ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第16話 黒の剣士、白の閃光 (4)

 

 

 およそ一時間弱。それが第75層フロアボス《ザ・スカルリーパー》撃破に要した時間だった。以前俺が相手をした74層でのグリームアイズ戦にかかった時間とはわけが違う。あの時は俺一人だったのに対して、今回は俺以上の実力者を含む総勢38人で挑んだ総力戦だったのだ。それだけの戦力を用意して、なお一時間に迫る戦闘時間だった。その一事を以って従来の敵戦力との大きすぎる隔たりとクォーターボスの凶悪さ、鬼畜ぶりが伺えよう。――そして、犠牲のでかさも。

 誰もが死闘の果てに疲れ果て、黒曜石の床にへたりこんでいた。俺とアスナも例外ではない。肩を寄せ合うように座り込み、激闘の疲労を癒していた。あるいはもっと単純に、犠牲者を悼んだ空虚な虚脱感にお互い支えが欲しかっただけかもしれない。今は立ち上がろうとも思えなかった。

 

 士気高揚のためか、それとも単なるやせ我慢なのか、唯一ヒ-スクリフが超然と立ち尽くしたままだが、この際無視だ無視。奴を大したものだと感心はしても対抗する気力はない。

 疲れを知らぬタフさ以上に驚きだったのは、ヒースクリフのHPバーが未だにグリーンを維持していることだった。《ヒースクリフにイエローなし》。当然、戦闘中もグリーンを維持し続けていた。あれだけの激闘を経てなお、彼の伝説が崩れることはなかったのである。

 もういっそ化け物でいいんじゃないか? 誰が死のうとも、俺が死のうとも、あの男だけは最後まで生き残ると思う。

 

「何人――やられた?」

 

 怒りと、切なさと、悔恨。それぞれの感情が絶妙に混じり合ったクラインの問いに、しかし答えるものはいなかった。クラインの傍で大の字になっていたエギルが身を起こしたが、それだけだ。誰が死んでもおかしくない戦いだった。視線をついと動かせば、俺のHPバーもレッドに差し掛かるぎりぎりの位置でイエローに染まっている。

 クライン、エギル、俺はお前らが生き残ってくれていて本当に嬉しいよ。それにディアベル、シュミットも無事か。血盟騎士団は……さすがだな、死者を出さなかったみたいだ。

 

「七人死んだ。生き残りは三十一人だ」

 

 一度目を閉じ、感情を廃して俺はクラインの問いに答えた。

 この数字を多いと見るか少ないと見るか。フロアボスの強さを考えれば討伐隊から二桁、いや、今の二倍三倍の犠牲者が出てもおかしくなかった。七人だけで済んだのは僥倖とさえ言えるのかもしれない。人の死を数字の多寡だけで測り納得して良いのならば、だが。

 そもそも偵察に赴いた軍の犠牲者も含めれば、今回のクォーターボスを相手に十九人もの膨大な戦死者が出ている。とても喜べる状況ではなかった。

 理想は戦死者ゼロで切り抜けることだ、それが理想にすぎないことはわかっている。そして今回のボスを相手に犠牲なしで勝利を得る、そんなもの夢物語以外の何者でもなかったのは嫌というほど思い知らされていた。多分、そうした事情は皆肌で感じとっていただろう。それでも――。

 

「……そうか、七人か」

 

 クラインはそれだけ口にすると、ぐいとトレードマークのバンダナをずり下ろすように目元を隠してしまった。奴のいる方向から鼻を啜る物悲しい音が聞こえてきたのは――きっと俺の空耳だろう。俺もそれ以上は何も言わず、力なく目を伏せた。

 暗鬱とした沈黙だけが残る。

 誰も口を開かず、誰も動かず、しばらくは無言の時だけが俺達の間に広がっていた。この場でただ一人余裕を残していた男が口を開いたのは、全員が死闘の残滓を噛み締めながらも、どうにか立ち上がる気力を取り戻した頃だ。

 

「確かに犠牲は少なくなかった。それでも我々はついに最難関と目された場所を越えたのだ。喪失の嘆きに俯くだけではなく、今はお互いの健闘を称えよう。――それでは頼めるかな?」

「はっ!」

 

 ヒースクリフの呼びかけに立ち上がったのはゴドフリーだった。疲労は色濃く、常の豪快さは鳴りを潜めていたものの、承諾の声はきっちりしたものだった。そのままぐるりと広間を一瞥し、最後に俺とアスナに目を向けた後、些かわざとらしく咳払いをした。

 

「75層クリアを祝し、簡素ではあるが諸君と杯を交わすことで節目としたい。異論ないようならば杯を配らせてもらいたいのだが、構わぬかな?」

 

 唐突な提案だった。皆がそれぞれ顔を見合わせ、判断に迷う仕草を見せている。しかし僅かのざわめきを経たものの、ゴドフリーの提案に明確な反対意見が出ることはなく、それぞれが遠慮がちに頷くことで承認の合図としたようだ。

 犠牲が出たとはいえ75層クリアの事実は快挙に違いない。祝いを挙げたいとの言葉に殊更反対する理由もないだけに、全員の心が消極的賛成に傾くのも至極当然のことだったのだろう。

 しかしほんといきなりだな、そう思って首をひねる俺である。どういうことだと彼らの同僚である血盟騎士団副団長様に顔を向けてみたのだが、アスナも聞かされていなかったのか、俺の疑問を込めた視線にも無言で首を横に振るだけだった。

 

 これはヒースクリフ達血盟騎士団のサプライズというやつだろうか? それにしても唐突感が否めないというか、今までこんな催しをしたことはなかったはずだが。何故今回に限ってこんなことをする気になったのかという疑問は消えない。

 フロアボス撃破を記念して祝いの席を用意するのは珍しいことじゃない、むしろ大抵のギルドやパーティーで行われていることだった。ただしそれは討伐隊全体で行うものではなく、あくまで討伐隊解散後、それぞれのギルドやパーティーに別れてから騒ぐ形のものだ。

 ゴドフリーの提案は一度杯を交わすだけであろうし、宴というほど華やかなものではないだろう。しかし簡易的なものとは言え、今回のようなことは異例の措置に違いなかった。ゴドフリーは一度俺達を見渡し、特に反対の声が挙がらなかったことで了承としたのか、満足そうに頷いて傍らに立つ男へと目を移す。

 

「問題はないようだな。クラディール、皆に杯を振舞え」

「仰せの通りに」

「うむ」

 

 ゴドフリーが命令口調でクラディールを促すと、クラディールは真面目な顔でメニュー画面を操作して杯をオブジェクト化させていく。緊張しているのか随分と固い表情を浮かべていたが、出現した杯をクラディールは「お疲れ様でした」と一人ひとりに頭を下げ、労いを告げながら手渡していった。

 ……ああ、そういうことか。ゴドフリーとクラディールのやりとり、そしてクラディールが一人で全ての準備を進める姿にようやく得心できた。これは血盟騎士団なりの誠意の見せ方であり、パフォーマンスだ。

 

 クラディールが俺に完全決着モードの決闘を仕掛けたことは攻略組の皆に知れ渡っている。アスナが与えた罰則と併せて表立った不満は上がっていないとはいえ、血盟騎士団、クラディール双方にとって面白いことではなかっただろう。

 だからこそ今回奴は恥を雪ぐ名目でこの決死隊に参加したらしいが、ここでダメ押しとしてクラディールに催しの準備を全て任せ、その反省した姿を見せることで罰則にしたわけか。ついでにこれで全て水に流せと俺に言ってるつもりなのかもしれない。まあそっちは所詮おまけだ。水に流せも何も、俺に被害らしい被害はなかったのだから気にもしていなかった。

 

 この細やかな気遣いの仕方はヒースクリフかな? ゴドフリーがこうした回りくどいやり方を得手としているとは思えないし、相談相手なりでヒースクリフが関わっているのだと思うけど。もしくは参謀職プレイヤーの誰かの可能性も十分あるか。何にせよ部下思いのことだった。

 このパフォーマンスは攻略組の最精鋭にその姿を見せることが重要だったのだろう。ここまで反省の姿勢を見せれば血盟騎士団に不審が向けられることはまずないだろうし、クラディールにだってこれ以上の非難は向かない。名誉回復にだってつながる、リカバリーとしては十分過ぎるだろう。

 ほっと安堵の息が漏れた。これでクラディールの禊も済むだろうし、改めて攻略組の団結も深まりそうだ。善き哉善き哉。

 

 こういった配慮の仕方は見習いたいものだと思う。俺はソロだから生かせる日がくるかはわからないけど、覚えておいて損はないだろう。

 そんな風に一人苦笑を浮かべていると、いよいよ杯が全員に行き渡ったようだった。ちなみにクラディールの様子だが、俺に杯を渡した時だけは徹底的に無表情を貫いていた。あれは多分罵声を浴びせたいのを必死に我慢してたんだろう。別にいいけどな、今更好かれるとも思ってないし。このまま突っかかってこなくなれば万々歳だった。

 

「ヒースクリフ団長、準備完了しました」

「ご苦労だった。それでは諸君、ラストクォーターポイント攻略の祝いと共に、この一杯を先に逝った戦友への手向けとしよう。皆、用意はいいかな? それでは――献杯」

 

 ヒースクリフがわずかに杯を持ち上げる。それに合わせて皆が献杯と答え、手にした杯を口に持っていった。俺とアスナも同様に杯を口に含む。

 芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、次いで口内に広がるのはぶどうの甘みと酸味、多少の炭酸を加えた味と舌触りだった。これは果実酒か。いや、アインクラッドに酒精はないから分類上ジュースというべきか?

 杯の中身は御神酒ではなかったが、掛け声ばかりは日本式を優先したらしい。討伐隊の皆だって乾杯を告げる気分じゃないし、妥当だろうと思う。死闘の後だけに長時間の緊張によって喉がカラカラだったこともあって、喉を滑り落ちる液体は天上の甘露にすら思えたものだ。

 

 ――そして、この一杯が毒酒の貢物だと気づいたのは、麻痺にかけられて俺の身体の自由を全て奪われてからのことだった。

 

 何が起きた……!?

 あちこちで杯が黒曜石の床に衝突し、砕け散る音が響いた。杯から零れ出たそれはあたかも真っ赤な血のようで、どろりと地面を流れていく。崩れ落ちた身体には全く力が入らず、俺は愕然した面持ちのまま成すすべもなく身体を黒曜石の床へと投げ出す羽目になった。隣には俺と同じように驚愕に目を見開き、次いで苦悶の声を挙げることになったアスナがいる。視線を動かせばクラインやエギルも麻痺にやられて身を横たえていた。ディアベルも、シュミットも、ゴドフリーも、そしてその状態異常はヒースクリフすらも例外ではない。

 異常な光景だ。この場に集い、激戦を生き抜いた攻略組の最精鋭、その全てが五体を投げ出し、状態異常に喘いで倒れ伏していたのである。

 いや、全てじゃないか。俺達を襲った突然のアクシデントの中で平静を保ち、身体の自由を残している者がたった一人だけ存在する。……血盟騎士団所属団員、名をクラディール。

 暗く昏く、蛇のように執念深い怜悧な光を宿し、ぞっとするほど冷たい眼差しをした、動けない俺たちを舌なめずりしながら眺めやるただ一人の男だった。

 

「クハッ! ヒャッ! ケヒャヒャヒャヒャッ!」

 

 気味悪い、声。

 訂正しよう。クラディールは平静なんかじゃない、狂ったように甲高い笑いを響かせていやがった。それは同時に、自らがこの事態の犯人だと告げるに等しい振る舞いでもある。一体どういうことだ。こいつ、まさか乱心したか。

 嫌な予感が膨れ上がっていく。この状況、明らかに作為によるものだ。クラディールの思惑はわからなかったが、それが俺にとって吉兆のはずがない。クラディールに気づかれてくれるなよ、と俺の左手は自然と腰のポーチへと伸びていた。

 

 この部屋は結晶無効化空間だ、結晶による麻痺の即時回復はできない。ならばと麻痺状態でも唯一動かせる左手をポーチに突っ込み、解毒ポーションを取り出してどうにか口に含む。

 しかし結晶と違ってポーションは回復までにタイムラグがあるため、しばらくの間は床に這い蹲っているしかない。それに毒も外傷によって与えられたものではなく、経口摂取によって引き起こされたために、ポーションの効きそのものが非常に悪いのも頭の痛い話だった。回復には時間がかかる。

 

「ど、どういうことだ? この杯を用意したのはクラディール……。では、まさかお前が……?」

 

 倒れ伏したまま呆然とした声でつぶやくのはゴドフリーだった。狐に化かされたような顔、いや、悪夢に直面したような顔だろうか。目の前の現実を信じられない、認めることのできない表情をしていた。口元を戦慄かせ、大口を開けたまま固まっている。

 クラディールはそんなゴドフリーの問いにすぐには答えず、しばしの間正気を失ったように奇怪な笑い声をあげていたが、やがてぴたりと唐突に黙った。そして愉悦に満ちた表情で俺たちを見下ろした。

 ……嫌な目だ。あれは、弱者を甚振ることに楽しみを見出している瞳だった。俺が今まで目にしたことのある、人品卑しい犯罪者プレイヤーにままある特徴と酷似していた。

 

 そんな俺の侮蔑的な内心に気づくはずもなく、クラディールは喜悦に歪んだ表情でこつこつと靴音を響かせながら歩き出した。向かう先は――ヒースクリフか。数ある戦いの中、未だかつて膝をついたことなどなかった男も、今はその身を床に横たえている。《聖騎士》を窮地に追い込んだ初の出来事が、まさかプレイヤーの裏切り、それも奴の部下によるものとはなんたる皮肉か。

 顔を顰める攻略組の支柱を前にしてクラディールの足が止まった。

 

「気分が良い、この世界の実力者全員がこの俺に平伏してる光景は最ッ高に気分が良いぜ……! まして俺の足元に転がってるのはアインクラッド最強、《英雄》にして《伝説の男》だもんなあ!」

 

 クラディールは愉しくて仕方ないとばかりにくつくつと笑っていた。

 

「……よぉ、ヒースクリフさんよ。散々最強プレイヤーなんて持ち上げられたあんたも麻痺には勝てねえよなあ。どんな気分だ? なあ、格下プレイヤーに嵌められて無様に転がってんのはどんな気分だって聞いてんだよッ!」

「ぐっ……がっ……!」

 

 クラディールのせせら笑いが響くと同時にヒースクリフに捩じれた刃物が突き入れられる。それはクラディールの得手とする両手剣ではなかった。黒く輝く短槍(ショートスピア)。柄のほぼ全体を覆うような逆棘が特徴的な、禍々しい印象の武器だ。長さは一メートル半ほど、先端には十五センチほどの穂先があった。

 なぜ、わざわざクラディールが両手剣以外を用いたのかがわからなかった。しかしそんな俺の疑問をよそに、クラディールの握った短槍はうつぶせに倒れたヒースクリフを背から刺し貫き、不吉な赤のダメージエフェクトを撒き散らす。当然ヒースクリフのHPは削り取られていき、ちょっとやそっとでは崩れないヒースクリフの鉄面皮に皹が入った。苦悶の声をあげて不快感に耐えている様子だ。

 

「ヒャハハハ! あんたの苦しむ顔なんざ初めて見たぜ。こいつは《ギルティソーン》つってな、大したランクの武器じゃねえが、貫通継続特化の槍だ。麻痺にやられたあんたに抜くことは出来ねえだろ、このまま貫通継続ダメージに恐怖して死んでいきな」

 

 《ギルティソーン》――罪の茨。

 クラディールの口にした《貫通継続ダメージ》は貫通(ピアース)系の武器にだけ付与される特性だ。効果は名称そのまま、モンスターやプレイヤーの身体を貫通させると継続してダメージを発生させる効果を持つ。武器名称や形状を踏まえるに、あの槍はクラディールの言葉通り継続ダメージに特化した武器か。抜くためにはかなりの筋力数値を要求されることだろう。それでも常のヒースクリフならば無造作に引き抜ける程度のものでしかなかったはずだ。しかし――。

 ヒースクリフも何とか槍を抜こうとしているようだが、麻痺で身体の自由が効かない上に体勢も悪いためか成果は芳しくない。その様を見てまたクラディールが高笑いをあげた。

 

「くく、ここまでされても黙して語らずか。あんたらしいと言えばあんたらしいけどな。なんとか言ったらどうなんだ、ええ、ヒースクリフさんよ」

 

 クラディールはさらに両手剣を装備し直すと、「こいつで詰みだ」と笑いながらヒースクリフに攻撃を繰り返し、唯一動く左腕の手首から先を切り飛ばした。

 部位欠損……。偏執的なまでの念の入れようだ。

 確かにこれでヒースクリフに為す術はない。ギルティソーンが持ち主の装備スロットから離れたために放っておけば自然消滅するとは言っても、その間に削られる分のダメージをヒースクリフは止めることも回復させることも出来ないのだ。ギルティソーンの攻撃力によってはクラディールの言う通り、このままヒースクリフのライフが貫通継続ダメージによって削られきる可能性も否定できない。

 クラディールは自身のカーソルがオレンジに染まるのもおかまいなしだ。カーソルの色が犯罪者のものに変化しても気にしている様子は毛ほども感じられない。

 

「さあて、本命といこうか。この時を夢に見たぜぇ、黒の剣士よぉ……!」

 

 濁りを帯びたクラディールの目が俺へと向けられる。愉悦に歪んだ気味悪い顔を目にして吐き気を催しそうだ。

 クラディールがヒースクリフへの処置を終わらせ、次に定めた標的は俺だった。……奴との諍いを考えると予想できなかったわけじゃないが、さて、どうする? 麻痺にかかった俺じゃ手も足も出ずに嬲り殺されるのを待つだけだ。

 ここはフロアボス部屋である。救援はまずないし、結晶無効化空間も未だ健在だった。無効化の罠はもしかしたら誰かが次層を有効化(アクティベート)すれば消えるのかもしれない。しかし現状手動でアクティベートを達成できる見込みはなく、ボスが撃破されたことで自然にアクティベートされるのを待つとしても、それは三時間後の話だ。とても間に合わない。

 となれば解毒ポーションの効果が出るまでなんとか時間を稼ぐしかないんだが……きついな。だが、それでも何か手を探さなければならない。こんなところで死んでたまるか。

 

「……何故だ。何故こんなことをした、クラディール……!」

 

 恐怖の演出でもしているつもりなのか、殊更ゆっくりと俺へと近づくクラディールに、吠えるような詰問をぶつけたのはゴドフリーだった。俺との決闘騒ぎ以降、おそらくはクラディールのために最も骨を折った男は、沈痛に表情を歪めて声を震わせていた。

 ……止めろ、止めるんだゴドフリー。今のクラディールを刺激するんじゃない。クラディールの仕掛けた罠は結晶無効化空間でないと意味を成さないものだった。つまり、どういうつもりかは知らないがクラディールは正気を保ったまま、計画性を持ってこの場に立っているんだ。下手な刺激は命取りになるぞ……!

 

「うっせーなあ、脳味噌筋肉(ノーキン)の馬鹿が。そういやあ、あんたにも世話になったっけなあ、監督役だかなんだか知らねえが、随分偉そうにしてくれたじゃねえか」

「な……っ! 私はお前のためを思って……!」

「ああ、そうかいそうかい。そいつはご苦労様だったな」

 

 煩わしげにゴドフリーを一蹴するクラディールに、罰則を受けたのはお前の自業自得だと罵声を放ちたいのを堪え、左手を動かして密かにスローイング・ダガーを取り出す。今の俺に出来る唯一の攻撃手段だ。投擲武器ではどうあってもダメージは微々たるものしか与えられないが、それでも――。

 

「何故こんなことをしただあ? そんなもん決まってんだろ、いけ好かねえ《聖騎士》と、なにより《黒の剣士》をこの手で殺してやるためさ。ひひ、この日をどれだけ待ったことか。ようやく、ようやくこの時が来たぜ。長かったなあ、ああ、長かった……」

「団長を殺す、だとッ! 馬鹿な、そんなこと許されるはずが――ガァッ!」

「もう黙ってろよゴドフリーさんよお。そんなに死にたきゃ先に殺してやるから感謝しな。ひひ、ひひひひひ」

 

 気味悪い奇声を上げ、クラディールは身体を大きく反らしながら剣を振り上げ、逆手に握った刃を勢い良くゴドフリーに振り下ろす。ゴドフリーの絶叫と共に彼のHPがグンと減った。

 まずい、クラディールには躊躇いがない!

 愉悦に歪んだ顔で幾度も両手剣を振り下ろすその仕草からは、人を傷つける恐れや罪悪感を欠片も感じ取ることは出来なかった。オレンジ化を避けてプレイヤーを殺す手段を追及した犯罪者連中のように、グリーンカーソルを維持したまま犯罪に走ることだって出来る。あれは人を殺した前科があるか、もしくは初めから人を傷つけることに痛痒(つうよう)を抱かない種類の人間だ。殺人者(レッド)予備軍か、PK経験者そのもの。よくも今までその本性を隠し通してこれたものだ。

 そして、これ以上俺が沈黙を通す事もできなかった。このままじゃゴドフリーのHPが持たない。

 クラディール、俺の目の前でそう簡単に仲間を殺せると思うな。俺が生きている限り、貴様が如き下郎に奪わせて良い命はこの場には一つもないんだよ……!

 

「やめ、やめて……それ以上は……このままじゃゴドフリーが――」

「クラディールッ!」

 

 俺の隣で青褪め、震える少女が慟哭の悲鳴をあげる――その寸前、俺はアスナの言葉尻に被せるように鋭い呼びかけを行った。アスナの悲鳴よりも俺の声の方がクラディールにはずっと有効だろう。この盛大な裏切りの目的は俺の命なのだと、図らずも奴自身が口にしていたのだから。

 それに奴が以前アスナに向けていた執着が脳裏を過ぎってもいた。出来ればこの場でアスナを目立たせなくない。

 

「あん? テメエはメインディッシュなんだ、大人しくそこで震えて――」

 

 クラディールはゴドフリーへの攻撃を一旦中止し、口元をだらしなく緩めながら振り向いた。思い通りの展開に逸っているのか、警戒した素振りも見せない。……学習しない男だな、その油断が原因で俺に剣を叩き折られたのをもう忘れたのか。

 準備は出来ている。クラディールが俺に顔を向けた瞬間、即座に俺の左手は閃き、手首の先だけで投擲したダガーが勢い良く飛び出した。――狙いは奴の眼球。

 投擲武器で与えられるダメージなんて雀の涙でしかない、だからこそ優先するのはダメージよりもクラディールへの揺さ振りだ。そして俺の投じた投擲用短剣は寸分違わず奴の目を撃ち抜いた。ダメージを負った左目を抑えてクラディールがくぐもった呻きをあげる。

 

 本来麻痺状態では命中率が低下し、正確な狙いなんてつけられるものではないが、そこは俺の持つスキル補正が活きてくる。《射撃》スキルは投擲武器の命中率に高い補正をかけてくれるのだ、麻痺で低下する分を補って余りある効果だった。加えて、この大事な場面でクラディールの視界を奪う部位欠損効果までおまけで付けてくれたのだから、俺のリアルラックだって捨てたもんじゃない。

 これでクラディールの視界はしばらく不自由になるだろう。嬉しい誤算だ、後は奴の物理的な視界の狭まりを精神的なそれにまで拡げてやる。

 

「薄汚い犯罪者(オレンジ)風情が粋がってんじゃねえよ。自分から犯罪者に成り下がるような、見下げ果てた馬鹿が何を偉そうにしてやがんだ。負け犬は負け犬らしく隅で大人しくしていればいいものを」

「なんだとぉ……」

「負け犬だろう? まさか先の決闘であれだけの無様を晒しておいて、勝ちを主張するような厚顔無恥でもあるまいに。……ああ、いや、悪かった。思い起こせば恥知らず極まりない男が一人いたな。身の程も悟れない、汚物にも似た畜生を負け犬扱いするのも犬に失礼か。訂正させてくれ――屑野郎」

 

 侮蔑に満ちた台詞を吐き捨てるたび、クラディールの眼窩に暗く澱んだ光が宿り、その色を濃くしていく。

 そうだ、怒れ。お前は俺のことが嫌いなんだろう? 殺したいんだろう? だったらもっともっと俺に憎悪を募らせろ。俺への恨み節を垂れ流せ。ゴドフリーへの殺意を忘れるくらいな。

 

「キィエエエッ!」

 

 返答は奇怪な、意味を持たない怪鳥のような叫びだった。

 クラディールが突進するような勢いで駆け寄り、血走った目を向けながら俺の顎を掬い上げるように豪快に蹴り上げる。アスナの叫びを耳にしながら、俺は成す術なくうつ伏せから仰向けにひっくり返され、すぐさまブーツで腹を踏みにじられた。たまらずうめき声が漏れる。ダメージは大きくないが不快感がひどい。麻痺だから仕方ないにしても、無抵抗に嬲られるのは心底ストレスがたまるのだと改めて実感する。

 そしてさらに追撃。逆手に握られたクラディールの剣が俺の腹を貫き、地面と激突する硬質な音が響いた。先刻のブーツの一撃とは比較にならない不快な痺れが神経を刺激し、短く呼気が吐き出される。

 

「ぐぁっ……」

 

 くそっ、何度くらっても慣れるものじゃないな、これは。

 だがまあ、相変わらずの沸点の低さに安心したよクラディール。そこだけは感謝しておいてやる。

 

「碌に動けねえ分際ででかい口を叩くじゃねえか。ええ、おい、黒の剣士様よぉ」

「……あんたの犯罪者(オレンジ)ギルド顔負けの下劣な遣り口には負けるよ。ふん、今日は随分と格好良いじゃないか、クラディール」

 

 俺に一撃を加えたことで余裕が戻ったのか、クラディールは再び嗜虐的な色を見せ始めていた。弱者、獲物を甚振る酷薄な目だ。殺人を快楽とする人間にままある反応でもある、胸糞悪い。

 沸々と湧き上がる怒りを押し殺し、目には蔑みを、口元は皮肉に歪めて会話をつなげる。

 

「お前一人でこんな大それた計画をしたってんならもう少し評価してやってもいいんだがな。言えよ、どこの犯罪者ギルドの差し金だ。この場の全員に毒入りの杯を用意するなんざお前個人じゃ不可能だろう。――誰に(そそのか)された?」

 

 クラディールは両手剣使いの凄腕プレイヤーだ、毒を仕込むことが出来るまで職人クラスのスキルを取った上で実用レベルまで鍛え上げているとは思えない。前衛戦士職のクラディールに、自身で今回の飲み物全てに毒を混入できるだけのスキルも時間もなかったはずだ。

 だとしたら必ず協力者がいる。真っ当な職人プレイヤーに毒入りの杯を作らせることは不可能なため、必然、クラディールの背後にいるのは後ろ暗い活動を好む犯罪者のはずだ。計画の規模からして、おそらくはどこかのオレンジギルドが関わっている可能性が高い。

 ラフコフ壊滅以降大半のオレンジギルドは活動を縮小して大人しくしていたというのに、ここにきて奴等が再び動きを活発化させ始めたのか? 厄介な……。

 

「良い読みしてるじゃねえか。くく、褒めてやるぜ。察しの通り、俺はある人の密命を受けてここにいる」

「密命だと? お前の意思じゃないのか?」

 

 口が軽くなってるのは勝利者の余裕か? 奴が優位を確信しているのは間違いないだろうけど……それとも単純に箍が外れてるせいなのかもしれない。どうもこいつ躁の気があるしな。

 まあいいさ、今は精々気分良く喋ってろ。だがな、冥土の土産のつもりなのか知らないが、お前の調子よく喋るその口、愉悦に染まったそのだらしない顔、いつまでも続けていられると思うな。このまま簡単に死んでやるつもりはないし、俺の命はお前にくれてやるほど安くもない。あとは時間だ。時間さえ稼げれば何とかなる。

 

 この場にいるのは俺だけじゃない。クラディールを除いて三十名ものプレイヤーがいるのだから、麻痺さえ切れてしまえばクラディールに為すすべはない。恐らくは適当なところで切り上げて逃げる算段をしているはずだ。

 そして俺をメインディッシュと口にした以上、奴が執着している第一目標は俺だろう。だったら叶う限り時間を稼ぐべきだし、タイムリミットまでどうにか俺自身の命もつないでやる。

 

「いいや、俺の意思だぜ。テメエをぶっ殺してやりたい俺の意思だ。ヒースクリフの命なんざついでよ」

「……へぇ、そいつはまた俺の首に驚くほど高い価値をつけてくれたもんだ。だったらヒースクリフを狙うのがあんたの上司の意向か?」

「いーやいや、光栄に思えよ、あの方の抹殺対象もテメエだとよ。はん、どっちみちヒースクリフはついでだ。人気者はつらいな、え?」

 

 どういうことだ? 《聖騎士》よりも優先して俺の命を狙う? ここまで邪魔者扱いされてるとなると、私怨の類かもしれない。オレンジ連中に恨みを買ってる自覚はあるが、さて? 心当たりがありすぎて、こいつの上司とやらにとんと見当がつかないな。

 そんな俺の内心を斟酌するはずもなく、クラディールは何を思ったのか左腕に装備した篭手(ガントレット)を外していく。インナーの袖をめくり、奴の前腕の内側に現れたのはタトゥーだった。

 

「ラフコフ……!」

 

 自然、戦慄きが喉から漏れる。

 漆黒の棺桶、わずかに開かれた蓋にはにやつく両眼と口が描かれ、棺桶の中から白骨の腕が飛び出している。

 それは紋章(エンブレム)だった。あるいは血盟騎士団に匹敵する知名度すら誇った中規模ギルド。俺が壊滅させたはずのギルドを示すもの。最悪の殺人集団を意味するそれは、ギルド《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》。

 その紋様が目に飛び込んできた瞬間、確かに俺の中で戦慄が走った。同時に奇妙な納得も抱く。確かに俺を狙う理由としちゃ十分だ、ラフコフ――PoHが糸を引いていたのだとすれば。

 クラディールは誇らしげな笑みを浮かべてタトゥーを俺に見せ付けていた。顔を強張らせた俺の反応を満足げに眺めやっている。……殺人集団の一員であることを嬉しそうに明かす辺り、本格的にイカレちまってんだな、お前。

 

「ようやくこいつを見せ付けられると思うと嬉しくてたまらねえ。あとは貴様さえ殺しちまえば、晴れて俺は新生《ラフィン・コフィン》の幹部に迎え入れられるって寸法だ。ここまで長かったぜ」

「……そうか、そういうからくりか。お前はラフコフの生き残りじゃなく、PoHが攻略組に仕掛けた毒そのものってわけだ。あの男、相変わらず陰湿な手を使う」

「理解が早えじゃねえか。褒めてやるぜぇ」

 

 あんたに褒められてもこれっぽっちも嬉しかねえよ。

 それにしてもPoHの奴、攻略組のアキレス腱を的確に突いてきたか。血盟騎士団は攻略組どころか全プレイヤーの期待が集まるギルドだ、ゲームクリアを望まないPoHにしてみればうってつけの獲物だろう。

 ただし真正面から血盟騎士団とぶつかれば、たとえラフコフが健在だった当時であろうと敗北は目に見えていた。だからこそ、こうして内側から崩そうとしていたわけか。

 血盟騎士団をラフコフ討伐隊から外したのは結果的には正解だったな。クラディール――PoHの草が紛れてたんじゃ作戦の成功も覚束なかっただろう。

 

 クラディールはPoHの信望者であり、PoHが攻略組に仕込んだ間諜でもあった。

 そう考えれば今回のことも腑に落ちる。そもそもクラディールとの決闘騒ぎの時点、いや、もっと前からこの男はPoHの手足となって動いていたってわけか。俺と血盟騎士団の不仲を煽ってきたのも、攻略を容易に進ませない意図があったと考えるのが自然だろう。攻略組の弱体化、そして俺をソロとして孤立させ続けることで、どこかでのたれ死ぬことまで期待したのかも。

 

 決闘の終わりに見せたクラディールの顔が脳裏を過ぎる。あの時の不可解な決闘はこじつけに思えるイチャモンから始まったわけだが、その実、事故に見せかけて本気で俺を殺しにかかっていたのか……。

 通りで露ほどの躊躇もなかったはずだ。初めから血盟騎士団団員の立場を捨てるつもりだったなら、形振り構わず俺を抹殺に動けもしただろうし、周囲の目を気にする必要もない。

 

 今回の暴挙がPoHの差し金だとすると、ヒースクリフよりも優先して俺を殺せと言うのもわからないではなかった。

 ヒースクリフは基本的に攻略とフロアボス戦にしか目を向けておらず、ラフコフや犯罪者対策のような人同士の争いには消極的な男だ。PoHにしてみれば実害はないのだから、真剣に命を狙う意味は薄い。翻って俺はといえば、PoHにとって目の上のたんこぶだったろうし、露骨な敵対者でもあった。幾度も対峙しただけでなく、PoHを殺すつもりで剣を向けたことすらあるのだ。例え恨みつらみだけで俺を殺そうとしたって何の不思議もなかった。

 

「どこまでがあの男――PoHの狙いだ? 攻略組の壊滅が奴のシナリオなのか?」

「さてな。あの方がお考えになることなんざ知らねえよ。俺は俺で好き勝手するだけだ」

「なるほど。で、あんたは俺とヒースクリフを殺せって命令に嬉々として頷いたわけだ。……疑問は持たなかったのかよ? 毒の仕込みにはフロアボス戦に参加する必要があったんだ、一つ間違えばあんたは毒を盛る前に死んでたんだぞ」

「言ったはずだぜ、俺はあの方と一緒に好き勝手生きるんだよ。はん、なーにが攻略組だ。碌な楽しみもなくこんなボランティアをやる奴の気が知れねえな。ストレス発散先を見つけるのも一苦労だ、テメエのせいで副団長様には逃げられるしよぉ」

 

 ……頭おかしいんじゃねえの、お前?

 どの程度本気でほざいてるんだか知らないが、俺がいなくてもアスナがお前に惚れることだけはなかっただろうよ。まさかストーカー行動までPoHの指示とも思えないし、あれはこいつの素だろう。マジで紳士の心得を学んで出直してこい阿呆。

 しかしストレス発散か。まさかとは思うが、いや、この場合はやはりというべきか。

 

「あんた、やっぱりPKの前科持ちか」

「オレンジ化を避けて人を殺すのは、最高に楽しいゲームだったぜ」

 

 その台詞を誇らしげに言えるあんたは立派な外道だよ。

 

「一つ聞くが、PoHがここに来ないのは何故だ? まさかあんたを信頼して高みの見物を決め込んでる、なんて言わないよな?」

「そのまさかよ。あの方は俺に全て任せる、思うようにやれとだけ言われた。全幅の信頼ってやつだな。――あとはテメエさえ殺せば全てが始まるんだ」

「く、くく……」

 

 得意そうに告げるクラディールに我慢の限界だとばかりに低い笑いを零す。口元は嘲笑に歪み、目には一層の蔑みの光が宿った。そうして俺の低くぐもった笑いは、やがて大きな哄笑に変わっていく。それは半ば意図して口に乗せた笑いだったが、俺は腹を抱えて笑ってもいいんじゃないかとすら思っていた。――クラディールが、あまりに滑稽に思えて。

 余裕たっぷりに、憎たらしく、路傍の石ころに向けるような、それこそ人を人とも思わぬ蔑んだ目を向けて哄笑を響かせてやればいい。こいつは弱者を甚振る事に愉悦を覚える男だ、望むこともまた下種の囀りだろう。だったらとことん思惑を外してやる。お前など怖くも何ともない、何程のものだ、と嘲り笑う。笑い続ける。

 

「なんだ? 恐怖でおかしくなったか?」

 

 そんなわけあるか。俺は正気だよ、この上なくな。

 

「お前が可笑しいんだよクラディール。あまり笑わせてくれるなよ。PoHの甘言に乗ってこんな大それたことを仕出かそうなんざ、怒りを通り越して哀れに思えてくるぜ」

「なにぃ」

 

 本当に笑わせる。俺がお前に恐怖を覚える理由が何処にあるってんだ。俺はもうPoHに怯えない、あの男を過大に見たりしない。だからこそ告げる。クラディールと、こいつの影でほくそ笑んでいるであろうPoHに、俺なりに特大の嘲りをくれてやるつもりで。

 

「PoHは首謀者として自分の名を出せとお前に命令したか? ラフコフの再結成を企ててるなんて情報を俺達に流せと口走ったのか? いいや、そんな命令は出していないはずだ。あの男がそこまで浅慮な真似をするはずがない」

「……どういうことだ、何を言ってやがる?」

「碌に部下のいない今のPoHが、わざわざ陰謀を明らかにして攻略組の怒りを買おうとするはずがないって言ってんだよ。お前もあの男の部下だってんなら、そのくらい汲み取ってやったらどうだ?」

 

 この様じゃ悪党に向いているとも思えないぜクラディール。圧倒的優位を築いた油断か、それとも積もり積もった鬱憤が爆発でもしたのか知らないが、ここまでぺらぺらと情報を垂れ流すようでは到底犯罪組織の幹部を務められるとは思えなかった。なによりこいつはPoHに良いように踊らされているだけだ。

 

「良い機会だから教えておいてやる。三ヶ月前のラフコフ討伐戦で、PoHは俺との戦いもそこそこに仲間を見捨てて一人逃げ出した。それはもう見事な逃げっぷりだったな。PoHにしてみれば仲間とすら思ってなかったのだろうさ。去り際の奴の捨て台詞は傑作だったぜ? 『東洋人(イエローモンキー)同士好きなだけ殺し合え、腐れ日本人(ジャップ)小僧(ガキ)』だ」

 

 一拍置いて続ける。

 

「わかるか? あの男は典型的な差別主義者だ。ソードアート・オンラインにログインしたほぼ全てのプレイヤー、つまり俺達日本人を下等な猿として見下してるんだよ。お前はそんな男の何を信じる、信じ続けられる? 都合が悪くなれば簡単に切り捨てられると知って、それでもお前はPoHに全幅の信頼を寄せられるのか? だとしたら、俺には及びもつかないお目出度い頭をしてるとしかいえないな」

 

 声に一切の疑問を乗せず、心の底からそれが真実なのだと断じる勢いで。

 

「滑稽だよクラディール。今のお前は自分自身で使い捨ての操り人形だと告白してるんだから。いいか、俺がお前を馬鹿にしてるんじゃない、お前がお前自身を嘲笑ってるんだよ。――この間抜け」

 

 未だ麻痺の解けない俺が自由に出来るのは小賢しく回る口と左手だけだが、PoHの傀儡に過ぎないクラディールを恐れる必要なんて爪の先ほども感じなかった。臆することはない、ただただ気迫で相手を呑み込めと自身に言い聞かせる。

 同時に、クラディールを哀れだと本心から思う。

 クラディールはPoHを信じた。そして信じたが故に、その梯子を外されれば破滅を避けられない。

 

 ここまで攻略組と明確な対決姿勢を作り出してしまった以上、クラディールの生きる道は犯罪者としての世界にしか用意されていなかった。そしてPoHには仲間意識も共犯意識もないのだ。利がなければクラディールを助けになんざこないだろうさ。PoHはどこまでも駒の操り人――本来の意味での《プレイヤー》だと自認している男なのだから。

 最初、クラディールは何を言われているのかわからない様子だった。やがて俺の言葉に理解が追いついたのか、表情を激怒の赤に染めて俺を睨みつける。剣を握る腕がぶるぶると震えていた。

 

「小細工を弄すんじゃねえ! そんな口から出任せで俺を惑わそうなんざ甘えんだよ……!」

 

 その割には動揺してるみたいじゃないか。口では否定して見せても、心の何処かでまさかと思ったんだろう? 泡を吹くように喚く様は沈着とは無縁のものだった。俺の言葉を否定しきれず、疑心を捨てきれていないのがまるわかりだ。

 ラフィン・コフィンはPoHのカリスマの下、殺人集団(レッドギルド)の旗を掲げていた。しかし肝心要のPoHは俺に――俺達に敗北した。

 そう、ラフコフは壊滅したのだ。

 内実はどうあれそれが客観的な事実である。そしてラフコフ壊滅というこれ以上ないほどの敗北の履歴がPoHに刻まれた以上、PoHのカリスマにだって翳りが生じるのは不可避のことだった。

 その空隙を突く。PoHを巨悪の怪物からどこにでもいる人間に引き摺り下ろすことで、人の心を引き付けて止まない悪の威光をかき消してやる。

 

「出任せなもんか。PoHが心からお前に信を寄せていたなら、そして本気で新たにギルドを立ち上げようとしているのなら、どうして今ここに姿を現さない? 攻略組を潰す、邪魔者の俺を消す、それが奴の目的だってんなら、こんな千載一遇のチャンスは二度と巡ってこないぜ? お前を信頼して幹部に迎え入れ、共にギルドを盛り上げる気概があったのならこの好機を利用しないはずがないだろう」

 

 フロアボスは撃破されているのだから扉の開閉も出来るはずだ。PoHに乱入する気さえあったなら、そしてそのつもりで待機していたならこの場に居合わせない理由がない。そしてクラディールを決死隊に送り込んだことすら、PoHの差し金の可能性を否定できない。あの男にしてみれば、クラディールの命なんて斟酌するほどの価値もないのだろう。

 今回の謀略も成功しようがしまいがどうでもいいのだろうさ。自身の安全さえ確保できていれば、誰がどこで死のうが、どれだけ部下が犠牲になろうが、一向に構わないのがあの男だ。

 

「……PoHは殺しを躊躇わない狂人を装ってカリスマを演出しながら、その実、自身の楽しみを決して己が命に優先しない計算高さを持ち合わせている。あの男ほど狡猾で機に聡く、保身に長けた男はいないだろうな」

 

 往々にして才覚と人格は釣り合わない。PoHはその良い例だ、忌々しいことにな。

 

「PoHに自身を危険に晒してまで攻略組と事を構える度胸はない。まだわからないのか、あんたは捨て駒にされたんだよ。これを間抜けと言わずして何て言えってんだ」

「黙れ……黙れ……」

 

 クラディールの表情にもはや余裕はなかった。疑心が焦燥につながり、暗い影を落としている。元々固い信頼で結ばれた関係ではなかったのだろう、クラディールの狼狽する様子にもう一度哀れだと思った。

 これまで通りクラディールが攻略組の仲間だったなら、俺だって気遣いの一つも見せてやった。だがな、お前は俺の敵を選んだんだろう? 俺と敵対し、攻略組を敵に回し、ゲームクリアを願うプレイヤー全員を裏切った。ここに集った大勢の討伐隊の命すら脅かした。そんな奴に何だって俺が遠慮してやらなきゃならない?

 

「はっ、お笑い草だ。殺人集団を率いちゃいたが、あの男自身は常に死線を避けていたんだからな。奴がしたかったのは人殺しなんかじゃない、趣味の悪い高みの見物でしかなかった。命を懸けてまで貫こうとするポリシーなんざ欠片も持たない男、醜悪な差別主義者にして己以外誰も信じない詐欺師。それがお前の信じるPoHの正体だ!」

「黙れっつってんだよクソガキッ!」

 

 クラディールが俺に突き刺した両手剣を引き抜こうと全身に力を込める――が、甘い。引き抜こうとする剣を俺は左手で握り締めたまま固定していた。こうしてしまえば俺のHPはほとんど削られることはない。

 俺は自身の保有する全てのスキルを公表しているわけじゃなかった。そして秘匿し続けているスキルがお前の誤算となるんだ。追い詰められた時の俺の能力数値はお前の想像する遥か上をいくぞ。たとえ片手しか動かなくとも、能力値ブーストまでかかってる俺の筋力値にクラディールは対抗できない。

 シーソーゲームは拮抗どころか完全に俺に分があった。俺の身体を貫いた時点でお前は失策を犯していたってことだ。

 

「ぐ、このっ、抜けねえ……! 離せ、離しやがれ!」

 

 そう言われて素直に離す馬鹿が何処にいる。

 焦燥を浮かべて悪態を吐く男を指差して笑ってやりたいところだったが、生憎俺にも大した余裕があるわけじゃなかった。両手剣に貫通継続ダメージはないため、剣を固定している限り俺のHPは減少しない。錯乱したようにクラディールがブーツで俺を踏みつけてくるが、その程度は本当に微々たるダメージだった。問題にはならない。

 とはいえ、この不快感は別だ。腹に剣を生やしたまま暢気に会話に応じてはいたものの、その間ずっと不快な感覚が俺の神経を走り続けていたのだ。正直限界だった。こんな拷問二度と御免だ。

 

「くそがッ。だったらこうだ!」

 

 力づくでどうにか出来るものではないと悟ったクラディールは柄から両手を離すと焦ったように右手を振り下ろし、メニューを操作した。俺の腹を貫いていた剣が程なく消える。強制的にアイテムストレージへと収納されたらしい。それからわずかの時を経て、再びクラディールの手に出現した両手剣が上段に振り上げられる。

 俺の揺さ振りが思いの外効いていたのか、奴の表情に余裕はない。混乱する内心を無理やり押さえつけようと決着に急いている。そんな印象だ。しかし腐っても攻略組か、動揺の中でもソードスキルをきっちり発動させていた。

 死ね、と突き出された剣が俺に迫る。だがな、クラディール、残念ながら時間切れだ。俺の麻痺は切れたぞ。

 

 鞘から剣を抜いている暇はない。防御は間に合わない。俺のHPに余裕もない。

 だったら、と刹那の判断を下す。技の出が早い右の体術技で一撃を加え、どうにかスキルキャンセルまで持っていく。そこまでが無理でも、先に攻撃を当てることさえできれば幾らかの威力は削げるはずだ。後は距離を離した上で仕切り直せばいい。

 一瞬でそこまで組み立て、素早く正確に動けと己が身体へと命令を下し、狙い通りにクラディールの剣よりもわずかに早く俺の手刀が奴を捉え、どうにか致命を避けることに成功し――俺の狙い通りに展開したのはそこまでだった。

 クラディールが俺の想像以上の動きをしたわけじゃない、そして、俺も奴の攻撃を捌くことに失敗したわけじゃない。俺のHPはしっかり残っていた。俺の予想を超えて訪れた事態は、俺でもクラディールに由来するものでもなく、第三者の介入によるものだ。

 

 ――クラディールの胸から、白銀の刃が生えている。

 

 俺の手刀――カウンター技として用意していた体術技《エンブレイサー》がクラディールの右胸を貫き、同時にクラディールの背後から一本の剣が伸びて奴の左胸、心臓を貫いていたのだった。見開いた目で確認した長剣の持ち主は、真紅の風と化した銀髪の偉丈夫、《聖騎士》ヒースクリフ。それが俺の救援にかけつけ、クラディールを背後から一刺しにしたプレイヤーの名だった。

 ヒースクリフが浮かべるぞっとするほどの無表情を目にしてぶるりと身体に震えが走る。奴の叡智を宿した瞳の光に翳りはなく、クラディールを貫く剣先には必殺の意思が込められ、欠片のブレも見せなかった。

 

 クラディールのHPバーを完全に吹き飛ばしたのは、はたして俺とヒースクリフのどちらだったのか。

 クラディールは己の心臓を貫いた手刀と剣の刃を驚愕の瞳で眺め、恐らくは背後の下手人が誰かもわからぬままに死んでいったのだろう。しかし、ただただ呆然とした表情を浮かべていながら、それでも奴は最後に嗤ってみせた。俺に向かって搾り出すように言葉を紡いだ後、身体を四散させて帰らぬ人となったのである。

 

 ――この、人殺し野郎。

 

 それが、クラディールの残した最期の言葉だった。

 ……重い。

 奴の真意を考えるのは億劫だ、どうせ碌な理由じゃない。少なくともクラディールの目が最後まで俺を捉え睥睨していたことだけは間違いなかった。

 重かったのは、多分、奴の恨み節なんかじゃない。

 俺の手で、俺の向けた暴力によって、またしても人の生を終わらせた。その実感がずしりと胸奥に響く圧迫感と化して身体を縛る。それはただただ苦しく、心を苛む毒だった。過去三度犯した罪の記憶がフラッシュバックとなって脳裏を過ぎり、喉に詰め物でもされてしまったかのように俺の呼吸は乱れに乱れて――。

 

 繰り返すな……! そう、強く自分に言い聞かせた。

 

 弱くとも、情けなくとも、俺は今日まで背負ってきたものに相応しい男でありたい。だったら俯くな。顔をあげて前を見るんだ。こんなところで無様を晒すんじゃない。

 ゆっくりだ。もっとゆっくりと息を吐け。お前が何者であるかを思い出せ。

 込み上げる吐き気を堪え。

 恐怖か悔恨か、小刻みに震える右手を力いっぱい握り締め。

 崩れ落ちそうな体躯に活を入れて。

 萎えそうになる脆弱な心を奮い立たせて。

 嘘でもいい、フリでもいい、お前はそこで勇ましく立っていろ……!

 

「どうやら助けはいらなかったようだな。キリト君に断りなく手を出したこと、許してくれたまえ」

「いや、救援感謝する。文句も……ない」

 

 一度きつく目を閉じ、濁流と化した様々な感情に蓋をして、どうにかこうにか俺が口にした返答は存外落ち着いた声をしていたんじゃないかと思う。少なくとも震えてはいなかったし、最低限の平静は装えていたはずだ。

 ヒースクリフを責める気にはなれなかった。俺の手刀だけではおそらくクラディールのHPを削りきれなかっただろうし、それを見越して放った技には違いなかったものの、だからと言ってその後にクラディールをどうするかというビジョンがあったわけでもない。クラディールが大人しく投降するとも思えず、まして準備も何もなかったのだから、犠牲なしで奴を監獄へと送り込めたかは定かではない。

 

 俺とヒースクリフを除けば皆はまだ麻痺状態にある。クラディールが自棄になって手当たり次第暴れようものなら、それこそ目も当てられない事態になっていた。そして、奴を取り逃がすことが危険であることに異論を挟むつもりもない。ヒースクリフがクラディールを粛清した判断も、妥当と言えば妥当なのかもしれない――が、それでも。

 内心で大きく溜息を吐く。こんなことを後どれだけ続けていかなきゃならないんだか。本当、気が滅入ってくる。《人の敵は人》って言葉は全く以って至言だよ、嫌になる。

 

「構わんよ。部下の不始末だ、君には私を罵る権利がある」

「だったら貸し一つってことにしといてくれ。そんな何の役にも立たない権利をもらっても扱いに困るだけだ」

「ではそうさせてもらおう」

 

 この期に及んでヒースクリフは冷静そのもののだった。自分の部下の死を目の当たりにして、ましてその手で誅しておいて尚、ヒースクリフの声に動揺はなく、その顔も鉄面皮のままだ。ここまでくればいっそ天晴れである、見事としか言いようのない感情制御だ。……無論、皮肉だが。

 それ以上言葉を交わすでもなく無言で佇みただただ時間が過ぎさっていく内に、この場に残る二十八名全ての麻痺が抜けたらしかった。思い思いの表情で立ち上がり、皆が気まずげな表情で顔を見合わせている。

 

 まあそうなるよな。俺だってこの感情をどう処理して良いのかわからない。75層フロアボス撃破、最難関のクォーターポイント攻略。その祝いをあげようとした矢先の惨劇だ、皆が戸惑うのも無理はなかった。

 ふっと胸に溜まった鬱屈を吐き出す。黙りこみ、落ち込んでいても仕方ないと言い聞かせ、心配げに俺を見つめるアスナの肩を一度叩いてからゆっくり歩き出した。途中、クライン達にも軽く手をあげて心配するなと伝えておく。

 

「ゴドフリー。さっきの飲み物、まだ残ってるか?」

「あ、ああ。幾つか予備はあるが……」

「なら、それを俺にくれ。この際だ、戦死者に手向けくらいはしてやるさ」

 

 それはPoHに対するあてつけ――幼稚な対抗心もあったのかもしれない。それに死ねば仏とも言うし、わざわざ死人に鞭打つこともないだろう。

 戸惑うゴドフリーから一杯の杯を受け取り、毒酒を捨ててからサチ謹製のポーションを杯に注ぐ。あ、これは毒酒じゃなかったかもと遅ればせながら思い当たったが、まあいいかと小さな疑問を捨て置き、杯をクラディールが散っていった地面へと丁寧に置いた。

 杯もポーションも本来の使い方じゃないからすぐに耐久値限界がきて消滅するだろうけど、その程度は勘弁しろよ。ついでに酒じゃないこともな。注いだ液体は俺がこの世界で最も信頼し、命を預けているアイテムの一つだ、お前への手向けとしちゃ最大級の敬意を払ったつもりだぜ。

 

 しばし合掌することで冥福を祈る。

 フロアボス戦での犠牲者に比べて多少おざなりな祈りだったことは、俺なりの意趣返しってことで納得しておけ。足蹴にされるよりはマシだろ、多分。死人に口なし、蛇蝎のごとく嫌い抜いた俺にどれだけ哀れまれようが、もうお前は俺に何の文句も言えないものな。

 今回のPoHのやり口に改めて怒りが湧き上がる。

 本当にあの男は攻略の邪魔しかしないと頭が痛くなった。性質が悪いのはあの男は常に闇に潜んでこちらに影をつかませないことだ。あの男自身で事を成してくれるのならば対処も容易なのだが、そうもいかない。今に始まったことではないが、PoHは他者の扇動を繰り返すことで混乱を大きくする、いわばアインクラッドに生きるプレイヤーの心を悪へと誘い蝕む病原菌であり、その感染源だった。碌でもない……!

 

 クラディールは重度のPoH信望者だったのだろう。倫理を無視し、好き勝手を繰り返す悪の化身であるPoHに魅せられた、数ある悪党の一人。それが血盟騎士団を仮住まいとした両手剣使い、クラディールという男だった。

 ……馬鹿が。それほどお前にとってPoHの存在はでかかったのかよ。あいつの口車に乗って、こんな捨て駒のような役割を負わされて、裏切り者と蔑まれながら死んでいく。そんな最期で満足できる奴なんていないだろう。75層を生き残れる強さまで獲得していながら、どうしてこんなことを……。

 

「キリト……」

 

 手を合わせて黙祷を捧げる俺に遠慮がちに声をかけてきたのはクラインだった。俺を気遣ってくれているのがその声だけでもわかってこそばゆい。そして、ありがたいと思う。

 胸にたまったもやもやを振り払うように、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。常よりわずかばかり抑揚の欠いた声音で言葉を紡ぐ。

 

「俺さ、今までクラディールに嫌われてるんだなって考えてただけで、それ以上の思い入れがなかったんだよ。今になってすまなかったって思うのも、あいつにとっては笑止でしかないんだろうな。……ま、祟られるのも嫌だから、これくらいはさせてもらうさ」

 

 決闘以前も決闘以後も、俺はクラディールをまともに相手にしてはこなかった。攻略の邪魔にさえならなければそれでいいとしか考えていなかったからだ。クラディールが俺を敵視していたことに気づいてはいても、別段危険視はせず放置し、無視してきた。

 クラディールがPoHの命令とは別に俺を嫌い抜いていたのも、もしかしたらそういった俺の態度が原因だったのかもしれない。今更反省をしようがどうしようもないことだし、クラディールがPoHとつながってた以上、敵対以外に俺たちの交わる道はなかったのだろうけど。

 

 PoHの草か。両者の後ろ暗いつながりにまったく気づかず、記憶に新しいクラディールの異常な振る舞いも、女を巡った暴走の一言で片付けていたんだから、俺もとことん暢気だったんだな。苦い思いが浮かび、自嘲に唇が歪む。

 クラディールの振る舞いはどこまでが演技だったのか。

 それもまた今更だ、とやるせない声が脳裏に反響する。ヒースクリフにすら悟られることなくラフコフに通じ、血盟騎士団に長く在籍していたんだから、普段から上手く取り繕ってはいたのだろう。

 

 周囲を見渡すと当たり前だが空気が重い。俺とヒースクリフに目を向けてくるのはいいんだけど、それ以上何をするわけでもなく、俺と目が合えば逸らされるまでがワンセットでエンドレスだった。……滅茶苦茶気まずい。

 これはちょっと冷却期間を置いたほうがいいか? この場の全員が混乱を抱えているせいか、気持ちの整理にも時間がかかりそうだ。ま、その辺りはヒースクリフに任せるか。血盟騎士団から出した不祥事だけに、奴にとっても色々と難しい判断が必要だろう。

 そうなるとアスナに約束したギルド入団の件は、ほとぼりが冷めた頃に改めてヒースクリフを訪ねる形にするのが吉かな。約束した手前アスナには申し訳なく思うが、さすがにこんな雰囲気の中でギルド入団についての打診を切り出せるほど俺の面の皮は厚くない。

 ……それに、少し疲れた。

 

「ヒースクリフ、俺は先に行かせてもらうぞ」

 

 元々今回の祝いのような催しが例外だったわけで、フロアボスが撃破されたならさっさと解散するのが慣例だった。俺の暇乞いも別段おかしなものじゃない。

 

「少々待ってもらえるかな。キリト君に確認しておきたいことがある」

「手短にな。で、何を確認したいんだ?」

 

 とりあえず76層の様子見だけしてくるかと足を踏み出そうとしたところで、思い出したようにヒースクリフが付け加えた問いに一度足を止めた。改めて向き合えば、目に映るのは感情を感じさせない泰然自若そのものの男の姿だ。

 この男は本当に慌てることがないな、落ち着き払った姿しか見たことがない。血盟騎士団副団長としてヒースクリフと接する機会の多いアスナなら、奴の思いがけない一面とかも見知っているのだろうか? 今度聞いてみようかとどうでもいい予定を加えておく。

 そんな埒もない思考に耽っていた俺に、ヒースクリフは常の抑揚に乏しい口調を向けたのだった。

 

「キリト君が口にした《ラフィン・コフィン》のことが気になってね。先程の話、信じても良いのだろうか?」

「PoHのことか? だったら止めとけ、所詮は推論に推論を重ねた与太話だ。俺の話を鵜呑みにして警戒を緩めるようなことだけはしないでくれよ」

 

 あれはクラディールの注意を引いて時間稼ぎするために大袈裟に吹聴したところもあるし、俺自身気が昂ぶって色々不要なことまで口走っていた自覚もある。そもそも人品と能力は別物だ、PoHを相手にするのに警戒を緩めて良い理由にはならないし、全面的に俺の主張を鵜呑みにするのも危険だった。

 ラフコフ討伐戦の混乱の最中、PoHがどこまで本心を晒していたのかはわからない。なによりPoHの評価と分析に、俺の私情込みの悪意が含まれているのも確かなことなので、正直まともに参考とされるのも気後れしてしまう。

 ただまあ……PoHの名誉なんざ知ったことか、というのが割と本気な俺の思いである。優に三桁を数える死者を出した殺人ギルド首領を相手に、俺が気を遣ってやる必要なんて欠片も感じないしな。奴の悪評なんて今更俺が付け足す必要もないくらい膨れ上がってることだろう。それに散々俺に言葉の毒を流し込んだ過去もあるんだ、どれだけ俺に貶されようが自業自得ってやつだ。

 

 俺はPoHの率いるラフコフと対峙する機会が数多くあった。それは俺から仕掛けたものもあったし、不意に奴等と遭遇した形もあった。しかしその中でPoHと直接剣を交わしたことは驚くほど少ない。というか、PoHとまがりなりにも全力でぶつかり合ったのは、奇襲を成功させた三ヶ月前のラフコフ討伐戦が最初で最後だった。いや、最後と評すのはまだ早いか。この先あの男と立ち会う可能性もゼロじゃない。

 何にせよ、ラフコフ最大の危機にして総力戦の時ですら、俺とPoHは雌雄を決することなく中途半端な仕儀で終わった。PoHが命をチップにした決着をつけることを望まなかった、と言い換えるべきか。

 

 PoHの戦闘勘は人並み外れてるし、頭も切れる。けれど、その類稀な才覚をあの男は自らの愉しみにしか使わない。

 残虐非道な男、最低最悪プレイヤー、悪のカリスマ。PoHを形容する悪名は数あれど、そうした評判に隠れるように、あの男は決してその身を危険に晒さないのだ。俺とラフコフの暗闘の中、一度たりとも部下に先んじて剣を振るう――先陣を切るようなことはなく、常に絡め手で俺を封殺してきた。大抵の場合は数の利で圧し、あるいはシリカと行動を共にしていた時のように、都度俺の弱点を突き、戦闘の継続を諦めさせることによって。

 場を作りあげる才に長けているとでもいうべきか、俺を好きに振り回したPoHの頭脳の冴えは確かに脅威であるし、同時に最悪の殺人集団を率いて部下を心服させる手腕も神懸かっていたと思う。

 

 だが。

 それだけ多くの衝突をPoHと繰り返して、ようやく俺は自身が考え違いをしていることに気づいた。

 あの男はかつて俺の前でこう言ったことがある。『俺達がしたいのは殺しであって殺し合いではない』と。あれは部下へのパフォーマンスであると同時に、奴自身の本音でもあったのだろう。自身の命を危険に晒すような真似は断じてしないというPoHの思想の表れだ。

 奴は理解不能な未知の化け物でも何でもなく、この世界を生きるただのちっぽけな一人の人間でしかない。他のプレイヤーよりも少しだけ頭が回って演出に長けただけの、享楽に耽る命大事な詐欺師に過ぎなかった。

 

 PoHには俺達と同じ土俵に上がる気がない。

 そもそも蔑むべき対象である俺達と立場を同じくすることに我慢ならないのだと思う。内に抱える気位の高さを巧妙に隠して、肥大した自尊心を満足させようとしてきた。俺達の四苦八苦する姿を嘲り笑い、高みの見物と洒落込むことで暗い悦びを覚えているだけに過ぎないのだ。

 あるいは、駒の操り手を自認することで自らを茅場晶彦――アインクラッドを統べる超越的存在に近づけようとさえしていたのかもしれない。

 

 考えすぎか、とやや飛躍していた俺の詮無い想像を打ち払う。問題はその先――PoHがこれからどう動くか、だ。

 恐らくだが、PoHは俺が死ぬまでは表舞台に出てこない。徹頭徹尾裏に潜って、自身の所在を俺に掴ませようとはしないはずだ。もちろん他人を煽って今回のように俺を殺そうとしてくることはあるだろうが、PoH自身の手で俺の命を取りにくる可能性は低い。

 俺がそう判断したのは、今回クラディールをぶつけるだけで奴自身がここに足を運ばなかったこともあるが、PoHは戦力の充実していた頃の《笑う棺桶》を率いてすら、俺を全力で殺しにくることはついになかったからだ。

 

 PoHは俺と本気で殺しあったことがない。それは俺を相手にとことんやりあえば、己が死ぬ可能性を見ていたからだろう。俺と対峙しても俺の理性の箍が外れない、暴発させない範囲で嬲ることしかしていない。

 幾度も繰り返した俺とラフコフとの邂逅の裏には、決着を、いや、俺との殺し合いを望まないあの男自身の思惑が確かにあった。そして俺が奴の首を落とすだけの実力を持っていることも誰より理解している。その事実がある以上、あの男は自身が殺されないと確信するまでは出てこない、リスクを犯さない。それはPoH自身の命を守るための行動だ。それならば俺にだって理解は容易かった。

 

 俺のすべきこと。それは攻略組にあって尚突き抜けた強さを示す事だ。そして犯罪者に決して弱みを見せない、犯罪者に対して断固たる対決姿勢を崩さず生き抜く事でもある。それこそがPoHを封じ込めておくために俺が使える現実的な策だった。

 PoHが派手な動きを見せれば即座に俺が潰しにかかる。尻尾を出せば俺に狩られる。奴にそう思わせ続ければ良い。

 新生ラフコフなんて馬鹿な芽が出ないよう、事前に可能性を消しておけるならそうするのが一番だった。俺にとっても攻略組にとっても、そしてゲームクリアを望む全プレイヤーにとっても、PoHという犯罪者の存在は百害あって一利なしなのだから。

 

「クラディールのことは残念だった。私としても彼の策略を見抜けなかったことは汗顔の至りだよ。キリト君の言う通り、ラフコフ残党への警戒を緩めないよう改めて周知しておこう」

 

 ヒースクリフの語る姿からはクラディールの最期を悼む気持ちも、不覚を取った悔恨も感じ取れなかった。ああそうだな、あんたはそういう奴だったよ。八つ当たりだとわかっていても、今は機械のように無機質なヒースクリフの沈着さが疎ましかった。

 

「ふむ、確かキリト君はラフコフ壊滅直後にも有力な犯罪者(オレンジ)ギルドを幾つか潰していたな。当時のラフコフ壊滅と併せて抑止力としては十分だったはずだ。正直なところ、殺人(レッド)ギルドが再度結成される土壌は乏しいと考えているのだが、キリト君の見解を聞かせてもらえるかな」

 

 ……だからあんたはそういう情報を一体どこから引っ張ってきてるんだよ? その件はアルゴに厳重に口止めしておいたはずだぞ。ああ、いや、消去法で実行犯が俺だと当たりをつけてるだけか。

 あの時期、アルゴの協力を得て逃亡したPoHを死に物狂いで追跡し、奴の逃げ込み先としてピックアップしていたオレンジギルドに殴りこみもかけていた。その結果、全滅とはいかずとも構成員の幾人かは監獄に送り込むこともできた。ラフコフと違って脅しが通じたことが唯一の救いだったな。

 逃げ散った連中が今何処で何をしているのかまでは知らない。案外俺への報復でも練ってる可能性もあるが……その時はその時だ。いっそ標的を俺だけに定めてくれるならそっちのほうが対処もしやすいとさえ思う。奇襲暗殺なんでもきやがれ、返り討ちにしてやる。

 しかし改めて考えると、ラフコフ戦前後は常にも増して殺伐とした生活を送っていたものだと我が事ながら辟易してしまった。

 

「俺もあんたの意見に賛成だ。PoHが派手に動きでもしない限り、中規模以上のPK集団を作り上げることは出来ないと思う。最近は犯罪報告数も明らかに下降してるし、重犯罪の比率も格段に下がってるしな。しばらくは静謐も保てるはずだ」

 

 犯罪集団をまとめあげる核となるプレイヤーがいないということもあるし、何よりクリアへの筋道がついてきたことも大きい。ゲームクリアが絶望的ともなれば破れかぶれになるプレイヤーも増えるかもしれないが、今現在はそこまで悲観するような状況じゃない。犠牲はでかかったものの最大最後のクォーターポイントも抜けたことだし、オレンジに鞍替えしようなどという動きにはつながらないはずだ。

 

「オレンジ対策としては、今まで治安維持に力を発揮してきた軍がこれからどう動くかにもよるだろうな。軍の中核を担っていた上位レベルのプレイヤーがごっそりいなくなったんだ、影響もそれなりに出るだろうさ。それから攻略組プレイヤーがラフコフに通じていた事実はちょっとばかしまずいかもしれないが、そこは75層突破の快挙を強調すればある程度誤魔化せるんじゃないか?」

 

 むしろお前が何とかしろヒースクリフ、人心掌握はあんたの得意技だろう? それでなくても渦中のギルドの代表なんだから。

 しかし意外といえば意外だ。攻略以外にはさして注意を払わないヒースクリフがここまで犯罪者ギルド、というかラフコフの動向を気にするとは。さすがに今回の件で疎かには出来ないと痛感したのか?

 プレイヤーの敵対勢力を放置しておいた結果がアインクラッドに席巻し、全プレイヤーの心に影を落としたラフコフの脅威の拡大だからな。ヒースクリフも他人事ってわけにはいかないか。

 

 ヒースクリフは俺の言葉に何度か頷きはしたものの、何か考えでも整理しているのか、それ以上は何も答えず沈黙を守るだけだった。もしかしたら次層以降の攻略の仕方でも考えてるのかもしれない。クラディールの件もあるし、明日から何事もなくってのは難しいだろう。今日の裏切りが尾を引かなきゃいいけど。

 ……ああ、その件に関しても手を打っておくべきか。気休めくらいにはなるだろう。

 精神的な疲弊からか思考の巡りが悪いことを自覚するも、極力何でもない顔を装って口を開いた。

 

「悪い、俺からも一つ言っておくことがあった」

 

 皆の目が集まったことを確認してから続ける。

 

「クラディールを唆したのはPoHだ。そして奴の目的は俺とヒースクリフの命だけじゃない。攻略組から裏切り者を出すことで疑心暗鬼を煽り、俺達の連帯を崩す狙いもあると見るべきだろう。だが、素直にPoHの思惑に乗ってやることもない。俺達は今まで通り、連携を深めながら最上階を目指す。その方針に変更はない」

 

 幾人かが俺の言葉に頷く。

 何が最善か、何がゲームクリアへの最短かを考えれば自ずと答えが出る。ここで不信感を高めて仲間割れの土壌を築くことほど攻略を遠のかせることはない。第二、第三のクラディールが潜んでいるのではないかと、攻略組の中で疑心の種が育ってしまうようではそれこそPoHの思惑通りになってしまうのだ。俺の言葉一つで奴の狙いを完全に避けることができるとは思えないが、打てる手は打っておきたかった。

 

「宣言しておくぞ。俺の力はゲームクリアのために全て使うんだって決めてる。殺人者(レッド)の連中に、いや、それが誰であれ俺の歩く道は邪魔させない。ゲームクリアに立ちはだかる敵は俺が全て斬り捨てる。それが俺の――《黒の剣士》のスタンスだ」

 

 心中奥深くから湧き上がる意思を言葉に変えて示す。アスナが、クラインが、エギルが、攻略組の皆が俺をじっと見つめていた。だから、と続ける。

 

「ヒースクリフ、今回の件があろうが俺はあんた達血盟騎士団に含むものは一切ないことを明言しておく。この程度で俺が攻略組(なかま)を疑うことはない。覚えておいてくれ」

「感謝する。我らも一層の奮闘を約束しよう」

 

 深々と頭を下げる銀髪の偉丈夫を目にして、少しだけ驚く。虚を突かれたせいか、わずかの間思考を停止せざるをえなかった。この男が他人に頭を下げる姿なんて想像したこともなかったな、貴重と言えば貴重な光景だ。

 慣れないことはするものじゃないとつくづく思う。

 思いがけないヒースクリフの行動にますます気まずい思いを抱えることになったため、早々に俺は75層フロアボスの広間を後にした。その途中、唇を噛み締め、沈痛な面持ちのまま俺に頭を下げ続けるゴドフリーにすれ違い様、「気にするな、あんたのせいじゃない」と一言だけ言い置いて。

 

 

 

 

 

 76層の主街区には早々に辿り着いた。整然と石畳が並び、等間隔に建物が並ぶ様はどこかはじまりの街を思い起こさせた。

 アインクラッドは上層に登れば登るほど一層あたりの敷地面積は先細っていく。そのため街規模ははじまりの街に比べればずっと小さなものではあるようだが、その一方で石畳で舗装された路地は広く敷かれ、開放感を思わせる澄んだ空気に満ちていた。いかにも過ごしやすさを感じさせる街である。広場に設置された噴水が清涼でさわやかな印象を形成するのに一役買っているのかもしれない。

 

 適当に宿を確保しておくかと算段を立てながら城門を潜り、足を進めていく。眼前の噴水を囲むように花壇が設えていて、色とりどりの花が咲き誇っていた。

 幾分感傷的な気分になっていたためか、何となく惹きつけられるものを感じ取り、花壇を避けるようにやや迂回して噴水の縁へと足を運ぶ。座席とするには丁度良い高さだ。仮想世界特有のほこりや汚れの一切ないオブジェクトに腰掛けると、思いの外大きな吐息が漏れた。

 

 ついと視線を動かす。日はまだ高かった。広げた指の隙間から遠くの空を見やり、眩い太陽の光に自然と目を細める。

 今日は色々あって疲れた。このままフィールドに出て攻略を進める十分な時間は確保できるとはいえ、疲労満載で無理を通すような場面でもない。このままオフにして休もうか。

 そんな風にぼんやりと思考をつらつらと飛ばし、何をするでもなく無為の時間に耽っていると、やがて一人の少女の姿が視界に映る。

 

「追いつけてよかったー」

 

 小走りに走りよってきたアスナは、そう言ってどこかほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。

 

「アスナか、丁度よかった。先に来たのはいいけど、アクティベートをどうするか悩んでたんだ。今回はアスナが担当するのが一番順当だしな。で、他の連中はどうした?」

「今、団長達がクラディールのことで皆に頭を下げてるわ。本来ならわたしも残るべきだったんだけど……『行ってやってくれ』って送り出されちゃった」

「クラインか?」

「ううん、ディアベルさん。昔のことを思い出したのか、ちょっと青い顔してたわ。あの人だってキリト君の後ろ姿には複雑な思いが残ってるんだから、出来れば気を遣ってあげてね」

 

 律儀な奴だ、ディアベルは俺に文句を言うくらいで丁度良いんだけどな。あの人も損な性分してるよ、気にかけてもらえるのは嬉しいけど。

 今回の事でしばらくは攻略組も荒れそうだし、俺はどう立ち回ったものだろう。ヒースクリフにはああ言ったけど、俺が何も気にしてませんって顔をして血盟騎士団に入団の打診をするのはありなのか? 今回のことで以前とは別の意味で話を切り出しづらくなっちまったな。

 そんなことをつらつらと考え込んでいると、思ってたより元気そうだね、とアスナのつぶやきが耳に入る。俺の隣に腰掛けたアスナに目を向けるとほっと息をついて胸を撫で下ろしていた。

 

「俺が落ち込んでるとでも思ったのか?」

「わたしが君を心配しちゃ駄目?」

 

 小首を傾げ、甘えた声で囁くアスナだった。そこで可愛く言うのは反則です。

 

「塞ぎ込んでも何にもならないことくらいは承知してるよ。とはいえ、しんどいのは変わらないから早々とお暇させてもらったことまでは否定しない。ヒースクリフみたいに毅然とした態度を取れれば良いんだろうけど、あそこまで徹底するのは俺には無理だ」

「キリト君も十分毅然としてたと思うけど……それでもあの人を基準にするのは止めたほうが良いでしょうね。団長は色々な意味で突き抜けちゃってる人だから」

「俺もそう思う。さっきの騒動に限った話でもないけど、ヒースクリフからは大局を見て最善手を打ち続ける凄みみたいなものを感じるよ。いや、いっそのこと得体の知れない不気味さとでも言うべきかもな。高所からの判断が的確すぎてどうにも人間味がない。突き抜けた理性――効率を求める純粋すぎる意思ってとこか。ヒースクリフほどゲーム攻略を考えてるプレイヤーもいないんだろうけど、やっぱ俺は苦手だ」

「わたしの立場としては擁護しなきゃいけないんだろうけど、割と同意しちゃうなあ。頼れる人なのは間違いないんだけどね」

 

 血盟騎士団団長ヒースクリフ。ユニークスキルと目される神聖剣スキルを操る、誉れ高き《聖騎士》。

 淡々と、粛々と、ただただ英雄然として生きている男だ。部下を自らの剣で貫いておきながら、俺の目に映ったヒースクリフはその眉をぴくりとも動かさず、不動の構えを見せていた。

 己の部下の裏切りと破滅を前にして、なお揺らぐことなき鉄の意志を衆目に示した、十字盾を持つ最強の騎士。その胸の内にある思いは何なのだろうか。想像する都度、俺は戦慄めいたものを覚えるのだった。今は気にしても仕方ないと一度かぶりを振り、想像の中ですら威圧感を纏う銀髪の男の姿を追い払おうと努める。

 

「それで、キリト君は何を見てたの?」

「別に何を見てたってわけじゃない。攻略に向かう気分にもなれなかったから、ここでぼうっと時間を潰してただけだよ。そろそろ帰ろうかと思ってたんだ」

「ふうん……。なんだか今日は素直だね、キリト君」

「失礼な。俺はいつだって素直だよ」

 

 そんな俺の返答の何処がお気に召したのか、アスナはくすくすと楽しそうに笑みを零した。

 

「なら素直なキリト君に何を考えてたのかを話してもらいたいな」

「心配してもらってるとこ悪いが、本当に大した話じゃないんだぞ? ……クラディールのことなら気持ちの整理はついてるよ。改めて口にするようなこともない」

 

 俺が殺したにせよ、ヒースクリフが殺したにせよ、そこに大した差はない。

 最終的にクラディールは俺と敵対し、ゲームクリアの障害となる立場を選んだ。そして攻略組の仲間の命を奪おうとした。なにより俺の命を狙って罠を仕掛けたのだから、俺に反撃されるのだって承知の上だろう。その結果としてのPKだ、受け止める他ない。

 確かにしんどいし、やるせない気分にもなる。あんな最期を遂げたクラディールを哀れだとも思うが、それ以上を思い悩むつもりはなかった。結局相容れない者同士が戦って、当然の帰結として片方が排除された。それだけだ。思うところはあれど、アスナたちに心配されるほど尾を引くようなものではなかった。

 ……まあいいか。今更、アスナに隠すようなことでもないし。

 

「一応、他言無用ってことで頼むな」

「うん」

「向こうの世界にいた頃にさ、人の幸福はその人の手で掴めるだけの大きさなんだって、そう聞いたことがあるんだ。俺はこの世界に来てから、ずっと握り拳を作ったまま解き方がわからなくなってた。たくさんの人に迷惑かけて、俺なりに色々考えて、どうにか力を抜くことを思い出したよ。ただ、やっぱり剣を握ってる間は難しいなって思ってたとこ」

 

 目の前で広げた右手を一瞥し、軽く握る。こんな動作に意味はない――が、俺はゲームクリアに全てを懸けるのではなく、ゲームクリアの先を望めるようになれた。それだけで随分気は楽になっているのだ。皆に感謝、だな。

 風がそよぎ、草花の葉が擦れ合う音を乗せ、さらに先へと吹き抜けていく。

 今日のアインクラッドは快晴そのもので、もしかしたらここ数ヶ月でも最高の気象設定がされている一日なのかもしれない。こんな日はどこか安全な圏内で、芝生を枕に昼寝と洒落込みたいものだ。現実世界で俺が桐ヶ谷夫妻の養子だったと知る前、妹のスグとも何のわだかまりなく接していた子供の頃に、桐ヶ谷家の縁側に身を横たえ、兄妹仲良く日溜りの中でうたた寝をしていたように。

 

 郷愁を誘う秋麗に数瞬揺蕩(たゆた)い、回想に耽っていた俺を引き戻したのはアスナだった。音もなく立ち上がり、穏やかに吹き抜ける風に揺らされた栗色の髪をそっと押さえ、目元を和ませる彼女の仕草に艶めいたものを感じ取ってしまう。本当、絵になる女性だ。

 アスナは静々と俺へと歩み寄り、目線の高さを合わせるように膝を折った。思慮深さを伺わせる彼女の眼差しが注がれ、そのままゆったりとした動作で腕を伸ばして優しく俺の手を取る。彼女の右手は俺の左手を握り、彼女の左手は俺の右手を握っていた。そうして正面から俺と指を絡ませ合うと、にこりと嬉しそうにアスナは微笑み、瑞々しい唇から言葉を紡ぐ。

 

「難しいことなんてないわ、だってわたし達はこうして手をつなぎ合えるもの。もしも君がまた手を開くことを忘れてしまったなら、その時はわたしがこうして君の手を握ってあげる。もしも君が剣を強く握って手放せないのなら、そのときは君の拳の上にわたしの手を重ねてあげる。……ちょっと図々しかったかな?」

「……いいや。サンキュ、アスナ」

「どういたしまして」

 

 朗らかに答えるアスナに俺ができることなんて、感謝以外に何一つなかった。

 

「それにね、わたしは二度と君を一人にはしないって決めてるんだ。二年前みたいに、伸ばした手を引っ込めてずっと後悔し続けるなんてもう嫌だもの」

 

 真剣な顔をしてアスナはそう宣言すると、ふっと緊張を緩めてから続けた。

 

「ねえ、キリト君。わたし、君に大事なお願いがあるの。聞いてもらえる?」

「なんだよ、改まって」

「うん、この前言ったこと、撤回させてほしいなって。わたしの気持ちを知っていてもらうだけじゃ我慢できなくなっちゃった」

 

 風は穏やかに吹き抜ける。留まることもなく、また、留まるはずもなく。

 

「……物好きな奴。止めとけ、とは言わせてくれるのか?」

「言うのは自由だけど、聞いてはあげないよ? こういうのって理屈じゃないんだなって実感してるわ。お利口さんな恋はわたしには難しすぎるみたい」

 

 舌を出して可愛らしく笑うアスナはどことなく誇らしげだった。自分の選択に後悔なんて微塵も抱いていない、すっきりとした顔をしている。

 

「ごめんね、このまま聞き分けの良い女の子になって、大人しく身を引くことは出来そうにないの。だから――覚悟してよねキリト君。片思いで満足しようって、そう決めてたわたしをこんな風にしちゃったのは他ならぬ君なんだから、ちゃんと責任は取ってもらうわ」

「それは前時代的だから廃止にしようって言わなかったっけ?」

「あはは、聞こえない聞こえなーい」

 

 そう言って無邪気に笑うアスナの様子に、自然と笑みが浮かんだ。『(たで)食う虫も好き好き』なんて言うけれど、人の心ほどわからないものはない。アスナがそれで納得しているのなら俺が殊更に悩むべきじゃないのだろう。好いた惚れたなんて、それこそなるようにしかならないのだから。誰だってそうだ、俺だって――。

 ずきりと胸に走る痛みに切なさを噛み締めていると、ふと視界の端に妙なものが映った。自然と俺の目が対象を確認しようと吸い寄せられていく。なんだろう、転移の光にも見えるけど。いや、でも、そんなことはありえないし……。

 

「なあアスナ、俺はまだ76層のアクティベートは済ませてないんだが、それはアスナも同じだったはずだよな?」

 

 唐突な俺の問いにアスナはキョトンとした顔で、それでもすぐに首肯した。俺も聞くまでもないことだとわかってるし、聞いてどうなるものでもないとわかっちゃいるんだが。なにせ転移の光が発生してるのは転移門ではなくまったく別の場所だったのだから。仮にアクティベートが完了して転移してきたのだとしてもおかしな話である。

 どういうことだと疑念に目を細めながら立ち上がる。数メートル離れた先、花壇の中に青白く輝く転移時に似た発光現象が起きていた。

 

「あれ、なんだと思う?」

 

 顎でしゃくるように俺が示した先にアスナも目をやり、彼女もすぐに異常に気がついた。その瞬間、ほんわかと下がっていた目尻を緊張に鋭く吊り上げ、すぐさま警戒態勢を取る。

 しかしアスナの警戒は程なく訝しげな視線へと変わっていった。眼前の光の正体に当たりがつけられなかったせいだろう。俺も似たような面持ちで背中の剣に手を伸ばし、不測の事態に備える。ここは圏内だが念のためだ。

 

「多分何らかのクエストが起動したのだと思うけれど……キリト君、何か心当たりある?」

「残念ながら全く。イベントトリガーを引いた覚えも受諾した記憶もないんだが……。とりあえず警戒だけは解かないで慎重に対処しようか」

「了解」

 

 頷きあって臨戦態勢を固めた俺とアスナだったが、その緊張も長くは続かなかった。転移の光が収まった先には一人の幼げな少女――人畜無害そうな線の細い女の子が無言で佇んでいたからだ。

 腰元までストレートに伸ばした艶やかな黒髪が目に鮮やかに映る。少女の瞼は閉じられたままで、ともすれば立ったまま寝ているような印象を受けた。そしてシンプルなラインの白のワンピースが黒髪との対比でさらに汚れのない純白を強調していて、袖から伸びる両腕、裾から伸びる両足のそれぞれは折れそうなほど細い。一言で言えば儚げな幼子、という表現が的確だろうか。

 

「女の子? 十歳くらい、かな?」

「もう少し下にも見えるけど……それよりアスナ、あの子カーソルが出てない」

「え? あ、ほんとだ。でも、どうして……?」

「さあな。バグか何かにせよ、きな臭いことになってきた」

 

 ぽそぽそと言葉を交し合う最中、俺の眦も釣り上がっていく。間違いなく厄介事だ。

 この世界ではPC(プレイヤーキャラ)NPC(ノンプレイヤーキャラ)Mob(モンスター)、その全てに例外なくカーソルが存在する。視界に捉えてターゲットすれば必ず表示されるべきカーソルが、目の前の少女には存在していないのだ。それだけで容易ならざる事態が起こっているのだと察することができる。なにせこの世界はゲームの中だ、変なバグでも起きれば俺達の無事に直結するのだから無関心ではいられない。

 

 繰り返すが、今この場所、第76層は街開きすら行われていない。転移は街ないし村の名称を対象に行われるものであり、アクティベートが完了していない上層を指定することはできない。プレイヤーらしき少女が転移で俺達の前に現れたことが既にありえないことなのである。つまり転移結晶で出来ることではない以上、システムに何らかの不具合が生じていることを考えざるをえない。

 前例はないが、おそらくはシステムに何らかの不都合が発生した結果としての転移事故だ。それも転移先座標の誤作動だけでなく、カーソル表示の消失も加わっている。そうした尋常ならざる事態を前にしているのだから、俺の緊張が高まったのも、アスナが浮かべた驚きも至極当然のことだった。

 

 危ういバグが起こっているだろう少女は何のアクションも起こさず、ただその場で佇んでいるだけだった。俺もアスナもどんな行動を取るべきか悩みながら、それでも警戒を解かずにじっと対峙していた。やがてその少女がむずがるように長い睫を震わせ、固く閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。ぱっちりとした大きな目が向けられ、視線が交差したことを自覚するとわけもなく深い罪悪感を覚えた俺である。

 ……何故だ、滅茶苦茶胸が痛いぞ。

 

 警戒も露わにいたいけな少女を睨みつけているせいだろうか。自分がひどい苛めっ子になってしまったような、そんな気がしてくる。少女の無垢な瞳に射抜かれると、どうにも背中の剣に手をかけている俺の行動がとんでもない極悪人のそれに思えてならなかった。

 一度頭を強く振って、彼女へ無意識に抱いていた保護欲を追い出す。何が起こっているのかわからず、害があるかどうかも確定できない以上、幼げな容貌と儚げな雰囲気を持つ少女への警戒を解くわけにもいかなかった。

 

 しかし妙だな。というか変だ、絶対おかしい。何がおかしいって、俺が。

 損得勘定抜きで少女に手を差し伸べるのが義務であるかのような、あるいは彼女に警戒心を抱くことそのものが罪悪であるかのような不可思議な感覚。俺自身にすら説明のつかない心の動きに困惑しきりで、ただただ戸惑っていた。

 年端もいかない子供って苦手だったはずなんだけどな……。

 どうしてかこの少女には苦手意識よりも庇護欲が先立ってしまう。俺の意思とは無関係に掻き立てられるそれは、まるで以前のサチを見ているようで――。そういえばこの子、サチに似ている?

 

「……やっと会えた」

 

 と、その時、弱弱しい声が少女の小さな唇から紡がれた。

 ほとんど独白だった呟きを聞き取れたのは、ひとえに全神経を彼女の動向に傾けていたためだろう。だからと言ってその言葉の真意がわかるわけでもなく、同時に確かめようもなかった。なにせ彼女はそれ以上何も言うことなく、ふらりと身体を傾け、糸の切れた操り人形のように花の絨毯の上へと崩れ落ちてしまったからだ。

 小柄な身体が力なく地面に横たわるかすかな音を耳にした時には、我慢の限界とばかりに俺の足は駆け出していた。どうしてこうも初対面の少女を心配しているのかがわからなかった。しかし倒れ伏した少女を無視することも出来ない以上、このまま放っておくわけにもいかない。

 

 少女に駆け寄り、力なく投げ出された小さな身体を抱き起こすと、想像以上に軽い感触に驚く。元よりこの世界ではゲーム的な意味での筋力数値が根底にあるため、俺の感覚ではなおさら羽のような軽さにしか感じられなかったのかもしれないが……わかってはいても俺の胸に巣食う不安は募るばかりだった。

 何より少女に触れてもクエストログは更新されなかった。つまりこれは運営側で何らかのイベントとして用意されたものではないし、彼女がNPCではないれっきとしたプレイヤーの可能性が強まった、ということだ。あとはこの場からある程度引き離せればプレイヤーに確定、といったところか。システムに用意されたNPCは活動範囲があらかじめ定められており、プレイヤー側が好きに移動させることはできない。

 

 しかし、だとしたら一体どういうことだ? どうしてこんな小さな子供がこの世界にいる?

 ソードアート・オンラインは一応13歳以上推奨のゲームだったはずだ。この少女は明らかにそれより下の年齢である。あくまで見た目だけではあるが、俺にはこの子が二桁の年齢に達しているとは思えなかった。まあ、親ないし家族の誰かが購入したのをこっそりプレイしたとかもありえないわけじゃないが……。

 

「キリト君、その子の様子は?」

 

 少女を抱えあげたまま沈思に耽っていると頭上から疑問の声が投げかけられた。

 俺にやや遅れて駆け寄り、膝をついて少女を覗き込むアスナの顔には子供を純粋に心配する憂慮しか存在しなかった。急に意識を失ってしまった子供を相手に、アスナも俺と同様に警戒心を維持することが難しかったのだろう。

 

「身体が消滅してない以上はHPバーも無事なんだろうけど……。駄目だ、カーソルが出ない時点で覚悟はしてたけど、焦点を固定してもこの子の名前は表示されない。俺やアスナに異常がないところを見ると、システムバグはこの女の子限定で起こってるみたいだな。この分だとシステムメニューにすら異常が出てるかもしれないぞ。幾らなんでも軽装すぎる」

「確かに変ね、見た限り装備スロットで埋まってるのは防具の一部――このワンピースだけみたいだし、武器はおろか手袋とかネックレスみたいな装飾品も一切なし。足はブーツも装備せずに裸足だもの。例え圏内でもここまで無防備な姿で出歩くのは珍しいわ」

「かと言ってシステムの異常なんてすぐに解決できるような問題でもない。この子も目を覚まさないし……どうしたもんだろうな?」

 

 システム側の不備なら俺達に出来ることはないし、バグの検証だってこの子の意識が戻らなければ難しい。

 

「困ったね。こんな小さな女の子が一人で今まで生きてきたとは思えないから、この子の両親、もしくはこっちの世界での保護者がいるとは思うんだけど……。親子連れでログインしたプレイヤーの噂なんて聞いたことないなあ。わたしは下の階層にはあまり詳しくないから、そのせいかもしれないけどね。何か事件でもない限り関わることってなかったから」

「下の情報に疎いのは俺も同じだよ。そもそもこんな小さな子がログインしてたこと自体、今の今まで知らなかったし想像したこともなかった」

 

 俺の活動範囲がほとんど最前線に限られることもあって、知人プレイヤーは俺よりも年長の者ばかりだ。俺の知り合いで確実に俺より下の年齢だと思えるのは、竜使いで名を馳せるシリカくらいのものだった。

 

「……どうしよっか?」

 

 アスナが弱りきった顔で尋ねてくるが、俺だって絶賛混乱中だぞ? ……ほんとどうしよう。

 

「まずは落ち着いた場所でこの子の回復を待って、それから詳しい事情を聞き出すしかない……と思う。すぐに親御さんが見つかると良いんだけど」

 

 顔を顰めながらしばしの間沈思に耽る。

 この子の名前と、親御さんの名前、それから何処で生活してきたのかがわかれば、後は虱潰しに当たればどうにかなるだろう。ここまで年齢の低い子なら人目も引いていただろうし、この子の生活圏を訪ねれば知り合いの一人二人はすぐに見つかるはずだ。

 ただ、そのためにクリアしなきゃならない問題もある。いや、問題というほど問題じゃないかもしれないけど、ここでこの子が目を覚ますまで時間を潰すのも間抜けな気がするし、遠からずこの街にもプレイヤーが押し寄せてくる。そうなると俺とアスナは知名度が高すぎて、この子の周辺を無駄に騒がせてしまうかもしれない。

 PoHの手が迫ってきた矢先だし、俺との関連であの男に目を付けられる可能性を考えると、一時的に俺が保護するにせよアスナに任せるにせよ、この子の存在を晒すのは気が引けた。

 

 それに、ただでさえシステムバグが起こってるプレイヤーなのだから、必要以上に好奇の視線を集めるのも状況のコントロールがきかなくなりそうで怖い。ここは秘密裏に確保した上で迅速に保護者を探すのが一番当たり障りがなさそうだ。まさかこんな小さな女の子をこのまま放っておくなんて出来るわけもないし。

 となると真っ先にすべきことは俺以外の目撃者への脅迫だ。……間違った、脅迫じゃなくて説得だな。方針が決まれば行動は速やかに為す必要があるため、俺は至極真面目な顔つきを作って傍らのアスナの瞳を覗き込み、重々しく告げた。

 

「アスナ、突然で悪いが頼みがある」

「あれ? わたし今すごくデジャブったよ。少し前にもこんなことがあったような……?」

 

 気のせいだ。それに今回の俺は純度百パーセントの真面目仕様だぞ。腹ペコキャラじゃない。

 

「諸々を省いて言わせてもらうけど……アスナ、俺と共犯者になってこの子を(かどわ)かしてくれ」

「うわーい、キリト君から未成年略取のお誘いだー、って冗談はともかく、キリト君はそれでいいの? 何ならわたしが保護してもいいし、団長にうちのギルドで預かれないか相談してもいいけど」

「ソロをやってる俺の方がしがらみがない分、アスナより時間の自由もきくしな。いずれはヒースクリフの知恵を借りることになるかもしれないけど、まずは俺とアスナで一時的にでも保護しよう。すぐに解決するならそれが一番良い。ギルドを巻き込むとどうしても話がでかくなっちまうし、大勢の大人に囲まれるのがこの子にとって良いことかもわからないからさ。せめて落ち着いて話を聞けるようになるまでは静かな場所で休ませてやりたいんだ」

「……うん、そういうことならわたしもキリト君に賛成かな。クラディールの件もあって、しばらくはうちのギルドもピリピリしてるだろうし、子供を招くにはちょっと厳しいかも。まずはわたし達でなんとかしてみようか」

 

 よし、これでアスナの説得は完了、と。

 何事もなく保護者なりを見つけ出せるならそれが一番だが、俺の手に負えないようならアスナの好意を頼ることになる。ただ、そうした事情とは別に、不特定多数にこの子の存在を明かして良いのかという危惧もあった。

 

「この子の目が覚めないと始まらないんだけど、万が一この子を呼び水にバグが広がったりしたらとんでもないことになるんだよな。今のところ俺達に何の変化もない以上、他のプレイヤーと接触したからどうなるものではないのかもしれないけど。この子には悪いけど、様子見の意味でもすぐに大勢のプレイヤーと関わらせないほうが安心できるというか。うぅ、罪悪感が」

 

 胸が、胸が痛い……!

 

「あはは、この子にはとても聞かせられない話だねえ。ほら、その分優しくしてあげればいいんだよ」

「ああ、うん。そうだな、それが良い」

「それにこの子、さっき『やっと会えた』とか言ってた気がするんだけど、実はキリト君の知り合いだったりしないの? ほら、怒らないから正直に話してくれていいんだよ? リズ曰くの《女ったらし》さん?」

 

 こらこら、そんな楽しそうに言わなくてもいいじゃないか。第一こんな小さな女の子を相手に女ったらしも何もないだろうに。

 

「ふふん、俺の交友関係に期待しないでくれたまえよ。と、まあ、自虐ネタはともかく、アスナこそ知り合いじゃないのかよ?」

「うーん、見覚えないなあ……。こんな可愛い子一度見たなら忘れないと思うし」

 

 アスナの記憶力は抜群だしな。

 それにしても、やっと会えた、か。あれ、アスナも聞き取れてたんだな。俺はてっきりアスナを指してのことだと思ってたんだけど、そうか、俺が対象だった可能性もあるのか。どっちみち俺の知り合いにこんな小さな女の子はいないので、今日が初対面に違いないのだけど。

 どこかで俺かアスナの名前を知ったのだろうか? それにしたって転移事故でここに飛ばされてきたことを考えるとおかしなことではあるけど。……駄目だな、材料が断片的で穴だらけの推論にしかならない。

 

「そっか。まあここで悩んでても仕方ないし、まずはこの子を運ぶことにしよう。悪いんだけどちょっとばかしアスナの部屋を貸してくれ。この際俺もどっか人目につかない場所にホームを作ることにするから、物件の確保が済み次第その子も移動させて、後は臨機応変にやりくりすればいいだろ」

 

 この子のシステムバグと保護者探しの問題がすぐに解決するようなら無駄な出費になりかねないけど、それはそれで構わないかと割り切ることにした。エギルにもホームを作れってせっつかれてたことだし、良い機会だ。本拠地定めないで転々とするのも終わりにするとしよう。

 

「プレイヤーホームの購入って大きな買い物のはずなのに気軽に言うねぇ。今更キリト君のそういう所に驚いたりはしないけど、物件の目星はついてるの?」

「22層の南西エリアにしようと思ってる。森と湖に囲われた小さい村があってな、確かそこでログキャビンが幾つか売りに出てたはずだ。モンスターの出ない安全なエリアが広がってる層で、リタイア組の釣り師プレイヤーくらいしか訪れない長閑な場所だよ。老後に最適だと思って記憶に残しやすかった」

 

 スローライフに憧れてたんだと割と本気で告げてみたら、アスナに半ば同情的な視線を寄せられた。「個人の趣味にまで口出ししたくないけど、あんまり老成しないでね?」とのありがたいお言葉付きである。……えーと、最近は釣りを趣味に日がな一日日向ぼっこをするのが夢なんだ、とは言わないでおこうかな。更に可哀想な子を見る目をアスナから向けられかねないし。ほんと、この世界がデスゲームでさえなければなあ……。

 こんな所であれこれ悩んでも事態が解決するわけでもない。ひとまずは動き出すことにしようと決めて少女を抱えあげた。まずはこの小さな女の子を誘拐する、もとい保護する準備、と。

 アスナも気づいていて口に出さなかっただけかもしれないけど、最悪の事態も考えると気が重かった。この子の保護者が既に亡くなっている可能性がどうしても脳裏から離れて消えてくれない。

 

 改めて抱えあげた少女に目を落とす。華奢な身体、力なく投げ出された細い手足、ブーツさえ履いていない簡素な装備。まるで頼るものがなくなったから自棄になって飛び出したような格好だ。

 転移事故ないしバグによって装備欄に異常が出ているだけなのかもしれない、そうであってほしいとも思うが、場合によっては彼女の親探しが新たな保護先の選定に変わることもあるやもしれない。……この世界に孤児院とかあるのか? ナーヴギアの推奨年齢を思えば年少の子供がログインしている可能性は低い。第一子供の保護とか完全に慈善事業だし、率先して苦労を背負い込む人格者が必須になるから望み薄だなぁ、と溜息一つ。一応、駄目元で調べてみるか?

 明らかに保護が必要な年齢の子供、その事情を慮るなんて特殊なケース、俺が今まで遭遇したことがないものだし今から不安が募る。ぶっちゃけ戦闘と探索にしか能がない俺には致命的に向いていないぞ。ほんとすぐに解決してほしいもんだ。

 

「それじゃまずはセルムブルグに行こうぜ。ああ、いや、その前に――」

「うん? どうしたのかなキリト君?」

「75層の山場も超えたことだし、節目だから改めて言っておこうと思ってさ。今日は俺を守ってくれてありがとう、アスナ。これからも色々と面倒かけることになると思うけど、改めてよろしくな。絶対生き残ってこの世界から脱出しよう」

「わたしも気持ちは一緒だよ。今日はわたしを守ってくれてありがとう、キリト君。きっとこれからも沢山キリト君に迷惑かけるけど……うん、これからもよろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げあって、それから顔を見合わせた俺達は互いに微笑を交換しあう。

 一難去ってまた一難。

 そんな言葉では表せないほど激震に晒された今日という日はまだまだ終わらない。史上最悪のフロアボス戦をなんとか乗り切ったと思えば、攻略組の中枢――俺とヒースクリフの抹殺を図ったクラディールの凄惨な裏切りが発覚し、そして今度は世界の根幹さえ揺るがしかねないバグの発見である。今日は色々ありすぎだ。

 本当、寄せては返す波のように厄介事って奴はなくなることがない。それでもなんとかなる、と思えるのは隣に立つ少女が穏やかに笑っていてくれるからだろうか。

 

 俺は一人じゃない。そう思うとどこまでも心強くて勇気が湧き出るものなのだと、俺はこの世界で学んだ。

 アインクラッドは全百層。今日で四分の三を終え、残りは四分の一。終わりは見えてきたんだ。必ずクリアする、一日でも早く終わらせる。

 そして皆を――俺の大事な人達を誰一人欠けさせることなく現実世界に還してみせる。その輪の中に俺自身も入れれば最高だと、腕の中の軽やかな重みを感じながら深く深く感じ入るのだった。

 

 




 フロアボス撃破後も広間の結晶無効化空間が解けないのは独自設定です。次層のアクティベートと共に消失するものとしています。
 麻痺毒は攻撃付与で受けたものより経口摂取で受けたほうが効果は大きく、回復に時間もかかる設定は拙作独自のものです。

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