ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第02話 オレンジは罪の色

 

 

 デスゲーム開始からおよそ1ヶ月。

 正確には26日が経過したその日の午後、ここはじまりの街に激震が走った。

 第一層フロアボス撃破。

 その報に皆が喜びの声を沸きあがらせたとき、その喜ばしい報告を持ち込んだ男はなぜか青褪めた表情で微かに震えていた。

 あまりの周囲との落差に歓声をあげた皆が首を傾げ、青髪の騎士へとその理由を尋ねた。

 青髪の騎士はすぐには答えなかった。答えたくない、というよりはどう言葉を選んだものか、と悩んでいるようにも見える。幾ばくかの逡巡。しかし歓喜に包まれたはじまりの街の住人たちの表情が時間と共に曇っていく様を見て覚悟を決めたのか、悔恨に沈んでいた瞳に決意の色を浮かべ、ようやくその重い口を開いた。

 

「第一層フロアボス戦において死亡者が一人でた。……ただし彼はボスに殺されたわけじゃない。彼のライフをゼロにしたのは、同じく攻略に参加したプレイヤーの一人だ」

 

 悲鳴はなかった。その代わりというべきか、誰もが息をのんでその事実に戦慄した。

 

PK(プレイヤーキル)……」

 

 呆然とした声で、誰かが口にする。

 人間であるプレイヤーが仲間であるはずの別のプレイヤーのライフをゼロにしてしまう、それがPK。プレイヤー同士の争いを助長させないようPKは大抵のゲームで禁止ないし制限されている。プレイヤー同士が戦うには専用に用意された場所に移動し、そこで初めて限定的に許可されるのがプレイヤー戦闘の常だった。

 しかしここアインクラッド、すなわち《ソードアート・オンライン》においてPKは禁止されていない。犯罪防止コードの働く街中では無理だが、フィールドや迷宮区のような、いわゆる狩場とされるエリアではプレイヤー同士の戦闘は何時でも可能な設定になっている。人間が人間を傷つけやすいシステムが採用されているのだ。

 

 もちろん無制限というわけではなくPKに対する抑止力も用意されている。意図的にプレイヤーを傷つけたと判定された場合、攻撃をしたプレイヤーは犯罪者認定をされ、その証拠としてキャラクターカーソルが通常のグリーンから犯罪者を示すオレンジへと変わる。そしてシステムにオレンジだと認定されたプレイヤーには様々なデメリットが付き纏うようになる、らしい。

 フロアボスを撃破することで初めて開放され、使用することができるようになる転移門がある。一層に一つずつ存在する主要都市をつなぐ転移門は、アイテムもコルも消耗することなく瞬時に層移動を可能とするもので、プレイヤーにとって大変利便性が高い有り難い代物だ。今回、第一層が攻略されたことで、この街にある転移門もようやく本来の機能を発揮できるようになるはずだ。しかしオレンジとなったプレイヤーは、ペナルティとして転移門を利用することが不可能になるらしい。以後、移動に尋常ではない苦労が伴うようになるだろう。

 

 さらには安全圏である主要な街への立ち寄りそのものが不可能となる。ガーディアンと呼ばれる鬼強いNPCが各街には配備されており、オレンジのプレイヤーが街に足を踏み入れるとすぐに発見され、問答無用で街の外へと叩き出されてしまうらしい。もっともそんな光景を見たものはいない。

 それはそうだ。なぜならソードアート・オンラインはただのゲームではない、命を賭けたデスゲームなのである。そんな状況で仲間であるはずの他のプレイヤーを傷つけ、ましてや殺そうとするなど全プレイヤーに対する裏切りだ。論外の行動だと言っていい。

 それを攻略の最前線、それも最も協力を必要とするであろうフロアボスを前に仲間割れを起こすだと? どこのとち狂った馬鹿だ。

 

「誰だよ、そんな馬鹿げたことをやったのは」

 

 誰かが怒りを押し殺したような低い声音で下手人の名を尋ねた。その疑問は今この場に存在する全てのプレイヤーの総意だったはずだ。それほどまでに愚かしく、許し難い暴挙だ。しかしそんなプレイヤー達の怒りや恐怖も、次の言葉で完全に吹き飛ばされてしまった。

 

 ――PKを行ったプレイヤーの名はキリト。《はじまりの剣士》キリト。

 

 第一層主街区はじまりの街を正しく激震が襲った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 第一層フロアボス攻略戦。

 デスゲーム開始から1ヶ月近くたってようやくこの時がきた。

 ここまでくるのに時間がかかり過ぎだとは思うし、実際にはじまりの街に残る選択をしたプレイヤーにとって、今の攻略速度は絶望するに相応しいものだっただろう。なにせ1層攻略に1ヶ月もかかっていては100層攻略するためには8年以上かかる計算になってしまう。それだけの時間が現実世界で経過していたら、たとえ帰還できたとしても帰還者本人は浦島気分だろう。その後の人生が悲惨なことになるのは誰だって想像できる。

 

 しかし全てが手探りに等しい中で石橋を叩くように攻略してきたのだ。慎重なレベル上げ、慎重なマップ情報の更新、戦闘の合間にNPC情報の収集、整理、精査。加えて、フロアボスを攻略するに当たりどういう手段で精鋭を集め、他人同然のプレイヤー間で協力体制を築き、そのなかの誰がリーダーを務めてボス戦を主導するのか。

 諸々を考えると1ヶ月で形になったことは十分評価できることだと俺などは思うのだ。特にデスゲーム開始から今に至るまで、我が身を強化するためのレベル上げと装備の更新、強化のみに全精力を傾けた身勝手さを自覚しているだけに。

 

 実のところ、フロアボスに通じる迷宮区最奥の扉の発見はもっと早かった。しかしプレイヤー間の相互情報交換を設ける機会がなかったため、組織的なパーティー編成など出来るはずもなく、何人かが少人数の即席パーティーを組んで挑戦し、命からがら逃げ出すということが幾度かあった。そんな非効率的な行動の裏には、プレイヤー間の相互不信も確実に存在していたのだと思う。

 なにせ最前線にいるような高レベルプレイヤーのほとんどはベータテスターであり、大多数の初心者プレイヤーに先駆けてはじまりの街を発った理由など本人らが一番よく知っている。それがあまり褒められたものでないこともだ。

 

 お互いにそうした後ろ暗い感情を抱えているのに、それぞれが胸襟を開いて仲良く協力など出来るはずもない。その結果、ソロかあるいは気心の知れた少数のプレイヤーが思い思いに攻略を目指す、という形が現在の主流になっていた。

 無論、ベータテスターとて血も涙もない卑劣漢などではない。彼らとて自分たちが生き残るために最善の選択をしようと努力した結果が、遠からず飽和状態になるであろうはじまりの町隣接マップの狩場からの移動であり、いくつかの有力クエストの受注だったはずなのだ。俺もまたその思惑に乗った一人なのだ、文句を言われる側の人間だった。最前線の連携の悪さをどうこういえる立場ではないのである。

 

 ……クラインには妙な誤解をされていたけどな。

 お人よしの友人の顔を思い浮かべて思わず苦笑が漏れてしまった。ときどきメッセージが送られてくるが、どうも彼は件の仲間と合流した後、何人かの有志とともに初心者組の手助けをして回っているらしい。俺が話した徹底したソードスキル習得訓練と手厚いフォロー込みでの初戦闘を指導し続けていると聞いた。

 クライン本人は直接の戦闘指導と補佐役に徹し、全体の指示や取りまとめはシンカーという男が主導しているとのことらしい。さっさと逃げ出した身としては彼らの献身に身が縮む思いだった。

 

 しかしまあ、元気にやっているようでなにより。

 一方俺はと言えば、特に問題になることもなく順調そのものだった。なにせクラインには最短距離での攻略などと妙な誤解を受けてはいたが、少なくとも俺の目的は攻略そのものではない、ひたすら自己強化に励むことだった。

 効率のためにも攻略は手早く進んでくれたほうが嬉しいが、だからと言って俺自身が率先して危ない橋を渡ろうなどとはこれっぽっちも思っていないのだ。

 

 フロアボス攻略を主導する立場に立つ気もない。雑務に時間を取られるくらいならレベルを上げていたかった。もちろんこの先ずっとこのままというわけにもいかないだろうけど、今のところその方針を変える予定もない。

 その方針に沿ってはじまりの街を出発し、最短距離でホルンカの村にたどり着き、そこで受けたクエストも遅滞なく達成できた。クエスト報酬アイテム《アニールブレード》も驚くほど簡単に手に入ったし、先行したベータテスターたちと妙なブッキングをすることもなかった。これを順調と言わずして何と言おう。

 

 デスゲームに囚われたという事実は人生最大の不運(バッドラック)以外の何者でもないだろう。

 しかしゲーム的な意味で今現在俺のリアルラックはそこそこの幸運を示していた。10万人が応募した倍率100倍の抽選を勝ち取ったベータテスト参加で人生の運を悉く使い果たして以降、リアルラックにはとことん自信がなかった俺だ。そこへきてデスゲーム参加という最低最悪の不幸が襲来した反動なのか知らないが、多少なり運勢が上向いてきたのは文字通りに不幸中の幸いというやつだった。

 MMOはアイテムドロップを初めとして確率に左右される事柄も多い。不運に愛されていないことはそれだけで安心材料となるのだった。

 

 十分な攻撃力を確保して以降はひたすらソロでモンスターを狩り続け、迷宮区の最奥が発見されて以降は経験値効率の秀でた狩場を幾つか選んで篭り続けた。もちろんそれだけではクラインたちに悪いので、モンスター情報やクエストマップ情報をちょこちょこ提供したりもしたが。

 そのおかげで攻略目的の最前線プレイヤーの中にあっても、俺のレベルは間違いなくトップクラスに位置しているはずだ。というより下手すれば飛びぬけて高いんじゃないかと思う。

 なにせ常時経験値3倍である。

 いつのまにやら手に入れていた謎スキルの片割れではあるが、どうも時折見かける他のプレイヤーの戦いぶりを見るに、このスキルの希少性は割と高いんじゃないかと考え直すようになった。少なくとも全員に配布されたわけではなさそうである。

 特殊な習得条件を必要とするエクストラスキル、その可能性が濃厚だ。

 

 というのも、いまだに経験値3倍どころか経験値をブーストするスキル関連の情報が一つも出てきていないのだ。考えられることは発現条件が不明なだけに、スキルを獲得したプレイヤーは俺のように口を閉じてスキル情報を秘匿する道を選んだ、ということだろう。軽々しく公開できるような情報じゃない、恐らくはそう考えているはずだ。それくらいこのスキルはゲームバランス的に浮いている。

 この世界を作り出した男が何を思ってこんな公平性を欠いたスキルをデザインしたのかは知らないが、今は有り難く利用させてもらうしかないだろう。

 使えるものは使う、仮に《賢者の才》《黄金律》が運営の意図しないスキル効果だったとしても、修正がくるまでは時間が許す限り使い倒すのがずるい、もとい正しいゲーマーの在り方だ。というかだな、デスゲーム化した世界でいちいちゲーマーとして瑣末な矜持にこだわってられるか。命を懸けて縛りプレイをするほど俺は壊れた人間じゃないぞ。

 

 そんなこんなで日々是レベル上げな毎日だったのだが、本格的にフロアボス攻略戦が実施されるのならば、安全を多少犠牲にしてでも参加したい。ソロでは取り巻き含むボス集団には危なくて突っ込む気にはなれないものの、攻略組の精鋭の一員としてならば安全性はぐっと確保しやすくなるからだ。

 もちろんそれだけならボス戦なんて危険極まりない戦いは人任せにもするのだが、ボス戦は希少で強力な武具やアクセサリーを入手できる貴重な機会なのである。ベータテストの仕様が変更されていないならば、ボスに止めを刺したプレイヤーには必ず希少アイテムがドロップされる。ボス戦におけるラストアタックボーナスは強力な装備品を手に入れるまたとない機会というわけだ。

 自己強化に励み、装備の充実を図るためならば、危険を犯してでもフロアボスに挑む価値は十分にある。だからこそ俺はフロアボス攻略会議に出席し、大人数による本格的な討伐作戦に参加を決めたのである。全てはこの先を生き残るために。

 

 ……だというのに。

 そんな俺の決意に水を差す光景が眼前に広がっているのはなぜだろうか。

 ここは第一層迷宮区にほど近いのどかな街《トールバーナ》。その中心に位置する中央広場だった。

 初の大規模攻略会議を主催し、扱いの難しい攻略プレイヤーをまとめ上げる快挙を成し遂げたのは、ディアベルという穏やかそうな風貌をした男だった。年の頃は大学生くらいで、目鼻立ちの整った顔はネットゲームに興じるよりも、アウトドアスポーツで爽やかに汗を流すほうがよっぽど似合っていそうなものだ。いや、僻みじゃなくマジで。

 加えてウェーブがかった長髪は髪染めアイテムによってカスタマイズされているようで、現実世界ではお目にかかれない群青の色彩に染まっていた。それがまた似合っているのだからすごい。イケメンと美人は何を着ても似合うというが、この世界ではその法則が輪をかけて適用されそうだ。

 

 長身に金属鎧で固めた片手剣使いのディアベルはよく通る声で会議の開始を告げた。そして彼は最初の自己紹介の場で、「気分的にナイトやってます」とおどけて笑いを取ることから始めたのだった。

 言うまでもなくソードアート・オンラインには職業(クラス)の区別はないが、そんなことはこの場にいる全員が承知している。それを踏まえてひとまず掴みはOKといったところだろうか。当初のプレイヤー間でお互いを警戒するような刺々しい雰囲気が和らぎ、場に穏やかな空気が吹き込んでいた。

 しかし、だ。

 このまま順調に会議が進むと思わせるディアベルの如才ない手腕に感心していたところで、主催者のディアベルを半ば無視するように無理やり舞台に立っていちゃもんをつけはじめた馬鹿が現れた。露骨に迷惑な野郎だと顔を顰めたのは俺だけではあるまい。

 

「ちょう待ってんか、ナイトはん」

 

 そんな掛け声で壇上に上がったのはキバオウと名乗る男だった。成人男性としてはやや小柄な体躯ではあったが、体格そのものは絞り込まれてがっしりとしていた。そのせいか壇上に立って鼻息荒く腕組みしているのも堂に入った立ち姿である。

 装備は背中に背負う片手剣、それから皮の上に金属片をつなぎ合わせたスケイルメイル。見栄えも性能も中々だ。しかし最も俺の注目を引いたのは、その特徴的な頭部だった。茶色のサボテン、そんな風に形容したくなる髪型をしていた。あれはカスタマイズを施した結果なのか?

 

 問題はすぐに噴出した。

 聴衆の注目を一手に引き受けたキバオウはそこで何を言うかと思えば、立て板に水を流すがごとくベータテスターを滔々と非難し始めたのである。ソードアート・オンライン経験者であるベータテスターが初心者(ビギナー)プレイヤーを省みなかったせいで、この一ヶ月足らずの間に千人を超える多大な戦死者が出た事実。そのうえで初心者を見捨てて早々に狩場やアイテムを独占した非道さを強く責め立て、この場にいるはずのベータテスターたちにも謝罪と誠意を要求したのだ。

 謝罪がなければ一緒には戦えないと気炎を上げ、誠意としてアイテムやコルを吐き出せと迫った。ベータテスターに向かって今まで獲得した全アイテムと全コルをこの場で提供しろと要求した男に、俺は思わず天を仰いでしまった。

 

 なに言ってんだこの考えなし、頭痛い……。

 義憤全開で持論を展開しているキバオウの主張にこれ以上なく脱力してしまう。後先考えないとはこのことか。

 キバオウという男、これだけベータテスターに強圧的に当たっている以上、当然本人はベータテスターでもなければベータテスターの知り合いもいないのだろう。ベータテスターでもないのに、このフロアボス攻略会議に参加できるだけのレベルと技術を獲得しているということには素直に賞賛できる。クラインのような相当な才能の持ち主でもあるのだろう、あるいはこの先大きな戦力の一角にもなるのかもしれない。

 しかし、圧倒的な考えなしである。

 

 キバオウの要求だが、ここまで一方的な内容ではどうあっても受け入れられることはない。あからさまな脅迫のうえに、内容が譲歩できる限界を一足飛びに飛び越えてしまっている。もう少し穏やかな要求、例えばベータテスト基金とでも銘打って初心者援助を名目に幾ばくかの寄付を募るとか、その程度ならベータテスターにだって譲歩の余地はあったろうに。

 最初に過大な要求を突きつけ、そこから互いの妥協点を探っていくのは交渉の基本テクニックだが、キバオウに譲歩の気配は欠片もなかった。一方的に要求を押し通そうとするだけである。

 こんなやり方で話がまとまるはずないだろうにと再び溜息が漏れてしまう。義憤そのままに糾弾の言葉を吐き出している男には悪いが、もう少し現実的な話をしろと言いたくもなる。

 

 キバオウがこの中にベータテスターがいるはずだとあくまで推測で話し、プレイヤーを名指しできないのは、はじまりの街でベータテスターだとカミングアウトしてしまった俺のような例外を除けば、誰が実際にベータテスターなのかが判明していないからだ。ベータテスターだって自分達に向けられる視線が好意的でないことくらい気が付いている。そんな中で馬鹿正直に自分がベータテスト経験者なのだと名乗り出るはずもなかった。

 そうした事情もあって、せいぜい高レベルプレイヤーを指して多分あいつはベータテスターだ、と当たりをつけるくらいしかできていない。そして、それはどこまでいっても疑惑でしかないのだ。本人が口を割らない限りベータテスターだとばれることはない。

 

 それに時間が経つにつれ、ベータテスターと初心者組のレベル差は小さくなっていくだろうと俺は思っている。そうなれば、やがてはベータテスター憎しの風潮も下火になるだろうと予測していた。

 なにせクリアまで長い年月が必要なのだ。一ヶ月二ヶ月ならともかく、一年二年のスパンを考えた時、ベータテスター優位の状況がずっと続くとは考えにくかった。

 

 しかし今現在に限って言えば、高レベルプレイヤーのほとんどがベータテスターだろう。そしてこの攻略会議の半数以上はベータテスターだろうとは俺ならずとも予測できることだ。

 だからこそキバオウはあれほど犯人を暴き立てるがごとく強気なのだった。まるで鬼の首を取ったかのように。

 馬鹿な話だ。ベータテスターは犯罪者じゃない。少々幸運を手にした普通のゲーマーないし一般人でしかなかった。

 たまたま2ヶ月先行してこのゲームを遊んだ。たまたまデスゲームになってしまったがために、初心者プレイヤーを見捨てたと非難される立場になってしまっただけだ、というのはベータテスターである俺だからこその言い分なのだろうか。

 

 キバオウの主張と怒りもわからないではないのだ。あくまで認めるのは主張と怒りだけで、奴の要求部分は論外だが。

 初心者プレイヤーのために戦闘技術を指導し、アインクラッドの知識を分け与え、彼らを率いて主導的に、あるいは仲良く協力的に攻略を目指す。なるほど、理想的ではある。今のようなプレイヤー同士の軋轢もなかっただろう、そうすべきであったというキバオウの言い分は大部分において俺も肯定する。ただしそれは初心者プレイヤーの命をベータテスターが背負う、という重すぎる責任を考えないのであればの話だ。

 

 俺を含めてベータテスターは決して超人でもなければ特別な才能持ちでもない。

 現実で大勢の人間の命を預かる仕事や立場を持っていたベータテスターなどいるとしてもごくわずかだろう。そんなどこにでもいる人間に9千人のプレイヤーを導けという要求はいかにも無茶だと思えるのだが。

 はたしてキバオウという男はそのあたりの事情をどう考えているのだろうか。

 

 仮に、そう仮にだ。この場で俺を含むベータテスターがキバオウの要求を全面的に受け入れ、装備から何まで残りのプレイヤーにくれてやったとしよう。

 当然、そんな強盗紛いのことをされたベータテスターは二度と初心者プレイヤーたちに協力しようなどと思わなくなるであろうし、当たり前だがこの後行われるフロアボス攻略戦にも不参加だ。なにせ戦うための武器を差し出してしまうのだから戦いたくとも戦えない。結果どうなるかと言えば、フロアボス攻略戦そのものの延期である。

 

 一方でベータテスターが心血注いで手に入れたアイテムとコルを受け取った彼ら初心者プレイヤーたちは、その分配をどうするつもりなのやら。ベータテスターに提供させたのだと勝利者の顔をして何も知らない初心者プレイヤーにランダムにでも配るのか、それともこの場にいるキバオウ本人と、いるのなら彼の賛同者だけで独占するのか。それもまた揉め事の原因になるだろう。

 そしてベータテスターと初心者プレイヤーの溝は二度と修復されない深い傷となって残り、プレイヤー同士の信頼なんて鼻で笑うしかなくなる。ただでさえ足りない戦力がさらに激減し、将来的にも解消不可能な根深い対立構造が続くわけだ。最悪である。

 

 あまりに暗い未来予想図を脳裏に描き、そんな可能性をわざわざ現実のものにしようとしている原因を半眼で眺めやる。

 俺ですら辿り着く何てことのない推測なのに、どうしてキバオウは自身の言葉の危険性に気づかないのだろう? 憤懣やる方ない激情が奴自身を盲目にでもさせてしまっているのだろうか。

 未だにヒートアップを続けるサボテン頭へと懇切丁寧に事情を話してやるべきかどうか悩んでみるものの、ああいうタイプは正論を言うだけでは止まらない気がする。

 というかベータテスターだと広く知られている俺の言うことを素直に聞くとも思えない。もしも俺がベータテスターだとキバオウに知られていなくても、この場にいる連中の中には俺がベータテスターだと知っているプレイヤーもいるだろうし、そこで槍玉にでもあげられたらそれこそ収集がつかなくなってしまう。どうしたもんだろう?

 

 全く、せっかくのボス攻略会議なのになんだってこんな面倒な話になってるんだ。

 なんだか馬鹿らしくなってきた、もう会議抜け出して帰ってしまおうか。

 このままキバオウ独演が続くのなら、今日の会議は喧嘩別れになって終わる公算が大きい。攻略会議も後日改めて開催という流れになるかなと諦めかけたとき、それまで沈黙を守っていた聴衆役の一人が発言を求めた。浅黒い肌に筋骨隆々な大男だ。しかもスキンヘッドに厳つい風貌をしているせいか、とにかく迫力が凄い。明らかに日本人の風貌ではないため、帰化したかハーフなのだろう。

 エギルと名乗ったその男は睨みつけたつもりもないのだろうが、その大柄な体躯だけでも隠し切れない威圧感が発散されているのだ、正面から目が合ったキバオウが気圧されたように何歩か後ずさったのもむべなるかな。

 エギルは殊更声を高めたわけでも大袈裟なジェスチャーをしたわけでもなく、淡々とキバオウの主張に異を唱えた。

 

「キバオウさん、あんたはベータテスターがビギナーを見捨てたと言うが、少なくとも情報はベータテスターから提供されていたぞ」

 

 そう言って用意した材料が全プレイヤー向けに無料で配布されている攻略指南書だった。羊皮紙を閉じた本型オブジェクトを翳しながら、この世界の基礎知識、MMORPG全般におけるマナー、簡易的な戦闘上達法、加えてモンスターやマップ情報までも記したこの指南書は有志によって作成された、そしてその有志にはベータテスターも含まれている。ベータテスターが初心者プレイヤーを見捨て、自分達の利益だけを図っているという主張は不当だと反論したのである。

 そして今ここでベータテスターの責任を追及するよりも、ゲームクリアの手立てを講じることのほうがずっと重要だろうと柔らかく指摘し、キバオウの反発を最小限に抑えながら諭して見せた。

 

 なんというか、それを聞いていて『ああ、この人、大人だな』と感心した。

 年齢的にもこの中で最年長だろうとは思うが、それ以上にその重厚な雰囲気や淀みなく語られる明瞭な口調が言葉に説得力を持たせている。これだけの場を用意したディアベルも凄いが、キバオウがぶち壊した攻略会議の雰囲気をあっさり引き戻してみせたエギルという大男も素直に尊敬できる。こんな大人になりたいと思える人間は貴重だ。

 

 しかしだ、最後に「直接初心者プレイヤーを指導したベータテスターだっている」と告げて、さりげなく俺に視線を向けたことだけは勘弁してくれと言いたい。クラインとの問答を思い出すと穴掘って埋まりたくなるんだ。感情で動くと碌なことにならないのだと嫌というほど理解したよ、ほんと。

 キバオウも敗北を悟ったのだろう、不機嫌そうな態度を隠そうとはしなかったが、そそくさと聴衆の側に戻って沈黙を選んだようだった。それでいい、これ以上の厄介ごとはごめんだ。

 

 場にほっとした空気が流れ、改めてディアベルが締めに入るかと思ったのだが、ここでまた予想外なことが起きた。

 会議の初めからずっとディアベルの傍に控えていた男が何事かをディアベルに耳打ちしたかと思うと、そのまま前に出てディアベルと位置を交代した。この男、ディアベルの秘書だか副官だかのポジションであくまで裏方だと思っていたのだが、違ったのか?

 ある意味のんきにそんなことを考えていたら、急にその男と目が合った。しかも視線を外す様子もない。そんなことをされる理由に心当たりもなかった俺は困惑した表情を隠せていなかったはずだ。

 そんな俺に向かってディアベル同様に穏やかな人相をした男は、柔らかく微笑んで一礼したのだった。その合間に視界に映るプレイヤーネームを確認してみたが、やはりこの男――キリュウという名に心当たりはなかった。

 

 第一印象は物腰柔らかで温厚そうな男。目には理知的な光が宿っていて、これで皮鎧ではなくローブでも着込んでいれば魔術師か賢者と名乗っても通じそうだ。

 ディアベルやキバオウと同じ片手剣が獲物のようだが、先の二人と異なり金属製の防具はほとんど身に着けておらず、皮製の身軽さ重視の軽装だった。そうした装備の選択から俺のスタイルに似た感じのプレイヤーなのかと、なんとはなしに思う。

 一度話せば記憶にそこそこ残る程度には礼儀正しい男だ。その上で見覚えがないのだから今日が初対面のはずなのだが……。

 そんな俺の困惑を置き去りに朗々とした声で彼は語りだした。

 

「先ほどエギルさんがベータテスターも僕たち初心者プレイヤーのために骨を折ってくれたと話してくださいました。この中にもベータテスターの方々がいらっしゃるのでしょうが、生憎その難しい立場から名乗り出るのも気がひけるというのは理解できます。ベータテスターのみなさんに助けられた初心者プレイヤーの僕としましては、是非直接御礼を言いたいところなのですがなかなかその機会もありませんでした。ですからこの場を借りてキリトさん、唯一ベータテスターだと明かしていただいたあなたにお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました」

 

 かすかに微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる年若い男の姿への驚き以上に、この場でベータテスターだと明かされたことへの焦りがあった。

 お礼を言いたいという気持ちを無碍にはしたくないし、わざわざ感謝してくれているのを拒むほどひねくれてはいない。しかし、なにも今ここでそんなことを言わなくてもいいのではないだろうか。

 気遣ってくれと要求するのも筋違いなのだろう。しかし先程までキバオウが、それはもう全力でベータテスターを扱き下ろしてくれていたのだ。しかもにこにこと笑うこの人の良さそうな男はまだしも、一般プレイヤーの多くはベータテスターを面白くないと考えているのだから、俺がベータテスターだなどとあまり軽々しく吹聴してほしくはなかった。もっともはじまりの街で盛大にカミングアウトしてしまったのだから、もはや手遅れと言われればその通りなのかもしれないけどさ。

 

 空気読めと全力で主張したい、マジで。エギルを見習えよ、やつは俺がベータテスターだと知ってても、この場でばらすなんて馬鹿な真似はしなかったぞ。

 嫌な予感を覚えてキバオウの顔をそっと伺ってみると、それはもう予想通りの嫌悪を込めた視線を向けられていましたよ、ええ。エギルにやり込められた腹いせもあるのかもしれないと思うと、無駄に疲れるような事態を招いてくれたキリュウという男を恨めしくも思ってしまう。しかしこれも善意だと思えば言い返すこともできない。

 

 結局、「はぁ、どういたしまして」などと間の抜けた返答を返して終わってしまった。

 キバオウの敵意をいたずらに買っただけの一幕にどっと疲労がたまる。

 そんな俺の気持ちを察してくれたのか、ディアベルが攻略会議の主題ともいえるパーティー編成を詰めるために再度司会を引き受けた後、労わるような視線を向けてくれたのが唯一の救いだった。

 

 

 

 

 

 第一層のボスの名は《イルファング・ザ・コボルド・ロード》。武装は、斧とバックラー。

 ベータテスト時点ではHPが少なくなると武器を湾刀(タルワール)に持ち変えて攻撃パターンが変わったので注意が必要。

 図体がでかい割に俊敏性も高く、あくまでベータテスト時点の話だが第二層、第三層のフロアボスよりよほど厄介なボスだと言われていた。

 それはボスの取り巻きがちょこまかと鬱陶しいせいで戦いづらい、ということも一因である。

 

 取り巻きのモンスターは《ルイン・コボルド・センチネル》。

 戦闘開始時点で3体出現し、ボスのHPが一定量減るたびに新たに召喚される。最終的には12体処理する必要がある護衛モンスターだ。イルファング・ザ・コボルド・ロードよりもずっと弱いためタイマンでも撃破は十分可能な強さなのだが、取り巻き同士の連携が妙に噛み合っているせいでソロや少人数パーティーだと返り討ちに遭い易い。

 こいつらをボスから分断したまま如何に素早く倒せるかが攻略の鍵となるだろう。

 

「――と、まあこんなところなんだけど、あんたちゃんと聞いてたのか?」

 

 ため息混じりにそう問いかけた俺は悪くないと思う。なんと言っても眼前にいるプレイヤーの態度の悪いこと悪いこと。必要最小限どころかほとんど何もしゃべりやがらない。

 そりゃまあ友達でもなければ仲間でもないんだからその態度もわからないわけじゃないんだが、そうした刺々しい反応が好ましいかと言えばそんなことはない。俺とて聖人君子なわけではないのだから、終始隔意ある態度を繰り返されれば腹も立つというものだ。だからと言って怒鳴りつけられるかと言えば、それはそれで別問題なんだが。

 

 今夜はフロアボス戦前の壮行会というか、親睦のための集まりらしい。もちろん主催はあのディアベルとかいう男で、昼間決まったパーティーメンバーごとに三々五々散らばってそれぞれ雑談に講じていた。割と仲良く盛り上がっているようで、時折楽しげな笑い声も聞こえてくる。なんとも羨ましい限りである。

 それに比べてこっちのパーティーはまるでお通夜である。陰気なことこの上ない。

 そもそもパーティーと言っても俺と一緒にいるのはたった一人のプレイヤーでしかない。別のメンバーが席を外しているのかと言えばそんなことはなく、ここにいる俺と眼前のプレイヤーを合わせた二人が我がパーティーの全メンバーなのだった。

 

 もちろんこうなったことには理由がある。

 ボス討伐のためにボス部屋に突入できる最大人数48人に近い44人という数字をディアベルが揃えたとはいっても、その内実はソロと小パーティーの寄せ集めでしかない。命の危険がある場所で、信頼の置けないプレイヤーに背中を預けたくないというのは全員の総意だろう。

 しかしばらばらにボスに当たるだけではせっかく精鋭を集めた意味がない。そこで最低二人以上のパーティーを組んで、全体の総括としてリーダーであるディアベルを置き、それぞれをある程度有機的に結びつけて戦術の幅を広げようという結論になった。

 この最低人数はソロでは前衛と後衛による交代(スイッチ)行動が取れないことに由来する。

 

 俺としてもソロでボスと相対するよりはマシだと異存はなかったのだが、では誰と組むかという段になって固まってしまった。見知ったプレイヤーがいないのだ。

 そもそもはじまりの街を発って以来、ひたすらにソロでレベル上げの日々を重ねてきた俺に親しいプレイヤーがいるはずもない。ここにクラインがいればやつを誘うところなのだが、残念ながら本人が初心者プレイヤーかつ何人もの知り合いを抱え込んでいる状態で十分なレベルに達しているはずもなかった。当然ここまでたどり着いてはいないのである。

 今頃はじまりの街付近で細心の注意の元、雑魚モンスターを狩っているのではないだろうか。

 

 そんなこんなで固まっていた俺を尻目に、その場に集った連中はさっさとパーティーを作り上げてしまった。この場合、出遅れた、と負け惜しみを言っておくべきだろうか? 俺のコミュ力が申し分なく発揮された順当な結果としか思えないけど。

 とはいえ、積極的に組む相手が見つからなければ後はあぶれ者同士で組むしかないのが真理というものだ。都合の良いことに俺と同じ《ぼっち属性》持ちが一人いたのでこれ幸いと声をかけたのだった、同類相憐れむ的な意味で。

 いやぁ仲間が見つかってよかったよかったと安堵したのも束の間、声をかけた相手が非常によろしくなかった。確かに友人ではない、しかし知人だった。それも、少々どころではなくまずい出会い方をした、険悪極まりない仲の知人である。

 

 

 

 

 

 第一層のフィールドを突破し、迷宮区を探索していた頃のことだ。

 モンスターの徘徊している迷宮区フロアで何故か行き倒れているプレイヤーを発見した。冗談でもなんでもなく意識を失って倒れていたのだ。この世界では空腹による意識混濁や餓死はない、はずだ。だから物語でよくある空腹が原因の行き倒れのはずがないのだが、まさか迷宮区の安全フロアですらない場所で熟睡を決め込む馬鹿がいるとも思えない。それはもう自殺と同じだ。

 何か特殊なトラップにでも引っかかったのかと周囲を警戒し、敵影もないことを確認し、考察は後回しとして見知らぬプレイヤーを救助した。流石に見捨てるのは寝覚めが悪すぎたのだ。

 

 別に感謝されたかったわけでもなければ、恩を売りたいわけでもなかった。あのまま見てみぬフリをして、巡回するモンスターに食い殺されるようなことになったら嫌だと思っただけだ。

 ほんの少しの善意と良心に従っただけ。

 だから安全圏まで運んだその見知らぬプレイヤーが目覚めたらさっさとおさらばするつもりだったのだが、何を考えているのか目を覚ましたそのプレイヤーは現状認識もそこそこに、再び迷宮区に突っ込もうとしやがった。

 

 慌てて止めたのだがまるで聞く耳持たず。もういっそ見捨ててやろうかと投げやりな気分で自殺志願者なのかと尋ねると、そこでようやく足を止めて自殺志願者という部分だけ否定した。そうは言っても、俺からすれば自殺志願者にしか見えなかったんだけどな。

 礼はいらないから事情を話せと促せばとても嫌そうではあったが一応話してくれた。

 俺としても単なる善意だけで助けたわけではなく、新種のトラップだかモンスターの特殊攻撃だかを明らかにしたかった打算込みなのだ。何らかのファクターによっていきなり意識が刈り取られるような事態などぞっとしない。そんな恐ろしい可能性を放置できるはずがなかったのだが、この行き倒れプレイヤーの事情を聞いて思い切り脱力した。俺の危惧は完全に的外れだったらしい。

 

 なにせ一睡もせずに戦い続けてたらいつの間にか倒れてたらしいのだ。なんでも空腹でも死なないと聞いたから眠らなくてもいいだろうと思ったとかなんとか。狂戦士(バーサーカー)かお前は、と思わず突っ込みたくなった俺の気持ちは理解してもらえると思う。

 食事も睡眠もなしで戦い続ける。俺とて似たようなことを考えたことはあったが、食事や睡眠なしで活動を続けると集中力が著しく低下するため、最低限の食事や睡眠は取るようにしているのだ。それを思えば休息なしに体調不良を押して無理を続ければいきなり意識を失うという事態もありえるということだろう。健康管理に気を配れというのは茅場の趣味なのか、それとも嫌がらせなのか。

 

 突然の失神などという事態を自分で証明することにならなかったことに一抹の安堵を覚えた俺を尻目に、この行き倒れプレイヤーは大して気にした様子も見せなかった。やっぱり死ぬつもりなんじゃないかという俺の疑惑は深まるばかりだったのである。

 突飛な想像とは思わない。なにせ前例もあるのだ。この世界から脱出できないのだと知らされ、遅々として進まない攻略に全てを投げ出して自殺を選んだプレイヤーは少数ながら存在する。中にはこの世界の死が現実の目覚めになるはずだという仮説――思い込みを信じて宙に浮く鉄の城から身投げをしたプレイヤーもいたらしい。

 

 だから、目の前で死ぬために戦っているようなそのプレイヤーも似たようなものかと思っていた。

 そんな俺の想像は半分当たりで、半分間違っていた。

 自暴自棄になっていたことは確かだ。しかし全て諦めて死を受け入れようとしているかと言えばそんなことはなく、自分に降りかかった理不尽な運命をなぎ払おうという闘志も持ち合わせていた。

 

「たとえ怪物に負けて死んでしまっても、このゲームに、この世界には負けたくない」

 

 煮えたぎるような怒りを胸奥に秘めながら吐き出された言葉に、思わず後ずさるほどの迫力を感じた。声量そのものはつぶやくような小さなものだというのにだ。それは命の限り、意志ある限り抗ってやるという宣言だった。

 ただ、悲しいかなその決意は無駄になるだろうと、俺は口にこそ出さなかったが冷めた目を向けていた。

 さながらバーサーカーのごとく、倒れるまで戦い続けたその精神には空恐ろしいものを感じるし、怒りに突き動かされるままはじまりの街からこの迷宮区まで辿り付き、なお戦い続けることが出来た事実は余人には持ち得ない戦闘センスを感じさせる。

 

 聞けばVRMMORPGどころかMMORPG自体プレイするのは初めてだと言うのだ。しかも俺のようにスタートダッシュをかけて先手先手でここまで来たわけではなく、後発組で何の情報もなく誰の助けも借りずここまで来れたこと自体が奇跡だ。一体どれほどのセンスと潜在力と幸運があればそんな芸当が可能になるのだか。

 しかしこのまま行けばそう遠くない未来に死を迎えることも確かだ。第一今回だってたまたま俺が発見できていなければおそらく死んでいた。そしてこの先、今のような猪の戦い方で生き残れるとは思えない。

 

 だからお節介を焼いたのだ。

 初心者プレイヤーでありながら眩しくなるような戦闘センスの塊。正しく電子世界の戦士として破格の天才。異常な適応力と学習力。ここで無為に散らすには余りに惜しかった。このプレイヤーが、ソードアート・オンラインという名の悪夢のゲームをクリアするために一体どれほどの助けになるのか、俺には想像もつかない。行く行くは攻略の要にだってなれるんじゃなかろうか。

 

 俺は自分自身がこのゲームに終止符を打てるようなプレイヤーだと思っていない。そんなことが出来るほど大した人間じゃない。だからゲームがクリアされるその時までなんとか生き延びることが俺の至上目的だった。

 そのために悪いとは思ったが利用させてもらおうと思ったのだ。いつか現実に帰るためには誰かにこのゲームをクリアしてもらわなくてはならない。一万人もいたのだ。その中から誰かがなんとかしてくれるはずだという、他力本願もいいところでの考えだったが、この行き倒れプレイヤーはその最有力プレイヤーではなかろうか。

 ベータテスターは二ヶ月の先行があるから初心者プレイヤーに比べてずっと強いし効率的だ。しかしそんな不利を笑って覆せる存在が目の前にいる。今は危なっかしいばかりで、放っておけばすぐにも死亡プレイヤーの末席に加わってしまう未熟なプレイヤーでしかないが、それさえ乗り越えてしまえば俺など足元にも及ばないくらい強くなりそうだ。

 

 そんな腹黒い打算を抱えながら、言葉巧みに宥めすかせ、時に挑発し、それでも頑なな態度を一向に崩そうとしないことに痺れをきらせて決闘まで持ちかけ、無謀に戦い続けることを止めるよう約束させた。

 安全マージンの意味や情報収集の大切さを叩き込み、効率的なレベリングの必要性を訴え、力任せの戦術が通じない相手もいるのだと文字通り叩き伏せることで力づくで理解させたのだった。

 

 

 

 

 

 そんな出会いの顛末を思い起こし、冷や汗を流す。

 どう考えてもやり過ぎである。ついでに俺が嫌なやつ過ぎる。

 ただなぁ、剣を交わすたびに強くなる、乾いた砂が水を際限なく吸い込むが如くの才能の原石に柄にもなく興奮してしまったのだ。あれが天才というものかとしみじみ思ったものである。そのせいで必要以上に痛めつけてしまったことは、まあ、その、許して欲しいなあ、なんて。

 うん、立場を逆にしたら一発殴らせろと言いたくなるな。

 

 俺としては自殺志願みたいな真似を止めさせて、ある程度命を大事に攻略に邁進してくれればそれでよく、まして今後顔を合わすことは早々ないと考えていたからこその悪ノリだった。しかしだ、まさかこうも早く再会し、その上臨時のパーティーを組むことになってしまうとは思わなかった。これだから人生は面白い、なんて余裕ぶってもいられない。ひたすら俺を無視してもくもくとパンを口にする相方にどうしたものかと困惑しきりである。

 まさかボス戦までこんな状態が続くんじゃないだろうな。俺の精神がマッハでやばいぞ。この世界で胃潰瘍がないことを切に願う。

 

「……君、ベータテスターだったんだね」

 

 そろそろ胃がキリキリと痛み出してきた頃、ぼそっとした不機嫌そうな声でようやく口を開いた元行き倒れもとい現相棒プレイヤー。ほっとした内心を悟られないようなんでもない顔で向かい合い、いっそ大袈裟なくらいに肩を竦めた。

 

「その通りだけど、軽蔑でもしたか?」

 

 ベータテスターの経験を利用して初心者プレイヤーを虐めたことを。

 

「別に。君がベータテスターだろうとそうでなかろうと興味ない。大事なのは君がわたしよりずっと強いってこと」

 

 淡々と口にしてはいるが、声には抑えきれない悔しさが滲み出ていた。

 案外負けず嫌いな性格なのかもしれない。俺と剣を合わせた時、驚くほど必死に俺の動きにくらいついてきたことを思えば、到底諦めの良い性格をしているとも思えなかった。

 念のため言っておくが褒め言葉である。この世界には負けたくないと並々ならぬ気迫で口にした通り、その身の内に激しい気性を秘めてもいるのだろう。

 

「その強さの原因がベータテスターってことなんだけどな。まあ気にしないでくれるんならそっちのほうがいいや。それで、明日のボス戦についてもう一回説明しようか?」

「いらない。聞いてなかったわけじゃないもの」

「さいですか」

「わたし達の担当は取り巻きのルイン・コボルド・センチネル。ただし戦闘に加わるのは取り巻きが包囲を破った場合で、任務はボスであるイルファング・ザ・コボルド・ロードに合流させないこと。つまり足止め」

「なにせ俺達は最小人数だからなあ。はぶられても仕方ない」

「ベータテスターであるあなたのせいなんじゃないの」

「ぐっ」

 

 ボスを担当する本隊はディアベルが率いて、取り巻きを担当する別働隊のリーダーは何故かキバオウに決まった。

 あの野郎、あれだけの騒ぎを起こしておいて恥ずかしげもなく立候補しやがったのだ。しかもディアベルがやつの別働隊リーダー就任を認めてしまったものだから頭が痛い。そしてベータテスター憎しのキバオウが俺に好意的な反応をするはずもなく、別働隊の中でもめでたく戦力外通知である。

 包囲の輪を破られ次第ということは、順調に討伐が進んだ場合俺達の出番はないということだ。明らかに邪魔者扱いされている。ついでに原因が俺という指摘は多分正しい。

 

 とはいえ、1パーティー最大6人制のシステムで2人だけのパーティーなんて扱いに困るだけ、というのもわかるけど。

 戦力として計算するには些か中途半端で、メインとして運用するには不安が過ぎる。少なくともキバオウらがそう判断したとしても仕方なかった、一概に好き嫌いで配置を決定されたと言い切れない事情もあるのだ。

 下手に前線での活躍を期待するよりも、予備戦力として確保しておいて適宜穴埋めに使うのだって戦術だ。

 

「その、悪かったな。折角パーティーを組んでもらったってのにこんな貧乏くじ引かせて」

「気にしてない。別にボス戦は今回で終わりってわけじゃないし、出しゃばるなっていうなら今は従っておく。わたしのレベルはこのなかで多分最下位だし」

 

 レベルが最下位というのは多分その通りだろう。詳しく聞いたわけじゃないが、デスゲームが開始されてしばらくははじまりの街の宿に閉じこもっていたらしいから、レベリングに費やせた時間は限られている。

 逆に俺はスタートダッシュしたままひたすらレベル上げに没頭していた。その上経験値ブーストスキル保持者だ、多分この中で一番レベルが高い。なんとも凸凹なコンビである。

 

「ボスの情報はわかったけど、それ以外に何かないの? 弱点とか有効な戦術とか」

「情報が錯綜してるんだよ。ボスと実際に戦った連中もいるはずなんだけど、情報の伝達手段がほとんどないから噂話が精々なんだ。そのせいで伝言ゲームみたいにおかしなことになってる。……そうだな、ベータテストでの話になるけど、ボスは雑魚モンスターに比べてずっとでかい上に迫力も段違いだ。力も強いし速さも比べ物にならない。雑魚モンスターの延長のつもりで戦うとひどい目に遭うから気をつけろよ。それと体感の話だけど、人型の場合はやっぱり頭とか心臓を狙って剣をヒットさせたほうがクリティカルが出やすい。今回のボスは人型モンスターだったはずだから一応覚えておいてくれよ」

「……よくそんなスラスラ出てくるね」

「死にたくないからな」

「死にたくない、か。ねえ、あなたどうしてわたしにあんなに構ったの?」

 

 あんなに? ああ、決闘までして基礎知識を教え込んだことか。

 

「そりゃ、放っておいたらあんたが死にそうだったからだよ。俺は自分本位のソロプレイヤーだけど、だからって死に掛けたプレイヤーを見てみぬフリはできないさ」

 

 そんなことが出来たらそいつは外道である。自分も死に掛けているならともかく、余裕があるなら助けもするだろうさ。

 

「だからってあそこまで痛めつけてくれなくても良かったと思うけど」

「……えっと、土下座したほうがイイデスカ?」

「いらないわよそんなの。でもまあ、それだけ心配してくれたのよね」

「いや、俺としては心配というかお節介。流石にあの状態を放っておくのは無理だっただけ」

「そう、そうよね。それが普通よね」

 

 何が琴線に触れたのか、妙に深刻に呟いていた。

 

「おい、調子でも悪いのかお前」

「お前じゃないわ。アスナよ。わたしのことはアスナって呼んで。わたしも君のことはキリト君って呼ぶから」

「アスナ……さん?」

 

 目を丸くして小さなつぶやきを零していた俺の困惑の何が面白いのか、軽やかな笑い声をあげる行き倒れさん改めアスナさん。今まで決して取ろうとしなかったフードをいっそ無造作に下ろすと、艶のある栗色の長い髪が目に鮮やかに背を流れていく。フードに隠れていたのはその見事な髪だけではない。作り物の身体とは思えないほど精緻にパーツが組み合わさった、見目麗しい少女の顔が現れた。

 多分俺とそう大きく年は離れていないとは思うが――びっくりするくらい綺麗な女性である。どうも今までは意識して男のフリをしてきたらしい。ぶっきらぼうだった声がいつの間にか柔らかくなっていたことで気づいて然るべきだった。

 

「アスナでいいわよ。キリト君はわたしの先生なんだしね」

 

 それはどうだろう、あれを教師と教え子と捉えるのはちょっと難しい気が。それとも、体育会系に馴染みがあればありなのか? 祖父に仕込まれた剣道でも割と理不尽なしごきは受けたし。世間の常識では虐めと紙一重な厳しさなのだと思っていたのだが、俺のほうが認識不足なのか? 俺のほうこそ深刻な悩みだった。というかさっきまでの陰気な空気どこいった。

 

「いや、そうじゃなくて。……アスナって女だったんだ」

 

 その瞬間、確かに世界が凍りついたことを俺は知った。

 ああ、これが虎の尾を踏むというやつなのか、と。

 

「もしかして、今までわたしが女の子だって気づいてなかった……? 遠目に見ただけとかならともかく、あれだけ話して、決闘までしておいて?」

 

 俺は答えることが出来なかった。

 

「……キリト君、そこで正座」

 

 反論することなど出来ようはずもなかったのである。

 

 

 

 

 

 そんな笑い話があった翌日。

 いよいよフロアボス戦である。

 この一戦はこれまで行われた散発的なボスへの挑戦とは全く違う。ベータテスターも含めて精鋭を大々的に集めた、非常に注目度の高いボス攻略戦なのだ。この一戦に向けられた興味と願いはそれこそ俺の想像以上だろう。なにせ一ヶ月が経とうというのに今だ最初の第一層ですら攻略されていない。そこに満を持して高レベルプレイヤーが総力を挙げて挑むというのだ。寄せられる期待も今までの比ではない。

 逆に言えば、もしもこの討伐戦が失敗に終わるようなら、それだけでアインクラッドに捕らえられたプレイヤーたちの心情は最悪のものになる。攻略意欲もがた落ちになるだろう。自殺者がさらに増えてしまう可能性もある。

 

 ――だからこそ、正しく負けられない一戦だった。

 

 攻略に参加する大半のプレイヤーも多かれ少なかれ寄せられる期待の大きさは肌に感じているようで、意気軒昂に気勢を挙げる姿が何度も目撃されていた。戦意が高いのは良いことである。

 さて、俺とアスナはどうかと言えば、変に昂ぶることもなく落ち着いたものだった。フロアボスに辿りつく前に何度かアスナとの連携を確認もしたが、特に問題はない。やはりアスナはセンスがいいというか物覚えが異常に早い。今まで碌に他人と組んで戦闘をすることなどなかったはずなのに、俺の呼吸に難なく合わせてくるあたり非凡の塊である。頼もしいことだ。

 

 ただし、俺個人に限れば少々問題が起きていた。直接ボス戦に影響が出るような問題ではないのだが、経験値やコルの獲得数値を見るにスキル恩恵が消えているのだ。

 どうやら《賢者の才》も《黄金律》もソロ時のみ発動する条件発動型スキルだったようだ。ゲームバランスを壊す反則スキルだけに何かあるとは思っていたが、完全ソロ仕様のスキルだったらしい。それでも十分ぶっ壊れスキルには違いないのだが。

 

 まあそれはいい。今回のパーティーはあくまで臨時パーティーであり、ボスを撃破すれば自然と解散するものだ。特に問題もない。

 ボス戦での負担が少ないことを理由に迷宮区でのモンスターの露払いを俺とアスナで引き受けた。俺にとってはベータテスト以来の本格的な連携の確認であり、同時にパーティーを組むのが初だというアスナの馴らしも兼ねてのことだった。

 

 そんな思惑の元、何度かあった遭遇戦を苦戦することなく制した俺とアスナのコンビに時折感嘆の声が上がったことは余禄と言うものだろう。ディアベルやエギルからは友好的な労いを、キバオウと彼に賛同している幾人かからは敵を見るような目と舌打ちを頂戴しながら、やがて重厚な大扉の前にたどり着く。

 この先は各層の最奥を守る守護者たるフロアボスの待つ大広間である。ディアベルの檄が飛び、全員が志を共にしたことを確認してからゆっくりと扉が開かれた。

 

 神殿の大ホールのような広大な空間に幾つもの円柱が並び立つ。そしてその奥、巨大で物々しい装飾を施された玉座に座すコボルドの王が、圧倒的な威圧感を放ちながら無粋な侵入者を睨みつけていた。

 始まりの合図は王とも思えぬ粗野で荒々しい、あるいは獣の王とみれば自然と納得してしまうような恐ろしい雄たけびだった。そんなコボルトの王が発する威嚇に怯むなとディアベルが負けじと声を張り上げ、ついに第一層フロアボス攻略戦が開始された。

 ディアベルが本隊を指揮し、キバオウが別働隊を統率する。かねてからの決め事通り、細部では連携の拙さこそあったが、全体としては上手く機能した戦いぶりだったと思う。急造の討伐隊としては十分だろう、さすがはフロアボスに挑まんとする精鋭といった感じだ。戦況は俺達に始終有利に推移していたと思う。

 

 ディアベルはリーダーに相応しい指揮統率を見せていたし、心根はともかくキバオウの実力も大したものだった。初心者プレイヤーとは思えぬ強さは今までの身勝手さを補って余りあるものだ。思わず見直してしまったくらいである。

 そして最年長プレイヤーと目されるエギル。彼はその大柄な体躯に似つかわしい大斧を振るって最大のダメージソースとして活躍していた。それも攻撃一辺倒というわけでもなく、時に味方の援護を優先させ、前衛と後衛の連携を上手く機能させる合間合間に、HPを大きく削られたプレイヤーの回復時間を確保させるという難事を事も無げに成功させていた。周りがよく見えている。底知れない実力のプレイヤーである。

 

 取り巻き連中の処理は難しくなかった。

 元々第一層攻略がここまで遅れたのはデスゲーム化した現状を踏まえ、石橋を叩いて叩いて叩きまくる慎重さを発揮したために必要以上にレベルを上げた弊害でもある。単純なレベルで言えば一層など遥か前にクリアしていてもおかしくはなかった。それが出来なかったのは一重にプレイヤー間の協力体制の拙さだったのだ。ベータテスターと一般プレイヤーが反目しているのがいい証拠だ。

 レベル的には苦戦するはずもない取り巻き相手にも順当に対処し、俺とアスナはボスと取り巻きの分断を維持するために警戒任務についていた、と言えば聞こえは良いが、つまり見ているだけだった。時々包囲の輪を抜けようと取り巻きの一匹が動くこともあったが、難なく包囲網の中に弾き返して終了である。最終的に12体の取り巻きを処理するのとボスの変化はほぼ時を同じく迎えた。

 

 イルファング・ザ・コボルド・ロードはHPを大きく減じると元々持っていた武器を変更し、その戦闘スタイルを大幅に変更する。それはベータテスターなら大抵のプレイヤーが知っていることであり、その性質は厄介であるが知っていれば恐れることはない。それどころかボス撃破が近いという目安にもなる。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの挙動から武器変更を読み取った俺は、そろそろ詰めの時間だと一人闘志を高めていた。取り巻きの処理も終わった以上、ここからは別働隊も本隊に合流することになる。後は人海戦術でボスを取り囲み、総攻撃をかけるだけだ。勝利も難しくない。ラストアタックボーナスはその中で運の良い誰かが手に入れるだろう。やはり最有力は一撃の重いエギルだろうか。

 

「ボスの動作がおかしい! 俺が仕掛ける、皆は下がってくれ!」

 

 ディアベルの指示に本隊別働隊問わず、一斉に距離を取った。司令官の指示だ、よほどの事情がなければ従うのが筋というものだ。

 しかし俺はその指示に、えっ、と思わず目を瞠った。

 予定と違う。ここからは数の有利を最大限生かす方策を取るはずではなかったか。何よりボスの動きに不審を感じたなら、不用意に仕掛けないで一旦退いて様子を見るべきだ。そこで一人だけ前に出るなど悪手も同然である。

 そもそも、なぜそこで討伐隊のリーダーであるディアベルがわざわざ前に出る必要がある? 司令官が斥候の真似事をしてどうするんだ。

 

 いや、ボスの動きの変化は武器変更の前触れだろう。ならば突っ込んでも問題ないし、ベータテスターならその兆候を見分けることが出来る。ボスの目的が武器変更にあることは間違いない。

 ……ベータテスターなら見分けがつく? いや、まさか。でもそれならディアベルはもしかして?

 そんな俺の疑問に答えが出るまでわざわざ敵が待ってくれるはずもなく、空気を引き裂くイルファング・ザ・コボルド・ロードの咆哮が大広間に響き渡り、ついにやつが武器を持ち替えた。ベータテストでは斧から間合いの短い湾刀(タルワール)に――。

 

「違う!? やつが持ち替えたのは野太刀だ! 下がれディアベル!」

 

 片手曲刀のタルワールと大振りの太刀では間合いも呼吸も全く違う。たった一人で特攻を仕掛ける形になっているディアベルが危険だった。

 しかしそんな俺の声がディアベルに届く前に事態は急激に変遷を重ねた。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの仕様が変更されていたことが驚きなら、次に俺達を襲った出来事もまた驚きだったのだ。いや、驚きを通り越して信じられない光景だっただろう。討伐隊のプレイヤー全員に激震が走り、そしてここからの数分間は誰も正確な事態の把握は出来なかったのではないだろうか。

 

 ディアベルが前触れもなく突然倒れこんだ。

 イルファング・ザ・コボルド・ロードの攻撃によってではない。ディアベルにダメージを与えたのは彼の背後から投擲されたピックによるものだった。図らずもその場面をこの目に捉えてしまった俺は呆然の体で視線を移す。

 そこにいたのは身も凍るような冷たい眼を隠そうとしない、俺達の仲間――だったはずの男だ。

 ディアベルの副官のような役を勤め、攻略会議の場で俺を名指しで丁寧な礼を述べたあの男だ。会議の後にディアベルから改めて彼の紹介を受けたので間違えるはずがない。そして信頼できるプレイヤーだともディアベルは言っていた。その彼がどうしてこんなことを。

 

 キリュウの手から撃ち出されたスローイング・ピックがディアベルを背中から射抜き、彼を石床に縫い付ける原因となった。誤射……ではない。そもそも投擲武器は威力が低すぎて攻撃には向いていない。あくまで投擲武器は敵の牽制やヘイトのコントロールのためのもので、フロアボス戦に使えるような武器ではないのだ。

 よしんばボスの注意を引こうと考えたにしても、その効果がほとんどないことは事前に周知されていた。ボスのヘイトを高めるには主武装で効果的な一撃を与え、ライフゲージを削るしかないのだ。補助武装であるピックでは牽制にすらならない。それを知った上で、この場面で投擲武器を使う。その意図するところは――ぞくりと寒気が背筋を這い上がった。

 

「アスナ! ディアベルを助ける!」

「わかった!」

 

 こんな時以心伝心で行動してくれるパートナーがいるというのは非常に心強いし動きやすい。

 投擲武器は威力が低い。誤射だろうが故意だろうがプレイヤーにだって大したダメージは与えられない。しかしその衝撃によって体勢を崩すことは可能だ。というよりそもそもそういう用途の補助武装だ。

 無防備な背中にピックを投げ込まれたディアベルは、ボスに向かって走り出していた中途で崩れ落ち、刀に持ち替えたイルファング・ザ・コボルド・ロードの一撃を受けて宙を舞った。幸いだったのはイルファング・ザ・コボルド・ロードの第一撃がディアベルの予期せぬ転倒のために空振りに終わり、連続技に移行できずに単発の技で終わったことだ。それがなければディアベルは今頃死んでいた可能性すらある。

 

 突然のプレイヤー攻撃という暴挙に出た男を視界の端で警戒しながらもディアベルとボスの間に割り込み、ディアベルに追撃しようとしていたイルファング・ザ・コボルド・ロードの剣戟を弾く。パリングの効果が及んでいるわずかの隙を逃さず、アスナがイルファング・ザ・コボルド・ロードの心臓目掛けてソードスキルの一撃を叩き込み、そのダメージとクリティカル効果で怯ませた。

 見事な腕だ。抜き手を見せない瞬速の突きと精密な急所狙いは彼女の才覚と胆力、なにより今日までの努力を余すことなく発揮した結果だろう。

 誰よりも華になる流麗な細剣使い(フェンサー)、彼女はやがて攻略の柱になる。いつか抱いたそんな俺の思いを肯定する姿だった。

 しかしそんな彼女の勇姿に感嘆してばかりもいられない。俺はそのままディアベルの元に急行し、その場で用意してあった回復ポーションを取り出した。ディアベルのライフゲージは瀕死を示すレッドに染まっていたのだ、一刻の猶予もない。

 

「皆、アスナを援護してボスを引きつけてくれ!」

 

 レベルの心もとないアスナに大きな負担を強いることになるが、今はディアベルの身を優先しないとまずい。真っ先にエギルが動いてくれたおかげで、浮き足立っていた他の連中もすぐにボスの元へと殺到していく。油断はできないがひとまずボスのほうは心配いらないだろう。

 問題はこっちだ。ボスの攻撃の余波か、それとも投擲されたピックに何か仕掛けでもされていたのか、ディアベルはどうも麻痺にやられているらしい。道理で直ぐに退避できなかったはずだ。状況は悪い。

 

「あんた、どういうつもりだ」

 

 剣を突き付け、睨みつけながら非難の声を投げかけるが受け取る側の男は意に介した様子もなかった。氷のように温度のない目は変わらず、能面のように色のない表情をしているくせに不気味に弧を描いた口元が嘲笑に歪んでいた。

 静かで、不気味な、今まで見たことのない人間の顔だった。こんなにも背筋を寒くさせる黒々とした気配など出会ったことがない。戦慄するほどの恐怖を感じた。

 

「どういうつもりもなにも……何を怒っているんです? ちょっと手元が狂ってしまっただけじゃないですか」

「白々しい。そんな言い訳を信じてもらえるとでも思ってんのかよ」

「ええ、本当に失敗しました。もう一呼吸遅らせていれば、今頃そこの卑怯者を血祭りにあげられたというのに」

「なに……?」

 

 ぞくり、と再びの冷気。

 違う。この男は言い訳をしようなどと考えていない。ただただディアベルが生き残っていることを嘆き、悲しみ、残念がっているのだ。表面上は理性的であるこの男は――もうとっくに狂ってしまっているのだと漠然と感じ取る。

 

「ベータテスターなどさっさと死んでしまえばいいんですよ。生きているだけ害です。いっそ罪だといって良い」

 

 台本を読むように淡々と告げる男の声に嫌な汗が背筋を伝う感触がする。この世界では汗などかかないのだから現実を生きていたころの名残、錯覚だろうか。

 人の良さそうな穏やかなこの青年は、しかし既に精神の均衡を失っていた。そしてもう二度と戻ることはないのだろう。多分、この世界で生きている限りは。現実世界に戻ることさえできれば、あるいは持ち直す可能性もあるのかもしれない。

 しかし――。

 意味のない仮定だ、と小さくかぶりをふる。結局のところ気休めにしかならない推測だった。

 

「……なにがあった? なぜそこまでベータテスターを憎む?」

 

 キバオウがベータテスターを嫌悪するレベルの話ではない。この男はベータテスターを躊躇なく殺そうとするほど憎んでいる。

 

「ありきたりのつまらない話ですよ? 僕があるベータテスターを信じて、そのベータテスターが僕を裏切って殺そうとしたってだけです」

「殺そうとしたとはまた物騒な……」

「あなたもベータテスターでしたね。ならホルンカの村のクエストを知っているでしょう? アニールブレード獲得クエストです」

「ああ」

 

 わからないはずがない。今、俺の装備している剣がまさしくそのクエストで入手したものなのだから。

 正式名称を《森の秘薬》クエスト。デスゲーム開始初日、はじまりの街に残ると口にしたクラインを見捨て、自己強化を優先した俺が真っ先に遂行しようとしたクエストだった。

 

「そこでコペルという名のベータテスターから、クエストクリアアイテムの入手のために協力しようと持ちかけられました。知っての通り、あそこのモンスターは少々特殊です。扱いを間違えると次々に仲間を呼ばれてどうにもならなくなってしまう」

 

 ああ、そういうことか。それはまた、コペルとかいうやつも随分悪質な真似を。

 

「《リトルネペント》の性質を利用したMPK(モンスタープレイヤーキル)か。あんた、よく生き残れたな」

 

 《森の秘薬》クエストをクリアするために必要なキーアイテムが《リトルネペントの胚珠》。身の丈1メートル半の自走捕食植物《リトルネペント》のレアドロップアイテムだ。レアドロップと言ってもアイテムドロップ率が低いのではなく、モンスター湧出確率が絞られているタイプで、リトルネペントは同種同名ながら個体別に三種類の特徴を持つ変則モンスターだった。

 まずは何の変哲もない《ノーマル》、胚珠をドロップするレア扱いの《花つき》、そして罠扱いの実を攻撃すると周囲一帯の仲間を呼び寄せてしまう《実つき》。

 

 奴らとの戦いの中で裏切られたというのなら、それは《実つき》を意図的に攻撃し、周囲一帯の敵を呼び寄せることで仕掛けるMPKだろう。その目的はプレイヤーが死亡した時に残される装備品とベルトポ-チの中身――恐らくはドロップに成功していた《リトルネペントの胚珠》。

 裏切りの背景を想像して暗澹(あんたん)たる思いを抱えながらの俺の指摘に、男は相変わらず穏やかそうな顔でにこりと笑った。その普通の反応がひどく怖い、そして悲しい。

 

「察しが良い。流石は《はじまりの剣士》殿です。ええ、そこで僕はあの卑怯者に多数のモンスターを擦り付けられて絶体絶命になりました。当の本人はハイディングで逃げ隠れしたようですがね。残念ながら僕は索敵にスキルポイントを振っていたので隠れることも出来ませんでした。……正直、今になってもどうやって逃げたか思い出せないんですよ。あの時はただただ逃げ惑い、必死で足を動かした記憶しかありません。気がつけばホルンカの村にいました」

 

 俺が《はじまりの剣士》? いったい何の冗談だ? いや、今はそんなことは後回しだ。

 

「あんたが悲惨な目に遭ったのはよくわかった。ベータテスターを憎む理由もわかった。それで……ディアベルを狙ったのは何故だ?」

「もう気づいているでしょうに。そこの男はベータテスターですよ。その事実をひた隠しにして討伐隊のリーダーなどと良い気になっている。どれだけ僕ら一般プレイヤーを馬鹿にするのでしょうね? あれだけ協力と団結を謳っておきながら、チャンスと見るやラストアタックボーナス狙いの独断専行ですよ。しかもそのサポートを僕に頼むのですからつくづく良いご身分なものだ」

 

 糾弾を受けたディアベルの無念そうなうめき声が響く。多分、こいつを信頼して自分がベータテスターだと明かしていたのだろう。その結果が裏切りとはディアベルも運がない。いや、この場合は人を見る目がないと言うべきか。信じるべからず人を信じた。そういうことだろう。そしてかつての裏切りの被害者は、裏切りの加害者側に鞍替えすることで恨みと怒りを晴らそうとしている。

 なんとも陰惨な因果のことだ。この男が俺に礼を言ったのもそのせいか。ベータテスターだとばらすことで集団の不和、俺の排斥を狙った。

 

「八つ当たりもいいところだ。あんたが恨むべきはそのコペルとかいうやつだろうに」

「ええ、ですが彼はいつの間にか鬼籍に入っていたようでしてね。それを知ったときは笑うよりも唖然としたものです。どうして僕の報復を待たずに死んだのだと」

 

 低く暗く笑う姿に、ああ、もう完全に狂ってしまっているのだなと思う。まるで現実感のない会話だ。今こうしている間にもフロアボス戦は続いているというのに、今となっては随分遠くの出来事に思える。

 茅場、お前の作り出した世界はこんなにも冷たく残酷だ。

 自然とため息が漏れた。

 

「その様子だと気づいてないんだな。多分、コペルとやらが死んだのはあんたをMPKしようと嵌めた時だよ。植物系モンスターに隠蔽スキルは通用しない。大量に集めたモンスターに囲まれて盛大に自爆したんだろうさ」

 

 ベータテスターの全てが正確な情報を保有しているわけでもなければ、都度正しい選択を取れるわけでもない。コペルという男は隠蔽スキルと相性の悪いモンスタータイプがいることを知らなかったのだろう。視覚以外の探知器官を備えたモンスターには隠蔽スキルの効果が著しく低下する。一匹二匹程度なら運が良ければやりすごせるかもしれない、しかし《実つき》を攻撃してしまったのならもはやどうにもならなかったはずだ。

 そんな俺の指摘がよほど意外だったのか、大きく見開いた目には単純な驚きしかない。無防備なその様には妙な愛嬌すら感じさせられた。

 

 そして顔も知らないベータテスターの自業自得に憐憫と怒りを等分に抱いた。いくらアニールブレードが第一層において破格の武器だろうが、所詮は数打ち武器に過ぎない。多少面倒なクエストをこなす必要はあるが、そのクエストに時間制限や人数制限はないのだ。

 要はアニールブレードという剣は労力に比較してコストパフォーマンスに優れた序盤の優良武器であり、運営が用意したお得クエストの一つに過ぎなかった。

 他プレイヤーを陥れて、まして殺そうとしてまで手に入れるほどの価値はない。せめてこの世界に一本しかない伝説の武器とかそういう超希少アイテムを対象にしろと言いたい。それでもこの世界の死が現実の死である以上、論外の行動であることに違いはないのだが。

 

 コペルというプレイヤーは近視眼的すぎて話にならない。ゲームクリアという大局がまったく見えていなかったのだろう。

 あるいはそれほどまでに自分の強化を優先したのか。俺と同じ方針でありながら、一線を踏み越えて自滅した。そう考えると苦い思いが胸にこみ上げる。お前も所詮はコペルと同じだと責められている気分だ。

 

「ハイディングにそんな弱点があったのですか。なるほど、全く気づきませんでした。やはりあなたは他のベータテスターとは違う。ベータテスターがあなたのような人ばかりなら僕は……」

 

 いい加減うんざりだ。今度は俺を無駄に持ち上げ始めた。勝手に美化して勝手に失望するくらいなら放っておいてほしいと思う。

 何を考えて俺を特別だと考えたのかは知らないが、俺とディアベルに大した差などない。むしろこうして攻略に必要な手を打ち、ばらばらだったプレイヤーの力を結集させようとしたディアベルのほうが、俺なんかよりよっぽど他人の役に立っているだろう。

 身勝手という意味では俺はコペルとかいうやつに近かった。初心者プレイヤーを見捨て、自身の強化だけをひたすら追及してきた身だ、褒められる要素など何処にもない。

 

「もう一つ聞かせろ。なんでフロアボス攻略なんていう大事な場面でこんな手ひどい裏切りを仕掛けた?」

「別にいつでもいいじゃないですか。一ヶ月も経とうというのにいまだ第一層すら攻略できていないのですよ。つまりこのゲームはクリアできず、みんなそのうち死ぬことに変わりはないんです。早いも遅いもないでしょう」

 

 駄目だ、と思った。まるで話が噛み合っていない。認識の前提からしてずれている。

 この男は既に生を諦めているのだ。ゲームクリアに活路を見い出すなどということをせず、現実世界への帰還を不可能と見切ってしまっている。

 だからこんなにも死者の顔色で、冷たく不気味な声音を出せるのだろう。この男が望んでいるのは死出の旅路を彩る道連れの存在か、それともわずかに残った人間らしさを象徴する恨みつらみの復讐なのか。

 どちらにせよ迷惑極まりない存在に成り果てている。

 

「長話が過ぎました。そろそろディアベルさんの麻痺毒も解けてしまいそうですし、死んでください」

 

 まるで今日の昼食のメニューを告げるがごとくの気楽さだ。

 この男に正常な判断力など残っていない。本人にも制御できない暗い情動に支配され、突き動かされているだけだ。

 

「近づくな! ボスを片付け次第あんたを監獄エリアに送り込んでやる、それまでおかしな動きをするんじゃない……!」

 

 声を張り上げて精一杯の虚勢を張る。しかし俺の警告などどこ吹く風だ。同じプレイヤーである己を斬ることは出来ないとたかを括っているのか、それとも何も考えていないだけなのか。薄い笑みを浮かべたその表情からは何も読み取れなかった。剣先を向けて脅す俺の口上にも全く頓着せずにゆっくりと近づいてくる。

 

 どうする、どうする、どうする。

 

 ディアベルはまだ動けない。他の連中は未だイルファング・ザ・コボルド・ロードを仕留められずにいる。そして俺も何ら有効な手立てが思いつかずに手をこまねくばかりだった。

 本来ならばこういったプレイヤー同士の争いや悪質なマナー違反には運営側の警告、最悪はアカウント排除のような手段が取られるべきなのだが、この世界に運営側の助けはない。茅場晶彦はこちら側のどんな要請にも、悲鳴にも似た嘆願にも一切応じることはなかった。

 ならばプレイヤー同士の争いはプレイヤー同士でケリをつけねばならない。

 しかし一体どうしろというのだ。ただのゲームならともかく、こちらでの死が現実の死になるこの世界で、同じ人間のプレイヤーを攻撃できるはずがない。抑止力の存在しない剣先は、やはり何の意味もなく虚空を彷徨うだけだった。

 

 

 そのはずだったのに。

 心の均衡が既に崩れた狂人は。

 死の重圧と人間の裏切りに壊れた哀れな男は。

 俺が向けた剣の切っ先を自らの心臓に定め、薄い笑みを浮かべながら。

 ただの一度も躊躇を見せず、あたかも操り人形の繰り糸に導かれるような気味悪い不連続の動きで。

 恐れることも怯むこともなく最後の距離を――あっさりと、無造作に、ゼロにしてしまった。

 何が起きたのか、起きようとしていたのか、起きてしまったのか。

 多分、俺は一生この時の事を忘れない。人を貫いた剣の感触を忘れない。

 

 

「――これで……あなたは英雄ではなく、ただの人殺しだ」

 

 紡がれた呪詛を最後に、爆発したポリゴン片が俺の視界を青く、白く灼きつけた。

 奇妙な虚脱が俺の心身から全ての力を奪い、石のように硬直した身体と思考の全てが自分のものではないかのように遠い。呼吸さえも忘れて俺の悉くが凍りついていた。いや、そもそもこの世界では自発呼吸をしているつもりになっていただけだったか。呼気すら吐かぬ偽者の身体、紛い物の仮想体(アバター)だ。その事実の空虚さと冷たさを思ってか、じわじわと心が(から)となり、罅割れが連鎖するかのように空洞ばかりが拡大していく。

 

 そうして俺は哀れな最期を遂げたプレイヤーへと痛みにも似た哀悼の思いを抱き――同時に絶望を知った。

 脳裏に反響する最期の言葉。呪いの調べ。

 人を安心させる優しく穏やかな声音が、こんなにもおぞましい呪文に聞こえるのだと初めて知った。

 知ってしまった。

 知りたくなんて、なかった……ッ!

 

 

 

 

 

 人が結晶となって無に還る。

 とても人間の死には見えない綺麗な――綺麗すぎる終わり方だった。

 俺は何も言えなかった。

 キリト君も何も言わなかった。

 俺もキリト君も黙したまま呆然とその場を動かず、やがてキリト君が無言のまま幽鬼のように立ち上がる。ゆらり、と。そして未だ健在だったイルファング・ザ・コボルド・ロードへと向かっていくのを俺は黙って見送っていた。

 

 麻痺が切れ、身体に自由が戻っても俺はぴくりとも動かなかった、動けなかった。人の放つあまりの毒気に当てられてしまったからなのか、それともあまりに痛ましいキリト君の顔を見てしまったからなのか。青白く凍りついた、喜怒哀楽の全てを削ぎ落としてしまったような凄惨な横顔を。

 俺が果たすべき責任、討伐隊を指揮するリーダーの責務を放棄していたことに気づいてはいたが、それでも今の俺は何もせずに見物を選ぶことしかできなかった。無力感に苛まれていたのか、それとも後悔に浸っていたのか、それすらわからない。

 

 その後はあっけないくらいわずかなうちに全て終わってしまった。

 キリト君は文句なしに強かった。彼を別働隊に当てた判断を今更ながらに後悔したほどだ。彼を初めから本隊に組み込み、アスナ君を彼の補佐に付ければ苦戦することなくイルファング・ザ・コボルド・ロードを撃破できたはずだ。それほどあの二人の連携は見事なものだったし、キリト君の強さは群を抜いていた。

 

 彼が強いことなどわかっていたことだ。その事実を無視して彼を別働隊に配したのは俺の我侭だった。ラストアタックボーナスを欲しがったがために戦力の分散を招いたのだ。ならば初めから俺はリーダー失格だったのだろう。

 俺が狙っていたラストアタックボーナスはキリト君が持っていった。ボスが撃破されたのだ、本来なら喜びの歓声が上がってもよかったはずだが、今この場にはしわぶきの声一つあがらない。誰もがキリト君の姿を凝視し、目を見開き、そして伏せた。何が起きたかを察したのだろうし、こちらのやり取りを聞いていた者、見ていた者とていただろう。隠し通せるはずもない。そもそも隠し通そうともしていなかったが。

 

「オレンジ……」

 

 ぽつりと、誰かが口にした。

 キリト君のキャラクターカーソルはオレンジ色に染まっていた。犯罪を犯したプレイヤーを示す証である。犯罪防止エリアの外でグリーンプレイヤーを害したとシステムに判定されると、攻撃を仕掛けたプレイヤーは犯罪者の烙印を押されることになる。そしてそれ以降、主街区への立ち入りや転移門の利用が不可能になる。これは犯罪を犯したプレイヤーに対するペナルティだ。

 だが、だが……ッ!

 

「どうしてキリト君がオレンジになるんだ! オレンジプレイヤーをグリーンプレイヤーが攻撃したってオレンジにはならないはずなのに……ッ!」

 

 声を張り上げて疑問を口にする。

 キリュウ君が俺をピックで攻撃した時点で彼はオレンジになっていたはずなのだ。犯罪者とシステムに認定されていなければならなかった。そしてオレンジプレイヤーをグリーンプレイヤーが攻撃しても、それはシステム上オレンジと判定されなかったはずだ。だというのになぜキリト君に犯罪者の烙印が押されている?

 誰も答えなかった。そも、一部始終ならともかく最初から最後まで当事者として関わっていたのは俺とキリト君だけだ。答えられないのも無理はないか。そんな沈黙を破り、俺が求める答えをもたらしたのはキリト君本人だった。

 

「多分、ディアベルを狙ったピックの軌道がイルファング・ザ・コボルド・ロードと重なってたせいで、あいつはオレンジ判定を免れていたんだろう。よくよく思い出せば、確かにあいつのカーソルの色は変化してなかった。グリーンのままだったよ」

 

 自嘲気味につぶやかれた声。当然だがその声に力などなかった。そして伏せ気味の表情は憔悴に満ちてあまりに痛々しいものだった。

 なんてことだ。

 ようやく吉報が届けられると思った。諦観に支配されようとしているはじまりの街の皆に、諦めることはない、ゲームクリアの日はくるのだと元気付けられるはずだと思った。今日はその記念すべき日になるはずだったのに。

 だというのに、はじまりの街の希望であったキリト君にあまりに重い十字架を背負わせてしまった。

 

 何もかもが予定外だ。停滞した現状を打ち破り、少しでも早く皆を解放するためには攻略を有利にする強力な武器防具が必要だと思った。だからこそ後ろめたい気持ちを抱えながらも貴重なラストアタックボーナスを狙った。

 これから先、高レベルプレイヤーの力を束ねてゲームクリアを一丸となって目指すためには、皆を引っ張っていけるだけの強さが要ると思ったのだ。プレイヤー同士の不満や仲たがいを押さえ込み、戦えないプレイヤー達の希望となるためには、何者にも負けない力が必要だった。

 その無茶の代償がキリュウ君の裏切りだったのか? 俺の不徳をキリト君に押し付けてしまったのか?

 やるせない思いが吐き気を覚えるほどに強く胸を締め付けた。

 

「ディアベル……さん」

 

 見上げた先に佇むキリト君はいつの間にかその装いを変えていた。夜の闇のように漆黒のコートを着込み、焦点の定かでない茫洋とした瞳で俺を見つめている。

 キリト君の着込むコートは今まで見たことのない装備品だ。NPCの経営する店売りの品ではない。おそらくこのコートが今回のラストアタックボーナスで獲得したアイテムだったのだろう。

 

「なんだい、キリト君」

「先に行きます。俺はもう街に入れないし転移門も使えない、アクティベートはお任せします」

 

 ベータテスト時はラストアタックボーナスを取ったプレイヤーが、現階層と次階層をつなぐアクティベートを起動させる役目を負っていた。それがフロアボス戦における殊勲者への名誉と祝いでもあった。……今のキリト君には酷なだけだろう。

 

「わかった。後のことは任せてくれ、君は何も心配しなくていい」

 

 これから先、彼には尋常でない苦難が降りかかることになる。せめてこの場の収拾と後の混乱の抑えくらいはやらなければ、とてもキリト君に顔向けできなくなってしまう。

 

「助かります。それと、あなたにお願いがあります」

「聞こう」

「ベータテスターを無駄死にさせないよう、今回討伐隊に参加したメンバーの中でだけでも情報交換の場を作り上げてください。正直、ベータテスターと初心者プレイヤーがいがみあう状況が続くとそれだけでゲームクリアが不可能になります。……なにより、《フロアボス戦で初心者プレイヤーがベータテスターにPKを仕掛けた》、この事実はゲーム攻略の足枷にしかなりません。そんな醜聞、間違っても広めるわけにはいかないんです。ですから、必要とあらばオレンジになった俺の名を利用し尽くすことも考えてください。ベータテスターと初心者プレイヤーの怒りを俺に向けてもらってかまわない」

 

 ――息を、呑んだ。

 君は、俺にそんな残酷なことをしろと言うのか。君を人殺しと罵り、切り捨てろと、そう言うのか……?

 キリト君の真意を理解した刹那、激昂そのままに、あるいは混乱そのままに、喉の奥から搾り出すような反論の叫びが飛び出していた。

 

「そんなことを……そんなことをできるはずがないだろう……!?」

「――できるはずだ! あんたがベータテスターとして責任を感じているのなら! ……できるはずなんです」

 

 急速に焦点を結んだキリト君の瞳が鋭く俺を射抜く。キリト君の返答は苛烈な叫びだった。あるいは苛烈に聞こえた、が正解なのかもしれない。

 自然と、手が、足が震えていた。心の戦慄きが身体にも伝染したように一向に治まらず、わけもなく何かを殴りつけたくなった。とても冷静でなんかいられない、いられるはずがなかった。

 

「キリト君……」

 

 慟哭の叫びをあげたかったのは何も俺だけじゃない。むしろキリト君こそ、この理不尽な仕打ちに叫びだしたかっただろう。何故、どうして、と。キリト君の心情を思えば俺にこれ以上何も言えるはずもなく、そしてそんな俺をキリト君はじっと見つめ、それからやるせなさそうに首を左右に振った。

 

「それに俺はそう長い間生きていられないでしょうから。もう、悪名も罵声も気にする必要がない。今回のこと、俺からは何も言うつもりはありません。だから後のことは全部お任せします。……約束、確かにしましたからね。失礼します」

 

 以後一切の弁明をする気はない、誤解を解く気もない、それが必要なことなのだと彼は告げていた。そんなキリト君の姿にまたしても同じ疑問が湧き上がり、湧き上がったそのままに空回る。

 何故だ。何が悪かった。どうしてこんなことになった。どうして君はそんなことが言えるんだ。どうして――。

 今のキリト君にかける言葉を俺は何一つ持っていなかった。そんな俺の言葉がキリト君に届くはずもない。俺自身を慰めるだけに終わる薄っぺらい言葉なんて恥ずかしくて口にできるはずもなかった。

 重い枷を付けられ引き摺っているかのような足取りは痛々しく、そんなキリト君に声を掛けられるものは誰一人とていなかった。重苦しい沈黙が支配する中、肩を落としたキリト君の背が少しずつ遠ざかっていく。

 

「……キリト君!」

 

 もしもそんな彼を引きとめる声があるとすれば、それは彼とコンビを組んでいた彼女以外にはいないだろう。この場の誰よりも彼女こそが相応しかった。キリト君は振り向かない。しかし足を止めてアスナ君の言葉を待った。

 

「わたしは……わたしも君と一緒に――」

「アスナ、その先は誰のためにもならない」

 

 それ以上は言わせない、そんなキリト君の言葉少なに語る決意にアスナ君の口も封じられた。

 オレンジだからだろうか。幾つものペナルティを背負い、この先謂れのない非難を受けることもあるだろう。

 ベータテスト時代からグリーンにカーソルを戻すためのカルマ浄化クエストの存在は噂されていたが、果たしてデスゲーム化された本仕様のソードアート・オンラインにそのような救済措置は取られているのだろうか? 最悪の場合、この先キリト君はずっとオレンジプレイヤーのままという未来もありえる。

 だからこそキリト君は、そんな茨の道に他人を巻き込むことを良しと出来ないのだろう。

 

「聞いてくれアスナ。君は強くなる。きっと、誰よりも強くなれる。君は、俺が今まで出会ったプレイヤーの中で一番戦う才能があるよ。それはこの世界ではとても貴重な資質なんだ。だから君は一緒に戦うことのできる、信頼できる誰かを探すといい。そして、もしも信頼に足る人からギルドに誘われた時は迷わず応えるんだ。それがこの世界を生き抜くかけがえのない力となる」

 

 だからもう俺のことは忘れろ。そんなキリト君の声が聞こえてくるようだった。

 穏やかな声だった。静かで、柔らかな――殉教者のような。

 

 まるで遺言だ。

 

 そう思ったのは俺だけじゃなかったはずだ。エギルさんは複雑そうな表情を隠すことなくキリト君をじっと見つめていたし、あれほどキリト君を嫌っていたキバオウ君は感情の矛先を見失って面白くなさげに視線を逸らしていた。なによりキリト君の言葉を真正面から受け取ったアスナ君の瞳からは一筋の涙が零れ落ちていった。

 誰も彼もが無言だった。

 そして、アスナ君の返事を待つことなくキリト君は行ってしまった。一度も振り向くことなく、粛々とこの場を立ち去っていく彼の姿は潔すぎて、余計に自分の情けなさが思い知らされるようだ。

 

 

 

 こうして第一層フロアボス討伐戦は終了した。

 第一層攻略という快挙に対する喜びはない。興奮もない。

 ただただ静かに、やるせない思いだけが募る時間が訪れたのだった――。

 




 《キリュウ》というキャラはオリジナルですので原作には存在しません。

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