「……く、……ここは」
シャルロットが瞳を開けると見知った天井が目に入った。
自室だ。
――帰って、来た……のか。
身体を動かすと、ギシギシと軋むように痛む。
よく見ると、かすり傷も多く目立つ。
「うぅ……ん、……すぅ」
横のベッドから安らかな寝息が聞こえてくる。
枕元においてある時計によると、時刻は朝方の四時を少し過ぎたところ。
あれからの記憶がないことから、昨夜は泣き疲れて眠ってしまったのだと推測できる。
シャルロットは未だ起きぬ同居人を眺める。
すると、昨夜のことを思い出してしまい、その頬を朱に染める。
『もう、自分を殺さなくてもいいから』
そんなことを言われたのは初めてだった。
母しか理解者の居ない中、シャルロットを理解してくれたのは沙良が初めてだった。
それだけではない。
沙良はシャルロットのしたことを許した。
一夏の否定しない優しさとはまた違う。
全てを受け入れる優しさ。
ただ、受け入れるだけではない。
暗闇に蹲るシャルロットに手を差し伸べてくれた。
罪の意識に潰されないようにと、贖罪の道まで示してくれた。
ただ、似ているという理由だけで。
沙良はそれを自己満足だといった。自分のため、偽善だと。
それは、行なう方が決めることではない。沙良にとっては偽善でも、シャルロットにとっては人生を救ってくれた神のごとき行為なのだから。
立場、しがらみ、血縁。
そんなものに囚われず、シャルロットという一人の人間を受け止めてくれたのは沙良が初めてではないだろうか。
母が病気になってからはずっと居場所などなかった。
血の繋がりだけの父親には氷の壁に閉ざされたような息苦しさしか感じられず、ただただ無為に日々を過ごしていた。
いつしか、自分が必要とされることさえ求めなくなって、温度のない灰色の生活が繰り返されていることにもやがて慣れてしまった。
それが今は違う。
世界は色に満ち溢れている。
顔を上げれば青空が広がる。花が鼻腔をくすぐり、海風が肌を撫で、あらゆる音が耳を楽しませる。
『自分の好きなように世界を知るがいい。世界は常に昼の側と夜の側とを持っているだろう』
そう言葉を残したのはゲーテだっただろうか。
それならば、自分の人生は夜明けを迎えたのだろう。
沈まない太陽はあるが、明けない夜はない。
シャルロットはようやく、暗く重い夜を抜けたのだ。
(沙良はずるいよ)
優しく傍に居てくれていると思うと、その情熱さに胸が熱くなる。
「さすがは情熱の国スペインって言ったところかな」
今もこうして安らかな寝顔を浮かべている少年が、あの熱情を吐き出したとは思えない。
「こうして見てると可愛いのにね」
シャルロットは沙良の顔を見つめる。
一度、その頬を撫でる。
――この温もりを、殺そうとしてたのか。
シャルロットは、安堵している自分に気づく。
この温もりを失わなかったことを有り難く思う。
そして、母親が我が子にするように、額にキスを落とした。
「……沙良も欧州の出だからおかしくないよね?」
火照った体を抱きながら、シャルロットは脱衣所に向かう。
こんな状況で二度寝など、出来るわけがない。
(せっかく早く起きたんだから、お弁当を作ってあげよう)
シャルロットは、服を脱ぎ、シャワー室に入り、その身に暖かいお湯をかける。
(喜んでくれるよね?)
傷口がお湯に悲鳴を上げているが、それは些細なことだと受け流せる余裕ぐらいはある。
シャルロットは今まで感じなかった未来への楽しみを胸に、その火照りを沈めるのだった。
◆ ◇ ◆
シャルロットは早朝の厨房を借り、お弁当を二人分作ると、鼻歌でも歌いたい気持ちで廊下を歩いていた。
沙良に見せるのが楽しみで仕方ない。
早くお昼にならないか。
そんな気持ちがシャルロットの足を急がせる。
「ただいま」
小さな声で帰宅を告げると、ルームメイトは未だ夢の中だった。
今は抱き枕を抱え幸せそうな顔をしている。
時刻は七時を過ぎた頃だ。
そろそろ起こしたほうがいいだろう。
一緒に朝食を食べるにはちょうどいい時間だ。
シャルロットは沙良を起こそうとベッドに近づく。
「沙良、起きて。もう朝だよ?」
シャルロットは沙良の体を軽く揺らす。
すると返ってきた反応は、
「……んぅ……やぁ……もう……ちょっと」
その猫撫で声にシャルロットはつい顔を赤らめる。
(か、可愛い! 何この生き物!)
沙良は見た目はれっきとした男である。
確かにどちらかと言われれば女顔だが、それでも女に間違えることはない。
その可愛さは、顔立ちの幼さゆえだろう。
背も低いため、より、その幼い感じが強調されてしまう。
(こんなことやってる場合じゃない。起こさないと)
シャルルは沙良の肩を揺さぶる。
「さーらー、起きてよー」
すると沙良に一つの反応があった。
それはこちらの手を取ったのだ。
シャルロットはそれが起きる動作だと思いほっと息をつく。
しかしそれは目覚めの行動ではなかった。
「むぅ」
その手は頬に持っていかれた。
「え?」
そう、頬摺りである。
(えええぇぇぇ!?)
咄嗟に叫びを抑えたシャルロットは自分を褒めてあげたい気分になった。
反射でその手を抜こうとすると、沙良はとても悲しそうな顔をし、「ぁ……ゃ」と小さく呟くので、シャルロットはされるがままになっていた。
(ど、どうしたらいいんだろう!?)
シャルロットの中には二人のデフォルメされた天使と悪魔が追いかけっこしていた。
悪魔曰く、『襲っちゃえよ! 自分を解き放つんだ!』
天使曰く、『寝てる今がチャンスだよ! 今なら何してもばれないよ!』
(ダメだぁ!! どっちも敵じゃないかぁ!!)
シャルロットが悶々としていると、沙良の携帯端末が音を立てる。
その着信音は枕元で激しく存在を主張している。
その音に反応し、沙良がその瞳を開ける。
猫のように目をこすると、そのまま大きく伸びをする。
そして、シャルロットの手を離すと、ディスプレイの文字を確認し、端末を耳に当てた。
シャルロットはほっとしたような少し残念なような複雑な表情をしていたことだろう。
「んー何、こんな朝早くから……」
シャルロットは、電話の邪魔にならないように、ベッドから離れる。
寝起きのための沙良のために、飲み物でも用意してあげるのもいいだろう。
「今何時だと思ってるのさ……早朝だよ、早朝。え? そんなこと言ったっけ? あぁ、確かにそんな時間か。流石は秘書課だね。え? ……そんなことないよ。君たちなら余裕でしょ。うんうん、そう。うちの病院に移しておいて。国籍問題? そんぐらいどうにかしなよ。え? パスポート? そんなの偽装で良いでしょ?」
沙良の会話から判断するに、無事に母親は助かったようだ。
シャルロットはその大きな瞳に滲む雫を抑えることは出来なかった。
あんなに耐えてきた日々がようやく終わるのだ。
母親に会える。
それだけでシャルロットは何も考えられなくなる。
「じゃあ、亡命手続きしといて。それで安全は保障されるでしょ? で、治りそうなの? その病気は?」
シャルロットは、ビクッと身構える。
デュノアの手から母親の身柄を救出しようが、その病気が治らなければ目的は達成したとは言えない。
つい息を飲んで見守ってしまう。
「……そう」
その返答では、結果は読み取れない。
「僕が好きでやったことだよ。……分かってる。そこまで甘くないさ」
沙良は通話を切ると、シャルロットに真剣な顔を向ける。
「シャルル」
「覚悟は、出来てるよ」
例え、治らない病気だとしても、ただデュノア社に人質になっているだけの人生よりかはずっとマシだろう。
今までとは違い、会えないこともないのだ。
シャルロットはごくりとつばを飲み込む。
「確かに、シャルルのお母さんは重い病だ。ただ手術するだけで治るようなものではない」
「……うん」
それは、あまり聞きたくなかった答えを連想させる。
「一年。一年治療に専念してもらう」
一年。それは長いのか短いのか病状を知らないシャルロットには判断できない。
「その一年間に掛かる治療費は膨大な額だ。シャルル、君は何で補う? どうしたい?」
「……どうって?」
「払う意志はあるかい?」
「当たり前だよ!」
「じゃあ、どうやって?」
「それは……」
そんな当てがあるわけもない。
傀儡として生きてきたただの小娘に、そんなお金が稼げるわけもない。
――身体を好きにしてといったら、殴られるよね。
沙良がそういうことを嫌うのは分かる。
「君が、その方法を見つけていないならば、僕たちは提案したい」
「……何を?」
どんなことを要求されるのだろう。
シャルロットは、知らずのうちに、拳を握る締める。
「うちにおいで、『シャルロット』。SQ社に。衣食住、最低限の給金は出そう。忠義を誓うのならば、僕たちはそれに応えよう」
その意味を正しく理解したシャルロットは、違う思いで拳を握った。
「…………馬鹿じゃないの」
「何泣いてんのさ」
沙良が、指で涙を拭ってくれる。
「提案って、補うって、僕の居場所を作ろうとしてるだけじゃないか……。ただ僕が優しくしてもらっているだけじゃない」
「何言ってんのさ。優秀な操縦者が永久就職してくれるんだよ? とてもいい条件だと思わない?」
「思わないよ。僕を雇うって、大変なんだよ? 国籍も所属も、全てが邪魔をするんだよ?」
「じゃあ、帰化すればいいじゃん」
「簡単に言ってるけど、デュノアが黙っているわけないよ」
裏の情報を知りすぎているシャルロットを黙って敵国に渡すとは思えない。シャルロットが表に出て一番被害をこうむるのはデュノアなのだから。
「僕たちだって黙ってないよ」
「そんなの、つり合わないよ……。僕がもらってばっかりじゃない」
デュノア社を裏切り、居場所がないシャルロットの後ろ盾になる。これはそういうことだ。世間体的には人の人生を奪うといっておきながら、内実シャルロットの人生を守ろうとしている。
「君の人生を預かるんだ。大きな担保じゃないかな?」
――担保って思ってないくせに。
「……馬鹿。何が『……分かってる。そこまで甘くないさ』だよ。甘甘じゃないか。馬鹿だよ。大馬鹿だ」
「身内には優しいんだよ、僕は」
「こんな僕を身内に入れてくれるの」
「何を今更。既に入ってるんだよ」
「バカ……ばか、ばか」
「馬鹿馬鹿うるさい」
「……沙良」
「もう、何も言わないで頷いてよ」
「絶対後悔するよ?」
「最後まで人のことばっかり気にして」
「ばか」
「馬鹿でいいよ」
「お母さんは……助かる、の?」
知らずに、声が震える。
「助ける」
シャルロットは我慢できず、沙良に抱きついた。
勢いのままベッドに押し倒される形となった沙良は、不満の声を上げようとする。
しかし、声もあげずに泣くシャルロットを見て、そっと、その背中をあやすのであった。
◆ ◇ ◆
「――てことはシャルルはスペインに帰化するのか」
一夏はシャルロットと沙良から話を聞いていた。
流石に本当のことは言えないため、シャルロットは沙良に相談したということにして、一夏に話を通す。
「うん、このままフランスに籍を置いておくのも怖いしね。IS学園とは言えど、やり方によっては介入できるわけだし、代表候補生を下ろされて、専用機を回収されたら、その時に何が起こるかわからないしね」
「そう、なのか? 俺には良く分からないけど、沙良と相談してそう決めたんならそれが正しいんだろうな」
一夏はその言葉をすんなりと信じる。
シャルロットはそれに深い信頼を感じ、それを言葉にする。
「一夏は沙良のことを信頼してるんだね」
その言葉に一夏は「何言ってんだこいつ」みたいな顔を作る。
「俺と沙良は家族だからな。家族が信じなければ誰が信じるって話だろ?」
沙良はその言葉に嬉しそうな表情を作る。
シャルロットはIS学園に潜入する際に詳細なデータを見ているために、その言葉の深さを知っている。
両者共に両親不在。
一夏は両親に捨てられ、沙良にいたっては、目の前で両親を亡くしている。
そんな二人だからこそ、家族の大切さを身に沁みて実感しているのだろう。
(羨ましいなぁ)
シャルロットは目の前の二人の理想的な絆に憧れの視線を送ってしまう。
(僕も、沙良とそういう関係になれたらなぁ)
シャルロットはその妄想を広げていく。
その妄想はだんだんエスカレートしていく。
シャルロットの顔がどんどん赤くなっていくのに、沙良は首を傾げる。
「シャルル? どうしたの?」
「へ? あ、ううん、なんでもないよ!?」
妄想から、現実に戻されたシャルロットは慌てて取り繕う。
しかし、シャルロットの顔の紅潮は収まることを知らない。
沙良はそんなシャルロットを見て、まだ疲れが残っているのかと思い、その額に自らの手を当てた。
それも身を乗り出して。
(――っ!? 近い、近いよ!?)
「熱はないね? 疲れが残ってるのかな? 今日は休みにする? 千冬姉にも一応伝えてはあるから休んでも問題はないと思うよ?」
シャルロットはその羞恥に言葉を発することが出来ず、ただ首を横に振ることで答えとした。
一夏はそのシャルロットのトマトのように赤くなった顔から、納得したように頷いた。
「シャルルは沙良のことが好――」
「うおっしゃあぁぁぁー!!」
シャルロットは女子としては出してはいけない声を上げつつ、一夏の顔面にノートを叩きつけた。
「一夏、余計なことを言うと命が危ないと思ってね」
胸倉を掴み、地を這うような声で一夏に脅しをかけると、一夏はコクコクと頷くのであった。
それにしても、まさかあの一夏に気づかれるとは。
――それなら、みんなの気持ちに気づいてやりなよ。
シャルロットは呆れたとため息を付く。
「諸君、おはよう」
千冬が教室に入ってくると皆が慌てて席に戻る。
「お、おはようございます!」
いつも通り、一瞬で変わる教室の空気に、千冬は満足そうな顔をしている。
「では、山田先生、お願いします」
「はいっ」
千冬からバトンタッチされた真耶は教卓の前に立つと、衝撃の発言をする。
「なんと、今日は転校生を紹介します!」
その言葉に、教室は水を打ったように静かになる。
「え……」
「「「えええええっ!?」」」
シャルロットはその光景にデジャヴを感じてしまう。
「入れ」
千冬の声と同時に、教室のドアが開く。
「…………」
クラスに入ってきた転校生を見て、ざわめきがピタリと止まる。
それはシャルロットの時のような驚きによるものではなかった。
◆ ◇ ◆
それは、力。
軍人をイメージさせるその冷たく鋭い気配は見るものに威圧感を与える。
その瞳の温度の低さに、誰しもその視線を合わせることをしなかった。
「………………」
転校生は未だに口を開かず、腕組みした状態で教室の女子たちを下らなそうに見ている。
しかし、それもわずかなことで、今はその視線は千冬に向けられていた。
「……挨拶をしろ、ラウラ」
「はい、教官」
いきなり佇まいを直し、素直に返事をする転校生にクラス一同がぽかんとする。
敬礼を向けられている千冬は面倒くさそうな顔を見せていた。
「ここではそう呼ぶな。私はもう教官ではないし、ここではお前も一般生徒だ。私のことは織斑先生と呼べ」
「了解しました」
転校生は手を真横につけ、足を踵で合わせ背筋を伸ばしている。
その佇まいは軍の関係者を思わせる。
「ラウラ・ボーデヴィッヒだ」
「………………」
クラスメイトたちは続く言葉を待つが、いつまでたってもその口が開かれることはなかった。
「あ、あの、以上……ですか?」
「以上だ」
空気に耐えられなくなった真耶が声をかけるが、帰ってきたのは無慈悲ともいえる即答だけだった。
そして、ラウラは教室を一回見渡すと、一人の生徒でその視線を止めた。
「っ! 貴様が――」
ラウラはその生徒、一夏につかつかと歩み寄る。
そしてその腕が振り上げられ――
「たいしたご挨拶だな」
振り下ろされることはなかった。
一夏はその振り下ろされる途中の腕をしっかりと掴んでいた。
それをラウラは忌々しく睨み付ける。
「認めない、私は貴様があの人達の家族であるなど、決して認めるものか!」
その言葉はクラス中の注目を集める。
箒でさえもぽかんと口を開けてしまっている。
そんななか、動じずに行動に移す者がいた。
「ラウラ」
沙良は一言、その名前を呼ぶ。
それだけで、ラウラはその怒気を収め、沙良に一礼し一夏の前から立ち去ってしまう。
そして空いている席に座ると腕を組んで目を閉じ、微動だにしなくなる。
一夏はそのやり取りを見て、怒りの矛先を向けられている理由に気づく。
一夏は何か納得したように頷き、そして複雑な表情をするのであった。