沙良は朝早くから空港に来ていた。
出発は九時。
今の時刻は八時十八分。
そろそろチェックインの準備をしていた方が良いだろう。
「シャルロット、そろそろチェックインしようか」
「う、うん」
シャルロットは、緊張しているのか、いつもよりも硬い表情をしている。
「そんなに硬くならなくても良いよ。ただ、帰化の手続きをしに行くだけだから」
「う、うん……」
それでも、シャルロットの表情は変わらない。
沙良はどうにかしてあげたいとは思うのだが、これは本人の問題であるため、難しい。
「むぅ」
沙良は腕を組んで考えてしまう。
それを見たシャルロットが慌てて笑顔を作る。
「さ、沙良? 僕は大丈夫! ほら、ね?」
しかし、その笑顔も強張っている。
沙良はその笑顔を見て、決めた。
本社に行く前に、何とかして緊張を解してあげようと。
日本からスペインまではおおよそ九時間。
時差はおおよそ九時間だ。
バルセロナに着くのは向こうの時間で九時頃になるだろう。
本社に行くのは十時頃と伝えている。
「よし、決めた」
沙良は携帯端末を手に、本社にメールを送る。
そのメールの内容は一行。
『時間変更。十七時から本社でおねがい』
「うん、これでオッケーだね」
沙良は携帯端末をしまう。
「沙良?」
「ううん、なんでもないよ。そろそろ行こう?」
「うん」
沙良は行動を促す。
沙良とシャルロットは搭乗口に向かうのであった。
◆ ◇ ◆
「ねえ、沙良?」
シャルロットは沙良に声をかける。
「何?」
それを不思議そうな顔をして聞き返す沙良。
「い、いや、なんていうかぁ……」
「ん?」
「SQ社に、行くんだよね?」
「うん。行くよ?」
それがどうかしたの、と沙良は首を傾げる。
「いや、なんて言うんだろ」
シャルロットは、この状況にぴったりと来る言葉を探す。
「何で僕ら観光してるの?」
シャルロットたちは大通りを歩いていた。
それは日本とは趣きが違い、スペインという国を良く表している。
町中のいたるところには彫刻が立ち並び、芸術的な建築物が立ち並ぶ。
それはアントニオ・ガウディが遺した芸術品。
建築芸術の街、バルセロナ。
既にカサ・ミラや、サグラダ・ファミリアなどの有名なスポットには足を運んでいる。
「僕と一緒は嫌?」
沙良は悲しそうな顔を作る。
「そ、そういうのじゃないよ!? むしろ、その、物凄く嬉しいというか、もっと一緒にいたいと言うか」
シャルロットは後半モジモジしながら答える。
「なら良かった」
先ほどの悲しそうな顔から一変。破顔一笑、可愛らしい笑顔を作る。
「~~~~~っ!!」
その顔を見て、シャルロットは顔を赤くする。
そして、実感するのだ。
自分は沙良が好きなのだと。
「見て見て、シャルロット! あそこ、ほら。大道芸やってるよ。見に行こうよ!」
沙良はシャルロットの手を掴むと、そのまま気の向くままに歩いていく。
「~~っ!」
(手! 手繋いじゃったぁ!)
シャルロットの葛藤も気付かぬように、沙良は自由に通りを探索する。
「この通りはね、ランブラス通りっていってね。バルセロナといえばここ! ってぐらい有名なメインストリートなんだ」
「へ、へー」
シャルロットはそれどころではないのだが、沙良は楽しそうに解説をしてくれる。
「さっき見てたデパートが、この通りの始点
沙良は嬉しそうに語る。
(よっぽどスペインが好きなんだろうね)
フランスに対していいイメージを持たないシャルロットとしては沙良の笑顔が眩しく感じる。
「この通りのことを、スペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカが「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道」と評したんだ。僕もそう思うよ」
「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道……か」
シャルロットはふと思う。
(僕も、この状態が続けば良いなって思うよ)
手を繋ぎ、街を探索する。
フランスにいた頃にはこんなことが出来るなんて考えられなかった。
――本当、ずっと続けば良いのに。
シャルロットは思わず手に力を込める。
「シャルロット?」
それを何か言いたいことがあると思ったのか沙良がこちらを見ている。
「ううん、なんでもない」
シャルロットは笑顔を返す。
その自然な笑顔に、沙良も笑顔を返してくれる。
「あ、似顔絵描いてるよ! 僕らも描いてもらおうよ」
「あ、ちょっと沙良!?」
沙良はシャルロットの手を引き、似顔絵を描いている青年に話しかける。
(何言ってるんだろう?)
スペイン語はまったく分からないため、シャルロットは何を話しているかがまったくわからない。
「?La mujer es una amante? ?Como es tu novia?(その女性は恋人かい? どんな人なんだ?)」
青年はシャルロットを示して、沙良に何かを話している。
「No es todavia un amante. Es muy bonita y amable.(まだ恋人とかそんなんじゃないよ。 でもとても可愛くて親切な人だよ)」
「!Que envidia!(それは羨ましいね)」
それを沙良はびっくりしたような顔で答えると、すぐに優しい顔を作った。
それを聞いて、青年は羨ましそうな顔をする。
「沙良? なんて言われたの?」
「内緒」
沙良は可愛らしく笑顔を作る。
「えー。教えてくれたって良いじゃない」
沙良は、あごに指を当てて、考える素振りを見せる。
「恋人かい? って聞かれたんだ」
シャルロットは茹蛸のように一瞬で真っ赤になる。
「こ、こ、こ恋人!? それでなんて答えたの!?」
「恋人じゃないよーって」
その言葉を聞いて、シャルロットは少し、むすーとしてしまう。
「それと――――ってね」
沙良はシャルロットの耳元で囁く。
シャルロットは一瞬で顔を赤らめる。
(か、か、可愛い!? 僕が!?)
シャルロットは一瞬で思考を放棄した。
頭の中ではお花畑で小さなシャルロットたちがブレイクダンスしているのだった。
◆ ◇ ◆
「シャルロット?」
沙良はシャルロットが固まってしまったのを見て声をかけるが、シャルロットは反応を返さない。
それを見て、似顔絵描きの青年は笑っている。
「なんか変な事言ったかな?」
なにもおかしい事は言っていないはずなのだが。
「まあ、とりあえず描いてもらうか」
沙良は動かなくなったシャルロットを椅子に座らせると、その横に腰を下ろした。
「Por favor.(お願いします)」
「Si, como no.(ああ、いいぜ)」
沙良は開始五分でうとうとし始めた。
夜はぐっすりと寝ていたのだが、なんせ時差が九時間もある。その上、飛行機に九時間も乗っていれば感覚もおかしくなるだろう。
「?Dormiste bien anoche?(昨晩はよく寝たのかい?)」
「Si, Tengo sueno. Esta noche preferiria dormir enuna cama y no en un sillon.(うん、でも眠たいよ。今夜は椅子じゃなくてベッドで寝たいな)」
「Haha. Descanse despacio. (はは、まぁゆっくり休みな)」
「Gracias.(ありがとう)」
「De nada.(どういたしまして)」
沙良はシャルロットの肩の上に頭を乗せる。
寝よう。
――少しぐらい良いよね。
沙良はそのまま目を閉じた。
意識はすぐに落ちていく。
筆の動く音だけが沙良の耳に届いた。
◆ ◇ ◆
「~~~♪」
「そんなに気に入ったんだね」
シャルロットは似顔絵を抱きかかえてニヤニヤしている。
「うん! とっても嬉しいよ」
もう一度絵を眺める。
そこにはシャルロットにもたれ掛かって眠る沙良の姿が描かれていた。
その天使のような寝顔に、シャルロットはニヤつきを隠せない。
あの、似顔絵の青年もいい人だった。
絵を渡す際に、沙良には聞こえないように英語でこう言ったのだ。
『本当にお似合いのカップルだよ。強敵だとは思うけど、頑張ってね』
(~~~~~っ!!)
思い出すと顔が紅潮してしまう。
「シャルロット?」
「えっ? な、何?」
妄想に浸っていたシャルロットは現実に引き戻される。
「ううん。変な顔してたから」
「そ、そんなに変な顔してた?」
「うん」
シャルロットはがくりと肩を落とす。
「あ、そろそろ時間だね」
沙良は時計を見ながらそう呟く。
「じゃあ、本社に行こうか」
シャルロットはその言葉に身を硬くする。
(忘れてた。目的は後見人になってくれるSQ社への挨拶だったよね)
「シャルロットも遊んで、少しは緊張とけた?」
沙良は笑顔を見せてくれる。
「えっ?」
「いや、物凄い硬くなってたから気晴らしにと思って観光してみたんだけど、少しはマシになったかなぁって」
シャルロットは自分の手を見つめる。
震えてない。
(わざわざ僕のために?)
シャルロットは嬉しくなる。
(……本当に優しいんだから)
シャルロットは優しさを噛締めるように、瞳を閉じる。
「シャルロット?」
「うん。大丈夫。ありがとう沙良!」
シャルロットは顔を上げる。
その顔は晴れ晴れとしていた。
◆ ◇ ◆
シャルロットは大層豪華な応接室に通されていた。
その身は緊張でカチカチになっていた。
「僕、スペイン語わかんないんだけど大丈夫かなぁ」
沙良はここにはいない。
研究所に顔出してくると先ほど別れてしまった。
シャルロットとしては物凄く心細い。
観光してまで解してもらった緊張は、今になってゲージを振り切ろうとしている。
部屋がノックされる。
「ど、どうぞ」
入ってきたのは一人の女性だった。
その女性は茶色の髪を後ろで結上げている。
見た感じ二十台中盤だろうか。
大人の女性といった言葉が良く似合う。
「あら、聞いてたよりも可愛らしい子ね。私はS・Q社の総務課人事担当兼秘書課課長のカルラ・ファリーノス・イエロよ。よろしくね」
流暢な日本語で話しかけられたシャルロットは慌てて立ち上がる。
「わ、私はシャルロット・デュノアといいます」
「知っているわ。セラが連れてきたガールフレンドでしょ?」
「が、ガールフレンド!? い、いえまだそんな関係じゃ……」
「あら、冗談だったのに、その反応は脈ありね」
(しまったー!!)
シャルロットは恥ずかしさの余り俯いてしまう。
「私は応援するわよ?」
「ファリーノスさん……」
「カルラで良いわ」
「ありがとうございます、カルラさん」
「ええ。でも頑張りなさいよ? この会社の人間は沙良が連れてきた人間を応援すると思うけど、あの子は人気が高いからね。代表候補は全員敵と思っていた方がいいわ。特にソフィアは強敵よ? この会社の人間にとっては妹みたいなものだから」
「うわぁ」
シャルロットは嫌そうな顔をする。
確かに、モテるんだろうなぁとは思っていたが、そこまでとは思ってなかった。
それにソフィアも居る。一筋縄ではいかないだろう。
「世間話はここまでにして、そろそろ本題に入りましょうか」
「は、はい!」
シャルロットはその背筋を伸ばす。
「話自体は私がするわけじゃないから部屋を移動するわね」
カルラは移動を促す。
シャルロットはそのカルラの後についていく。
(うぅ。いよいよだよ)
「ここよ」
そう言い、たどり着いた場所は、
「しゃ、社長室?」
会社のトップがいる場所だった。
「そう、ここに社長と、貴方が所属することになる研究開発部の部長が待っているから」
そう言ってカルラは社長室をノックする。
「例の人物をお連れしました」
「そうか、通してくれ」
カルラはそのドアを開ける。
シャルロットは恐る恐るその扉をくぐる。
「ようこそ、SeaQuestCompanyへ。私たちは歓迎するよ」
社長らしき人物が恭しく挨拶をする。
「私がこの会社を纏めている、エルベルト・ルイスだ」
「シャルロット・デュノアです」
シャルロットは深く頭を下げる。
エルベルト・ルイスの名は世界に知れ渡っている。
たった一代で会社を世界的企業にまで成長させ、その権力はスペインを言葉一つで動かすことも出来るとまで言われている。
世界中のレアメタルの流通を握っているとまで言われているその経営術は多くの敵を作りながらも、その会社を難攻不落のものにした。
ただ一つの欠点は、身内に甘いということ。
「君の事情は社員から報告を受けている。SQCは快く君の身柄を引き受けよう」
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、とりあえず座ってくれたまえ」
シャルロットはソファーに腰掛ける。
「君の後見人には、私がなることになっている」
「社長自らがですか!?」
シャルロットは驚きを隠せない。
このスペインにおいて大きな力を持つS・Q社の社長の後ろ盾を得られるということは、スペインでの立場は保障されているのにも等しい。
「ああ、わが社の開発部長たってのお願いでな。フランスの影響に確実に対処できるようにしっかりと立場を示すべきと言うのでな」
シャルロットはエルベルトの横に座る、白衣の女性に頭を下げる。
「あら、私じゃないわよ?」
その女性が笑いながら答える。
「へ?」
シャルロットは変な声を出してしまう。
「私は技術開発室室長のロサ・オルティス。貴方の直接の上司になるけど、研究開発部の部長ではないわ」
シャルロットは不思議そうな顔をしてしまう。
(あれ? カルラさんが社長と研究開発部の部長がいるって言ってたはずなんだけど)
そのシャルロットにロサは納得したような顔で頷く。
「あの子は何も言ってないのね」
(あの子?)
シャルロットが口を開こうとした時、社長室がノックされる。
「開発部長です。新しく配属されるシャルロット・デュノアの専用機となる機体が準備できましたのでお持ちしました」
シャルロットがその背筋をピンと伸ばす。
おそらくシャルロットがこれから一番お世話になる人物だろう。
礼儀を欠かさないようにしなければ。
「入ってもいいぞ」
エルベルトが軽い口調でそう答える。
心なしか笑いを堪えているような気がする。
よく見ると、ロサや、カルラもその口元に笑みを浮かべていた。
「失礼します」
シャルロットはその入ってきた人物を見て驚きの声を上げた。
「沙良!?」
つい立ち上がってしまう。
いつもの制服姿や白衣姿とは違う。
特殊な作業着なのだろうか、その身に纏っている服は見たことのない形状をしていた。
それはつなぎが一番近い。
それを纏った愛しい人が急に現れたのだ。それは驚きもする。
「シャルロット、社長の前だよ」
いつもと違う厳しい口調に、ビクッとしてしまう。
すると、沙良がその態度を崩す。
「ぷっ……はは、そんなにビクってしないでよ」
ぽかんとするシャルロットに沙良は近寄る。
「ほら、座って、ね?」
そうしてされるがままにその場に腰を下ろす。
何がなんだか分からないシャルロットはただオロオロすることしか出来ない。
「なんか僕のときを思い出すなぁ」
そんなシャルロットに沙良は笑みを漏らす。
「セラもあの時はオロオロしてたもんだ」
「もう、あの時はおじいちゃんせいでしょ」
「おじいちゃん!?」
シャルロットは本日何度目か分からない叫びを上げる。
「え? 気づかなかった?」
シャルロットはコクコクと頷く。
ルイスという姓はスペインでも有り触れている。
欧州において、同じ姓は珍しいものではないのだ。
「改めて、自己紹介するね。エルベルト・ルイスの孫で、SeaQuestCompany研究開発部最高責任者兼専属テストパイロット、サラ・ルイスだよ。僕の研究室に入るということは今日から僕らは家族も同然だ。改めてよろしくね、シャルロット」
そういい、沙良は笑顔をシャルロットに向けるのだった。