一夏が簪に別れを告げた翌日。
その日から織斑 一夏が学園に来ることはなくなった。
その日の早朝、職員室にある千冬のデスクに一つの封筒が置かれていた。
千冬はそれの中身を見て、納得してしまう。
それは………織斑 一夏の退学届けであった。
あれだけのことをしでかして何もないということはない。
ただし、そんな自責の念に駆られてということではないということは千冬で無くとも分かるだろう。そんなことをする人間でないことは、この数ヶ月間で嫌というほどに学んでいる。
つまり……もうこの学園に通う必要がないということ。
それは向こう側の言い分であり、学園としてはいきなりそんなことをされても承服しかねる。
千冬は一夏がもう部屋にいないと予想しながらも、念の為に一夏の部屋へと向かった。
そして千冬の予想通り、部屋には一夏の姿は無かった。
その部屋は元からあった通り、人が暮らしていた気配を一切感じさせなかった………。
その事を確認した千冬はその場で深い溜息を一回だけ吐いた。
早朝のHRで一夏が『休学』したことが皆に報告された。
そのことに驚く生徒は多かったが、その殆どが怖い人物がいなくなったことへの安堵であった。
それを見て若干苦悩する千冬。今までの行いからすれば仕方ないとは言え、実の家族がそんな風に思われてしまっていることは、やはり複雑な心境になってしまうというものである。
その話を聞いて箒とシャルロットは少なからずショックを受け、セシリアとラウラは全身の力が抜けるくらい安堵した。隣のクラスの鈴も聞いてショックを受けた。
そして……その日、学校を休んだ簪にもその話はやってきた。
一組にいる簪の幼馴染みにして従者の布仏 本音からもたらされたその情報を聞いて、簪は尚悲しみに暮れてしまう。
現在、簪は学園を休んで何をしているのかというと………
真っ暗な部屋で布団にくるまりながらずっと泣いていた。
一夏が簪の目の前から消えてから、ずっと簪は泣き続けた。
それこそ体中の水分が無くなるんじゃないだろうかと言うくらい泣き、同室の生徒や布仏姉妹、そして目標であり超えるべき壁でもある楯無にも心配された。
特に楯無は簪に近づく一夏を警戒した時以上に怒り、その目は殺る気でらんらんと輝いていた。
それを泣きながらでも簪は押さえ、未だに泣き続けたままであった。
(もう……織斑君と会えないのかな……そんなの、嫌だよ………)
そう思いながら、簪は涙を流し続ける。
その胸の痛みに喘ぎながら、どうしようもない気持ちに苦しみながら。
そのまま時間は過ぎ、放課後になった。
簪は未だに泣き続けている。昨日から一切何も食べていないというのに、身体は空腹を訴えることがない。それだけ精神的に参っていた。
既に布団のシーツは涙でぐっしょりと濡れてしまっているが、それを不快に感じることもなかった。
流石に服装はパジャマへと無理矢理着替えさせられたが、それでも泣き続けていたために入浴はしていない。それは年頃の娘としてはどうかと思われるだろうが、簪にはそんな余裕は一切なかったのだ。
身体は汗でべたつき、髪は少しばさつく。肌は荒れており、顔は涙の後が消えずに濡れたままで目は真っ赤に充血していた。
それでも簪は泣き続ける。悲しくて悲しくて仕方ないから。
想い人に感謝され、そしてもう一生会えないと別れを告げられた。
それが悲しくて仕方ない。そして後悔の念が押し寄せて自分を責め立てていく。
何故、もっと早く告白しなかったのか?
彼に感謝されていた自分なら、彼のことを止められたのではないか?
あの最後の時に抱きつければ、こんな風にならなかったのではないか?
後悔がどんどん沸き上がっていき、それが簪の胸を押し潰していく。
苦しくて苦しくて仕方ない。何よりも苦しいのは………
もう一夏と会えないということ。
それが苦しくてたまらなかった。
簪はその苦しさに押し潰されそうになりながらも、布団の中で身を苦しそうによじる。
そんな悲しみに暮れている簪のいる部屋の扉がノックされた。
そしてそこから少しくぐもった声が聞こえてきた。
「簪ちゃん、入るわよ」
そして扉が開き入って来たのは、簪の姉である更識 楯無であった。
楯無は部屋にゆっくりと上がると、簪が寝ているベッドへと歩いていく。
「簪ちゃん、大丈夫」
楯無は心配そうに、それでいてできる限り優しく声をかける。
簪は来たのが姉だと知り、くるまっていた布団から顔だけを少し出した。
「……お姉ちゃん………」
普段簪は楯無のことを『姉さん』と呼んでいる。
それは姉への劣等感からそう呼んでいるのだが、元は……まだ姉に純粋に憧れ懐き慕っていた頃はこう呼んでいた。
それが今出てしまっている辺り、簪は本当に弱ってしまっていた。
劣等感を抱いているとはいえ、それでも大切な家族。その家族に縋りたいと思ってしまうのは仕方ないことであった。
簪は楯無を見ると、そのまま抱きつき更に泣きだしてしまう。
楯無はそんな簪を優しく抱きとめ、ゆっくりと頭を撫でながらあやす。
「簪ちゃん……泣かないで。泣いてたら可愛い顔が台無しよ」
明るめにそう言い、簪を少しからかうように言う。
しかし、簪はそれを聞ける状態では無いため、それでも泣き続けたままである。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……ひっく…ひっく……ふぇ……」
簪は殆ど無意識に胸の苦しみから逃れようと、楯無にぎゅっと抱きつく。
その様子は幼い子供を連想させる。
楯無は慈愛に満ちた表情でただひたすらに簪を優しく抱きしめることしか出来ない。
抱きしめられた簪はもう何度目になるか分からないほど話した懺悔を話し始める。
「だって……私は! 織斑君が言ってくれたのに、それなのに私は……彼を救うことが出来なかった。彼を止めることが出来なかった。だって…だって!」
「うん……うん……分かってるよ。簪ちゃんは頑張ってた。それに彼は言ってくれたんでしょ。『更識の御蔭でこの数ヶ月幸せだった』って。救ってないなんて、そんなことない。簪ちゃんは確かに織斑君の心を救っていたわ」
「そんなことない! それに私……伝えてない……もう二度と会えなくなるかもしれないのに、織斑君に伝えられなかった!」
簪の悲痛な叫びを聞いて、楯無は内心苦しくて仕方ない。
この悲しみに暮れている大切な妹を少しでもその苦しみから解き放ってあげたい。そのためなら、悪魔に魂を売ってもいいとすら思った。正直、今すぐにでも一夏を見つけてふん縛って簪の所まで連れてってその場で簪を悲しませたことを土下座で謝罪させたいくらいであった。
しかし、実際にそんなことが出来る訳も無く、姉として大切な妹をただ慰めるのみである。
「そうだ、簪ちゃん。お腹空いてるんじゃない? お姉ちゃん、リンゴとか色々持ってきたから、何か食べる?それに桃缶もあるわよ。簪ちゃん、確か風邪とかの時に桃缶食べるの好きだったわよね」
楯無は明るい声でそう簪に話しかける。
ちなみに更識家は名家であり裕福な家である。
そのため、そこで出される食事は一級品であり庶民が簡単に手を出せるような物ではない。
桃の缶詰といった非常食類などの食べ物などまず口にしない。そのため、その滅多に食べることのない庶民の味をたまたま幼馴染みの本音が持ってきて、食べた簪は感動した。以降、簪は風邪を引いたときなんかにはそういった物を欲しがるようになった。
「………今はいらない………お腹空いてない……」
楯無の胸に顔を埋めたまま簪は消え入りそうな声でそう答えた。
その様子に胸が痛む楯無。本当は昨日から何も食べていないのだから、無理にでも食べさせたほうが良い。しかし、それをこんな弱っている最愛の妹に無理にさせることは出来ない。
その苦悩に内心で唸っていると、突如部屋の扉からゆっくりと控えめな拍手が聞こえてきた。
そのことに楯無ははっと気づき急いで音の方に顔を向ける。
するとそこには、一人の青年が立っていた。
茶色い長髪をした、何やら怪しげな笑顔をした男である。
「いやぁ、麗しき姉妹愛というもの、実に良いものだねぇ。良い物を見せてもらったよ」
「貴方は……アカツキ・ナガレ……」
楯無はいきなり現れた男……ネルガルの会長、アカツキ・ナガレを見て警戒する。
世界に名だたる大企業、ネルガル重工の若き会長。
裏では黒い噂が絶えない人物で、楯無は一夏と繋がりがあることで調べていた。
いきなり物音もさせずに部屋に入られれば、誰だって警戒する。それも『対暗部用暗部、更識家当主の更識 楯無』に気配すら気付かせずに部屋に入ってきたのだ。
それは普通では有り得ないことであり、一介の会社員が出来ることではない。
故にその警戒は最大に膨れ上がっている。
楯無は自分が動揺していることを悟られないように、不敵な笑みを浮かべアカツキに話しかけた。
「いきなり女の子の部屋に入って来るなんて随分と失礼な人ね」
「おや? 一応ノックはしたんだけど、気付かなかったかな? それは失礼したね」
話しかけられたアカツキはニッコリと笑みを浮かべながら答えた。
楯無はその反応を見て内心で舌打ちをした。
アカツキは年若いが、その中身は老獪な老人共と同じだと楯無は感じた。
それは凄く厄介なことであり、出来れば関わりたくないものである。
しかし、今は簪がいる手前もあって無理矢理にアカツキを追い出すことは出来ない。
それ故に強気の態度を崩さないようにしてアカツキに顔を向ける。簪を守るように抱きしめながら。
「それで? 大企業の会長様は一体何の用かしら? 覗きだったら今すぐにでも織斑先生を呼んで叩き出したいんだけど」
「おやおや、随分と物騒なことを言うね、君は。確かに君達を見るのはとても興味深いけど、そうすると秘書に怒られちゃうんでね。彼女、怒ると凄く怖いんだ。実は用があるのは、そこで泣いているお嬢さんなんだけど、今大丈夫かな?」
アカツキは笑顔のまま簪の事を示し、楯無はそれを見て簪をぐっと抱きしめながら答える。
「悪いけど今、この子はそんなことに答えられる状態じゃないの。お帰り願えるかしら」
楯無にそう強く言われたアカツキは、そこでニヤリと笑みを深めながら、今簪が一番気にしていることを言った。
「『彼』のことでもかい?」
「っ!?」
それを聞いて簪の身体がビクッと震えた。
そしてゆっくりとアカツキの方を向く。
「………織斑君のこと……ですか?」
消え入りそうな声なのに、何故か胸に染みこんでいくように聞こえる。
それを聞いたアカツキはニッコリと簪に笑いかけながら頷いた。
「うん、そう。彼のことだよ。知りたくない?」
「お、教えて下さい!!」
アカツキの言葉にいつもでは考えられないような程大きな声を出す簪。
その声量には楯無でさえ驚いた。
返事を聞いたアカツキはとても愉快そうに笑う。それはまるでその返事を待っていたと言わんばかりである。
「その前に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……何ですか……」
真剣に聞き入ろうとする簪に、アカツキは先程まで浮かべていた笑顔から一転して真面目な顔になった。
「君は………一夏君のことが好きかな」
「っ!? そ、それは………」
いきなりそんなことを聞かれれば年若い少女は皆戸惑ってしまうだろう。
そこで只好きかどうかを聞くだけなら、この後は普通に笑い話になるだろう。
だが、アカツキの瞳は簪を捕らえて放さない。そのことでアカツキが真剣であることが簪には分かった。
だからこそ、簪も真剣に答える。
「………す、好き……です………」
そう言うと共に、簪は自分の顔が真っ赤になって熱くなっていくのを感じた。
それを聞いたアカツキはまだその表情を崩さず、次に簪の心が凍り付くようなことを聞いてきた。
「そうか。なら………彼が復讐のために、今まで何人も、それこそ大勢の人間を殺してきたとしても?」
「っ!?」
あの時からもしかしてそうなのかもしれないと思っていた。
しかし、実際に聞くとやはりそのショックはでかい。それが簪の胸に突き刺さり、心を恐怖で浸食していく。
それを見て、アカツキは更に押す。
「その復讐だけが生きる目的で、それを成すためなら死んでもいい。寧ろその後なんて何も考えていなくても、それでもかい。少なくても、絶対に一緒にはなれないよ。きっと彼は復讐を果たしたときに死んでしまう。それでも………彼のことが好きかい?」
「………………………」
アカツキに言われ、簪は沈黙してしまう。
それを見かねて楯無がアカツキに噛み付く。
「何、簪ちゃんをいじめるために来たの? だったら……」
そのまま腕を上げると、自らのISを部分展開して武装を展開。ランス(蒼流閃)を出すとその穂先をアカツキに向けて睨み付ける。
「今すぐ力尽くでこの部屋から出て行って貰うわよ」
ランスを向けられたアカツキは楯無に向かって笑うと、そうじゃないよ、と真面目な顔で答える。
そして簪を見つめる。
簪はというと、ずっと黙ったまま考えていた。
彼がそれでも好きなのかと。
確かにそう真実を言われれば怖い。だが、それでも………。
簪は一夏と一緒にいたかった。
怖いけど……それ以上に一夏がいなくなることが怖くて仕方なかった。
死んでしまうと言われたことが一番………怖い。
そして一夏のことを想えば想う程に、涙が溢れて会いたい気持ちで一杯になる。
会って、話して、そして手を握ってもらいたい。
一夏のことを想えば胸が苦しくて仕方なくなっていく。しかし、それは不快な物ではない。
人を殺したことは許されないことである。それは償わなければならない。だが、それは生きていなければ出来ないことだ。ならば……一緒に償ないたい……生きて欲しい。
そう簪は考えた時点で、その答えは出た。
「わ、私は……それでも……織斑君のことが……好き!! たとえ死んじゃうとしても、その前にこの想いを伝えたい! 織斑君に伝えたい! あなたは一人じゃないって。あなたを想っている人がいるって!!」
決死の思いでそう言った後、簪は自分が如何に恥ずかしいことを言ったのかを自覚して真っ赤になった。
その告白を聞いた楯無も真逆妹がここまではっきりというとは思っていなかっただけに内心で驚愕していた。
そしてその簪の告白を聞いたアカツキは思いっきり笑みを深めて笑った。
「うん、そういう答えを聞きたかったんだ。そこまで言える君なら連れて行っても良さそうだ」
そうアカツキは言うと、簪にニッコリと笑いかけて話し始めた。
「近々、亡国機業狩りを各国政府と企業で行おうと思ってるんだ。その作戦で一夏君は復讐する相手と戦う。だからその時、それが終わる頃合いを見て君を一夏君の所へ連れて行って上げるよ。勿論、彼の邪魔はしちゃ駄目だよ」
それを聞いた簪は先程まで泣いていた顔から瞳を希望で輝かせてアカツキに向き合った。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、勿論。彼が気にかけた人なら、是非とも連れて行きたいと思っていたからね。そのためには覚悟を決めた人じゃないと。ちゃんと安全を考えて動くから、お姉さんも一緒にくるといいよ。他の人も誘っていいしね」
そう言い終えると、アカツキは扉を開けて外へと歩き出す。
「それが言いたかっただけだから、近々連絡するからね。それじゃ」
そう言ってアカツキは部屋を出て行った。
その後ろ姿を簪と楯無は見つめる。
「簪ちゃん………」
楯無は心配そうに簪を見ると、簪は決意を秘めた瞳でアカツキが出て行った扉を見つめていた。
(これで………やっと織斑君に会える!! その時は………)
簪はもう、泣くのを止めていた。