ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第11話 誓約の二刀流 (3)

 

 

 眼が覚めて最初に考えた事と言えば、未だ睡魔に身を委ねたまま腕の中で眠る女の子に、どうやって許しを請おうかということだった。とはいえ、いつまでもそんな不埒な体勢でいるわけにもいかず、彼女を起こさないようそっと身体を起こす。硬い岩盤を枕に朝を迎えたにも関わらず、目覚めがこの上なく爽快だったのは、間違いなく昨夜の抱き枕の品質が最上級だったせいだろう。

 これはもう土下座をして誠心誠意寛容を願うしかないんじゃないかとぐるぐる悩みながらも、早々に朝餉の準備を進めてしまう。昨夜と同じく簡単なスープを作るくらいしか出来ないが、それでもないよりはマシだった。

 ランタンに乗せたポットをぼんやりと見つめることしばし、背後でリズの起き上がる物音を合図におもむろにスローイング・ダガーを取り出し、特に狙いを定めることなく岩壁目掛けて打ち出した。リズには突拍子もないことをする変なやつとでも思われたかもしれない。俺の放ったダガーは岩壁に突き刺さると赤いライトエフェクトを撒き散らし、時を置かずして耐久値限界を迎え、消滅した。いっそ呆気ないほどである。

 

「おはよ、キリト。あんた朝っぱらから何してるわけ?」

「おはようリズ。ちょっとした実験というか確認だな。起きたならこっち来いよ、そろそろスープも出来るから」

 

 それからしばらくはどこかぎこちない空気の中で過ごす俺とリズだったが、頃合を見計らって俺から口を開いた。

 

「リズ、昨日のことだけど――」

「ストーップ! それ以上はなし。あの時はあたしも頭の中ぐちゃぐちゃで、今もちょっと混乱してるの。だからあたしの気持ちの整理がつくまでは何も言わないで。お願い!」

 

 まずは昨夜のことを謝る。そう決めて話を切り出そうとしたのだが、当のリズが頑固拒否の姿勢だった。頬も薄らと赤みがかっているし、これ以上ない早口でまくしたてられてしまった。リズの羞恥の原因は昨夜の感情むき出しの振る舞いだろうか、それとも俺の胸の中で眠りに落ちてしまったことだろうか。少しだけ追及してみたいという悪戯心がむくむくと湧き上がってきたが、自制に努めて黙殺した。

 

「で、もう一回聞くけどさ、あんた何してたのよ? 投剣スキルの確認でもしてたわけ?」

 

 スープが並々と注がれたカップを受け取ったリズが首を傾げながら尋ねてくる。まあリズからしてみれば不思議以外の何者でもないか。起きて早々に目にしたのが俺がスローイング・ダガーを投擲してる光景だもんな。首を傾げたくなる気持ちもわかる。

 

「そのことなんだけどさ、この落とし穴、ちょっとおかしいとはおもわないか?」

 

 俺の問いは少しばかり唐突だったか? リズは俺の反問に目をぱちくりとした後、もう一度俺の言葉を吟味するかのように眉間に皺を寄せて考え込んだ。それから自信なさ気に口を開く。

 

「うーん、おかしいって言われてもね。トラップとしちゃそこまで突飛なものじゃないと思うし、転落死の可能性があったことを考えると危険度の高さが迷宮区クラスのものってくらいかなぁ。結晶無効化空間で脱出不可能って点を加えると相当悪どい仕掛けだとは思うけどさ」

「俺もそう思ってた――昨日までは」

「持って回った言い方しないでよ。それでキリトは何が気になってるって言うの?」

 

 正解に辿り着けなかったことが悔しかったのか、それとも俺の遠まわしな答え方がお気に召さなかったのか、リズは唇を尖らせて不満も露わに俺の顔を見つめてきた。明瞭闊達を好むリズらしい言い草だ。

 攻略組において俺より年が幾つも上だと思われる連中との腹の探りあいとか、交渉の主導権を握るために種々折々の駆け引きをしなければならなかった日々を思い出して、ひたすら癒されるリズとの軽妙な会話の応酬に自然と頬が緩んでしまう。出会った当初からリズと馬が合うと感じていたのは、きっとそんな攻略組とは関係ない場所で羽を伸ばせたせいなのだろう。アルゴとはまた違った感じで遠慮のいらない距離感が心地良かった。

 

「その答えはもうリズ自身が見てるはずだぜ?」

「だからそういう思わせぶりなことは……」

 

 台詞の途中でリズがハッと何かに気づいたように言葉を切った。どうやら気づいたらしい。

 俺はもう一度懐からスローイング・ダガーを取り出し、投剣スキルを起動させた。岩壁に向かって投擲された短剣は先程と変わらず赤いライトエフェクトを散らして消滅する。その一連の光景をじっと見守っていたリズが真剣な眼差しで口を開いた。

 

「キリトの言いたいことがわかったわ。アインクラッドでは建造物とか木々、岩肌とかは基本的に破壊不可能オブジェクトに指定されてる。特殊なクエストとかでもなければその原則は崩れない。なのに今あたしたちを囲っている岩壁は何故かその法則が適用されていない。剣が弾かれずに耐久値が減少すること自体、普通じゃありえない現象よ」

「そういうこと。俺も昨日は随分焦っていたらしい、リズから預かった剣が消滅した時点で気づいて然るべきだった」

 

 間抜けな話だ。ここがゲーム世界だと忘れて現実の法則ばかりに囚われ目が曇っていた。なにより冷静さを失っていたことが一番の原因だろう。物理的にも精神的にも閉塞した状況が心身を圧迫し、視野を著しく狭めていた。一晩の休息を経てようやく頭が回るようになったわけだ。

 

「でも変ね、そうなるとあたしたちが落ちてくるときの足場の氷、あれもなんだかいかにもゲーム的な作為を感じるわ。トラップにしては設置場所の脈絡がなさ過ぎるというか……不自然な気がするもの」

「加えて、結晶無効化空間に捕らえておきながらモンスターの出現しない穴底。転落死の危険性があったとは言え、脱出不可能にした割にはその後に何も起こらないのは解せない。片手落ちというか、わざわざ閉じ込めた意味がないんだ。この世界じゃ餓死もないしな。本気で脱出不可能な罠で精神的な拷問を企図したというのも考えられなくはないんだが……これまでの茅場のやりようを踏まえるとやっぱり不自然なんだよな。この場でモンスターが立て続けに出現するとかのほうがまだ《らしい》演出だ」

「ちょっと、怖いこと言わないでよね」

 

 咎めるようなリズに悪いと一言謝っておく。流石に精神的拷問とかは縁起でもないよな。俺だって可能性は低いとは思っちゃいるが、もし本当に一生ここに閉じ込められることになったらと考えると震えが走る。ソロでなかったことを感謝するべきかもしれない。仮にこんな状況に一人放り出されていたら気が狂ってしまいそうだ。リズに改めて感謝しないと。

 

「キリトはさ」

「ん?」

「もしも、もしもの話よ? あたしたち二人ともここから脱出できないってなったら、キリトはどうする?」

 

 今しがた口にした俺の不吉な状況分析がリズを弱気にさせてしまったのだろうか。その言葉で考えないようにしていた可能性を生々しく想像してしまったのかもしれない。やっぱり俺の対人スキルは成長なんてしてないな、気遣いレベルが足りなすぎる。

 

「んー、毎日寝て暮らす? 果報は寝て待てって言うしさ」

「なによそれ、あっさり答えすぎじゃない?」

 

 もちろん本気で言っているわけじゃない。

 キリトというプレイヤーの価値――飛びぬけた戦闘能力を自覚している俺がそんな安穏とした選択肢を選んで良いはずがなかった。何の因果かヒースクリフと並び称されるほどに俺の名は知れ渡ってしまった。あの男と合わせて攻略組の双璧などと呼ばれるのは心底遠慮したいところなのだが、強さという点に限って俺は攻略組の支柱の一本になってしまっていたのだ。そこから無責任に離脱することなど許されるはずがない。第100層、すなわちグランドボスに辿り着くにはまだまだ長い道程が必要なのだ。こんなところでリタイアなど出来るはずがなかった。

 リズの弱気を少しでも晴らせればと軽口を叩いてはみたものの、俺に冗談のセンスは皆無だからな。どうしたもんか。

 

「味気ない答えはお気に召さないか。それなら折角リズがいてくれるんだし、俺が寝るときは膝枕でもしてくれるとかどうだ?」

 

 ……って、何を口走ってるんだ俺。アホだな。

 リズが寝る時は俺が腕枕でもしてやるよ、と悪ノリ極まりない言葉が続けて飛び出す寸前、どうにかこうにかこらえることに成功した。

 いやいや、これは成功って言っちゃまずいだろう? 膝枕発言だけでも十二分にセクハラだ。しまったな、いつもの癖でついつい軽口を叩いてしまっていた。アルゴにならともかく、昨日が初対面の女の子に向けて良い台詞じゃない。まして昨夜を思い起こさせるような話題の時点でアウトだ。ああ、俺の気遣いのなさがマイナス方面に突き抜けていく。

 案の定というか、リズは実に初心な反応を返してくれた。頬に朱が差して言葉もない様子だ。すまん、今のは全面的に俺が悪かった。

 

「悪い、忘れてくれ。配慮が足りなかった」

「……別にいーんだけどさ、あんた、誰彼構わずその手の台詞をばらまいてるわけ?」

 

 そのうち刺されても知らないわよ、といかにも棒読みなリズの忠告だった、目は半眼であきれ返ってますと全身で主張している。返す返すも申し訳ない。……この場合、リズの隠し切れない頬の紅潮に関しては触れないでおいたほうがいいよな。リズの強がりを指摘したところで状況が好転するとは思えないし。

 

「それはない。俺がまともに会話してる異性なんて片手で足りるしな。攻略組のソロプレイヤーって肩書きは伊達じゃないのさ」

「あのねキリト、それ、誇るところじゃないから」

 

 意味もなく胸を張る俺に今度こそ呆れた表情のリズだった。

 俺も言ってて悲しくなった。ただ俺の場合孤高を気取ってるわけではなく、単に時間とスキルの問題で交友関係が狭いだけだ、ということを強く主張しておきたい。

 昼も夜も関係なく迷宮区に潜り、たまに街に戻れば武具のメンテと消耗品の補充を済ませるや迷宮区にとんぼ返りの日々だ。攻略会議への参加やフロアボス戦前夜の休息の合間にアルゴとの情報交換をしたり、ポーション作成スキルの熟練度上げに勤しむサチの様子を見に行ったりすることを除けば、それこそ俺に戦闘と探索以外の個人的な時間なんてない。

 いつかヒースクリフに諌められて定期的に休息を取るようになったアスナが、事もあろうに俺の心配をして強制的に休暇に連れ出すくらいには殺伐とした生活を送っていた。攻略組でも多忙で知られる血盟騎士団副団長にすら心配されるタイムスケジュールで動いているのだ、そんな生活で交友関係が広がるはずもない。

 ……まぁ、どんな理屈をこねようと俺の対人スキルが錆付いて腐れ落ちようとしていることには変わりないんだけどさ。我ながら無茶な生活サイクルである。二重の意味で誇れることじゃないな。

 こほん、とわざとらしく咳払い。この話題は危険だ。続ければ続けるほど俺が切なくなる。

 

「話を戻そう。俺達のいるこの穴倉は不自然なんだってとこからな。昨日の俺の壁走りは覚えてるだろ? ギャグみたいな人型の穴が出来ること自体おかしいんだ。通常破壊不可能オブジェクトに指定されてる壁や床が中途半端に設定解除されてる」

「そういえばあの間抜けな穴もいつのまにか修復されてるわね。ああ、だからキリトは中途半端って言ったわけか。完全に解除されてるなら修復もされないし、横穴を掘り進むとかの脱出法も考えられるわけだけど」

「短時間で剣の耐久値限界まで削られたことを考えると、仮に壁を壊せるとしても横穴を掘り進むのは無理っぽい気はするけどな。ゲームなら専用のつるはしとか用意するイベントだ」

 

 まぁ、岩壁や雪の残る岩床のシステム保護が部分的に解除されてるだけで、完全に破壊できるわけじゃないから無意味な仮定だけどな。

 

「ゲーム……ゲームね。そういえばこの世界ってゲーム世界だったわね。すっかり忘れてたわ」

「普段は忘れてるほうが精神衛生上良さそうだけど、今日に限ってはここはゲーム世界だってことを強く意識したほうがいいかもな。冷静に考えると俺達の状況はいかにもゲーム的な演出の中にあるわけだ。フラグ条件のわからないクエスト、脈絡のない落とし穴、部分的にシステム保護の切られた破壊不可能オブジェクト、なにより脱出不可能だっていうのに、のんびり夜を明かせるだけの余裕があったこと。一つ一つをばらばらに見ると意味不明だけど、こうして並べてみると結構見えてくるものがあるよな」

 

 気づいてみればなんてことのないイベントだが、それが出来なかったからこそ今までこのクエストは放置されてきた。俺達も危うく無駄足を踏むところだった。こうしてみると俺が白竜との戦闘を長引かせたのも、大人しく隠れていられなかったリズの失敗も結果オーライだったわけだ。

 

「……あたしたちは罠に引っかかったわけじゃない。知らず知らずの内にイベントトリガーを発動させてたってわけか。あの落とし穴は白竜と戦うことが出現条件だったのかしらね?」

「鍛冶屋同行って線はいかにもありそうだけどな。そのうえで白竜を倒す前にこの穴を発見する。そう考えると白竜のドロップが屑アイテムだってことも説明がつくんだよな。あの白竜はあくまでイベントトリガーであって、クエストボスなんかじゃないってことだ」

「意地の悪い仕掛けねぇ。あんないかにもな大型モンスターを配置されたら誰だって倒そうと躍起になるでしょうに」

「このゲームの産みの親が誰かを考えれば納得できるんじゃないか?」

「……納得したわ」

 

 諦観混じりのリズの相槌だった。

 茅場晶彦を心優しく素直な人間だ、などと思う人間はこの世界に誰一人住んでいないだろう。あの男への文句と恨み言はたまりにたまっているのだ。この世界を運営するゲームマスターの悪辣さなど開始初日に全プレイヤーへと知れ渡っている。その度合いが大きくなることはあっても小さくなることだけはない。

 

「今は製作者の底意地の悪さは忘れておこうか。やつのことを考えるとそれこそ精神衛生に良くない」

「確かにそうね。それに、まずはここから脱出しなくちゃ」

「その前に目的のアイテムを回収しないとな。地面が削れるってヒントはそこかしこに散りばめられてたんだ。それにこの穴倉自体、かなり正確な円柱状になってるわけだから、こういう場合クエストアイテムの隠し場所もそれに倣ったものだよな」

 

 具体的には円の中心だ。ゲーム脳を駆使して数々のヒントから当たりをつけた場所に足を運び、適当に雪をかきわけ、地面をわずかながら掘り進めるとすぐに目的のアイテムが顔を出した。流石に茅場もここでお約束を外すような真似はしなかったらしい。

 白銀に輝く長方形の物体。両の掌からわずかにはみだす程度の大きさのそれをそっと右手の指でタップすると、すぐにアイテム名が出現した。《クリスタライト・インゴット》――リズの予測通り、鍛冶に用いる金属素材だった。

 

「なんだかイマイチ有り難味がないわね。素直に白竜のレアドロップじゃいけなかったのかしら」

「知恵を絞れってことかもな。大きなお世話だっていってやりたいくらいだけど」

 

 不満そうというよりどこか気が抜けたようなリズの声だった。顔にも複雑そうな色を覗かせている。昨日この穴底に叩き落されて死に掛けた身としては素直に喜べないのかもしれない。俺達の味わった労力と恐怖に比して、謎解きさえ済めばアイテム入手難易度はむしろ低いだけに、なんとなく釈然としないものがあるのだろう。俺だって似たような思いは抱いているのだからリズの気持ちもわかる。とはいえ、元々が理不尽な世界なのだ、いちいち気にしていたらきりがない。

 

「ひとまず目的達成なんだし喜んでおこうぜ。ほら、受け取れって」

「わわ、いきなり投げないでよ」

 

 苦笑しながら無造作にリズへとインゴットを放り投げる。緩やかな放物線を描いてインゴットは差し出されたリズの両手へと収まった。へぇ、とリズがまじまじと自分の手の中にある銀色に輝く金属インゴットを眺め回す。そんなリズの様子を見やりながら、「それ、竜の排泄物の可能性が高いぞ」と忠告するべきかどうか悩んだ。……知らなきゃいいことなんてこの世にはいくらでもあるよな、黙っておこう。

 クリスタライト・インゴットを竜の排泄物と予想したのは、ここが竜の巣である可能性が高いからだ。

 なんだって竜の寝床なのに入り口が雪と氷で隠されてたんだと突っ込みたくもなるが、それはゲーム的な演出というやつだろう。これ見よがしに穴を掘っておくわけにもいかないし、もしかしたらこの穴倉自体、出現ポイントは固定じゃないのかもしれない。白竜の出現した場所の近く、それに一定の時間が経過すると出現するとか。考えてみると竜の突進で足場が崩れたというのも何か作為的だよな。竜の巣の入り口と白竜との戦闘はやっぱり関連付けて考えるべきフラグっぽいかな。情報屋にはその辺も強調してクエスト情報を流すか。

 

「よし、アイテム収納完了。ところでキリト、あんたやけに落ち着いてるけど脱出方法に心当たりでも――」

 

 その時、リズの声を遮る形で上空から一際甲高い鳴き声が響いた。忘れるはずもない、昨日戦った白竜のものだ。

 

「……ねぇ、キリト。もしかして、ここって竜の巣だったりする?」

 

 遅ればせながらリズもその可能性に気づいたらしい。引きつったような表情をしている。

 

「多分な」

「じゃあさ、麓の村で集めた情報の中に、ドラゴンは夜行性ってやつがあったじゃない。今は朝よね、そうなると――」

「寝床に帰ってくるってのが順当な行動だよな」

「ですよねー」

 

 はははと乾いた笑いを零した後、しばしの沈黙。感情エフェクトでもあるのならリズの後頭部にでも大粒の汗を表現しておきたいところかな。今の状況にはぴったりだ。生憎と俺はこの事態を歓迎してるために笑みを押し隠すのに精一杯なんだけど。ここまでゲーム的演出をしてくれて嬉しいよ。叶うことなら最後までお約束を守ってほしいもんだ。

 

「えっと、戦闘を再開するにはここ、狭すぎると思うんだけど……キリト、大丈夫?」

「問題はないと思うけど、一応俺の後ろに下がってくれるか? それとポーションの用意も」

「わかった」

 

 素直にリズが一歩下がった。俺も念のためにエリュシデータを抜いて不測の事態に備えておく。リズに言った通り戦闘になっても倒すのにそう苦労はしないだろうが、出来ればそんな展開にはなってほしくない。ここまできたら最後までゲームに見合った演出を貫いてくれよ、茅場。

 そんな願いを込めながら頭上を仰ぎ見る。

 白光の差し込む上空から黒い影が悠々と近づいてきた。豆粒のようだった姿は既に昔で、目視できる先には元気に翼をはためかせる巨大なドラゴンの勇姿がある。改めてみると本当に迫力あるな。

 前回の戦闘の最後に見せた急降下のイメージとは程遠い、優雅とすら思える静かな着地を決めた白竜はそのまま身体を沈め、億劫そうに首を傾げた。案外自身の寝床に闖入した無粋な侵入者を煙たがっていたりするのかもしれない。即戦闘に踏み切るわけでもないその様子にほっと息をつく。予想の範疇とはいえ、実際にそうなって心底安堵した。どうやら脱出の見込みもついたようだ。

 

「ねえキリト。これ、どういうこと?」

「どうもこうも、いわゆるお約束ってやつだろ?」

 

 訝るような声のリズを振り返り、一度肩を竦めてから剣を鞘に納めた。リズにも武器を納めるよう示すと、リズは一度白竜のほうに目をやり、それから深く息をついて緊張を解いた。なんとなく展開が読めたのかもしれない。

 

「ここまでゲーム要素の強いイベントに遭遇するのは初めてよ」

「確かに典型的なゲームイベントだよな。これぞRPGって感じだ。これでこの世界が真っ当なVRMMORPGならな……」

「言わないでよ、空しくなるから」

 

 二人して顔を見合わせ、重い溜息をつく。この世界がまともに運営されていれば、と何度思ったことか。ゲームを愛する人種にとってソードアート・オンラインは正に夢を体現したものになるはずだったのだ。それが何をトチ狂ったのか、開発者自らがその夢を叩き潰してくれやがった。返す返すも惜しまれるものだ。

 

「行こうか。このままリズと二人きりで過ごす穴倉生活も悪くないけど、どうせならリズの店でコーヒーを飲みたいかな。ご馳走してくれるんだろ?」

「もう、だからそういう恥ずかしいことを言わないでくれる? 乙女を弄ぶと碌なことにならないんだからね」

 

 寝そべるように身体を横たえた竜の背に跨り、リズへと手を差し伸べながら笑う。リズは相変わらず俺の軽口に初心な反応を見せてくれるため、なんだかとても嬉しくなってしまう。アルゴにはやり込められてばかりだから、その反動なのかもしれない。リズには良い迷惑かもしれないけど。それでもリズとこうして会話を交わすことは楽しい。

 俺にからかわれて唇を尖らせたリズが不承不承手を差し出し、俺はその手を取って一気に引き上げた。と、その時、まるで合図を待っていたかのように白竜がその身を起こし、その突然の動作にリズがバランスを崩しそうになったのを見て慌てて引き寄せた。勢い余ってリズが俺にしなだれかかるような体勢になったのは断じてわざとじゃないぞ? いや、ほんと。頼むから信じてくれ。

 

 そんな俺の弁明が言葉になることはなかった。白竜がその翼を広げて飛び立ったのだ。今までの殊更ゆっくりとした、のろのろとスローな動作はなんだったんだと文句を言いたくなるほどの急上昇を開始したのだった。リズは体勢を立て直す暇もなく俺に縋りつくような形となり、俺も白竜から振り落とされないようにバランスを取るので精一杯だ。流石に二度も紐なしバンジーをさせられたくはない、竜の背を離れまいと必死だった。多分リズも似たようなものだろう。

 性質の悪いことに、穴倉を脱出したら白竜の挙動がさらに激しくなった。もはや完全に俺達を振り落とそうと意図した動きだ。どうやらゲーム的な演出は脱出した時点で終わりということらしかった。だからこういうお約束の外し方はいらないんだって……!

 

「すまんリズ! 跳ぶからしっかり捕まってろよ!」

「え? きゃあっ!」

 

 開発者に文句を言う暇もない。振り落とされてまた穴底に一直線とかなるのは御免なので、リズに一声かけて白竜の背を蹴り、一気に跳躍した。涙目で俺の首に縋り付いてるリズには悪いと思ったが、いちいち了解を取る余裕もなかったのである。

 上空高くに舞い上がった白竜の背から飛び降りただけあって、滞空時間は思いのほか長かった。リズを横抱きに支え、くるくると二人で宙を駆けていく。眼下には朝日に照らされた一面の銀世界が広がっていた。

 氷雪と水晶が明るい陽光を浴びてキラキラと輝く光景は幻想的で、頬を切る風の冷たさも気持ち良い。

 

 リズも少しは落ち着いたのか恐る恐るといった感じで目を開いたが、すぐにその雄大な自然の光景に歓声を挙げた。俺も気分は似たようなものだ。この世界に初めて訪れた時と同じか、それ以上の感動が心に満ちていくのがわかる。それほど眼前に広がる景色はすばらしいものだった。

 つらいことや悲しいことの多いアインクラッドだが、それでも綺麗なものはあるのだと思ってしまうのは罪なことだろうか。死んでいった者への裏切りだろうか。

 それでも今だけはこの景色に見惚れていたかった。

 これが作り物の光景でも、あるいは偽者の世界だからこそ、ただただ圧倒される絶景の中、ちっぽけな俺自身を感じ取っていたかった。

 

 

 

 

 キリトのやつ、少しは元気でたかしらね?

 お互いの共通の友人であるアスナの話題を中心に、和気藹々と盛り上がりながら帰りの道中を過ごした。例えばあたしが露天商をしていた頃にアスナと出会った経緯を話したりとか、ゲーム初心者でこの世界に不慣れだった頃のアスナにキリトが決闘を申し込んだことを苦笑混じりに語ってくれたりとか。

 白竜の巣から無事生還してからどことなく気落ちした様子のキリトが心配だったのだけど、杞憂だったのかもしれない。今はあたしの知る飄々としたキリトに戻っていた。屋台で買い食いを楽しんだりしたことで気が紛れたのかしらね。出来ればあたしの気遣いのおかげで元気が出た、ということにしてくれると乙女的に嬉しかったりするのだけど。

 そんな風に時折横目でキリトを伺いながらの帰り道を辿り、あっと言う間にリズベット武具店に到着してしまった。

 

「いまさらだけど自分の名前がついたお店ってなんだかこそばゆいわね。もうちょっとひねりを加えたほうが良かったかしら?」

「客からするとわかりやすくて良いと思うけどな。宣伝効果も高いんじゃないか?」

「似たようなことをアスナにも言われたことがあるわ。ま、愛着もあるし気に入ってるからいっか。それじゃお店に入りましょう。約束通りコーヒーをご馳走してあげるわ」

 

 そんな他愛ない会話を楽しみながら店の扉を開くと、思いがけない人物の姿がまず目に入り、次いで目にも止まらぬ速さでその人物はあたしに抱きついてきた。栗色の髪がふわりと舞い踊り、柔らかな肢体があたしの身体と触れ合う。

 血盟騎士団副団長《閃光》アスナ。あたしの親友だ。

 

「リズー、心配したんだからね。昨日から連絡取れなくなっちゃってて、誰に聞いても行き先は知らないって言うし。メッセージも駄目、マップ追跡も駄目なんて、ほんと何処いってたのよもう……」

 

 アスナは目尻に涙を溜め、声も湿っていた。よっぽど心配をかけてしまっていたらしい。

 あたしは普段狩りに出るとしても比較的危険の少ないフィールドエリア専門だ。迷宮区には潜らない。だから連絡のつかなくなる事態などまずないため、アスナのこの慌てようも致し方ないことだった。

 最悪の事態も想像したのだろう。真っ青な顔で黒鉄宮にも足を運んだのだと告げるアスナに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

「ごめんアスナ。クエストアイテム取るのに手間取っちゃって。まさか二日掛かりの大仕事になるとは思わなくてさ」

 

 下手したら一生脱出できないとさえ思ったとは言わないほうがいいだろう。これ以上アスナを心配させたってしょうがないし。

 でも、本当予想外だったわよ。まさか結晶無効化空間に閉じ込められるとは思ってもみなかった。フィールド専門だとどうしても罠への警戒が緩くなるから、あれは本気で背筋が寒くなった。できれば二度と味わいたくない感覚だ。

 

「ううん、リズが無事で本当に良かった。でもクエスト? 言ってくれればわたしも手伝ったのに」

「ありがと。でも、一応頼りになる護衛つきだったからさ。あたしはモンスターと戦ったりしてないんだ」

「護衛?」

 

 死にそうな目にはあったけど、戦闘自体は全てキリト任せだった。あたしのしたことって結局何もないのよね。役に立つどころかキリトの足を引っ張っただけだもん。情けなくなるわ。

 

「悪い、リズを連れまわしたのは俺だ」

 

 その時、ひょっこりとあたしの後ろから顔を出したキリトがバツの悪そうな顔でアスナへ告げた。

 気にしなくていいのに。元々同行を申し出たのはあたしなのだし、キリトは何度もあたしを助けてくれた。それも、命を賭けてだ。あたしのほうがよほどキリトに顔向けできない状態だった。

 

「キリト君? 何でここに、ってわたしが紹介したんだっけ。うぅ、情けないところを見られちゃった……」

「親友のために泣けるのは情けなくなんてないだろ。それに俺はアスナの上司でも部下でもないんだから、別に泣き顔を見られたって攻略組の士気にも関わらないしな。だから気にすることもないって」

 

 あー、キリト。それはまずいんじゃない? ほら、アスナもジト目になってるし。

 

「キリト君のそういうところ、ほんっと変わらないよね。前半はともかく、女の子が泣いてるところを見た感想がそれってかなり問題あると思うよ」

「……なあリズ。俺、何か変なこと言ったか?」

「そうねぇ、強いて言えばそこであたしに話を振ることが既にアウトだと思うわ」

 

 あんたはもう少し乙女心を理解しなさいな、と呆れ混じりに告げては見たものの、キリトは目を白黒させて戸惑うばかり。これは改善の余地なしなのかしらね。あたしに対してあれだけ軽口叩けたんだから、キリトにはプレイボーイの資質もありそうなもんだけど。あのねえ、キリト。アスナに言ったことも《黒の剣士》としてなら正しいのかもしれないけどさ、アスナが求めてるのは違うと思うのよ。癪だから教えてあげないけど。

 何ていうかアンバランスなのよね、こいつ。キリトの人となりがイマイチ掴み切れないのも飄々とした性格だけが原因じゃなくて……。なんだろう、儚さ? そういうどこか浮世離れしたところを感じさせられるせいなのかもしれない。ホント、よくわからないやつ。

 

「なんだかリズもリズでいつの間にかキリト君と仲良くなってるし。ねえリズ、この場合、わたしはどっちに嫉妬するべきだと思う?」

「え、何であたしに飛び火してるわけ?」

「だってリズ、キリト君に愛称で呼ばせてるじゃない。気難しいキリト君と一日で仲良くなったリズに嫉妬したっていいと思わない? わたしなんてキリト君とまともにお話できるようになるのに半年近くかかったのよ?」

「いや、アスナさん? その節は大変ご迷惑をお掛けしましたというか、そろそろ許してくださいお願いします」

 

 平伏せんがごとく下手に出たキリトの懇願にもアスナは唇を尖らすばかり。二人とも仲の良いこと、とあたしは呆れ顔で眺めていたのだった。

 つんと澄ましたアスナに謝り倒すキリトがおかしかった。二人とも最前線で戦う攻略組のトッププレイヤーで、《閃光》も《黒の剣士》もこのアインクラッドで知らない人間はいない超のつく有名人だ。なのに、その二人が何処にでもいる子供のようにじゃれ合っている。あたしじゃなくてもそのギャップに笑いたくもなるだろう。アスナなんてこれでもかってくらい女の子してるしね。今のアスナは普段の三割増で魅力的だった。

 さてさて、親友がキリトに取られちゃいそうってことで、ここはあたしもキリトに嫉妬するべきなのかしらね。それともここまでキリトと仲の良いアスナをずるいって思うべきかな。……なんだ、あたしもアスナも一緒か。アスナとキリト、どっちに対しても複雑な気持ちを抱いてるんだ。

 

「それでキリト君、リズに失礼な事とかしてないよね」

「あー、心当たりがありすぎてわからないかも。てか失礼じゃない行動の方が少ないんじゃないか、俺?」

「そこは否定しておこうよ……むしろ開き直っちゃいけないとこだと思う」

 

 この場合、下手に言い訳をしないキリトは男らしいと言うべきなのかちょっと悩む。あたしもキリトもお互い失礼なことをしてるし、ちょっと口にできないような恥ずかしいことだってしちゃってる。……スキンシップ! あれはスキンシップだから!

 キリトは気づいてないだろうけど、あたしは今朝キリトが目を覚ました時には既に起きていた。寝起きに男の子の顔が目に飛び込んできて危うく叫びそうになって、でもすぐに昨夜の自分の振る舞いを思い出して声が漏れ出さないようこらえたりもしたのだ。キリトの寝顔があんまりにも無防備だったってこともあって不思議と落ち着いてしまったのかもしれない。そのまま、なんとなくキリトの寝顔をずっと眺めていた。

 やば、思い出すと勝手に顔が赤面してしまう。顔と言わず耳と言わず全身が熱を伴ってぽかぽかしてるし、心臓が激しく脈打って胸を締め付けていた。

 うー、だからあの時キリトを止めてまで思い出さないようにしてたのに。

 

「リズ? どうしたの?」

「あはは、なんでもない。とりあえず工房の方に移動しましょうか、そこで二人に飲み物でも用意するから」

「その前にいいか、リズ?」

「ん? なに、キリト」

 

 アスナのほかには店内にお客さんもいないし、接客はお手伝いNPCにお任せしてしまおう。紆余曲折あったがクエストも無事達成できたのだし、お祝いとお詫びも兼ねてアスナも交えた三人でブレイクタイムと洒落込みましょうか。そう考えて店先から工房に二人を案内しようとしたのだけど、どういうわけかキリトに呼び止められて出鼻をくじかれてしまった。

 

「コーヒーをご馳走してもらいたいのはやまやまなんだけどさ、ちょっと行かなきゃいけないところを思い出した。悪いんだけど俺はこのまま失礼させてもらうよ」

 

 唐突なキリトからの申し出だった。もしかしてあたしとアスナに気でも遣っているのだろうか?

 

「いきなりねぇ。そりゃ、急ぎの用なら止めないけどさ。注文の剣はどうするのよ? さすがに今すぐ完成なんてさせられないわよ」

 

 キリトの言葉は残念ではあるけど仕方ない。とはいえ、キリトご所望の剣はこれから工房に篭ってハンマーや溶鉱炉を用意した上で鍛冶スキルを起動し、手に入れたインゴットを何百回も叩かないと完成しないのだ。今すぐ渡せるようなものじゃない。

 

「俺もそんな無茶は言わないから安心してくれ。剣はまた後で取りにくる。希望としては三日以内には完成させてほしいとこなんだけど出来るか?」

「三日なんていらないわ。今日中に仕上げてあげる」

 

 キリトの剣なんだから最優先で打ってあげるわよ。幸い抱え込んでる仕事もないし。

 

「けど、お望みの魔剣クラスの剣が出来るとは限らないわよ? そこだけは覚悟しておいてよね」

「そのときはまたインゴットを取りにいくさ。リズも気負ったりしないで気楽にやってくれ」

 

 ひょいっと肩を竦めたキリトは如何にも何でもない調子で告げた。動じないやつねぇ、苦労の度合いはあたしよりもよっぽど上だったはずなのに、そんなことを微塵も感じさせないお気楽振りである。肝が太いのか、それともあたしを慮ってあえて道化を装っているのか。……ずるいじゃない、そんなの。気遣われてばっかりであたしは何もキリトに返せない。

 

「そう言われると余計に気合が入るんだけどね。……ま、いいわ。失敗を前提に話すのは癪だけど、そうなったときはあたしがまた手伝ってあげる。鍛冶屋同伴は必要でしょ?」

「助かる。剣は完成したら連絡をくれ。俺のほうはあんまり時間もかからないと思うから」

「30分貰えれば大至急で仕上げちゃうんだけどね。その程度も待てないの?」

 

 溜息混じりのあたしの言葉だった。別に深く考えて言ったわけじゃない。ただ、もう少しキリトとお喋りをしていたかったから、ほんの少し不満が口から出てしまっただけだ。そんな軽い気持ちで尋ねたから、キリトが続けた言葉に不意をつかれてしまったのだろう。

 

「……すぐに行かないと決意が鈍りそうだからさ。リズには感謝してる、リズに叱られてようやく踏ん切りがついたんだ。――グリムロックのやつに頭を下げてこようと思う」

 

 その瞬間鋭く息を飲み込んだのは、はたしてあたしだったのか、それともアスナだったのか。

 麻痺毒を仕込んだ特殊武器の作成をキリトから請負った鍛冶屋グリムロック。あたしはそいつを知らない。けど、アスナは知ってるみたいね。グリムロックの名を耳にした瞬間の驚きようから、それは一目瞭然だった。そんな露骨な反応を示すほどの因縁が、キリトとグリムロック、そしてアスナの間にはある。多分、あまり楽しい話じゃないんでしょうけど。

 

「……そう、拳骨一発で許してもらえるといいわね」

 

 それだけ口にするのも結構な労力が必要だった。あたしの声はもしかしたら震えていたかもしれない。

 キリトは笑っていた。

 凪いだような、というのだろうか。穏やかで優しげな、透徹した笑みがその顔には浮かんでいたのだった。キリトの儚さの正体はこれ? こんな――胸を締め付けられる切なさに、あたしはどうしようもない息苦しさを覚えて喘ぐ。キリトってこんな顔もする男の子だったんだ……。

 黒の剣士の評判とは似ても似つかない儚さはあたしが見てきた剣士としてのキリトのものじゃない。多分、これが向こうの世界の面影を色濃く映した、等身大のキリトの姿なんだろうって思った。

 

「ソロでフロアボスに挑むとかじゃないんだ。そんなに心配されることじゃないって」

「それ、キリト君が言うと冗談にならないからね?」

「そうか? なら次はもう少し面白い冗談を言えるように頑張ってみようか。それじゃリズ、連絡忘れないでくれよ」

 

 そう言ってキリトは踵を返すと、片手をひらひらと振ってあたしの店を後にした。

 キリトの後姿が見えなくなっても、あたしとアスナはしばらくの間押し黙ったまま静寂を保っていた。けど、落ち込んでるだけなんてあたしのキャラじゃない。やがて気合を入れ直すようにぎゅっと拳を握り、緊張にどことなく身体を強張らせたままアスナと向き合った。

 

「ねえアスナ、あんたにお願いがあるの」

「何かな、リズ?」

 

 じっとアスナの目を見つめながら告げる。

 アスナの表情にも緊張は浮かんでいたものの、それでもあたしから目を逸らすことはなかった。

 

「アスナはキリトとグリムロックの間に何があったのか知ってるんでしょ? あたしはそれを知りたい」

「……リズはそれを聞いてどうするつもり? 軽々しく話せないことだってくらいわかるでしょ」

「そんなの――どうもしやしないわよ」

 

 間髪入れずに返したあたしの言葉はアスナにとって予想外のものだったらしい。いっそ無造作に告げたあたしの返答にアスナは目と口で三つの点を作っていた。そんなアスナの普段は見れない顔に、こんな時だというのにあたしの喉からは軽やかな笑い声が漏れ出していた。アスナが頬を膨らませて抗議してくるのをごめんごめんと宥めて続ける。

 

「あたしたち鍛冶屋の間では根強いオカルト信仰があるのよ。ハンマーを一定のリズムでインゴットに振り下ろせば武器の成功率が上がるとか、武具作成に臨む際の気合が結果を左右するとか、もしくは――使い手を想って祈りを込めれば望む剣を引き当てられる、とか」

 

 もちろんそれらに根拠なんてない。武器の種類と金属のランクに規定された回数インゴットを叩くこと、それが鍛冶スキルの工程に必要な唯一のことであって、専門的な技術はもとより想いの力なんてものが介在する余地はない。数値が全てのゲーム世界なんだからオカルトチックな俗説はあくまで俗説でしかないのだし。大体、ひたすら無心でインゴットを叩くことが成功の秘訣だという意見だってある。皆、好き勝手言ってるだけなのだ。実際に少し前にアスナを想って打った金属からは何度も失敗作が出来上がったのだし、気休め以上の効果なんてない。

 それでもその言葉の一つ一つが鍛冶屋の抱く信念であり、信条であるのだから馬鹿にして良いものじゃない。あたしたち鍛冶屋は先頭を切ってモンスターと戦う前衛職なんかじゃないけれど、だからこそ前線の戦士以上に武器に想いを込めるのだ。その剣が、槍が、斧が、あたしたちの作る武器がこの世界を終わらせる一助になると信じて、そして誰かの命を怪物から守るのだと信じて願いを託す。

 だからこそあたしはアスナに願ったのだ。

 あたしが全身全霊を込めて剣を打つために。そのためにあたしはキリトのことが知りたい。知って、想いを込めて剣を打ちたい。

 ただ無心にあいつを――キリトを想って。

 

「別にグリムロックとの因縁とか、そういう特別な何かにこだわってるわけじゃないのよ。あたしは出来るだけ多くあいつの、キリトのことを知りたい。知って剣を打ちたい。それだけよ」

「……罪作りな人だよね、キリト君って」

 

 ややあって、アスナが口にしたのはそんな溜息混じりの言葉だった。困ったような顔で笑うアスナにつられるようにあたしも頬をほころばせた。

 本当にね。本当に困ったものよ。親友の惚れた相手に自分も惚れてしまうとか、そんなのドラマの中の話だけだと思ってた。もっとも、今あたしたちが生きている世界は、そんじゃそこらのドラマなんて目じゃないくらい非常識な世界だけれどね。

 

「そう言うってことは、やっぱあいつってモテるの?」

「割とね。アルゴさんなんてキリト君を公私に渡って支えてる感じだし、以前キリト君が手伝ってたっていうギルドに所属してる女の子とか、少し前だと中層の竜使いの子と仲が良かったとか聞いたこともあるわ。そもそも中層下層のプレイヤーには相当数のキリト君ファンがいると思うわよ? ……まあ、そっちはキリト君ファンって言うより、《はじまりの剣士》とか《黒の剣士》ファンって感じだからモテてるっていうのとは違うでしょうけど」

「人気っぷりはあんただって一緒じゃないの、《閃光》様」

 

 大体、公私に渡って支えてたのはアスナだって同じでしょうに。キリトだってあんたに感謝してたわよ、アスナが影に日向に庇ってくれたから攻略組に居場所があったんだって。そうじゃなければ本当の意味でソロしかできなくなってたって笑ってた。

 それにファンとか人気って意味じゃアスナはある意味一番の有名人なんじゃない? 見目良し、性格良し、剣の腕もトップクラスなんて完璧超人なんだから。そんなあたしのからかいの台詞に、アスナは思いのほか真面目な表情で首を左右に振った。そしてあたしの目をじっと覗き込むように言葉を紡ぐ。

 

「わたしとキリト君じゃ期待の重さが違うわ。キリト君はうちの団長と並び立てる唯一のプレイヤーなのよ? 《聖騎士》の名がどれだけアインクラッドに轟いてるか知らないわけじゃないでしょう?」

「そりゃね、《英雄》ヒースクリフを知らないやつなんていやしないわよ。それは《黒の剣士》だって同じ……はずなんだけど、それにしちゃキリトの情報ってやけに精度が低くない? それにはじまりの剣士とか黒の剣士の話は良く聞くけど、キリトのキャラクターネームってほとんど聞いた覚えがないのよね。どこかで耳にしたことはあるんだろうけど、記憶に残ってないというか」

 

 改めて考えてみるとおかしな話だ。アスナにしろヒースクリフにしろ如何にもRPGっぽい二つ名はキャラクターネームとセットで扱われることがほとんどで、どちらかだけが先行しているということはない。だというのにキリトの場合、中層下層には二つ名ばかりが轟いてキリトの名前そのものは聞こえてこない。本来有名になるはずのキャラネームがほとんど知られておらず、黒の剣士に代表される代名詞ばかりが浸透しているのだ。

 そんなあたしの疑問に、アスナはここだけの話にしておいてね、と断りを入れた上で答えとなる話を聞かせてくれた。

 

「元々はキリト君を守るためだったのよ。……リズも第一層でのPK事件は知ってるでしょ? それにまつわるお話」

 

 そう切り出したアスナの目はどこか遠くを見ていた。第一層フロアボス戦は今から一年と半年以上も前のことになる。その時の情景を思い出しているのか、アスナの表情は憂いに染まっていた。

 もう随分昔のことになるんだね、そう言ってアスナはそっと目を閉じ、それからゆっくりと語りだした。

 

「第一層でキリト君がPKを犯したのは錯乱したプレイヤーから仲間を守るためだった、っていうのが公表された事実。でも、本当は違うの。本当はあの時、ベータテスターを恨んだ一般プレイヤーが討伐隊のリーダーをPKしようとした。キリト君はその人を止めようとして、でも止められなかったの」

「……それで止む無く斬った、でいいのかしら?」

「いいえ、違うわ。わたしはその時フロアボスと対峙してて直接見ていたわけじゃないんだけどね。ディアベルさん――当時の討伐隊のリーダーだった人が言うには、自殺だったらしいわ。キリト君の剣に自分から飛び込んで、ライフをゼロにしたって」

「なによそれ。なんでそんな、まるで当て付けみたいに――」

 

 息に詰まり、かすれた声は今にも消え入りそうなほどだった。なによ、どうしてあいつばっかり……。

 義憤を抱えて喘ぐように胸を押さえたあたしを見やり、アスナは切なげに睫毛を震わせた。きっとアスナだって似たようなことを思ったはずだ。だって、人伝に聞いたあたしですらこんなにも胸が痛い。じゃああいつは? 意図せずプレイヤーを殺めてしまったキリトは、どんな思いを抱えて今まで戦ってきたんだろう。戦ってこれたんだろう。

 

「ディアベルさんが言ってたわ。あれはキリト君を羨んだ果ての行動だったのかもしれないって。はじまりの街で英雄視され始めていたキリト君を知って、そんなキリト君が眩しくてたまらなくて、それなのにどうして自分を救ってくれなかったんだって嘆き悲しんだ。だからこそ輝くものに汚泥を塗りたくってやりたくなったのかもしれない。そう、つらそうに言ってたわ」

「そんなの……わかんないわよ」

 

 あたしにはわからない。自分から死を選んでしまうほどの絶望した気持ちも、人を殺めようとしてしまう暗く澱んだ思いも。そして、悪意を持って誰かを陥れることも。

 あたしにはわからなかったのだ。

 

「わたしだってわからないわ。ディアベルさんもエギルさんも《わからなくていい》って言うだけだった。本当のことなんて自殺したプレイヤー本人にしか知りようもないのだし、それが逆恨みでしかないことも確かなんだから、それ以上を考えるなって。……わたし達には一生理解できないことなのかもね」

 

 お互いに顔を見合わせて溜息をつく。あたしたちが女だから理解できないのか、それとも子供だから理解できないのか。それすらわからなかった。

 

「それで、キリトを守るためだったっていうのは?」

「キリト君ね、オレンジになった自分にベータテスター、一般プレイヤー両方の怒りを集めろって言ったのよ。当時はベータテスターに一般プレイヤーを見捨てた卑怯者ってレッテルが貼られてたでしょ? ベータテスターを裏切り者と罵ってた一般プレイヤーが、逆にベータテスターを裏切って殺そうとしたなんて皆に知られたらどうなってたと思う? それも、フロアボス戦なんて大事な場面で」

「……控えめに言っても大混乱でしょうね。誰を信じていいのか、そもそも自分以外の誰かを信じていいのか、皆が疑心暗鬼になって収拾がつかなくなってたかもしれない」

 

 一般プレイヤーは自分達が被害者なのだと考えていた。被害者だからこそ好き勝手ベータテスターを非難できた。多分、被害者は被害者故にこれでもかと人を強く責めることが出来てしまうのだろう。でも、あたしはそんな考えは好きじゃなかった。悪口を言えば言っただけ自分の中に気持ち悪い塊が出来てしまうような気がして、怒りと不満を繰り返し口にするプレイヤーからは自然と距離を置いてきた。

 はじまりの街に残ったプレイヤーは、好き勝手にベータテスターを非難することで日々の不満と恐怖をまぎらわせていたのだ。もしもその図式が崩れたなら、残ったのは恐らく混乱だけだろう。

 

「キリト君もきっとそう思ったのでしょうね。だから自分に怒りや憎しみをぶつけさせることで、殺意を持った《仲間殺し》の事実を隠そうとしたのよ。プレイヤーが一丸となってゲームクリアを目指せるように」

 

 どうにもやるせない真実だった。

 今でこそベータテスターなんて言葉はほとんど使われなくなっていたけど、あの当時のベータテスターへの隔意はかなりのものだった。キリト――《はじまりの剣士》の名が特別になりすぎて、ベータテスターと結びつかなかったのも良くなかった。茅場扮するアバターへの突撃とその後の演説、全コルを惜しみなく他人に渡したりとか、とにかくその行動一つ一つが鮮烈すぎて、当の本人がベータテスターだったという認識がほとんど埋もれてしまっていたのだ。

 むしろあれは卑怯者と罵ったベータテスターと、恩人であるはじまりの剣士を同一視したくなかったせいなのかもしれない。はじまりの剣士の名が一人歩きし始めていたことを考えるとそう思わざるをえない。

 仕方ないことでもあった。あの当時、誰もが誰かに縋りたかったのだから。はじまりの剣士の名は格好の信仰対象でもあった。

 だからこそ、キリトに自分を殺させたプレイヤーは、そんな燦然とした輝きに我慢ならなかったというのだろうか。汚泥を投げつけたくなるほどに憎んだ、いえ、羨んでしまったということ?

 だとしたら、なんて――なんて身勝手……!

 

「わたし達はキリト君の言葉を受け入れたわ。勿論キリト君一人を悪者にすることに納得していたわけじゃないけど、それでもキリト君の提案以上に迅速な事態の収拾を図ることが出来るとは思えなかった。それにキリト君のカーソルがオレンジになってしまったことは隠し様がなかったから、早急にキリト君を守るための手を打つ必要もあったの。それがキリト君が示した自己犠牲に報いる、せめてものことだったから」

「それがキリトのPKは意図しない不慮のもの、仕方ないことだったっていう情報の公表と、攻略組が積極的に使い始めた二つ名だったわけね。せめてキリトの名前だけでも目立たないようにした。……もしかして、《はじまりの剣士》を《黒の剣士》の名で上書きしようとしてた?」

 

 真実を知る当時の攻略組の面々は、PKを犯して《仲間殺し》の汚名を被った《はじまりの剣士》と《キリト》を切り離そうとした?

 

「うん。でも、その後のキリト君のソロでの活躍までは想定外だったから、結局わたし達の思惑もずれちゃったけどね。それにあんなことがあって、それでもたった一人全てを振り切って戦い続けようとするキリト君に、わたし達も何も言えなくなっちゃって……。だから、せめてキリト君に直接向かう悪意だけでも減らそうとしたの。時間が忘れさせてくれることだって、きっとあるもの。……情けないけどそれくらいしか出来なかった。こういう言い方は逃げてるみたいで良くないけど、わたし達もキリト君のことばかり考えていられるほど余裕があったわけじゃないから」

 

 仕方なかったと零す諦観に反して、アスナの表情は苦渋に満ちたものだった。多分、今でも後悔しているのだろう。

 そういえば攻略組は誰もが黒の剣士について話すことを渋る、ってのもあったっけ。今までは単純に怖がられてるか嫌われてるせいなのかと思ってたけど、その大元はアスナたちの工作があったわけか。無責任な噂や根拠のない誹謗中傷を蔓延させないために、キリトの情報を軽々しく話せないような空気を意図的に醸成した。その名残が今日のキリトを取り巻く状況につながってるんだ。

 キリトだけが幾つもの二つ名で呼ばれてるのも、そうやって名前を伏せられてきた副産物みたいなものね。日常のふとした話題にすらキリトのキャラクターネームが上らないようにしていたなら、エピソードの数だけ二つ名が増えていくのも無理はない。

 

「キリト君の狙いに気づいた時、キリト君のことをとても怖い人だと思ったわ。誰かのために躊躇いなく自分を犠牲に出来てしまう、そんなキリト君の心が何より恐ろしかった。この世界に閉じ込められて長い時間が経った今だからこそ、守りたい人、死なせたくない人だって出来たけれど、あの当時は周りのプレイヤーはみんな赤の他人も同然だったのよ? なのにキリト君は一時的に共闘したわたし達だけでなく、見も知らぬベータテスターと一般プレイヤーのために自分を犠牲にした。そんなことを出来てしまう人が現実にいるんだって、とても信じられない思いだったわ」

 

 ……そうでしょうね。

 アスナの言葉はあたしにも共感できるものだった。昨日のことだってそうだ。白竜の巣に落とされた時、キリトは何よりもあたしの身を最優先に行動した。最後にはあたしを庇って地面に叩きつけられたのだ。幸いHPがゼロになるようなことはなかったけど、キリトだって絶対に助かるなんて思ってはいなかっただろう。それを承知であたしを助けた。その身を犠牲にした。……極限の二者択一の場面で、容易く自分の命を見切ってしまえる人間性。それはやっぱり歪で、空恐ろしいものだと思う。

 怖い、か。アスナがそう言うのもわかる気がする。怖くて怖くて……とても目を離せなくなる。

 死んで欲しくないと、そう強烈に思わされてしまうのだ。目を離せば消えてしまうんじゃないかと不安にさせられてしまう、そんな儚さが確かにキリトにはあった。

 まったく、とんだ悪人よね。

 

「アスナ、血盟騎士団に帰るときは気をつけなさいよ。今のあんた、すごく女の顔してるから」

「……ふーんだ、今のリズには言われたくないわよ。リズこそ、そんな顔してお客さんの前に立っちゃ駄目だよ。絶対誤解されるから」

「お生憎様、あたしはこのまま工房に篭って剣を打つんだから心配ないのよ。――きっと成功するわ。そんな気がする」

「うん。わたしもそう思うよ。リズのこと応援してる」

「安心なさいな。あたしもアスナのこと応援してるから」

 

 それから二人してくすくすと笑いあった。

 アスナと親友になれて良かった。心からそう思った。

 

 

 

 

 

 かつて、《黄金林檎》という名のギルドがあった。

 団長にリーダーシップ溢れる女剣士グリセルダを擁し、副団長を彼女の夫でもあるグリムロックが務め、献身的に彼女を支えた。中層に位置するギルドの中でもメキメキと実力を伸ばし、攻略組にもその実力の高さが伝わってくるほど精強さを誇るようになっていった。そうして攻略組に名を連ねるのも時間の問題と囁かれるようになった頃、突然に黄金林檎は解散した。

 その不可解な解散劇に一体何があったのかと口々に噂されていた時期もあったが、このアインクラッドでアクシデントの起こらない日などない。黄金林檎もメンバーの誰かが戦死したか仲間割れでも起こして解散したのだろう、やがて誰からともなくそんなふうに結論付けられ、黄金林檎の名は人々の記憶から薄れていった。事実、彼らはリーダーたるグリセルダを失ったことでギルドを解散したのだ、根も葉もない噂というわけでもなかった。

 そうして時が過ぎ、かつての黄金林檎のメンバーは皆それぞれの道を歩んでいた。

 現在聖竜連合の壁戦士、前衛隊長の幹部として活躍するシュミットは、そんな元黄金林檎のメンバーの一人だった。そして彼の下に一つの情報が飛び込んできたことで、黄金林檎の凍った時が動き出す。

 その情報というのが昨年のクリスマスイブの夜、黒の剣士から聖竜連合に譲渡されたレアアイテム――敏捷値を20上昇させる指輪だった。

 

 ギルド《黄金林檎》解散の契機はギルド長グリセルダの死去に当たるわけだが、解散の直前、彼らはひょんなことから入手したレアアイテムである指輪を巡り、意見を対立させていたらしい。すなわち、指輪を誰か一人が装備することで戦力アップを図るか、それとも指輪を売却することでギルド資金を蓄え、ギルド全体の益になるよう資金を分配、または装備品を調えるか、等々。

 最終的には指輪を売却することに決まったというが、決して満場一致だったわけではなく最後まで揉めに揉めたとのこと。

 ひとまずの意見調整を終えた彼らは指輪を団長のグリセルダに託し、翌日グリセルダ自身が指輪を売却しにいくことになっていたと言う。

 事件はそんな夜に起きた。

 翌日、グリセルダは何時まで経っても皆の前に現れず、宿の部屋も施錠されたまま時間だけが刻一刻と過ぎていった。いつかの事件を彷彿とさせる流れだ。実際、ギルドの中にも今を遡ること一年以上前にプレイヤーを震撼させた密室PK事件に思い至るものがいて、最悪の事態を想像して青褪めた顔をしていたグリムロック――グリセルダの夫に代わり、黒鉄宮に足を運んだ。そしてそこで彼らのリーダーであるグリセルダの死亡が確認されたということだった。

 黒鉄宮の生命の碑に刻まれた文言は《第19層十字の丘にてHP全損》。

 些か不可解ではある。翌日に指輪の売却を控えたグリセルダが夜間、誰に告げるでもなく宿を抜け出したとするのは首を傾げるところだし、かと言って以前の密室PKにおける手口もありえない。なにせ彼ら黄金林檎は常駐の宿を利用していたのだから、回廊結晶を悪用されて部屋に侵入などされるはずもなかった。

 黄金林檎の面々もグリセルダの死を嘆き悲しむ一方で、あまりにちぐはぐな状況と散りばめられた謎に呆然とするばかりだった。結局、グリセルダの夫であり、かつ黄金林檎の副団長を務めていたグリムロックが妻の死に意気消沈し、冒険業から引退を宣言したことで黄金林檎は解散することになったのだと言う。グリセルダの不可解な死に様についても、妻を静かに眠らせてやりたいというグリムロックの意を汲んで公表されることはなかった。

 

 以上が昨年の秋に起きた、黄金林檎を襲った悲劇だ。

 確かに痛ましい事件だと思う。俺自身やるせない気持ちにもなった。しかしそれで終わりならそもそも俺にまで話が伝わってくるわけもなかったのだ。俺が聖竜連合に渡したあの指輪、それが黄金林檎で意見対立の元となった指輪と同じものでさえなければ。

 黄金林檎の中でも特にグリセルダを尊敬していた女性プレイヤーのヨルコ、そして彼女の連れであるカインズに同伴する形でシュミットが俺を訪ねてきたのは、今からおそよ二ヶ月前、珍しく俺が街で小休止を入れていた時のことだ。まあ、正確には装備メンテのために迷宮区から街に戻ってきていたところでアスナとばったり出会い、毎度フロアボス攻略会議で迷惑をかけている侘びも込めて食事に誘った、というのが詳細な事情だ。

 その席で元黄金林檎メンバーに声をかけられ、黄金林檎解散の経緯を聞かされたのだった。彼女らの目的は単純明快だった。グリセルダの死の真相、その解明である。ギルド内で最後に紛糾したレアアイテムである指輪、それと同じものをかつて俺が所持していたという情報を聖竜連合に所属するシュミット経由で聞いたヨルコは、俺がグリセルダに関する何らかの情報を持っているのではないかと期待した。

 

 ――あるいは、俺がグリセルダの最期に関わっているのではないかと邪推した。

 

 俺が昨年の暮れに聖竜連合に譲渡した指輪はグリセルダから買った、または奪い取ったものではないか、と。

 もちろんそんなことを直接言葉に出されたわけではなかったが、ヨルコとカインズの目には明らかに俺に対する疑念が見て取れた。と言っても心底俺をグリセルダ死亡の犯人と疑っていたわけでもなく、わずかでも見つかった真相解明への糸口に必死だったというのが正解だろう。グリセルダの不可解な死。そしてギルド解散から長い年月が経過し、それでもグリセルダの突然の死を引きずり続けてきた疲れが、二人の顔に色濃い影となって表れていた。藁にも縋る心境だったのだと思う。

 その点、攻略組を支える前衛戦士として俺と少なからず面識のあったシュミットは比較的冷静だった。二人と比べて俺を疑うことに明らかに気乗りしていない様子だったのだ。

 

 俺自身、PKの過去を持つことから疑われやすいことは重々承知していた。だから黙って聞いていたのだが、幸か不幸かそのときの俺の隣には黙って聞いているのを良しと出来ない女傑がいた。彼女は暗に俺が疑われていることに当然気づいていたし、時を追うごとにその玲瓏な美貌を曇らせ、険しい眼差しに変わっていったのだ。その変化に隣に座っていた俺のほうがはらはらしていた位である。……あれは怒っていた。間違いなく怒っていた。

 いや、もちろん彼女らの疑い全てが誤解なんだけどさ。俺の持っていた指輪とグリセルダの所持していた指輪は同種であっても別物だったわけだし。いくらレアアイテムとは言ってもこの世界にたった一つしかない秘宝というわけではない。俺が入手した指輪も日々の狩りの中でドロップされたものだから、グリセルダが最後に所持していた指輪と同一のものではなかった。

 かと言って、いくら言を分けてそんなことを伝えてみても証拠がない以上何ら説得力など持たせられない。……そう思ってたんだけどな。

 あの人たち、よほど人が良いのか、俺が念のためと口にした言葉だけで簡単に信じちゃったんだよ。それでいいのかとこっちが目を丸くしたくらいだ。

 

 不思議に思って何故そんなに簡単に信じられるのかと問い返せば、何でもシュミットに無意味な詰問だとあらかじめ釘を刺されていたらしい。シュミットは黄金林檎が解散した後、聖竜連合に入団し、そこからメキメキと頭角を現してきた男だ。当然初期からフロアボス戦に参加していたわけではないし、俺のPKを直接見知っているわけでもなかった。

 とはいえ、聖竜連合と俺は攻略に関してお互いに協力し合ってるだけに、俺の情報だってある程度知られている。当時から攻略狂とも揶揄されていた俺の生活ぶりを知っていれば、件の黄金林檎の事件に関係していると考えるほうが不自然だろう。そもそもレアアイテムを安価で攻略組にばらまいてる俺が、攻略組ですらなかった黄金林檎、そしてグリセルダに無体な真似をしてまでアイテムを強奪する理由が薄いのは、少し考えればすぐに思い至ることだ。そんじゃそこらのレアアイテムで俺の食指を動かせると思うなよ、というのは蛇足か。

 

 と、まあ長々と思い起こしてはみたが、この事件に関して俺はほぼ傍観者だった。何故と言って、彼女らに疑われた当の本人である俺が別段気にしていないのだから構わないのに、攻略組の誇る美貌の女剣士様がやけに気合を入れて事件解決に乗り出したからだ。いや、乗り出したというのも違うか。アスナはしばらく考え込み、やおら顔を上げたかと思えば、険しい顔つきのまま一つの仮説を提示したのである。

 すなわち、「回廊結晶で例外的に刻める《自室》は、もしかすると夫婦共有として扱われるのではないか?」と。

 以前の睡眠PKを可能にした手口の亜種とも言える。実際にその手段が可能かどうかは別として、その仮説を提示された元黄金林檎のメンバーは一様に顔を青くした。……それはそうだろう、何せアスナは《グリセルダの夫であるグリムロックこそが犯人の可能性がある》と言ったのだから。

 

 ちなみにこの時の裏話を一つ。

 アスナの《回廊結晶の悪用手口夫婦バージョン》仮説に検証の必要があるだろうと、俺がアルゴ相手に確かめてくると提案したところ、アスナのやつに「絶対駄目」とにこやかに反対された。……その時のアスナからは有無を言わせない底知れぬ重圧が間違いなく発せられていた。

 そんなアスナの妙な迫力に気圧されながら、アルゴなら結婚システムで一時的に結婚することも気にしないだろうし、すぐに離婚するのだから問題ないはずだと下手に出ながら主張してみたのだが、アスナは頑として認めてくれなかった。曰く「女の子にとって結婚はそんな軽々しいものじゃないのよ」とのこと。

 そりゃ俺だっていくら擬似的な結婚に過ぎないゲームシステムありきのこととは言え、離婚前提の結婚なんて女性に失礼だとは思うけどさ。そういう情を割り切った上で了承してくれそうな相手を選んでるんだから、取り立てて問題はないだろうとは思うんだけどな。

 すったもんだの末に、最終的にヨルコとカインズの二人が結婚をして検証をしてみるという結論に落ち着いた。俺が裏話と言ったのは、検証目的で離婚前提のこの結婚が、今に至るまで破棄されていないということだった。元々ヨルコとカインズは黄金林檎解散後、ずっとツーマンセルで行動してきたため、半ば恋人同士みたいなものだったのだとシュミットが耳打ちしてくれた。案外良いタイミングだったのかもしれない。

 

 それからはあれよあれよと言う間に事態は進展を見せた。結局アスナの仮説こそがグリセルダ死亡の謎を解く最大の要因だったのだし、グリセルダを殺した片棒は間違いなくグリムロックが担いでいた。グリセルダを直接殺したのはグリムロックから依頼を受けたラフコフだったと言え、グリムロックがその暗殺に手を貸したことは彼自身が自供したことだ。殺害場所が宿の個室ではなく第19層十字の丘だったというのは、恐らくはラフコフの演出だろう。あいつら、妙に自己顕示欲の強いところがあったからな。もっとも、そうでなければアインクラッドを席巻するほどにレッドギルドの悪名が売れたりはしなかっただろう。

 グリムロックは元々グリセルダを殺めてしまったことを後悔していたんじゃないかと思う。そうでなければああも容易く自供を引き出すことなど出来なかったはずだ。……グリセルダとグリムロックは現実世界でも夫婦だったのだと言うし。

 

 あちらの世界では夫であるグリムロックが家庭の大黒柱として精力的に働き、グリセルダはそんな夫を甲斐甲斐しく支える良き妻だった。グリムロックが前に出て、グリセルダが後ろに控える。それが彼らの夫婦生活の在り方だった。それが故に、この世界にきて命の危険に臆したグリムロックと、現実世界の控えめな姿が嘘だったかのようにこの世界で生き生きとしだしたグリセルダの間に、拭いがたい空隙が生じるのも無理はないことだったのかもしれない。

 そうしてグリムロックは日々変わっていく妻が許せず、在りし日の妻を取り戻そうとした。そのための手段が妻の殺害というのはあまりに行き過ぎているし、既に手段と目的が破綻していたが。愛するが故に許せなかったと語るグリムロックは、どこか正気を失っていたように見えた。

 俺はグリムロックが語るような、殺したくなるほどに憎んでしまう情愛を抱いたことなんてない。そんな愛し方は知らない。だから彼の言い分に理解を示すことなど終ぞ出来なかった。

 それはアスナとて同じだろう。むしろこの世界を懸命に生き、現実世界に帰るために精力的な活動を選んだグリセルダに共感する部分があったのではないだろうか。だからこそグリムロックの妄念をグリセルダへの所有欲だと断じてみせた。グリセルダと同じ女性として、身勝手なグリムロックを許せなかったのだ。

 アスナの突きつけた言葉に意気消沈したグリムロックを最後に、彼ら黄金林檎のメンバーを長く縛ってきた事件は静かに幕を下ろしたのだった。

 

 最初から最後まで俺は傍観者でしかなかった。いや、必ず罪は償わせると言った元黄金林檎のメンバーを差し置いて、ラフコフ討伐のための剣をグリムロックに打たせた俺は傍観者などとはとても言えないだろう。卑怯者か、もしくは外道そのもの。グリムロックの了解を取っていたとは言え、元黄金林檎の面々がよく俺の提案を飲んでくれたものだと思う。あれは俺の言葉を聞き入れたというより、グリムロック自身の決意を尊重したのだろう。

 これが私の贖罪なのだと語ったグリムロックに、シュミットは無言で俺への協力を選び、ヨルコとカインズは剣を打つ材料集めに奔走した。それは俺のためなんかじゃなく、かつての仲間であったグリムロックへのせめてもの餞だったのだろう。俺が言うのもおこがましいが、いつか彼らが再び笑いあえるようになれれば良いと心から思う。

 

 狂気に走って痛ましい事件を引き起こしたグリムロックだからこそ、グリセルダ終焉の地である第19層十字の丘、そこに鎮座する巨大な墓碑オブジェクトの前に足繁く通っていたとしても無理からぬことだった。

 墓標の前で何をするでもなく佇むグリムロックの姿を目にして足が止まる。支援職の鍛冶プレイヤーという肩書きとは裏腹に、グリムロックは長身かつ程よく鍛えられた体躯をしていて、細身でありながら軟弱さとは無縁の男だった。その姿は現実世界で摂生に努めた生活を送り、恐らくは心身ともに充実していたことを十分に窺わせるものだ。だからこそ彼は現実世界とアインクラッドでの自らの立場の落差に、一層の鬱屈を溜め込まずにはいられなかったのかもしれない。

 不意の訪問客に気づいたグリムロックが一度振り返り、眼鏡の奥の理知的な瞳に俺の姿を映す。グリムロックはわずかに目を見開いて驚きを表してはいたが、すぐに平静を取り戻して墓標に視線を戻した。沈黙を挟み、奴が口を開いたのはそれからしばらく後のことだ。

 

「もう二度と君に会うことはないだろうと思っていたよ」

「……俺もそのつもりだった。お互いのためにも会わないほうが良いと、そう思ってたからな」

 

 顔を合わせてもお互いに痛みと後悔しかもたらさない。そう思ってきた。しかしその思いは果たして俺の本心だったのだろうか。あるいは罪悪感からくる逃避に過ぎなかったのかもしれない。

 グリムロックの傍らまで足を進め、墓前に花を添えてそっと手を合わせた。俺もグリムロックもお互いに目をやったりはしない。墓標を見つめる眼差しはそのままに、声だけが静かに空気を震わせ、交差していく。

 

「では、なぜかな?」

「あんたに頭を下げるため。それから――この剣を還すために」

 

 一振りの剣と投擲用のピック。オブジェクト化されたそれの所有権を放棄し、花と同じように丁寧な手つきで墓前に置いた。俺の、そしてグリムロックにとっての罪の象徴だ。プレイヤー同士の殺し合いの場に投入するために用意した武器。鍛冶屋にとってのタブーだとお互いに承知していながら、それでも必要だからと俺が要請し、グリムロックが応えた品々だった。

 俺がここに来たのはグリムロックに詫びることが一つ。そしてもう一つが墓前に華を添えること。……華に相応しいかどうかなど、それこそ俺にもわからないけど。

 

「グリセルダさん、あなたの夫であるグリムロックさんのおかげで、アインクラッドに住まう全てのプレイヤーの命を脅かしていた殺人ギルド《ラフィン・コフィン》を壊滅に追い込むことが出来ました。この世界から脱出できる日はまだ遠くとも、以前よりは遥かに安全に暮らせるようになったはずです。俺はあなたの夫君の献身と覚悟に心からの敬意を表します」

 

 厳粛な面持ちで告げ、頭を下げた。

 この剣は戒めのつもりでずっとアイテムストレージに残しておくつもりだった。自己満足だろうと、自らプレイヤー同士の闘争に身を任せた俺にこれは必要なものだと思ったからだ。しかしそれも俺の身勝手な思い込みだったのかもしれないと、今は思う。

 亡きグリセルダへの報告は俺の本心からのものだった。グリムロックの尽力のおかげでラフコフ討伐は成功した。そこに嘘はない。

 ただ、そんな虚空に消え行く俺の言葉を、きっとグリムロックは歓迎してはいないだろう。むしろ眉を顰めて忸怩たる思いを抱えているのではないだろうか。

「感謝も、賞賛も不要だ。私は私のために剣を打った。それは私の咎だよ。君が気に病むようなことではない」

 

 ややあって、グリムロックが口にしたのはそんな言葉だった。激昂するでもなく淡々と、しかし確かにそこには深い情感が込められていた。

 これも憑き物が落ちたというべきなのだろうか。愛ゆえに妻を殺したのだと言い放った男とは到底思えないほど、彼が口にした言葉は穏やかな声音をしていた。狂熱に浮かされているわけでもなく、まして己の怯懦(きょうだ)を卑下しているわけでもない。今のグリムロックからは地にしかと足のついた、芯を感じさせる力強さが感じ取れたのだった。

 

「この世界には偽者しかない。ありえない怪物、非日常の剣、紛い物の身体。だからせめて心だけは本物であってほしいと信じた。信じたからこそ変わっていく妻が許せなかった。彼女までが偽者になってしまうことが何より恐ろしかった。……それは思い出の中の妻にしか縋れなかった私の弱さだ。私はあるべき妻の姿を永遠にしようとして、妻の変化をかくあるものと認められず、かくあるべしと決め付けてしまったのだよ。アスナさん、と言ったかな。君の彼女の言う通りだ。私は妻と私自身の愛情を信じることができず、妻への所有欲に突き動かされるまま、あのような愚かしい蛮行に至ってしまったのだから」

 

 グリムロックの独白にじっと耳を傾ける。この世界でかつて過ちを犯し、今も苦しんでいる一人の男の深奥だ。慰めなど無粋だし、不要だろう。……アスナが俺の恋人扱いされてるけど、否定しないのはあくまで空気読んでるだけで他意はないからな?

 

「君は後ろを見ずに前を向きなさい。過去ばかりを振り返るには君はまだ若すぎる。自らの弱さを理由に守るべきものを取り違えたりしてはいけない、大切なものを――見失ってはいけない。君は君のために、そして守りたい者のために力を尽くせば良い。それがきっと君を救うことになるだろう」

 

 ――君は、私のようにはなるな。

 

 万感の想いを込めて吐き出されたその言葉には、一体どれだけの痛苦と悔恨が込められていたことか。

 そしてその助言に素直に頷けない俺の弱さと迷いが、どれほど罪深く情けないことだったか。

 

「キリト君、私は君を恨んだりなどしていない。どうかそれだけは覚えておいてほしい」

「……感謝します、グリムロックさん」

 

 それはこの世界を生きる剣士キリトとしてだけではない、今は遠き桐ヶ谷和人としての心からの礼でもあった。

 墓標に目を向けたままのグリムロックへと深く頭を下げて、それから死者の眠りを飾るに相応しい静寂を崩さぬよう、ゆっくりと踵を返す。

 耐久値限界を迎えた剣と花が背後でポリゴン結晶となって自然消滅する音を耳に、俺は一度も振り向くことなく十字の丘を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

「完成した剣の銘は《ダークリパルサー》。闇を祓う刃ってとこかしら。――あんたにはぴったりかもね」

 

 再び訪れたリズベット武具店、その奥の工房で俺はリズと向かい合っていた。俺がリズから連絡をもらって店を訪ねた時には、アスナは既に血盟騎士団に戻っていたから、今ここにいるのは俺とリズの二人だけだ。

 

「剣の出来自体はどうだったんだ?」

「ばっちり。キリト愛用の魔剣クラスにだって負けたりしないわ!」

 

 俺の問いにリズは満面の笑みで答えを返した。そして誇らしげな顔で胸に抱えた一振りの剣に目を落とし、愛しげな手つきでそっと俺の前に差し出す。

 ……重い。

 受け取った剣からずしりと手に伝わる感触に、これが俺の望む剣なのだという実感がすっと俺の胸に入り込んできた。そしてゆっくりと黒皮仕立ての鞘から刀身を抜き出し、逸る心を宥めるようにじっくり刃へと目を走らせる。

 仄かに翡翠色に輝く、美しくも涼やかな印象を宿した剣だった。インゴットの性質を受け継いでいるのか、刀身そのものが透き通っているかのようだ。刃そのものは薄く、片手直剣カテゴリーとしては若干華奢にも思える。しかしその優美な見た目に反して、刀身の見事な輝きは十二分に戦闘で活躍してくれると思わせる力強さを秘めていた。

 どうやらリズは見事当たりを引き寄せたらしい。

 俺もリズに釣られるように表情に笑みが浮かび、喜びも露わにリズへと感謝の言葉を述べようとしたのだが――そこでリズから思いがけない言葉を受け取ることになった。

 

「この剣を渡す前に、キリトには二つ約束してほしいことがあるの。もし約束してくれるなら、その剣はタダにしてあげる」

 

 リズはこれ以上ないほど真剣な目でじっと俺を見つめ、最後だけは冗談めかして笑って見せた。しかしその言葉とは裏腹に、胸元に置いたリズの握り拳は不安と緊張からか、微かに震えていたのだった。いい加減な気持ちで返すことはしちゃいけない、そう思った。

 

「二つか、リズって案外欲張りなんだな。……難しいことじゃなければなんとか」

「ふふん、女の子は皆強欲なのよ。知らなかった?」

「寡聞にして知らない、って言いたいところだけど、思い当たる節はあるな」

 

 主に鼠とか鼠とか鼠とか、と言うとやっぱり怒られそうだから決して明言はしないけど。

 

「剣の代金が惜しいわけじゃないけど、他ならぬリズの頼みだ。とりあえず言ってみてくれよ」

「ありがと。それじゃ遠慮なく――キリト、あたしをあんたの専属鍛冶屋にしてちょうだい」

 

 その瞬間、俺は目を見開き絶句した。ああ、絶句したとも。そしてリズの言い放った台詞は少なからず俺に衝撃と動揺を齎し、同時に胸をかき乱す鋭い痛みも運んできた。予想外と言うなら、リズのその一言こそ予想の外だった。言葉を奪い取られた俺のこれ以上ない動揺をリズは正確に察していたのだろう。俺が落ち着くまで待つつもりなのか、不安に揺れる瞳はそのままに、気丈な立ち姿を保っていた。

 専属鍛冶屋。

 その名の通り、特定プレイヤーの専属として武器防具の一切の作成やメンテナンスを請負い、公私共に支える役割を指す。勿論正式なシステム名称などではなく便宜的に名付けられた呼称であるし、その契約方法も大仰な契約書を交わすとかでもなく、大抵は口約束の上に成り立つものだった。

 

 それでも死が身近にあるこの世界で、プレイヤー同士の特別な絆を切望する人間は少なくない。だからこそ専属と銘打つことでその他大勢の知人友人ではなく、特別な親友、信頼で結び合った深い関係なのだと示し合おうとしたのである。

 なにより、職人プレイヤーが口にするそれは、異性間において暗に告白を意味する言葉でもあった。このアインクラッドに実装されている結婚システムはお互いにアイテムストレージの共有化や、ステータス、スキルの自由閲覧が可能になるなど個人情報が筒抜けになるため、プレイヤーにとってデメリットが大きすぎる。そのために結婚は望まないものの夫婦関係のダウングレード版として《専属》などという肩書きが生まれたのだろう、とはアルゴの分析だった。

 

 リズが口にしたのは《あなたのことが好きです、あなたを支えさせてください》と、そう宣言するも同然の台詞だったのである。

 まさか職人プレイヤーであるリズが、男女間で交わす専属鍛冶契約の意味を知らないということもないだろう。なにせリズは気丈に振舞おうとしていても一層熱を帯びて潤んだ瞳が切なげに揺れていたのだし、上気した頬の鮮やかな紅潮は隠せるものでもなかった。今のリズを見て《お友達として専属契約を結びましょう》と勘違いするプレイヤーもいないはずだ。 

 だからこそ俺は二の句が告げなくなった。まさかここまで真っ直ぐに気持ちをぶつけられるとは想像だにしなかったのである。

 断っておくがリズのことは好きだ。それは間違いない。竹を割ったようなさっぱりとした性格も、言動の端々に滲ませる稚気と洞察のアンバランスな落差も彼女の魅力の一つだった。好きか嫌いかで言えば迷わず好きを選ぶ程度には、俺はリズを好ましく思っているし、惹かれてもいた。

 

 しかしそれが男女間の情に基づくかと言えば首を傾げるところでもあるのだ。この気持ちを恋慕だとするには俺はリズと過ごした時間が短すぎる。俺は恋愛において、一目惚れという現象を否定はしないが懐疑的な立場だった。そんなドラマチックなことが現実に起こるはずはないと信じている側の人間なのである。少なくとも俺の周りでは起こりえないことだと考えていたし、だからこそリズがこの二日間で何を考え、何を思って俺への好意を露わにすることに決めたのか、皆目見当もつかなかった。

 率直に言って、この時の俺は混乱の極致にあったといえよう。いや、だって予想外も良いところだし。これで冷静沈着に対処しろっていうのは、ただでさえ乏しい俺の対応キャパをぶっちぎって、もはや無理筋と言うものだった。

 気の利いた返答など到底望めず、何かを口にしようとして、その言葉すら浮かばないもどかしさに口を閉じてしまう俺の姿を見かねたのか、それとも長い沈黙に我慢ならなくなったのか、先に口を開いたのはリズだった。

 

「……ごめん、ずるい言い方しちゃった。キリトがあたしの告白に応えられるはずないって、わかってたのにね」

 

 あにはからんや、リズの口から飛び出たのは返事の催促ではなく諦観の滲んだ得心だった。それもまた俺の混乱に拍車をかけるものであり、声を出すことを忘れてしまったかのように沈黙しか選べない。

 リズは一度深呼吸をするように大きく胸を上下させた。それから明瞭とした口調で続ける。

 

「アスナから聞いたわ。キリト、あんたこの世界で結婚をする気はないって言ったらしいじゃない。PKの罪を向こうの世界で清算するまでは、誰かの幸福に責任を持つわけにはいかないって」

 

 ……確かに言った。

 黄金林檎に起きた過去の事件に幕引きした後、グリムロックの歪んでしまった愛情を知った俺とアスナの間で、ふと話題に上ったことだった。アスナは俺に「ゲームの中とは言え結婚したいと思うか」と問うてきたのだ。結婚システムの仕様を悪用した手口について真っ先に思いついたことからもわかるように、アスナは攻略組でも指折りの戦士である一方、根は恋愛や結婚に憧れる当たり前の感性を持った少女なのだと改めて感じさせられたものだった。

 その時に答えたのだ。ログイン以前の俺ならいざ知らず、今の俺が誰かと結婚して深い関係になることなどありえない、と。

 このゲームに囚われる前の俺とて決して社交的な人間ではなかったし、誰かと緊密な仲になることに対して積極的になれたとは思わないが、それでもあの頃の俺ならゲーム上のことなのだから、と割り切っていた可能性はある。

 しかしこの世界がデスゲームと化して、PKを犯してオレンジになったことで強烈に現実を意識させられた俺が、何もかも忘れて幸福を追求することなど出来るはずもなかった。第一、現実世界に戻った時に罪に問われる可能性があるのに、誰かと結婚をするなどと無責任なことを出来るわけがない。

 その全てを言葉にしたわけではなかった。しかし俺の答えを聞いたアスナは寂しげに、そして痛ましげに頷いたのだった。

 

「アスナのやつ、そんなことまでリズに話したのかよ……」

 

 思わず顔を覆って天を仰いだ。そりゃ口止めをしたわけでもないけどさ、あまり軽々しく口にはしてほしくない話題だった。俺の赤裸々な本心が自分の口以外から漏れているとか勘弁してくれ。

 

「あの子を責めないであげてよ。あたしが無理言って聞き出したんだから」

「責めはしないけど、これ以上拡散させないよう口止めの必要性は考えてたとこだ」

 

 がっくりと肩を落とした俺に、リズも申し訳なさが同居したような苦笑いを浮かべて手を合わせていた。流石に悪いと思っている様子だしこれ以上は言うまい。

 

「だからね、告白の返事はいらないの。ただ、この世界を生きるプレイヤーとして、ゲームクリアを願う一人として、なによりキリトの友人として、過酷な戦場に赴くあなたの装備の面倒を見させてほしいのよ。マスタースミスの腕を存分に揮って、最優先でメンテを仕上げてあげるわ。あ、そうそう、迷宮区に篭りっきりのあんたの生活破綻ぶりも聞いてるから、毎日戻ってこいなんて無茶は言わないからね。安心しなさい」

「……俺の個人情報が軒並み筒抜けだぞ。やっぱりアスナのやつとは一度話し合わなきゃいけない気がする」

「それだけアスナに心配かけてるってことよ。愛されてると思えばいいんじゃない?」

 

 そう言ってリズはからからと笑った。陰を全く感じさせない、朗らかな笑みを浮かべていたのだった。

 リズは強いな。それに比べて俺の女々しさときたら。

 ふっと息を吐く。とはいえリズにここまで言わせたのだ、それ相応に向き合わなければならない。

 

「何も返せない俺だけど、せめて感謝だけでも言わせてくれ。ありがとうリズ。専属鍛冶屋の件、よろしくお願いする。こっちから頼みたいくらいだ」

「りょーかい。大船に乗ったつもりでまっかせなさい!」

 

 攻略組の一プレイヤーとしての観点で言うならば、専属で武具の面倒を見てくれる凄腕の鍛冶屋と言うのは大変に有用なものだった。特に俺のような武器の消耗が飛びぬけて早く頻繁なメンテナンスを必要とするタイプには、最優先で武器を仕上げてくれる鍛冶屋の存在は何者にも代えがたいものだった。加えてソロプレイヤーとしてギルド付の鍛冶プレイヤーに頼れない身だけに、正直リズの申し出は涙が出るくらい有り難いことだったのである。

 

「それじゃ二つ目のお願いとやらを聞こうか。大抵のことなら聞き入れる用意があるぞ」

「お、言ったわね。なら何も言わずにあたしのお芝居に付き合ってもらいましょうか」

 

 罪悪感がそのまま口に出た俺に、リズは待ってましたとばかりの満面の笑みを浮かべて答えたのだった。早まったか、と後悔する前に首を傾げることになったのは、リズの申し出が先とは別の意味で予想外なものだったからだ。

 

「芝居?」

「そ、芝居よ。あたしらに馴染み深い言い方をするならロールプレイね。登場人物はあたしとあんたの二人だけ。役柄は……そうね、あんたが《騎士様》であたしが《お姫様》かな?」

「いや、そこで俺に疑問系で振られても」

 

 リズの二つ目のお願いの意図するところがわからず、俺はただただ困惑を浮かべるばかりだった。そんな俺に向かってリズはピンと人差し指を立てると、もっともらしく語りだすのだった。

 

「あたし達はこの世界に来てからつらいことばかりだったけど、それでもこの世界ならではの思い出があったって良いと思わない? 折角の剣の世界なんだからさ、それに相応しい遊びの一つ二つ楽しんでもバチは当たらないと思うのよね」

「遊びって……リズ」

「不謹慎だと怒った? でもね、キリト達攻略組にはピンとこないかもしれないけど、あたし達のように最前線に参加しないプレイヤーのモチベーションは、そうした遊び心で保たれてる部分だってあるのよ。明日の見えないこの世界を、それでもなんとか生きていこうとする中で見出した大切な知恵だもの。そんなあたし達をキリトは馬鹿にする? 軽蔑出来る?」

 

 呆れた表情を浮かべた俺を見咎めるような、そんなリズの言葉だった。

 リズに俺を責める意図はなかったのだろう。リズの目はどこか遠くを見やる茫洋とした色合いをしていて、その視線は俺ではなく彼女自身か、あるいはこの世界のプレイヤーが積み重ねてきた労苦の過去そのものを見ているように思えたからだ。

 誰もが必死に生きている。そんなこと、指摘されるまでもなく理解しているつもりだったのにな。剣を振るうことだけが正義じゃない。いつの間にか俺も攻略組の空気に毒されていたのかもしれない。攻略を急ぐあまりに、それ以外を雑事だと知らず知らずのうちに切り捨てるようになっていたのか。……余裕がなくなっていた、そういうことだ。

 

「……俺も結構焦ってたのかもしれないな。わかった、リズの遊びに付き合おうか。詳しく説明してくれ」

「ありがと。別に怒ってくれても良かったんだけどね。命をかけて戦うあんたらにとっちゃ、あたし達の生き方は納得しづらいことだろうし」

 

 そんなことはない、とは言えなかった。確かに攻略組の中には安全ばかりを重視する中層下層プレイヤーを侮る空気はあるし、安穏とした彼らを《ずるい》と思う本心だって少なからず抱いているはずなのだ。だから俺は軽く首を振るだけに止めて、リズの言葉を否定も肯定もしなかった。俺が何を言っても変わらない現実なのだから。

 だから、その代わりにリズのしたいことを促すことにしたのだった。

 

 

 

 リズの言う《遊び》とは、中世欧州世界における騎士叙任式の真似事だった。騎士が仕えるべき主君に剣を捧げ、君主たる主がその剣を受け入れ、騎士に任命する。そんな儀式。

 無論、俺とリズは騎士でもなければ王でもない。対等の立場の友人同士というスタンスを崩さないためにも、正式な意味での騎士叙任式というわけではなかった。リズが俺を騎士に見立て、自身を姫と口にしたのはそういう意味だ。本人は「お姫様への憧れがあったのよねー」などと気恥ずかしげに笑っていたけど。

 だから正確には騎士叙任式の変形、剣の授受を行う儀式というべきものだ。

 場所はリズの工房で、厳粛な儀式を執り行うには少々無骨で生活感に溢れた場所ではあるが、そんなことはどうでも良いことだった。大体相応しくないと言えば俺の格好だって古ぼけた黒のレザーコートに同色のシャツとズボンだし、リズだって給仕と見紛うようなエプロンドレスのままである。俺もリズもディテールにこだわっているわけではなく、大事なのはお互いの気持ちであり、思い出だ。形式なんかじゃない。

 リズの前に跪き、頭を垂れる。その姿勢のまま、リズが作り上げてくれた鞘に収まったダークリパルサーを両手で大事に持ち上げ、リズへと差し出した。リズは無言で剣を受け取ると鞘から剣を抜き出し、剣の刃を寝かせて俺の肩に置く。

 

「黒の剣士キリト、あなたにこの剣――ダークリパルサーを授けます。闇を祓う刃の銘に恥じぬよう、絶え間なく研鑽に努めなさい。そして弱きに優しく、強きに挫けず、勇敢なるその身を剣として怪物を屠り、故あらば盾となって人々を守ることを、今、この剣に誓いなさい」

「誓います」

「剣士たる誓いはここに。今、この時を以って闇を祓う刃は黒の剣士キリトが()らします」

 

 案外本格的なんだな。

 この時の俺は、間抜けにもそんなことを考えていたのだった。

 

「故にこの身も誓いましょう。剣の罪は剣士のみに帰するに非ず。作り手たる我もその責を担うのだと、今ここで高らかに宣言――」

「リズッ!」

 

 反射的に怒鳴り声をあげ、その勢いのまま立ち上がっていた。

 俺は馬鹿だ。リズの覚悟を読み違えた……!

 本当に、これ以上なく俺は間抜けだった。間の抜けること極まりない男だった。

 リズが意味もなくこんな提案を持ちかけてくるはずがなかったのだ。何も考えずに額面通りの遊びだと決めてかかった俺のなんと浅慮なことか。

 

「なによもう。折角恥ずかしい台詞を我慢して喋ってたんだから、せめて最後まで言わせてよね」

「馬鹿なことを言うな。自分が何を口にしてるかわかってるのかよ」

「ええ、理解してるわよ。キリトが人殺しだって言うなら、あたしもその罪を一緒に背負ってあげる」

 

 事も無げに言い放つリズにカッと頭に血が昇った。何を血迷ったことを言ってやがる。

 

「そんなこと俺は望んじゃいない! 俺の過ちは俺自身のものだ、決して誰かに渡していいものなんかじゃない……!」

 

 はじまりの街でクラインを、彼の仲間を、そして大勢の初心者プレイヤーを見捨てた。第一層フロアボス戦ではこの手で直接プレイヤーの命を奪った。ラフコフ相手とはいえさらに二人ものプレイヤーをこの手にかけた。

 それだけじゃない、迷宮区でもフロアボス戦でも、俺の力が足りなかったばかりに見殺しにしてきた命は数え切れないほどあった。俺は誰かを救うために誰かを見捨てるという命の取捨選択を、今日まで幾度となく繰り返してきたのだ。直接、間接問わず、俺の足元には多くのプレイヤーの血と屍が敷き詰められていた。

 

 人の死をなかったことにしちゃいけない。その生を決して無駄になんてしちゃいけない。せめて犠牲に報いるためにも一日も早いゲームクリアを。その一念で今日まで生きてきた。生き永らえてきた。戦うことでしか俺の罪は償えないのだと、そう信じて。

 その俺がどうして今更、罪も罰も投げ出したりできるものか。ましてその重みを別の誰かに背負わせるなど、そんな無責任な真似を誰が出来るものか……!

 激昂して睨みつける俺を、しかしリズは意にも介さず平静そのものの口調で続けた。

 

「ええ、そうでしょうね。だからあたしが背負うのは、これから先、キリトが背負う罪の半分よ。あんたがあたしの剣を振るって人を傷つけるのなら、その罪はキリトだけのものじゃない。あたしが背負う重さになるの」

「これから……先?」

「そうよ。だってキリトはまたプレイヤー同士で戦うかもしれないんでしょう? 行方の知れないラフィン・コフィン団長PoHと」

「……っ!」

 

 俺は……俺は何を言おうとしたのだろう。

 何と――答えようとしたのだろう。

 

「キリト、よく聞きなさい。あんたには枷が必要よ。誰かがブレーキにならないと、あんたは色々な物を背負い過ぎる。幸か不幸かそれが出来てしまう器なの。だからこの剣を受け取りなさい。受け取って、キリト自身を縛りつけるべきなのよ。――お願い、あたしの剣がキリトを守ってくれるって、そう信じさせて……!」

 

 喘ぐように息が詰まり、言葉が出ない。

 リズは決して俺に戦うなと言ってるわけじゃない。人を斬るなと言ってるわけじゃない。

 だからこそつらかった。リズの壮絶に過ぎる献身と覚悟に震える手が止まらない。どうしてそこまで――。

 リズは泣きそうな顔で俺を見つめていた。きっと俺も似たような顔でリズと向かい合っているのだろう。

 ここまで自分を情けなく思うことはなかった。ここまで自分が女々しい人間なのだと思い知らされることはなかった。

 

「……グリムロックにも忠告をされた。俺はそんなに危うく見えるのか?」

「見る人が見ればね。ラフコフ討伐戦から間もない時期っていうのもあるかもしれないけど、あんた相当参ってるでしょう? 無理してるのが見え見えよ。だからさ、攻略を忘れて休めとは言わないけど、せめて気を楽にしなさい。あたしはあんたに死んでほしくないの」

「だからってリズが俺に付き合う必要なんてないだろ」

「必要があるかないかじゃないわ。あたしがしたいかしたくないか、それだけよ。あたしはキリトの力になりたいと思った。キリトの負担を軽くしてあげたいと思った。あたしの心はあたしのものよ、キリトにだって否定させたりはしないわ」

 

 腰に手を当て、胸を張って声高らかに宣言する彼女は美しかった。凛として立つその姿に、攻略組の範として活躍を続けるアスナの姿が重なり、こんなところまで親友同士というのは似るものなのかと妙な感慨を抱いたものだ。眩しいほどに魅力的で、輝かんばかりの躍動する生命力に圧倒されてしまう。

 黒の剣士だなんだと言われていても、内実はこんなものだ。たった一人の女の子にすら敵わない、その程度の男でしかなかった。

 それでも――それだからこそ、これで奮起できなきゃ嘘だろう。リズにここまで言わせておいて、覚悟を決めさせておいて、俺自身がいつまでも俯いていて良いわけがなかった。

 きつく目を閉じ、唇を噛み締めて、身の内に潜む弱気の虫を悉く駆逐しようと丹田に力を込めた。ゆっくり――ゆっくりと呼気を整えていく。

 長く苦しい沈黙を挟んで、ようやく覚悟の決まった俺とリズの視線が交錯した。

 

「俺の左手の装備スロットはリズのものだ、リズの打った剣しか使わない。このゲームがクリアされるその時まで、ずっと。……それでいいんだな?」

 

 本当に、それで後悔しないんだな、リズ。

 

「もっちろん! キリトの剣はいつだってあたしが最高の状態に仕上げてあげるわ!」

 

 応える声は朗らかで、その音色には一切の濁りもなく――。

 これで俺の罪は同時にリズの罪となった。俺が剣を血に染めるたび、その罪科はリズにも降りかかるのだ。リズがそう願い、俺はそれを受け入れた。

 本当に良かったのかと自問する声はある。リズに背負わせる必要のない重荷を預けてしまったのではないかと迷う気持ちもある。そんな俺の煩悶全てを吹き飛ばすように、リズは花咲く笑顔で喜んだ。弾んだ声音は心底嬉しげなもので、俺のほうが面食らうほどのものだった。

 

 後ろを見るな、前を向け、か。

 グリムロックの真摯な声が反響するように脳裏に響く。

 それがどれほど難しいものか、俺は良く知っている。真っ赤に染まった両手を幻視したあの日から、俺の悪夢が終わる日が来るとは思えなくなった。例えこの世界からの脱出が叶おうと、もう二度と桐ヶ谷和人として真っ直ぐに歩くことは出来ないのだろうと諦めてきた。

 でも。

 俺の罪が消えることは決してないけれど。

 歩き続けよう。顔を上げて。重い荷を背負って。一歩一歩前へ。きっと、それが生きるということだ。

 

「なあリズ、芝居の続きをしよう」

「へ? あたし的にはもう目的達成したし十分なんだけど」

「折角だし最後までやっておこうぜ。リズの口上も様になってたんだしさ」

 

 目を丸くして素っ頓狂な声をあげるリズ。そんなリズにからかい混じりの言葉をかけ、反論も待たずにその場に跪いてしまう。もう、と頬を膨らませるも、律儀に芝居を再開してくれるリズは相当人が良かった。

 芝居の続きと言ってもすぐに終わる。正式な手順を踏んだ騎士任命式でもないのだから当然だ。俺達がやっていることはあくまでお遊び、好きにアレンジを加えた、強いて言えばアインクラッド版《剣の誓い》である。アインクラッドは剣の世界なんだから、そのくらいに仰々しくても構わないだろう。

 俺の肩に添えられた剣がリズの元へと引き戻され、リズは剣を鞘に収めると改めて俺に授けようとする。そのまま俺が剣を受け取ったことでこの儀式も終わりとなる――のだが、ここからは俺のアレンジ。

 

「リズ、手を」

「手? まあいいけど」

 

 予定にない俺の言葉に訝しげな表情を浮かべたリズだったが、特に警戒する素振りも見せず俺の前に手を差し出した。

 白く、きめ細やかな指だ。触れることを戸惑わせる細い手首と指先に目をやり、壊れ物を扱うような繊細さを心掛けてリズの手をとった。触れ合う肌を介して伝わる仄かな熱に自然と頬も緩んでしまいそうになる。

 表情を引き締め、厳粛な心持ちで、逡巡することもなく――。

 

 

 リズの左手の甲へと、そっと唇を落とした。

 

 

「今ここでリズに誓う。俺の持てる力全てを尽くして、必ずこの世界を、アインクラッドを終わらせてやる。――約束するよ、リズ」

 

 それは俺の誓いだ。決して違えることのない、果たすべき決意であり、約束。

 《キリト》が《ソードアート・オンライン》をクリアするのだと、誰かの前で初めて、本気で、心の底から宣言したのだった。

 

「な、な、な――」

 

 リズは自分にお姫様なんて似合わないと自嘲していたけど、それはリズが自分自身を知らないだけだ。今、俺の前で顔を真っ赤に染めている可愛らしい女の子は、この世界で俺が出会ってきた魅力溢れる女の子達に負けず劣らずの輝きを放っているんだから。それこそ、俺なんかじゃ到底釣り合わないくらいに。

 

「いきなり何すんのよ、この女ったらしーーーっっっ!」

 

 そんなリズの叫び声を心地よく耳に聞き入れながら。

 長いこと俺の内に沈殿していた黒く重いもやが少しずつ晴れていく感触を、俺はこの時確かに感じ取っていたのだった。

 

 




 白竜の巣の出現設定、白竜自ら促す脱出方法は拙作独自のものです。
 《黄金林檎》が中層階層におけるトップギルドの一つであったことや、《グリセルダ》殺害の過程に《シュミット》が関わってなかったりと原作とは異なっています。

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