力を比較した場合、これ以上のパワーバランス崩壊は考えにくかった。76層のフロアボス戦の難易度は、せいぜい74層の通常ボスの強さにプラスアルファ程度の苦労で収まるはずなのだ。次に大きな変化があるとすれば、80層ないし90層に到達した頃の話だと俺は予想していた。

 

 そうした推測を掻い摘んで話すと、ヒースクリフのみならず先ほどまで俺を睨んでいた幹部連中も徐々に興味深そうな目の色に変わっていく。

 

「――以上が俺なりの推論だ。今度はあんたの意見が聞きたいな」

「なかなか斬新な提言だったと言わせてもらおう。茅場晶彦の思考をトレースすることでソードアート・オンラインのゲームバランスを測るか、面白い視点だ」

 

 そう言って感心しているヒースクリフに内心では舌を出している俺だった。やってることは学校のテストでヤマを張るときに使う手法の一つでしかない。教師が生徒に望むことは何か、問題作成者が問題回答者に何を答えさせようとしているのか、その意図を探る試みの応用でしかなかった。

 

 《俺が茅場晶彦ならばどうするか》。

 

 それは俺がアインクラッドを生き抜く一つの指針として、この世界に閉じ込められた初日から続けてきたものだ。

 

「元々はこの先全てのボス戦で結晶が使えなくなるのは痛い、って考えから出たもんだから、幾らか願望も入ってるとは思うけどな。……75層の攻略からもう二週間だ。一階層攻略にここまで時間をかけてたらいつまで経っても頂上に辿り着けないだろう? そんなわけで俺としては今優先すべきは巧遅より拙速ってのが正直なとこだ。そのための号令と意思統一が欲しい、多少強引でもな」

「その役目をキリト君自らが務めたい、というわけかな? 私との決闘に勝利することで《黒の剣士》こそが攻略組を主導する立場に相応しいのだと示す――」

 

 ヒースクリフがそう口にした瞬間、間違いなく部屋の空気が鋭く緊迫化したものに変わった。そりゃそうだわな、『攻略組筆頭(あんた)の立場を俺に寄越せ』と真正面から突きつけているようなもんなんだから。下手をしなくても挑発と受け取られるだろうし、何を思い上がったことをと罵倒されてもおかしくない。幸いなことに皆が自制してくれたのか口汚い非難は飛んでこなかったけど。

 

 当事者たるヒースクリフは気負いもなく落ち着いたものだった。これは予想通り。

 アスナは……あらら、何か呆れていらっしゃるご様子だ。周囲を気にしているのかポーカーフェイスを継続中みたいだが、『目は口程に物を言う』を思い切り実践しておられる。本気で隠す気ないだろ、お前。

 

「盛大に深読みしてくれてるとこ悪いけど、そこまで大それた事は考えてないぞ。ソロプレイを通してきた俺と攻略組屈指の精鋭ギルドを率いてきたあんたとじゃ立場が違い過ぎるしな。決闘で証明できるのは個人の武力だけだ、それだけであんたの代わりを務められると考えるほど俺は自惚れちゃいない」

「私としてはキリト君のそれは謙遜だと言わせてもらいたいものだがね」

「過分な評価は有り難くもらっとくけど、如何せん実績の差ってのは歴然だよ。それに折角あんたを頂点にまとまってる攻略組の結束をこんなところで崩したくない」

 

 というかヒースクリフを馬車馬の如く働かせる方策を考えたほうがずっと建設的だ。

 

「そうさな、少しだけ恩着せがましい言い方をさせてもらうなら、今の血盟騎士団ではやりづらい事を俺が代わりにやってやるってとこだ。クラディールの裏切りもあったし、しばらくは動きが取りづらいんだろう、あんた達?」

 

 先の会議でもアスナは司会役に徹していたし、血盟騎士団の幹部は碌に発言しなかった。ヒースクリフが口数少ないのはいつものことだが、それを差し引いても彼らに会議を主導する意思がなかったことは明らかだ。

 あんなことがあったんだ、ギルドとしてしばらくは自粛するってのもわかるけどさ。つくづくタイミングが悪い裏切りだったとしか言えない。さっさと地獄に落ちてくれないかな、PoHとかいうロクデナシ。

 

 気づけばヒースクリフの真鍮色の瞳がじっと俺を見据えていて、俺も負けじと無言で視線を返していた。沈黙を挟むことしばし、やがて何を思ったのかヒースクリフは面白そうに目を細めると、その口元に微かな笑みを刻む。

 

「キリト君が見ているのは決闘の先だな。勝敗にこだわりはないようだ」

「周りの連中にわかりやすい形を選んだだけだしな。消極性に傾いてる攻略組をお祭り騒ぎで盛り上げて、幾らかでも積極的にさせてみようかってだけさ。あんたが率先して攻略組に号令をかけてくれるなら必要ないと思うんだが……やってくれるか?」

 

 あんたなら多少の無茶を言っても皆ついていくと思うぞ? 反発を押さえ込むことだって出来るだろうし、この際だから辣腕を振るってみるのも選択肢としては悪くないはずだ。……この男がそこまで前に出るとも思えないが。

 

「臆面もなく朝令暮改に勤しむのは少々抵抗があるね。とはいえ君を我がギルドに迎え入れる折角のチャンスを不意にするつもりもないよ」

「そいつはどうも」

 

 まあ予想できたことだ。ギルドの運営や他の攻略ギルド、あるいは中層以下のプレイヤーへの対応を見る限り、この男は往々にして俺達の自主性に判断を委ねようとする傾向に在る。一ギルドの長として完璧に振舞いはすれども、それ以上の立場を求めたことはなかった。この男が望むなら攻略組を軍隊よろしく上意下達の一大組織として再編できたのかもしれない。しかしそういった強引な施政も取っていなかった。

 以前は奴のそうした行動指針を、一人のリーダーシップの元に攻略組を纏め上げるよりも、各ギルドで切磋琢磨したほうが結果的に戦力増強が進み、攻略の一助になるからだと考えていたものだが……。

 

「あんたの言った通り、決闘の勝敗はどっちでもいいんだ。決闘の後に握手の一つでもして、フロアボスに対して俺達が磐石の体制で挑む宣言をすれば妙な噂は消えるだろうし、討伐隊編成を急ぐ理由作りにもなる。俺が勝てば指揮権譲渡を理由にするし、俺が負けた時も入団の条件だったことにしておけばあんたらにもそう迷惑はかからないだろう? 黒の剣士は攻略狂なんて言われてるくらいだし、誰も疑いやしないさ」

 

 ついでに言えば、血盟騎士団の黙認――もとい内諾さえあれば聖竜連合や風林火山を説得する自信はある。

 

「この場はその謀議の席というわけか。キリト君も人が悪いな」

「そう思うなら俺が剣を振ってるだけで済む状況を作り出してくれ」

 

 適材適所ってのがあるだろう? 俺の適正は権よりも剣、謀よりも暴力にこそあると思ってるんだ。しかしながらヒースクリフは「善処しよう」と気のない返事を寄越すだけで、俺の要望に応えてくれる気はなさそうだった。そんなだから聖竜連合が俺を担ぎ上げようとするんだよ。75層でのクラディールの件が余程腹に据えかねたらしい。彼らから内々にボス戦の指揮を執ってみる気はないかと問われた時は何事かと思ったぞ。

 

 それ自体はいいんだ、聖竜連合だって半分以上冗談で口にしたものだし、血盟騎士団への意趣返し以上の意図はないからその内不満も消えるだろうと思う。頭が痛くなるのは中層下層で流れてる噂である。ヒースクリフは問題視してないみたいだけど、下の階層ではいよいよ俺と血盟騎士団の深刻な不仲説が唱えられるようになっていた。

 噂でしかないと言われればそれまでだけど、どうにも俺ばかりが気を揉んでるようで面白くない。こうなったらアスナをデートに連れ出して俺と血盟騎士団の親しさをアピールしてきてやろうか。……男性プレイヤーの目の敵にされそうだからやめておこう。

 

「次の転換点を迎えるまでは俺とあんた――二人のユニークスキル使いが先頭に立って攻略を主導する、ボス戦の負担も今まで以上に引き受ける。その形を示すのが今回の決闘の肝だな。攻略組のみならず全プレイヤーに俺達の戦いを見せてその力と有用性を理解させたい」

「そうなれば討伐隊参加者ももう少し増える、か。なるほど、君の狙いは理解した。同時に聞きたいこともある。私が勝てばキリト君は血盟騎士団の一員となるし、その場合は私の指揮下――そうだな、アスナ君と共に副団長として働いてもらうことになるから攻略組の体制としても問題ないだろう。だが、キリト君が勝利した場合はどうするね? 君がトップに立つのが自然な流れになると思うが」

 

 私の風下に立つといっても皆が納得しないだろう、と疑問を向けてくるヒースクリフ。

 

「つってもなあ……決闘で示せるのは極めて限定的な戦闘能力に過ぎないだろう? あんたが『ただ強いだけの男』なら問題かもしれないが、《神聖剣》の威光だけでその席に座ってるわけじゃないんだ。攻略組内部から今の体制にケチをつけるプレイヤーが出ることもないだろうし、俺としては指揮権の委譲も今回限りの特例扱いで十分だぞ?」

 

 フロアボス戦の総指揮を執る役目を俺に振るのは勘弁してもらいたい。俺がフロアボス戦で期待される役割は最大のダメージソースになることだから、壁部隊並にボスに張り付くことになる、周囲全てを見渡す余裕なんてそうあるものではない。その事情はヒースクリフも変わりないのだが、そんな忙しない中でも戦況全体を見渡して指示を出せてしまうヒースクリフが異常なだけである。

 

 ただ俺なりに正直な所感を述べるなら、現時点でも全体の作戦指揮はアスナに委ねてしまったほうが良いと思っている。もし俺に作戦の決定権があるとしたら、俺とヒースクリフのツートップでボスの押さえ込みにかかる案を基本方針にするだろう。つまり50層の崩壊しかけた戦場を支えたヒースクリフの圧倒的な戦線維持力を前面に出し、討伐隊全体の消耗を抑えるのだ。その間に俺の火力を活用して早期決着を図る。

 無論、この案は個人に負担を求めすぎるし、一歩間違えればヒースクリフと俺が孤軍奮闘を余儀なくされる。だからこそ今まで採用されてこなかった作戦案だった。あるいは『ユニークスキル使いに頼るだけではこの先立ち行かなくなる』という懸念もあったのかもしれない。

 だが、それを踏まえても今回のボス戦ではユニークスキル使いに頼った作戦を実施する意義がある。

 

 重要なのは『クォーターポイントの難易度が続くわけではない』という事実を可能な限り早く明らかにすることだ。犠牲者ゼロで切り抜けられればなお良い。というか今回はそれが必須だろう。

 それさえできれば攻略に二の足を踏んでいる現状に一石を投じることが出来るし、少なくとも次回以降のフロアボス戦で定員割れを起こすようなことはなくなるはずだ。75層で高まった厭戦ムードも多少なり払拭できる。

 

 もしも76層以降が変わらず脱出不可能かつ結晶も使えず、ボスの強さもクォーターポイント並ならそれこそお先真っ暗になってしまうが、その時はその時である。元より安全の約束された戦場などないのだから、新たに発覚した事実を元に攻略案を練るしかない。尻込みしてるだけの現状を打破しないことには始まらないのである。

 

 それにヒースクリフの懸念はこう言っちゃ何だが無視できる程度だと思うんだ。ヒースクリフはカリスマと称されて久しい男である。その声望はヒースクリフ自身の実績によって作られたものだし、それは何も個人の戦闘能力に由来するものばかりではない。

 フロアボス戦において最も危険な役割を受け持ってきたことも然ることながら、血盟騎士団を一から作り上げ、攻略組屈指のギルドへと成長させ、今尚攻略に貢献し続ける男にこそ向けられた敬意なのだから。

 今更一度決闘で土をつけられたからとてその評価に揺らぎが出ることなどありえないだろう。この男が担ってきた役割とその実績に裏打ちされた信頼が、その程度の些事で崩れるはずがないのである。

 

 ――だからこそ、俺がこの男を負かしても攻略組に痛手はない。

 

「それで足りなければ、俺が勝った時は適当にギルドを作ることにするから、ギルド立ち上げの手伝いと最前線を戦う協力体制の確約だけもらえれば十分かな? どうせ今から作るギルドなんて形だけのものになるだろうし、これからは俺と血盟騎士団も緊密に協力しあって攻略に励むって形を皆に示せればよしだ」

 

 それでどうだと肩を竦めて言い放つと、「落とし所としては悪くないか」と頷くヒースクリフだった。

 

「さて、どうだろう諸君。私としてはキリト君の申し出を受けても良いと考えているのだが、各々の意見を聞かせてもらえるかな?」

 

 ここで初めてヒースクリフは幹部連中に水を向けたわけだが、少しばかり時期を逸している気がしないでもない。ヒースクリフ自身が既に決闘に前向きな姿勢を見せている以上、好んで反発するプレイヤーが出るとは思えなかった。俺としてもそちらのほうが都合が良い。そんな俺の思いを肯定するかのように困った笑みを見せるのはアスナだった。

 

「決闘を申し込まれているのは団長ですから、団長の裁量で受けてしまっても問題ないように思われますが?」

「勝敗如何では攻略会議でキリト君の意見を通すよう動かねばなるまい。その時になって足並みが乱れるようでは困るからね、意思の確認は必要だよ」

 

 大した狸ぶりだ。ヒースクリフの顔つきからは《決闘に負けるはずがない》という絶対の自信が伺えた。

 

「そうですか。ではここまでのお話をまとめさせていただきます。キリト君の申し出はヒースクリフ団長を対象にした決闘です、ルールは半減決着モードを希望していますね。その目的ですが、一つ、決闘を口実に最前線の澱んだ空気を打ち払い、攻略組の低下した士気の向上を目指す。二つ、決闘終了後、《血盟騎士団》と《黒の剣士》の関係改善をアピールする。三つ、《聖騎士》と《黒の剣士》を中心にした討伐隊の早期編成と実行。以上でよろしいでしょうか?」

「付け加えておくと、俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団した場合も早期のフロアボス討伐実行に向けて動くから、それが容認できないのなら決闘そのものを拒否してくれ」

 

 アスナは気軽に嘴を挟んだ俺を一瞥し、軽く頷くことで返事とした。

 

「早期攻略の実行は我がギルドの主旨にも沿います。先ほどの提言――キリト君の入団を理由に討伐隊結成の予定を早める案に副団長として賛成することを表明しておきたいと思います。わたしからはそのくらいですけど、何か疑義のある方はいらっしゃいますか?」

「あー、ちょいとええですか?」

「どうぞ、ダイゼンさん」

 

 おおきに、と相好を崩しながら立ち上がったのは、後方支援畑の人間だと主張するかのように鈍重な印象を抱かせる男だった。もちろんアインクラッドではアバターが痩せ型だろうが肥満体だろうが動きの俊敏さは全てステータス次第なので、決してこの恰幅の良い男が見た目通りのプレイヤーだとは限らない。

 もっともダイゼンは《血盟騎士団の金庫番》と呼ばれる経理担当にしてやり手商人のため、同じく幹部として会議に参加しているゴドフリーのように、フロアボス戦へと参加するバリバリの武闘派じゃないことは確かだ。

 

 しかしどんな組織でも財布を握る者は立場も強いと相場が決まっている。ある種純粋な強さへの信望が厚い血盟騎士団といえど、経理を担当するダイゼンを無視することは誰にも出来はしない。ギルド名義による補給物資や武器防具の仕入れから職人クラスのプレイヤーを対象とした素材アイテムの割り当てなど、大口小口問わず商取引を一手に担っている部門の元締めなのだから、彼が幹部待遇で一目置かれているのも至極当然のことだ。

 そんな男が口にするのだから、その話題は当然銭が絡むことだった。

 

「決闘を受けるかどうかは団長の好きにすればええ思いますけど、経理担当の立場としてはキリトはんに幾らか譲歩してほしいもんがありましてな。団長から決闘を受ける条件としてキリトはんに協力の打診をしてもらえまへんやろか?」

「具体的には?」

「キリトはんがうち以外のギルドに卸してるレアアイテムをうちにも流して欲しいんですわ。財布を預かる身としては、金の卵を前にしてみすみす見過ごすわけにもいかんもんでしてな。ご理解願います」

「ということらしいが、どうかなキリト君?」

 

 ふむ、と数秒沈黙し、多少悩む素振りを見せてから答えを返す。

 

「……オーケー、いいぜ。その程度の譲歩なら問題ない。決闘の結果に関わらずこれからは血盟騎士団にも卸すことを約束する。ただし俺が決闘に負けて血盟騎士団に入団したとしても、今まで通り他のギルドに支援することを認めてもらえるなら、だけど。全部血盟騎士団行きってのは困るぞ?」

「かまへんかまへん。うちのルールは元々モンスタードロップ品はドロップしたもん勝ちやさかい、その使い道も自由や。ただ、うちに所属していながら全くギルドに配慮してもらえんってのも喧嘩の種になりそうでなあ。先手を打っておこう思ったまでや」

「ああ、確かにそれはまずそうだ。気を遣わせたようで悪かった」

 

 そこまでまとまったところでヒースクリフに目を向ける。

 

「そういうことでいいか?」

「キリト君の配慮に感謝するよ」

 

 ヒースクリフからの目配せを受けたアスナが再度幹部連中に声をかけるも、俺にある程度譲歩させたことで十分だと考えたのか、ダイゼン以外の幹部からそれ以上要望が出されることはなかった。各々の表情を見る限り感触も悪くない、これなら大丈夫そうだな。

 

「では、これ以上の意見もないようですので決に移らせていただきます。《黒の剣士》キリトから《血盟騎士団》団長ヒースクリフへ申し込まれた決闘受諾に賛成の方は挙手をお願いします」

 

 そんな俺の観察を裏付けるかのようにヒースクリフを除いた五人の右手が掲げられる。特に波乱もなく幹部勢全員に承認され、最後にヒースクリフが改めて俺の申し出を承諾する。これで俺とヒースクリフの決闘は勝敗結果も含めてギルド公認のものとなったわけだ。

 

 まあ彼らにしてみればヒースクリフが決闘に勝つ公算のほうがでかいだろうし、俺を血盟騎士団に入団させ、身内認定することに異存さえなければ反対する理由もないだろう。……クラディールの件で俺に負い目を持っている人間もいるだろうし、ちょっと弱みに付け込んだみたいで申し訳ない気もするが。

 とはいえ好機は好機だ、利用しない手もない。今回の事態がどう転ぶにせよ、今まで以上にゲームクリアに貢献することで許してもらうとしよう。

 

「開催場所は75層主街区《コリニア》のコロシアムが丁度良いだろう。あそこなら大人数を収容できる。あとは決闘日時の決定か……。攻略会議は明後日に予定されているが、延期するかね?」

 

 現在ボス戦を控えて参加を表明しているプレイヤーが三十三人。75層の生き残りがほとんどそのままシフトした形だが、出来ればあと十人ほどは確保して挑みたい、というのが今日の攻略会議における最終決定だった。明日一日かけて有力ギルドを訪ね、フロアボス戦に参加してもらえるよう説得に努める予定になっている。

 

「明後日の攻略会議は時間を午後にずらすだけでいい。明日一日かけて決闘の開催を周知して、明後日の正午を立会いの開始時間にしよう。何か不都合はあるか?」

「いや、問題ない」

「で、決闘が終わったらその盛り上がりを維持したまま、すぐに攻略会議を開いてフロアボス戦に挑む編成を決めちまおうぜ。鉄は熱いうちに打てって言うしな」

「勢いで色々ごまかしちゃおうって言ってるように聞こえるよ、キリト君」

 

 冗談めかしたアスナのからかいに何人かの失笑が漏れた。うん、アスナの言も間違ってないな。《士気》ってのは多かれ少なかれそういう勢いが大事だし、匙加減さえ間違えなければ大丈夫だろう。

 

 しかしアスナも結構砕けてるというか何というか。この場には俺と血盟騎士団だけだし、そこまで気を張ってるわけじゃなさそうだな。他の幹部勢にしても攻略会議の時よりもずっと柔らかい印象を受けるし、案外普段はこんな感じでやってるのかもしれない。ギスギスした雰囲気よりはずっとマシだし大歓迎だ。

 とはいえ、俺の口元に浮かぶ薄い笑みは何も彼らに絆されてのものではないけれど。

 

「そうそう、勝敗にこだわる気はないって言ったけど、これでも負けず嫌いを自負しててな。やるからには勝つ、そのつもりで戦うから手加減は無用だぞ、ヒースクリフ」

「心配せずとも、キリト君とは一度本気で立ち会ってみたかったのだよ。君の操る《二刀流》の真価を直に味わってみるのも一興だ」

「奇遇だな、俺もあんたの《神聖剣》を一度破ってみたかったんだ」

 

 この時ばかりは俺も演技ではなく本気の意気込みが漏れていたと思う。この男と本気で試合ってみたい。攻略組最強を相手に勝利を得たい。そうした稚気を一度でも抱かなかったと言えば嘘になるだろう。そうでなければ何度もこの男との対決を夢想し、シミュレーションなどしていない。

 攻略に励む方が大事だからその欲求を封じてきただけであって、俺とてそれなりのエゴは持ち合わせているのだ。おあつらえ向きに場を整える機会が巡ってきたのだからここで躊躇う必要もなかった。

 あとは何処まで俺の思惑通りに事が運ぶか――。

 

「ところで団長、決闘の名分は《次回のフロアボス戦の指揮権を賭けて》になるんでっか?」

 

 決闘に勝った場合、負けた場合、その双方を想定した予定表を脳内で組んでいると、何やらダイゼンがヒースクリフに疑問を呈していた。

 

「そのつもりだが、何か気になる事でもあったかな?」

「やー、文句言うわけやないです。ただ、どうせイベントとして盛り上げるなら、もう少しエンターティナー精神が欲しいとこですな。お祭り騒ぎにするにはちと理由が真面目すぎますし、もう少しこう遊び心が欲しいんですわ」

 

 そちらのほうが興行収益も見込めます、と続けるあたりダイゼンは根っからの商売人だと思った。同僚にいれば頼もしいだろうな、こういう奴。

 

「特に反対する理由はないが――」

 

 そこで俺に目を向けられても困るぞ。空気読んで賛成する以外にどうしろと?

 

「俺としては下の連中にこそ決闘の様子を見てほしいし、観客集めを目的にそっちで盛り上げてくれるなら大歓迎だよ。好きにしてくれ」

「協力感謝する。しかし遊び心か、ダイゼン君は何か良い案があるのかな?」

「そうですなー、そこそこ俗っぽい理由のほうが大衆受けするでしょうけど……」

 

 ゴドフリーはんはどう思います? とダイゼンより矛先を向けられ、こういう催し事に消極的であろう巨漢の男はいかにも気乗りしなさそうな迷惑顔で答える――わけではなく、何とゴドフリーも「一理ある」と頷いた後真剣に悩みこんでしまった。

 おいおい、あんたそんなキャラだったか? いや、そういえばこの男、底抜けの陽気さを纏う豪快極まりない男だった。案外こういうイベントにも積極的に取り組む性質なのかもしれん。

 

「どうせなら『攻略組最強の剣士はこの俺だ』と《黒の剣士》が団長に挑戦状を叩き付けたことにしてはどうだ? わかりやすいし話題性にも富むぞ」

 

 あー、うん、確かに盛り上がりそうだけど、その理由で《聖騎士》に挑む俺が馬鹿っぽく見えないか? まして攻略会議を控えてやるこっちゃないような……。

 しかしそんな俺の内心をよそに、幹部連中は何故だか「それは良いかもしれん」とご賛成の様子。ちょっと待て、実は俺を慌てさせるのが目的なのかあんた達。

 

 まさかアスナまで同意見なんじゃなかろうな。そう考えて恐る恐る彼女に目を向けるとそっと目を逸らされた。

 確信した、こいつら内向きの話では大抵こんなノリなんだ。俺の抱いた遵法精神に溢れ、規律正しい最強騎士団の偶像がガラガラと崩れていく。そりゃ誰だって外面は良くするものだろうけど、血盟騎士団だって例外じゃないらしい。

 あっはっは、マジでこのままだと俺が最強の座を賭けてヒースクリフに挑むことになりそうだ。……勘弁してください、マジで。

 

「なかなか面白い意見も出ているね。では当事者の意見も聞いておこうか。キリト君が挑戦者側という構図は変えられないが、何か希望があるなら今の内に主張しておくと良い」

 

 こういうのは俺よりもアルゴやリズのほうが得意そうだけどなあ。あとはケイタ達も結構面白がるかも。

 俗っぽい理由で、エンターティナーに溢れた精神ねえ。大衆受けを狙うなら、血盟騎士団には俺やヒースクリフよりもよっぽど適任者がいるぞ? そこに俺を絡めるとすれば――。

 

「そうだなあ、おたくの副団長を賭けてってのが一番『らしい』理由になるんじゃないか? 俺が勝ったらギルド立ち上げをするってのを流しておけば、自然と引き抜き目的にも納得してもらえるだろうし」

「ちょっとキリト君、何をッ!?」

 

 前触れなく突然舞台に上げられてしまったアスナに驚愕の表情が浮かび、思わずといった風に叫びがあがる。しかし俺はアスナの抗議を飄々と受け流して続きを口にしてしまう。こんなもの冗談にしかならないよ。

 

「どうせ決闘の後にある程度の種明かしはするんだし、俺が勝った時もアスナを血盟騎士団に返すことで俺達の連帯ぶりを示せるだろう? 後々に禍根を残すようなことにはならないと思うんだ」

 

 問題があるとすれば景品扱いされるアスナの心情くらいだろう。

 しかし《最強の座》にしろ、《女》を巡っての決闘にしろ、どちらが理由でも俺の風聞に良い影響を与えるとは思えないのが悲しい。《黒の剣士》はいったい何処に向かっているのやら。

 

「キリト君とアスナ君の仲が良いのは周知のことだけに、決闘への注目も俄然期待できそうだ。私に反対する理由はないよ」

 

 おや、そこは理由がなくても反対しておくべきじゃないか?

 

「団長、まさか本気で賛成する気ではないですよね……?」

「アスナ君、私は反対する気はないと言ったつもりだよ」

 

 何故かヒースクリフが楽しそうなのは気のせいだと思いたい。

 

「確かに副団長の人気はアインクラッド一ですからな。いやあ、盲点でしたわ。まさかこんな身近にここまでの逸材がいたとは」

「うぅ、ダイゼンさんまで……」

 

 四面楚歌に陥りつつあるアスナに悪いとは思いながら、しかして俺も内心では冷や汗を滝のように流していた。いや、俺はあくまで冗談のつもりだったんだぞ? でもな、俺はどうやら血盟騎士団を舐めていたらしい。彼らは俺の案に反対する素振りも見せず、喜々として賛成の姿勢を見せ始めたのだ。

 嫌な予感を通り越して間近に迫った忌避すべき未来――俺の案を採用するか否かの決選投票を実施することに躊躇するアスナに代わり、ヒースクリフが音頭を取ると賛成多数で瞬く間に採用されてしまった。びっくりするくらいの即断即決である。こんなところで無駄に連帯の強さを見せ付けてもらわなくても結構だ。

 

 もはや俺に言うことはなかった。というか目を丸くして楽しげな彼らの様子を眺める以外に出来ることはなかったと言うべきか。

 つまり、だ。これで俺は、『アスナを血盟騎士団から奪うために』《聖騎士》ヒースクリフに挑戦状を叩き付けたことになってしまったのである。……身から出た錆だし、改めて言うまでもなく自業自得には違いなかった。

 

 この顛末はアルゴに大笑いされるだろうなあ。ついでにクラインには詳細な説明を求められそうだ。サチとシリカは苦笑で済ませてくれそうだけど、リズにはしっかりと呆れられそうだ。

 まあシリカ情報では中層プレイヤーにはこういったゴシップ系の娯楽が好まれるとのことだし、攻略組以外にも集客効果は抜群だろうとは俺も思うので、いつの間にやら客寄せパンダの役割を拝領していたとしても別段文句をつける気はない。……ないのだが、涙目で俺を恨めしそうに睨んでいる絶世の美少女様のご機嫌は、さて、一体どのように宥めたものだろうか?

 

 ひとまずの目的は達したものの、俺の手元にはとんでもない難題が残されたのだった――。

 

 

 

 

 

「――ってことが昨日あったんだ」

 

 第48層主街区《リンダース》では今日も巨大な水車が奏でる叙情的な音色が耳に心地よく響いていた。数多くの職人プレイヤーが鎬を削るように日々精進に努める一方で、この街に流れる時間はとてもゆったりとしたものだ。一目見た時からこの層に店を構えるのだと決意したリズはなかなかの慧眼だと感心もしよう。俺がホームを作った22層の雰囲気も好きだが、この街はそれとは違った趣がある。

 

 現在時刻は午前九時に差し掛かろうかという刻限であり、大抵のプレイヤーが狩りに出る頃合だった。しかし俺は今日一日を休暇と決めているため、迷宮区攻略もレベリング作業もする気はない。

 そういえば一日を丸々オフにするなんて初めてのことかもしれないな。ふとそんな詮無き疑問が浮かび、苦笑しながら黙殺した俺だった。

 

 そんな中、俺はまず朝一でクラインを訪ねて俺なりの存念を伝えた後、ホームに戻ることなくそのまま《リズベット武具店》に足を向けていた。以前のメンテから日を置かずに迷宮区の最奥が発見されたために剣の消耗は軽かったものの、明日を万全の状態で迎えるために武器のメンテを頼みこむ。その傍ら、店主を相手に先日の血盟騎士団を相手にした交渉模様を包み隠さず語り終えたところだった。

 リズが用意してくれた湯呑みから緑茶を一口啜り、ほっと一息つく。

 

「ふーん、とりあえずひどい出来レースだってことはわかった。悪人ねぇ、キリト」

「そんなに褒めてくれるな、嬉しくなっちゃうだろ」

「常々思うのだけど、あんたって悪役(ヒール)が好きよね」

「仮想世界でくらい弾けてもいいじゃないか、ってベータテスト時点では思ってたんだけどなあ。今のアインクラッドじゃ洒落にならん」

 

 ゲームだからこその楽しみ方があるだろうに何故にこんな殺伐とした世界にしやがった、茅場のアホ。

 それとリズベットさん、男の子には悪ぶりたい時期というものがあるのですよ?

 

「そりゃそうでしょうね。てかあんたが正真正銘の犯罪者(オレンジ)になるとか本気で勘弁してよ? 誰も止められないじゃない」

「その時はリズも悪の女幹部やってみるか? 歓迎するぜ」

「お馬鹿、人を悪い道に誘うんじゃないっての。それとあたしの好みはアウトローな男なんかじゃありませんから。そんな誘い文句じゃついてってあーげない」

 

 そう言ってくすくすと笑み崩れるリズを見ていると俺も嬉しくなってしまうわけだが、さりとてこの場にいるもう一人のお姫様をこのまま無視するのもまずいと思うわけで。「むー」と不満顔を向けてくる美貌の主に何と声をかけるか思案していると、先んじてリズが口を開いた。

 

「事情は理解したわよ、それでアスナが朝から不機嫌だったわけか。まあギルドぐるみで景品扱いされちゃねぇ」

 

 リズの手にする新聞には『ついに両雄激突! 《黒の剣士》が《閃光》を賭けて《聖騎士》に挑戦か!?』と、でかでかと一面を飾る見出しが覗いていた。

 クラインには先に舞台裏を伝えてきたけど、有力ギルドの連中にもある程度の情報は流しておいたほうがいいんじゃないか、これ。あー、でも以前のクラディールとの決闘も似たような理由だったし、もしかして攻略組でも納得されてたりするのか? それはそれで複雑だ。

 

 そんな深刻なのかどうでもいいのかよくわからない疑問を抱く俺をよそに、同情半分、からかい半分の顔でリズはこの場にいる三人目のプレイヤーに目を移す。俺よりも先にリズベット武具店を訪れていた栗色の髪の少女は仏頂面を浮かべてちょこんと椅子に腰掛けていた。言わずと知れた血盟騎士団副団長にして《閃光》の異名を取る細険使いである。

 普段は颯爽とした姿で皆の尊敬を集める少女なのだが、今は萎んだ蕾のように精彩を欠いていた。原因は言うまでもないだろう。

 

「景品どころか当て馬よ当て馬。皆面白がって止めてくれないのよ? もう、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」

「ほんと、なんでだろうな?」

「何よ他人事みたいに、今回の事は半分以上キリト君の責任でしょ。わたしが今朝リズのお店に辿り着くまでに、一体どれだけの質問攻めに遭ったか教えてあげましょうか?」

 

 アスナのじとっとした眼差しを受け、思わず顔を背けてしまう俺だった。申し開きの仕様もございません。

 加えて俺の場合は《黒の剣士》の名前は広まっていても、アスナのように顔まで売れているわけではないため、有名人かつ人気者の苦労はわからなかったりする。ご愁傷様としか言い様がなかった。

 

「しかし血盟騎士団のイメージも結構変わったなあ。俺、今まで血盟騎士団のこと規律でぎっちぎちの堅物集団だと思ってたんだけど訂正する。ヒースクリフ含めて思いのほか愉快な連中だった」

「そんな感心のされかたは嫌」

 

 言葉通り嫌そうに顔を顰めるアスナだったが、「でも……」と嘆息混じりに続けた。

 

「うちだって昔はあんなものだったのよ。ギルドの規模が小さかった頃は、団長が手ずから声をかけて一人ひとりメンバー集めていたくらいだしね。昨日の会議参加者だってほとんど古参のメンバーだから気心も知れてるの。変わったのは最強ギルドなんて呼ばれるようになった頃かな、外向きにきっちり対応するためにも厳格な規律が必要になっちゃったって感じ」

「へえ、そうだったのか」

「……ああ、そっか。わたし達が《緩かった》頃は、キリト君は全力ソロプレイ中だったせいでほとんど関わりがなかったし、気づかなかったのね」

 

 ちくりと嫌味が飛んできた。ぐぬぬ。

 

「ま、まあ人数が増えれば増えるほど規律だとかルールが必要になるもんだよな。《軍》はその舵取りに難儀して半ば分解しちまったわけだし」

「露骨に話を逸らしたわねえ」

 

 リズの冷静な指摘が痛かった。低層攻略当時の猪武者ぶりは俺にとって黒歴史に等しいので、どうかこれ以上触れないであげてくださいお願いします神様仏様アスナ様。

 冷や汗たらたらな俺を気遣ってくれたのか、それとも一矢報いたことでよしとしたのか、それ以上の追撃はなくアスナの表情からも険が消えた。ようやく許してもらえたらしい。

 

「なあアスナ、もしかして血盟騎士団に入団するって約束を反故にしたことも怒ってたのか?」

 

 信義に(もと)るとまでは言いたくないけど、やっぱり不誠実な行いだよな。昨日の一件とは別として、アスナには多少後ろめたい思いも持っていた。

 しかしながらアスナは「ああ、そのこと」と気に留めた素振りもなく、すぐに否定の言葉を紡いだのだった。

 

「別に怒るようなことじゃないかなあ。状況が変われば判断も変わるものだし、キリト君がうちに入団するに当たって条件をつけたことにも文句はないよ?」

「アスナが寛容な女の子で助かった……」

「ただ、うちの団員はもうキリト君がうちに入団するものだと考えてるけどね。昨日も半分身内扱いされてたでしょ?」

 

 つまり俺の敗北が織り込み済みということである。むむ、わかっちゃいたがヒースクリフのほうが上と思われるのは面白くないぞ。

 

「なるほどなるほど。……こうなったら意地でもヒースクリフに勝ちたくなったな」

「そのことなんだけど、キリト君は本気で団長に勝つつもりなの?」

「ん? どういうことだ?」

「だって、この前キリト君に団長と力比べしたらどっちが強いか聞いた時、初撃決着モードのほうが勝率は高いって分析してたじゃない。なのに今回はわざわざ半減決着モードを選んだでしょ? お祭りのメインイベントが一瞬で終わったら盛り上がりに欠ける、っていうのもわかるけど」

 

 不思議そうに尋ねてくるアスナの発言に興味をそそられたのか、リズも思案顔になって俺に視線を向けてくる。こういう『誰が一番強いのか』『お山の大将は誰だ』みたいなゴシップは俺達男向きの話題だと思うんだけど、アスナやリズも結構気になってる様子だな。ちょっと意外だ。

 

「どっちがやりやすいかと言えば初撃決着には変わりないけど、机上の勝率そのものは上がってるぞ。75層の戦いで《神聖剣》の効果範囲と併せて限界もおおよそ見えてきたからな。絶対とは言えないけど初撃決着なら互角以上に、半減決着でも十やって三つ四つ勝ちを拾うくらいの戦績は残せると思う」

 

 随分自信家じゃない、と笑顔で茶化してくるリズに俺も不敵な笑みを返す。ふふん、強がりを言っているわけでもなく純然たる事実なのだ、自信たっぷりに吹聴もしよう。

 なにより75層の戦いで自身のポテンシャルを十全に発揮する端緒を掴んでいたのだ。あの静寂に満たされた不思議な感覚を体験できたことは、俺にとって誇張ではなく新たなステージへの幕開けだった。

 無論、自由に使いこなせるわけではないし、未だあの時ほど深く入り込むことも出来ていないが、それでも俺は確実に強くなっている。日毎に《認識の広がり》を実感しているのだった。

 

「わたしとしてはキリト君に勝ってほしいけど、そうなると一緒のギルドで戦えなくなっちゃうし複雑かなあ」

「そのへんは今後の攻略難易度次第だな。状況が許せばアスナとのコンビを復活させたいし、しばらくは血盟騎士団のシフトに助っ人って形で参加しても良いと思ってる。まあどっちに転んでも俺の損にはならないし、血盟騎士団の損にもさせないよう動くつもりだよ。ただ、出来ればここらで一度ヒースクリフに勝っておきたいと思う」

 

 周囲にわかりやすい形で攻略組における俺の立場、影響力を強めておきたいのだ。今すぐヒースクリフに取って代わる気はなくとも、それを『いつでも出来る』状況まで事を進めておきたいのが俺の本音だった。そうなればこの先不測の事態が起こったとしても皆の混乱を最小限に抑えられるはずだ。

 

「ふーん、キリト君は本気で《聖騎士》と《黒の剣士》を中心に据えた攻略構想を練るつもりみたいだね。ユニークスキル使い――団長とキミの危険が増すことは避けられないし、わたしも出来る限りフォローはするつもりだけど……大丈夫なの?」

「さて、俺はともかくヒースクリフにはまだ余裕があるように見えるんだけどな。さすがに一人でボスを狩ってこいとは言わないけど、多少の負担を増やすくらいなら許容できるはずなんだ。実力、声望が共に抜きん出たヒースクリフに、正面からもっと働けって突きつけられるプレイヤーが一人もいないのが問題なんだよ」

 

 俺が思うにこの先の攻略を進める一番の鍵は《聖騎士》にある。ヒースクリフをどの程度利用することが出来るか、どこまで使いこなせるかでアインクラッドの今後が決まるだろう。

 なに、遠慮はいらない。奴は間違いなく余力を残しているし、むしろ使い潰すくらいの気持ちで丁度良いさ。

 

「俺が決闘に勝てばよし、奴に多少の無茶を強いることもできるようになるだろう。仮に俺が負けた場合はアスナと協力して奴のケツを蹴り上げてみようか。副団長二人の意見なら無碍にしないだろうしな」

 

 最善は《聖騎士》を部下にして使いまわすことなんだけど。

 そうぼやいて見せると、アスナとリズは互いの顔を見合わせ、何が面白いのか二人同時に噴き出して軽快な笑い声をあげたのだった。あれ、俺としては真面目な話をしてたつもりなんだけど?

 

「やっぱりあんたって相当な変わり者だわ。そんな理由で一大イベントを起こすなんてねぇ。うん、どうせなら勝っちゃいなさい。あたしが許すわ」

「わたしは聞かなかったことにしといたほうが良いのかなあ……。あの団長相手にそこまで言えるのはキリト君くらいだよ、ほんと」

 

 アスナは呆れの色が強かった。しかしそんなに大それた考えかね? 攻略組、殊にフロアボス常連プレイヤーなら皆が一度は考えそうなものなのだが。

 

「そういえばキリトが勝った時は新しくギルドを作るんだっけ。うちにくる前にクラインに会ってきたらしいけど、やっぱそのへんの相談?」

「まあそんなとこ。俺は今の血盟騎士団を中心にした攻略組の枠組みを変える気はないから、今更俺を頭にしたギルドを作ったところで形式だけのものになるだろうしな。将来的には血盟騎士団なり風林火山なりに吸収合併されちまってもいいし、構成員も俺一人のぼっちギルドになるんじゃないか?」

「うわ、まじで形式だけじゃない」

 

 そこでリズは何かに思い当たったように満面の笑みを浮かべると、鼻歌でも歌いそうな調子で朗らかに続きを口にしたのだった。

 

「そうねえ、ならキリトがギルド作ったときは、あんたの専属鍛冶屋であるあたしが直々に入ったげる。嬉しいでしょ?」

「感謝感激雨あられだな、割とマジで」

「ふふーん、そうでしょそうでしょ。あ、ところでギルド名とかもう決めてるの?」

「いや、特に何も」

 

 ギルド立ち上げの優先順位は低いため、本腰入れて準備をしているわけでもない。76層のフロアボス撃破の後に適当に考えるつもりだったからほとんど白紙だ。だからこそ戯れの気持ちで、「リズなら何てつける?」と軽く話を振ることだって出来る。

 

「んー、キリトのイメージカラーから取って《黒の騎士団(Black Knights)》とか?」

「安直な命名だなあ」

「こういうのは変にひねらないほうが良いのよ」

「そういうもんか?」

「そうそう。あとは親しみ重視で《キリトと愉快な仲間達》とか」

「それは俺が不愉快だ」

 

 遺憾の意を表明させていただきます。

 

「ありゃ、残念ね」

 

 全然全くこれっぽっちも残念に思ってなさそうなリズである。

 そんな軽口の応酬はともかく、俺の力になってくれるというリズの気持ちはありがたく貰っておくけどさ。どのみち俺の去就も決闘の結果如何になるわけだし、これ以上話の進めようもない。

 それとは別にアスナがリズを少しだけ羨ましそうに見ていたのは……ふむ、男名利に尽きるということにしておこうか。

 

「さてと、俺はこれからニシダさんの誘いでサチと一緒に《湖の主釣り大会》の見物にいくけど、アスナとリズはどうする?」

 

 リズが丁寧に研磨してくれた二本の剣を受け取り、遅滞なくアイテムストレージに収納しながらこれからの予定を告げる。

 

「ニシダさんの?」

「ああ、クラインのとこに向かう前に偶然顔を合わせてな。アルゴとシリカにも声をかけたんだけど、あの二人は今日忙しいから無理だってさ」

 

 まあその忙しさの原因は明日の決闘イベントに関することなので、二人の多忙は俺のせいだったりするのだが。

 クラインはギルド総出で今日一日レベリングに費やすため遠慮するとのこと。エギルは店が忙しい……わけではなく、何やら明日のイベントに出店する打ち合わせがあるとかぬかしてたな。商魂たくましい奴だ。

 

「誘いは嬉しいけど、あたしはお店があるから今日はパス」

「忙しいのか、残念だな」

「何言ってんの、あたしが今日忙しいのはあんたのせいよ。常連のお客さんが皆、明日の予定をオフにしたせいで昼過ぎから夕方にかけて持ち込まれるメンテ注文が殺到してるの。今の内にノルマを済ませておかないと明日見物にいけなくなっちゃうわ」

 

 おっと、ここにも余波が出ていたらしい。

 

「あっはっは、そいつは災難だったな、リズ」

「こんにゃろう、マジで他人事だと思ってるわね、あんた」

「商売繁盛は良いことだろ? アスナはどうだ?」

「わたしも今日は会場設営と当日の人員割り振りを詰めなきゃいけないから無理かな。ダイゼンさんが張り切って出店の仕切りを決めたり余興の出し物を募集してるのよ。そのおかげでわたし達は準備に大忙しになる予定」

 

 俺は広報担当――という名目で暇が出されている。仕切りは全て血盟騎士団がやってくれるのだから楽なものだ。何もしないのもどうかと思うし、裏事情の説明がてら午後は攻略ギルドのトップ連中を廻ろうかなあ……。

 

「悪いな、明日の収益金の5%は俺の懐に入ることになってるから、後で好きなもの奢ってやるよ。ついでにリズにも」

 

 ついでって何よついでって、と呆れ顔で憤慨してみせるリズを横目に、アスナはひょいと肩を竦めて「いらない」と口にした。

 

「ダイゼンさんから聞いてるわ。その臨時収入は決闘の後でうちの団員を労う打ち上げ費用にするつもりのものでしょ? デートに誘ってくれるのは嬉しいけど、その時は割り勘でいいわ。それよりキリト君はいつの間にダイゼンさんと仲良くなったわけ?」

「ああ、ダイゼンならこの前ゴドフリー経由で紹介してもらったんだ。つーかダイゼンが俺らの集まりに勝手に突撃してきたんだけどさ。ゴドフリーも呆れてたぞ、どっから聞きつけてきたんだって」

「ダイゼンさんは顔も広いし鼻もきくから、何か面白そうなことがあるとすぐに首を突っ込みたがるのよ。フットワークが妙に軽い人なのよね」

 

 奴の鼻が嗅ぎ分けるのは銭の臭いだろうけどな。俺がレアアイテムの卸し先として譲歩した条件だって事前に相談済みの事だったりする。ああいう利害で話せる相手は付き合いやすい。

 

「それはそれとして、あの野郎、商人プレイヤーは信用が命だってのにアスナに情報漏らしやがって。あとで文句言ってやろう」

「ダイゼンさんとゴドフリーとわたし、幹部の過半数に根回ししてから団長に祭りの開催を提案した、お腹の中が真っ黒クロスケなキリト君が何を言っているのかな?」

「いやいや、クライン曰く『根回しを知らない社会人は落第生』らしいから、俺が腹黒なんてことだけはないぞ」

 

 トップ会談の前に実務者協議をすることは常識だろう? マナーだよマナー。

 ついでに言えばアスナにも事前に話を通していたのだから、ここで非難されるのは心外というものである。

 

「もう、ああ言えばこう言うんだから」

「俺、この世界に来てから何故か口が良く回るようになった気がするんだよな」

「それは自慢することなの?」

「さあ?」

 

 胸を張って威張れることではなさそうだ。

 

「あんた達は相変わらず仲が良いわねえ。ま、明日は頑張んなさいよ、キリト。応援してあげるから」

「ああ、微力を尽くすよ」

 

 明日の激突を思えば否応なく気合も入るというものだ。

 あの男に負けたくない、勝ちたい。そのためにプレイヤー相手には極力使わないと決めていた《二刀流》だって振るうことにしたのだから――。

 

 

 

 

 

 《ニシダ》というのは俺達と同じプレイヤーの名前である。おそらく現実世界の名字を安直にプレイヤーネームに設定した口だとは思うが、異色なのはその年齢だろう。十代、二十代のプレイヤーが多数を占めるアインクラッドで、五十を超えてそうな外見は珍しいと評するに十分だった。

 

 そんな初老の男ことニシダ氏は現実世界で《東都高速線》というネットワーク運営企業に勤め、そこで保安部長の職務に励んでいたのだという。勤め先がソードアート・オンラインの開発会社《アーガス》と提携していたとのことだ。

 回線保守の仕事の傍ら、一度は自分の仕事を直接見たかったという理由でログインし、そのままこの世界に囚われてしまったのだから不運としか言い様がない。本人は『年寄りの冷や水がとんでもないことになった』と笑っていたが。

 

 俺がニシダさんと知り合ったのも22層に越してきてからのことで、何度かユイを連れて散歩に出ていたときのことだった。22層は定住するプレイヤーも少なく、別の層から狩りやクエスト目的に訪れる者もいないが、唯一釣り師だけは例外だった。モンスターがポップせず、層全体が長閑な風情のためか、日がな一日釣り針を垂らす絶好のスポットなのだそうだ。

 

 当初俺はユイの込み入った事情もあって彼らと交流する気はなかったのだが、この層で釣りを楽しむ常連プレイヤーは何というか『変わっていた』。ニシダさんの話ではゲームを楽しむ目的でログインしたのではなく、業務上の関係やら何やらで閉じ込められてしまった高齢のプレイヤーが中心になって結成した釣り師ギルドのメンバーのため、悪し様に言えば皆《世捨て人》なのだという。

 

 彼らはゲームクリアを望んではいてもどこかで諦めてしまっている。モンスターと戦う気力が持てないために早々に剣を握ることを放棄し、のんびり竿を振る毎日を送っているのだ。自殺をするほど差し迫った憂慮もなく、さりとて能動的に駆けるに足る未来への展望もない。故に世捨て人。

 

 彼らの内の幾人かはユイのカーソル非表示にも気づいていたし、俺が最前線のプレイヤーであることにも察していたようだが、そのことに言及された事は一度もなかった。俺としても変に気負わなくて済むのが有り難かったことを否定しない。それに自棄になられるくらいなら、こうして静かな余生を送っていてもらったほうがずっと良いだろう。

 

 ――いずれこのゲームは俺が終わらせる。それまで生きていてくれれば十分だ。

 

 そんなニシダさん主催の《湖の主釣りイベント》にお呼ばれされ、時間の都合もつくと頷いた以上、遅刻するわけにもいかない。時間にやや余裕を持たせ、十時の半ばを過ぎた頃に俺とサチは外出の準備を終わらせ、ログハウスを出発した。

 軽妙に弾む会話を交わしながら22層に点在する湖畔目指して歩を進めていく。周囲に目をやれば背の高い針葉樹の隙間から柔らかな光が差し込み、地面を明るく照らしていた。隣を歩く少女の歩幅に歩調を合わせ、ゆっくり流れ行く景色を楽しむ。既に何度も歩いたことのある道だ、俺とサチの足取りも軽かった。

 

「今日は天気が良くて風も気持ち良いね。こんな日はお布団を干したくなっちゃうよ」

「所帯じみてるなあ。そもそもアインクラッドでは洗濯の機会もないだろうに」

「すぐそうやって茶々入れない。キリトだってお日様の光をいっぱい吸い込んだふかふかベッドが好きだって言ってたじゃない」

「そういやそんなことを言ったこともあったな。どうせならこっちの世界でもあの感触を再現してくれればいいのに」

 

 ゲームマスターに要望でも送ってみるかと冗談交じりに笑う。サチが「それ、いいかも」と生真面目な顔でつぶやくのを眺め、さらに笑みが深くなるのを自覚した。

 サチと連れ立ち森を抜けると、きらめく水面が美しい広大な湖が視界いっぱいに広がる。俺達のような見物客を含めイベント参加者は既に大半が集まっていたようで、そこかしこにプレイヤーの姿が見える。見た限り年配のプレイヤーだけでなく若手の釣り師も招待されているようだ。

 

 さてニシダさんはどこに、と改めて周囲を見渡そうとした時、俺達の到着に気づいたのかずんぐりした一人の男が近づいてきた。深い年輪が刻まれた額の下、黒縁の眼鏡の奥には柔和な目元が覗いている。日除けの帽子を左手に、年季の入ってそうな長大な釣竿を右手に携え、『三度の飯より釣りが好き』と豪語する、アインクラッドで最年長に当たるであろうプレイヤーが朗らかに笑って挨拶を口にした。

 

「今日はこんな年寄りの道楽に付き合ってもらってすみませんな。もしやご予定がありましたか?」

「いえ、俺も今日は息抜きをしたかったのでニシダさんに誘って頂けて感謝してます」

「それはよかった。湖上でボートに揺られるような優雅な楽しみ方ならともかく、私のような老体が興じる釣りイベントでは若人のデートスポットに不向きですからな。お二人の邪魔をしてしまったのではないかと戦々恐々しておりました」

 

 そう言って俺とサチを交互に見やるニシダさんはまるで孫に向けるような、という形容がぴったりの眼差しをしていたと思う。

 考えてみればニシダさんくらいの年齢だと実孫がいてもおかしくないんだよな……。俺達を気にかけるのもそのせいかもしれない、あるいはユイの姿が見えなくなったことを心配してくれているのか。

 

「そんなことはありませんよ。なあサチ?」 

「うん。……あの、ニシダさん。私は普段街に篭りがちで、ギルドの皆にたまには羽を伸ばしてこいって心配されちゃうくらいなんです。ですからこういうイベントはとっても新鮮ですし、なによりこうしてキリトと一緒にお出かけできるだけで私は嬉しいですから」

「ほほう、これは一本取られてしまいましたな。いや、若いというのはすばらしい」

 

 淑やかに微笑むサチの姿にニシダさんは虚をつかれたように目を瞬かせるも、すぐに好々爺然とした佇まいを取り戻して「愛されてますな、キリトさん」と破顔一笑するのだった。

 

「ところでキリトさんは見学だけと仰っていましたが、こちらのほうに興味は?」

 

 そう言って右手の釣竿を示してくるニシダさんなのだが、これはもしや同好の士を増やそうとしているのだろうか? 残念ながら俺は戦闘関連のスキルしか取っていないから釣りスキルを持っていないし、よしんばスキルスロットに取得する余裕が出来たとしても育てる時間までは取れそうにない。

 

「釣りには興味ありますけど、趣味にするにしてもすぐに実践するのは難しいですね。今日のところはニシダさんの歴戦の強者ぶりを拝見させてもらいますよ。大物を釣り上げる瞬間を見せていただけるんでしょう?」

「わっはっは、これは是が非でも湖の主を釣り上げねばなりませんなあ」

「おーい、ニシダさんやい、折角のゲストを独り占めにするもんじゃないぞ。俺らにも紹介してくれや」

 

 大仰なくらいに胸を張るニシダさんだったが、そのひょうきんな仕草と朗々と響く笑い声に周囲のプレイヤーの耳目を集めてしまったらしい。すぐさまからかいの混じった野次が飛んでくると、ニシダさんが「これはいかん」と俺とサチを促し、湖の畔へと誘っていく。

 どうも彼らは既に釣りコンペを楽しんでいたらしい。それぞれが散らばって釣りに勤しんでいる場所にお邪魔し、ニシダさんに紹介してもらいながら挨拶や世間話に興じ、のんびりとした時間を過ごさせてもらう。どの層のどんな時間帯でこんな魚が釣れたという自慢話や、もし釣りをしてみたいならあそこの店にいけば初心者ご用達の道具一式が揃うだとか、皆が皆陽気に話しかけてくる。

 

 俺はそれなりに楽しめていたのだが、サチはどうだろうと時折隣に目を移すも、いらぬ心配だったらしい。口数は少ないものの表情は柔らかく、纏う空気も優しい。どうやらサチなりにリラックスした時間を過ごせていたようだ。

 しかし、釣りの魔力恐るべし、とでもいうのだろうか? この場には三十人そこそこの釣り師仲間が集まっていたようだが、年齢も見た目二十そこそこのプレイヤーからニシダさんのように五十を超えるような年長者まで幅広い。それどころか皆の出身、階層拠点もてんでばらばらで、今日はニシダさん主催のイベントのためにわざわざ足を運んでいる者も珍しくなかった。この様子だとニシダさんは現実世界の会社勤めでも部下に慕われる良き上司だったのだろう。

 

「皆さんそれぞれ楽しまれているところ恐縮ですが、一時切り上げてこちらに注目していただけますか」

 

 二度拍手を打つ音が聞こえ、そちらに視線が引き寄せられるとニシダさんが朗々と本日のメインイベント《湖の主釣り決行》を宣言するところだった。長大な竿を高々と掲げたニシダさんのパフォーマンスに場がどよめき、皆がやんややんやと囃し立てる。なんだか決闘宣言時のノリのよさを彷彿させるなあと頷きかけて、その物騒な感想に苦笑が漏れてしまう。我が事ながら感覚がおかしくなっているらしい。

 

「サチ、俺たちは邪魔にならないよう少し離れていようか」

「うん、わかった。それと飲み物用意してきたんだけど、どうかな?」

「ありがたく貰う」

 

 イベントの邪魔にならず、さりとて決定的瞬間を見逃すことのないよう視界をキープできる場所を物色し、アイテムストレージから使い捨てのレジャーシートを取り出すとサチと二人で腰を下ろす。程なくサチが差し出してくれたカップを受け取り、喉を潤した。甘酸っぱい果実の旨みが口いっぱいに広がっていく。

 

「わ、おっきい餌だね」

「あんなのを餌にするなら、ニシダさんが狙う獲物だって比例してでかくなるってもんだよな」

 

 サチの驚きはニシダさんの構えた竿から伸びる、太い糸に括りつけられた特大のトカゲを目に映してのものだった。大人の二の腕ほどもある大きさを誇り、ぬめぬめとした皮膚は赤と黒で彩られて如何にも毒々しい。

 

 トカゲそのものは22層の主街区《コラル》の道具屋で手に入るアイテムだ。釣りに使う餌としてはある種異様なほど高額の値段で売られている。

 ニシダさんは以前物は試しとそのトカゲを購入したことがあり、22層の湖であれこれ試した結果、唯一難易度の高い設定がなされている釣り場――つまり現在俺たちの前に広がる湖でヒットするところまではこぎつけたらしい。しかしニシダさんの筋力値では湖の主を釣り上げるまでは至らず、口惜しくも逃がしてしまう結果となったようだ。今日はそのリベンジも兼ねているとのこと。

 

「さてさて、どうなることやら。釣りスキルに《スイッチ》は応用できるものなのかね」

「ニシダさんの力じゃ引っ張りきれないから、途中でパワー自慢のプレイヤーと交代するんだっけ? キリトがやってあげたほうが確実なんじゃないの?」

 

 釣りスキルの高いニシダさんが獲物を引っ掛け、足りないパワーを補うために別のプレイヤーとの釣り版《スイッチ》の併せ技で挑む。そのシステムの穴を突こうとする試みが面白そうだと思ったからこそ俺も見物することにしたのだった。

 

「釣りスキルがなくてもシステムがスイッチを許容してくれるならやってもいいな。でも、多分大丈夫だと思うぞ。言い方はあれだけど所詮22層の獲物でしかないんだし、中層クラスのレベルさえあれば必要筋力値は十分満たせるだろ」

「んー、もしかしてニシダさんの隣にいる人と知り合いだったりする? さっき少しだけお話した時、何だか不自然な態度だったけど」

 

 そう言って小首を傾げて思案顔で尋ねてくるサチに内心で鋭いな、と評価を送る。大声で話すことでもないため、サチの耳元に口を寄せてそっと事情説明をすることにした。

 

「あの人な、昔攻略組にいたプレイヤーなんだよ。迷宮区で俺と顔を合わせたこともあるし、最前線からドロップアウトしてのんびりしてる現状が後ろめたかったんじゃないか?」

「ああ、それでキリトに対してよそよそしかったんだ。うん、わたしも聞かなかったことにする」

「そうしてくれ。……お、始まるみたいだぞ」

 

 しん、と静まり返った観衆の中、これから強敵に挑むと言わんばかりに表情を引き締めたニシダさんは大上段に竿を構え、「せやあッ!」と気合の篭った叫びを発した。堂に入ったフォームから繰り出された竿の一撃は、綺麗な放物線を描くトカゲの小旅行と化し、かなりの飛距離を稼いだ後に水しぶきをあげて着水、湖の水面を貫いて水底へと潜り込んでいった。

 

 アインクラッドではその生活の多くが簡略化されている。料理然り、裁縫然り、鍛冶然り。釣りスキルも例外ではなく、仕掛けを釣りスポットに放り込めば一分もしないうちに成否判定が出る。

 今回はどうなるか、と興味深く水面に描かれた波紋の中心を眺め、次いで今か今かと竿を引き上げるタイミングを図っているニシダさんの真剣極まりない表情を視界に収める。俺とサチのみならず、ギャラリー全てがニシダさんの一挙手一投足に注目していた。

 

「いまだッ!」

 

 その掛け声を合図にニシダさんが力強く竿を引き上げようと全身を反らすと、細い糸が空気を揺らす独特の効果音が俺たちの元まで届いた。そのまま「あとは頼みます」と後事を託された元攻略組プレイヤーへと場所を譲り、周囲と同じように頑張れと声援を飛ばす。

 ニシダさんの執念が実ったのか、スイッチ行動も遅滞なく行われたようだ。交代したプレイヤーが綱引きするように少しずつ両足を後退させ、それに伴って水面に巨大な影が迫っていた。

 

 いよいよ《湖の主》がその全容を見せるのかと見物人が一斉に水際へと駆けていき――そこでくるりと振り返ると、何故か全員一目散に逃げ出した。俺達の座る場所よりもさらに後方、土手の上へ目指して走り去っていく。

 

「キリト……。私、なんだか嫌な予感がする」

「俺もだ」

 

 やがて逆向きの滝のような水流があがり、ややあって水飛沫がおさまる。そうして俺達の視線の先、皆が注視する岸辺には一匹の魚が立っていた。うん、『魚が立っていた』という表現がおかしいのは自覚しているが、そうとしか言いようがないので許してほしい。

 二メートルを楽に越す全高、五メートルを数えようかという全長。ずんぐりした巨大な体躯の左右には三対六本の足が存在し、冗談ではなくその巨大魚は地面をしっかりと踏みしめ、俺達を見下ろしていた。プレイヤーを丸呑みできそうな巨大な口から、先ほど餌として使ったトカゲの足がはみ出ているのがシュール極まりない。

 

 ニシダさんが助力を得て釣り上げた魚はもはや魚ではない、どう見てもモンスターである。モンスターを示す黄色いカーソルとHPバーも存在するため確定だ。

 クエストなしでも出現するイベントモンスターか、レアだなあ……。

 

「キ、キ、キリトさん! 暢気に座ってないで逃げてください! 若奥様も早く……!」

 

 ボス顔負けの咆哮をあげ、その見た目に似合わぬ俊敏さで地響きと共に迫り来る巨大魚をバックに、慌てふためいた様子で逃げ出す途中、俺とサチに避難を呼びかけるニシダさんの顔はすっかり青褪めていた。この異常事態にあっても他人を気遣える心根は得がたいものであろうし、だからこそ皆に慕われてもいるのだろうけど……あの、俺が攻略組の剣士だってこと忘れてません? ついでに言うと俺はサチと婚姻を交わしているわけではないので、若奥様は誤りだ。って今はそんなことを考えてる場合じゃないか。

 

 あの巨大魚を釣り上げたプレイヤーなら逃げなくても退治できそうな気がするが、突然のことでパニクったか、あるいは武器を用意してこなかったのか。この層はモンスターが湧出しない特殊マップ続きであるため、武器がなくても特別困るようなことは起こらない。無用心だとは思うが、それをここで指摘しても無意味だ。

 

「サチは逃げなくていいのか?」

 

 まずはスローイング・ダガーを取り出し、規定のモーションを取って《投剣》スキルを発動。これでタゲ取り成功っと。

 ぎょろりと巨大な目が向けられるのを黙殺し、淡々と作業を続ける。アイテムストレージから二本の剣を取り出す間、やけに落ち着いた様子で動く気配を見せない少女へと問いを向けた。

 

「キリトが逃げろって言わないからこのままで大丈夫かなって。生意気だった?」

「そこまで信頼してもらえると誇らしくなるな」

 

 ふっと笑う。

 

「サチはそこで見ててくれ、すぐに終わらせる」

「うん。頑張ってね、キリト」

 

 サチの声援を受け取り、両手に握った剣の感触を確かめながら一歩踏み出す。俺に向かって突進してくる巨大魚を見据え、先制の一撃からソードスキルへの大技につなげるのは造作もないことだった。今更22層の、それも釣りイベントで出てくるようなモンスターに苦戦する道理はない。

 明日の景気づけという意味で俺が放ったのは、俺の十八番にして二刀流上位スキル《スターバースト・ストリーム》。

 

 さて、この選択の顛末を述べるならば次の一言で事足りるだろう。すなわち、《オーバーキル》である、と。

 

 

 

 

 

「いやー、圧巻でしたなあ。キリトさんがお強いとは聞いてましたが、想像のはるか上でしたわ」

 

 不意のアクシデントを乗り切り、俺の調子に乗ったパフォーマンスに興奮覚めやらぬ中、ニシダさんがイベント終了と解散を告げたのが数十分前。俺とサチはニシダさんを伴い、場所を俺のホームに移して卓を囲っていた。

 

 テーブルの上には数々の魚料理が並んでいる。ニシダさんが提供してくれた魚をサチに調理してもらったものだ。幸いアスナがおすそ分けしてくれた醤油が残っていたため、刺身や煮付けを存分に楽しめる贅沢な食卓となった。後でアスナに礼を言っておこう。

 懐かしい醤油の味に飢えていたニシダさんの喜びはすさまじく、それはもう筆舌に尽くし難い感謝を述べられてしまった。俺とサチはそんなニシダさんに揃って目を丸くしていたものだ。

 

「不謹慎ですがあの突発的なアクシデントもあってイベントは大盛況でした。これもキリトさんのおかげです」

「怪我人もなく終わりましたからね、終わりよければ全てよしとしておきましょう。俺も楽しかったですよ」

 

 こうして釣りスキルが高くないと味わえない珍味まで楽しめてますし、と付け加えると「それはよかった」とニシダさんも笑う。

 

「しかしよろしかったのですか? 折角キリトさんが手に入れたドロップアイテムを私がタダで頂いてしまいましたが」

 

 先程の巨大魚を倒すとドロップ品として白銀に輝く釣竿が出現した。それを俺はニシダさんへと譲ったわけだが、それを申し訳なく思ったニシダさんが今日釣った魚をお返しにと言い出したことが三人で囲む昼食会の発端だった。

 

「俺が持っていたって使い道もないですし、宝の持ち腐れも良いところですから」

 

 そうは言いますが、とまだ申し訳なさそうな素振りを見せるニシダさん。

 俺としてはコルに困っているわけでもないし、ニシダさんに譲った釣竿が高価なものだとも思えない以上、手元に残しておく価値のないアイテムだった。さて、どう言いくるめようか。

 

「ではこうしましょう。明日、お暇なら75層のコロシアムで行われる決闘イベントを見物しにきてくれませんか? できれば今日の参加者にも声をかけていただければ嬉しいですね。……ニシダさん達にはあまり楽しめる催しではないかもしれませんけど、気分転換くらいにはなるのではないかと」

「……参りましたな、どうやら気を遣わせてしまったようだ」

「ご自分で《世捨て人》と言い捨てていたくらいですし、自覚はあったのでしょう? 心配させていただくわけにはいきませんか」

 

 俺のような若造が何を言ってるんだか、と内心の自嘲を押し止めて続きを口にした俺に、ニシダさんは穏やかな眼差しで「ありがたいことです」と頭を下げたのだった。

 

「出すぎたことを申し上げました」

「いやいや、こういうのは発破をかけられているうちが華なのですよ」

 

 手前味噌ではあるが、明日の決闘イベントはそれなりの話題性を持っていると自負している。事実アインクラッド全体が明日のお祭り騒ぎに向かいてんやわんやになっているのだ。そんな時だというのに、今日の参加者は周囲の喧騒など知らぬとばかりにマイペースを貫いていた。その無関心さが何に起因するのか、想像は容易いだろう。

 

 無論、それを察した上での誘いは単なるお節介である。放っておいてくれと考えている人達を、無理やり引っ張っていくような真似は本来好ましくない。俺のような若造よりもよっぽど人生の辛酸を舐めてきた人達だ、余計なお世話だと言われないだけマシだった。

 

「私共も情けない、とはわかっているんです。今でもキリトさんのようにゲームクリアを目指して戦い続けているプレイヤーがいることは知っていますし、あなた方を応援させて頂いていることに変わりはありません。ですが、その一方で今更帰っても、と諦めてしまっている自分もいるのですよ」

 

 二年という月日は長かった……。

 そう力なく零すニシダさんの顔には、途端に老け込んでしまったかのような色濃い疲労が顕著に現れていた。

 

「キリトさんには私が電気屋の世界で働いてきたことは話しましたな。ご存知のように技術は日毎に進歩していくものですし、茅場氏の登場によって仮想世界を実現させる種々の技術が確立され、既存の知識も軒並み塗り替えられてしまいました。私とて技術屋の端くれです、ずっと第一線で張って来た意地がありましたから、その加速する技術革新にもどうにかしがみついてきたのですよ」

 

 ですが、と。

 

「ここに二年も閉じ込められてしまいましたからな。これから残り25層がクリアされるまでどれほどの年月が必要なのか、よしんばこの世界から開放されても会社に戻れるのか、首尾よく復職できたとして《今の技術》についていけるのか。そうした先々のことを考えるとどうにも気力が削がれてしまいましてな。その結果が全てに目を背けて竿を振る享楽の日々です。まったく――良い歳をした大人が情けない限りですよ」

 

 悲嘆の内容の割に平素な口調で語ってくれたのは、おそらく俺とサチへの気遣いがあったのだろう。長く生きてきた人生の重みがそこかしこに感じられる、そんな一人の男の述懐に俺が気軽な慰めを挟めるはずもなかった。

 ソードアート・オンラインはその内に閉じ込めたプレイヤーから多くのものを奪った。ゲームクリアをしたからといって返って来ないものはたくさんある。

 

「……昔、といっても数ヶ月前のことですが、俯いてばかりいた俺に『後ろを見ないで前を向け』と忠告してくれた人がいました。俺が不幸になるなら自分も不幸になってあげるとまで言ってくれた女の子もいます。俺はこの世界に来てから、自分がつくづく後悔の仕方が下手な人間で、反省の生かし方を知らない子供であることを突きつけられましたよ」

 

 きっと俺はこの時笑っていたのだろう。笑って自身を語れるようになっていた。

 俺はたくさんの人に支えられて生きてきた。そんなことにすらなかなか気づけなかった間抜けだけれど。

 

「未熟者は未熟者らしく、今は前だけを見ることに決めたんです。ニシダさん、俺はこの世界を終わらせますよ。それがいつかまではお約束できませんが、必ず訪れるその日までどうか壮健で在られますよう、伏してお願い申し上げます」

「……ひたむきさは若者の特権と言われますが、キリトさんはお強いですなあ。この老骨には些か眩しいくらいです。こうして向き合っているだけで感じ取れる若々しいエネルギーがとても頼もしく思えますよ」

 

 私も人生これからだと思わされてしまう、と相好を崩すニシダさんの言葉を素直に受け取っておこうと思った。社交辞令と断ずるのは寂しい。

 

「この世界に来た意味、この世界での出会いにも意味はあったのだと信じたいだけです。俺はずっと最前線で戦ってきました。別に人に誇れるような理由で戦ってたわけではありませんし、最近では開き直って剣を振ることに楽しみを見出していたりもします。それでも――現実世界に帰れたなら、その時はもう二度と仮想世界に関わるものか、って考えてました」

「今は違う、と聞こえますな」

「ええ。この世界への腹立たしい思いは残ってますし、茅場晶彦を許せない気持ちが消えたりはしないでしょう。ただ、そんなことよりも大事な事が出来ました。もう一度会おうと約束した子がいるんです。俺を父と慕ってくれたその子のためにも、俺は仮想世界に関わり続けることになると思います」

 

 ユイのデータを展開させるための情報空間が必要だ。そのためにも仮想世界との関わりを絶つわけにはいかなかった。

 

「そうした事情を抜きにしても、この世界で体験した感覚についても検証してみたいんですよ。例えばソードスキルの代わりに各種スポーツの動きを再現して、こっちで体験したセミオートの感覚を現実の世界にフィードバックできないかな、とか。現実世界と仮想世界の差を埋める、相互の感覚共有を上手く進められるなら仮想世界の可能性は飛躍的に広がると思うんです」

 

 例えば俺に馴染み深いスポーツ――剣道に限定しても、正しい型の習得や足運びを仮想世界で学んだほうが効率が良いかもしれない。世界最高峰のアスリートの動きを解析し、トレースすることで一流選手の動きを自分自身でセミオート体験できれば、何かしら波及効果を現実世界でも期待できるかもしれない。

 ソードスキルを構築した技術があれば十分可能だろう。そのアプローチ如何ではスグの剣道上達の助けにだってなれるかもしれない。もっとも今はその全てが取らぬ狸の何とやらでしかないのだが。

 

「開発者自らのデスゲーム宣言によってこの世界は滅茶苦茶にされてしまいました。現実世界で俺達が巻き込まれた事件のほとぼりが冷めるのは十年単位の時間がかかるでしょうけど、このまま仮想世界の持つ可能性を潰してしまうのは勿体ないって気持ちもあるんです」

 

 俺が大学を出て大学院に進学、あるいは何処かの企業に就職するまでの間に、仮想世界を対象にした規制が緩やかになっていればいいなと思う。

 

 10年後、世界がどうなっているのか。

 別にMMOが禁止されていようが構わない。限定的な仮想空間の作成と維持さえできればひとまずユイと再会することは可能だし、俺のやりたいことだって出来るんだから。

 

 ただユイのために広い世界を用意するなら相応の設備が必要で、そのためには相応の維持費もかかるし、それは一個人で賄えるものではないだろう。そうなると現実的な方策としてアーガスのような仮想世界に関わる会社に就職して顕職に就くか、さもなければ一から会社そのものを立ち上げるなんてことも視野に入れておかなければならない。

 いずれにせよ現実世界に帰ってからの話だし、あちらで仮想世界の扱いがどうなってるかもわからないため、明確な進路を想像できないのが正直なところだ。衰えた肉体のリハビリをこなし、家族に心配かけた分の孝行もしなきゃならないだろう。やる事がいっぱいで頭がパンクしてしまいそうだった。

 

 今は絵空事でしかない突飛な空想を、ニシダさんは終始穏やかな顔で聞き入っていた。途中からはニシダさんも自身が携わっていた仕事内容を開帳し、長い会社勤めの中で体験した成功談、失敗談を面白おかしく話してくれたりもしたのだった。元々話し上手な人だからか、時折俺とサチの笑い声が上がるほどだった。

 

「実に良い――元気の出る話を聞かせてもらいました。キリトさんのような方が最前線を戦ってくれているのなら、そう遠くない内にこの世界からの脱出は叶うのだと信じられます。私は何の助けにもなれませんが……応援だけは最後までさせていただきますよ。差し当たっては明日の催しを見物させてもらいますかな。もちろん皆に声をかけて応援席に詰め掛けます」

「ありがとうございます」

 

 握手を求めてきた釣り師に快く応えると、「頑張ってください」と心の篭った激励を貰った。その顔は晴れ晴れとしたもので、幾分か若返っているようにも見えた。

 

「ニシダさん」

 

 サチにも丁寧に挨拶を述べ、「それではこれで」と辞去しようとする折に声を差込み、振り向いたニシダさんに悪戯な顔で一つのお願いを口に出した。

 

「現実世界でもし出会うことがあったら《これ》、教えてもらえませんか?」

 

 そう言って釣竿を振る動作をして見せるとニシダさんは驚きに目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして頷くと、「私でよければ喜んで!」と朗らかに承諾を返してくれたのだった。

 

 

 

 

 

 改めてニシダさんを見送り、ログハウスへと戻る。サチと二人きりになったログハウスのリビングでは非常にゆったりとした時間が楽しめた。俺はソファーに身を埋め、サチは機嫌が良さそうに昼食の後片付けに手足を動かしている。

 当初は食器を片付けるサチの手伝いをしようと申し出てはいたのだが、「キリトは座ってて」とあえなく押し止められてしまったのだ。そのため、こうして大人しく午睡の時間に宛てている。俺にしてみれば食器や調理器具の片付けや調味料の整理整頓などは面倒な作業としか映らないのだが、サチにとっては少しばかり意味が異なるらしい。とても楽しそうだった。

 一段落した頃を見計らい、サチに休憩するよう促すと「うん」と俺の隣に腰を下ろす。俺もだらしない姿勢から一転、居住まいを正した。

 

「キリトは将来のことも色々考えてるんだね。ちょっとびっくりしちゃった」

「こういうことがしたい、って漠然と考えてる程度だし、大っぴらに語れるようなものじゃないけどな。あっちの世界がどうなってるかもわからないしさ」

 

 サチはどうなんだと話を振ってみると、「私は考えたこともなかったよ」と苦笑気味に返されてしまう。

 

「そっか。なら折角だし少し考えてみるのもいいかもな。心配しなくていいぞ、サチは俺が必ず現実世界に帰すから」

「ありがと、キリト」

 

 人差し指を顎に当てて可愛らしく悩むサチの姿を見ていると、自然とほのぼのとした心地よさを感じてしまう俺だった。エプロンを着用して清楚に振舞う彼女に眦が下がるのを自覚する。いかんいかんと気を引き締めたところでサチの自問自答も終わったらしい。

 

「これだっていうのは出てこないけど、私はユイちゃんみたいな小さな子に関わるお仕事に興味があるかも」

 

 ユイちゃん可愛かったから、と口にするサチの言葉に全面的な同意を示す俺である。

 ユイは可愛い。世界一可愛い。

 

「そうなると小学校の先生……あるいは保母さんあたりか」

「そうだね、向こうに戻ったら勉強してみようかな」

「確かにサチには似合ってそうだけど、問題もあるぞ?」

「な、なに?」

「サチが粗相をした子供を叱り付けてるとこが全く想像できない」

 

 ちょっとだけ脅しあげるような気分で声を重くした俺に、これまた素直な怯えをみせてくれるサチ。そのままもっともらしい発言を続けると、サチは拗ねたように唇を尖らせてしまう。

 

「サチは内気なところがあるからなぁ、悪ガキの相手はちょっと難しいんじゃないか?」

「もう、目が笑ってるよキリト」

「悪い悪い。でも、もしサチが教育とか保育に興味があるならサーシャさんに話を聞いてみるのも良いかもな」

「サーシャさん? はじまりの街で年少のプレイヤーを保護してる人のことだよね?」

「そ。あの人、現実世界じゃ大学生で教育学部に通ってたらしいから、相談してみれば色々アドバイスもらえるんじゃないかと思うんだ。教会にはアルゴも支援って形で関わってるようだし、その伝手でサーシャさんを手伝ってみるのも良いかもな。きっと歓迎してくれるぞ」

 

 ただし軍の解散がされたばかりのため、本格的にはじまりの街に出入りするのはもう少し様子見をしてほしいところだ。シンカーの手腕に期待したいところだな。

 

 サチの「考えてみるね」という言葉を最後に、再び静けさが戻ってくる。昼過ぎの暖かな空気が部屋を満たし、殊更時間の流れをゆるやかにしているようだった。

 ユイがここにいたらどうなっていただろう、そんなことをふと考えてしまった。サチの膝を借りてお昼寝タイムにしたがるだろうか。それとも俺に遊んでほしいとじゃれついてくるかも。

 

「キリトはこれからますます忙しくなりそうだよね。私は最前線のことはよくわからないけど、キリトがここまで大袈裟なことをするんだから何か大きな意味があるって思ってる」

「まあどういう結果になるにせよ、攻略組が大きく動くことは確かだろうな」

 

 そのつもりで策を練ったのだし、どう転んでも明日を境に様々な変化が訪れるだろう。激流の変転を迎えるのか、それとも緩やかな流れに留まるのかまではわからないが、願わくばその中で最良の未来を掴みたいものだ。

 そんな風に明日の決闘へと思いを馳せる俺を、サチは真剣な表情でじっと見つめていた。

 

「……やっぱり、今の内に話しておくべきだよね」

「どうした?」

「大事なこと、だよ。私にとって。キリトにとって。そして多分――アルゴさんにとって」

 

 わずかに驚かされたものの、すぐに然もありなんと納得してしまったのは何故だったのか。サチがアルゴと親しいことを知っていたからだろうか。

 

「私ね、今でもキリトとずっと一緒にいたいって思ってるよ。私の気持ちはキリトと出会った頃のまま少しも変わってない。ううん、あの頃よりも強くなってる」

 

 ――たとえ、キリトの一番が私じゃなくても。

 

 そう言ってふわりと微笑むサチに見惚れなかったと言えば嘘になる。それくらい今の彼女は魅力的だった。可愛らしくて、綺麗で、思わずこの手に抱きしめたくなってしまうほど。

 

「俺もサチのことが好きだよ。君の気持ちに応えることは出来ないけど、大好きだ」

「変わらないね。キリトの気持ちも、キリトの答えも以前のまま」

「責めてくれていいぞ」

 

 俺がアルゴの胸で泣いた日から、些か不健康な関係を結んだままついにこんなところまで来てしまった。それが間違っていたとは思いたくない。だが、それは……。

 我知らず浮かんだ苦笑は、俺が俺自身を馬鹿者だと思っているからだろうか。俺もアルゴも大馬鹿を続けている。

 

「私も厄介な男の人を好きになっちゃったなあって思うけど、好きになっちゃったものはしょうがないかな。でも、キリトはアルゴさんのこと、今のままでいいの? それで後悔したりしない?」

「……さあ、どうだろうな。でもまあ、こう見えて結構我慢強い男なんだぜ、俺」

 

 それは強がり以外の何者でもなかったが、強がる他に選択肢もなかったように思う。そんな俺の内心を見透かしているかのようにサチは困った顔で一つ息をついた。

 

「キリトもアルゴさんも頑固だよね。二人とも意地を張って、どっちも素直じゃないんだもん」

「違いない」

「……ねえキリト。変わらない気持ちがあるように、変わっていく関係があっても良いって私は思うんだ。ううん、変わっていくべきなんだと思うよ?」

 

 そうして俺と真正面から目を合わせ、迷いなく言い切るサチに気圧されてしまうのを止められなかった。困ったことに反論できないのだからどうしようもない。

 

「サチは時々意地悪になるよな」

「そうかな? でも、それはキリト限定だと思うよ」

 

 光栄だ、と苦笑を零す。

 

「心配ばかりかけてごめん。それと、何かアルゴに言われたか?」

「それは女同士の秘密かな。むしろ聞いたらキリトがへこんじゃうかも」

「お前らは俺のいないところで一体何を話してるんだ……」

 

 どうもあいつはお節介というか、俺の知らないところで動き回ってるみたいなんだよな。この前はアスナとお茶会を開いたとか言ってたし、この分だとどこまで手を広げているのやら。

 

「あはは、冗談だよ。キリトが想像するほどアルゴさんは多くを語ってくれてないと思う」

 

 滅多に本心を見せてくれない人だから、と寂しそうに笑うサチだった。

 

「きっとアルゴさんが素顔で接してるのはキリトだけなんじゃないかな。だけど、同じ女の子だからこそわかる、ううん、感じ取れることもある。何ていうのかな、あの人は私やアスナさんとは『違う』気がするんだ。アルゴさんが見てるもの、求めてるものは私達の抱くそれとは根本的にずれてるような気がする」

 

 ――キリトは『それ』を知ってるんでしょう?

 

 じっと目で訴えかけられ、確信に満ちた問いを向けられて、俺は思わず視線を外してしまっていた。

 女の勘ってのはすごいな、皮肉でも何でもなくそう思う。それ以上追及する意図がなかったのか、それとももう答えは必要なかったのか、そこでサチはふっと力を抜き、柔らかく微笑んだ。

 

「私ね、ずっと前に『欲しいものがあるのなら手を伸ばさなきゃ駄目だヨ』ってアルゴさんに言われたことがあるんだ。私はもっと我侭になるべきなんだって」

「確かにあいつなら言いそうだ」

「だからっていうのも変な感じだけどさ。私、キリトはもっと我侭になっちゃっていいと思う」

 

 悪戯っぽい表情でサチは語る。楽しそうに――そして、少しの寂しさを押し隠して。

 

「はっきり言ってくれるなあ」

「私、キリト限定で意地悪な女の子だもん」

 

 参ったなあ。ほんと参った、どうしてサチはこんなにも優しいのだろう。

 

「サチ」

「なぁに、キリト」

「このまま君に告白していいか?」

 

 一瞬目をぱちくりさせ、それからくすりと口元を綻ばせるサチから妙な色っぽさを感じたことは、ひとまず秘密にしておくべきだと思った。

 

「そうしてくれるならとっても嬉しいけど、今キリトに男女交際を申し込まれたら断ると思うよ、私?」

「サンキュ。俺もそこまで器用になれそうにない」

「大丈夫だよ、私が好きになったキリトはそういう人だから」

 

 軽く肩を竦め、お互いに顔を見合わせるとその場にしめやかな笑い声があがった。穏やかに流れる空気はそのままに、触れ合う心がこそばゆい。身に染み入る優しさというのはこういうものなのかもしれない。

 キリト、と隣に腰掛け、耳に優しく呼びかけてくれるサチの声が心地よく、その瞳に俺という男が映っていることがこの上なく誇らしかった。時折サチの声に、その挙動に、その優しさに抗い難い魅力を感じることも、この期に及んで否定する気はない。

 

「後悔だけはしちゃ駄目だよ」

「ありがとう。……それと、ごめん」

 

 俺はきっと後悔するのだろう。だから――今は心からの感謝と謝罪を口にする以外に出来ることはなかった。

 サチは俺とアルゴの大よその事情も薄っすらと察しているのだろう、でなければわざわざ俺の気持ちを再確認しようとはすまい。

 

「ほんと、二人揃って頑固なんだから」

 

 それを否定なんてできないし、する気もなかった。馬鹿な男でホントすまないなと笑う。

 俺もアルゴもたくさんの人に迷惑をかけながら、それでも未だに不合理で不健全な関わりを続けているのだから呆れた話だ。二人きりで完結できる関係などないのだと改めて思い知らされるようだった。

 

「あ、そうだキリト。最後にもう一ついいかな?」

「この際だ、二つでも三つでも聞くぞ」

 

 それを口にするサチはとても楽しそうだった。

 

「キリトは私に将来のことを聞いたよね? ホントは私、この家でユイちゃんを寝かしつけたり、森でユイちゃんと手をつないでお散歩をしてて、『ああ、お母さんになりたいな』って思ったの。女の子としてウェディングドレスで身を飾るのも心惹かれる夢だけど、それ以上に家庭を築くことに憧れちゃったのかもしれない」

 

 私が想像した隣に立つ男の人はキリトだよ、と気負いなく告げるサチに、俺も穏やかな心持ちで返答を口にする。

 

「サチなら良いお嫁さんになるし、優しいお母さんになれるよ」

「ありがと、キリトもタキシードが似合いそうだよね。それに良いお父さんになるだろうし」

 

 それは過分な評価だと思うぞ?

 

「俺の場合は子供に駄々甘になっちゃいそうだけどな」

「ふふ、アスナさんからキリトがユイちゃんをちゃんと叱りつけたって聞いたよ。……また、ユイちゃんに会いたいな」

「会えるさ、約束する。向こうの世界に戻ったらまずはユイの眠りを覚ますことから始めるつもりなんだから」

「うん。約束」

 

 俺の言葉に嬉しそうに頷き、右手の小指を差し出してくるサチに笑って指を絡ませる。この歳で指きりをする気恥ずかしさは当然覚えていたのだが、サチの喜びの前にそんなものはついぞ意味をなさなかった。

 そのまましばらくの間、俺とサチは現実世界に戻ったらやりたいことのリスト作成に励み、面白おかしく盛り上がったのだった。

 

 

 

 

 

 サチの言葉は奇しくも俺の思いと合致するものだった。このままぬるま湯に浸っているわけにもいかないし、俺だっていつかくる『その時』をずっと考え続けてきた。

 予定外、いや、予想外のことも重なり、あるいはこれが最後の逢瀬になるかもしれない。そんな未練のような何かに心を焦がしながら、フレンド登録リストの中から該当者を呼び出し、素っ気ない一文を添えてメッセージを送り出した。返答はすぐに届き、幸い決戦前夜を一人寂しく過ごすことは避けられそうだと安堵の息をつく。

 

 夜風は日毎に涼しくなっていく。煌々と照る月がたなびく雲の隙間からゆらゆらと顔を出す幽玄の景観が広がり、味わい深くも静謐な一時には胸を締め付ける切ない風情があった。

 テラスに足を運び、明日の対決を見据えて月見の傍ら、剣戟のシミュレーションを繰り返していた頃、一人の女性が音もなく寝室に続く扉を開く。人の気配に振り向けば、そこにいたのは今日一日方々を飛び回っていた《鼠のアルゴ》だ。

 

「せめてノックくらいしないと不法侵入者にされるぞ」

「ご挨拶だナ。合鍵渡しておいてそれはないんじゃないカ?」

 

 そのパスワードキーを今日まで一度も使おうとしなかったくせに、と素直に口に出すのは悔しかったので聞き流しておく。

 

「親しき仲にも礼儀ありってことで」

「あいよー、次から気をつける」

 

 お互い本気で実践するつもりもさせるつもりもなく、軽口を叩き合うだけに終始する。俺達はいつもこんなことばかりしている気がして、たまらず忍び笑いが漏れた。

 

「つれないなあ。今日は特別な夜になると思って、オネーサン胸をドキドキさせながら来たんだゾ!」

「へえ、その心は?」

「だって珍しいじゃないカ、キー坊からオレっちを求めるなんてサ」

 

 くすくすと笑みを零すアルゴにからかわれ、ふと過去に思いを馳せた。俺だって男だし、珍しいと言われるほどストイックに生きてきたつもりはないぞ? アルゴに溺れてしまいたいと思ったことだって片手で数えられる程度にはある。

 

 空から降り注ぐ月明かりと、遠くから微かに届く街灯のみを光源としたテラスで月見と洒落込んでいたため、寝室の四隅に設置された照明用ランタンは作動させていない。窓から差し込むわずかな光だけが、暗闇の中、扉の前に佇むアルゴの姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 しかしながら、索敵スキルの補正で俺の視界は勝手に暗視モードに切り替わってしまうため、実際は風流を味わっているつもりなだけだったりする。もっともそのおかげで愛しい人の顔をこの目にしかと映すことが出来るのだから、それで差し引きとしてはお釣りがくるか。

 

 ところで――俺はアルゴを呼び出す際、さして修辞に凝ることなく『今夜は朝まで一緒にいてほしい』と率直に伝えたわけだが、懸想文というには些か彩りに欠ける口説き文句になっていなかっただろうか?

 それだけが心配だった。

 




 拙作では釣竿の《スイッチ》を、釣りスキルを持ったプレイヤー同士でないと成立しないシステム外スキルと位置づけています。
 プレイヤーホームの名義所有者以外にも一定数までスペアキーを設定できる仕様は拙作独自のものであり、建物の規模や購入金額によって上限人数が変わります。ただし宿のセキュリティと同様、内側から鍵を開けることは誰にでも可能なため、不慮の事故によって閉じ込められるような事態にはなりません。

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