「はぁぁ~~」
一夏は湯船に肩まで身を沈めると、大きく息をついた。
全身から疲れが抜けていくような感覚に、つい瞼を閉じる。
一夏はこの瞬間が何よりも好きだった。
日本人に生まれたなら、風呂は楽しみなものなのだ。
学園では滅多に入ることが出来ない分、この瞬間の快楽は通常の比ではない。
「一夏、おっさんみたい」
「いや、これは日本人として正しい反応だ」
「僕スペイン人だもん」
沙良は淵に腰掛けて足だけをつけている。
本人曰く、熱いから慣らすとのことだ。
「よし」
慣れたのかどうかは知らないが、沙良は身を湯船に沈めていく。
「はぁ……」
「沙良、おっさんみたいだぞ」
「いやいや、これが日本人の正しい反応だよー」
沙良は楽しそうにお湯に口元まで沈み、口から空気をぽこぽこ出している。
――ホント、よく笑うようになったよなぁ。
いや、昔から一夏に対してはよく笑顔を見せていた。
一夏が思うのはそういうことではない。
――よく、俺以外に笑顔を見せれるようになった。
もともと、笑わない子供ではなかった。
むしろ、笑顔が良く似合う子供だったといえる。
しかしそれは一夏の前での話である。
今の沙良のように誰にも笑顔を向けるようなことは無かった。
鈴音ですら、沙良の心からの笑顔を見たのは出会ってから一年が経ってからだった。
「それでね、あのときにソフィがさ――」
今のように他人の話で笑えるようなことも無かった。
沙良が本当の笑顔を見せるのは、沙良が身内と思った人間だけ。
今でこそ、自然に笑顔を作ることを覚えたようだが、昔の沙良は人と関わることが苦手という節があった。
束に気に入られたと聞いた時は、確かに似ていると思ったものだ。
身内以外を拒絶する束と、身内のみを受け入れる沙良。
その身内の認識範囲が段々と広くなってきていることに一夏は安心している。
しかし、安心すると同時に、一つ懸念することもあるのだ。
「そこで、シャルってばエネルギーが切れちゃって、もう蜂の巣みたいだったよ」
「そういえば、沙良にしては気に入るのが早かったな」
「シャルのこと?」
ああ、と一夏は頷く。
「普段は段階を踏んで仲良くなっていくのに、シャルロットだけ気付いたら内側に居ましたって感じてさ」
「んー、僕にもいまいち分かんないんだけど、一夏が言うならそうなんじゃない?」
手でお湯を掬い、手前に流す。
その沙良の動きを一夏は黙って見つめる。
「でも、確かに一夏の言うとおりかも。一夏のときと一緒で、なんか仲良くなれそうだなぁって思ったんだ」
虚空を見つめる沙良。
「なんでだろうねぇ」
「……まだ、他人は苦手か?」
「どうだろ。向こうに行って、苦手とかそんなの言ってられる立場じゃなくなったからね。慣れた、て言うのが一番近いのかな」
「作り笑顔だけ上手くなってきて」
「でも、必要でしょ?」
一夏は黙って沙良の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
それだけで通じる。
沙良もされるがままで、大人しく心地よい温度に身をゆだねる。
何分経っただろう。
体も温まってきて、そろそろ上がるかという空気の中、沙良がポツリと口を開いた。
「一夏はさ、僕がIS使えるって何時から知ってたの?」
「そりゃあ、ニュースに出てたか――」
「嘘」
「……」
「嘘」
目を瞑ればいつでも思い出せる。
第二回モンド・グロッソでの誘拐事件。
銃弾を受け、意識を飛ばす瞬間に見た蒼い装甲を。今なら、あれが海良だったのであろう、そう言えるほどの情報を持っている。
「…………あの事件の後に千冬姉に聞いた」
「そっか」
沙良はアンニュイな雰囲気のまま目を閉じる。
いつもの明るい沙良は鳴りを潜め、そこには普段見せない顔があった。
身内の中でも決まった人間のみにしか見せない、沙良の
「……一夏はさぁ」
口を尖がらせて、沙良は湯船に沈み込む。
問いかけておいて、口元をお湯に沈める。
その行為に待っていても続きは来ないと察した一夏は問いかけることにする。
「なんだ?」
それはどうやら正解だったようだ。
沙良は湯船からのそのそと身を起こす。
「僕のこと……好き?」
「……嫌いなやつを家族って言わねえよ」
一夏としては、ちゃんと回答したつもりだったが、その回答はお気に召さなかったようだ。
「好きか嫌いかで」
「好きだ」
「うん、知ってる。でも僕は嫌い」
「俺が、か?」
一夏は冗談めかして聞く。
実際には沙良が言いたいことはわかっている。
長い付き合いで、この話し合いも何度と無く行なってきた。
「わかってるくせに」
「……自分が一番好きになれない、か」
沙良の根本にある考え方だ。
自分が好きになれないから、他人も好きになれない。
自分に情を向けれないから、身内に最大限の情を向ける。
自分が好きじゃないから、わが身を省みない。
自分が好きじゃないから、自分に向けられる好意を信じることが出来ない。
自分が好きじゃないから、身内のために簡単にその身を差し出す。
一夏をその身で庇ったように、無人機にその身を晒したように、沙良は身内のために自分が傷つくことを『良し』とする。
もちろん、他人のためにわが身を差し出すのは馬鹿らしい。しかし、親密になってしまうと自分を犠牲にする選択肢が増えてしまう。
それが自分でもわかっているから、沙良は他人と距離を置く。
好きじゃないけど、傷付けたくないから。
好きになった人に、傷付けられたくないから。
だから沙良は身内と呼べるものが増えるに従って、己の内に後ろ向きな気持ちを溜め込んでいく。
もし、それを表に出して嫌われたらどうしよう。
そう考えてしまうのだと、一夏は以前聞いた。
「僕はさ、早くからIS動かしちゃったから、その分大人の汚い部分を見てきたよ」
だから一夏は吐き出させる。
たまにこうやって発散させてやらないと、沙良は抱え込むタイプだと知っているからこそ、わざわざこういう話題を狙って振ったのだ。
一夏の知る限り、沙良が弱音を吐くのは一夏と束と千冬、エルベルト、ソフィアの前だけだ。いや、アントーニョもそうだろう。
だから今は弱音ぐらい聞いてあげる時間だ。
故に一夏は応えない。
ただ、沙良が吐き出すように紡ぐ言葉を待ち続ける。
「でもさ、僕も同じように汚いんだよ。いつも打算で生きて、人の思いを計算する。どう動けば、自分に利が来るか、いつも考えてる」
人間なんてそんなものだろ。そんな言葉をかけたこともある。
しかし沙良はいつも決まって寂しそうな顔で言うのだ。
「それが人間と言ったって『自分の汚い部分が周りと一緒なんて甘い考え』が僕には持てないんだよ、一夏」
「沙良……」
「…………似てると思ったんだ」
沙良は両手を水面に這わせる。
そこに生まれる波紋をただジッと見つめる。
「あの子、『自分なんて生まれてこなかったら』ってそう思ってた」
「……シャルロットか?」
「あの子もまた自分が好きになれないんだと思う。自分が居たから、自分のせいで、自分が悪い、そういう考え方が底辺にあるんだ」
「同気相求ってか」
同気相求む。
同じような性質を持つものは互いに求め合い、自然に寄り集まる。
「そういうことなのかなぁ」
「それで、何とかしようと考えたのか?」
沙良は首を横に振る。
「ううん、そんなんじゃないよ。ただ、自分を見てるみたいで嫌だったんだ。だから、笑って欲しかった、僕とは違って前を向いていて欲しかったんだ。助けたのは善意なんかじゃないよ。ただ、シャルを通して見える自分が嫌だっただけ。ただの我儘、御為倒しだよ」
「そっか」
――本当、難しく考えるやつだ。
一夏としては、その想いが善意でなくとも、偽善であればいいと思っている。
我儘でもいいじゃないかと。それが相手のためになっているのだから問題はないと。
しかし、沙良はそう捉えない。
だから、一夏はそれっきりなにも言わない。
ただ、横に座っているだけ。
「海、綺麗だね」
露天から見える景色に沙良がボソッと呟く。
「ああ、露天とは贅沢の極みだよな」
「……一夏はさ、優しいよね」
「どうした、いきなり」
「ううん。なんでもない」
沙良は頭を振ると、元気良く立ち上がった。
「上がろっか。逆上せてきちゃった」
そこに居たのはいつもの明るい沙良の姿。
しかし、一夏には、少し無理をしているように見えた。
だからか、つい頭を撫でてしまう。
痛くないように優しく、それでいて力強く。
「一夏?」
「あんま、溜め込むなよ?」
「いちか……」
「学園に居れば俺だって居るし、ソフィアさんだって居る。それに、シャルロットのこと気に入ってんだろ? 寄りかかれよ、遠慮してないでさ」
止まり木ぐらいにはなってやるさ。
そう、締めくくる。
「戻るか。あんま遅くなると何を言われるかわかんないしな」
「一夏」
「おう」
「裸でそんな良い事言ってもシュールだよ?」
「うるせえ」
「ぁ痛っ」
頭に載せていた手でおでこを弾く。
少しは元気が出ただろうか。
冗談が言えるぐらいなら大丈夫だろう。
全く、手のかかる兄弟だ。
「一夏」
「なんだよ? 裸については言及は無しだぞ?」
「Gracias.」
そうして浮かべた笑顔はいつもよりも柔らかなものだった。
◆ ◇ ◆
火照った身体に冷気を取り込むように、一夏はパタパタと浴衣の合わせを揺らす。
隙間から入ってくる風の心地よさに、ほぅと一息ついてしまう。
「いいお湯だったね」
「ああ、露天とは恐れ入ったな」
二人は満足げに廊下に足音を響かせる。
その足取りは軽く、疲れも残してはいないようだ。
「沙良はこの後どうするんだ? あ、まだ仕事か?」
風呂に誘った時に作業中だったことを思い出し、一夏は頭を掻く。
「ううん。もう今日の分は終わったから。就寝までは特に用事も無いかな」
「なら俺の部屋に遊びに来たらどうだ? 千冬姉も居るし」
沙良は口元に手を当てて、うーんと唸る。
「それもいいかな」
「じゃあ、飲み物でも買っていくか」
「あ、ちょっと待って。荷物だけ置いていきたいな」
「了解、また後でな」
「うん」
◆ ◇ ◆
「で、これはどういう状況だ?」
飲み物とスナック菓子を詰め込んだビニール袋を片手に、扉を開けた一夏は、その目の前の光景に疑問を放つ。
「……」
無言で視線を逸らす箒。
「あ、あはは」
乾いた笑いが漏れる鈴音。
「え、あ、これは……だな」
慌てふためくラウラ。
「あらあら」
優雅に微笑を蓄えるセシリア。
セシリア以外は頬を赤く染めており、状況の判断が出来ない一夏は、原因であろうと思われる、この部屋の主に視線を向ける。
「なあ、千冬姉。これ、どういう状況?」
「なに、この小娘共が部屋の前でウロチョロしていたから捕まえただけだ」
「わたくしは呼ばれたので来ただけですわ」
「余計わからん」
捕まえただけにしては、各自手元に飲み物が配られており、明らかに捕まえただけとは思えない。
「って、千冬姉それビール」
「お前までぐちぐち言うのか。今は仕事中じゃないんだからいいだろう」
千冬は小気味いい音をたてながら、プルタブを引き起こすと、一気に口に中身を流し込む。
「まあ、千冬姉が良いって言うなら止めないけどさ。言ってくれたらつまみも買ってきたのに」
一夏は片手に下げた袋を持ち上げて千冬に見せる。
すると、タイミングよくコンコンとノックがされる。
「いちかー遊びに来たよー」
ノックと共に間延びした声が部屋に聞こえてくる。
引き戸が勢い良く開かれると、そこから翠の目を持つ二人が姿を見せた。
「お邪魔しまーす。……あれ? 何でみんないるの?」
「お邪魔します」
沙良の疑問は最もだろう。
一夏も先ほどまで同じことを思っていたのだから。
「シャルロットも来たのか」
「もしかしてお邪魔だったかな?」
「いや、全然そんなことないさ」
一夏はチラリと千冬を一瞥する。
「沙良の部屋にいたほうが良いか?」
千冬は首を横に振る。
「そんなに長い時間かからんだろう。すぐに終わるさ。そうだな、悪いが一品作ってくれないか? 冷蔵庫に何か入っているだろう」
「ああ、そんぐらいだったらいいぜ。沙良も一緒に作るか?」
「うん、待っててもしょうがないしね」
「あ、それなら僕も手伝うよ」
「そんなに来ても簡易キッチンはそんなに入らないぞ?」
「う、そう言われると……」
「すぐに戻ってくるから、シャルはお菓子と飲み物の準備をお願い」
「うぅ、沙良がそう言うなら」
シャルロットは一夏からお菓子が詰まった袋を受け取ると、とぼとぼと千冬の座る縁側に向かうのだった。
◆ ◇ ◆
「さて、話を戻そうか」
千冬はキッチンで楽しそうに談笑しながら料理をする二人に視線を向ける。
「お前ら、あいつらのどこがいいんだ?」
千冬が『あいつら』と言っていることから、シャルロットも自分がお前らの中に含まれていることに気付いた。
シャルロットの記憶が正しければ、ここにいるメンバーは一夏に淡い思いを抱いているはずで、沙良に思いを向けるのは自分一人のはずだ。
「わ、私は別に……」
箒はチラリとキッチンに視線を向けると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「あたしは、腐れ縁なだけだし……」
そういう鈴音も、言っていることとその表情が一致していない。
恋する乙女と言わんばかりの表情を浮かべる二人に、千冬もついため息を零してしまう。
「お前らも素直になれば、あいつも気付くかもしれんのになぁ」
「「うっ……」」
二人して言葉に詰まる。
その様子を笑い声で一蹴して、千冬は缶を傾ける。
「わたくしはそうですわね……お二人のような熱情ではありませんですけど、好意は持ってますわね。……あら、その意外そうな顔はなんでしょうか?」
「い、いや、なんでもない」
「わたくしは積極的に動く気は無いですわ。ただ殿方の中では素敵な方という感じですわね」
その言葉を聞いて、黒髪二人がほっと息をついた。
「あら、わたくしは積極的に動く気は無いだけであって、そういう気が無いわけではありませんことよ?」
「……あんた、相当に曲者ね」
鈴音がしかめっ面で唇を尖がらせる。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「で、お前は?」
先ほどから一言も発していないラウラに、千冬が話を振る。
「私は……示してくれたから、でしょうか」
「ほう」
その言葉に、千冬は興味深そうに相槌を打つ。
示してくれたから、その言葉はシャルロットの胸にすっと降りていった。
――僕も似たようなものなのかな。
沙良を好きになった理由。
それは自らを受け入れ、在り方を示してくれた。そう考えることだって出来る。
――でも、どんなことを言ったって、今の僕なら全て肯定的に見ちゃいそうだなぁ。
自分の思考に苦笑を浮かべてしまう。
まさか自分がここまで恋愛事にのめり込む日が来るとは思いもよらなかった。
ラウラも同じ気持ちだろうか。
「まぁ、あいつは役に立つぞ。家事も料理も中々だ。それにマッサージも上手い。付き合える女は得だな。どうだ、欲しいか?」
「く、くれるんですか?」
「やるかバカ」
ラウラの問いかけはバッサリと切り捨てられてしまう。
「女ならな、奪うくらいの気持ちで行かなくてどうする。自分を磨けよ、ガキ共」
三本目のビールを口にする千冬は実に楽しそうな表情でそう言った。
「で、だ。お前はどうなんだ?」
その視線は明らかにシャルロットに向いている。
「な、何のことでしょう?」
「とぼけるのか、デュノア? いや、今は『ルイス』だったな」
ルイスを強調する千冬の言いたいことはわかっている。
「ルイスの名を名乗るということはエルベルトさんが後見人になったんだろう? 良かったじゃないか。エルベルトさん公認の仲だぞ?」
「い、いや僕と沙良はまだそういう仲じゃなくて……」
「へえ、『まだ』ねぇ」
「それに、誰も沙良さんのこととは言ってませんわ」
「うっ……」
「隠しきれているとでも思っていたのか?」
ラウラの心無い一言が、シャルロットの心にナイフを突き立てる。
「まさか、自分だけ逃げるつもりではないだろうな」
箒の一言が、チェックメイトを掛ける一手になった。
「あぁ、もう、そうですよ! 僕……私は、沙良が大好きですよ!」
「「「「「おー」」」」」
その吹っ切れたシャルロットに感嘆の声があがる。
「沙良のどこが良かったんだ?」
千冬はニヤニヤと笑みを浮かべながら缶ビールを傾けた。
「そうですね……あの優しい笑顔も、たまにへにゃって笑う所も、身内には厳しい所も、それでいて凄く大事にしてくれる所も、たまに見せる情けない所も、とても頼りになる所も、真面目な所も、努力家な所も、綺麗な指やまっすぐな眼差しも、恋愛感情に鈍い所も、その癖にこちらの感情の機微には物凄く鋭い所も、誰に対しても好きと優しく笑う時も」
自分が嫌いだと哀しく笑う時でも。
「僕は、可視不可視を問わずして沙良の全てが好きです」
「「「「「おおー」」」」」
沙良が僕を受け入れたように、僕も沙良の全てを受け止めていこう。
そう決めたのだ。
「なんかわたくし暑くなってきましたわ」
「奇遇だな、セシリア。私も何だか暑くなってきたようだ」
「奇遇ね、箒。あたしもよ」
「なんだ奇遇だな。私もだ」
顔を見合わせた四人は、シャルロットに見せ付けるように、手で顔をパタパタと扇ぐ動作を見せる。
「うぅ、あ……あぅ」
今更、恥ずかしさがこみ上げてきたシャルロットは顔を隠すように俯いてしまう。
自分でも顔が赤くなっているのが分かり、尚の事恥ずかしさが倍増してしまう。
「ルイス」
顔を上げて、声の主に目を向けると、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる千冬の姿が目に入る。
「まさか、それで話が終わりだと思うなよ?」
「へ?」
「お前の話は中々に興味深い。いい肴になるな」
そう言って、缶の中身を煽った。
顔を赤らめた状態で頬を引きつらせるといった器用な表情を作ったシャルロットは、周りの視線から逃げ道がないことを悟ると、深いため息をつくのだった。
明日は更新できるか分かりません。
早く書き終われば更新しますが、遅くまで実験がありますので期待しないでください。