シャルロットは海中に漂っていた。
目を開けると、はっきりと視界が見え、何故か呼吸も出来る。
不思議な感覚に、ここが現実でないことが強調される。
「夢……かな」
自分は福音と戦闘し、墜ちたはずだ。ならばここは天国なのかもしれない。
天国は空ではなく海にあったのか。これは定説もひっくり返る大発見だ。そんなくだらない事を考える。
「まぁ、僕が天国に行けるわけないけどね」
――天国か、面白いことを考えるね。
シャルロットの思考に対応するように聞こえる声に、意識を周囲に向ける。
そこには、藍白のイルカが優雅に泳いでいた。
その存在に驚くこともなく、浮力に身を任せる。
まるで無重力のような感覚。
まるでスクーバダイビングをしているようだ。
「そういう言い方をするってことは、まだ生きてるようだね」
――まあね。でもいつ死んでもおかしくはないよ?
「そっか、ごめんね」
シャルロットは気楽に声に出す。
――何が?
「一緒に泳げなくて」
――察しがいいね。
シャルロットの周りをぐるぐる泳ぐイルカはまるで笑っているかのように泡を吐く。
「やっぱりイルカの姿なんだね」
――それは君たちがそうイメージしてるだけの話だよ。ここは、イメージで構築される世界なんだから。
「そっか」
イルカはシャルロットの前で止まると、ヒレに引っ掛けていたペンダントをシャルロットに取らせる。
「これは?」
――この子も、君にありがとうって。そしてごめんってさ。
渡されたペンダントは、何故かその存在が希薄に感じられる。
それだけでシャルロットもなんとなくだが理解した。
だからそれをイルカに返した。
君が持っておいて。そう目で伝えると、イルカは黙ってそれを口に咥えた。
――君は行かなくて良いの?
先ほどから海中には外の風景が映し出されている。
必死にシャルロットを繋ぎとめようとする沙良の姿が。
「沙良……」
シャルロットは胸の前に手を当てる。
その視線は真っ直ぐ向いたままだ。
「僕はどうすれば良い?」
――それは君が決めることさ。
「君はどうするのさ」
――それも君が決めることさ。
外が騒がしくなる。
イルカとの会話を一度中断し、其方に気を向けてみると、そこには形態の変わっている銀の機体。
「福音……」
沙良がシャルロットから引き離される。肩に爆撃を受け海中を漂う姿に、唇を噛んだ。
福音がシャルロットに駆けつけようとした沙良の脚部を掴んだ。
その翼が広げられる。
――このままでは答えは変わらない。でも、僕と君なら答えは変えられる。
イルカがシャルロットに擦り寄る。
――さぁ、決めて。僕は既に君を、認めているよ?
近くに来た頭を優しく撫でる。
生きているのなら醜く足掻こう。この人生、ただ一人のために使おうと決めたじゃないか。
だから、シャルロットは声に出した。
「支えてくれる? ドルフィン」
――うん、良い答え。
イルカが粒子となり、海中が泡に包まれていく。
視界が暗転した。
◆ ◇ ◆
視界には迫り来る光弾。
しかし、後ろには沙良とシャルロットがいる。
沙良だけならこの一瞬で回避行動に出れるかもしれない。しかしシャルロットはそういうわけにもいかない。
ここで退くわけにはいかない。
――本当、馬鹿ですね。わたし。
フィオナは自嘲の笑みを零す。
シールドエネルギーの切れたISは脆い。銃弾ぐらいなら受け止められるが、エネルギーグレネードは流石に荷が重い。
それに、この深海においてISの保護無しに生存することなど不可能に近い。
だが、身体が勝手に動いたのだ。
仲間を見捨てられなかったのだ。
そんなの仕方ないじゃないか。
両手を広げ、沙良を庇うかのように立ち塞がったフィオナに、光弾が迫った。
全てがスローモーションで動く。
――あぁ、本格的に駄目なやつですね。
そう笑うと、光弾は全てフィオナを避けるように
「え?」
光エネルギーを主体に構成される光弾は、その軌道を曲げるような真似は出来ない。
それは相対性理論が実証している。
光は時空を直進しか出来ない。
なら、何故目の前で光弾が曲がったのか。
「まさか……」
フィオナは知っていた。見た目的に光を曲げることが出来ることを。
同じく、相対性理論によって実証された現象。
「重力は、光を曲げる」
重力によって歪められた時空を光が通る時、歪みにそって光は直進する。
故に、光が曲がったように見えるのだ。
そんな芸当を出来る機体など、フィオナは一つしか知らない。
特殊重力制御型空間制圧兵器。
それをメイン武装に持つ機体。
今までずっと開発に携わってきたのだ。フィオナが間違えるはずがない。
「フィオナ、無事?」
少し聞いていなかっただけで、随分と懐かしく感じる声。
「シャル、さん……」
「もう、二人して泣かないでよ」
涙腺がまるで言う事を訊かない。
それは、沙良も同じのようだ。
海中に漂う藍白の機体。
ドルフィンを纏ったシャルロットが、確かにそこに居た。
◆ ◇ ◆
全く言うことを聞かない四肢を、ドルフィンが無理矢理動かす。
もちろん痛みはある。だが、その痛みが生きているということを強く実感させてくれる。
「意外と、馴染む」
一次移行を済ましたドルフィンは、しっかりとしたレスポンスをシャルロットに返す。
今までのラグが、まるで嘘のようだ。
「これが専用機」
量産機として開発していた機体が、ようやくシャルロットの専用機となったのだ。
専用機。その言葉通りに、最善を尽くせるように作られたたった一人のためだけの機体。
本来なら、ドルフィンはまだ専用機にする段階ではなかった。一次以降は全てのデータを取り終わり、他の機体の作成に入ったらという話だったのだ。それを、シャルロットの危機といえど勝手に専用機化したのだ。後でどんな処罰が待っているかわからない。
それでも、つい笑みが浮かぶ。
この力が、自分の新しい力。皆の期待を一身に受けた希望の機体。
手を向けている先には福音の姿。だが、その姿は蜘蛛の糸に囚われた蝶のよう。一切の身動きを封じられたかのように、海中に固定されてしまっている。
「凄い……」
フィオナの呟きが聞こえる。
それはまさに水の檻。
水は、圧力を加えようともその体積が変化することはない。
つまり、高圧力で水を固めている場合、その水は強固な壁となるのだ。
海水の壁に埋もれた福音は、足掻こうと翼を広げようとする。しかし、その翼も重力帯に捻じ曲げられ伸ばすことが出来ない。
シャルロットはニヒルな笑みを浮かべる。
「チェックメイト」
その言葉に応えるように、水面方向から影が落ちる。
水中を高速で動く独特の音。
その姿を見たフィオナが、唇を尖がらせて呟いた。
「遅いですよ、イチカさん」
腰に刀を構えた一夏が、スラスターを噴かし一直線に潜る。
やや姿形が変わった白式が、その刀に光の線を走らせる。
「天ッ蛍!!」
名と共に刀身が淡く光を帯びた。
一夏の刀が重力帯を切り裂き、
「千切れ!!」
福音を沈黙させた。
◆ ◇ ◆
福音の搭乗者を救護カプセルに押し込み、海中をゆっくりと飛ぶこと十数分。一向はようやく旅館に帰還した。
波打ち際に辿り付くと、皆が思うままにISを解除していく。
「シャルロット、大丈夫?」
「もう、リナったら。さっきから同じことを何回も聞いてるよ?」
心配そうにシャルロットを見つめるリナに、つい苦笑を漏らしてしまう。
「まあ、リナの気持ちも分からなくはないですけどね」
「その怪我だもんな」
「む、一夏には言われたくないよ」
「でも、シャルロット。解除したら歩けないでしょ?」
リナの言うとおり、ISを解除したら歩ける状態ではないだろう。
両足に火傷を負っているようだ。折れてはいないだろうが、罅が入っている可能性がある。
左肩は、ISを纏っていても動かすことが出来ない。良くて脱臼、最悪の場合骨折といったところか。
「まぁ無理だろうね」
「シャルロット、ちょっと待ってなさい。どうせ歩けないでしょ? 担架か車椅子借りてくる」
「うん、ごめん。ありがとうリナ」
「その必要はない。脚部だけISを展開していろ」
「――っ!? 織斑先生!?」
旅館から複数人引き連れて、千冬が姿を現す。
その姿は鬼気纏い、腕を組み片手に持つ出席簿が小刻みに揺れその怒気を主張する。
この寒気は怪我のせいか、千冬のせいか。
「
「ち、千冬姉」
「織斑、黙っていろ」
「は、はいっ!」
不意に睨みつけられた一夏が、びくりと身を竦ませる。
「お前たちは独自行動により重大な違反を犯した。当分の間行動に規制がかかると思え。まぁ、その時間を有効に使えるように始末書と懲罰用の特別トレーニングを用意しておいてやる。感謝しろ。それと、代表候補生のお前らは半年間の減棒だそうだ。特に、軍属はまた軍のほうで懲罰を言い渡されるだろう。休暇は無いものだと思え」
皆の勝利に高ぶっていた気持ちが一瞬で地に落とされる。
リナが崩れ落ち、砂地に両手を付いた。
「私の、私の夏休みが……」
「ふふん。わたしは代表候補生でも軍属でもないから関係ありませんね」
「ああ、そうそう。SQCに報告したところ、ファリーノスが後で連絡するようにと伝えてくれとのことだ。ボーナス前に大変だな」
そう言い捨てる千冬に、フィオナは膝を付き天を仰いだ。
「わたしの、わたしのボーナスが……」
その二人を放置して、千冬は場を仕切る。
「それでは、今から楽しいお説教タイムと行こうか。付いて来い」
「……そんな、あんまりですわ」
「頑張ったのにこの仕打ち……やってられないわね」
「それが教官の決めたことならば従うしかないだろう」
「黙って付いて来い」
「「「はいっ! すみません!!」」」
「ルイス、お前はそのまま救護室に向かえ。お前はお咎め無しだ」
千冬の手が頭に置かれる。
「よく帰って来た」
そのまま撫でられる。
あの千冬が自分の頭を撫でるという状況に、少し呆気に取られてしまう。
「よく守ってくれたな。お前に任せてよかった。あいつの姉として感謝する」
一瞬、なんのことか理解が追いつかなかった。だが、確かに思い当たる節がある。
それは出撃前に交わした言葉。
『分かりました。沙良は私が守ります』
『任せたぞ、ルイス』
たった一言だけだが、確かに千冬はそう言ったのだ。
任せたと。
沙良を守ることは成功した。だが、それは――
「僕……私は、正しかったのですか」
――正しかったといえるのだろうか。
シャルロットの悲痛な表情とは対象に、千冬は柔らかな表情を見せる。
「私の正しさと、お前の正しさが一緒とは限らないだろう?」
「それでも、私は……死を」
「確かにお前のした事は、教師の立場としては到底許容できない。死を受け入れるなど到底許せたものではない。残された者の辛さは私もよく分かるからな」
「…………」
シャルロットは死を覚悟した時、沙良を守れるならば心を傷つけてもいいと思った。命が無事なら、と想いを度外視しようとした。
傷は何時かは癒える。そんな事、残していく側の詭弁に過ぎないことはシャルロットもよく分かっている。
だが、それではどうしようもなかったのだ。ハイリスクで全員が助かる道を行くのか、一人を犠牲に残りを確実に助けるか。そのような問いに、正しい答えなんて無い。
「お前は間違えているよ……だがな、シャルロット」
「……?」
千冬が珍しく、名で呼ぶ。
「結果論とは言え、お前のおかげで誰も悲しみを得ていない。ならば間違えていたとしても、お前は正しく間違えれたさ」
「……っ、はいっ!」
「お前への個人的説教はまた今度だ。早く治療してこい。あいつが『痕も残らないように治療してあげる』なんて言うものだから耳を疑ったよ」
あいつとは、束のことだろうか。人間嫌いの天災が、よくシャルロットを治療する気になったものだ。
シャルロットの疑問に感づいたのか、千冬が答えとなる言葉をくれる。
「『お礼』だと。良かったなルイス。
そう言って千冬はニヤニヤとシャルロットに下世話な視線を向ける。
「お、織斑先生っ!」
顔が赤くなるのが自分でも分かる。
その表情を見て満足したのか千冬は表情を緩ませる。
「ははは、しっかりと治せよ」
笑いながら去っていく千冬は実に楽しそうだ。
その後姿を呆れたように見送る。自分は速やかに救護室に向かわねばならぬだろう。担当の教員が待機しているであろうから、待たせるわけにはいかない。だが、足はここから動こうとはしてくれない。
誰も居なくなる砂浜。
そこに一人、自分を待つものが居るのだから。
◆ ◇ ◆
人が居なくなるのを待っていたのだろう。沙良が拳を強く握り締め歩み寄る。
その表情はまるで泣きそうに歪み、怒りを耐えているように見える。
二人残された砂浜で、張り詰めた空気が場を支配する。
「シャル」
名を呼ばれ、
「――っ」
頬を殴られた。
ISの補助により、転ぶことは無かった。本気で殴られた頬は、赤く腫れ、熱を持つ。だが、肉体よりも心に痛みが走った。
「……」
言葉すら出ない。
殴られたまま正面を向くことのできないシャルロットを、意気地なしと責められるだろうか。
甘んじてその怒りを受け入れようと、正面を向かなければと頭では思っている。だが、予想以上に自分の心は弱かったようだ。
「こっち向いて」
普段なら絶対に使わない乱雑な言葉。口調から感じる途轍もない怒りの感情。
情けない。目を合わせる勇気がない自分が。嫌われたと、そう思うだけで心臓が止まりそうになる。
こんなに自分が弱かったなんて、始めて知った。笑えるものだ。こんな状態でよく守ると言えたものだ。
「聞こえてるの?」
片手で両頬を挟むように掴まれると、無理矢理正面を向かされる。
抵抗することが烏滸がましい。促されるまま沙良と目を合わせる。
嫌われたと思った。もう自分は横に居てはならないと。
だが、その瞳はシャルロットを責めているようには見えない。
沙良は泣いていた。綺麗な瞳に涙を浮かべ、透き通る雫をぽたりぽたりと砂浜に染み込ませていく。
「ふざけんなよ……」
翠玉の虹彩から水滴が零れ、頬から顎に伝わらせる。
「あんな言葉を囁いておいて、死ぬ覚悟だって? ふざけんなよっ!」
沙良が声を荒立たせる。弾かれたように飛ぶ水滴が、シャルロットの衣服に落ちる。
口を塞ぐように掴んでいた手が、そのまま頬を撫でるように這わされる。
「残される僕の気持ちはどうなるんだよ……」
「……ごめん、なさい」
その表情は色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
喜悦、憤怒、悲観、安堵。そのどれとも分からない複雑な感情。
「喜びを抱きしめたら良いの? 怒りを吐き出せばいいの? 哀しみを受け入れたら良いの? 気楽に胸を撫で下ろせばいいの?」
「……沙良」
「痛いよ。この辺りが痛いんだ。張り裂けそうなぐらいに痛むんだ」
そう言って、その手が左胸を押さえる。ギュッと強く掴んだ服は、皺を携え形を崩す。
「僕だってわかんないよ。どうしたらいいの? このもやもやした気持ちはどうやったら治まるの? 言葉で表せないよ。色んな感情が混ざって苦しい。胸が苦しいんだ……」
「……」
「シャルが居なくなって、ずっとだ。痛くて痛くて仕方ない。僕だって自分のことばっかりで最低だと思ってる。でも、もう嫌なんだ。あんな想い、もう懲り懲りだ。あんな気持ち、もう味わいたくもない。だから――――もう僕の傍を離れないで」
その感情の吐露に体が勝手に動いた。これは無自覚といっても良い。
沙良自身が自覚していない意思に、その意味を理解してしまったらもう止まらない。
最低だ。
こんなにも彼を苦しめていたということに。自分を思い、彼が苦しんでくれていたということに、歓喜してしまったのだ。自分でも思う。最低な人間だと。
だから、あえてこう言おうではないか。
最低同士、お似合いだと。
気付けば、腰を引き寄せ、近寄った桃のような唇へ、自らのボロボロの唇を寄せていた。
その距離は有無も言わさず埋められていき、
「ごめん」
言葉を紡ぐ、そのタイミングで、
「シャ――」
塞がれた。
「……っ……」
切れた唇が些細な痛みを伝わらせるが、それに勝る快楽に思考が逸れていく。
重ねた唇の甘美さは、正しく胡蝶の夢の如しと言った所か。
「ぁ……ん、…………な、に……んぅっ……」
咄嗟の出来事に、合わせた唇から戸惑いの声が挙がった。
ただ唇を合わせるだけ。
舌が口内を蹂躙するわけでも、お互いの唾液を交えるわけでもない。
ただ、お互いの唇の柔らかさを確かめ合う。
抵抗する身体を抑え続け、その身体を逃がさぬように捕らえる。抵抗が止んだと思えば、吹っ切れたように沙良の身体から力が抜けた。
シャルロットは支えとなるようにそっと、その身を受け止める。寄りかかる身体を、強く、強く抱きしめる。
後頭部に手を回し、強く唇を交わす。
唇を合わせるだけで、お互いの鼓動が、想いが、互いの全てが伝わるような錯覚。
優しさ、怒り、戸惑い、悲しみ、そして喜び。その全てを共有できるかのような感覚。
欧州の出だけあって、口付け自体の経験はある。だが、こんなにも心の隙間を埋める口付けは初めてだ。
隙間風に吹かれ、凍えていた心が温められていくような、そんな口付け。
「……そんなんで、誤魔化されないから」
「……え?」
銀の橋により繋がれた唇から漏れる言葉。
沙良が這わせた指で拭ってくれ、初めて自分が泣いていることに気付いた。
「……あれ? ……何で止まらないの?」
先ほどと立場が変わったように、今度は自分の瞳から涙が止まらなくなる。まるでダムが決壊したように、エメラルドのようと評された瞳は視界をぼやかし、頬を濡らし続ける。
「僕から離れたら怒るから」
普段なら、そんな理不尽なと笑っただろう。だが、今はその言葉が何よりも嬉しい。
それに、言葉が何と言おうと、優しさは所作に現れる。
声を詰まらせ、肩を震わす。
視覚が全く役に立たなくなり、零れる熱が砂浜を濡らす。
堪らず彼の胸に顔を埋める。腕が、丸く曲げられた背中に回り、落ち着けと優しく撫でてくれる。
「ずっと…………、ずっと、傍に居でぐだざいっ!」
頭が思考を放棄し、ただ感情に従うままに思いを垂れ流した。
声を上げ、想いを叫ぶシャルロット。
「ばか。本当に、ばかなんだから」
その背中を沙良は愛おしむように撫で続ける。
その胸部はシャルロットの涙で濡れてしまっていた。
愛おしい彼。
彼の顔が見たい。彼の表情を。彼と目を合わせ意志を交わしたい。彼からの感情を感じ取りたい。
その思いで、未だぼやける視界を上げ、輪郭の曖昧な彼の瞳を探す。ようやく探し当てた緑玉の瞳は、シャルロットに魔法をかけたように身体を熱くする。
沙良の頬に手を伸ばした。慈母の微笑で受け入れてくれるその頬は、熱を流しきった心に掛け替えのない温もりを与えてくれる。
もう一度、沙良に触れられる。
それがどんなに嬉しいことか。
あの時の覚悟に嘘はない。それでも再び沙良の傍に立ってしまえば、もう離れたくないとも思ってしまう。
「さ……っ、……ら……」
言葉が出ない。
たった一言伝えるだけなのに、感情が溢れる。
涙が滲み、呼吸が荒くなる。
「大丈夫、ここにいるから」
沙良がシャルロットに抱きつく。
左腕が動かないことは沙良も気付いてくれているのか、身体に影響のないように優しく抱きしめてくれる。
シャルロットは右腕だけでそっと抱き返した。
「ただ、いま」
「うん、お帰りシャル」
帰って来れて良かった。
大好きな人の元に帰って来れて。
「もう、一度……会え、て良かった」
シャルロットは強く、強く沙良を抱きしめる。
これから先も、シャルロットは同じような選択をしていくだろう。
そのことに迷いはないし、後悔もない。
でも、根本的な気持ちに変わりはない。
「……せ、ら」
「なぁに?」
「きす、したい」
答えが返って来る前に、彼の唇を奪う。
まるで、小鳥が啄ばむ様に何回も、何回も。
そこに居ることを、その存在を、体温を感じることで確かめる。
この想いが実ることはなくても、知っていて欲しい。
――この気持ちは、きっと麻薬みたいなものだ。
一度知ってしまったら、もう忘れられない。
体験してしまえば、もう逃げられない。
「貴方が、好きです」
この流れは、人の好みが分かれそうで心底ドキドキしている作者です。
いやぁ、この話は難産でした。でも、これでようやく福音編も風呂敷を畳むことが出来そうです。
無駄に広げすぎたせいで収まりきらない部分もありましたが、無事に終わりを迎えることが出来そうでホッとしています。
ではもう少しお付き合いお願いします。
この時期は就活でスケジュール帳が埋まるぐらい忙しいので、更新は気長にお待ちいただけたら幸いです。