ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第15話 黒の剣士、白の閃光 (3)

 

 

 第61層に《セルムブルグ》という城塞都市がある。街区として61層の中心に位置するそれなり以上に名の知れた街だ。白亜の尖塔が頭上高く伸びる古城をモデルに、街全てが乳白色の花崗岩を材質に構成されている。

 それだけでも一見の価値がありそうな街並みだったが、この街の真骨頂は《白》と対を為すように《緑》溢れるコントラスト模様だった。都市コンセプトに《憩い》でも盛り込んでいるのか、街路にしろ建物にしろとにかく手広く余裕を持たせて作られていて、例えばエギルの店がある50層の主街区《アルゲート》を象徴する狭っ苦しさなど微塵も感じさせない街だった。

 

 とにもかくにも居心地が良さそうで、時間がゆったりと流れる感覚を存分に味わえる、多くのプレイヤーが是非にと住みたがること請負な都市である。しかしそんなプレイヤー心理を見透かしたかのようにこの街の部屋――プレイヤーホームの購入費用は馬鹿高い。金銭的に余裕のある攻略組のプレイヤーでさえ二の足を踏みかねない値段設定だった。

 ホームを持とうとしない俺のようなプレイヤーは除外するにしても、一体どれだけのプレイヤーが涙を呑んで諦めていったことだろう。

 

 セルムブルグが人気高い街なのはその都市設計が優れているだけでなく、立地そのものにも理由が求められるのかもしれない。かつてこの層が最前線だった折は47層の《フラワーガーデン》同様にスルーしていたものの、改めてこの区画をゆっくり歩いていると嫌が応にも悟ることがある。セルムブルグを囲む湖水の眺めがまた絶景なのだ。

 61層はその大部分が湖で覆われていて、その中心に浮かんだ小島にセルムブルグという観光都市が置かれていた。必然、この街の周囲一帯は湖面が占めることになる。街を歩く最中にふと目を移せば、濁りなどわずかたりとも存在しない透き通った水面が、太陽光を反射してきらきらと輝くことで人々の目を楽しませようと趣向をこらしていた。

 

 まるでプレイヤーを歓迎し、祝福してくれているかのようだ。時を移し、夕日の落ちる刻限を見計らって訪ねれば、俺が抱いた清涼と静穏を黄昏時の安息に変えてプレイヤーを迎えてもくれるのだろう。

 広大な湖面と白の彫刻、緑の自然が織り成す美しくも静寂に満ちた街。それが61層主街区《セルムブルグ》だ。

 

 と、ここまで美辞麗句を尽くしてきて何だが、俺自身はこの街に住みたいとまでは思っていなかったりする。

 確かにセルムブルグという都市に備わる魅力はすばらしいとは思うものの、根が小市民な俺にとってはこういう如何にも上品な雰囲気はちと敷居が高い。加えて観光地なんてのは偶に覗くから感動できるのであって、毎日眺めていたらその内飽きてしまうんじゃないか? と天邪鬼思想も抱いてしまうのである。あるいは勿体ないという貧乏性か。

 

 同列に並べて良いのか知らないけど《美人は三日で飽きる》とも言うしな。……何人かの女の子の顔が脳裏に浮かび、その格言は俺には当てはまらなそうだなあ、などと馬鹿なことを考えつつ。

 尖塔を抱えた古城前の広場に置かれた転移門を潜って少しばかり歩き、俺が目指したのは目抜き通りから東に折れた先にある建物――その三階に位置するプレイヤーホームだった。部屋の持ち主の名はアスナであり、言わずと知れた血盟騎士団副団長様にして現在は俺とコンビを組んでいる細剣使いである。

 

 もっともペアそのものは既に解散しているようなものかもしれない。なにせ元々予定していた75層迷宮区の攻略には既にボス部屋発見という目処がついているのだし、クォーターポイントを通過すればさすがにアスナも俺に付きっ切りというわけにはいかない。そもそも現時点で血盟騎士団内部で結構な不満が出ているんじゃなかろうか?

 人望厚き副団長が攻略シフトから抜け、外部プレイヤーへと派遣されているのだから面白いはずはあるまい。クラディールが下手打ったせいでアスナが俺に詫びとして協力している、とか思われてるのかな?

 

 まあ、調整に苦労するのはヒースクリフだから、奴が困るだけで済むなら大歓迎、いや、万々歳? とにかく攻略に支障さえ出ないなら、ヒースクリフがどれだけ困ろうが俺は構わない。それにあの男ならそれくらい何とかするだろ。そこらへんの事情はアスナも気にしてたから多分大丈夫だ。

 何にせよ今日を乗り越えなきゃ話にならないか、とは内心のつぶやきだった。その困難さに自然と口から重苦しい嘆息が漏れてしまっていた。

 

 それにしても、と改めて思う。一人暮らしの女性の部屋にお邪魔するのに、果たして手ぶらで良いのだろうか。そんなことを今更ながらに悩んで腕組みしてしまった。

 彼女の部屋を訪ねることこそ初めてだったが、アスナとは今までに食事の席を同じくしたことが何度もあったし、最近では迷宮区攻略において二人で夜を明かした日々も珍しくはなかった。そこに甘いものがあったかと言えばひたすら首をひねるところではあるけれど。

 アスナとの会話で記憶に残ってるのって攻略のあれこれに関する確認だったり、戦闘スキル関連の検証だったり、フロアボス戦編成での非公式での相談だったりと、ひたすら色気のない会話ばかりなのだった。肩肘張ったことばかりでなく日常のふとした会話もそれなりに交わしているはずなんだけど、そういうのはえてして印象に残らないもので――。

 

 アスナの気持ちを知ってしまった今となっては、そんな自分の過去の振る舞いというか思い出の数々が、途端に《女性への気遣い皆無な甲斐性なし》へと変じてしまう。あれ、俺ってもしかしてすごい極悪人じゃないですか? なんというか、気が利かないってレベルじゃねーぞ? 「にゃハハハ、今更気づいたのかい、キー坊」とかいう、どっかの根性悪の声で再生された空耳は丁重に無視させていただく。

 大丈夫、これまでの失敗はこれから先に生かせばいいんだ、過去ではなく未来にこそ目を向けるべきなのだと、冷や汗混じりに言い聞かせる。そんな中、気の抜けるような着信音がフレンド・メッセージの到来を知らせた。何となく予感めいたものを感じながら手紙アイコンをタップすることでメッセージを開き、文面に目を落とす。

 

『いつまでそこにいるつもり? ストーカー扱いされたくなければさっさと部屋に入りなさい』

 

 ……よし、有り難く招待に応じさせてもらおうか。

 

 

 

 

 

 アスナの部屋は外から伺った時に想像していた以上に居心地の良さそうな雰囲気をしていた。

 木目の床や壁はどことなく牧歌的な趣を醸し出し、統一されたモスグリーンのクロス類がアクセントとなって部屋全体を明るく爽やかに演出している。ダイニングと兼用のリビングは広々としていてくつろぐのに不足もない。彼女の料理趣味を反映しているかのようなキッチンは整理整頓が行き届いているだけでなく、高級そうな料理器具アイテムが幾つも備え付けられていた。特に目を引くのは巨大な薪オープンだろうか。各部屋に置かれた木製家具も明るい色をしていて、その趣味の良さは全てが最高級のプレイヤーメイド品だろうと思われた。

 

 なんつーか、エギルの実用性一点張りの部屋とは雲泥の差だなあ、と巨漢の男に対し失礼な感想すら抱いてしまう。いや、度々利用させてもらってるエギルの部屋も居心地は良いんだぞ、それは否定したりしないけど……さすがにアスナのそれと比べるのは酷というものだろう。

 そもそもかけられてる金額の大きさが段違いなのは間違いなかった。なによりアスナの部屋は女性らしい柔らかさが表現されているせいか、とにかく心を落ち着かせる効果があった。

 プレイヤーホームの内装にこだわる効果を初めて実感した気がする。これだけの雰囲気を作り出せるのなら、ホームの作成をコルの無駄遣いとはとても言えない。……俺がプレイヤーホームを持つことがあるようなら、是非アスナにアドバイザーをお願いしよう。

 

「別に今日に限った話じゃないけど、君の私服は黒しかないの?」

 

 キッチンで忙しなく働くアスナがふと口にした疑問は、どことなく呆れた響きを帯びていた。忙しく、と言ってもアスナ曰く「SAOの料理は簡略化されすぎていて味気ない」そうだから、本人にしてみれば物足りない料理工程なのかもしれないが。

 

「元々俺は黒というか地味な暗色系が好みではあるんだけどな、《黒の剣士》って呼ばれるようになって余計に意識するようになったのは確かだ。俺のイメージカラーは黒で固定されてるみたいだから、わざわざ崩すこともないかなあって安直に考えてる。私服にまで適用するのは、こだわりと言えばこだわりなのかもしれないな」

「そう言われちゃうと返す言葉もないんだけど……たまには違うイメージのキリト君も見てみたいわ。機会があったらよろしくね」

「機会があればな」

 

 気のない俺の返事に気分を害すこともなく、アスナは鼻歌混じりに作業を続けていた。機嫌が良くて結構なことだ。

 そんなアスナの格好は袖がグリーンに染められた白のチェニックと膝上丈のスカートである。元が良いから何を着ても似合うのだろうけど、目の前でアスナの華やかな私服姿を目に映すとやっぱり思うところはあるわけで……黒一色の味も素っ気もないシャツとズボン姿の俺とは比べて良いものではないのかもしれない。

 ……ま、まあ、ここはアスナのホームだ。ドレスコードも何もないんだから気にする必要はないはずだ、と誰に向けているのかもわからない言い訳が頭の中で展開されていた。とはいえ、自身のラフすぎる服装を思うとアスナに申し訳ないような、同時にアスナと並びたくないような、そんな情けない気分にもなる。

 改めて考えるまでもなく美人なんだよなぁ、こいつ。アスナに男を見る目があるかどうかは……これからの俺の努力次第と答えを濁させていただくということで。

 

「よしっと、完成。トマトソースたっぷり海老とあさりのリゾットに鶏肉のソテーだよ。それと盛り合わせのサラダね」

「……アスナ、お前料理で天下取れるぞ。ヒースクリフから団長の座をかっぱらおうぜ、クーデター起こすなら協力するからさ」

「はいはい、馬鹿なこと言ってないでお皿運ぶの手伝って」

 

 瞬く間に食卓を飾っていくアスナ謹製料理の数々。俺に分かりやすいよう向こうの食材名で説明してはいるが、実際はアインクラッド独特の食材アイテムを組み合わせたオリジナルレシピだ。その香ばしい香りと鮮やかな色彩にこれ以上となく食欲が刺激されてしまう。アインクラッドに専属料理人の肩書きってなかったっけ? むしろ俺のために新設するべきじゃないか? 狙う料理人は勿論アスナ。

 順調に俺の胃袋はアスナに掌握されつつあった。血盟騎士団副団長の人心掌握術は恐ろしいとひしひし戦慄するも、実際のところ彼女の手料理を食す栄誉に与れるものはほとんどいないらしい。何でもアスナの料理趣味を知っているのはリズくらいで、こうした手の込んだ料理を振舞ったことがあるのも、俺の他には親友であるリズくらいだったとのこと。そう考えるとアスナの料理が食えるのはものすごい幸運に違いない。

 

「あれ? そういえばアインクラッドに米なんかあったか?」

「キリト君は本当に戦闘以外の知識には乏しいところがあるよね。結構前に発見されてたよ」

「交渉の手札になる高級食材のデータはある程度頭に入ってるんだけどなぁ……。とはいえ米が見つかったならもう少し話題になってても良さそうなものだけど。日本食に飢えてるのは俺だけじゃないはずだぞ」

 

 具体的には風林火山の連中とか。白米を用意すればクラインなら感涙すると思う。

 

「それは欧州世界がモチーフのせいか料理レシピに主食としてのご飯がないせいね、《お米を水で炊く》って工程がシステムに反映されてないのよ。リゾットみたいに西洋料理としてのお米の使い方ならある程度カバーされてるんだけど……って、何してるのかな、キリト君?」

「ん? ゲームマスターに不具合の報告をしてやろうかと。白米の恨みを茅場への罵倒付きで送りつけてやる」

 

 つまり茅場が日本人のソウルフードに喧嘩売ってるってことだろ? 俺が白米を食えないことも含めて、言うまでもなくあいつこそが俺達を苦しめる諸悪の根源だ。そんな俺の確信が一層深まったところで、今こそ文句の一つも言っておくべきだと思う。

 考えて見ればゲームマスター宛の罵声って今まで送ったことないんだよな。この際修辞を凝らして弾劾状めいたものを作成するのも良いかも。いやいや、まずは米の恨みを一文に込めて、と。

 

「……キリトくーん、その報告は必死になって生きてるのが物悲しくなってくるからやめて」

 

 肩を落として力なく制止するアスナの姿に、寸でのところで俺の指が止まる。あとワンクリックで遅滞なくユーザー報告が済み、《現実世界に帰してくれ》と大量に送りつけられていたであろう運営宛のメッセージに新たな一文《白米食わせろ》が加えられたのだろうが、残念ながらその野望は果たせずして潰えてしまった。

 そもそもプレイヤー側の要望が通るどころか、ゲームサービス開始初日を除けば茅場からのアクションなんかただの一度もないのだけど。当然、ゲームマスターへのメッセージに何らかの反応があったことなど皆無だった。こんなしょうもない要望を送ったところで黙殺されるのがオチだろう、茅場の目にすら触れないんじゃなかろうか。まだまだあの男の顔を拝むのは遠そうだなあ……。

 

「それでアスナ、俺に相談したいことって何だ?」

 

 俺がアスナの部屋を訪れた本題を口にしたのは、アスナが用意してくれた食事を終えて食後のお茶で喉を潤してからのことだった。単刀直入な俺の言葉を受けてアスナも居住まいを正す。和やかな空気がわずかに張り詰めたような気がした。

 

「最初に確認しておきたいんだけど……キリト君はギルドに入る気はある?」

 

 身体を少しばかり緊張に強張らせ、真剣な顔でアスナはそんなことを尋ねてきた。

 

「一応な。最近モンスターのアルゴリズムに変化が出てきたせいで事故率が上がってる。このまま難易度が高まっていくようだとどっかで不覚を取りかねないし、ソロでのマップ攻略もこれまでのような効率を維持するのが難しくなってきてるんだ。75層の攻略が終わって一段落ついたら、本格的にギルド加入の交渉を始めようかと思ってるよ」

「その候補にうちは入ってるかな? もしキリト君にその気があるなら、わたしは全力でギルドの意見調整に取り組むことを約束するよ」

「そりゃありがたい。――けど、言ったろ、全ては今日を乗り切ってからだ。あんま先走りすぎるなよ、今の段階でギルド間のパワーバランスが崩れるといらん争いにつながりかねない」

 

 ただでさえヒースクリフという強すぎるトップが血盟騎士団にはいるのだ。その下にアスナが控え、最精鋭と呼ぶに相応しい精強な騎士が幾人も揃っている。そこにいきなり俺が所属するとなれば、血盟騎士団をライバル視する聖竜連合の態度が硬化しかねなかった。そもそも俺が加入することで血盟騎士団内部の結束に皹が入る可能性が一番怖いんだが。

 ユニークスキル使いの扱いって難しいよなあ。俺の場合は過去に色々あってギルド勧誘に及び腰なギルドが多いためか、割合静かなものだけど。……嫌われてるだけじゃないか? という悲しい推測はどこぞに放り投げておく。

 三人目、四人目のユニークスキル使いが現れた時はどんな騒ぎになるだろう。数少ないソロプレイヤーに発現するほうが珍しいのだから、どこかのギルド所属のプレイヤーになるのだろうけど、引き抜き合戦でも開催されるかもしれないな。

 そんなありえそうな未来の一つに思いを馳せていると、アスナが妙に深刻そうな表情で悩みこんでいた。どうしたんだ?

 

「なあアスナ、少し焦ってるように見えるけど、何かあったのか?」

「……うん、確かに焦ってるのかもしれない。キリト君も薄々とは感じてるでしょ、攻略組の士気低下の問題。わたしとしては、この先キリト君を加えたワンパーティーを作って攻略速度を加速させたいのよ」

「攻略組だって上と下で温度差はあるからな、ある程度は仕方ないんじゃないか?」

「それはそうなんだけど……」

 

 俺の楽観を含んだ言葉に、アスナは暗い面持ちのまま歯切れ悪く答えを返すだけだった。俺の想像以上に深刻なアスナの様子に自然と声を潜めて問いを重ねる。

 

「……積極的に迷宮区攻略を進めるプレイヤーが少なくなってきてるせいで、攻略速度そのものが落ちてることは俺も認識してたけど、そこまでひどくなってるのか?」

「ええ。最近は明らかに表面化してきてる問題だから何とかしないと、とはずっと思ってたのよ。ただ、その方法が思いつかないの。まずは原因のほうだけど、当たりはつけてる?」

「マスタースミスの数が揃ってきて、高性能な装備が確保しやすくなったこと。武器スキルが熟達したことによるハイレベル剣技の習得。そうした戦力の充実に伴う戦い方の保守化と安全志向の高まり。と、まあ、こんなとこじゃないのか?」

 

 未知の迷宮区を攻略するのではなく、既知のマップでレベリングを優先するプレイヤーが増えているのもその一環だろう。そんな俺の分析に対してアスナは少しばかり考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「キリト君の分析も間違いじゃないけど、それ以上にヒースクリフ団長とキリト君への依存があると思うわ。攻勢、守勢、共に傑出しすぎた存在がいるのだもの、皆が二人に頼って攻略に及び腰になるのも不思議なことじゃないでしょ? ただでさえ君はソロで小規模ギルド並のマップ攻略速度を実現させてるんだし。それに迷宮区攻略を別にしても、《神聖剣》と《二刀流》がフロアボス戦で絶対的な存在感を示すようになってから、死傷者も格段に出にくくなったからね」

 

 溜息交じりの言葉だった。

 

「当初は二人の戦力増強に士気旺盛だった攻略組も、今は団長とキリト君に全て任せてしまえばいいって甘えが心の何処かで陰を落としてしまってるのだと思うの。そのせいで最前線のマップ攻略に消極的になっちゃってる。うちだって例外じゃないわ」

「うへえ、その理由はさすがに想定外だった。冗談じゃないんだよな?」

 

 こんなことで冗談言っても仕方ないでしょ、と肩を竦めるアスナの態度には同意できるが、しかし俺とヒースクリフへの依存心、ねぇ。そんなことがあるなんて想像したこともなかったな。とはいえ俺自身、時折ヒースクリフに全部任せてしまいたいと冗談半分でも思うことがあるから、気持ちはわからないでもない。

 もしかしてヒースクリフが迷宮区攻略に些か腰が重く見えるのもそのせいだったのか?

 あくまで攻略組全体のレベルアップを図り、プレイヤーが一丸となって攻略に邁進することこそがあの男の目指した攻略組の姿なのかもしれない。そういう意味ではひたすらソロで攻略を加速させようとしてきた俺は、あの男にどう思われていることやら。

 思いもよらぬアスナの指摘に俺が細々と考えを整理していると、じっと俺を見つめながらアスナはさらに言葉を紡ぐ。その顔は憂いに染まっていた。

 

「それに一番の理由は今日までの歳月そのものだと思う。皆、この世界に馴染みすぎてしまって、ゲームクリアへのモチベーションが低下し続けているのよ。一時は九百人近くいた攻略組も今では六百人ちょっとまで数を減らしてる。幸いなのは死者の列に加わって攻略組から脱落した人ばかりじゃないってことだけど」

「過酷なレベル上げや装備の更新に音をあげたプレイヤー、フロアボスの脅威を前に最前線に立つことを諦めたプレイヤーも多いからな。生活の全てを攻略に追われて神経を尖らせる日々に嫌気が差すのだってわかるし、中層に引っ込んでのんびり暮らすことを選んだ奴等を責めることもできないさ」

 

 《去る者追わず》と潔く諦めているわけではない、できれば攻略組に踏みとどまって一緒に戦って欲しいのが本心だ。しかし低いモチベーションで最前線を戦い続けることはそのプレイヤーの命を容易に脅かしてしまう。無理強いできるものではなかった。

 ドロップアウトしたプレイヤーにしたって外部からの助けを本気で信じてるわけじゃないだろう。二年近くもの間現実世界からの接触は皆無なのである。今となっては外からの救助に期待を持ち続けているプレイヤーは、藁にも縋る気分で祈っているに過ぎない。

 俺たち攻略組だって他人事じゃなかった。最近はクリアだとか脱出だとかを声高に主張する人間も少なくなった。俺が軍の連中を歓迎していたのも、そうした停滞ムードに活が入るかもしれないと期待した部分が少なからずあったのだし。もっとも俺の抱いた勝手な期待は、残念ながら実を結ぶ前に潰えてしまったけど……。

 

 そして今以って俺たちを巡る状況に変化がないということは、これだけの時間が経ったというのに、現実世界側では未だに俺達の命を握るナーヴギアの仕掛けに手が出せていないということだ。それはつまり、現実世界では茅場晶彦の行方を警察も捕捉できていないということだろう。奴が捕まっていればさすがにあちら側から解決する目処も立つだろうから。

 あー、腹が立つ。茅場晶彦という稀代の天才は脳のリソースを無駄遣いしかしないな。こんな大規模犯罪を成就させるためだけに人類有数の頭脳をフル稼働させやがって。もっと建設的なことに使えよ馬鹿野郎。

 

「そうだね、ゲーム攻略を諦めた人たちを責めることはできない。わたしだって似たような気持ちを抱いたことはあるもの。……最近はね、この世界で生まれて、ずっとこの世界で生きてきたような、そんな気さえしてるわ。ゲーム開始当初はあんなにクリアを目指して血眼になってたのにね」

 

 そう言って微笑んだアスナの表情はどこか寂しげな色を滲ませていた。

 年月は人を変える。良くも悪くも不変でいられる人間なんていない。仮想体であるために見た目こそ変わらずにいる俺たちだが、目に見えない心の在り様は日々変化し続けているのだから。

 しばしの間、俺とアスナの間を沈黙が降りた。

 現実世界を、家族の顔を思い出す。最近はスグや父さん母さんの顔を思い出すことが一つの儀式と化しているような気がする。帰るべき場所を思い出すことで、クリアへの思いを再確認しようとしているのかもしれない。アスナの心の内を聞いていると余計にそう感じる。

 それでも、と意図せず声が漏れた。

 

「それでも俺は帰りたいと思うよ。親孝行の一つもせずに死んでたまるか、ってな」

 

 実の息子でもないのに、叔母夫妻からは彼らの娘である直葉と同じくらい愛してもらっていたのだから、せめてその分の恩返しくらいはしなければ死んでも死に切れない。それに一方的に距離を置いてきたスグにも謝らなきゃいけないし。

 少しだけおどけてみせた俺にアスナも小さく微笑み、「うん」と一つ頷いた。

 

「わたしも……向こうに帰ってお兄ちゃんにちゃんと謝らなくちゃ。お兄ちゃんの楽しみにしてたゲームを二年間も独り占めしちゃってごめんなさいって」

「アスナは兄貴に謝るのか。俺も妹に謝ることがあるから一緒だな」

 

 二人して顔を見合わせ、笑いあう。現実世界の話はご法度がマナーだ。しかし今くらいはいいだろう。多分、俺もアスナもそういう気分だ。

 

「……帰りたいね。あっちでやりたいこと、やり残したこと、たくさんあるんだから。……だからこそ、急がないといけないと思ってるの。わたしたちの身体のタイムリミットが残っているうちにゲームクリアを果たさないと」

「タイムリミット……あっちの世界の身体のことか。現実世界の俺たちは昏睡状態のまま既に二年近く経ってる。さすがに限界も近いだろうしな。残された猶予はそう多くないか」

 

 この世界に閉じ込められてから数日後、一度だけプレイヤー全員の意識が立て続けに消失したことがあった。あれは恐らく現実世界側で俺たちの身体が病院に搬送されたタイミングでのことだったのだろう。

 ナーヴギアは二時間の回線切断までは許容してくれる。

 それはゲーム開始初日、茅場晶彦のチュートリアルによって口にされた言葉だが、その真意は植物人間と化した俺たちを生かし続けるためだ。その猶予時間を利用して生命維持のための設備が整った病院に収容され、そこで改めて回線が繋ぎ直された。

 

 そんな状態で生かされている俺たちが長い年月を無事に過ごせるはずがない。そもそも現時点ですら肉体のあちこちに不具合が出ていることだろう。そしてその危険性はクリアが遅れれば遅れるほど増していく。アスナが焦っているのもそうした問題を踏まえてのことだ。

 ……攻略を諦めてドロップアウトしたプレイヤーも、あるいはそんなどうしようもない現実世界の事情に思い当たって心が折れてしまったのかもしれない。末期の生、短い余生を心穏やかに過ごす、そんな心境に至ることもあるだろう。それに現実世界側の話題を出すことは歓迎されないから、そうした不安だって一人抱え込んで生きていかなければならない。

 

「アスナが俺にギルド入団の意思を確認したのは、それが理由か?」

 

 攻略速度を加速させる、肉体の限界が訪れない内にゲームクリアを果たす、そのために俺の戦力を最大限生かす方策としてのギルド加入。それ自体は俺自身何度も検討してきたことだ。感情的な衝突を考慮しなければ、血盟騎士団が最有力候補だというのは今も変わらない。

 

「もちろん攻略のためっていうのは嘘じゃないんだけど――」

「だけど?」

 

 どこか歯切れの悪いアスナに問い返す。アスナは散々迷った末、常にないか細い声で答えを口にしたのだった。

 

「……その、怒らないでね? もっとたくさんキリト君と一緒にいたいなあ、って。……だ、駄目?」

 

 ……あー、その、な。時々思うんだよ、女の子って何でこんなに可愛いんだろうって。

 恐る恐る俺を覗き込む瞳は不安と期待に潤み、上気した頬と艶やかな唇は色っぽく俺を惑わそうとしていた。自然と目と心がアスナへと引き寄せられていく。だからこれやばい、やばいんだって。ああもう、アスナは俺をどうしたいんだ。

 ……落ち着け。これからフロアボス戦もあるんだから。

 

「俺としてはこれ以上なく光栄な話だし、血盟騎士団に入団するのを渋る理由もたいしたものじゃないからなあ。今日のフロアボス戦を乗り切ったら、まずはギルド加入の件をヒースクリフに相談でもしてみようか。フォローは頼んだぞアスナ」

「やった! 絶対だよ、キリト君」

 

 ああ、と簡潔に返した俺の目には喜びを隠そうとしないアスナの姿が映り、その素直な様子がいじらしくて自然と眦も下がってしまう。そこまで歓迎してもらえるなら本望だな。

 ここであえて明言しておこう。俺は現在の攻略組並びに血盟騎士団の問題、それから俺自身の能力を勘案した上で最善となるであろう答えをアスナに返したのであって、決してアスナの可愛らしさとか色気とか魅力に陥落したわけではない。断じてない。ないったらない。それはもう全力で主張させていただく。

 

「でだ、その約束を反故にしないためにも今日の確認をしておきたいんだけど……結局、フロアボス討伐隊は38人で確定なのか?」

「ええ、二日の準備期間を置いてはみたけど、それ以上の志願者が出ることはなかったわ。今回の討伐戦は退路のない最悪のものだし、これ以上はどうしようもないわね」

 

 軍の全滅の報せを受け、その日の内に緊急で第二回の攻略会議が開かれた。そこで改めてボス戦に向けての喧々諤々の白熱した舌戦が交わされた……などということはなく、ひたすら重い空気の元で開催され、終了した集まりだった。

 それも仕方ない。なにせ満を持して投入されたであろう軍の精鋭が数分で全滅したのだ。いくら結晶無効化空間に加えて出入り口封鎖というアクシデントに見舞われたとはいえ、12人もの部隊が五分足らずで一人残らず殺された。その事実は攻略会議の雰囲気を通夜に変えるのに十分だっただろう。死者の数という意味でも、あまりに困難な戦いを予感させるという意味でもだ。

 救いと言えば相変わらず泰然自若としていたヒースクリフの姿に、集まったプレイヤー達が浮き足立つことなく冷静に会議を進められたことくらいか。やせ我慢だろうと皆が恐怖を押し殺し、ボス攻略戦の編成まで踏み込めたのだから十分な成果だったろう。

 

 とは言え、俺が討伐隊メンバーを38人と口にした通り、順風満帆というわけではもちろんなかった。逃げ場のない状況で史上最悪の敵と戦わねばならない重圧に尻込みするプレイヤーも少なくなく、討伐参加予定メンバーも定員である48人に満たなかった。いや、それどころか40人の大台すら割る有様なのだから溜息もつきたくなる。

 偵察ではないフロアボス戦の本番に当たって、定員に満たない数で挑むというのは久方ぶりのものだった。今回は今まで以上に十分な安全マージンを確保しているプレイヤーに参加を限定したことも手伝い、一人ひとりのプレイヤーにかつてない負担を求めることになりそうだ。

 

 鍵を握るのはやはり《神聖剣》と《二刀流》か。神聖剣でボスを抑え、二刀流で一気呵成に切り込む。俺とヒースクリフがどれだけ上手く立ち回れるかで、生じる被害の大きさもかなり左右されるはずだ。叶うことなら一目だけでもボスの姿を拝んで事前にシミュレーションの一つでもしておきたいところだったが、先遣隊の第二陣が持ち帰った報告を聞く限り試せるものではなかった。

 今回のボスは恐らくプレイヤーを自らのテリトリーに引きずり込んだ後でないと姿を見せない。そして一度戦闘が開始されてしまえば倒すまで脱出不可能なのだから、どうしたってぶっつけ本番で挑むしかないのである。

 

 戦う前からここまで緊張を強いられる敵は初めてだ。……いや、内実は異なるが、背に氷柱を差し込まれたかのような寒々しい予感はラフコフ戦にも通じるものか、と苦々しい気持ちが湧き上がる。

 あの時もかつてない激戦の予感に心臓の鼓動が収まらなかった。そしてその死戦を思わせる冷気は今も変わらない。アスナだって何でもない顔をしていても、その内心は迫り来る死の恐怖を押さえつけようと必死のはずだ。

 それだけ今回のフロアボス戦は絶望感が半端ではないし、逃げ出して良いなら皆が逃げ出していただろう。……脳裏に浮かんだ《聖騎士》の精悍な顔はこの際黙殺する。あの男だけは例外だ、いつでも何処でも涼しげな顔しかしやがらない。それを大したものだと思う一方で、少しは恐怖とか狼狽を見せたらどうなんだと突っ込みたくもなる。ったく、可愛げのない。

 

「予想通りっちゃ予想通りだけど、本気で乾坤一擲の大勝負だな。ここで俺たちが全滅するようならゲームクリアなんて実質不可能だろ」

「君の言う通りだろうけど、キリト君は討伐隊の主戦力なんだからそんなこと人前では絶対言わないように。君の影響力が大きいのはおべっかでも何でもない事実なんだからね。戦う前から士気低下なんて冗談じゃないわ」

「わかってる、ちょっと愚痴を言いたくなっただけだ」

 

 まあ、多少投げやりな台詞だった自覚はある。

 今回の作戦は攻略組が死力を尽くす文字通りの総力戦となる。参加メンバーは現在の攻略組の中核そのものであり、各ギルドでも指折りの実力者しかいない。クラインやエギル、ディアベルやシュミットも参加しているし、攻略組最大戦力たるヒースクリフと俺、そしてアスナだって当然参加しているのだ。これだけのメンバーを揃えてなお敗北するのなら、その時は残されたプレイヤーが再起を図ることは極めて難しいと言わざるをえない。ゲームクリアは不可能だ、と断じてしまいそうなほどに。

 今回の戦いの敗北は戦死とイコールだ。俺達が全滅した後、残された攻略組が俺たちの喪失に耐え抜き、百層まで戦えるかと言えば難しかった。不可能とまでは言わない。しかし戦力減がでかすぎて、体制の建て直しにどれだけの時間がかかるかわかったものではなかった。

 

 なにより今まで攻略組を主導してきたヒースクリフとアスナがいなくなった時、はたしてどれだけのプレイヤーが再びクリアを目指して立ち上がる気力を持てるか。今回の討伐に失敗した結果として、リタイアを理由に攻略組の人数が今の半分以下に落ち込んでも俺は驚かない。もっともその時は俺に確かめる術はないけど。

 自分が死んだ後のことまで心配してもどうしようもないし、そうならないために最大限努力をするのは当然だ。しかし今日の戦いで仮に討伐隊が全滅したなら残された七千余のプレイヤーに待つ未来は緩慢な死ではないだろうか。そんな不安が消えてなくならない。

 そこで俺は一度頭を左右に振った。弱気になるな、俺がアインクラッドを終わらせると誓ったことを思い出せ。75層のクォーターボス戦がどれだけ厳しい戦いになろうが、所詮は百層に辿り着くまでの通り道でしかない。こんなところで死んで良いはずがなかった。

 視線を移して現在時刻を確認する。決戦まであと一時間ちょっとか。

 

「アスナ、話しておきたいことがある。よく聞いてくれよ」

「そういう真剣な顔をした男の人から、何度か結婚の申し込みをされたことがあるわ。……なんて茶化して良い話でもなさそうだね。何かなキリト君?」

 

 ちょっと待て、それはそれで気になる話題だぞ。主にプロポーズの台詞とか。参考にしてみたいと思うような、思わないような。どっちみち今日を乗り切らなければそれこそ話にならないわけだけど。第一、決戦前のプロポーズは死亡フラグの筆頭だしなあ、洒落にならん。俺の感情云々は抜きにしたって、ここで結婚の申し込みとか攻略組の俺達がやっちゃいけない行動の筆頭だと思うんだ。

 と、まあ、そんな戯言はともかく。

 

「俺のレベルのことだよ、この際だからアスナには正確な数値を教えておく。今の俺のキャラクターレベルは121に達してる、言うまでもなく攻略組でも飛びぬけてるはずだ。だから今日だけは――今日の戦いだけは必要以上に俺を気にかけるな。俺を守ってくれるって言ってくれた君の気持ちは嬉しいし、誇りに思う。でも、アスナだって盾持ちプレイヤーじゃないんだから、自分の命を最優先に――」

「はいストップ」

 

 俺の身を案じすぎるなと、そう言って自重を促そうとした俺の言葉は中途でアスナによって遮られてしまう。

 

「キリト君の心遣いはありがたく貰っておくけど、わたしだって生半可な覚悟で今日を迎えたわけじゃないわ。わたしのレベルは96よ、確かに君には遠く及ばない。けど、わたし達の戦い方は常に最善の追及であり、犠牲者ゼロを達成せしめるものでなければならないはずでしょう? それが君の目指した攻略組の姿だったはずよ。だからこそわたしはキリト君の命を意図的に高く見積もったりはしないし、不当に低く扱ったりもしないわ。そして、我が身可愛さに臆したりもしない。それがわたしの答え――納得した?」

 

 穏やかな声音で、涼やかな笑みを浮かべて、アスナは優しく俺を諌めたのだった。敵わないな、ホント。 

 

「……馬鹿なこと言って悪かった。忘れてくれ」

「ううん、心配してくれたことは嬉しかったよ。でも、わたしは君に守られるだけじゃなく、君を守る側でも在りたい。忘れないでね」

「それは俺も一緒だよ。俺がアスナを守る、アスナが俺を守る。そうやって今日を生き延びよう」

「うん、そうやってこの世界を生き延びようね」

 

 にっこりと笑うアスナの表情からは不安の影は露ほども見出せなかった。彼女の平常心に俺の存在が一役買っているのなら光栄だ、と何とはなしに思う。今日の戦いは激戦を極めるだろう。それでも些かも俺の闘志が萎えることはない、これならばクォーターボスを前に萎縮することなく最大限の力を揮えるだろうと確信が持てた。

 それからしばらくはアスナと取りとめのない会話を繰り返し、時折アスナにポットからお茶のお代わりを注いでもらいながら、ゆっくりと近づき迫る決戦までの時間を、二人で心穏やかに過ごしたのだった。

 

 

 

 

 

 『九月二十二日午後一時、第75層主街区《コリニア》の転移ゲート前に集合せよ』。

 それが第75層フロアボス討伐戦に参加するプレイヤー達に最終通達された作戦日時だった。その通達に従い、俺とアスナが連れ立って広場に到着した時には、既に大半のプレイヤーが集まって各々雑談を交わしていた。

 攻略参加予定人数に倍する数が集まっているのは見送りのプレイヤーが混ざっているせいだろう。そして広場全体がどことなく暗鬱な空気に支配されていたのも仕方のないことだった。それだけの絶望的な戦いが控えているのだから、空元気にだって限度がある。

 

 皆、胸中の不安を隠しきれていないせいか強張った顔で緊張を漂わせていた。それでも俺とアスナに目礼をしてくる者はいたし、少しでも余裕を示そうというのかギルド式の敬礼までしてくれたプレイヤーもいる。彼らがそうした理由まで想像するのは無粋ってもんだろうな。

 男は誰だって女の前では見栄を張りたくなるものだ。見目麗しい女性の筆頭であるアスナの前で無様を晒したくないのは、俺のみならず攻略組の総意でもあるはずだ、多分。

 

 軍の全滅から然して日を置かずの作戦決行となったのは、時を置けば置くほどに状況が悪くなると判断されたからだ。かつてない強敵であることは間違いないため、じっくりとレベル上げと装備の充実を繰り返してからクォーターポイントに挑むべきだ、という意見も当然ながら出た。しかしそれをしてしまえば日を追う毎にクォーターボスへの恐怖が膨れ上がり、戦意が消失してしまう恐れがあったことは否めない。

 今回のフロアボスが控える部屋は突入と同時に退路を遮断される仕組みになっているため、偵察隊を送り込むことは不可能だった。ならば俺達攻略組の取れる手段は可能な限りの大戦力を揃え、一か八かの作戦に賭けるしかない。徒に時間を置いてしまえばそのための頭数すら確保できなくなる可能性がある。性急とも取れる判断の裏にはそうした引くに引けぬ切実な理由があった。

 

 実際にボス部屋突入最大人数たる48人に欠ける現実を見れば、そうした懸念が的外れとも言えないだろう。そして今回の討伐参加メンバー38人という数字が、一ヵ月後ならば増すという保証はどこにもなかった。むしろ減る可能性のほうが大きい。フロアボス討伐隊と言えば聞こえは良いが、身も蓋もない言い方をしてしまえば決死隊である。そんなものに参加したいと望むプレイヤーが多いはずもない。

 フロアボスは原則としてボス部屋の外に出てこない。だからこそ、今までは倒しきれないようならば《逃げる》という選択肢も比較的選びやすかった。

 同じ転移結晶が使えない戦いでも、撤退を常に選択肢に残しておけた74層とは根本的に違うのが今回のフロアボス戦だ。勝って生き残るか負けて死ぬかの二択しか選べず、撤退の二文字は何処にもない。まして史上最悪のボスが相手となれば、戦うことに臆したとて一体誰が責められるものか。それを思えばこんな無茶な作戦に38人ものメンバーが集まったことこそ驚くべきことだったのかもしれない。

 

 参加を決めたプレイヤーが胸に抱くものは何だろう。

 数多のプレイヤーの中で最強の(きざはし)に足をかける攻略組としての自負、今日まで最前線から退くことなく戦い抜いてきた矜持、アインクラッドに住まうプレイヤー解放を為すという使命感、隣に立つ戦友を死なせまいとする育んだ絆、死した仲間への哀悼と受け継いだ遺志、あるいは俺の思いも及ばぬ何か。プレイヤーそれぞれが胸に期する、決死の中にあって手放せぬもの。命を懸けるに値する何かのために戦う。そういうことだ。

 自分のためでもいい。他人のためでもいい。どんな理由があろうと、この場に集ったプレイヤーの志を疑うつもりはなかった。……それでも、もしも俺の中で消せない懸念があるとすれば、それは――。

 

「よう、遅かったじゃねえかキリト。アスナさんと同伴出勤とは羨ましいぜ、独り身の俺に対する嫌味かこら」

 

 俺の抱いていた一抹の不安を蹴飛ばすかのような明るい口調で語りかけてきたのは、ご存知戦国被れのカタナ使いことクラインだった。赤髪に無精ひげ、趣味の悪いバンダナに和風の鎧装備といつも通りの風貌でにやついている男に、何かしら言い返してやらねばと考えたところで、そんな俺の機先を制するようにクラインは俺の頭に手を置いてぐしゃぐしゃと弄くり回したのだった。

 だから無駄に兄貴風吹かせようとすんな。つーか俺を子供扱いするなっての、この山賊面め。そう楽しげにされると文句も言いづらいじゃないか。

 

「そのへんで勘弁しといてやれクライン。そいつは根がガキだから加減を間違えるとヘソを曲げるぞ」

「おいエギル、助け船を出すフリをして俺をディスるのはやめろ。ええい、クラインもいい加減にしやがれ!」

 

 したり顔で口を挟んできたのは両手斧使いのエギルだった。はちきれんばかりの筋肉を金属鎧で無理やり押さえつけ、背に身の丈に迫る巨大な獲物を背負った巨漢の男は相変わらず迫力がすごかった。俺もその図体と男らしさが欲しい。

 

「クラインさん、エギルさんも、今日はよろしくお願いします」

 

 俺達のやりとりを黙って見物していたアスナが頃合かと一声かければ、それだけで良い歳した大人二人が途端に顔を緩めて各々快諾を返すのだから、美人って得だよなあとしみじみ思う。まあ、アスナの性格の良さって部分も大なんだろうけど。

 エギルなんてアスナに限らずサチやリズに対しても、反応が親戚の娘にお年玉をあげるノリだしな。娘か孫かってくらいにデレデレになる。案外現実世界では子煩悩な男なのかもしれない。

 

「今更お前らに参加の是非を問いたりはしないけど、頼むから死んだりしてくれるなよ。俺はお前らの葬式に出る予定はないぞ」

「へん、結婚式を挙げる前におっ()ンでたまるかってんだ。次に俺が入るのは人生の墓場って決めてんだよ、断じて葬式の棺桶なんかじゃねえや」

「ほう。それでクライン、相手の候補はいるのか?」

 

 間髪入れずそんな疑問を差し挟んだ俺の肩に、ぽん、と手が置かれる。その大きな手の持ち主である両手斧使いに目をやれば、エギルはやるせなさそうに首を左右に振ってから目頭を押さえ、持ち前の渋い声でゆっくりと告げた。

 

「キリト、人間思いやりってやつが大事なんだ。クラインのことは暖かく見守ってやれ。いいな、それ以上は触れてやるんじゃない」

「うん、そうだな、俺が間違ってたよエギル。人間言って良いことと悪いことがあるんだった。肝に命じとく」

「わかってもらえて何よりだ」

「ちょっ、待てよ!? なんで俺がそんな可哀想な奴を見るような目を向けられてるんだ! おいキリト! エギル!」

 

 うんうんと頷く俺達に慌てて割って入るクラインから、阿吽の呼吸で俺とエギルはそっと視線を逸らした。そんな俺達に追いすがるようにクラインが情けない声を出して嘆く。声のみならずその顔も悲嘆に暮れていたが。あ、それと男が涙目になっても可愛くないぞ。

 クラインの慌て様に我慢する気もない忍び笑いが漏れる。悪いなクライン、ここはお前が道化になってくれ。広場を支配するお通夜ムードはちと俺の心臓に悪いんだ。はっちゃけるのは無理でももう少しリラックスしてくれないと、空気が重すぎて敵わない。

 

 そんな俺とエギルとついでにクラインの意図を汲み取ったアスナが楽しげに声を震わせ、次いで俺達の笑いが広場に木霊した。ちょっとオーバーだったかな、と思うものの、こういうことは大袈裟なほうが効果も大きいものだ。普段からひょうきんなキャラで通してるクラインのおどけぶりも手伝ったのか、俺たちの和やかな空気が伝染するように広場に集ったプレイヤーの顔から強張りが抜けていく。ようやくこの場に満ちていた緊張もいくらかほぐれてくれたらしい。

 あーよかった、こんな状況が続いたら俺の胃に穴が開くわ。アインクラッドに胃潰瘍なんて状態異常はないけど。

 

 俺達の展開した寸劇の効果を確かめようとさりげなく視線を巡らせていると、すぐに青髪の騎士が目に映った。ディアベルが率いる《青の大海》からはギルド長である奴だけの参戦だが、その実力は疑うべくもない。今日まで何度もフロアボス戦を共にしているだけにお互いの実力はよく見知っている。その落ち着きぶりと合わせて頼りになる男だった。

 ディアベルは先の寸劇の目論見にも気づいているのか、俺と目が合うと器用にウインクを返してきたのだった。そういう気障な仕草が様になってるのはイケメン効果に違いないなと苦笑を返し、さらに視線を移していく。

 

 《聖竜連合》の一団の中にはシュミットの大柄な姿も見える。彼らは輪を作って何やら真剣に話し込んでいた。フロアボス戦に向けた最終ミーティングでも交わしているのだろうか、静かな戦意の昂ぶりが感じ取れる。彼らの様子に流石の歴戦振りだと感心して視線を外そうとしたところで、シュミットが後ろ手に握りこぶしから親指を立てていることに気づく。心遣いサンキューな。

 ぐるっと広場を一瞥して、各々の顔に浮かんだ緊張の度合いを確かめ、これなら心配することもないかと視線を戻した。広場にざわめきが起きたのはそんな時だ。

 

 時刻は午後一時ジャスト。出待ちでもしてたのかと疑ってしまうほど時間ぴったりに転移ゲートから現れたのは、最強ギルドの名を冠して欠片の不足もない精鋭集団、ギルド《血盟騎士団》の面々だった。先頭には真紅の鎧に白のマントを靡かせ、巨大な十字盾を携えて威風堂々と歩み寄ってくるヒースクリフの姿があった。攻略組六百余名、その頂点に立つ男の威圧感はすさまじい。ただ歩いているだけだというのにひしひしと俺を圧して止まなかった。

 そしてヒースクリフに続くように精鋭五名が歩を進めていた。その誰もが不遜なまでに堂々とした佇まいをしており、最強騎士団の誉れに相応しい雰囲気を醸し出している。気になることと言えば、その集団の中に俺と因縁浅からぬ仲のクラディールが混じっていることだ。

 俺と決闘をした時に見せていた醜態からも回復したのか、他のメンバーと遜色ない精悍な空気を纏っていた。あれから幾らかの時間も経っているし、ギルド内での処罰も下されたそうだから、クラディールとてあの時のままではいられなかったのだろうと一人納得する。

 

 あたかも無人の荒野を行くが如くヒースクリフは足を進める。数多のプレイヤーから向けられる畏怖と尊敬の眼差しにも表情一つ動かすことなく、泰然自若そのものの落ち着きを以ってヒースクリフは俺とアスナの前まで歩み寄った。クラインとエギルが気圧されたように一歩下がる中、俺は無言で彼らを眺めやり、アスナは澄ました顔で敬礼を交わしていた。

 立場の差を思えば不遜とも取れる俺の態度にも、ヒースクリフは軽く頷くだけで特に反応は示さなかった。後ろに控えていた幾人かがわずかに顔を顰めたものの、反応と言えばそれだけだ。まあ俺の礼儀知らず程度、今に始まったことでもない。

 

「皆、よく集まってくれた。今日の戦いがどれほどの危険に満ちているのか、その苦難を理解していないプレイヤーはいないだろう。それでも諸君はこの場に集い、剣を執る決意を示した。その志の前に今更語ることなど何一つとてない。我々の奮闘にこそアインクラッドの未来がかかっているのだ。ならば今は戦おう――解放の日のために!」

 

 ヒースクリフの力強い叫びがあがり、胸に秘めた闘志を強烈に揺さぶる迷いなき檄に、多くのプレイヤーが(とき)の声で応えた。

 《カリスマ》――人の心を惹きつけて止まない強烈な個性。

 いつかアルゴがヒースクリフを指して評した言葉であり、今日のアインクラッドでは常識とすら化した《聖騎士》の伝説の一端である。全プレイヤーの頂点に立つアインクラッド一の剣士たるに相応しい立ち居振る舞いだった。その揺ぎ無く立つ巨木のような存在感に、一体どれだけのプレイヤーが魅せられ、憧れ、敬意を抱いてきたことか。

 

 この男がアインクラッドに囚われ、俺達の導き手として立った。その事実こそが俺達プレイヤーにとって最大の幸運だったのかもしれない。この男がいなかったら、と考えると背筋が震え上がる。その剣技、その指導力、およそ並び立つ者はいない。

 強いてヒースクリフに文句を言う部分があるとしたら、普段の攻略もアスナにまかせっきりにせず、もう少し積極的になってもらえたら、というくらいか。それとて特定のプレイヤーに依存しきる体制を厭うたとなれば文句を言えるようなものじゃなかった。

 

 とはいえ、好きか嫌いかの二択で言えば、迷いなく嫌いを選ぶのが俺なのだけど。こればっかりは変わっていなかったりする。今更ヒースクリフへの好悪の感情が戦場に悪影響を及ぼすこともないから構わないだろう。あの男にとっても俺の隔意なんて先刻承知のことだろうし。

 熱気に包まれた広場の昂揚に俺の戦意も自然高まっていく。そんな時、ヒースクリフの後ろに控えていた一団の中から二人の男が進み出てきたのだった。一人は毛むくじゃらの偉丈夫で名をゴドフリー、歴戦の斧使いである。そしてもう一人も当然見知った顔だった。

 緊張に表情を強張らせ、硬い雰囲気を漂わせたクラディールがゴドフリーに続く。二人は俺の前で足を止め、まずはゴドフリーが厳しい眼差しのまま口を開いた。

 

「フロアボス対策会議後にも一度話したが、改めて筋は通しておくべきだと思い、団長にも時間を貰ったのでな。……君とクラディールの諍いは承知している。君の赤心をくれとまでは言わん、それでもクラディールに雪辱の機会を与えることを許してやってほしい」

 

 そう言ってゴドフリーは深く頭を下げた。

 アスナから聞いていた通り、ゴドフリーが俺に向けるのは決して好意的な視線ではない。しかし嫌悪に染まっているわけでもなかった。こいつは仲間思いな男なのだろう、部下のために本心から頭を下げることができるのだから大したものだと思う。

 ゴドフリーが口にした通り、数日前の対策会議の後にも一度頭を下げられていた。その時にクラディールの不明を晴らすチャンスをくれとも要請されている。曰く《命の借りは命で返させる》と。ゴドフリーにしてみれば完全決着モードを使ったクラディールは俺に殺されても仕方ないことをしている、ということらしかった。

 仮にあの決闘で俺がやりすぎても正当防衛の範囲だ、といらんお墨付きまで貰っていたりもするのだけど、そんなこと言われても反応に困るだけだぞ。その時に言葉を選ばない男だなと戦々恐々したことを思い出す俺だった。

 

 ゴドフリーはどうも直情的というか、単純明快な論理を好む男らしかった。監督役としてクラディールの指導を請負い、以前の馬鹿げた行いの精算をしてこいと促したらしい。そのために今回の決死隊に参加させるというのは行き過ぎじゃないか、と俺のほうが内心で冷や汗を流したくらいだ。

 いや、戦力が増えるのは単純に嬉しいんだよ。決闘を通して得た感触としてはクラディールの実力も相当だと感じたし、変な油断さえしなければ一線級の実力を誇るプレイヤーだろうと思う。攻略組全体の中でもかなり上に食い込める力はあるんだ、今日参加するメンバーと遜色ない動きも出来るはずだった。だからこそゴドフリーのみならず、ヒースクリフだってクラディールのボス討伐メンバー入りを認めたのだろうし。

 

 どのみち、クラディールもゴドフリーに説得されたかして納得済みでここにいるのだろうから、参加の是非を俺がどうこう言うものでもない。ただでさえ戦力は足りてないのだし、戦う力を持ち、戦う意思を持つプレイヤーをどうして無碍に出来ようか。

 そんなことを考えていると、ゴドフリーに倣うようにクラディールまで俺への詫びのつもりなのか頭を下げてきた。参ったな、どうにも居心地が悪い。こういうのは正直勘弁してほしいと困り果てながら、そうした胸の内を極力表情に出さないよう注意して口を開く。

 

「決闘の件に関してはおたくの団長さんにも謝罪は貰ってるし、遺恨なしってことで決着もついてる。気にしないでくれ」

 

 ほんともういいって。別にクラディールのことなんてどうでもいい……じゃなくて、あの件を蒸し返されても正直そんなこともあったっけと思う程度に過ぎない。それに俺だってあの時は随分大人げないことしてるんだからお互い様でしかない、貸しがあるとも思っちゃいなかった。

 ……諦めるしかないか。血盟騎士団所属の団員、特に幹部ともなればクラディールの決闘騒ぎは気にせずにはいられない案件だったはずだものな。クラディールとの決闘以降、血盟騎士団の団員が時折俺へと向けたよそよそしい態度も、今日の戦いでクラディールが名誉回復を済ませるまでだと我慢しよう。

 ただ、それでも俺が今日の戦いに消せない懸念を抱えていたとすれば――。

 

「それよりクラディールのフォローをしっかりしてやってくれ。レベルの心配はないんだろうけど、フロアボス戦に慣れてない、それもクォーターボス戦の経験がないプレイヤーなんだ、思わぬ不覚を取ることだってあるだろう。頼むぞ、ゴドフリー前衛隊長殿」

「任せておけ。我がギルドからは誰一人死者は出さん」

 

 豪快に笑って胸を叩き、力強く首肯を返す血盟騎士団の幹部に俺も頷きを返す。フロアボス戦の経験に乏しいクラディールだけに、クォーターボスをいきなり相手にするとなると些か不安を抱かざるをえない。

 俺がクラディールを気にかけるのは当たり前だった。どんな強大な敵が相手だろうと死者ゼロで切り抜ける目標が変わることはないし、最初から犠牲者ありきの精神で戦いに臨むことなんてありえないのだから。万難を排してボスを撃破するため、互いの弱点をカバーし合うのはフロアボスに挑む俺達攻略組に求められる最低限の心得だ。

 

「クラディール、幸い黒の剣士殿はお前の振る舞いも水に流してくれるようだ。バツが悪いのはわかるが、そうだんまりを続けなくてもよかろう」

「……先日は大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日の討伐戦で必ずや我が恥を雪ぐ所存ですので、どうかお気遣いなきよう願います」

 

 わかった、と言葉少なに頷いておく。俺がゴドフリーに告げた心配事も、クラディールにしてみれば面白くない忠告か。いらん一言を自重せず口に出してしまうのが俺の悪癖だし、十分に気をつけないといけないな。

 ゴドフリーはともかく、クラディールの目には俺に対する変わらぬ敵意が見え隠れしていた。

 まあそんなものだろうと思う。あれだけぶつかり合っておいていきなり友好的になるほうが不自然だし気持ち悪い。決闘の勝者はクラディールだったとはいえ、その後奴がどうなったのかを思えばとても勝者の気分ではいられなかったはずである。奴が多少の鬱屈を抱えるのも無理はない。

 ただまあ、クラディールにどれだけ嫌われていようが、勝利のためなら協力できるだけの見識――最低限の関係性さえ望めるのであれば俺は満足である。いちいち気にする程のことでもなかった。

 

「さて、話はまとまったようだな。それでは出発するとしよう。これから回廊を開く、遅れずついてきてくれたまえ」

 

 ヒースクリフが取り出した濃紺色の結晶アイテム――回廊結晶が「コリドー・オープン」の掛け声と共に消滅し、おそらくはフロアボスの部屋直前につながる転移ゲートが開かれた。一拍の静寂を挟み、特に振り返ることもなく無言でヒースクリフは青い光の中へと姿を消していく。アスナを除く血盟騎士団の面々も続いた。

 恐れを微塵も見せない彼らの後姿に触発されたのか、血盟騎士団を追うように回廊へと消えていくプレイヤーの背筋は真っ直ぐに伸びていて、その足取りも確かなものだった。それはもしかしたら見送りにきた多数のプレイヤーに不安を抱かせないための配慮でもあったのかもしれない。

 俺とアスナ、それにクラインとエギルもお互いに一度顔を合わせて頷いた後、激励の声援が飛び交う中をゆっくりと進んでいく。いよいよクォーターポイント攻略の大詰めだった。

 

 

 

 

 

 数日前に俺が発見した黒曜石の大扉は、その威容を見せ付けるかのように不気味なプレッシャーを放っていた。扉そのものは単なるオブジェクトだというのに、見ているだけで薄気味悪い気分に陥るのは、その先にいるであろう危険すぎるモンスターが原因だろう。頬を撫でる空気すら生暖かい妖気を孕んでいるようにすら思えた。

 

「皆、準備はできているな。今回の討伐戦はボスの情報が一切不明だ。その姿、種族分類、攻撃パターン、何一つ判明していない。まずは私を中心に壁戦士を前衛に配置し、守勢を展開して序盤を凌ぐ。現時点ではそれくらいしか言いようがない。事前情報に乏しいため、プレイヤー個々人の裁量に任せる範囲も広くなるだろう。皆、適宜ボスの攻撃パターンを分析し、臨機応変に対応してほしい」

 

 大扉の前で最後の確認とばかりにヒースクリフが口にした言葉に各々が硬い面持ちで頷く。臨機応変と言えば聞こえは良いが、つまるところ《行き当たりばったり作戦》である。ボスの情報がない以上は定石の戦術しか取れないのだから、殊更付け加えるようなことはなかった。

 俺達が無事に勝利できるかどうかは戦闘の中でどれだけ早くボスの特色や動作パターンを見切ることが出来るか、全てはそこにかかっている。俺やアスナのような攻勢を得意とするプレイヤーが、逸早く有効な反撃に取り掛かれなければ、被害は拡大するばかりだろう。

 25層、50層のクォーターポイントを思えばボスの耐久力もずば抜けて高いはずだし、短期決戦は難しい。それでも出来うる限り短時間でボスを撃破できなければ、戦死者の数がいや増すばかりになってしまう。俺の二刀流をどれだけ有効活用できるか。責任は重大だ。

 

 そしてついにヒースクリフが大扉の中央に手をかけ、ゆっくりと開門させていく。重い響きを俺達の耳に残し、視界の先にはとてつもなく広いドーム状の部屋が広がっていた。見た限りフロアボスの姿はない。やはり部屋の外からではその姿を確認することはできないらしい。

 周囲では次々とプレイヤーが抜刀していき、着々と戦闘態勢を整えていく。俺も彼らに倣って愛剣を引き抜いた。

 

「――戦闘、開始!」

 

 十字盾から長剣を引き抜く甲高い金属音を響かせ、高々と掲げた刃を煌かせてヒースクリフが戦いの始まりを宣言した。我に続けとばかりにそのまま部屋の中央へと走り出していく。負けじと駆け出すプレイヤーの波に抗うことなく俺も続いた。当初の予定通り先頭集団からわずかに距離を空けて。攻撃部隊に位置する俺が壁戦士部隊より前へ出ても混乱を招くだけだ。

 部屋は半球状の作りをしていた。湾曲した漆黒の壁が頭上高くに伸びていき、上空高くで閉じている。俺達が部屋の中央付近に辿り着き、陣形を整えた頃にようやく轟音が空気を震わせた。背後にちらと視線をやれば大扉が閉ざされている。これも予定通り。

 できれば内部からも開かないのか確認に赴きたいところだったが、既に俺達はフロアボスの支配する領域へと足を踏み入れている。確認するにせよ全員で動く必要があるだろう、この場から俺一人離れることは出来ない。それにここまで踏み込んでもボスの姿が未だに見えないのだ、迂闊な動きは命取りになりかねなかった。……どこだ。どこから来る?

 

 数秒の静寂ですら極度の緊張を俺達に強いる。視界いっぱいに広がる広大な空間のどこにもボスの姿はなく、出現の予兆も見せない。予想外だ、扉が閉まると同時に大型モンスター出現エフェクトが始まるのかと思っていたのだが、一向にその気配はなかった。プレイヤー間の空気が張り詰め、重苦しい沈黙が破られることもない。何事も起こらないまま時間だけが過ぎ去っていく。

 無言のまま緊張の糸が刻一刻と張り詰め、心臓の鼓動を常のものに抑えようと呼吸を正しいリズムで繰り返す。過ぎた緊張は加速度的に疲労を高め、集中力を奪っていく。長丁場を予期せざるをえないクォーターボス戦だ、今から張り詰めきっていては最後まで身が持たない。

 

「――上よ! 全員注意して!」

 

 ぴんと張り詰めた空気の中、真っ先に声をあげたのはアスナだった。彼女の焦りを孕んだ叫びが発せられた途端、一斉にプレイヤー全員の視線が上空へと向かう。ドームの天頂部、暗闇の中で蠢く巨大な白色の何かがそこにはいた。あれは百足(むかで)か? 白骨で構成された百足に似た何か。そんな悪趣味なデザインの大型モンスターが天井に張り付いて俺達を見下ろしていた。

 詳細を見通してやろうと目を凝らす暇はなかった。俺達に発見されるのを待っていたかのように、絶妙なタイミングでそいつは落下を開始したからだ。まずい、上空高くからの強襲のせいで正確な距離感と反撃のタイミングがまるで測れない。完全に機先を制された形だ。

 

「散開しろ! ボスから距離を取れ!」

 

 俺やアスナが地を蹴るのと同時にヒースクリフの指示が飛んだ。この期に及んでもヒースクリフの声に焦慮の色はない。本当に頼りになるプレイヤーだと、そんな風に俺が感心していられたのも長い時間ではなかった。

 ヒースクリフの指示にわずかに反応が遅れたのが三人いる。まず盾持ちの重装甲プレイヤーが二人。そしてもう一人、やや離れた位置にて両手剣を握る長身の男――クラディール。迫り来るボスの異形に一瞬の怯みがあったのか、それともフロアボス戦での慣れない強襲に咄嗟の判断に空隙が生じたのか、三人の退避は間に合わなかった。そして退避の間に合った俺達にしても陣形が乱れたことに変わりはない、組織的な救援や反撃を行う余裕はない。

 孤立した三人の傍近くで巨大な百足が恐ろしい地響きを立てて着地した。地震でも起きたかのように地面が盛大に揺れ動く。そのせいでさらに三人の退避が遅れる――のみならず、眼前に姿を現した異様な巨体に恐慌を来たしたのか、盾持ちの二人が一旦距離を置いて俺達へと合流を急ごうと踵を返そうとしてしまった。残るクラディールは激震に足を取られたのか、二人とは逆にその場に膝をついてしまっている。

 

 ――馬鹿野郎、そんな至近でボスに背を向けるなッ!

 

 彼らの取ろうとする行動を目にして急速に血の気が引いていくのを自覚する。どうして、と声にならない悲鳴が胸中に渦巻いた。

 くそっ、攻略組の誇る精鋭が、こうも容易く判断を誤るのか……!

 張り詰めた空気、上空高くからの強襲、逃げ遅れた焦燥、クォーターボスの威容が示す重圧、何より偵察で判明していたフロアボスの脅威的な戦闘力を意識しすぎたのだろう、完全に浮き足立ってしまった。だが、逃げるにしたって逃げ方というものがある。この場面で必要なのは踏み止まってボスの一撃を防御し、それから退避するか救援を待つことだ。闇雲に逃げの一手を打つのは悪手でしかない。

 そして、彼らに告げるべき俺の言葉が声になることはなかった。その前に巨大百足が獲物を見定めたように右腕――長大な鎌を模した骨を振り上げ、猛烈な勢いで振り下ろしたからだ。……駄目だ、間に合わない。

 

 目を背けたくなる光景が展開された。二人が背後から同時に切り飛ばされ、突進にも似た勢いで俺達に向かって吹き飛んでくる。その最中HPバーが急激にその値を減少させていき、ゲージは注意域どころか危険域ですら止まることはなく――無慈悲に二人のHPバーを吹き飛ばした。ライフがゼロ、すなわち《死》だ。俺達に衝突する前に二人は四散し、結晶の欠片となって虚空に散っていく。

 最初に俺の目に焼きついた彼らの顔は、何が起こったのかわからない、これで本当に終わりなのか、という懐疑に満ちたものだった。この世界の死が本当の死につながるのかどうかが証明されていないがために、ゲームオーバーが現実の目覚めになるのだというわずかな、小さすぎる可能性に縋った表情だった。そして最後には俺が何度も目にしてきた、《死にたくない》と訴える悲壮さに変わったことまでを確認し――声もなく二人のプレイヤーが散っていった。

 

「一撃で、戦死だとぉ……!?」

 

 恐怖に戦慄くクラインの声を置き去りに、全力で地を蹴って前へと飛び出した。

 クラインのつぶやきはこの場の全員が抱く絶望そのものだったはずである。今死んだのは75階層時点で十分安全マージンを取っている、攻略組でも指折りのレベルを誇るプレイヤーだ。その上、頑丈さに定評のある盾持ちの重装甲型のため、本来ならば前衛としてボスの攻撃を幾度も防げるだけのポテンシャルを秘めた戦士だったはず。

 それをこうも容易く蹴散らし、HPを削りきってしまうのは理不尽と称して何の不足もない。……仮に彼らが踏み止まって防御を固めていたとしても、無事に凌ぎきれるものではなかったのかもしれない。

 

 ボスから距離を取るために跳び退っていたせいで一瞬の空白が出来てしまった事実に歯噛みする。いくらレベルが上がり、敏捷値を高めたところで慣性までは無効化できない。そのもどかしさに胸を焦がしながら、どうにか間に合えと内心で吼え、さらに加速しようと地を蹴り砕く勢いで蹴り足に力を込め、前傾姿勢を取った。

 既にボスは二撃目のモーションに入っている。その狙いは孤立していた最後の一人であるクラディールだ。

 

 クラディールはようやく体勢を整え、手にした両手剣で百足が放つ左の鎌を受け止める構えを見せていた。本来ならば悪くない判断だろう、しかし先の光景がある以上嫌な予感が止まらない。あの骸骨百足を相手にそれだけでは足りないのだと、脳裏で警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

 いくら無防備に攻撃を受けたとは言え、防御力に秀でた壁戦士が二人まとめて一撃死だ。真っ当な定石が通じる相手とは到底思えない。クラディールには悪いが、あいつの力じゃあの大鎌を防ぎきるのは至難だ。いや、俺でも捌けるかどうかはわからない、それこそヒースクリフでもなければ――。

 そこで思考を無理やり遮断し、切り替えた。弱気になるな、安易にあの男を頼る心こそ克服すべきものだ。それに戦闘はまだ始まったばかり、こんなところで怯んでいてどうする。

 

「やらせるかッ!」

 

 気合の叫びと共にクラディールの前へと飛び出し、振り下ろされる大鎌を迎え撃った。繰り出される俺の二刀十字。俺がもっぱら得意とする弾き防御(パリング)の形ではあるが――止まらない。空恐ろしい重量感が両腕を通して俺の身体にのしかかり、火花を散らして俺の防御を飲み込もうと迫る。

 冗談じゃない……!

 俺のレベルですらパリイを成立させられない恐るべき事実に戦慄を覚えずにはいられなかった。《史上最悪のフロアボス》。その評価に嘘偽りない凶悪さだ。

 凌ぎきれないならダメージを最小限に抑えようと早々に方針を転換する。交差させた剣を押し切られて大ダメージを負う前に、半身をひねるようにステップを加え、剣の刃に滑らせるように鎌の軌道をコントロールする。残念ながら完全回避できるほど大幅にずらすことは出来ないため、覚悟していた通り左腕に一撃を受けることでどうにか直撃を防いだ。

 

 その一撃ですら三割を超え、四割に迫るライフを持っていかれた。

 こいつの鎌の性能は異常だと改めて認識する。中途半端な当たり判定だったというのにこの威力。とは言え俺が生き残ったことから問答無用の即死判定のような、どうにもならない効果までは付与されていないようだが……。クリーンヒットを受けた場合までの保証はないか。そもそも特殊効果抜きでも恐るべき破壊力を秘めていることに違いなかった。

 そして奴の鎌は二本ある、一本凌いだところで安心するにはまだ早かった。間髪入れずに振り上げられた追撃の構えにぞくりと背筋に寒気が走る。

 

「下がれクラディール!」

 

 焦りを多分に含んだ俺の声に「恩に着る」と短い言葉が返され、地を蹴る音がした。背後の気配が遠ざかっていく。そして俺はクラディールの無事を喜ぶ間もなく、視界をかすめる鎌に対応しようと腰を落として剣を構えた。

 俺の握る二刀からソードスキルの燐光が放たれ始め、短い呼気を吐き出しながら迫り来る骨鎌へと気合一閃打ち込む。重い衝撃がずしりと俺の腕に伝わるものの、幸いパリイと違って押し切られることはなかった。互角か、幾分押し返せるくらいの感触だ。

 これならば奴の攻撃を防ぐことはどうにか出来そうだと、ほっと内心で息をつく。――ただし、それは鎌が一本だけならばの話だ。再度振り上げられた巨大な鎌に、自身の表情が凍りつくのを自覚した。ソードスキルの技後硬直時間を考えると迎撃は不可能だ。

 

 この戦場、俺一人で支え続けるのはどうあっても無理だと結論付ける。こいつの鎌を封じ込めるにはあの男の力が要る。攻略組最強――《神聖剣》を操る《聖騎士》の助力が。

 そんな俺の内心に応えるかのように真紅の弾丸が疾駆し、俺に襲い掛かろうとしていた攻撃をその巨大な十字盾を駆使して跳ね返した。俺が対応に苦慮した一撃をこうも容易く捌くのだから堪らない。攻略組の頂点に立つ《聖騎士》の無敵っぷりは健在だ。相変わらず頼りになりすぎるぜ、ヒースクリフ。

 

 そして《聖騎士》が駆けつけたならば次に続くのは《閃光》の役目だ。ヒースクリフが作り出した隙を見逃すことなく、その身を一陣の風と化して飛び込んだアスナは、既に剣を引き絞って攻撃の姿勢に入っていた。

 リズ謹製の細剣《ランベントライト》が燐光を散らし、目にも止まらぬ速さで連続した突きが放たれる。その全てをヒットさせ、最後の一撃が骸骨の頭部を狙い違わず撃ち抜くと、白骨の巨体を後方へと弾き飛ばした。轟音が大広間に響き渡る。

 流石だ、アスナの細剣を操る精密さは尋常じゃない。今回のボスは分類としては細剣の苦手とする骸骨系モンスターだろうに、苦もなく全弾命中判定を成功させ、クリティカルダメージを与えていた。

 

「助かった。サンキュー、アスナ、ヒースクリフ」

 

 礼を述べながら早々にポーションを口に含み、すぐさま二刀を握り直す。この手の作業も慣れたもんだ。

 

「どういたしまして」

「礼には及ばんよ。それでどうするかね?」

 

 策はあるかとヒースクリフに水を向けられるものの、殊更迷うようなことでもなかった。ヒースクリフだって今までの攻防で取れる手段が限られていることくらい理解しているだろう。それでも確認してきたのは俺を慮ったせいか?

 ふん、らしくない気遣いだなヒースクリフ。俺としてはあんたに命令されたって文句はないぞ。

 

「俺とあんたの二人でボスの大鎌を封殺する。あの攻撃を抑えないことには反撃もままならない」

 

 あの大鎌こそが軍の精鋭十二名を瞬殺した元凶だろう。不意打ちにやられたとは言え、俺達だって早々に二名の犠牲者を出している。あんなものを自由に振り回されたら攻撃特化仕様(ダメージディーラー)を集めた攻撃部隊(アタッカー)なんて瞬く間に全滅してしまう。

 ボスを撃破するためにはまずあの二本の鎌を封じる必要があった。そしてその役目に最も相応しいのはヒースクリフであることに疑問の余地はない。奴の持つ《神聖剣》スキルと戦闘センスがあれば十分に対抗できるはずだった。それで鎌の一本は何とかなるだろう。問題はもう一本の鎌だ。

 

 短時間で軍を全滅させた事実、金属鎧で固めた重装甲プレイヤーですら一撃でHPをゼロにする凶悪さ、直撃を回避したかすり判定ですら俺のHPをごっそり持っていった恐るべき攻撃力。それらを踏まえると、あれはシュミットなりの壁戦士達が持つ高い防御力があって尚どうにもならない代物だった。

 いくら決死隊染みた集まりに参加したメンバーとはいえ、生存率が絶望的な立場に追いやるわけにはいかない。それに継続的に防御を可能にできるプレイヤーを充てなければ結局元の木阿弥になる。この場合単騎で対抗できるヒースクリフがおかしいのであって、壁戦士部隊を責めるのは酷だった。本当に、壁戦士全員に神聖剣が欲しいと埒もない思いが過ぎる。

 

 通常のボス戦での定石は防御を固めた盾持ちプレイヤーを並べて凌ぐことだ。その間に攻撃部隊がボスのHPを削り取っていく。しかし今はその定石が通じない。そして真っ当な手段で対抗できないのなら、リスクを承知で別の手段を取るしかなかった。

 すなわち、先程俺が行った回避方法の焼き回しだ。ソードスキルをぶつけることで敵の攻撃を相殺する力技、その技術こそが今は必要となる。そして攻撃をぶつけ合うことで回避となす攻勢防御術は俺の得意分野だった。

 

 ただし技後硬直時間(スキルディレイ)が不可避のために弾き防御(パリング)と違って反撃につなげることはできず、攻勢特化した俺の火力――攻略組最大のダメージソースも封じられてしまう。戦闘時間が長引くというリスクは避けられない。

 それでもやらねばならなかった。ボスの堅さを思えば俺も攻撃に専従したいのが正直な気持ちではあるが、そうも言っていられないのが現状なのだから。

 

「ふむ、キリト君の火力は惜しいが、それしかないか。ではアスナ君、全体の指揮は君が執ってくれたまえ」

「承りました。団長もお気をつけて」

「アスナ、俺からも一つ。この戦いの鍵を握るのは重量武器を操るエギルやゴドフリー、それにクリティカルに補正のつく高レベルカタナ使いのクラインだ。奴らを上手く使って効果的に反撃してくれ」

「わかってる、キリト君も無茶しすぎないようにね」

 

 アスナの激励に応えるように笑みが零れ落ちる。無茶をしなきゃならない場面なのは承知していても、心配もしているのだと俺に告げるアスナがいじらしかった。どんな時だって美人に気遣ってもらえるのは嬉しいし、気合も入るというものだ。

 あとはシュミット達壁戦士の部隊をどれだけ上手くローテーションさせられるかだな。攻撃部隊のガードをこなしながら自身の身も守ってもらわなければならない。どちらにせよ勝敗の趨勢はアスナの指揮能力に委ねるしかないし、アスナなら十分にこなすだろう。攻略組の面子にもヒースクリフに次いで頼られる指揮官だ、その能力を疑う者はいない。

 

「作戦の変更を通達する!」

 

 声を張り上げ、口早に作戦変更を告げるヒースクリフを横目に、俺は迫る衝突に備えて集中力を高めようと呼気を整えていく。片時たりともボスを視界から外さず睨みつけた。俺の目が向く先には、アスナに吹き飛ばされた痛痒など欠片も見せない骸骨百足の姿がある。

 自然とボスの全貌を暴こうと観察にも力が入った。まずはその巨体か、十メートルにも及ぶ威容を備えている。全体としては百足を思わせる輪郭をしていても、その身体を構成する骨は鋭利で気味悪いとしか言えない作りをしていた。二対四つの釣りあがった眼窩には青い炎が灯り、大きく突き出した顎には凶悪な牙も並んでいるし、その頭蓋は人の頭を模した物とは大きく形を違え、禍々しさを発していた。

 

 乳白色をした鋭い骨の節々が虫の動きを思わせる蠢きを見せる。生理的な嫌悪感を催すそれに知らず顔を顰めてしまった。

 視界に映るカーソルが奴の名を告げる――《ザ・スカルリーパー》。凶悪無比な戦闘能力を誇る、第75層のフロアボスだ。そして俺達が打倒すべき規格外モンスター、ラストクォーターポイントの番人。間違いなくこの世界で出会ったモンスターの中で最強を誇る強敵だった。

 布陣は俺とヒースクリフが正面からスカルリーパーと対峙、大鎌を抑える。攻撃部隊は側面に回りこんで波状攻撃を仕掛け、壁戦士部隊は攻撃部隊の援護だ。アスナを最上位指揮官に据え、戦局の変化に対応する細かい指示は都度彼女が出す。

 

 と、その時、スカルリーパーが大鎌を見せ付けるように攻勢の構えを見せながら動き出した。戦闘再開だ。

 真っ先に飛び出した俺とヒースクリフに反応するように、スカルリーパーがわずかに方向転換して迫り来る。奴の振り上げた硬質な骨の大鎌が強烈なプレッシャーを放ち、俺の視界を恐怖と緊張で否応なく占めようとしていた。

 怯みそうになる心を叱咤し、空気を鳴動させる轟音の元凶へと飛び込む。俺へと向けられた攻撃は、腹立たしいことに一度振り上げた鎌の軌道を変更し、横薙ぎに切り替えるフェイントつきだった。脳みそなんざこれっぽっちもない骸骨百足のくせに小賢しい真似をしてくれる……!

 青の光芒を引いて空を薙ぎ、振り下ろす俺のソードスキルがぎりぎり間に合い、横薙ぎの一撃を衝撃と共に受け止めた。どうにか相殺に成功したことに内心ほっと息をつくが――冗談だろう? こんな綱渡りをあと何十回、何百回成功させればいいんだ? 高揚したスリルを楽しむったって限度というものがある。俺はそこまで命知らずの戦闘狂じゃないんだ、勘弁してくれ。

 

 一瞬視界に映ったヒースクリフは、苦労なんて欠片も見せない余裕の面持ちで骨鎌の一撃を防いでいた。相性問題があるにしても奴の余裕は羨ましくなるな。二本ともあいつに任せれば良かったかと弱気の虫が出てくるのをどうにかこうにかこらえ、現実を噛み締めるように両手のそれぞれが剣を強く握り締めた。

 いくらあの男でも二本諸共に捌くのは無理だろう。神聖剣の真価は盾あってのものだ、同時に二本の鎌を縦横無尽に振り回されては受けきれない。なればこそ、ヒースクリフとは別にあと一人鎌を抑える役回りが必要だった。 

 貧乏くじってレベルじゃないなあ……。

 決死隊の中にあって、ミスれば即お陀仏の筋金入りの決死を誘う戦場に立つ。どうにも肝が冷えると寒気が増した。

 

 しかし愚痴を言ったところでやることが変わるわけでもない。そしてこのボスがゲームクリアのための最後の戦いというわけでもないのだから、こんなところで屍を晒すわけにもいかなかった。

 ここは所詮通過点なのだと、なけなしの強がりを抱いて戦場に立つ。

 続けて二撃目、三撃目の攻撃を相殺している間に、他のメンバーも一斉に戦闘を開始していた。各々の武器に燐光を纏わせ、全力の一撃をスカルリーパーへと叩き込んでいく。何人かが代わる代わるソードスキルを命中させたわけだが、それでもダメージは微々たるものだった。アスナが一撃を加えた時点で予測していたことだが、このボスは防御力もとんでもないものを持っていた。やはり長期戦は避けられない。……ほんと、俺の命が紙風船に思えてきた。

 

 骨鎌は死の具現そのものだ。何度も迫り来る死の影をどうにかこうにか回避しながら、バクバクとうるさい心臓を宥める間もなく苦難は続く。広間に響き渡った悲鳴は当然俺達プレイヤーのものだった。百足の尾の先――棘々しい槍状の骨にまとめて幾人かがなぎ倒されている光景が見えた。

 しかし俺はその場面を目にして、逆に心臓の鼓動を落ち着かせ、焦る心を宥めようと努めた。ここまできたら腹をくくるだけだ。俺に救援にかけつける余裕なんてないのだから、自分の仕事に集中し続けることこそ肝要だと言い聞かす。どうあがいても仲間の元に俺の手は届かない。だったら割り切る。割り切って彼らの力を信じた上で、俺の最善を尽くすだけだ。

 俺が倒れれば凶悪に過ぎる武器がフリーハンドを得てしまう。戦場の混乱は今の比ではなくなり、敗北必至の地獄へと転落してしまうだろう。そんなことを誰がさせるか……!

 

 気合の叫びをあげながら、俺の剣が切り上げの軌道を描いて再び骨鎌と激突する。そして訪れる技後硬直。それはもうどうしようもない、システム上のペナルティ時間を避ける手段はないのだから。

 それでも最善を尽くそうと足掻く。一瞬たりとも無為な時間を過ごせるはずもないと視界に映る情報を貪欲に求めていく。技後硬直中も硬直回復以後も視点の一点を鎌に集中させながら、同時に戦況全体を見通す視野を確保し続けた。観の目を研ぎ澄ます。

 ボスの全体像を見通した上で次の攻撃を読め。奴の動きを把握し、予測しろ。数十、数百のパターンが織り成す法則を読み取り、攻撃に転じるわずかな隙を見つけ出すために足掻け。目を凝らせ、心を細く、鋭利に尖らせるんだ。

 気合の声は何も俺だけが上げているものじゃない。この場の誰もが雄雄しく吼えながら、ソードスキルを発動させてフロアボスへと突貫していく。幾筋もの光の帯が断続的に空間を薙いでいき、骨で出来た百足の巨体に剣閃を叩き込んでいった。

 

「おらぁッ!」

 

 クラインのカタナが一際強い光芒を煌かせ、渾身の一撃を加える。いや、あれは単発技ではなかったか。旋風のように身を躍らせながら、《カタナ》スキル特有の遠心力を利した連撃技を放っていく。クラインの刃とスカルリーパーの骨の身体の間で何度も火花が散った。

 

「代われ、クライン!」

 

 カタナ使いの長い技後硬直時間のカバーに入ったのは両手斧使いのエギルだった。巨体に似合わず俊敏な体捌きで大きく飛び上がり、大上段に構えた戦斧はオレンジ色の光を放つ。そのまま全体重を加えながら鋭く重い一撃を打ち下ろした。全体からすれば微々たるものなのだろうが、それでもフロアボスのHPゲージを削る手応えはあったはずだ。

 ゴドフリーの斧が叩き込まれる。クラディールの両手剣が突きこまれる。ディアベルが適宜スイッチに入って技巧をこらした片手剣を振るう。それだけ多くのプレイヤーが力の限り戦いを続けているというのに、ボスのHPは一向に減った気がしないのだから腹が立つ。スカルリーパーは攻撃力が高すぎるだけでなく、その身に秘める防御力の数値も尋常なものではなかった。つまり長期戦は必至であり、集中力の維持が不可避の事態となって各々のプレイヤーに立ちはだかる。

 

 再びスカルリーパーの槍状の尾が振り回され、前衛に残っていたプレイヤーを弾き飛ばす。攻撃部隊を守っていた盾持ちの壁戦士が主な被害者だった。盾を構えても防ぎきれない猛威を目にして思わず舌打ちした瞬間、俺の身体を真っ二つに切り裂こうと振り下ろされた骨鎌が迫る。その一撃を俺は下から切り上げるソードスキルを放つことでどうにか回避を間に合わせた。俺も皆もギリギリの攻防が続く。精神力がゴリゴリと削られる戦場だった。

 この緊張の糸が切れたプレイヤーから死んでいく。ふとそんな縁起でもない、しかし確信にも似た想像が浮かび、忍び寄る最悪の想像を一度頭を振ることで追い出そうと努めた。鎌首をもたげる嫌な予感を、強い意思を抱くことで打ち消していく。

 

「シュミットさん、前衛の交代を! タイミングはわたしが飛び込んだ直後でお願いします! 壁戦士(タンク)部隊は攻撃部隊のガードを継続、特にカタナ使いをフォロー! 焦らずローテーションを行ってください!」

 

 アスナの指示が飛び、陣形が適宜変化していく。浮き足立った面々もボスのHPがわずかずつでも削れる様を見て恐慌から脱したのか、既に落ち着きを取り戻していた。

 ここまでやってようやくクォーターボスを相手にまともな勝負の形へと持ち込めた。まだまだここからが正念場だ。

 頼むぞアスナ、俺の集中力が切れて事故る前にどうにか百足野郎のHPを削りきってくれよ。

 少しでも心に余裕を取り戻そうと内心で舌を出して力を抜いた。一瞬の脱力。しかしそんな猶予を長く確保できるはずもなく、鋭く呼気を吐き出しながら繰り出した俺の剣とスカルリーパーの鎌が再び激突する。三本の硬質な刃が衝突する衝撃が両手にびりびりと痺れとなって響く。

 その攻撃の重さに挫けそうになる弱気を丹田に力を込めることですぐに追い出す。必要なのは緊張感を持続させ、最高のパフォーマンスを発揮し続ける適度な恐怖だ。過ぎた臆病はいらない。そして出来ないことを求めて焦る無駄もいらなかった。

 

 最善を尽くす。最良の未来を引き寄せる。持てる力の全てをこの戦場に注ぎ込むことだけに腐心しろ。

 

 一瞬たりとも気の抜けない死の舞踏を繰り返しながら、これ以上誰も死んでくれるなよ、と祈ることを止めることができなかった。それがどれだけ儚い願いかを知りながら、それでも俺は仲間の無事を祈ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 無我夢中だった。

 クォーターボスの暴虐の前に幾度もプレイヤーが結晶に変じて四散する光景を目にして、そのたび心に鎧を纏うことで剣を振るい続ける。スカルリーパーの骨鎌の動きに最大限の注意を向け、先読みに努めてその都度ソードスキルをぶつける決死の作業を繰り返した。そうやって少しでも仲間の安全を確保し、俺自身の命を確保したのである。

 これほどに死を実感した戦いはない。ギリギリの緊張感に寒さなのか熱さなのかもわからぬ憂慮で身を焦すも、ただただ集中力を高めていくしかなかった。

 そんな死闘の最中、やがて俺は今までにない奇妙な感覚を覚えていく。

 スカルリーパーの必殺の鎌に俺の剣をぶつけることだけに意識を注いでいた。初めの内は叫びと共に気合を迸らせ、力の限り剣を振り回して鎌を防いでいたのだが、それが十合、二十合と続き、五十を越えた辺りから周囲の音が小さくなっていることに気づく。

 

 時折あがる悲鳴や戦友の死に嘆く憤激の叫びも遠くなっていき、ますます集中力は高まっていった。そして余分な力は削ぎ落とされ、脱力した身体が静と動の切り替えを的確に選択し、さらに無駄をなくしていく。不思議なことに、死を目の前にして場違いなほど俺はリラックスしていた。恐れも恐怖も忘却の彼方へと置き去りにし、大鎌の一撃を受けることすら苦に感じない。

 そして心身に満ちる万能感が増すと共に、俺の動きも時々刻々と洗練されていく。これもまた不思議なことなのだが、その時の俺はそうした状態を疑問に思うことすらなく、自然とそういうものなのだと受け止めていた。俺とスカルリーパーの攻防が百合を越えてなお対峙していた頃のことだ。

 

 百合を超えて二百合へ。

 スカルリーパーの鎌に剣を合わせることは容易かった。俺を取り巻く全ての景色が、時を追う毎に緩やかな流れに変わっていく。およそ目に映る全てがスロー再生となり、俺自身の動きすら緩慢なものへと変化していた。それは水中で動こうとする感覚にも似ている。空気をかきわけるようにゆっくりと身体を操ることに不思議な心地を抱く。勿論それは感覚上のことであって、他人から見れば俺はいつも以上に速く動いていたのだと思うが。

 

 そこから先は数えることも忘れ、最終的に幾百の攻撃を弾き返したのかは知らない。

 しかしあれほど死を予感させたスカルリーパーの一撃に危機感を煽られることも次第になくなっていった。この時の俺は周囲全ての動きを掌握できていたのだからそれも当然か。

 俺の剣撃はますます冴え渡る。静寂の世界で水をかくように身体を操り、二本の剣で骨鎌を封殺した。全てが自動的で、恐れるものは何もない。今の俺ならばスカルリーパー必殺の攻撃を、何百合でも何千合でも捌き続けられるだろうと確信していたのだった。

 事実、俺は一つのミスをすることもなくスカルリーパーの攻撃を無効化し続けたのである。上段からの打ち下ろし、袈裟懸けの一撃、中段からの薙ぎ払い、下段からの猛烈な切り上げ。ありとあらゆる鎌の軌道に正面からぶつけ合う二刀の剣戟が止むことはなかった。

 

 決着は俺の仕掛けた《武器破壊》が成功した直後だった。

 気の遠くなる程繰り返された剣と鎌の攻防が、俺に奴の鎌を叩き折るタイミングをついに解明させたのだった。俺の企図した《武器破壊》本来の用い方――モンスターを相手に部位欠損を引き起こす技術の本領発揮である。そうしてスカルリーパー最大の武器である骨鎌を真の意味で無力化したのだった。その事実を確認した瞬間、素早く視線を巡らせ、頷き、腹を決める。攻略組随一の火力を持つ俺が攻勢に転じる絶好の機会だ。

 そこからは一瞬だった。必殺の意思を抱いて俺はソードスキルの予備動作を取り、太陽コロナのごとく全方向から剣撃を浴びせかける絢爛(けんらん)の太刀を放ったのである。

 二刀流最上位剣技《ジ・イクリプス》。

 現在判明しているソードスキル全種の中で最大最高の破壊力を持つと同時に、二十七連撃という最高連撃性能を誇る、疾風怒濤の高速斬撃技だった。

 

 喉から叫びが轟き、スカルリーパーを構成する全ての骨を切り砕けと青白く輝く刃が宙を薙いでいく。

 終幕を飾れとばかりに放った俺の渾身そのものの太刀が暴れ狂う。暴風を纏い、限界の速度を超えてなお加速し続ける俺の剣は、確実にスカルリーパーのゲージを削り落としていった。一の太刀よりも二の太刀は速く、二の太刀よりも三の太刀が速い。システムアシストを超えて加速し続ける俺の剣は、桐ヶ谷和人という人間の神経が認識できる限界の速さに達していた。

 巨大百足を倒しきれると確信して放った俺のソードスキル。しかしスカルリーパーもさすがはラストクォーターボスと言うべきか、あと一撃で終わると実感しながら放った俺の二十七撃目、左の刺突攻撃がスカルリーパーの頭蓋へと届くことはなかった。俺の剣は部位欠損から回復した大鎌に弾かれ、最後の一撃が不発に終わる結果となったのである。

 ジ・イクリプスは最長射程、最大威力を併せ持ち、二刀流スキルが誇る最大火力をぶつける技だった。その代償として、技後硬直時間も比例して長く設定されている。初期剣技ならともかく最上位剣技の技後硬直時間は致命的だ。そしてそのペナルティ時間を打ち消す術はない。

 

 復元が早すぎる……!

 いくらなんでもこの部位欠損からの高速再生はゲームバランス無視ってレベルじゃないぞ、規格外すぎる。明らかにボスの強さ設定が狂ってるだろこれ、頭おかしいんじゃねえの茅場の奴、と内心悪態を吐くものの、そんなの今更な感想だった。あの男を狂人と呼ばずして何と評すのやら。

 骨鎌を完全に回復させ、元に戻った威容を見せ付けながら、技後硬直に動きを止める俺へと大鎌――最悪の一撃が繰り出される。それを貰えば俺の命は間違いなく消えていたことだろう。

 認める。ああ、認めよう。お前は確かに史上最悪の敵だったよ。俺がソロで挑んでいたらまず間違いなく殺されていただろうさ。だがな、今の俺は一人じゃないんだぜ? 攻略組の仲間が、今日まで共に戦ってきた戦友がいる。そして俺の命を守ると言ってくれた、頼りになりすぎるパートナーがいるんだ。

 

 ふわりと軽やかにアスナが俺の隣へと降り立つ。こんな時だというのに、あるいはこんな時だからこそ、俺は彼女に見惚れていた。それはあたかも白く眩い天の使いのようで――美しくも残酷な戦乙女(ワルキューレ)

 アスナの手にする細剣が光を発する。そして放たれるは刃の雨、彼女の二つ名を表すが如き閃光の身のこなしから繰り出される瞬速の突きだ。何人もの攻略組プレイヤーの命を奪っていった巨大な骨鎌が俺に到達する寸前、アスナの突進剣技がその猛威を振るう。

 細剣最上位剣技《フラッシング・ペネトレイター》。

 ソニックブームを彷彿させる衝撃音が木霊し、アスナの剣が彗星の顕現となってフロアボスを貫く。そして、それが《ザ・スカルリーパー》へと止めをさす最後の一撃となった。断末魔の声もなく膨大なポリゴン片を撒き散らして、程なくフロアボスが撃破されたことを知らせる祝福メッセージが機械的に出現する。

 

 しかし俺はそんなものこれっぽっちも目に入らなかった。

 フロアボス撃破に伴う青白い粒子の乱舞が幻想的な一時を演出する最中、俺の目を惹きつけて止まなかったのは、艶やかな栗色の髪をなびかせ、凛々しい(かんばせ)を見せて涼やかに佇む一人の少女だ。ただただ美しい一枚絵に見蕩れることしばし、やがて俺だけに聞こえる小さな囁きを耳にする。

 

「アイコンタクトって案外簡単に出来るものなんだね」

 

 ありがとうと、心から言わせてほしかった。

 

「馬鹿言え。俺はアスナ相手じゃなければ成功させる自信ないし、そもそも試す気にすらなれないぞ」

「安心していいよ。わたしもキリト君相手じゃないと正確に読み取る自信ないから」

 

 そんなどこか気の抜けた軽口を交わし、お互いの無事を喜び合った。

 何とか生き残った……。万感の思いを抱いて溜息にも似た吐息が漏れる。どっと押し寄せてくる疲労が我が身に鉛の重さを付与していた。それは俺に限ったことでもないのだろう、皆が重い疲労を抱えているのは自明だったし、緊張の糸が切れたのか誰ともなく床にへたりこんでいく。いや、倒れこんでいく、としたほうが正解かもしれない。

 喜びよりも疲弊に喘ぐ死屍累々の光景を見るとはなしに、俺もアスナもどちらからともなく肩を寄せ合い、ずるずると座りこんでしまう。お互い限界だったのだから当然だ。

 

 こうして、《閃光》の剣によって長きに渡った死闘に幕が引かれ、ついに第75層を守る番人、ラストクォーターボスが数多の犠牲を礎に撃破されたのだった。

 

 




 食材アイテム《米》のくだりは独自設定です。
 75層フロアボス《ザ・スカルリーパー》の鎌による一撃死は、クリーンヒット時のみ発動する即死効果として扱っています。

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