ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第01話 はじまりの日、はじまりの剣士

 

 

 楽しいゲームになるはずだった。

 だというのにこの有様はどうしたことだろう。

 

「デスゲーム?」

 

 戦慄く唇から我知らず声が漏れる。

 それは果たして虚脱の吐息か、あるいは怨嗟の嘆きだったのか。

 口にした張本人である俺――桐ヶ谷和人には終ぞわからなかった。あるいはこの世界のキャラクター《Kirito》としてならば、今、自分の胸を渦巻く形容しがたいドロドロとした感情を説明できるのだろうか。……そんなはずがない。

 答えなどわかりきった詮無いことを思い、力なく自嘲の笑みが口元に刻まれる。

 

 現実の桐ヶ谷和人の女顔に辟易して、せめてゲームの中くらいはと願望混じりに設定した仮想体(アバター)は長身の勇者顔だった。目論見としては現実世界では望めない男らしさ、精悍さを表現しようとしたのだが、どうも参考にしたアニメが悪かったのか、それとも表情をつくる自分自身が軟弱なせいなのか、せっかくのアバターもイマイチ迫力が足りていなかった。

 

 それでも長身痩躯にそれなりの装備をさせれば、そこそこ満足できる絵になることはわかっていたので言うほど不満があったわけじゃない。正式サービスが始まったら速攻でレベル上げ(レベリング)を繰り返し、誰よりも早く見栄えと性能を併せ持った装備群で身を固めてやろうと密かに野望を抱いていた。小さな男というなかれ、それがゲーマーというものだ。

 

 しかし、そんな苦心して作り上げたアバター姿も先のデスゲーム開始宣言による余禄として剥ぎ取られてしまった。そしてどういうわけか現実の桐ヶ谷和人そのままの姿形でここ、アインクラッド第一層はじまりの街の中央広場に、駆け出しの冒険者キリトとして立ち尽くしている。

 周りには俺と同様にアバターを剥ぎ取られたことで現実の顔に戻り、その表情に驚愕と焦燥を浮かべ、さらにその体躯にはゲーム開始時に支給される初期装備を身に着けた格好の男女の群れがあった。

 

 もっとも、そのほとんどは男性で女性の姿は圧倒的に少ない。アバターを剥ぎ取られるまでは男女比も半々だったことを思えば、かなりの人数が性別を偽ってログインしていたということだろう。

 しかしそれはネットゲームの常であり、非難されるようなことではなかった。現実の自分と異なる性別のキャラを使用するなど珍しいことではない。ないのだが、実際にそうしたプレイヤーの絵面は悲惨の一言だ。

 

 女性はまだ良い。簡素なシャツにズボンという男物の初期装備は華こそないが、そこまで珍妙な姿にはなっていない。しかしアバターを女性型に設定した男連中は、清潔そうな白の上着に丈の短いピンクのスカートという可愛らしい女性型初期装備設定のせいで、少々見るに耐えない女装姿を形成するに至っていた。本人に責任はないのだがこれはひどい。

 誰もが事態についていけず右往左往するなか、俺は上空に浮かぶ不吉なローブ姿のアバターに険しい視線を叩き付けた。

 

 アバター設定の注意書きに、本来の性別や体格とかけ離れたアバターを作成すると操作に不具合が出る可能性があるため、本サービス開始時点でのキャラクターアバターは出来るだけプレイヤー自身の性別に合わせ、体格も本人に準拠したものを作るよう促していたのは、もしかしてこのためだったのだろうか。

 

 ―――だとしたら茅場晶彦、あんたはなんて残酷なことをするんだ。

 

 射抜くように細めた俺の視線の色には、本サービス開始前、二ヶ月の期間設けられたベータテストのテストプレイヤーとして当選したときに本名をもじって安直に決めた「Kirito」というキャラクターネームに反して、あれこれと思い悩みながら多大な時間をかけて作り出した、まさに努力の結晶である長身勇者顔アバターを消された恨みも多分に混じっていた。

 

 

 

 

 

 ここは現実とは違う、広大な電子世界に構築されたもう一つの世界。

 世界初のフルダイブ対応VRMM(仮想大規模オンライン)ORPG(ロールプレイングゲーム)

 五感全てを電脳世界に飛び込ませる世紀の発明であるナーヴギア、そしてその機能を十全に発揮するために構築された世界――空に浮かぶ鋼鉄の城。全百層からなる超大型浮遊城を舞台に、初期ロット一万本を幸運にも入手できた者達が冒険者として、探索者として非日常に挑む。この世界の名を《アインクラッド》と言い、この世界を起動させるためのゲームソフトを《ソードアート・オンライン》と呼んだ。

 

 そしてこの世界はただ一人の若き天才の手によって作られたのである。

 ナーヴギアの基礎設計からアインクラッドの構築までその全てをほぼ独力で成し遂げた男。

 名を茅場晶彦(かやばあきひこ)

 今世紀最高の頭脳との呼び声が囁かれ、このゲームの成功をもって名実ともにその座を不動のものにするはずだった男。今となっては一万人の人間を仮想世界に監禁し、そこでデスゲームを行わせようとする今世紀最悪の犯罪者だった。

 そう、この仮想世界と現実世界を唯一つなぐ《ログアウト》ボタンが使用不可となり、一万人のプレイヤーは現実に帰ることが不可能になってしまった。全ては茅場晶彦の望みのままに。

 

 彼は言った。

 自分はこの世界をただ一人自由にできるゲームマスターであり、一万人のプレイヤーをこの世界に閉じ込めた犯人であると。

 この世界でHPがゼロになったプレイヤーは、現実世界の本人が頭に被ったナーヴギアによって高出力の電磁波を照射され、その結果脳を蒸し焼きにされて死ぬことになる。

 ゲームはゲームでも文字通り命を賭けるデスゲームと化したこの世界から脱出する方法はただ一つ、アインクラッド最上階《紅玉の間》にたどり着き、そこで最終(グランド)ボスを撃破することだ。すなわちここはじまりの街から100層に及ぶフィールドを踏破し、難解な迷宮区を探索し、各層の最奥を守るフロアボスを撃破しなければならないということだった。

 それをただの一度も死ぬことなしに、つまりHPをゼロに減らすことなく達成しろというのだ。ひどい無茶振りだ、と抗議したい気持ちで一杯だった。

 

 フルダイブでのMMORPGこそ世界初だが、普通のネットゲームとしてのMMORPGは昔から存在していた。そしてMMORPGの大きな特徴の一つは、一般的なコンシューマーRPGに比べて死ぬことが当たり前だということだ。

 ネットゲーム用語でいう《死に戻り》など日常的に交わされる言葉である。とりあえず見知らぬ土地に突っ込んでお試しとして戦った高レベルモブに袋叩きにされて死んでしまうとか、死ぬことを前提として作戦を立ててボス戦に挑むとか、そうでなくても運営主催イベントの一つでもあれば一日に何回も死ぬのは珍しいことじゃない。

 

 加えて、死亡した際のデスペナルティも大抵は現在経験値の1%減少が主流で、アイテム紛失やレベルダウンのような凶悪なペナルティなどほとんど聞かない。あまりにシビアなゲームは玄人受けはしてもライトユーザーには敬遠される。すなわちプレイ人数の確保が難しくなり、やがて採算が悪化して打ち切りになってしまうからだ。

 だからこそデスペナルティというのは軽い扱いに落ち着くのだ。ネットゲームにおける死亡ペナルティは総じて取り返しの容易いものとなる。裏を返せばそれくらい頻繁に死んでしまうのがネットゲームの設定なのだが。

 

 ……そう、これはフルダイブ型ではあってもMMORPGに違いはないのだ。死ぬことを前提としたMMORPG。なのに一度死んだら復帰は許されないばかりか、現実世界で本人の脳が焼かれてしまうというデスゲーム仕様。もはやクソゲーとか鬼畜ゲーとかいうレベルではない。もっとおぞましいなにかである。

 かつて茅場晶彦はソードアート・オンラインについて雑誌インタビューに答えたことがあった。その記事を読んだときは、特徴的なキャッチコピーが不思議と印象に残り、同時にメディア嫌いの天才開発者が意気込みを語るなんて珍しいこともあるものだ、なんて思ったものだ。

 

「これは、ゲームであっても遊びではない」

 

 茅場晶彦は自らの作品であるソードアート・オンラインをそのように評した。

 当時の俺はその台詞を、真に迫った仮想世界を指す、開発者としての自信と自負の表れだと受け取った。

 そして今、茅場晶彦自身の口から、その言葉の真意が語られた。

 この世界は文字通りに命がけのゲームになったのだと。

 

 なるほど、確かに遊び気分でプレイしていいものじゃない。できるものじゃない。茅場晶彦の言う通り、この世界にログインしたプレイヤーは己が身命の全てをかけてゲーム攻略に邁進せざるをえない。

 現実世界に帰るために、死に物狂いで。

 それこそ文字通り命そのものをチップにした壮大なゲームにして無慈悲な現実がここにある。

 

 ……ふざけるな。

 心の底から、それこそ魂の奥の奥から搾り出すように感情が荒れ狂う。

 怒りか、恨みか、理不尽への反発か。

 一万人の人間を拉致しておいて、もはや望みはない? 身代金やら政治目的のテロやらでもなんでもなく、ただ自分の作り出した世界でプレイヤーが命がけで生きる姿を見ることが目的だった? それが達成された以上、もはや求めるものは何もなくなった?

 

 なんだそれは。

 冗談にしては笑えない。

 本気だとしたらもっと笑えない。

 笑えない。笑えない。笑えない。こんなのちっとも笑えない。

 

「ふざけるな」

 

 胸に満ちたどす黒い感情をつぶやき、吐き出す。しかしおさまらない。溜まったマグマが噴き出すように、言い知れぬ怒りと絶望が湧き上がってとまらない。狂熱に浮かされたようにかっと頭に血が昇り――そうして気付けば走り出していた。

 二ヶ月に渡るベータテスト期間において遊べるだけ遊び倒した恩恵か、あるいは現実の体格と同じ設定に戻されたせいなのか、大勢の人間でごった返す混乱の坩堝の中を誰にぶつかるでもなくすり抜けていく。

 背後で赤毛の野武士面が何か叫んだが聞こえなかった。今はただ前に進みたかった。だからきっと聞こえても無視したことだろう。

 

「ふざけるな……ッ!」

 

 全力疾走には程遠い。それでも人の波を抜け、その先の高くそびえる鐘塔が目前に迫る。

 建築物は基本的に破壊不可能オブジェクトに設定されているため、乱雑に扱ったところで傷一つつかない。人の波を抜けてさらに加速し、壁面を蹴り砕く荒々しさで駆け上る。壁走りとは言わないがそれに近い曲芸だ。

 こんなアクロバティックな動き、現実の身体ではとても不可能だが、ここはゲーム世界、仮想世界なのだ。レベルは初期値、敏捷ステータスもベータテスト時とは比べようもなく低いままなのが気がかりではあった。それでも問題なく走り抜けることができたのは僥倖(ぎょうこう)だ。

 頂上に吊るされた鐘を無視してさらに上へ。駆け抜け、跳び上がり、そして剣を構える。

 

「ふざけるなよ茅場――茅場晶彦ッ!!!」

 

 折り宜しく、チュートリアルを終えたローブ姿の不吉なアバターは、これで仕事は終わりだと言わんばかりにその姿を消そうとしているところだった。

 だがな、言いたいことだけ言ってさようならとは虫が良すぎるとは思わないか茅場晶彦?

 たとえそこにいるのが幻影だろうが空中投影の映像だろうが、せめて一太刀くらいはくれてやらなきゃこちらの気が済まない。どうせならその空中に浮かぶ巨大アバターに茅場晶彦本人が宿っていたら最高だ。

 

 そんな平時の自分なら引いてしまいそうな危険思想を抱きながら、背に吊るした剣帯から初期装備品として支給されている《スモールソード》を引き抜き、準備時間すらもどかしいと逸る気持ちをこらえてソードスキルを発動させる。ソードスキル毎に定められた特有の燐光――水色の輝きが刀身を覆い、程なく視界の端で弾けた。

 駆け上がった勢いそのままに空中へとこの身を躍らせ、タイミングよく発動させた片手直剣ソードスキル《スラント》によってさらに跳躍距離を稼ぐ。

 

 気味悪いローブ姿のアバターは上空高くに浮いていたし、建造物からも距離を離している。それでも目算でいけると判断した俺の感覚は間違っていなかったと密かに自画自賛した。頭に血が昇っていても《対象を斬れるかどうか》の判断を正確に下していたことは誇るべきなのだろうか?

 ふとそんな詮無い疑問を抱くものの、そんなもの知ったことかと激情のままに繰り出した俺の剣が、今にも消えようとしていたローブ姿のアバターを捉えた。空に走る一条の剣閃は袈裟の軌道を描き、何の障害もなく茅場の操るアバターの胸を切り裂き、貫いたのだった。

 

 剣先から伝わってきた重く確かな感触に驚きも露わに目を見開く。

 てっきりただの幻影として処理され、俺の剣は奴のアバターをすり抜けるだろうと思っていたのだが、剣から伝わる感触は間違いなく実体を伴っていたのだ。その事実に意外な思いを抱くと同時に、茅場晶彦を名乗った巨大人型アバターがポリゴン結晶を撒き散らしながら霧散した。いっそあっけないほどだ。

 その事実が意味するところを思考に乗せつつも、身体は自然と空中で姿勢を整え、やがてくる着地に備えていた。

 いくら街の中がダメージ無効エリアだろうと、ああも高い位置から無防備に地面に落ちたならその衝撃はかなりのものになろう。落下ダメージはともかく落下に伴う衝撃まで親切に取り除いてくれる仕様ではなかったはずだ、無様に石床を転がりまわるのは御免だった。

 

 俺の視界の先では、突如空中に飛び上がったかと思えばゲームマスター扮するアバターを剣で貫き撃破したプレイヤー、つまりは俺を呆然と見上げていた数多のプレイヤーの姿でごった返している。その観衆の一部が慌てたように動き出した。俺の着地点付近にいたプレイヤー達だ。

 一連の事態に混乱の極致にあったようだが、さすがに踏みつけられるのは嫌だったと見える。俺だって人を踏みつけたくもない、自主的に避難してくれるなら有り難い、と苦笑しながら綺麗に着地を決めた。足先から痺れにも似た衝撃が伝わるもののHPに変化はない。これは予定通り。

 

 しかし予定通りなんかじゃないこともある。今はこの事態にどう対処するかだ。

 中央広場を満たしていたざわめきはぴたりと消え、痛いほどの沈黙が残されていた。万に迫る人間が集まっていることを思えば不気味極まりない有様である。

 この場は今、茅場のデスゲーム宣言がもたらした怒号と混乱から一転、突拍子のない行動を取った童顔の子供――つまり俺が原因でなんとも形容しがたい戸惑いの空気が蔓延っていた。誰もが次のアクションを起こせずに周囲を見やり、また原因である俺を見やり、と一種の膠着状態が形成されていたのだ。

 

 パニックにならなかったことを幸いと見るべきか、考えなしに飛び出した浅慮な己を恥じるべきか。後先考えずに駆け出した行動を反省しながら、綺麗に着地したまま動かない俺は広場に集まった全プレイヤーの注目を集めていた。

 俺が何をしたのかを考えてみれば至極当然ではある。しかし俺自身も感情のままに動いた結果だったわけで、何かの意図の元に起こしたアクションではなかった。そんなものを俺に求められても困るのである。

 しかしだ、《茅場晶彦にむかついたので斬りかかりました》とか、冷静に考えるまでもなく危険人物としか言いようのない所業を口に出来るはずもない。

 

 ……どうしよう?

 

 もういっそ逃げ出してしまおうか、そして誰とも関わらずソロプレイヤーとして攻略を目指す。うん、いいかもしれない。元々俺は社交的なキャラじゃないし、そうしたほうが自分にも他人にも優しい選択のはずだ。そうだ逃げようそうしよう。

 

「お、おい、あんた」

「……なにか?」

 

 そんな後ろ向きな決意を固めた矢先、出鼻をくじくようなタイミングでかけられた声。俺の程近くに所在なく佇んでいた、太り気味の男性プレイヤーのものだった。機先を制された形になったことを少々、いや、かなり迷惑に感じていたのだが、それは俺の八つ当たりだろうと自制を心掛ける。俺の怒り諸々を向けるべきは茅場であってこの人たちではないのだから。

 そう考えることでどうにか気を落ち着かせた。そうして何事もなかったかのように立ち上がり、その男性プレイヤーに向き合って返答すると、なぜか俺より5つは年上だと思える青年は怯んだように後ずさってしまう。

 何故(なにゆえ)に?

 おかしい、友好的に話しかけたはずだ。第一、現実世界の顔に戻されてしまったのだから俺なんてもやしっ子の女顔だぞ? 間違っても迫力溢れる強面というわけでもないのに、どうしてこうも怯えられなくちゃいけないんだ?

 

「……キリトだ。それで何か?」

 

 もしかして名前がわからないのだろうかと思って自分から名乗ると、なぜか男はさらに引きつった顔になってしまった。

 訳がわからない。 いや、現実世界ではないのだから名前程度の情報は男の視界にも表示されているはずだ、現にこちらからは相手のキャラクターネームが見えている。だとしたら彼が戸惑っているのは名前がどうこうではないだろう。と、なると――。

 

「ああ、いや、横柄な口を利いて申し訳ありません。別のMMORPGの癖が残っていて、まだ役割演技(ロールプレイ)をしていることに気付きませんでした。こんなことになって混乱していたっていうのも言い訳ですね。重ねてお詫びします。それで何か俺――僕? 違うか、私に聞きたいことでも?」

 

 別の、というよりはベータテスト時での、と言ったほうが正確だろうけど。それを口に出す勇気は俺にはなかった。

 おっと、笑顔笑顔。それにいつまでも抜き身の剣を持っているのも威嚇になると遅まきながら気付いたため、なるべく自然に、さりげなく鞘に収めて友好的な態度を心掛ける。俺にしては上出来な対応だろう。

 これでだんまり続けられたらもう逃げる。絶対逃げる。俺の乏しいコミュ力で対応できる範囲を超えているのだから仕方ない。

 

「いやいや、俺なんかに敬語なんていりませんってキリトさん。なあ、そうだろ?」

「あ、ああ、そうだな、うん」

 

 ますます恐縮したようにへりくだる男の態度にひたすら不審なものを感じるが、だからといってどうするべきかなんて知らない。同意を求められたこれまた混乱の極致にいるようなやせぎすの男が慌てて相槌を打った。

 ちなみにこのやせぎすな男、哀れなことに全く似合わない女装姿を披露している。茅場の強制アバター解除の最たる犠牲者の一人であった。南無南無。

 

「……まあ、あんたらがそれでいいなら戻すけど。で、俺に何か聞きたいことでも?」

 

 これで話を促すのも一体何度目になることか。

 不本意ながら広場に集まった全プレイヤーの注目を無駄に集めてしまった上、不自然に張り詰めたこの空気が支配する場所から一刻も早く立ち去りたいというのに、一向に話が進まない。そんな苛立ちが表情に出たのか声に出たのか、太っちょの男の大袈裟な身振り手振りと、焦っていることがありありとわかる早口で返答はやってきた。

 

「いえ、そのですね、キリトさんはどうしてあんなことを?」

「あんなことっていうのはローブ姿のアバターを攻撃したこと、でいいのか?」

 

 俺の確認にこくこくと頷く男二人。周りを取り囲んだ人間のなかにも頷くものもいれば興味深く観察を続けるもの、不安そうにこちらを見ているものと様々だ。

 ……いや、だから意味なんてないんだって。くたばれ茅場と思って攻撃しましたとか言えないしさ。

 格好悪いとか外聞悪いとかより何より、ここにいる人間は皆クリアするまで脱出不可能なデスゲームだと知らされたばかりなのだ。パニックにならなかったのだってそれ以上の驚きに一時的な均衡状態が保たれているだけで、プレイヤーの胸中には怒りや不満、恐怖に不安がとめどなくあふれ出してきているはずだった。そこに妙な刺激を与えればそれだけでパニックがぶり返しかねない。

 

 この中央広場は今、極めて危うい均衡の上にある。例えるなら火薬庫だ、火種を投じれば大爆発を起こしかねない危険な空間。

 そんな場所で、気に入らない人間を見たら即座にソードスキルを放つ危ないプレイヤーだなんてレッテルを貼られようものなら、この場で俺を対象とした魔女裁判の吊るし上げに移行しかねない。火あぶりにされるのはごめんだ。

 

「あのアバターが茅場晶彦自身の可能性がわずかでもあったから、かな」

「それはどういうことで?」

 

 よし、こうなったら適当に誤魔化そう。

 嘘も突き通せば本当になる。手札がないときはとりあえずハッタリかませ。レイズは大きく張るべし。

 基本方針は決まった、後は口八丁でこの場を切り抜けよう。苦手だとか言ってる場合じゃない、俺自身の命がかかってるんだ。なんとかそれっぽく取り繕わないと、モンスターに殺されるまえにPK(プレイヤーキル)で殺される。

 冷や汗たらたらな内心などおくびにも出さず、これ以上はないほどポーカーフェイスを意識し、重々しく口を開いた。

 

「茅場晶彦は俺達を閉じ込めた時点で目的を達成したと言った。そして百層まで辿りつくのを楽しみに待っていると口にした。やつの言葉を信じるなら、茅場晶彦は俺達をデスゲームに参加させはしたが殺すこと自体を目的にしてはいない、むしろ生きてクリアするその過程こそを重要視しているように思えた。だとしたら百層で待つ最終(グランド)ボスは茅場晶彦自身である可能性がある」

「そうかっ! もし茅場晶彦がラスボスだというなら」

「ああ、今ここで茅場晶彦の操るアバターを撃破できれば、もしかしたらグランドボスが撃破されたとシステムに誤認させられるんじゃないかと思ったんだけど……何も起こらない辺り、無駄だったみたいだな」

 

 ここでため息一つ。ちょっと演技くさかったか?

 

「それじゃ茅場は今も生きてる?」

 

 これはやせぎすの男の方か。特に気にした風もなく会話に加わったあたり、太っちょの男とはそれなりに親しい関係なのだろうか。初期ロット一万本で知り合いが既にいるというのは、俺のような先行千人のベータテスト経験者じゃないと難しいと思うんだが。

 いや、考えてみれば俺だってログインしてからデスゲーム開始宣言までの時間で、赤毛の野武士面とそれなりに話す関係になっていたんだから、不思議なことでもないか。そういえばその赤毛の野武士――クラインのことをすっかり忘れてたけど、やつは今どうしてるんだ? 近くにはいないみたいだけど。

 

「生きてるだろうな。というより、そもそも俺達と違って茅場の使うナーヴギアは死んだら高圧電流が流れるなんて仕掛けはされてないだろうさ。ナーヴギア自体使ってるかどうか不明だしな。そうでもなければ遠慮なくソードスキルなんて叩き込めないよ」

 

 茅場を殺す気なんてありませんでしたよアピール……!

 あくまでシステム誤認を狙っただけで、攻撃したのがたとえ茅場晶彦であろうとも人を殺そうしたわけではない。ここ大事。とても大事。実際にはそんなこと考慮の外で斬りかかったわけだけど。しかしそんなことは俺以外の誰も知らない。

 

「ついでに言えば、あのアバターに攻撃が通ったこと自体が驚きだよ。街のなかは基本的に犯罪防止コードが働くから、プレイヤーのHPが減ることはない。どうしてもっていうなら決闘システムを使う必要があるわけだけど――ああ、それは蛇足か。ともかく、あれに攻撃が通ったのはモンスター扱いに近かったせいかもな。だからと言って経験値もコルも獲得できなかったから、単に不死属性の抜かれたオブジェクトだった可能性もある。今となっては真実は茅場のみぞ知るってやつだし、知って意味があるとも思えないな。今のところ俺達が現実に帰るためには百層を攻略する以外になさそうだ」

 

 多弁は焦りの裏返しだった。だからこそ俺の内心を悟られないよう、殊更ゆっくり、一言一句確かめながら口に出したのだ。それと安全圏でプレイヤー攻撃なんて出来ないことを知ってる俺が茅場を殺そうとするわけないじゃないかとさりげなく、そしてここぞとばかりに主張しておく。

 俺は危険人物じゃない。だから火あぶりは勘弁してくださいお願いします。

 

「それじゃ、結局君の狙いは効果がなかったってことか。……残念だ」

 

 暗い顔で頷きあう太っちょにのっぽ、周りの連中も似たような顔をしている。よかった、どうやら俺の口からでまかせ作戦は成功したらしい。割とスラスラ嘘が出てきたことに地味にショックを受けながら、内心の動揺など気付かせないようわずかに口角を持ち上げ、笑みを作り上げる。

 

「効果ならあったさ。あんなふざけたことを言いやがった茅場晶彦のアバターに一撃だけでも届いたんだ。少なくとも俺のストレス発散には役立ってくれた。あとは頂上に登るまで溜め込んだストレスやら積もり積もった恨みつらみやらを、本命の茅場晶彦本人にぶつけてやるだけだ」

 

 最後に冗談っぽく一言を加え、和やかな空気にして終わらせようとした。ついでにプレイヤーの意識を攻略に向けておこうと保身も混ぜて。俺なんぞに構ってないで元凶の茅場を一発殴るために攻略に邁進してくれ、多分そのほうが健康的な生活を送れるはずだ。デスゲームの渦中に健康もなにもないと突っ込みが聞こえてきそうではあるけどな。

 彼らの疑問には答えたんだからもういいだろう。後はクラインを捕まえて、この広場から離れた適当な場所で今後についての打ち合わせといったところか。

 ベータテストからゲームシステムに大幅な変更が入ってないなら、さっさと次の村に向かったほうがレベリング的にも遂行クエスト的にも美味しい。加えて言えばソロないし少人数PTのほうが経験値効率は断然美味いのはベータテストで証明されている。少なくとも序盤のうちは、と但し書きは必要ではあるけど。

 

 クライン次第だけど、どうしたもんかな。ソロで攻略を開始するか、それともクラインを誘ってペアで経験値稼ぎをするか。効率と安全を考えるなら最善はペア、次点でソロ、妥協で三人PTだろう。それ以上に人数が増えるのは好ましくない。

 どうするのが最善か。それにまわりの連中がどんな反応を示すのか。引きこもるのか、冒険に出るのか、地盤を固めるのか、攻略を急ぐのか。

 懸案事項なんて山ほどあるのだ、悩んでも仕方ない。というより悩むことが多すぎて対処できないのが本音だった。今は悩むより行動すべきときだろう。

 

 クラインの姿が見えないため、集合場所を記したメッセージを飛ばして一旦この場所を離れるほうがよさそうだと判断し、右手を振ってメニュー画面を呼び出して操作する。

 そもそもあんな大立ち回りを演じてしまった俺が、いまさら攻略しないで街に引きこもりますとか言えないしな。

 そんな情けないことを内心考えながら、ふと周りを見渡すと誰も彼もが表情を引きつらせて俺を見ていた。

 おかしいな、俺が危険思想など欠片もない善良なプレイヤーだと皆にも理解してもらえたはずなんだが。しかも攻略に意欲的で模範的なプレイヤーだと示しておいたはずだ。だというのにこの『恐ろしいヤツを見た』的な視線の集中砲火は一体どういうことなのだろう? 俺は一体どこで何を間違えたのか、皆目見当がつかない。

 

 そうそう、わからないといえば、このスキルメニュー欄に表示されているこいつもわからない。クラインと狩りを楽しみながら確認した時点ではなかったはずのスキルが、なぜかスキル一覧に表示されていた。

 レベルは上がっていない、スキルポイントを使った覚えもない、クエストも当然達成どころか受注すらしていない。だというのになぜかスキル欄に新たなスキルが一つ追加されていた。

 

 

 スキル名:賢者の才(セージギフト)

 スキル効果:スキル保有者がモンスターに止めを刺した時のみ、獲得経験値200%増加。

 

 

 明らかにゲームバランスを崩壊させそうなスキルが燦然と輝いていた。

 どういうことだ? 特殊条件開放スキル? さっきのアバター撃破が条件だったとか?

 ……もしかして茅場は自分のアバターが撃破されて喜ぶ変態だったのだろうか。

 それは勘弁してほしい。茅場晶彦は俺達をデスゲームに引きずり込んだ最悪の敵なのであって、特殊性癖を持つ変態であっていいはずがないのだから。背筋を震わせるような嫌な想像に表情が青褪めるのがわかったがこれはどうしようもないだろう。狂人に変態までプラスされたアレな天才の作り出した世界を生き抜くとか、どんな罰ゲームだ。

 

 ため息の一つもつきたくなる。前世の俺はそこまでひどい悪行を積んでいたのだろうか。そこまで神様に嫌われたのだろうか。

 現世の俺は実の両親が事故で亡くなった後も世を儚んだり変に拗ねた根性を発揮したりせず、俺を引き取ってくれた優しい叔母夫妻と彼らの娘である直葉と仲良く慎ましやかに生きてきたというのに。……幼すぎて両親が死んだことを知らなかっただけだけど。

 問題があったとすれば、ひょんなことから実は養子として引き取られたと気がついて桐ヶ谷夫妻を問い詰めた後、どうにも妹の直葉――正確には従妹と判明したスグとの距離感がわからなくなってよそよそしくなってしまったことか。

 元々兄妹仲が良かった反動だろう、スグも俺に距離を置かれていると気付いてからは、時折切なそうな目を向けてくるようになった。そのたび、気付かない振りをしてやりすごしてしまっていたけど。

 

 ……あれ? もしかしてそれが原因だろうか。

 そりゃ、もし運命の神様がいたら可愛い可愛い妹を泣かせる馬鹿兄貴に嫌がらせの一つや二つするよな。誰だってそうする、俺だってそうする。

 すまんスグ。生きて現実に帰れたら真っ先にお前に謝ることにするよ。

 

 さて。

 割と本気な現実逃避にしばし浸っていた俺を正気に戻したのは、俺の名を呼ぶ野太い男の声だった。男臭いと形容するほど重い声音ではなく、どことなくお調子者の気配を感じさせる気安さがある。

 思えばコミュ障もといコミュニケーションに苦手意識を抱える俺のような人間が、出会って数時間の、それも年齢の離れた男を友人だと認識している時点で、この赤毛の野武士面はコミュ力抜群だと思わざるをえない。羨ましいことだ。

 

「おーい、キリト。ようやく追いついたぜ。いきなり駆け出すわ茅場の野郎にソードスキルぶちかますわ、とんでもねえことすんなあ。あんまし無茶すんじゃねえぞ」

「悪かったクライン。結果的には問題なかったわけだから許してくれ」

「そりゃそうだけどよぉ。しっかしお前、この空気をその一言で済ませるのもどうかと思うぜ?」

 

 そう言って戸惑った顔で周りを見渡すクラインに釣られたように視線を巡らせると、相変わらず大勢のプレイヤーが何をするでもなく俺を中心に取り囲んでいた。

 いや、取り囲んでいるというのも錯覚なのだろう。誰も彼もが事態の変遷についていけず、大勢の人間が集まるこの場から動けずにいるだけだ。わけのわからない事態のなかで一人にはなりたくない、という集団心理でも働いているのだろう。

 気持ちはわかる。いきなり《このゲームは命懸けのゲームになりました》と言われて不安に思わない人間なんているはずがないだろう。動かないのではなく動けない。多分、その表現が正確だ。

 

 もっともそれは全員ではない。

 例えば俺のようなベータテスター、あるいはMMORPGでなくともフルダイブ環境に慣れているプレイヤーや逆にフルダイブは初めてでもMMORPG自体には慣れている連中のなかには、そろそろ動き出す一群が現れるはずだ。何故といって、他ならぬ俺自身がそう行動していたはずだからである。

 たまたま周囲をプレイヤーに囲まれ、行動を共にするか検討中のクラインがこの場にいるから動けないだけで、動き出せるようならさっさと動いているはずだった。

 

 茫然自失状態の大勢のプレイヤーには悪いが、俺もさっさと次の村目指して動き出すべきだからだ。この街に残っていても何も解決しないし、こんな事態になってしまった以上、キャラクターアバターのレベル上げはなにより優先されてしかるべきだった。

 外部からの救出が早期にあればいいが、長期にわたってデスゲームの状況に変化がなければ人の心なんて簡単に荒れる。プレイヤー同士の争いも増えるだろう。そうなったときに頼れるのは自分の力だけだ。すなわち、レベルを上げ、資金を稼ぎ、強力な装備で武装することで身を守るしかない。

 

 ベータテスト時の経験を生かして効率の良いプレイをするのが現状一番安全性が高い、はずだ。

 まして一万人近いプレイヤーが同時接続している状態なのである。いくらアインクラッドが広大な敷地面積を誇るとはいえ、何千人ものプレイヤーがはじまりの街周辺の狩り場に篭っていてはあまりに非効率だ。レベリングどころの話ではない。

 だからこそ。

 

「なあクライン。今後のことで話があるんだ。場所を変えないか?」

 

 クライン一人くらいなら俺がフォローしてやれば二人で次のホルンカの村まで無事にたどり着ける。そこで三層の迷宮区までなら十分通用する片手直剣が報酬にもらえるクエストをクリアし、他プレイヤーに先行した利点を生かして高効率のレベリングを行えば良い。

 しばらくはレベル上げ以外にすることもないだろう。その後のことは周りの状況を見てから決めればいい。それが今のところ俺が考え付く安全と効率を考えたベタープランだった。

 

 しかしそんなことをこの場で口にできるはずがない。

 お前ら見捨てて俺らは悠々とレベル上げすることにするわ、あばよ! とか、そんな人でなしの提案を口に出来るわけがなかった。口にしたらまたしても魔女裁判よろしく迫害対象に真っ逆さまである。それでは茅場の一件を嘘八百で無事に切り抜けた甲斐がなくなってしまう。

 だからこそ俺はクラインに場所を変えようと提案したわけだが、それを聞いたクラインはどうしたわけか難しい顔になって考え込んでしまう。と、思えばやけに真剣な顔で覗き込むように俺に視線を向けてきた。睨みつけるというほど強くはないものの、それは真摯な男の目をしていて、思わず身を正したくなる迫力があった。

 

「いや、場所は変えずにここでいい」

 

 そんなクラインの言葉に俺は内心慌てまくっていた。だからそれはまずいんだよクライン、俺の身勝手なスタートダッシュ作戦をこの場で言えとか、そんなことは不可能なんだから。

 

「クライン、それは……」

「キリト、お前が考えていることはなんとなくわかる。この場で言えねえってんなら、それは周りの連中にとって面白くないようなことなんだろう。実際、もう何人かは街の外に向かったみてえだからな。……最短距離で攻略を目指そうって言うんだろ」

 

 なんとか叛意させようとしかめっ面を作ってみるものの効果は然程なかったらしい。クラインはいっそ穏やかに首を左右に振ったかと思えば、一言一句区切るように力をこめて聞き取りやすい声で続けた。それはさながら神聖な宣誓を告げた厳かな一幕のごとく、ざわめきたった広場の群集の間を駆け抜けていく。

 そして訪れる沈黙。

 言いにくいことをクラインはずばり口にしてくれた。ベータテスターの先行はあくまで俺の推測だったわけだが、クラインはすでにこの広場を抜け出して行った連中の姿を捉えていたらしい。

 考えてみれば俺がベータテスターだと知っていて、なおかつMMORPGの知識をそれなりに持ち合わせているクラインだ。俺の、いや、俺達の思惑に気付くのはそう難しいことでもないか。それこそ、冷静になれば大抵の連中に看破される程度のことだ。

 

 MMORPGはシステムの供給する限られたリソースの奪い合いだ。特に《ソードアート・オンライン》のモンスター湧出(POP)システムは先行したプレイヤーに有利な仕様になっていた。一つのエリアに出現するモンスターは一定時間毎に何匹までと決められている、これもまたベータテスト時点で判明していた情報だ。そして狩場の数が豊富ならば問題ないが、現時点でははじまりの街周辺の草原地帯くらいしか狩場の候補がない。明らかに狩場の許容適正人数をオーバーしてしまうのだ。

 そして一度狩りつくされてしまえば、再度湧出するモンスターを待たなければならなかった。その奪い合いだって先行することでステータスに秀でた高レベルプレイヤーのほうが有利に決まってる。

 

 つまりはそうしたリソース確保の争いに優位に立つべくスタートダッシュを選んだプレイヤーがいる、ということだ。そいつらはベータテスターを中心に自分達の都合だけを優先するずる賢いやつらなのだと、そう結論付けられるのも遠い先のことではないだろう。

 そしてクラインがその事実を示唆した以上、ここで俺がだんまりを続けることに意味もなくなった。まあ、アインクラッドにログインするまでは元々ソロで活動するつもりでいたんだ、いざとなれば吊るし上げられる前に逃げ出してしまえばいいか。

 

「……ああ、そうだ。俺はこの後すぐに次のホルンカの村に行き、そこで受けられるクエスト報酬の片手剣を目的に狩りを始める予定だった。安全と効率の両面から言ってそれがベストだと判断したんだ」

「それがベータテスターとしてのお前の判断なんだな」

 

 ベータテスター。

 その言葉にまた周囲がざわめく。多少なり頭のまわるやつは先のクラインの発言と合わせて気付いただろう。既に動き出したプレイヤー、その素性と目的にも。

 

「初期レベルでも一人くらいなら俺がフォローできる、次の村まで無事にたどり着ける自信はあるんだ。なあクライン、お前はどうする?」

「……誘ってくれてることはありがてえんだがな。ほら、おめえには話したろ、別のゲームで知り合いになった連れも一緒に来てるって。さすがにそいつらを見捨てて俺一人お前の世話になるわけにはいかねえ。これでもギルド長だった責任ってやつがあらあな」

「そっか。……いや、お前のほかにもう一人くらいなら、なんとか」

 

 我ながら未練がましい言葉だった。

 

「すまん、一人だけじゃねえんだ。こんな状況でお前も足手まといを何人も連れて、ってのは無茶だろ。好意だけもらっとく」

「……わかった。そういうことなら仕方ないな」

 

 クラインの言葉に納得はして見せても、その一方で落ち込む自分がいることをどうしようもなく自覚した。ゲーム上の死が文字通りの死に変わってしまったこの残酷な世界に、一人取り残されたような孤独感が心を苛む。

 馬鹿な、何を身勝手なことを考えている。俺がやつらに見捨てられたんじゃない。逆だ。俺がやつらを見捨てようとしてるんだ。だというのになにを被害者意識になっているのだろう。

 そんな醜い本心を曝け出すわけにもいかず、一度強く目を閉じて精神を落ち着かせようとする。余計な事を考えるな。これから死と隣り合わせの世界をソロで生き抜くことになるんだ、そんな中途半端な気持ちで集中力を切らせばどうなるかなど明白だろう。

 一度だけ呼吸を吐き出し、何事もなかったような顔をしてクラインと再び向き合う。そんな時だった、クラインが妙なことを言い出したのは。

 

「おめえが一日でも早く茅場の野郎をぶっ飛ばしてやりたいって気持ちはよくわかる。多分、ここにいる連中は多かれ少なかれあの馬鹿野郎をぶん殴りたいと思ってるはずだ、俺だってそうだしな。だから俺はお前を止めたりしない、非難したりしない。でもな、死ぬんじゃねえぞ。俺が追いつくまで、絶対生き延びて見せろよな」

 

 ん? なんだか変な誤解をされているような……?

 そういえば茅場に突貫した後、口から出任せでそんなふうにも取れることを言ったような気がしなくもなくもない。あれ、何がおかしいのかわからなくなってきたぞ。

 い、いや、それより今はクラインの心意気に応えるべきだろう。こう、空気的に。

 

「誰に言ってんだよ。お前が追いつく前に最上階にたどり着いて茅場をぶっ飛ばしてやるさ。それでこんな馬鹿げたゲームはおしまいだ。だから俺の心配をする前に自分の心配をしてろよクライン。フレンジーボアを『中ボスだと思ったぜ』、なんて言ってるレベルじゃ危なっかしくて仕方ないんだ。俺に追いつくなんて夢見てないで、ゆっくり分相応にレベル上げしろよな」

 

 声が湿っぽくならないよう、表情に不安を乗せないよう、意識して不敵に笑って見せた。憎まれ口も叩いて見せた。

 

「へ、言うじゃねえか。それとなキリト。今日初めて会った俺に、嫌な顔一つせず戦闘をレクチャーしてくれた優しいお前のことだ、一刻も早くゲームをクリアして俺らを解放しようとしてるんだろうが、あんま急ぎすぎんなよ。俺は大人で、お前は子供なんだ。現実世界とアインクラッドは別世界みたいなもんだし、あっちとは別のルールで動いていくことになるんだろうが、だからって大人が子供に全部任せるなんて格好悪いこたあ俺はごめんだからな。ちゃんと俺にも見せ場を残しておけよ」

 

 おどけたように励ましてくれるクラインは本当にお人よしの良いやつだった。ただなクライン、その勘違いっぷりはどうにかならないんだろうか。別に俺はその他大勢のために一日も早いゲームクリアを、だなんてこれっぽっちも考えていないし、次の村にすぐ向かうのも攻略のためじゃなく効率のためだ。もっとも攻略と効率は切り離せない関係なのも事実ではあるけど。

 しかし死にたくないための高効率レベリングソロプレイが、全プレイヤーの開放を願って早期攻略に邁進するための効率プレイに勘違いされているとか、これは一体どんな喜劇だ? いや、むしろ俺にとっては悲劇なんじゃなかろうか? いずれ落ち着いた頃にでもクラインの誤解は解かなければ……。

 もう何を言うべきやら、言葉に詰まった俺はさっさとこの場から逃げ出したかったのだが、残念ながらクラインはまだ俺を逃がしてはくれないようだった。

 

「そうそうキリト。お前に追いついてみせるって言ったそばから情けなくて悪いんだが、俺らがこれからどう動くべきかを聞かせてくれねえかな。参考にしたい」

 

 俺ら? ああ、以前別のゲームで同じギルドに所属してたって仲間のことか。確かに俺が戦闘をレクチャーしたのはクラインだけだし、それもデスゲーム仕様ではなく遊び感覚での話だ。こうなった以上戦闘のコツとか気をつけるべきポイントとかも、多少なり話しておいたほうがいいのかもしれない。

 

「……そうだな、そうしようか。でもな、クライン。俺が知ってるのはあくまでベータテストでのアインクラッドだ。もし俺が茅場の立場にあるなら、ベータテスターに優位なだけの状況を放置することはない。モンスターの配置やアルゴリズム、地形マップ、迷宮区のトラップやクエストにも変更が入ってるはずなんだ。もちろんこれはMMOの原則、すなわち公平性(フェアネス)を守る気が茅場にあるならの話だけどな。それを踏まえた上で参考にしてくれるか?」

 

 真面目な顔を作って、その実、予防線を張っておく。クラインの人柄なら心配いらないとは思うものの、俺のアドバイスのせいで事態を悪くさせたなんて文句を言われたくなかった。最悪の場合だって考えられるのに、人の生死の責任なんて俺には負えない。

 

「つまり情報を鵜呑みにするなってことだな。つってもそのへんは常識ではあるんだが」

「実践できるかどうかは別だ。むしろ俺はベータテスターだからこそ嵌るような落とし穴が用意されてるんじゃないかと心底びびってるよ」

「そうは見えねえぞ」

「死んだら終わりのデスゲームなんだ。臆病なくらいで丁度いいよ」

「違いない」

 

 一頻り笑いあい、その間に幾つかの情報を頭の中で整理し、シミュレートする。クラインのギルド仲間とやらをフルダイブ環境に素人だったクラインを基準に、MMORPGの最低限の知識を持っていると仮定するか。クラインを中心にパーティーを組めば少なくともはじまりの街に隣接するマップで死ぬような危険はあるまい。先行した連中のもたらす情報を待ちながら地道にレベリングをするのが堅実で、それ以外に言うこともないように思えるが。

 ……いや、いみじくも自分で言ったはずだ、臆病なくらいで丁度良いと。だったら今更なことでも、あえて指摘することで徹底しておいたほうが良いのかもしれない。――だったら。

 

「クライン、俺が戦闘レクチャーをしたとき、一番重視したことが剣技(ソードスキル)の発動の仕方だったことは覚えてるよな? この世界に魔法はないが、その代わりに存在するのがソードスキルだ。普通に剣を振り回して何度も攻撃するより、一発ソードスキルをぶち当てたほうがずっとダメージ効率は上になる。はじまりの街付近のモンスター相手ならソードスキル一発でライフをだいたい削りきれるしな。つまり戦闘する上で最も重視すべきはソードスキルをいつでも放てるだけの技術だ。逆に言えばそれが出来るまではモンスターと戦うべきじゃない、街から出るべきじゃないんだ」

「俺の場合は実践形式でモンスターに体当たり食らいながら必死こいて覚えたからなぁ」

 

 情けない顔でしみじみ言うクラインに、思わず苦笑が漏れてしまった。

 

「あの時は死んでも街に戻るだけだと思ってたしな。今思えば危ない橋を渡ってたもんだ。けど、HPがゼロになったら死ぬなんて状況じゃ、まずそのプレッシャーの中で冷静にソードスキルを発動できるようにならなきゃいけない。発動の仕方に関しては安全な街の中で練習人形相手にでも試してもらうとして、動く的に当てる練習として初撃決着モードの決闘システムを使ってくれ。十分だと思ったらパーティーを組んだ上で回復アイテムを用意して、実際にモンスターと戦ってみればいい。こんな感じかな。ここまでで何か質問はあるか?」

「いや、平気だ」

「それとベータテスターの俺もそうなんだが、クラインも戦闘経験があると言ってもデスゲーム環境下での戦闘だったわけじゃない。少なくともそういう意識で戦ってたわけじゃなかった。これから先、HPが注意域(イエローゾーン)危険域(レッドゾーン)に減っていくような状況で冷静に手を打てるか、危なくなったらパニックにならずに逃げ出せるかどうか、こればっかりは誰も保証できないんだ。多分、お前がフォロー役も務めるつもりなんだろうが、十分に気をつけてくれよな」

「そいつもお互い様だな。むしろソロで攻略に向かうおめえのほうが心配だよ」

 

 そう言って本気で心配そうな表情をするクラインにはホント頭が下がる思いだ。お前ほどお人よしな大人ばっかりならこの先の苦労も減るんだろうけどな。残念なことに世の中物分りの良い人間ばかりじゃない。――俺を含めて。

 

「はじまりの街付近の草原マップには毒や麻痺を仕掛けてくるようなモンスターはいないし、仮にそういう場合だって仲間のフォローさえあれば対処できる。危なくなったら逃げればいいしな。ただまあ、MPK(モンスタープレイヤーキル)みたいに、故意でなくても結果的にモンスターの擦り付けが頻発するようだとプレイヤー間の相互不信がとんでもないことになる。それだけは注意してほしいところだ」

「あー、そりゃそうか。ただでさえ嫌われる行動だってのに、この世界でそんな真似を意図してやったら犯罪だな、間違いなく」

 

 嫌そうに顔をしかめるクラインに心から同意するが、そう遠くない未来、下手をしなくてもそういう危険な真似を好んで行うプレイヤーが現れるようになるだろうという予感があった。

 ベータテスト時の経験を踏まえるにこのゲームはクリアするまでに年単位の時間がかかりかねない。外からの救出が絶望的になり、クリアが不可能ないし長い年月を必要とするのだと周知されたとき、果たしてどれだけのプレイヤーが理性的な行動を取れるだろうか。自暴自棄になる人間が出たとて全く不思議ではない。こう言ってはなんだが、俺が自己強化を優先するのはそうした連中が怖いから、という理由が多分に含まれていた。

 《人の敵はいつだって人だ》、という言葉は至言だと思う。全く以って嬉しくない現実だけど。

 

「だからこそのソードスキル発動技術の習得でもある。一度モンスターの敵性認定(タゲ)を取ったのならきっちり止めを刺してもらいたいからな。極端なことを言えばソードスキルを正確に敵に当てられる技術さえあれば、フロアボスや特殊な敵以外はどうにでもなるんだ。もちろん適正レベルと装備は必要だけどさ」

 

 だからソードスキルを自由に使えるようになるのが最優先だ、と改めて念を押しておく。嘘じゃない、それだけ出来れば第一階層で困るような事態はそうそう起きないはずだ。それこそ、迷宮区やフロアボスに挑みでもしない限りは。

 

「何をおいてもソードスキルを使えるようになれってこったな。オーケー、把握した」

「とりあえずの最優先ってとこだけどな、フルダイブの仮想現実に慣れてくればそれだけじゃ物足りなくなってくるだろうし。けど、一度にたくさんのことをやろうとしても頭がパンクするだけだ」

「違いない。俺だってあれしろこれしろ言われたって対応できねえよ。まずはソードスキルの練習をみっちりやって、そいつが済んだらポーション買い込んでパーティー組んで戦闘。で、怖くなったら全力で逃げろ、と。いいな、こういうシンプルなほうが俺向きだぜ」

 

 謙遜だろうな、とも思う。クラインに戦闘レクチャーをしていてわかったのは、この男はフルダイブ環境に慣れるまでとても早かったということだ。

 ソードスキルに関しても幾度かの手本を見せただけですぐにコツを掴んで自分のものにしたのは驚きだった。発動準備、攻撃を仕掛けるタイミング、間合いの取り方、とても開始数時間のプレイヤーの動きではなかった。ベータテスト時代、モンスター相手に四苦八苦していた多数のプレイヤーを見ているだけに余計にそう思う。

 幸運というべきか、皮肉なというべきか、デスゲームという過酷な環境になってこの男の才能は俄然貴重なものとなった。別のゲームでギルドを大過なく運営していたというし、集団を統率するだけの力も実績もある。下手をしなくても数ヵ月後には追いつかれ、あるいは追い越されているのではないか、という俺の思いはそう的外れなものではないだろう。

 

 ……あの妙なスキルが俺だけに発現しているのでなければ、の話だが。

 

 《賢者の才》、効果は経験値200%増加。つまり俺の経験値効率はスキルを持たないプレイヤーの三倍になる。

 スキルの存在に気付いたときは俺だけに発現したスキルなのだろうかと悩んだのだが、もしかしたらこのスキルは全プレイヤーに付与された茅場なりの慈悲なのではないだろうか。デスゲーム開始宣言、つまり本仕様になったソードアート・オンラインにおける開始特典として配布されたスキルの可能性もある。

 HPがゼロになったら脳が蒸し焼きになるとかいう暴挙のせいで、モンスターと戦うことを恐れるプレイヤーが続出することは誰でも想像できることだ。まさか茅場だって街に閉じこもっているだけのプレイヤーを延々観察していたくなんかないだろう。となれば攻略を容易にするための手段を用意していても不思議ではない。経験値ブーストスキルの付与か、如何にもありそうだ。

 

「ここまで出来ればはじまりの街で安全に暮らす分には十分な戦力だし、コルも危なげなく稼げるはずだ。その後、俺みたいに先行したプレイヤーを追いかけるのか、攻略情報の揃った場所で安全に狩りと生活を営むのか、あるいはこの街にとどまって外からの救出を待つのか。それは自己責任で選んでもらうってことでいいかクライン。先に言っておくけど、お前がどんな選択をしても俺は応援する。俺に言われることでもないだろうけど、お前の仲間ってやつを無理やり焚きつけるようなことはしないでくれよな。そんなことされて追いつかれてもちっとも嬉しくない」

 

 スキルに関しての疑問は後々確かめる必要があるだろうな。しかしそれは今じゃない。こんな衆人環視の中で、もし賢者の才が俺だけに発現しているとばれると、些かまずいことになりかねなかった。

 ネットゲーマーは嫉妬深い、流す情報は慎重に選ぶべきだろう。……怖いし。

 

「わーかってるって。安全第一火の用心ってくらあな。心配しなくても俺らの身の振り方は十分相談して決めるさ」

 

 不安など少しも感じさせず、朗らかに笑って答えるクラインを大した奴だと思う。

 クラインと出会っていまだ数時間。そう、たった数時間なのだ。そんなわずかの時間だけ行動を共にした生意気な小僧を相手に、戦闘レクチャーを受けたという恩義だけでこうも気を遣ってくれているのだった。

 クラインだって色々思うところはあるだろう、いきなりこの世界に閉じ込められ、知り合いだというプレイヤーの命にまである程度の責任を持とうというのだ、先行きに不安を持たないはずがない。そんな状況だというのに俺を気遣い、力になろうとしてくれている。有り難いことだ。

 

 ……だからこそ後ろめたく思う。

 俺がこの街に残って彼らの指導をすることだって出来た。クラインと協力してこの先ともに生き残るために戦うことだって出来た。それをせずに、自分の都合を優先して効率的なプレイを目指す俺は否定の余地なく人でなしだった。

 先行きを予想すればするほど明るい未来が見えなくなる。それが怖い。怖いからこそ身を守るためのレベルと装備を優先しようと躍起になってしまう。悪循環だ。

 

「クライン」

 

 だからこれは欺瞞だ。

 クラインに、彼の仲間に背を向ける自分を誤魔化すための偽善。

 胸に抱える罪悪感を少しでも減らそうとする姑息な手段でしかない。

 

「受け取ってくれ」

 

 トレードウインドウをクラインとの間に開き、現在俺が所持する全コルを入力して送り出す。後はクラインが承諾を選択するだけだ。

 

「キリト、おめえ……」

 

 目を見開いて驚くクライン。

 まあ驚くのもわかる。ここアインクラッドでは武器防具はもとより、食事にも宿泊にも当然料金はかかる。食わなくても死なないし長時間寝なくても健康に支障は出ないが、どういう仕組みなのかプレイヤーには空腹感もあれば睡眠欲も存在するのだ。それを解消するためには適度な食事、適度な睡眠を必要とする。

 少なくともベータテストではそうだった。クラインは当然そんなことは知らないだろうが、デスゲームと化したこの世界で金銭がどれだけ重要なものなのかは改めて説明する必要もないだろう。

 

「プレイヤーの初期資金なんてたかが知れてる。現時点での全額なんて言ってもこんな雀の涙、モンスターと戦闘を繰り返せばすぐに取り戻せる額だよ。俺には差し迫って金を必要とすることなんてない。すぐにこの街を発つし、武器はクエストで手に入れる予定だからな」

「だからと言って受け取れるかよ」

「いいから聞けよクライン。俺はモンスターとの戦闘にはそれなりの自信があるし、今日中に倍以上の金を稼ぐ自信もある。それだけモンスターと戦闘を繰り返す予定だからだ。けどクライン、お前にそれは無理だろう。お前の仲間がお前以上に戦えるっていうなら別だけど、しばらくは街に篭ってソードスキルの練習が必要だろうし、初戦闘には消耗品を用意して万全の態勢で臨んだほうがいい。そのために使えと言ってるんだ。お前のためじゃない、無駄死にするプレイヤーを出さないために有効活用しろってだけのことだよ」

 

 こう言っておいたほうがクラインも変に遠慮せず受け取りやすいだろう。

 それに俺の言葉は建前だけとも言えなかった。下層のうちはいい、多分ソロでも十分に通用するし、力押しでどうにかなるだろうと思う。しかし中層、上層となると話は別になってくる可能性が高い。まして最上階付近では高レベルプレイヤーが高性能な武装を用意し、徒党を組んで攻略をする必要が出てくるはずだ。

 

 ベータテスターが千人、多少の心得があるプレイヤーを同数の千人だと仮定して、果たしてどれだけのプレイヤーが生き残れるのか。それを思えば、スタート時点での技能が低かろうがこの世界に不慣れな残り八千人のプレイヤーを無為に死なすのはあまりに惜しい。生きてこのゲームを脱出するためにもマンパワーリソースを減らすわけにはいかない。

 そんな俺の打算混じりの思考をまさか察知したはずもないだろうが、渋面を浮かべていたクラインが大きくため息をついた。

 

「おめえってやつはホントに……。わかった、おめえの心意気、確かに俺が受け取った。1コルだって無駄遣いしないことを誓う」

 

 そんな大仰なクラインの言葉に大袈裟なやつだと内心思ったが、せっかくのクラインのやる気に水を差すこともないだろうと真剣な顔で頷き返す。それだけで幾分か心が軽くなった己に多少の呆れを抱いた。それでも何もしないよりはマシだと思い直す。

 これ以上俺にできることもないだろう。言うべきことは言った。聞きたいことも聞いた。潮時だ。これからはじまりの街を出発し、次のホルンカの村を目的にフィールドを踏破する。ベータテスターとしてはやや出遅れたかもしれないが、誤差の範囲でしかないだろう。

 

 アインクラッドは全100層、ベータテスト時は2ヶ月で10層に届かなかった。1層攻略に1週間と仮定して1ヶ月で4、5層の攻略スピードだ。一年でようやく半分の50層を超える程度でしかない。

 もちろん今はベータテスト時とは状況も違う。プレイ人数は千人から一万人近くに増えているし、その全プレイヤーが常時接続状態だ。これだけを見れば攻略スピードは大幅に上がるだろう。しかしその一方でデスゲーム化した弊害がどの程度影響を及ぼすのか、その大きさは計り知れない。

 

 まず第一に攻略に参加する人数自体が掴めない、モンスターと戦わずにはじまりの街に引きこもるプレイヤーも多いだろうし、最前線の未知のフィールドで戦わずに、攻略済みで情報の揃った安全な狩場しか選ばないプレイヤーだって出るはずだ。

 第二に死んだらそこで終わりだということは、常にHPに余裕を持った戦闘しか出来ないということだ。ギリギリの戦闘、全力の攻略なんて目指せるはずがなく、レベリング自体も格下のモンスター相手の安全だが非効率なものにならざるをえない。当然、攻略スピードは落ちる。

 何より初期の攻略を主導する立場にあるベータテスターが当てにしているベータテスト情報だ。本サービス開始に当たってどの程度ゲームシステムに変更が入っているのか。まかり変更された仕様のせいでベータテスターが全滅でもすれば、それこそ目も当てられないことになる。

 しかしこればかりは茅場しか知らないことだ。対策としては慎重に攻略を進めるしかないだろう。結局攻略スピードは落ちる。

 

 ……本当、考えれば考えるほど憂鬱になる。

 盛大に重苦しいため息をつきたい衝動に駆られるが我慢だ。いくらなんでも大勢のプレイヤーの前ですることじゃない。改めて思う、どうして俺はこんなところにいるのだろうと。

 全ては考えなしに飛び出した俺自身が悪いのだが、だからといって納得できる話でもない。

 つまりこう思うのだ。

 空が青いのも、郵便ポストが赤いのも、俺が憂鬱なのも、全て茅場晶彦が悪い、と。

 もう全部あいつのせいでいいよ。少なくとも俺の気分が最悪なのは茅場が悪いのだし、正当な文句のはずだろう?

 

「それじゃあなクライン。俺はもう行くよ。……また、会えるといいな」

「ああ、そうだな」

 

 ここにきて弱音をこぼす当たり、俺も相当参っているらしい。情けない未練を断ち切る思いで踵を返した。するとその瞬間、周囲の人垣が一斉に割れ、まるで花道を作り出したかのように正面にぽっかりと道が出来てしまった。俺と違って空気の読める人達だなぁと場違いな感想を抱く。

 しかしこれは演出過剰だろう……。この道が死出の旅路に通じていないことを祈るよ。まるで見世物だと悪態をつきたい気分を押し隠し、一歩を踏み出そうとしたところで後ろから神妙な声がかかった。振り返るまでもない、クラインの声だ。

 

「――キリト。おめえ、今の顔のほうがずっと可愛いじゃねえか。結構好みだぜ。だからな、無愛想な面ばっかりしてんじゃねえぞ。空元気だろうが笑ってりゃそのうち良いことだってあるさ」

 

 ああ、やっぱりお前は極度のお人よしだよ。最後まで俺の心配なんてするな。お前はお前の仲間のことだけ考えてろよ。

 

「クラインもその野武士面のほうが10倍似合ってるよ。それとな、男に可愛いは褒め言葉じゃねえ!」

 

 背中越しにクラインの軽口に応えて駆け出す。顔は俯き気味に、足は全力で力の限り石床を蹴る。

 クラインと二人での湿っぽい別れだけなら何も気にすることはなかった。しかしここには多数のプレイヤーが残っていて俺達のやり取りを傾聴していたのだ。その中であんな青春一直線なやりとりを披露してしまったのだと改めて自覚してしまうと、さすがに気恥ずかしくて耐えられそうにない。

 

 赤面した顔を見られるのも癪なので俯き気味のまま、最高速を維持して人垣に出来た花道を突っ切った。その勢いではじまりの街の城門を駆け抜け、広大な緑の草原に突入する。足元の芝生は夕日に彩られて綺麗なオレンジ色に照らされていた。

 そんな絶景に感心する余裕もないまま道なき道を駆け抜け、道中に立ちふさがった他ゲームで言うスライム相当、つまるところ最弱モンスターであるフレンジーボアをクラインらに説明したようにソードスキルで一蹴し、撃破そのままの勢いで駆け出そうとして――ふと視界に浮かんだ数値に思わず足を止めてしまう。凝視した先はモンスターを撃破した後に表示される獲得経験値と獲得コルの項目だ。

 

 ……おかしい。

 先ほどの騒動でいつのまにか出現していた謎スキルによって経験値が三倍になることはわかっていた。システム上のバグがない限り、ソロ活動中は常時経験値三倍状態は予想できたことだ。だからクラインと狩りをしていたころの獲得経験値と比べてずっと大量の経験値が入手できることには今更驚かない。いや、多少の驚きはあったがそれはとんでもスキルが本当に立証されたことへの驚きだ。数値自体に驚きはない。

 だというのに足を止めたのは、止めざるを得なかったのは。

 

「どうして獲得コルまで増えてるんだ?」

 

 思わず独り言をつぶやいてしまう。呆然とした心持ちでしばし固まった後、もしやと慌ててメニューを呼び出してスキル欄を表示する。

 まさかとは思う。思うが、しかしそれは。

 

 

 スキル名:黄金律(ゴールデンルール)

 スキル効果:スキル保有者がモンスターに止めを刺した時のみ、獲得コル200%増加。

 

 

 再びの謎スキル出現を目の当たりにし、その効果に再度頭を抱えて呆然となった。

 どうしてこうなった、と思わず踊りだしたとしても誰も俺を責められないのではないだろうか。

 実は既にバグとか障害が起こっていたとアナウンスされても信じてしまいそうだ。

 茅場よ、このゲームのシステムは正常に働いているのか?

 しかしそんな疑問に答える声などあるはずもなく。

 再起動にはしばらくの時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 こわ!

 こええよこいつ。いや、この人。この御方?

 背もたいして高くねえし、見た目は女顔のなよっとした野郎のくせに、妙な迫力というか風格がある。

 少し前、ゲームマスターを名乗る茅場晶彦によるソードアート・オンラインデスゲーム化の宣言に対する反応は劇的だった。呆然と立ち尽くす者、現実に帰せと怒り心頭で叫ぶ者、絶望して泣き崩れる者、様々だ。かくいう俺も何も考えられずに馬鹿みたいに口開いて空を見上げるだけだった。

 そんな中、一人剣を構えて巨大で不気味なアバターに突っ込んだやつがいた。

 

 キリト、というらしい。

 誰も何も出来ないなか、ただ一人茅場晶彦という巨悪に立ち向かった精神力、そして判断力は賞賛されるべきものなのかもしれない、しかし俺はそれ以上にこの少年に対し畏怖を覚えざるをえなかった。多分、他の連中も似たような思いなのだろう。目に映る全員がどこか引きつった顔をしている。俺だってそうだ。

 しどろもどろに問いかける太り気味の男に返答する年若い剣士、そう剣士だ。この場の誰よりも剣士足りえる彼は威風堂々とその場に悠然と佇んでいた。眼光鋭い目には意志の光が宿り、これだけ大勢の人間に注目されていながら、何事もなかったかのようにかすかに口元に笑みを浮かべている。その所作に戸惑いは一切なかった。

 

 恐ろしい胆力だ。しかも頭も相当回るらしい。

 あのわずかな時間でグランドボスとしての茅場晶彦の可能性を見出し、システム誤認によるプレイヤー開放を狙ってゲームマスターのアバターを撃破しようとするとは、何という機転だろう。しかも、その目論見そのものは外れたようだが、本人に無念さは全く感じられない。落ち込んだ周囲の連中を気遣っている余裕さえある。その様子を見るに、彼がシステム誤認だけを目的に事を起こしたわけではないのだろうという推測はそう難しいものではなかった。

 

 ……そう、あれは宣戦布告だ。茅場晶彦に対する、純然たる意志の挑戦状なのだろう。

 お前を許しはしない、俺達はお前なんぞに負けはしない、生きてこのゲームを終わらせてやる。

 そう茅場に宣言しているのだ。

 だからこその「無意味じゃない」という言葉なのだろう。

 そして、あるいはこれは俺が彼の思いを穿ちすぎているのかもしれないが、俺には彼がこう言っているように思えるのだ。

 俺に続け、と。

 

 彼の強烈な、あるいは苛烈と言うべき言葉。自分達に向けられたわけでもないのに、彼を囲むプレイヤーは俺も含めて完全に圧倒されていた。

 この張り詰めた緊張感はいつまで続くのか、電脳世界であるアインクラッドでは汗などかかないはずなのに、じんわりと背に汗がにじむような錯覚さえおぼえる。そんな沈黙も彼の連れである赤毛の男が現れるまでだった。

 クラインと呼ばれた男はキリトという少年、いや、少年は失礼か。キリトさんに気安い調子で声をかける。始めのうちはリアルでの知り合いなのかと思ったが、どうもこのゲームにログインしてからの知り合いらしい。その割に親しいように思えたが、なるほど、すでにお互い狩りに出ていた関係らしい。それなら仲間意識も生まれるだろうと納得する。

 場の空気が決定的に変わったのはこの言葉からだろう。

 

「……ああ、そうだ。俺はこの後すぐに次のホルンカ村に行き、そこで受けられるクエスト報酬の片手剣を目的に狩りを始める予定だった。安全と効率の両面から言ってそれがベストだと判断したんだ」

「それがベータテスターとしてのお前の判断なんだな」

 

 そんな二人の問答に周囲はざわめいた。

 ベータテスター。

 本サービス開始前、2ヶ月にわたり、応募に当選した千人の幸運なプレイヤーが先行してこのゲームをプレイしている。その千人にはベータテスト参加特典として無条件で本ソフトを入手できる優先権が与えられていたことは広く知られていることだ。徹夜組として苦労してソフトを手に入れた俺のような人間にとっては羨ましい限りだった。

 

 そしてベータテスト時に獲得していたレベルやアイテムは消去されてはいても、その知識は別だ。

 彼らは《ソードアート・オンライン》の知識を相当量持っているはずだし、戦闘システムにだってかなり慣れているはずだ。その彼らがこの状況で何を考えるか。

 クラインという男は既に動き出しているプレイヤーがいると言った。十中八九ベータテスターたちだろう。迷いなく動くための知識を既に持っているプレイヤー、彼らはこの街に残るより先に進むこと、攻略を優先しようとしている。あるいは、美味しい狩場やクエストを独占しようとしている、か?

 

 ……そうか、キリトさんは彼らの思惑に気付いていたからこそ、この場を離れようとしていたのだ。無論、ベータテスターの行動に思うところはある。腹立たしいと考える人間が大半だろう。キリトさんもそんな連中と同じ行動を取ることに内心忸怩たる思いを抱いているのか、浮かべた表情は苦み走っていた。

 しかし彼の身勝手は自己本位ではあっても純粋なクリアへの意志からのものだろう。茅場を許せないとあれだけ苛烈な意志を示した剣士だ。その彼がいまさら俺達のような初心者プレイヤーを出し抜き、装備や狩場の独占をしようなどとは思うまい。むしろ攻略を目指すのが自分ただ一人であろうとも構わず突き進み、茅場の喉下に食らいつき、怒りの剣戟を叩き込むことを考えているはずだ。

 

 それでも俺達に、そしてクラインという男に申し訳なく思っている。だからこそせめて親しい関係にあるクラインという男だけでも連れて行き、安全と効率を確保してやりたいと考えた。悲痛な顔でクラインを誘うキリトさんの姿は痛々しくさえ映った。

 やがてクラインの事情から二人は別々の道を選択することを余儀なくされたらしい。

 と、その時、一瞬クラインという男と目があった気がした。気のせいか?

 

「そうそうキリト。お前に追いついてみせるって言ったそばから情けなくて悪いんだが、俺らがこれからどう動くべきかを聞かせてくれねえかな。参考にしたい」

 

 気のせいではない……!

 俺だけではない、今のクラインの言葉はこの場にいる全てのプレイヤーのためのものだ。先の視線は俺個人を対象にしたものなどではなく、この場の全員にこれからの会話を聞き逃すなという合図だった。

 キリトさんだけではない、クライン、この男も相当な傑物のようだ。これからは密かにクラインの兄貴と呼ばせてもらおうと決めた。

 

 ベータテスターには豊富な情報がある。だからこそこんな極限の状態であっても迷いなく、あるいは迷いながらでも決断を下すことが出来る。右往左往するだけの俺達とは違う。

 その差を少しでも埋めようと、クラインの兄貴は自分達の今後のためと断った上でキリトさんの考えを聞きだそうとしているのだ。参考にしたい、というのは俺達にも参考にしろと言っているのだろう。

 他のやつらもクラインの兄貴の思惑に気付いたのだろう、瞬時に目を真剣なものに変えた。食い入るような、あるいは懇願するような視線がキリトさんに集まる。しかしキリトさんはそんな視線などどこ吹く風で気にした様子もない。やはり大した胆力だ。

 考えを整理しているのか何度か頷いて見せたあと、厳かに語り始めた。聞き逃すわけにはいかない。これはどんな黄金にも勝る貴重な言葉なのだ。

 

 ……なるほど。

 キリトさんの説明は難しいものではなかった。むしろ基本そのものと言っていい。ソードスキルはある意味でこのゲームの象徴であり、基礎そのものだ。今時魔法のないファンタジー世界とは随分硬派な仕様だと思ったのもそう昔のことではなかった。

 そしてその魔法の代わりというか、いわゆる必殺技的なポジションなのがソードスキルだ。俺はまだフィールドに狩りに出ていないのでわからないが、何人かの人間が『はじまりの街周辺の敵ならソードスキル一発』という部分に頷いている。

 デスゲーム宣言前に、街中でNPCから情報を集める傍ら、誰もいないか確認したうえでソードスキルを発動させてみたことがある。確かに独特のモーションを必要とするし、それを戦闘の中で好きなように発動させるのは言うほど簡単なことでもあるまい。

 

 それを段階に分けて習得していく。

 まずは発動そのものを自由にできるようにするために安全圏でのスキル発動訓練。

 次に動いている的に実際に当てる練習として安全圏内で決闘システムを利用した模擬訓練。

 最後に安全を可能な限り確保した上での実戦。

 

 何をすればいいか、どうやってこの世界で生きていけばいいのか皆目見当のつかなかった俺達初心者組にとっては、キリトさんの筋道立てた、しかも単純明快な方針は非常に受け入れやすいものだった。

 加えてソードスキルさえ自由に発動できれば少なくともこのあたりのモンスターに苦戦することはないと断言されたことも大きい。その証拠にこの広場にずっと漂っていた重苦しい空気が大分軽減されている。安堵した表情を浮べるやつらも多い。

 人間何が恐ろしいかと言えば未知の状況が一番恐ろしい。

 たいした情報もなく、なにもわからないまま、焦燥ばかり抱えてフィールドに飛び出してモンスターと戦ってもパニックになるだけで碌な結果にならなかったはずだ。だからと言ってはじまりの街から一歩も出ずに震えて縮こまっているのもよろしくないだろう。閉塞した状況でストレスばかりを溜め込んでいれば限界などすぐ訪れる。

 

 ……ああ、そうか。そう考えるとベータテスターどもの考えもわからんでもないな、この街にとどまってそんな厄介ごとに関わるのを恐れたのだろう。俺だってそんな事態になったら収拾するよりも逃げ出すことを選ぶはずだ。……情報さえあれば。

 冷静になればそれだけ考える余裕が生まれる。デスゲーム開始を告げられてそのまま放置されていたら、宿屋に閉じこもってベータテスターに恨み言を言って過ごす毎日を送る可能性もあった。それを思うとクラインの兄貴の機転には感謝するばかりだ。

 そしてキリトさんの言う通り、実際に命がけの戦闘になったとき練習通りのことが出来るかどうかは誰も保証できない。

 そう、こればかりは俺達初心者組もベータテスターも、そしてキリトさんすらも条件は同じなのだ。現代日本に暮らしていて、剣を持って命がけの戦いをしてきたような人間がいるはずがない。この点では全てのプレイヤーが同じスタート地点に立っているのだ。

 

 恐ろしいのはキリトさんの深謀だろう。

 既に今の時点でこれから先訪れるであろう苦難を想定している。なによりベータテスターだからこそ不利になる局面がくるという予想には誰もが驚いていた。しかし確かに運営者側、つまりあの憎き茅場晶彦にすればベータテスターだけを優遇する理由はどこにもない。むしろ公平性を心掛けるなら、ベータテスト経験者だからこそ嵌りこむような罠があってもおかしくない、というキリトさんの予想には頷ける点が多々あるように思えた。

 

 キリトさんが皆の度肝を抜いたのはそれからすぐのことだ。

 なんとキリトさんがクラインの兄貴に初期資金を全額受け渡そうとしていたのだった。いや、彼らの場合既に狩りに出ていたそうだから初期資金にプラスアルファされていると考えるべきだろう。

 これから先のデスゲームを生き残るために先立つものは当然必要だ、そんなことをキリトさんが承知していないはずがない。それでも全く惜しがる素振りも見せずにポンと渡そうとする姿は気高さ以上に危うさを感じさせた。そう感じた人間は多いはずだ、眉をしかめるプレイヤーがいた、年配のプレイヤーのなかには痛ましげにキリトさんを見つめる目もあった。あまりに自己犠牲が過ぎる。

 

 ……贖罪。贖罪なのだろうか。

 クラインの兄貴を、兄貴の仲間を、そして俺達初心者組を置いて、一人旅立つ自分を許せないのだろうか。身勝手な自分を罪深いと嘆いているのだろうか。そのためにこんなにも自分を省みず他者を優先しようとしているのだろうか。

 初めは渋っていたクラインの兄貴も、生き残るために使えというキリトさんの言葉についに諦めて受け取ったようだった。初期資金にいくばくかのプラスアルファが乗せられた全額のコルを、キリトさんは雀の涙だと言い捨て、すぐに倍以上稼げるのだと豪語してみせた。

 

 本当だろうか。俺にはわからなかった。しかし、それが言葉通りだとしても、彼の真意を疑うものなどこの場にはいないだろう。あれはクラインの兄貴に対するだけではない、俺達全員に対するキリトさんのメッセージだった。

「無駄死にするな。無駄死にするくらいならこの街から出ないで生き残ってくれ」という、彼の懇願そのものだった。

 クラインの兄貴はキリトさんの言葉を、その知識を俺達に聞かせるためにこの場にキリトさんを残した。

 

 ならばキリトさんの言葉はクラインの兄貴だけではない、俺達にも向けられたものだ。

 生きるに困らない知識、技能の取得。

 そしてその上でどうするかは自分達で決めろと半ば突き放した。

 第一層の、それもはじまりの街周辺を根城にする限り困ることはない。しかし迷宮区やフロアボスを相手にする最前線ではソードスキルを使えるだけでは生き残れない。人に頼るだけしかできないのなら遠からず死んでしまうのは想像に難くない。

 

 地獄に踏み込む覚悟があるのなら俺を追って来い。

 覚悟がない、技術が足りないのなら安全な狩場で生活を送れ。

 戦う覚悟がないというのならそれでもいい、はじまりの街を出ないで救出を待て。

 

 キリトさんの言葉はそういうことだ。

 そしてどんな選択をしても俺は恨んだりしないと言外に言っているのだ。

 臆病でもいい、それを恥じる必要はないのだと。

 キリトさんが見据える先には自然と道が出来た。誰もがわかっていたのだろう。このゲームをクリアするのだというキリトさんの比類なき決意を邪魔することは出来ないのだと。

 

 その道はキリトさんの覚悟と献身に対する俺達の感謝と敬意の表れだった。今となっては誰の顔にも絶望の色はない。ただ厳かにキリトさんを見つめるだけだ。

 現実世界ではまだまだ子供のはずだった。年齢以上に童顔なだけなのかもしれないが、それでも15を2つも3つも超えていることはまずあるまい。幼げなその顔と小柄な体躯にどうしてこれほどの威厳を纏うことが出来るのか。迷いなく前を見据える瞳には不退転の決意が鮮明に浮かび上がっていた。

 

 

 ――今、剣士が独り旅立つ。

 

 

「キリト。おめえ、今の顔のほうがずっと可愛いじゃねえか。結構好みだぜ。だからな、無愛想な面ばっかりしてんじゃねえぞ。空元気だろうが笑ってりゃそのうち良いことだってあるさ」

「クラインも、その野武士面のほうが10倍似合ってるよ。それとな、男に可愛いは褒め言葉じゃねえ!」

 

 その言葉を皮切りに、キリトさんは別れの涙を見せまいと俯いたままその場を駆け去り、残されたクラインの兄貴はそんなキリトさんを泣き笑いのような顔をして見送っていた。

 クラインの兄貴の言葉はキリトさんに対するせめてもの手向けだった。

 今の顔、すなわち現実のお前、本当のお前こそが俺の友なのだと断言するクラインの兄貴の心意気。

 そして俺にとってもお前は友なのだと応えるキリトさんの心意気。

 なんとも眩しい、二人の勇者の別れの一幕だった。

 

 




 《賢者の才》、《黄金律》はオリジナルスキルです。
 またアバター攻撃を可能にした中央広場の鐘塔、キャラクターネームがプレイヤーの視界に表示されるなど、独自設定も使われています。お含み置きください。

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