ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第17話 仮想世界の申し子 (1)

 

 

 第22層の特徴は一にも二にも人が少ないことだ。

 敷地規模こそ低層故の広大さを保有してはいても、主街区である《コラル》からして小さな村でしかなく、層全体が森林みたいなものなのだからその辺鄙さも相当だろう。主街区と北に広がる迷宮区、それから層の中央、及び各所に点在する湖を除けばひたすら針葉樹が広がっているだけ。加えてフィールドにモンスターも出現しないため、狩りに訪れるプレイヤーも存在しない。

 この層で見かけるプレイヤーのほとんどはゲームクリアを諦めて細々と暮らすことを選び、日々の娯楽として湖で釣りに精を出す趣味人くらいのものだった。この層に引っ越してきてから数日の間で、上層で活動する顔見知りと出会ったことは一度たりともない。

 

 俺が購入したログハウスは広大な森の中でも外周部の程近くに位置していて、いわば層の外れだ。寝室の南側に設えた窓を開け放てば、陽光を反射してキラキラと輝く湖面と濃緑の木々の向こうに、一面の蒼穹を目の当たりにすることも出来る。俺達の生活するアインクラッドは超大型浮遊城であり、層の外縁部に足を運ばないと青空をお目にかかれないため、この景色を毎朝拝めるだけでもホームを作った甲斐があったと得心したくらいだ。

 ちなみに我が家の間取りはリビングと寝室の二部屋しかない。とにかく小さな一軒家なのである。とはいえ、ギルドホームのように大人数が常駐する目的で購入したものではないのだから、俺には何の不満もなかった。同居人にも不満はない、と思う。家具の選択や配置に悩んでデフォルト設定のままでいいか、と考えていた俺を察したのか、アスナが率先して部屋のコーディネートを請け負ってくれたので内装もおかしなことにはなっていないはずだ。

 

「うーん、記憶喪失の少女かぁ」

 

 我が家というのも良いもんだなとしみじみ感じ入っていると、食卓の席に座したリズが小さく首を傾げ、ぼんやりとした様子でつぶやいた。

 

「その子は《ユイ》って名前以外は何も思い出せないわけよね?」

 

 一度ちらりと視線を件の少女に向けた後、リズは思案気な表情を浮かべてその口に確認の問いを乗せる。リズが目をやった先には柔らかなソファーに腰掛けるサチと、サチの膝を枕にした黒髪の少女がお昼寝タイムを過ごしていた。時間的には午睡を通り越して夕飯前の時間だけに、お昼寝タイムというのもおかしいか。外はもう宵闇が訪れる刻限だ。

 あどけない幼子の可愛らしい寝顔を見せるユイと、慈愛の微笑みを覗かせてユイの頭を撫でるサチという、この上なく和やかな光景に眦が緩むのを自覚しながら、俺はリズの問いに頷いた。

 

「自分の親兄弟とか、今までどこで暮らしてたかとかも全く思い出せないらしい。記憶喪失ってより幼児退行って感じがするよ。ユイが目を覚ましてすぐの頃は、呂律も回ってなくて俺のことを《きいと》、アスナのことを《あうな》って呼んでたくらいだし」

「うへぇ、心の問題となるとあたしたちには荷が勝ちすぎる話よね。どっかに精神科医でもいないもんかしら?」

「どうだかなあ、この世界でそうした専門的なケアが出来るプレイヤーがいたなら、口コミだけでも相当広がりそうなもんだけど」

 

 アインクラッドにはその手の薬はないから、精神科医よりはカウンセラーの領分かもしれない。二人して暗く浮かない顔を突き合わせ、深々と溜息をつく。

 ユイに限った話でもない。二年前、この世界にいきなり放り出された当時ほどではないにしろ、今でも心のケアを必要としているプレイヤーは多いはずだ。

 

「ねえアスナ、血盟騎士団には何も情報ないの? あんたのギルドって情報通で有名じゃない?」

「最前線に関わることならともかく、それ以外となると厳しいかなあ。まして迷子とか探し人とかは完全に管轄外だもの。ユイちゃんって多分下層で暮らしてたんだと思うしね」

「そりゃそっか」

「そっちも問題だけど、ユイちゃんのバグも頭の痛い話なのよね。一応装備欄の変更ができるのは確認したけど、右手を振り下ろすわたし達のコマンド呼び出しと違って、左手を振り下ろさないと表示できなかったり、ウインドウを可視化モードにしてもレベルや経験値バーすら表示されなかったりともう滅茶苦茶。わたしもキリト君もさっぱりで、どうしたらいいのか見当もつかないわ」

 

 エプロン姿でキッチンに立ち、楽しげに料理を作っているアスナが肩越しにリズと言葉を交わす。不幸中の幸いだったのは、ユイと接していても他のプレイヤーにユイと同じ症状が出ていないことくらいだ。もちろんそれも現時点でのものに過ぎないが。

 アスナがてきぱきと使いこなしている我が家の調理器具は、その大半がアスナによって選ばれ俺が買わされたものだったりする。中にはアスナが自宅から持ち込んだものすらあるのだから、既にこの家の主が交代しているような気がしないでもない。

 「ユイちゃんに出来合いの美味しくないご飯を食べさせる気?」というアスナの一睨みに、早々と白旗をあげてごめんなさいをした俺を誰が責められよう。ただ、ユイの食事に託けて、アスナの手料理を用意してもらえる幸福を地味に噛み締めている俺だったりもするわけだが。役得役得。

 

「新聞の探し物や訊ね人コーナーにも迷子の情報はなし。これはいよいよまずいんじゃない?」

「ああ、やばい」

 

 肩肘をついた姿勢で次々とウインドウを操作して幾つもの新聞(ニュースペーパー)に目を通し、顔を顰めて口にされたリズの言葉はいちいち尤もだった。俺もアスナも日毎に確認してはいたが、未だにそれらしい情報はない。アルゴに頼んで匿名で迷子を保護した文面も載せてもらったりと手は打ってみた。しかしそちらも収穫なしだ。

 リズが確認したことも今更と言えば今更なわけだが、改めてどうしようもない事実を突きつけられ、さらにどんよりと空気が重くなった。

 

 ユイを探しているプレイヤーがいないということは、それはつまり、ユイの保護者プレイヤーが既にこの世界にいないということにつながる。いや、それよりも問題なのは、ユイが親なり兄妹なりと一緒にこの世界にログインしたのではなく、たった一人でこの世界に来たまま閉じ込められ、二年間を孤独の内に過ごしていた可能性すらあることだ。もしもユイがそんな事態に陥っていたとすれば、とてもそんな過酷な環境に耐えられたものではないだろう。心を閉ざして記憶を失ってしまうのも無理はない。

 そこまで考え、脳裏に浮かんだ最悪の想像を振り払うように軽く息をつき、気分を一新させる。まだユイを保護して四日目だ、諦めるには早い。

 

「まあ、その子に起こってるっていうバグも含めて、ここであたし達が悩んでても解決するわけじゃないし、必要以上に暗くなってても仕方ないんだけどね」

「リズのそういう前向きなとこ、すごく助かるよ」

「褒めても何も出ないわよー。で、キリトとアスナが頼みたいことってのは、あんた達が攻略に向かってる間その子の面倒を見てほしいってことだっけ? メッセージでも伝えておいたけど、あたしは構わないわよ。毎日となると難しいけど、時間が作れる時なら協力してあげる」

「恩に着る。どうにも子育て舐めてたというか、改めて両親の偉大さを認識してるとこだ。色々生活が簡略化されてるアインクラッドでさえここまで苦労するんだから、世の父親母親はすごいもんだよなあ」

 

 そもそも保護しようとした少女が記憶喪失なんて想定していなかった。いきなりここまでの暗礁に乗り上げるとか予想外だ。

 ユイは精神性が著しく退行しているせいかえらく危なっかしい。言ってみれば常識知らずな子供だった。見た目は八歳前後でも中身はもっと幼い。さすがに赤ん坊並ということはないが目を離すには不安が募るのだ。

 しかし一日中ユイの世話にかかりっきりになっていては俺が攻略に参加することが出来ない。75層をクリアしたとはいえ、まだまだクリアせねばならぬ階層は数多く残っているのだから、ここでのんびりしているわけにもいかなかった。

 

 俺とアスナで交代しながらなんとか時間のやりくりをしてはみたのだが、結論から言えばユイの面倒を見る事と攻略を両立させる事は不可能という事実が早々に浮き彫りになった。加えてユイの両親探しを並行させる必要もあるのだから、俺とアスナが早々にギブアップしたことは言うまでもない。

 そこでまず白羽の矢が立ったのがサチであり、今ここにいるリズだった。リズ達には申し訳なく思うものの背に腹は変えられなかった。一応ユイの抱えるバグの問題と危険性は伝えておいたが、彼女らは二つ返事で了承してくれたのだから頭が下がる。

 それに――。

 

「最前線でゴタゴタがあった関係で、今の時期に俺が攻略から足を遠のかせるわけにもいかなくてな。今までが今までだったからか、最前線に篭る時間が短くなっただけで俺のドロップアウト説が囁かれるのはどうしたもんだか」

 

 ヒースクリフ達の前で遺恨はないと宣言した以上、殊更血盟騎士団と距離を置くような真似は出来ないし攻略を疎かにすることも出来ない。言葉だけで信を貰えるはずがないのだ、出来うる限り行動で示さないと。

 それにあんなことがあったからって攻略に消極的になりでもしたら俺が拗ねてるみたいじゃないか。いくらなんでも血盟騎士団に当てつけるために攻略時間を削ったりなんてしないぞ。

 

「確かに悪い時期に重なったわねえ。アスナもよく時間を確保できたものだと感心するわ」

「うちはここ数日ほとんど攻略に出てないからね。団長が気持ちを整理するための休暇期間も必要だろうって皆に休みを取らせたから」

「アスナだって改めて攻略シフトを練ったり他のギルドに頭を下げに行ったり、何より部下のケアをしなきゃならないしで多忙には違いなかっただろ。明日から本格的に活動再開するんだっけ?」

「そういうこと。今のところ退団者が出てないのが唯一の救いね、身内から裏切り者を出したことは皆堪えてたみたいだから」

 

 そりゃなあ、と自然と眉根が寄ってしまう。人的被害が裏切りの張本人しか出なかったのは不幸中の幸いだが、血盟騎士団の団員にとっては衝撃的だったろう。というか攻略組全体に動揺は広がっている。他のギルドにだってPoHの手が伸びている可能性は否定しきれないのだ。今のところ表立った問題には発展していないが、PoHの撒いた疑心暗鬼の芽はどうしたって摘みきれるものではない。

 PoHのこういうところが腹立たしいんだ。クラディールの企みが成功しようが失敗しようが、PoHの目的に沿った結果にしかならないんだから。どちらに転んでもいいように駒を配置し、自身は高みの見物に興じて俺達を嘲笑っているのがあの男だった。地獄に落ちてしまえ。

 

「ねぇキリト君、そろそろメインの調理も終わっちゃうけど、大丈夫なの?」

「多分。いいかげんアルゴ達も来るはずなんだが――っと、ジャストみたいだ」

 

 キッチンから振り向くアスナに返答を返そうとすると、とんとんと規則正しく扉をノックする音が響いた。

 圏内だからこそのリラックスを継続したまま、席を立って扉へとゆっくり近づいていく。そのまま無造作に木製の玄関口を開くと、目の前に立っていたのは小柄な少女だった。彼女のトレードマークでもある小竜も元気そうだと目を細める。

 

「いらっしゃい、シリカ。歓迎するよ。アルゴはどうした?」

「あ、あの……」

「ん?」

 

 予想していたツーショットじゃなかったことに少しばかり驚いていたのだが、すぐにシリカの様子がおかしいことに気づく。俯き気味に伏せられた(かんばせ)は、ここまで全力で走ってきたかのように上気した朱色に染められており、彼女の視線もそわそわと落ち着きなく左右へと揺れていた。常は人と目を合わせて、はきはきと喋る快活な少女にしては珍しいことだと首を傾げていると――。

 

「キ、キリトさん! あの、その……あ、あなたのシリカが大切なものを捧げにきました……!」

 

 ――特大の爆弾が落とされましたとさ。

 

 心なしか俺の背後で空気が凍りついている気がする。よし、振り向かないことにしよう。

 シリカは祈るような姿勢で手を組み、潤んだ瞳で俺を見上げている。何の演出だこれは、と気が遠くなった。どうか受け取ってくださいと涙目かつ上目遣いで懇願するシリカの姿に俺はノックアウト寸前である。……主に胃が。もしくは俺の社会的地位が。そういうカミングアウトは二人きりのときにお願いしますシリカさん。

 シリカを唆した黒幕が脳裏に浮かび上がり、脱力が増していく。今回の悪戯も中々に手が込んでやがるな、おい。

 

「シリカ、今度はアルゴに何を吹き込まれたんだ? もしかして罰ゲームでもやらされてるのか?」

「わわ、違います違います。全然全くこれっぽっちも罰ゲームなんかじゃないですし、むしろご褒美みたいなものでして。アルゴさんからキリトさんのお引越し祝いに参加する権利を譲って貰った交換条件と言いますか……」

 

 ぐるぐるお目目かつ早口でまくし立てるシリカに和みそうになるが、同時に何だかなあと頭痛が襲い掛かってもくるのだった。

 

「それは見事に騙されてるんじゃないか? アルゴに声掛けた時にシリカも一緒に連れてきてくれって言ってあるぞ」

「うぅ、アルゴさんひどい……」

 

 毎回アルゴにからかわれてるんだから、そろそろシリカにも耐性ついて良い頃なんだけどな。とはいえ、シリカにアルゴみたいな根性悪になられても困るため、この可愛らしい竜使いには今のままでいてほしいと切に願っておく。

 

「それで、アルゴが来てないのは?」

「えっと、アルゴさんから預かった言葉をそのまま伝えますね。《オレっちガキは苦手だから遠慮しとくヨ。必要な情報は全部シィちゃんに伝えてあるから心配しなくていいゾ》、だそうです」

「ものぐさな奴め」

「いえ、アルゴさんなりの冗談だと思いますよ? 別件が入ったって言ってましたし」

 

 慌て気味にアルゴを弁護するシリカにわかってると苦笑しながら伝えた。アルゴの顔の広さはアインクラッド有数のものだし、急な用件が入ることもあるだろう。残念ではあるが仕方ないと言い聞かせ、シリカを伴い改めて食卓の席についた。さて、微妙な空気が漂う中で皆にはどう説明したものだろう?

 

「シリカ、あんたってそんな大胆な事を言う子だったのねぇ」

「お願いですから言わないでください。……もう、アルゴさんのばかぁ」

「人のせいにしちゃ駄目よ。《騙される方が悪い》、でしょ?」

 

 行儀良く席につくや恥ずかしさに縮こまってしまったシリカを見て、にんまりと笑ってからかい倒したのはリズだった。

 

「そういえばリズとシリカは面識があったっけ」

「あんたが紹介してくれた大事なお客様ですからね」

「あ、キリト。私もシリカちゃんとは会ったことある」

 

 なんですと?

 些かの驚きと共にサチに目をやると、彼女は変わらずユイを膝に乗せたままふんわりと微笑んでいた。

 

「サチさんとはアルゴさん経由で知り合いました。月夜の黒猫団の皆さんともその時お会いしましたよ」

 

 シリカの補足説明に思わず唸り声をあげてしまった。ううむ、意外な人のつながりを見た気分だ。

 

「あれ、もしかしてわたしだけハブられてる?」

「単に機会がなかったというか間が悪かっただけだろうけど、結果的にはそうなってるかもな」

「キリト君ひどい! えっと、シリカちゃん、でいいよね? はじめまして、アスナっていいます」

「わあ! お会いできて光栄ですアスナさん、あたしのことは好きに呼んでください!」

 

 自分一人面識がないことに微妙にショックを受けている様子だったが、すぐにアスナは気を取り直してシリカにお茶を差し出していた。そんなアスナを見るシリカの目は一目で尊敬しているとわかるもので、やっぱ素直だなあシリカって、などと腕を組んで感心してしまう。

 

「ところでキリト君、さっきから何度かアルゴさんの名前が出てるけど、もしかしてシリカちゃんって普段はアルゴさんと一緒にいるの?」

「普段からどの程度行動を共にしてるのかは俺も知らないんだけど、どうなんだシリカ?」

「さあ、どうなんでしょう? アルゴさんのお仕事の手伝いはさせてもらってますけど、毎日一緒にいるかと言うと違いますし」 

 

 シリカ自身もどこか曖昧な物言いだった。

 

「あたしは以前、キリトさんに助けてもらったことがあるんです。その時、レッドギルドに目をつけられた可能性があるからしばらくは身辺に気をつけろ、って注意されました。それでキリトさんからアルゴさんを紹介していただいて、アルゴさんに面倒を見てもらってたんですよ。アインクラッドの情勢とか近づかないほうが良い場所とか色々教えてもらいました。その縁で今でもアルゴさんのお手伝いをさせてもらってるんです」

「へぇ、じゃあシリカちゃんは情報屋見習い?」

「あはは、簡単な聞き取りとか情報整理くらいしかさせてもらってませんけどね」

「そんなシリカに朗報だ。アルゴがシリカのことを筋が良いって褒めてたぞ」

「ほんとですか!?」

 

 途端に喜色満面になるシリカだった。アルゴのことをどれだけ慕ってるのかを伺わせる反応である。当初は仲良くやれるのか心配もしたものだが、普段から斜に構えたアルゴと何事においても素直なシリカは意外に相性が良かったらしい。俺の心配も杞憂に終わって何よりだ。

 

「ああ。ついでに『人に警戒されない娘だから、噂話とかを無料で聞き出すのにこれほど向いてる人材はいない』って絶賛してたぜ?」

「あれ? それってあんまり褒められてる気がしませんよ?」

「そんなことはないぞ、十分褒められてるって」

 

 アルゴも随分名前が売れてるしな。『五分雑談すると知らないうちに100コル分のネタを抜かれることになる』だなんて、《鼠のアルゴ》を揶揄する評判もあるくらいだ。情報屋なんてやってれば多かれ少なかれそういう悪評は付き纏うもんだし、本人はまったく気にせず笑い飛ばしていたけど。そういう意味では、誰とでもすぐに仲良くなって相手に警戒心を抱かせないシリカの天真爛漫さは、アルゴが評価するには十分だろう。

 しばらく疑問符を飛ばしていたシリカだったが、やがて「あっ」と声をあげて慌てたように立ち上がった。そのままぺこりと頭を下げる。

 

「ご挨拶が遅れちゃいました。お引越しおめでとうございます、キリトさん。それから本日はお招きいただきありがとうございます」

「ありがとな。シリカも肩肘張らずにくつろいでいってくれ」

「はい!」

 

 律儀なことだと苦笑していると、今までシリカの傍でお行儀良く毛繕いをしていた小竜のピナが「きゅる」と一声鳴いてみせた。翼を広げてシリカの元を離れると、俺の肩にぱたぱたと舞い降りる。

 

「ちょっとピナ、どうしていつもキリトさんの方に行っちゃうの。戻ってきなさいってば!」

 

 主の命令にもピナは我関せずとばかりに再び毛繕いを始めてしまう。こいつも大概不思議なやつだよな、普通ティムモンスターは飼い主のビーストテイマーから自発的に離れたりしないもんだけど。

 ピナはずっとシリカと一緒に生きてきてるわけだし、長く使い魔モンスターをやってるとこうしてイレギュラー性を増すこともあるのだろうか? そんな推論を抱きながら、いつも通り猫にするような手つきでピナの喉を撫でてやると、嬉しそうに俺の腕に顔をすり寄せてくるのが可愛い。こういう人懐っこいところは飼い主に似たのかもしれない。

 

「楽しそうなとこ悪いけど、お料理できたから運ぶよー。サチさんはそろそろユイちゃん起こしてあげてくださいね」

「あたしも運ぶの手伝うわ」

「ありがとリズ」

 

 頃合と見たのか火を落としながら告げるアスナに、真っ先にリズが手伝いを申し出て席を立つ。アスナに呼びかけられたサチは今まで静かに寝息を立てていたユイの身体を揺り動かし、優しく覚醒を促していた。程なく小さな黒髪の少女が寝惚け眼で身体を起こす。まだ意識が戻りきらないのか、ぼーっとした顔で周囲を見渡した。

 ぱちりと俺と目が合う。

 すると蕩けるように笑み崩れ、「わー、パパー」と間延びした甘い声で俺を呼ぶのだった。……俺、今なら親馬鹿って言われる人達がどんな気持ちなのかよくわかる。それはもう切実に。

 

「パパー、だっこ」

 

 俺に向かって両手を差し出すユイに俺も笑い返し、早く迎えにいこうと立ち上がった。その時、絶妙なタイミングでピナが俺の肩から飛び上がり、定位置のシリカの肩へと戻っていく。

 

「お、おかえりなさい? ピナ」

 

 あまりに空気を読みすぎているペットモンスターの機転にシリカも目を丸くしていた。本当にお前ただの使い魔モンスターか? ちょっと賢すぎる気がするぞ。

 しかし今はユイが優先だと歩を進めていく。悪いなピナ、後で一緒に遊んでやるから。

 

「ユイちゃんはキリトによく懐いてるわよね」

 

 食卓に次々と食器を並べながら呆れ混じりの視線を寄越すリズだった。そんな視線も何のその、全身から喜びを発散しながら抱きついてきたユイを抱えあげ、笑みを交し合う。

 

「うん、間違いなくユイちゃんはキリト君に一番懐いてるわね。サチさんにも相当だと思うけど」

「私よりは断然アスナさんだと思うよ? ユイちゃんがママって呼んでるのもアスナさんだし」

「……最初に保護したのがキリト君とわたしだから、きっとそのせいね」

「ふふふ、アースーナー? 顔がにやけてるわよ」

「え、嘘!?」

「わわ、アスナさん食器落ちちゃいます!」

 

 和気藹々と食事の準備を続ける女性陣の華やかさは中々のものだった。仲がよくて結構なことだとわけもなく嬉しくなってしまう。

 しかしパパにママか。やっぱりユイは失った記憶の向こうで両親を求めているんだろうか? 今は思い出せない記憶の中にある両親の面影に俺とアスナを重ねているとすれば、これほど不憫なことはない。

 

「パパ、どうしたの? かなしいの?」

 

 無垢な瞳を俺に向けたまま、どきりとする洞察を見せるのは子供の素直さ故なのだろうか。時々ユイはこんな風に、こちらがびっくりするような鋭さを披露することがある。周囲の感情の動きに敏感なのだろう。

 悲しくなんてないぞと示すようにユイの頭をぽんぽんと優しく撫でて、曇り気味だった表情を引っ込め、笑顔を向ける。父親代わりをしている以上、娘を不安がらせちゃ駄目だよな。

 

「大丈夫、パパはいつだって元気一杯だぞ。それに今日はママが腕によりをかけたスペシャル料理を作ってくれたんだ。もっともっと元気になれるし、きっとほっぺが落ちちゃうくらい美味しいからな。楽しみだ」

「ほっぺ? ユイのほっぺおちちゃう?」

「ああ、何といってもママが料理してくれるS級食材の《ラグーラビットの肉》だからな、ちょっとやそっとじゃ食べられないレア物だ」

 

 《ラグーラビットの肉》は昔、リズに剣を打ってもらう前金代わりに渡した食材であり、後に剣の代金はいらないと言って突き返そうとするリズに、それくらいは受け取っておいてくれと俺が受け取り拒否した物だった。

 結局、リズは今日まで自分で食べることも売りに出すこともなく、今回俺のプレイヤーホーム購入祝いにしようとその高級食材を持ち込んだのである。リズの言い分としてはS級食材を料理できる知り合いがアスナだけで、多忙なアスナに頼む機会を見つけられないままアイテムストレージを占有し続けてたから丁度よかった、だそうで。リズも下手な嘘をつくものだと思いながら、何も言わずに彼女の心遣いを受け取った。

 賞味期限がない世界ってのはこういう時に便利だ。ストレージに収納している限り食材の耐久力は減らないから、半永久的に食材を残しておける。ちなみに料理スキルマスターかつオリジナル調味料考案者のスーパー料理人ことアスナは、《ラグーラビットの肉》を見て喜色満面に「煮込み(ラグー)って言うくらいだしシチューにしましょう!」と燃えていた。……アスナ、お前、ボス戦を控えてる時より気合入ってなかったか?

 

「ユイ、ママのつくるごはんすきー!」

「そうかそうか、パパもママのつくるご飯好きだぞー」

 

 きょとんとした顔で首を傾げた後、万歳をするように喜びを露わにするユイがとても微笑ましかった。もう一度軽く撫でてから食卓の椅子を引き、ユイを席に座らせようとすると、「パパといっしょがいい」と再び手を伸ばされてしまう。わずかの間思索を飛ばすも、ユイの望み通りにしようとさっさと結論付けてしまった。

 

「キリトはきっと子煩悩なお父さんになるよ」

 

 ユイを膝に抱き上げて席についた俺に、サチはそう言ってくすくすと楽しげに笑みを零したのだった。

 

 

 

 

 

「結論から言わせていただきますね。現在、ユイちゃんは《存在しないプレイヤー》と言って過言ではない状態です」

 

 皆でアスナ謹製のオリジナルレシピを駆使した料理と、本日のメインメニューである《ラグーラビットの肉》を使ったシチューを囲って舌鼓を打った後、食後のお茶を口にしながらのシリカの言葉だった。前置き通りに単刀直入な物言いである。

 

「シリカ、もう少し詳しく」

 

 俺の膝の上でピナと戯れるユイは自分の話題が振られても気づいた様子はなかった。ユイはこの場に残さず先に休ませようとも思ったのだが、さすがに寝起きだったからかまだまだ遊び足りないらしく、すぐに寝室に入るのを嫌がった。というか俺と離れるのを嫌がった。

 最近ユイが世界一可愛い娘だと思うようになってきた俺は悪くないはずだ。世のお父さんは皆、娘にこんな感情を抱くのか。

 

「はい。まだ調査も始めたばかりなので、これから継続して情報集めを続けなきゃならないことも踏まえてお聞きください。まず黒鉄宮の生命の碑ですが、ユイちゃんの名前は記されていませんでした。……正確に言えばプレイヤー名《Yui》は存在します。ですがその名前は既に横線が引かれていて――つまり故人のものなんです。ちなみに日付は一年以上前のものでした」

「それってここにいるユイちゃんが幽霊ってこと?」

「ひっ! リズぅ、そっち関係のお話は止めてよぅ」

「ごめんごめん。そういえばアスナってお化けが駄目なんだっけ」

「……だ、大丈夫だよ? 最近はアストラル系モンスターとだって戦えるようになったもん。た、多分……!」

 

 アスナ、お前が頑張ってることは俺が良く知ってるから無理するな……。

 

「いえ、生命の碑に記されていた《Yui》さんについては生前を知るプレイヤーから証言が取れてます。お亡くなりになった《Yui》さんは成人女性相当の外見だったそうですし、別人と判断して構わないでしょう」

「そっか。それじゃ、ユイのステータスで表示された《Yui-MHCP001》の方は? バグで文字化けしてる可能性も高いけど」

「はい、そちらも生命の碑に記載はありませんでした」

 

 やっぱりかと嘆息してしまう。

 

「《ユイ》で思いつくアルファベット文字列も確認してみましたけど、収穫はなしですね。それから主街区と例外的に人口密度が高い村を中心に下層で聞き込みをした結果、そっちもユイちゃんくらいの年齢、容姿に思い当たる人は見つかりませんでした。よって今のところ手がかりなし、です」

「なるほど、だから《存在しないプレイヤー》って言ったわけか」

「はい」

 

 こいつは参った。

 ユイくらい特徴的なプレイヤーならすぐに保護者も見つかるだろうと楽観していたのだが、保護者どころか生活の痕跡すら見当たらないというのはな。ユイを知るプレイヤーが一人でも見つかればそこから調査も進むのだろうけど、現状影も形もない。

 今までユイはどこでどんな生活を送ってきたんだろうと眉間に皺を寄せて天井を仰ぐ。謎ばかりが深まり、手がかりはなにもなしってのはつらい。

 

「力になれなくてごめんなさい、キリトさん」

「何言ってんだ、こんな短い時間でここまで調べてくれたんだから十分すぎるほどだって」

「あはは、その言葉はアルゴさんに言ってあげてください。ほとんどアルゴさんが調べ上げたことなんですから。アルゴさんは信じられないくらい顔が広いですよね、尊敬しちゃいます」

「勿論アルゴには後で礼を言っておくよ。でも、今はシリカに感謝しなきゃだからさ。本当にありがとな、助かった」

「え、えへへ。褒められちゃった」

 

 照れたようにはにかむシリカを微笑ましく眺めながらお茶を一口啜る。うむ、美味い。クラインお勧めのものだけど結構いけるな。しばらくは我が家に常備させておこうか。

 

「なかなか上手くいかないものね」

「ああ」

 

 マグカップを抱えながらのリズの台詞に俺も首肯を返すしかなかった。不謹慎ではあるがモンスターを相手にしているほうがずっと容易い難易度だとさえ思える。ユイの失った記憶のことも追々考えなくちゃいけないだろうしな。

 

「ユイの両親探しは引き続きお願いしていいか? 今のところアルゴとシリカに任せるしかないんだ」

「わかりました。それとアルゴさんから、あたしは調査よりもユイちゃんのお世話を優先するよう言われてますから、何でも言ってくださいね」

「そっか、助かるよ。何から何まで悪いな」

 

 いえいえ、と恐縮するシリカに真摯に頭を下げる。ここまで親身になってもらえるのは嬉しいけど、お礼はどうしたもんか。

 

「俺とアスナも可能な限り時間は確保するつもりだけど、察しの通り攻略を休むには時期が悪い。なるべく最前線に顔を出す必要があるから、どうしても皆に負担をかけることになっちまうんだけど……すまん、よろしく頼む」

「水臭いこと言わないの、困った時はお互い様でしょ。それにユイちゃん可愛いから大歓迎よ」

 

 肩を竦めて何でもないように口にするリズに、シリカやサチも同調するように頷いた。俺としてはただただ感謝する他はない。アスナと顔を見合わせてほっと息を吐いた。

 

「ところで――」

 

 妙に音を区切って強調するリズに何事かと全員の目が向く。全員の視線を集めたリズは何とも意地の悪そうな顔で笑っていた。

 

「さっきユイちゃんが、シチューをスプーンで掬ってキリトに《あーん》をしてあげてたわよね?」

 

 なんだ、そんなことか。一体何を言い出すのかと一瞬身構えた身体を脱力させてしまう。確かに夕食の席でユイが俺にスプーンを差し出していたし、俺もそれを戸惑うことなく受け入れていた。これはリズに《親馬鹿》とでもからかわれるのかな、と苦笑いを浮かべた俺だったが、生憎からかいの対象は俺ではなかったようで――。

 

「ユイちゃんって記憶喪失って話だったわよねぇ。だったらユイちゃんがキリトにしたことって誰かの真似事だと思うんだけど、一体どこのどなた様が《あーん》なんてベタなことをユイちゃんの前で披露してたのかしら」

 

 リズの目は獲物を見つけたと言わんばかりに怪しげな光を放ち、口元は愉しげな笑みに歪んでいた。それは悪役の笑い方だぞリズ。

 さて、リズに疑惑をかけられている栗色の髪の少女はと言えば……引きつった表情を浮かべ、全力で目を逸らしていた。うん、一発で『わたしが犯人です』と自供してる振る舞いだ。

 

「アースーナー」

「な、なにかなあ、リズ?」

 

 おどろおどろしいリズの声が不気味に木霊し、アスナはより一層身体を強張らせていた。そのまま痛いほどの沈黙が降り、やがて皆の視線の集中砲火に耐え切れなくなったのか、ぼそぼそと言い訳がましい様子でアスナが口を開く。

 

「だってだって、ユイちゃんがあんまり可愛くて、自然と『わたし達って新婚さんみたいだなあ』とか思っちゃったんだもん。結婚は女の子の夢なんだし、それくらい許してよー」

「ギルティ! そもそも子供がいるのにどうして新婚さんなのよ。っていうかあんたの新婚さんイメージは乙女チックすぎ!」

 

 リズはぴんと伸ばした指を突き付け、アスナの可愛らしい主張に一片の容赦なく有罪判決を下したのだった。そうなると俺も同罪なんだろうか? お互い悪ノリしてやらかしてしまったことではあるし、あの時はスプーン……じゃなくてフォークを差し出すアスナの幸せオーラに押されて、見事に流されてしまったことも事実だけど。

 

「ほらシリカ、あんたも何か言ってあげなさい」

「え? その、あの……あ、あたしも同じことをやってみたいかなあ、なんて」

「……あんたやっぱり見かけによらず大胆だと思うわ」

「そんなことないですってば!」

「うぅ、サチさーん、リズがいじめるんです。助けてください」

「あ、こらアスナ、そこでサチさんに頼るのはずるいわよ」

 

 賑やかだなあとどこか遠い目で騒ぎを見つめる。『女三人寄れば姦しい』、どうやらその格言は正しいらしい、しみじみ実感してしまった俺である。眼前には男性お断りな世界――とても華やかな空間が出来上がっていた。

 

「えっと……キリト? アスナさんが困ってるんだし、こういう時はキリトがフォローしてあげなきゃ駄目だよ」

「パパ、だめー」

 

 サチの言葉尻に乗っかる形でユイにも駄目出しされてしまった。もちろんユイはサチの真似をしてるだけに過ぎないんだが、だからと言って無視できるものでもない。

 うへぇ、この場の男女比において圧倒的マイノリティに属する俺に対してご無情なことを仰る。そんな嘆きもそこそこに、「りょーかーい」と早々に諾を返す俺だった。サチに叱られるだけでも問答無用で頷きたくなるのに、ユイにまで同じことされた日には白旗をあげる以外に俺に打てる手はない。そして、それも悪くないと思うのだった。

 

 

 

 

 

 俺のプレイヤーホームへの引っ越しを皆に祝ってもらってから一週間と少し、暦は十月へと変じていた。

 その間俺は以前に比べれば格段に少なくなった攻略時間に若干の後ろめたさと焦慮を抱きながら、少しでも攻略効率を稼ごうと奮闘を繰り返す。アスナもアスナで懸命に血盟騎士団の士気回復に努め、どうにか平常運転が可能なところまで盛り返していた。クラディールの裏切りが発覚した当初の混乱も収まりつつある。アスナから聞かされるギルドの内情にほっと一息ついた俺だった。

 慎重かつ迅速にマッピングを完成させていく作業は俺にとってのルーチンワークなので、今までと殊更変更するようなものはない。それに懸念だった76層の攻略難易度も突然跳ね上がるようなことはなかった。

 あとはフロアボスの難易度がどうなるか、だな。75層のこともあるから安易に偵察隊を出すわけにもいかないし……はてさて、ヒースクリフはどう考えているのかね?

 

 その一方でユイの問題は解決の兆しを見せず、暗中模索状態だった。本来の保護者は影も形も見出せず、ユイに起こっているバグも一向に収まる気配がない。圏内に留まらせる限り目立った不都合がないのが救いだった。

 皆に大きな負担をかけている以上、何かしらの手を打つ必要はあるのだが、何せ俺も攻略と両立している関係で時間の確保が難しい。ユイもサチ達に懐いているとはいえ、俺かアスナが長時間姿を見せないと寂しがって泣きそうになるため、おいそれと迷宮区に潜り続けるわけにもいかなかった。子育てって大変だ。

 

 そんなこんなでサチ達にボランティアを求めるのも心苦しく、ユイの相手をするために22層に戻ってきている時は、なるべく彼女らのお願いも聞こうと心に期する次第だった。

 だからというわけでもないが、今日はシリカの申し出で彼女の決闘相手を務めていたりもするわけで――ログハウス前の開けた庭に竜使いの裂帛の気迫が放たれる。

 

「いきます!」

 

 決闘開始のカウントダウンがゼロになり、律儀に一声かけてから動き出したシリカに思わず微笑ましい気分になった。真面目というか真っ直ぐというか。

 地面を滑るような身のこなしを見せて、シリカの小柄な身体が素早く俺の間合いへと踏み込む。間髪入れず繰り出された短剣の攻撃を、俺は右手に握ったエリュシデータで弾き返した。もちろんそれだけでシリカの猛攻が終わるはずもなく、軽やかなステップを披露しながら連続した短剣の突きと薙ぎが止まることなく迫り来る。

 

 しばらく見ない内にまた短剣捌きが上達してるな。

 息つく間もない連続攻撃は彼女の戦闘センスを如実に感じさせるもので、俺の防御を抜く勢いだ。短剣スキル特有の技後硬直時間の短さを存分に生かし、的確なソードスキルを選択した上で絶妙なタイミングを図って技を繰り出す。その戦闘の組み立ては見事としか言えず、彼女の積み重ねてきた戦闘の研鑽を伺わせるには十分だった。

 中層プレイヤーとしては破格の強さだと感心する。レベルも順調に伸びているようだし、もう少しで攻略組の背中も見えてくるか。アルゴに預けた後もレベリングを怠らずに鍛え上げた成果が出ていた。戦闘センスだけならシリカはクラインクラスのものを持っているのだ、伸び代も十分。

 

「パパー、頑張れー!」

「シリカ、キリトを負かしちゃえ!」

 

 やや離れた位置で外野の声援が飛び交う。ピナを胸に抱きかかえてご満悦なユイと、俺の愛剣のメンテに追加して、別件で注文していた武器を届けにきてくれたリズが、楽しげに俺とシリカの戦いを見物していた。

 俺も娘の前では格好つけたいんだよな。

 と、そんな馬鹿みたいな理由で気合を入れ直し、防戦一方だった戦況に一石を投じるべく反転攻勢を開始する。シリカが放ったソードスキルを大きくサイドステップすることで射程の外へと飛び出し、回避。その一瞬の硬直を利用して攻守を入れ替えた。

 

 どこまでシリカがついてこれるかを確かめるように一撃毎に速さと重さのギアを上げていく。最初の数合はまだ余裕を保っていたシリカだったが、剣戟が十合を超える頃には表情に焦りをありありと浮かべていた。

 このままでは遠からず防ぎきれなくなると悟ったのだろう。俺の横薙ぎの一閃を逆手に握った短剣と添えた左手でどうにか受け止めると、瞳に決着の意思を色濃く浮かび上がらせて力強い呼気を吐き出した。

 

「やぁッ!」

 

 気合一閃突き出した短剣を引き戻した剣の腹で受けた俺だったが、次のシリカの仕掛けは些か予想外のものだった。てっきりソードスキルの連撃につなげるのかと考えていたのだが、俺の目の前で沈んだシリカの動きに否定され、砂地の足元を削るように放たれたシリカの剣によって盛大に砂煙が発生する。意図的に引き起こした砂煙エフェクトにそうきたかと唸る。

 盲点だった。俺はここではこういった小技は使えないものだと無意識の内に決め付けていた。確かにここは圏内だが、同時にフィールドでもある特殊地形なのだから、街中と違って環境エフェクトを発生させる下地はある。

 こういった場合は一旦距離を置いて砂煙が晴れるのを待つのが定石だけど――。

 

「いっけーッ!」

 

 バックステップから俺の側面に回り込んでの一撃。煙幕を引き裂き、強く輝く短剣の刃を閃かせるシリカに内心で悪いなとつぶやく。

 ユイの前ということもあるし、アスナにも勝ちを譲ってない俺が簡単に黒星をつけられるわけにもいかない。何よりスキルアップが目的の腕試しでご機嫌取りに勝利を譲るようでは本末転倒だ。

 

 片手剣上段突進技《ソニックリープ》。

 振りかぶった俺の剣が黄緑色の光の帯を引き、シリカの短剣が届くよりもわずかに早く俺の繰り出した斬撃がシリカを捉えようとする。砂煙で撹乱した上で放った出の早い短剣スキルに難なく合わせられた衝撃によるものか、俺と目が合ったシリカの表情は動揺を隠せず、明らかにひきつったものだった。

 同時に放たれたソードスキルは基本的にリーチの差が物を言う。今回の短剣と片手剣の激突では俺に分があったのだから結果も順当なものだ。

 

「きゃん!」

 

 悲鳴をあげてシリカが地面に倒れこむ。視界に俺の勝利を告げるシステムメッセージが映るが、それを煩わしいと退けるように剣を鞘に収めてシリカの元へ。彼女に手を差し伸ばして立ち上がらせる。いたいけな少女を思い切り地面に這い蹲らせてしまったバツの悪さも手伝い、殊更丁寧になっていた。

 

「ありがとうございます。うぅ、やっぱり負けちゃいました」

「期待以上の戦いぶりだったよ。正直びっくりするくらい強かった」

「本当ですか!」

 

 真面目な顔で頷く俺にシリカは満面の笑みで喜びを露わにしたのだった。その素直な反応にこちらまで嬉しくなってしまう。シリカの裏表を感じさせない天真爛漫さは天性の才能だろうなあ。……どっかの根性悪の影響が出ませんように。

 

「お疲れ様シリカ。キリトもね」

 

 えへへーとご機嫌なシリカを横目にユイとリズに合流すると、リズが俺とシリカに飲み物を手渡す。サンキュと短く礼を告げて喉を潤した。戦闘の余熱を発散してくれる冷たい喉越しがたまらなかった。

 

「パパ格好良かった!」

「きゅくー」

 

 わーい、と諸手を挙げたユイが俺に近づき、ひしと抱きつくと、何が楽しいのかふっくら柔らかな頬をこすりつけて笑っていた。シリカの使い魔モンスターである小竜ピナも、何故かユイに追随するように俺の肩へと降り立って機嫌の良さそうな鳴き声をあげると、やはりユイと似た仕草で俺の頬へと頭を擦り付ける。

 

「もう、ピナったらまた……」

「ユイちゃんはまだわかるけど、ピナまでキリトに懐ききってるのは何でかしらねぇ?」

 

 頬を膨らませてお冠になったシリカに俺はごめんなさいと謝るべきなのだろうか? それとリズ、俺に振られても答えられないぞ。使い魔モンスターのアルゴリズムなんてさっぱりなんだから。

 

「それでキリト、実際のところさっきのシリカとの決闘ってどんなもんだったの?」

「どんなもんって言われてもな。具体的には?」

 

 今日は天気が良いからしばらく日向ぼっこでもしましょうか、というリズの提案を受けて座りやすそうな芝生の上を確保した。そこで俺の腕を取って得意顔になっているユイに目をやり、苦笑を隠さず向けられたリズの疑問に一度首をひねって問い返したのだった。

 

「そうねぇ、社交辞令抜きでシリカに勝ち目はあったのかなって話。もちろんシリカが強いのは知ってるわよ。でもさ、いくらなんでも攻略組――それも色々な意味でおかしいあんたを相手にして、シリカが勝ちを拾えるとはあたしには思えないのよね」

「リズさん、そんなずばり言わなくても」

「いや、だってねぇ」

 

 シリカ、それは自分に勝ち目がないって断言されたことへの嘆きだよな? まさかリズの俺への『おかしい』発言を肯定してるわけじゃないよな、と追及してみたい気分だったが自重した。困った顔で俺の顔色を伺うシリカの態度が、その内心の全てを語っているような気がしなくもなかったので。

 

「レベル差がある以上俺の方が有利だってのは変わらないけど、シリカに勝ち目がないかと言えばそんなことはまったくないぞ? 初撃決着モードは先に一撃入れた方の勝ちなんだから」

「それって短剣の特性込みってこと?」

「短剣がどうして取り回しが良いかって言われてるかを考えればわかるだろ? 一対一でソードスキルが使いやすいってのはそれだけで大きなアドバンテージなんだよ」

 

 肩を竦めて答える俺にリズはまだ納得しきれないのか、どこか半信半疑な様子だった。

 

「その割に最後はあんたがきっちりソードスキルを決めてたじゃない。技の出の早さって短剣の方が上のはずだし、どうしてキリトの技のほうが早く当たったのよ?」

「それはあたしも気になりました。あたしの位置は砂煙エフェクトで上手く誤魔化せたと思ってたんですけど」

 

 リズに便乗して質問するシリカはわざわざ挙手までしていた。無意識なんだろうけど可愛らしいな。

 

「シリカの試みは面白いんだけど、位置情報まで誤魔化せると思うのはエフェクトを過信し過ぎかな。シリカから俺を攻撃できたってことは俺からもシリカが見えてたってことはわかるだろ? この世界では視覚が現実世界以上に鋭敏だから、ちょっとした砂煙程度じゃ完全に姿をくらませるってのは無理なんだ。そういう小技は初見の相手には有効でも、冷静に構えられると思ったほど効果を発揮しない。まあモンスター相手よりはプレイヤー相手のほうが効果を発揮しやすいのは確かだけどな」

 

 プレイヤーはどうしても現実世界の名残りで視覚に頼ろうとしすぎてしまう。その結果、一時的にでも視界が不自由になると取り乱しやすいのだ。虚をつくという意味ではシリカの取った手段も有効に働く余地はある。

 

「それとシリカは単発系の技を多用しすぎる癖があるから、もう少し大胆に連撃系の技を使った方が戦術も広がるし、攻撃も読まれづらくなるよ」

「はい、わかりました!」

 

 真剣な表情で頷くシリカに俺も頷きを返す。向上心が高いと感心しきりだった。

 

「さっきの勝負のことですけど、だったら最後に一か八かの大技を放つとかもありなのでしょうか?」

「決闘で使うならありだと思うけど、決闘の戦い方とモンスターとの戦い方って相当違うから、必要以上に一対一の戦い方を突き詰めようとするのはお勧めしないぞ? この世界ではパーティー前提の集団戦が主流なんだし」

「それは……はい、わかってるんですけど……」

 

 おずおずと尋ねるシリカに眉根を寄せて返答すると、しゅんと落ち込んだ様子で歯切れ悪くシリカが同意を口にした。なんだか妙な感じだと首を傾げてしまう。俺の口にしたことが納得できないというわけではなさそうだけど……?

 

「気になることがあるなら言ってくれて構わないよ。答えられることなら答えるから」

 

 なるべく柔らかい物言いに聞こえるよう注意しながらシリカを促すと、何度か上目遣いに俺を見たり、手元に目を落としたりと逡巡した後、意を決したように真剣な面持ちでシリカが口を開いた。

 

「あ、あのっ! あたし、もっとキリトさんのお手伝いが出来るようになりたいんです! ですから、キリトさんみたいにソロで戦えるくらい強くなれれば、あたしも一緒に戦えるようになるかなって」

「俺みたいにソロで?」

「はい!」

 

 胸の前で握り拳を作り、語気荒く決意を口にするシリカは勇ましくもいじらしかった。

 

「シリカ」

「はい!」

「でこぴんと拳骨、どっちが良い?」

「え? ……あう」

 

 どうやらでこぴんがご所望らしいと勝手に決めつけ、情け容赦なくシリカの額にピシリと一閃。もちろん圏内で強烈な衝撃を与えることなんて出来ないから、それを踏まえて俺が繰り出した対シリカ用でこぴんは、彼女の額にそっと触れるに留まったくらいの表現が正解なわけですが。

 

「さてシリカ、まずソロで戦うって考えを綺麗さっぱり捨てることから始めようか。今時点でソロをやってる奴は相当の馬鹿か変わり者しかいないんだから」

「なんであんたは自分で自分を否定してんのよ……」

 

 真剣な面持ちで告げた俺の横で、リズが呆れた様子で口を挟む。だってなあ……。

 

「最前線にソロプレイヤーがいないのって、徒党を組むのに比べて危険度が段違いってのはもちろんだけど、攻略効率が落ちるのも一因だぞ? 俺がソロで最前線の効率を維持してられるのって、結局高レベルでゴリ押しできるからなんだよ。もうちょい詳しく言うと、比較的技後硬直の短いソードスキルでも遅滞なくモンスターを狩れて、一体当たりにかける戦闘時間が短くて済むから隙もなくせるってこと。ワンパーティー並の速度で迷宮区マップを踏破できるからソロを続けてるだけなんだ。ここまではいいか?」

 

 シリカとリズが頷くのを見て続ける。

 余談ではあるが、二刀流の特性もあって迷宮区の攻略速度勝負だったらヒースクリフ以上にこなせる自信があった。ヒースクリフの神聖剣はフロアボス戦のような決戦向きのスキルだ。

 

「ソロプレイの経験値効率が良いってされてるのは、あくまで一確狩りかそれに近いことができる狩場に限定される。だから安全と効率を求めるなら情報をきっちり収集しておくことが第一条件だ。で、最前線の何が危険かと言えば、安全に戦うために求めるべき情報が、常に白紙の場所で戦い続けなきゃいけないってことだ。情報がどれだけ大切かはアルゴについてたんだからわかるよな?」

「はい、それはもう」

「素直でよろしい。シリカが俺を目標にすることまでは止めないけど、ソロプレイ――つまり俺のスタイルが邪道だってことは覚えておいてくれ」

 

 こくりと頷くシリカを確認し、さらに続ける。

 

「そうだなあ、強いプレイヤー、巧いプレイヤーっていうのは例外なくソードスキルの使い方を熟知してるし、その技能はソロと集団戦では別物なんだ。ソードスキルで発生する隙を補い合うのが集団戦の基本だしな。俺だって一緒に戦うならそういう連携をしっかり身に着けたプレイヤーのほうがずっと心強い。決闘の強さはあくまでソロの強さに通じやすいものであって、ゲームクリアに求められる技能とは重ならない部分も多いってことを良く考えてくれな」

「はい!」

 

 小気味良い返事をしてから、「むん」と気合を入れるシリカの仕草が小動物染みていて思わず笑みが漏れてしまった。一人でなんでも出来る万能を目指す、というのは誰もが一度は通る道なのかなぁと暖かくシリカを見守る。俺もMMO初心者の頃はそうだったしな。

 まあこれだけ言っておけばソロプレイに変な憧れを持つようなこともないだろう。効率以前にこの世界ではソロが危険であることは今更強調するまでもない。

 

「うーん、キリトが言うこともわかるんだけどさ。それでもあたしはあんたが困ったりするようなとこを想像できないのよねぇ。これは純粋な疑問というか、前から一度聞いてみたかったことなんだけど、あんたって負けたことあるの?」

 

 ユイがもっと自分を構ってと見つめてきたのを合図にかいぐりかいぐり撫で回していると、何事か考え込んでいたリズが小首を傾げてぽろっと口に出した。本当に興味本位な質問っぽい。俺も特に悩むことなく、気負いのない答えをすぐに返す。

 

「そりゃもう数え切れないくらいあるぞ」

「そうなの? ホントに?」

 

 何故そこで疑しげな目になる? 今更言うまでもなく、負けて逃げ延びたことなんて幾度もあるのに。

 

「俺も疑問なんだけどさ、どうしてソロをやってる俺が常勝不敗だなんて思われてるんだ?」

「え? ソロをやってるからこそ負け知らずって思われてるんじゃないの?」

 

 ……おや? 何か根本的に話が噛み合ってないような気がするぞ?

 そんな俺の疑惑も置き去りにリズはさらに疑問を投げかけてくる。

 

「大体、フロアボスをソロで退治できるような奴がどんな時に負けるわけ?」

「あー、まずはそこの認識に行き違いがあるような気がする。俺が今までソロ狩りに成功したボスって、あくまでソロでどうにかできる範囲のモンスターだからな? そうだな……分類するなら取り巻きなしの一対一を実現できる相手で、なおかつ状態異常を仕掛けてこない稀有なタイプのフロアボス。そういう相手でもなければどうやったってソロでボスを狩るなんて無理だし、敵のHP削りきる前にアイテムが尽きて俺が詰む」

「あんたの『ソロで倒せるフロアボスもいる』って認識も大概だと思うけどね」

 

 これはアスナが頭抱えるわけだわ、と呆れた顔のリズだった。ひどい言い草である、泣いていいですか?

 

「当たり前のことだけど俺一人で出来ることなんて多寡が知れてるんだぜ? フロアボス戦が攻略組の総力で挑む難関であることを考えれば、数の力ってのがどれだけ有効かは語るまでもないしな。この世界の根幹はMMORPGなんだから、数の暴力ってのはそのまま反映される。MMOでは幾らレベル的に突出したプレイヤーがいても、複数のプレイヤーにぼこられれば簡単に負けるシステムなんだから」

「でもキリトさん。前にあたしを助けてくれた時はオレンジギルドを一つ相手にして圧勝してませんでした?」

 

 ああそうか、シリカがソロでの強さに憧れを持ったのってそのせいもあったのかもしれない。取り返しが付く内に軌道修正できて良かったとほっと胸を撫で下ろす。

 ちなみに、あんたそんなことまでしてたの、というリズの追及したそうな様子からはそっと目を逸らした。

 

「そりゃレベル、装備、スキルに隔絶した差があればシリカに見せたようなワンサイドゲームも出来るけど、あれはあくまで特殊な例として覚えておいたほうがいいぞ? 集団の力を軽視すると碌なことにならないから」

「そんなものですか?」

「そんなものです」

 

 モンスター相手の場合は割愛するにしても、対人戦に猛威を振るう状態異常武器への警戒まで考えると、ガチの対プレイヤー戦なんてのは避けるのが一番なんだ。だからこそ俺はシリカをアルゴに預けたのだし、アルゴだって戦闘の知識ではなく、オレンジやレッドに出会わない知恵を重点的にシリカに教え込んだはずだった。危険に近づかないことが身を守る最良の手段であることは現実世界と変わらない。

 

「なんだか妙に実感篭ってるわね」

「ソロの限界に何度もぶち当たってれば自然とそうなる。言っちゃなんだけどMMOでソロを選ぶのってぶっちゃけ趣味の領域だし、トッププレイヤーで在り続けたいのならソロは鬼門なんだ。デスゲーム化したアインクラッドの場合、徹底的に情報を集めて安全を確保できるレベリングスポットを除けば、ソロを通すメリットは皆無だと思う」

「あ、あはは。そこまで言っちゃうんだ」

 

 歯に衣着せない俺の物言いにリズの顔は引きつっていた。

 順当な分析だと思うんだがなぁ。あくまでレベリングに限定するならありだと思うけど、迷宮区でまでそんな無茶を通すのはありえないだろう。俺がMMOに喧嘩売ってるような華々しい結果を残せてるのは、あくまでスキル恩恵による高レベルと二刀流あってのものでしかない。

 それを踏まえた上で俺が口にしているのは、一人よりは二人、二人よりは三人のほうが強いという、誰でも知っている真理に過ぎなかった。特別にすごいことを言ってるわけでも、ましておかしなことを言ってるわけでもない。

 いくらアインクラッドがバーチャルリアリティ世界で、その分だけプレイヤースキルが重要になるって言っても限度がある。プレイヤーの動きの未熟を補い、個々人の強さをある程度均一化させるのがソードスキルの役割でもあるのだし。

 

「包囲戦術の取りづらいソードスキルとの兼ね合いがあるからソロでもやりようはあるってだけで、基本数に勝る力はないっていうのがMMO共通の鉄則だぞ? 『衆寡敵せず』ってやつだ。そうさな、俺が攻略組クラスの猛者を相手にしたとして、一対一を十回続けるなら全勝することもできるけど、一対十をやれって言われたらさっさと逃げることを選ぶ。こう言えば俺と攻略組の連中の戦力比も想像しやすいか?」

「うん、それならなんとなくわかる」

 

 攻略組もピンキリだからあくまで比喩でしかないけど、個が衆を圧するなんて真似をそうそうやらかせるはずもない。MMOにおける公平さ(フェアネス)とは本来そういうものなのだから。

 そうした法則を一部覆してしまうのが俺やヒースクリフの持つ希少スキルであることも否定はしない――が、《神聖剣》や《二刀流》だって決して万能の力ではない。どちらのスキルにも付け入る隙はある。

 要は戦い方を工夫することだ。敵と戦うべきか否かの選択から始まって、どこでどのように戦うかの選定、多対一の状況に持ち込ませない判断、つまり広義な意味でのプレイヤースキルの見せ所である。そしていざ戦うとなれば、この世界における戦闘の根幹を為すソードスキルを如何に上手く使うかが鍵となるわけだ。

 

 そもそもの話、突出した一人の力で全てを終わらせることが出来るのなら、とっくに俺かヒースクリフのどっちかが全てのボスを狩り尽くしてるだろうさ。そして、それが出来るならどんなによかったことか。

 ソロでのクリアが不可能だからこそヒースクリフは血盟騎士団を率いて攻略組の戦力アップに努めてきたのだし、俺だって攻略組の各ギルドとパイプを結んで協力体制を築いてきたんだ。ソロの強さを優先する、言い換えれば一個人のエゴ――最強の剣士という空虚な称号のためにゲーム攻略を疎かにする愚を犯せるはずもない。

 

 《効率良く迷宮区を攻略し、最奥に控えるフロアボスを打倒し、最短で百層を目指す》。

 

 アインクラッドに住まう全プレイヤーに立ちはだかる命題を叶う限り追及せずして何が攻略組か。ソロでゲームクリアが出来るなんて甘すぎる幻想を、ゲーマーであり、ベータテスターであり、今日まで最前線を戦ってきた俺がどうして持てるだろう。

 

「パパッ! 怖いお顔はメッ!」

 

 まだまだ続く攻略に思いを馳せていると、ぷっくりと不満気に膨らませた頬を見せ付けるように、ユイが可愛らしくも厳しい顔つきで俺を睨んでいた。それだけでなく、俺が驚きで固まっているとユイの両目にじわりと涙がたまっていく。うー、と唸る様子に慌ててユイのご機嫌取りへと走った。

 

「悪い悪い。ユイは優しい子だな」

 

 あの手この手でユイを慰める俺である。その甲斐あってかどうにか機嫌を直したユイを前に、自然と俺の顔が笑み崩れてしまうのは仕方ないだろう。こんなに可愛い娘がいたら誰だってそうなる。

 

「キリトもユイちゃんの前だとシリアス続かないわね」

「ピナ、今は邪魔しちゃ駄目だからね?」

 

 ユイからシリカの胸に居住を移したピナの物悲しげな鳴き声が響く。そんな使い魔の様子にシリカが苦笑いを浮かべていた。

 

「ユイ、お昼寝するならベッドに入ってからだぞ」

「ユイまだ眠くなんてないよ?」

 

 芝生の上に腰を落とした俺にしがみついた状態で動きを止めてしまった娘の姿に、もしかして眠気でも襲ってきたのかと疑問を持つも、ユイはすぐに顔をあげて不思議そうに否定してみせたのだった。まだまだユイの観察が不十分だと反省する。

 

「今日は天気も良いし、お昼も食べて適度な運動をしたところだから、キリトの方こそお昼寝したくなってきたんじゃないのー? ふふーん、どうせならユイちゃんだけじゃなくてキリトにも子守唄を歌ってあげよっか? 今ならなんとあたしの膝枕つき!」

 

 ほらほらキリト、こっちきなさい、と女の子座りで膝の上をぽんぽんと叩くリズだった。

 

「わわっ、何言ってるんですかリズさん!」

「シリカ、リズの冗談だからまともに取り合わないほうがいいぞ」

「えー、あんたの専属鍛冶屋として当然のサービスじゃない?」

「専属鍛冶契約とかリズさんずるいです!」

 

 喧々諤々。良い反応を返してくれる竜使いの少女をからかい倒すリズは、なんというか非常に生き生きしていた。加減は間違えるなよー、と内心で付け加え、しばらく二人の和気藹々としたじゃれあいを眺めることに決め、その平和な光景に目を細める。暖かな陽射しの下で手足を思い切り伸ばすのが気持ち良い。確かに午睡に丁度良いなと頷いてしまう。

 

「うた、おうた……。パパ! ユイもお歌知ってる!」

 

 弛緩した空気の中、しばらくぼんやりしていたユイがぱあっと表情を輝かせ、些か興奮気味に主張してきたのだった。宝石のような煌きを瞬かせ、ユイの黒曜石の瞳が真っ直ぐに俺を見つめてくる。俺はもはや引き締める気も失っただらしない笑みのまま、そうかそうかとユイの綺麗な黒髪を撫で付けた。

 くすぐったそうにはにかむユイは、きっと世界一可愛い。

 

「ユイの歌か。よし、それじゃ歌ってくれるかな、小さな歌姫さん?」

「うん!」

 

 嬉しそうな声。にこにことご機嫌なユイはすうっと息を吸い込み――思いの外しっかりとした声量と音程で、その小さな唇から旋律を紡ぎ出した。

 

「あら、これって……」

「わあ、ちょっと季節外れの曲ですけど、ユイちゃん歌うの上手ですね」

 

 気持ち良さそうに歌うユイの邪魔をしないようにとの配慮からか、リズとシリカは小声で感想を囁き合う。しかし俺はそんな二人の感心した様子にも親馬鹿を発揮することが出来ず、ただただ目を見開いて呆然の体を晒していた。

 確かに綺麗な歌声だ。常の幼さを感じさせない落ち着きと、一定のリズムで綴る歌詞は明瞭な音を伴って聞き取りやすく、とても丁寧なものだった。それはまるであの夜の再現のようで――。

 

 偶然だ、と軽く首を振って気を落ち着かせる。ユイが口ずさむ歌はポピュラーな童謡である。ユイくらいの小さな子供が現実世界で耳にする機会は当然あっただろうし、こうして歌詞を覚えていてもおかしくない。ユイの失った記憶の中からたまさかこの歌が出てきただけだというのに、どうして俺はユイの歌う姿に彼女の姿を重ねてしまうのだろう。

 面影はある。歌声に、旋律に似通ったものはある。だが、それだけだ。……それだけの、はずだ。

 

 《赤鼻のトナカイ》。

 

 それがユイが紡いだ歌のタイトルだった。

 

 

 

 

 

 ユイが明瞭な声音で《赤鼻のトナカイ》を歌い上げた翌日、早朝の森を俺とユイ、そしてユイと手をつないだサチがゆっくりと歩いていた。ユイは見るもの全てが新鮮なのだと身体全体で表現するため、俺とサチはユイの興味が移るたびに足を止めてユイに付き合った。もっとも俺達の間に流れる空気は終始穏やかで優しいものだったため、遅々として進まない歩みすら愛おしい時間に変わっていたけれど。

 

 長い間急き立てられるように攻略に励んできた反動なのか、最近はこうしてのんびりと過ごす時間を噛み締める度に、どうしようもなく貴重な一幕なのだと実感する日々である。この安らかな一時に浸りすぎないよう気をつけようと己に言い聞かせてみても、サチとユイの立ち並ぶ絵を目に入れると、数秒前の決意を忘れる始末なのであまり意味がなかった。

 改めてユイとサチを見やり、本当に似ている二人だなとしみじみ思う。ユイに微笑みかけるサチは相変わらず柔らかな雰囲気で、傍から見ていると二人は親娘か姉妹のようだ。

 

「ケイタが《武器破壊》の練習を?」

「うん、キリトがフロアボス戦で《武器破壊》を使って活躍したって聞いて、僕もどうにか使えるようになりたい、ってすごく意気込んでた。しばらくして『やっと成功したー!』って声が聞こえてきたの」

「へぇ、よかったじゃないか」

「それがね、実は《武器破壊》が成功したんじゃなくて、単に武器の耐久力が尽きただけだったみたい」

「それはまた……練習用の安物使ってて良かったな」

「ほんとにね。その日はケイタが珍しく不貞腐れちゃって、皆が笑いながら慰めてたよ」

 

 その時の情景を思い出したのか、サチは口元に手を当てて可笑しそうに身を震わせていた。俺もサチにつられたように笑みが漏れる。俺の方から距離を置いたとはいえ、一時、羽を休める場所を提供してくれたケイタ達に感謝する気持ちまでなくしたわけじゃない。彼らが元気にやってると聞けば嬉しくなるものだ。

 

「《武器破壊》で遊ぶのもいいけど、強くなって攻略組に参加したいならレベル上げ優先だってサチから言ってやってくれるか?」

「それはキリトから言ってあげて。ケイタ達もキリトに会いたがってたし」

「わかった、覚えとく」

 

 確かに最近はサチ以外の月夜の黒猫団メンバーと顔を合わせていないな。元々頻繁に交流を続けていたわけではないし、俺の方も攻略が忙しくて、たまに顔を合わせてもゆっくりティータイムと洒落込むなんて事はとても出来なかった。その内時間の都合をつけよう。

 

「ユイ、パパともおててつなぐ!」

 

 忙しなく目をあちこちに向けていたユイも興味の対象が一段落したのか、満面の笑みを浮かべてサチと結んだ手とは逆の手を俺に差し出してくる。勿論、俺に断る理由はなかった。

 

「んふふー」

 

 これでもかとご満悦な様を見せるユイに、俺とサチも眦を下げて笑み崩れてしまう。穏やかな陽射しと心地よい陽気が俺達を包み込み、風に揺れる梢が耳に優しい音色を奏でていた。森の空気そのものが優しい。

 ユイを真ん中に、三人仲良く小道を歩いていく。途中、この層に点在する湖の一つを眺める位置までくると、朝も早くから幾人かの釣り師プレイヤーが釣具片手に談笑を交わしていた。日光を反射してきらきらと輝く湖面に垂らされた釣り糸、その先の浮きが時折微かな動きを見せ、そのたび水面に波紋が広がる。

 

 その時、釣り師プレイヤーの一人が俺達に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。俺達がいる小道と彼らが釣りに励む湖畔には少々距離があるものの、アインクラッドでは多少の距離などシステムによる視覚補正でないも同然だった。

 好々爺然とした中年の男性が微笑ましげな表情を浮かべて手を振ってきたため、俺達も軽く手を振り返す。

 

「結局今日までユイの両親探しは進展なしか。サチも心当たりってないんだよな? 実は親戚だったんだぜ、とか」

 

 彼らに手を振って挨拶と別れを告げた後、しばらく森の針葉樹の下を歩きながら、ぼやきにも似た問いを発する。俺のホームであるログハウスまであと少し、という時のことだった。

 

「そんなに私とユイちゃんって似てる?」

「なんていうか雰囲気に共通するものを感じるんだよ。例えばだけど、目元の和ませ方とか表情の作り方とかが似てるんじゃないかな。サチが髪を伸ばしてユイとお揃いにしたりすると、もっと面影も増すのかもしれない」

「そうなんだ。でもキリトが保護する以前に私がユイちゃんに会ったことってないと思うよ?」

「まあそう都合よくはいかないわな」

 

 軽く肩を竦めてサチと顔を見合わせ、どうしたものかと互いに困惑を浮かべるのだった。やがて暗礁に乗り上げて重さを増した空気を変えようとでもしたのか、サチが悪戯気味に柔らかく微笑む。

 

「ねえ、キリトはもし私が髪を伸ばしたらどう思う? 似合うかな?」

「んー、髪を伸ばしたサチか……」

 

 俺達の姿は二年前のものに固定されていて、髪型もカスタマイズが可能とは言ってもそれはシリカのように髪をツインテールにしたり、リズのように髪色を変えるのが精々だ。髪の長さを自由に変えたりは出来ない。男である俺としてはカットが不要で楽なのだけど、女性にとってはお洒落が制限されているのと同じなんだろうな。

 ふむ、と綺麗に切り揃えられたサチの見事な黒髪を改めて眺めやる。いざ、シミュレート開始――。

 

「そうだな、今のサチも可愛いけど、髪を伸ばすと大人っぽさがぐっと増してすごく綺麗になりそうだ。一度見てみたい」

 

 ユイの腰元まで伸びた艶やかな黒髪をベースに、髪を伸ばしたサチを思い浮かべてみると、予想以上に見目麗しい佳人が脳裏で像を結んだ。想像上のサチは今のサチと変わらぬ控えめな微笑みを浮かべていて、儚くも美しい。サチのそれからは出会った当初の目を離せば消えてしまう脆さは感じ取れない。煌々と照る月が優しく夜道を導いてくれるように、郷愁に似た切なさとしめやかな美を感じさせるものだ。これはなかなか……。是非とも拝見したい可憐さだった。

 是が非でも、と本心そのままを口に出した俺の賛辞に、尋ねたサチのほうがびっくりしたように目を丸くし、色白の肌に朱色の鮮やかさを散らす。切なげに潤む瞳が彼女に普段の清楚な顔だけではない、より女性らしい艶やかさを与えているようだった。

 

「そっか、それじゃあっちの世界に帰ったら髪のケアをしっかりしないとね。ふふ、なんだかいいな、こういうの。胸がぽかぽか温かくなってくる。ありがと、キリト」

「どういたしまして、って言うところなのか?」

 

 どうにもむずがゆい気分になって微妙に視線を逸らす俺を、優しげな光を湛えた目で見つめるサチ。そんな俺達を見上げるユイもにこにこと嬉しそうにしていて、まあいいかと気にしないことにした。今はこの暖かさに浸っているのも悪くない。

 そんなこんなでぐるっと散歩コースを巡り、出発点にして目的地であるログハウスを目の前に捉えた。これで朝の散歩はおしまいだ。

 

「楽しい時間があっという間だっていうのはこっちでも変わらないね。キリトは朝ごはんを食べたらユイちゃんを連れてはじまりの街に行ってみるんだっけ?」

「ああ、ユイのことを考えるとまだ迷ってる部分もあるんだけどな。はじまりの街は全プレイヤーが目にしたことのある場所だし、ユイの記憶に何か引っかかるかもしれない」

 

 はじまりの街の中央広場は二年前、茅場晶彦によってデスゲーム開始を告げる舞台となった場所だ。言い換えればどんなプレイヤーでも訪れたことのある場所だった。

 アインクラッドでの過酷な生活が幼児退行につながったと思われるだけに、デスゲーム開始初日の惨劇を思い起こさせる場所は刺激が強すぎるかもしれない。そういった懸念があったためにずっと先送りにしてきたが、サチ達の協力もあってユイも大分落ち着いているし、俺達がついていれば少し街を巡るくらいは出来るだろう。

 

「アスナさんがキリトと一緒に行ってくれるんだよね?」

「オフの日に連れまわすのも悪いとは思うけど、ユイが一番懐いてて不測の事態にも対処できる頼れる奴だからな。アスナの申し出は助かるよ」

「はじまりの街は今治安が悪いって聞くけど……」

「軍のお膝元なのに皮肉なもんだよなあ」

 

 表情を曇らせるサチを目にして俺も自然と溜息が零れてしまう。75層でコーバッツ達が全滅した件もあるし、お世辞にもはじまりの街の現状は楽観視できるものではない。正直現在の軍には近づきたくないのが本心である。

 

「まあはじまりの街見物はあくまでおまけだ。本命はアルゴの情報にあった子供を保護してるっていう女性に会うことだな。ユイの名前に心当たりはないって話だったけど、ユイ本人を見てもらえば何か思い出すこともあるかもしれない。……あればいいなあ」

 

 ほとんど願望混じりだった。そんな俺にサチは苦笑を零し、気をつけて行ってきてねと応援してくれることだけが救いである。

 もっとも今回のはじまりの街訪問に当たって、皆に秘めた俺なりの思惑もある。――なんていうと壮大になってしまうのでさっさと白状してしまうと、ユイの緊急預け先の確保が目的だった。

 サチ達だってそれぞれやることがあるし、ユイにつきっきりというわけにもいかない。俺やアスナも言わずもがな。そうなると俺達の手が回らない時のために、一時的にでもユイを保護してくれる、信頼できる相手が必要になってくるのである。その見極めも出来ればと考えていた。

 

 アルゴの話では教会の部屋を借り上げて子供を保護している人物――サーシャという女性は信頼に足る人だとお墨付きを貰っている。ただユイは現在バグ持ちの不安定なプレイヤーだし、教会で保護しているという他の子供にまでユイへの配慮を期待するのは無理だろう。預けるにしても現時点では難しいというのが正直な心境だった。カーソルの非表示だけでも解消できれば変に噂になるようなこともないんだけど。

 

「キリトとアスナさんの二人なら大丈夫だろうけど、無茶はしないでよ?」

「収穫があってもなくても昼までには切り上げて戻るつもりだよ。午後は攻略を進める予定だし」

「うん、わかった。それじゃ私は朝食の準備を始めようかな。アスナさん程じゃないけど、私の料理スキルの腕前にも期待しててね」

「頼んだ。アスナ謹製の調味料も揃ってるから頑張れ」

「だから期待しすぎちゃ駄目だってば。アスナさん並の料理を作れとか無理言わないの。あんまり意地悪言うと拗ねちゃうんだから」

 

 もう、と頬を膨らまると、人差し指を伸ばしてつんと俺の鼻の頭を軽く小突いてみせるサチだった。素直にごめんなさいをして許しを請う俺は割と情けない姿を晒していたけれど、誰に見られてるわけでもないから構わないか、なんて開き直っていたりする。

 そのままユイを抱き上げ、ログハウスの扉を開き、先にサチを通してから改めて我が家に足を踏み入れた。「ただいま」と自然と口にしている自分に気づいて、名実共にここが自分の家になったのだと感慨に耽り、口元に小さく微笑を浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

「ここに来るのは久しぶりだな」

「わたしもはじまりの街にくるのは何ヶ月ぶりかってくらい。ここに立つと、どうしてもあの日のことを思い出さずにはいられないから」

 

 だからここにはこないようにしていた、と。ちらと視線を移せば、アスナは切なげに睫毛を震わせ、上空を仰ぎ見ていた。

 2022年11月6日、今を遡ること一年と十一ヶ月前。全てが始まり、そして終わった日。

 赤のローブを纏いし無貌のアバターが宙空に浮かび上がり、無情にデスゲーム開始を告げ、俺達を地獄に突き落とした。その舞台になったのがここ、第一層主街区《はじまりの街》の中央広場である。一万人近い数が集められた広大な空間は、あの日と変わることなく石畳によって綺麗に舗装され、中央に転移門が置かれていた。しかしあの日とは決定的に違う人影のなさが、静寂を漂わせた伽藍の風景を形作っている。

 かつての惨劇の記憶に自然と俺の額には皺が寄っていた。しかしユイの心配げに見上げる視線に気づき、ふっと力を抜いて感傷を追い出し、軽口を唇に乗せた。

 

「この街に住むプレイヤーって案外図太いよな。俺ならあんな腹立たしい思い出がつまった場所をご近所にしたくない」

「同感だけど、そうも言ってられない事情はキリト君だって察せられるでしょ。君もわたしも、この街の住人に睨まれるようなことは不用意に口に出さないよう気をつけなきゃね。トラブルになったら困るもん」

「まあな」

 

 さて、と一度大きく伸びをしてから、アスナと手をつないだユイと目を合わせるようにしゃがみこんだ。

 

「ユイ、ここで何か思い出す事とかないか? 例えば一緒にいた人とか」

 

 俺の問いを受けたユイは、一度ぐるりと中央広場とその先にある街並みを見渡し、しばらく「うー」と唸っていたが、やがてへにゃりと表情を崩し、泣きそうな顔で「わかんない」と口にした。力なく肩を落として落胆した様子に、俺は内心慌ててユイの頭を撫で回す。ユイを励ましたり安心させるにはこうしたスキンシップが一番だ、というのが俺の持論だった。

 

「そっか。うん、ゆっくり思い出せばいいからな。それじゃアスナ、いつまでもこんな辛気くさいとこにいないで教会を訪ねてみようか」

「えっと、東七区の川べりにあるんだっけ。ちょっと歩くことになりそうだね」

「はじまりの街は広いから仕方ない。よし、ユイ、パパがおんぶしてやるぞ。それともママにしてもらうか?」

「わーい。ユイ、パパがいい」

「そうかそうか、ユイは可愛いなあ」

「キリト君、キミ、完全に親馬鹿の顔になってるよ……」

 

 なにやら隣でアスナが呆れたような吐息を漏らしていた。ここはアスナだってユイに指名されていたら俺と似たような反応するくせに、と指摘してやるべきなのか? 嬉々としてユイの世話を焼きまくるアスナの姿が頭の中で鮮明に再生されていた。ユイにママと呼ばれるたびに、きらきらと幸せオーラを振り撒いていたのは他でもないアスナなのだから、俺のことをとやかく言えないはずだぞ。

 結局どっちもどっちという結論を出して、年少の子供を保護して共同生活を送っているという、俺たちがはじまりの街を訪れたもう一つの目的である教会目指して歩き出す。

 

 その道中、広場から大通りに入って店舗と屋台が立ち並ぶ市場エリアの閑散とした様子を目にして、溜息をつきたくなった。はじまりの街はアインクラッドにおいて最大規模の面積を誇る街であり、食料や宿屋の宿泊料金もとびきり安く、プレイヤーの居住人数も飛びぬけて多いはずなのだ。だというのに目につくのはNPCプレイヤーばかりで、活気なんて微塵も感じられない有様だった。

 

「確かはじまりの街には、軍の構成メンバーを含めて二千人以上が暮らしてるはずなんだけど……。人、いないね」

「ああ。この様子だと軍が徴税にまで手を出し始めたってのはマジらしいな。不気味なくらい静まり返ってる」

 

 アルゴから聞いた時はまだ半信半疑だったのだが、こうもプレイヤーの姿が見えないとな。はじまりの街の住人はゲーム開始以来一度も狩りに出ていないプレイヤーも多いため、プレイヤーが街を歩く機会そのものが乏しいのかもしれないが、それにしたってこれは異常だろう。

 

「それって、軍に目をつけられないように外出を控えてるってこと?」

「昼間は軍の徴税部隊とかち合わないように息を潜めているんだとさ。そこまでされてもこの街に残ってるんだから大したもんだよ、さっさと引越ししちまえばいいのに」

「……キリト君」

 

 俺の唇が皮肉気に吊り上ってしまう。アスナはそんな俺を複雑そうな表情で見ていたが、それでも宥めるように俺の名を呼んだ。

 

「すまん、もう言わない。……しかし、こいつは想像以上に軍の分裂が進んでると考えるべきか」

 

 75層攻略以降、俺の耳に入ってくる軍の情報は眉を顰めたくなるようなものばかりだ。この様じゃコーバッツも浮かばれまい。シンカーもキバオウも何やってんだか。

 ユイに心配されないように顔には出さずに内心で愚痴を並べ、大きく息を吐く。同時に、軍の専横が罷り通っている状況が改まらない限り、ユイを預けるのは無理だ、危険すぎる、と早々に見切りをつけてしまった。もしユイに何かあったら手出しした馬鹿をぶちのめしたくなるし、それが軍の連中だった場合軍の本部に殴りこみをかけかねない。

 

 うむ、お互いの平和のためにもユイはまだまだ俺たちで面倒を見るべきだ。どうにかして攻略との両立を続けられるようにするべきだろう。……それが難しいから苦労してるんだけど。今のままだとサチ達の負担がでかすぎる。

 ともあれ長居は無用。ユイの身元調査が終わったらさっさと帰ろうと決め、気持ち歩幅を大きくした時のことだ。俺の耳元にユイが顔を寄せ、いつもよりずっと深刻そうな声音で「パパ」と呼びかけられた。

 

「あっち……あっちに行って」

「あっち? 教会とは別方向だな。何か思い出したのか、ユイ?」

「ううん、違うの。あっちからすごく『怖い』が伝わってくるから。助けてあげて、パパ」

 

 ふむ、助けてあげて、というのもよくわからないが。

 

「『怖い』? 何が怖いんだ?」

「わかんない。でも、すごく嫌な感じになるの」

「キリト君、一応索敵スキルを使って確認してみたけど、反応は何もないわ」

 

 ユイの不思議な物言いにアスナと顔を見合わせ、お互い困惑した表情を交し合う。こんな街中でモンスターが出るはずもなし、それどころかプレイヤーの姿すらないのだ。だというのにユイが恐れるようなものがあるのだろうか? 俺とアスナには何の事だか皆目見当がつかなかったが、肩越しにユイを見れば表情が青褪め、俺の肩に置いた手にはぎゅっと力が入っている。ユイが何かを怖がってるのは間違いなさそうだ。

 

「どうする?」

 

 アスナもユイの状態を見て取ったのか、瞳に憂慮を滲ませたまま問いかけてくる。

 

「愚問だな、ユイのお願いなんだし最優先に決まってる」

「あはは、りょーかい」

 

 いくらか茶化した俺の言葉にアスナも朗らかに頷き、「大丈夫だからね、ユイちゃん」と優しくユイの頭を撫でて落ち着かせていた。強張っていたユイの顔から焦燥が消えたことを確認し、俺とアスナはユイの指し示す小さな導きを頼りに、幾つもの通りを瞬く間に走破したのだった。人がいないと交通事故を心配しなくていいから助かるぜ、なんて舌を出しながら。

 目的の場所にはすぐに到着した。標となるのがユイの指先だけだったため、途中に裏通りやら民家の庭やらも突っ切ってショートカットしまくったのはご愛嬌というものだろう。ユイが示した場所は東六区を超え、東五区にある細い路地だった。

 

 俺もアスナも索敵スキルを全開にして走り回ったため、ある程度近づいた時点で複数のプレイヤーがたむろしていたことには気づいたし、そこで何が行われているかも当たりはつけている。これが悪名高き《徴税現場》というやつなのだろう。灰緑の戦闘服と黒鉄色の鎧で固めた《軍》の一団を発見したことに驚きはなかった。

 それよりも俺の胸に渦巻いていた疑問は、『どうしてユイは、俺やアスナの索敵スキルで捉えきれない遠方のプレイヤー反応を補足できたか』だった。少なくとも俺の索敵スキルはコンプリートされてるんだけどな。

 もっとも疑問の追及は後回しにせざるをえない。さすがに眼前の光景を無視するわけにもいかないからだ。

 

「いい加減オイラたちを開放してほしいんだけどネ。徒党を組んで行く手を阻むのは悪質なマナー違反だってことくらい知ってるダロ、それとも軍はそんな初歩の初歩も教えていないのかナ?」

「そいつは無理ってもんだ。こいつらは普段から碌に税金を払わずに滞納してやがるんだからな。この際過去の分も搾り出してやらねえと」

 

 狭い路地に十人以上のプレイヤーが壁をつくって道を塞いでいたため、彼らの向こうにいるプレイヤーの姿は見えなかった。俺達の耳に聞こえてくるのはすすり泣く幾人かの子供のか細い声と、軍の連中と舌戦を交わしている皮肉気な少女の声だ。予想外の場所に予想外の知り合いがいるな、などと暢気に考えていると――。

 

「おっかしいこと言うなあ、お兄さん。あそこの先生は軍が求める徴税に毎回きっちり応えてたはずだゼ? もちろん、共同生活を送ってる人数分ダ」

「へえ、あんた俺達を疑う気かい? 見ない顔だし、あんたこの街で開放軍に逆らう意味がわかってねえみたいだな。ふん、こいつはまずいな。誉れ高き軍の徴税部隊を任される俺が、まさかこんな女子供に舐められるわけにゃあいかねえよなあ。お前ら、どう思う?」

「そりゃもちろん、けじめってやつが必要でしょう隊長殿。こいつらには金だけじゃなく装備も置いていってもらわないと。もちろん、防具から何まで一切合財を」

「くひひっ、俺たちゃ女だからって容赦はしねえぞ。軍は平等がモットーだからな」

 

 ……酔っ払いかこいつら? 真っ先にそんな疑問を抱いてしまった俺は悪くない。

 ひどい因縁のつけ方を見てしまった、これをグリーンプレイヤーがやっているのだから世も末である。ここまで堕ちぶれてたのか軍の末端は、と思わず天を仰いでしまう。ギルドの統制はどうしたよ。それともこいつらが特別マナーが悪いプレイヤーなのだろうか?

 平等だのモットーだの、そんな下卑た態度で吐き出して良い言葉じゃないだろう。彼らの声音だけでどれだけにやけた顔をしているのかを想像できてしまって頭が痛かった。第一、徴税部隊がどうして誉れ高きなんて表現につながるんだか謎だ。

 

「どっちが悪者かわかりやすいねえ。じゃあ行こうかキリト君」

「そうだな、さっさとご退散願いますか」

 

 俺達に気づくこともなく悪者ロールプレイに興じている軍集団を眺めやり、アスナが処置なしとばかりに囁く。ロールプレイってことにしといてくれないかな、マジで。なにもこんな風に集団をつくってまで弱い者虐めをしなくても……。憂さ晴らしなのか?

 目の前で展開されているマナー違反――多人数で道を塞いで閉じ込めてしまう行為を『ブロック』と呼ぶ。圏内では犯罪防止コードが働いているため、他のプレイヤーを無理やり動かすような真似はできないからこそ成立する、バーチャル空間ならではの妨害だ。

 

 ただし例外として、ソードスキルをぶつけるとHPは削らずともノックバックは発生するため、最悪の場合はそうした強硬手段に訴えて脱出する方法もある。が、もちろんそれは最終手段。いくら悪意あるプレイヤー集団相手とはいえ、いきなり背後からソードスキルをぶちこんで道を作るなんてことは、俺もアスナも良心の呵責的に出来ないため、俺達が取ったのはもう少し穏当な手段だった。

 すなわち地面を勢い良く蹴って跳躍し、彼らの上を飛び越えること。それだけである。単純明快、シンプルな解決法だった。ただしある程度のレベルは必要とする。

 

 四方を壁に囲まれた空き地らしき場所に降り立つ。そこでようやく軍に因縁をつけられていたプレイヤーを全員確認できた。空き地の片隅で肩を寄せあい、震えている子供が三人。泣くのを必死に我慢している男の子が二人に、すすり泣いている女の子が一人だ。

 そして彼ら三人を守るように軍の連中と対峙していたのは、金褐色の巻き毛を揺らしたマント姿の少女――情報屋を営む《鼠のアルゴ》だった。アルゴは俺とアスナを視界に収めるとにんまりと笑みを浮かべ、いつも通りのんびりとしたイントネーションで口を開いたのだった。

 

「おお、格好良い登場じゃないかキー坊。背負ってるお子様がアクセントになってて最高だヨ」

「あっはっは、涙が出そうな歓迎を感謝するぜアルゴ。決めた、俺達はお前の後ろにいる子供を保護するから、お前は自分で奴らをなんとかしやがれ」

「おっと、拗ねちゃ嫌だゼ。か弱い乙女に向かってなんて事を言うんダ。それともあれかナ、キー坊はオレっちに『お待ちしておりました騎士様』とか言ってもらいたかったのカ? 仕方ないナー、キー坊のリクエストとあっちゃ無碍に出来ないし、一回だけだゼ?」

「おいこら、か弱いとかどの口が言ってやがる。それとさも俺が望んでますって顔で妙な捏造をするんじゃない」

「うぅ、キー坊が冷たい。あんまりキー坊がつれないとオレっち泣いちゃうゾ? そうだ、アーちゃんはキー坊と違ってオネーサンに味方してくれるよナ?」

「キリト君もアルゴさんも、漫才してないで真面目にやろうね?」 

 

 悪ノリを始めたどこかの二人を、笑顔できっちり躾ける血盟騎士団副団長様がいましたとさ。

 

「で、アルゴ。後ろの子供達はどこに連れていけばいいんだ? 実はアルゴが通りすがりの正義の味方をやってるところだったのなら、俺のお前への好感度がそれなりに上がったりするんだけど?」

「そいつは残念、オレっちは子供らの買い物に付き合ってる時に絡まれただけサ。皆、この街の教会で保護されてるガキ共だヨ。ほら、キー坊に教えてやったとこダ。オレっちそこのまとめ役と顔見知りで、時々手伝いもしてやってるのサ」

「へえ、意外だな。お前子供が嫌いなんじゃなかったのか?」

 

 確かそういう理由でうちに寄り付かなかったはずじゃなかったっけか?

 

「なんのことかナ? オレっち一言も子供が嫌いなんて言っちゃいないヨ、苦手だとは言ったけどネ」

「またお前はそういうことを」

 

 人を食ったような笑みで得意そうに告げるアルゴ。思わず額に手をやって脱力したところで――。

 

「おいおい、オイオイオイオイ! いきなり出てきてなんなんだお前らは!? まさか俺達の任務を妨害する気なのか、ああん!」

 

 なんて喚き声が路地に木霊した。俺達に無視されて頭に血でも昇ったのか? 元気いいな、あんた達。

 

「まあ待て、余所者にこの街のルールを理解しとけってのも酷だろう。いいか、あんた達、この街では軍がトップで、絶対で、正義なんだ。言ってみりゃヒエラルキーの頂点なんだよ。そこに楯突くって意味をよーく考えて物を言えよ、何なら軍の本部に招待するぜ?」

 

 それこそ余所者に凄んでも意味がないような気がするけど……。

 リーダーらしき男は親切心で言ってるように見せて、その実脅迫をしているだけだった。彼が嗜虐的な笑みを浮かべると、周囲の連中も皆似たような笑みを形作る。耳障りな笑い声が唱和するように響き渡ってはいたが、俺としては溜息を吐く以外に出来ることはない。

 だってなあ……。

 軍がこの街のヒエラルキーのトップだってんなら、俺の隣にいる血盟騎士団の副団長様は、アインクラッドのヒエラルキーでいえばどこに位置してるんだって話である。少なくとも軍の下っ端連中が舐めた口を利いて良い立場じゃないと思うんだ。

 

 黙して語らない俺達の様子に何を勘違いしたのか、取り巻きの一人がにやにやと笑いながら「黙ってんじゃねえよ、圏外行くか圏外?」などとさらに脅しかけてくる始末。喧嘩売る相手くらい選べ。

 こうなると私服で来たことが間違いだったかとわずかながら後悔する。目立たないほうが良いだろうってことで俺もアスナも戦闘用の装備は全て解除してきたのだけど、そもそもこの街には騒ぎだすようなプレイヤーが出歩いていない現状、空回りも良いところだ。

 

 いや、今からでも遅くはないか。そう思い直してまずはユイをアスナに預ける。次いで右手を振り下ろし、システムメニューを呼び出した。装備欄の右手にエリュシデータ、左手にダークリパルサーをタップする。よし、背中に二本の剣が出現した。ついでに俺の代名詞の一つである黒のコートも羽織ってしまう。これで外見上は《黒の剣士》の完成だ。

 アスナは……別にいいか。俺とアスナ、どちらかを認識させれば後は芋蔓式に事態も進むだろう。

 

「そんなにPKごっこがしたいなら俺が付き合ってやるけど、加減出来なくても恨むなよ。俺はそっちのオネーサンほど優しくないぞ」

「あん? 何言って――」

「た、隊長! やばいですって! 黒のコートに二刀流。こいつ、攻略組の《黒の剣士》です!」

 

 よかった、気づいてくれるプレイヤーがいたよ。

 

「そ、そんなわけあるか! こんなところにトッププレイヤーがいるはずないだろ!」

 

 俺の素性に言及した男の叫びがこの場の全員に浸透した頃、隊長とやらを差し置いて取り巻きの一人が唇を戦慄かせながら声を挙げた。大きく見開いた目には狼狽が浮かび、声は情けなく震えている。確かこいつはこんな街中でアルゴの装備――うら若き乙女の衣服を剥ぎ取り、その柔肌を晒せなどと世迷言を抜かしていた男だ。

 ……ふむ、ぶちのめしてもいいだろうか? むしろぶちのめすべきではなかろーか。そうだそうしようそうすべき。

 俺が脅しあげる対象として申し分ないと勝手に決めつけ、腰をわずかに落とし、鞘から抜き放った二刀を構える。剣に燐光が宿り、光の帯を発しながらソードスキルのモーションを開始した。

 

 瞬きほどの間に彼我の距離を詰めると、まずは右のエリュシデータで横薙ぎの一閃。ぎりぎりの間合いで空振りに終わらせ、そこからさらに一歩踏み込み、左のダークリパルサーが男の頬を掠める位置へと突きこまれる。ここは圏内だ、別に俺の剣が当たっても多少弾き飛ばされるだけでHPが減ることはない――が、俺の目的は示威と証明である。そしてその目的は十分果たした。

 俺の動きを追えていなかったその男は、何が起こったのかをすぐには察せなかったようだが、やがて自身の傍を二度通り過ぎた刃の圧力をようやく認識し、腰が抜けたようにへたり込んでしまう。そういえば、『圏内戦闘はダメージの代わりに恐怖を刻み込む』なんてフレーズを誰が最初に言いだしたのやら。

 

 しんと静まり返った中、二刀を鞘に納める鞘鳴りが響く。リーダー格の男に目を向けるとひきつったような顔で一歩後ずさった。そう怖がらなくても、これ以上剣を振り回すつもりはないぞ?

 

「見ての通り、俺の二刀流は見せかけだけのもんじゃない。理解してもらえたかな?」

「あ、ああ、もちろんだ」

 

 二本の剣をスロットに装備するだけなら誰でも出来るが、二刀流スキルを持っていない限り、システムにエラーが発生してソードスキルを使えない。《黒の剣士》を証明するためのデモンストレーションとしては十分だろう。

 

「それはよかった。さて、あんたらの言う通り俺達は余所者だし、この街のルールとやらに口出しするつもりもないんだが――今日のところは不幸な行き違いってことで穏便に済ませてはもらえないかな? 何なら後日血盟騎士団の副団長を仲介におたくらのトップと話し合ってもいい」

 

 なあアスナ、と呼びかければ「そこでわたしも巻き込むの?」と若干不満げな顔をされてしまった。仕方ない、後で埋め合わせはしてやるよ。取り巻き連中もようやくアスナの正体を悟ったようで、一様に顔を青くしていた。

 

「す、すまない。確かに誤解があったようだな。以後は気をつけることにしよう。お前ら、撤収するぞ」

「ちょっと待ってくれ隊長さん」

 

 一刻も早くこの場を立ち去りたい、そんな思惑をありありと感じさせる早口だった。そこに口を差し挟んだ俺がどう思われたかは……まあ、悪魔にでも会ったような顔を見れば察せられる。なにもそこまで怯えなくても……。

 

「これ、詫び料と手付け金だ、受け取ってくれ。図々しい願いなんだけどさ、そこの子供達を保護してるって教会には俺の知り合いも関わってるみたいだし、幾らか手心を加えてやってほしいんだよ。無理は言わない、あんたの職責の範囲でいいんだ」

 

 適当にコルとアイテムを放り込んだトレードウインドウを開く。そのまま笑顔で威圧、もとい宥めすかせてトレードを承諾させた。

 言うまでもなくこれは俺の善意であり、誠意である。たとえ賄賂を無理やり受け取らせて既成事実にしたり、俺の告げた言葉の意訳が「舐めた真似したらわかってんだろうな?」的なものだったりしても、善意といったら善意なのだ。何も問題はない。隊長さんの顔は盛大に引き攣ってたけどな。

 アルゴがにやにや笑いで俺を眺めてたり、アスナが呆れた目をこちらに向けているのはスルーした。ユイは不思議そうに首を傾げている。アルゴとアスナはユイの無垢さを見習えってんだ。

 最後にそんな一幕を入れて、不意に遭遇した騒動はどうにか鎮静化したのだった。軍の連中が重い足取りで去っていく姿を見送り、ようやく一息つく。

 

「適当に追い払っちまったけど、これでよかったのか?」

「もちろんダ。――っと、ちょっと待ったキー坊。先生さんが到着したみたい」

 

 アルゴが軍と入れ替わるタイミングで訪れた人影に気づき、一旦会話を中断する。その視線の先には修道服を纏う二十歳前後の女性が立っていた。暗青色の髪色をしたショートカットに黒縁の眼鏡、瞳の色は深緑をしていて、その優しげな双眸に反して手には短剣を携えていた。

 軍と一悶着を覚悟して駆けつけたってとこか。彼女が話に聞いていたサーシャさんで間違いなさそうだ。

 

「あの、アルゴさん? 私、子供達が軍に絡まれてるって聞いてきたんですけど、どうなってるんです?」

「通りすがりの正義の味方が助けてくれてネ、子供達も無事だヨ。ほら、もう大丈夫だから行きナ」

 

 アルゴに促された三人が我先にと駆け出していく。実はこの三人、ずっと俺を警戒するような素振りを見せていた。ちょっと怖がらせてしまったのかもしれない、軍の連中が立ち去ってもアルゴの後ろから出てこなかったくらいだから。

 

「先生さんは子供達を連れて先に戻っててもらえるかナ? オイラたちもすぐに追いつくからサ。事情説明はその時にするヨ」

「はあ、アルゴさんがそう仰るのでしたら」

 

 状況を飲み込めずに目を白黒させるも、涙目で抱きついてくる子供達の怯えた様子を見て取ったのかそれ以上問い返すこともなかった。俺たちに丁寧に頭を下げて礼を言った後、「それではお待ちしています」と一言残して去っていく。

 

「信頼されてるんだな」

 

 彼女らを見送り、アルゴと改めて向き合う。

 

「付き合いが長いってだけだヨ。さてさて、久しぶりだネ、アーちゃん。そっちの子ははじめましてかナ」

「はい、ご無沙汰してますアルゴさん」

 

 ぺこりと頭を下げるアスナの真似をしてか、ユイも行儀良く一礼してみせた。偉いぞ。

 

「しかし参ったヨ、オネーサンを軟派するだけなら適当にいなしとくんだけどサ。もてる女はつらいネ」

「《鼠のアルゴ》を知らなかったんだろ。お前も適当に追い払えばよかったのに」

「オレっちの場合レベルだけだからナー」

 

 荒事は苦手なんだと嘯くアルゴ。まがりなりにも攻略組に属しているとは思えない台詞だった。どこまで本気で言っているのやら。

 さっきの連中は総じて装備も貧弱だったし、レベルも下層か良いとこ中層の下クラスだろう。圏内戦闘を全力でやらかせとまでは言わないけど、もう少し強硬な態度に出てればアルゴだけでも場を収められたように思う。

 

「ま、オレっちのことはいいじゃないカ。キー坊こそ何をそんなに腹を立ててるんダ、らしくないゼ?」

「ほっとけ。剣で脅しあげて札束で頬をぶっ叩くまでが俺の交渉術なんだよ」

「それってオレっちが前に言った台詞ダロ。実は根に持ってたのカ?」

 

 そんなんじゃモテないゼ、なんて付け加えるアルゴに余計なお世話だと言い返す。

 第一、お前のその笑い方は俺の内心を見透かしている顔だろう。察してるならわざわざ掘り返すな。そうやって隙あらば俺を弄くろうとするのはどうかと思うんだ。ああもう、いつまでもこの話を引っ張るのは旗色が悪い。

 

「なあアルゴ、お前が今日この街にいたのって偶然か?」

 

 話題そらしにはちょっと強引だったか? そうは思ったものの、アルゴもそれ以上俺を追及するつもりはなかったのか、しっかりと俺に追従してくれたのだった。……にたりと笑みを浮かべて。それはもう楽しそうに。

 

「そりゃもちろん必然サ! キー坊に会いに来たに決まってるじゃないカ。最近キー坊分が不足しててオネーサン寂しかったんだゾ!」

「わかった、偶然だな。もしくは厄介事だ」

 

 アルゴの戯言を一刀の下に両断する俺である。それと俺はそんな怪しげな成分をアルゴに提供した覚えはない。……ないですよ?

 

「おや、オネーサンの言うこと信じてないナ? そんな悪い剣士様はこうだゼ、キー坊」

「あ、おい――」

 

 言うが早いか、アルゴは正面からするりと俺の懐に入り込む。と、同時に俺の腕を取って胸に抱え込み、そのまま背を預けるようにもたれかかってしまった。傍目からは俺がアルゴを後ろから抱きしめているようにしか見えないだろう。

 

「うん、やっぱりキー坊の腕の中は落ち着くヨ。オネーサンが百点満点をあげよう」

「アルゴ、悪ふざけが過ぎるぞ」

 

 溜息混じりに文句を零し、アルゴを引き剥がそうとして。

 

「――ホント、キー坊は良い顔をするようになったネ」

「……なんだよ、急に」

「急じゃないと不意打ちにならないからナ。ふふん、その様子だともう悪夢を見ることもなさそうダ、よかったじゃないカ」

 

 それ以上、何も言えなくなる。

 身体の向きを入れ替え、頭一つ分下から覗き込むアルゴは慈愛の眼差しで俺を見つめていた。頬に寄せられた彼女の手の平が暖かくも切なく、心地よい。アルゴの優しさが、その細くしなやかな指先を通して注ぎ込まれているかのようだった。

 ずるい奴だ。何でもない顔をして、ふとした折に芳情に満ちた言の葉を、そっと俺の胸に忍ばせてくるんだから。

 

「おかげさまでな。最近は夢見も良いよ。この際お前を夢に登場させていいか?」

「にゃハハハ、こんな昼間からオレっちを口説こうだなんて、キー坊もいよいよ口が上手くなってきたじゃないカ。勝手に夢に登場させられそうなオネーサンとしては出演料を貰うべきかナ?」

「阿漕な奴、夢の中くらい自由にさせろっての。もっとも、俺は夢なんかよりこうやって(じか)に触れ合えるほうが嬉しいけどな」

 

 やられっぱなしも癪に障るから少しくらい反撃させろ。

 そんな風に内心で嘯いてから、アルゴの左頬にペイントされた髭模様の一本に指先を伸ばし、すっと引いた。……柔らかい。

 もう一度繰り返す。今度は右の頬のペイントに指を当て、ゆるやかに、しめやかに、這わすような手つきで優しくなぞりあげた。……やっぱり柔らかい。

 

「んっ……。くすぐったいヨ、キー坊」

 

 鼻にかかった甘く艶やかな吐息を漏らす小柄な少女を視界に捉えて、とてもとてもご満悦な顔をしているプレイヤーがいた。さて、誰のことやら。世の中には悪い剣士様がいたものである。

 もちろん悪戯好きの淑女がそんな不埒な真似をした男をいつまでも放っておくはずもなく、やがて表情をにんまりと改め、あたかも哀れな囚われ人を装ってアスナ達へと腕を伸ばすのだった。

 

「大変ダ! 助けてアーちゃん、キー坊がエロくなった!」

「あの、アルゴさん? ハラスメントコードにも抵触してないみたいですし、自業自得だったりしません?」

「自業自得なんて言葉はキー坊の辞書にいっぱい載ってるヨ。オレっちの辞書には一文言もないけどナ!」

 

 にゃハハハと恒例の笑いを響かせ、飄々とのたまうアルゴ。どうしたものかと困り顔のアスナ。アルゴとアスナに視線を往復させ、こてりと首を傾げるユイ。

 そんな三者三様の反応を視界に収めながら、隙あらばもう一度、などと悪辣極まりない企みを抱えている事は、ひとまず秘密にしておこうと誓う俺だった。

 

 




 ユイの一人称を《あたし》から《ユイ》に変更しています。また、《Yui》の調査結果云々は拙作独自のものです。
 決闘場面で出てきた砂煙エフェクトは、PSPゲーム《インフィニティ・モーメント》における描写を参考に、対人戦における小技、フェイントの一種として扱っています(ゲームでは目潰し、拙作では煙幕)。

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