「う…………?」
全身の痛みに呼び起こされ、沙良はまだぼやける意識を覚醒させる。
「……知ってる天井だ」
なんだか状況がわからず周囲を見回すと、どうやら保健室で寝かされていたらしい。
「……気がついた?」
「……簪?」
近くに設置された椅子に座るのは四組の更識簪だった。
「あれからどうなったの?」
「試合は中止。対抗戦も一年は中止。来月末の学年別個人トーナメントの成績で代用するんだって」
「そっかぁ。せっかく頑張って間に合わせたのにね。打鉄弐式。まぁ完成には程遠いんだけど」
「……気にするのは、そこ?」
「今回はデータ取りとしても重要だったんだから大切なことだよ?」
「……ISバカ」
「褒め言葉として受け取るよ」
簪は、一瞬だけ笑顔を見せるが、すぐに隠してしまう。
「じゃあ、対抗戦、終わっちゃったけど、まだ手伝ってくれる?」
「もちろん。中途半端じゃ終われないからね」
簪は、その表情を明るくすると、椅子から立ち上がり、閉められていたカーテンを引く。
「織斑先生を呼んでくる」
それから程なくして、千冬がソフィアを伴って保健室に入ってくる。
簪はもう戻ったのだろう。おそらくは休ませて上げたいとの配慮か。
「気がついたようだな。気分はどうだ?」
「ええ、特に悪くは」
「そうか、お前の体だが、一番ダメージが高いところが鎖骨のひび。安静三日全治一週間。次が、肋骨のひび。同じく安静三日全治一週間。そして、内臓へのダメージが大きい。全身にも打撲が見られる。いまは薬が効いているためマシだが、三日は地獄を見るだろう。我慢しろ」
沙良は自分の体が動かせない理由がわかった。
麻酔が残っているのだろう。
「医療が進歩してて助かったよ」
そうでなければ完治に一ヶ月以上かかっていたかもしれない。
ISが発表されてから、世界の医療は格段に進歩していた。
場を和ませようと沙良は笑顔を見せる。
「まぁ、何にせよ無事でよかった。家族に死なれては流石の私も耐え切れん」
千冬の表情は普段より、柔らかなものだった。
「千冬姉」
「なんだ?」
「心配かけて、ごめんね?」
「そう思うなら、無茶な真似は止してくれ。心臓がいくつあっても足りない」
千冬は真剣な瞳で、沙良を見つめる。
「では、私は後片付けがあるので仕事に戻る。お前も、しっかりと休んでおけ」
それだけ言い残すと、千冬姉はすたすたと保健室を出て行ってしまう。
途中、ソフィアに「ほどほどにな」との声をかけて。
それを切っ掛けにソフィアが行動を起こす。
「本当、無茶は止めてって言ってたよね?」
その声色は感情が押し殺されている。
今まで、黙って話を聞いていたソフィアが、沙良の横に立つ。
その噛んだ唇を見て、沙良は、ソフィアが本気で怒っていることを悟る。
ソフィアはゆっくりと腕を持ち上げる。
「――っ」
沙良の体を考慮してか、威力を抑えた張り手は体に響かない。
頬は痛まない。
それでも沙良の心には大きな波紋を与える。
ソフィアは泣いていた。
「約束したよね? 無茶しないって。今回のセラの戦い方は最悪よ。頭に血が上った? なんで自分たちだけで解決しようとするの。それこそ、私たちに命令すれば良かったじゃない。助けてって。あの二人を助けてって。そしたら私たちは躊躇いも無く助けに行ったわ。それとも、私たちがそんなに信用できない?」
「……ううん」
「それに、オルカは危険って分かってたでしょ?
「……El que quiera pescado que se moje el culo.(魚を得たい者は尻をぬらさなければならない)」
「……危険を避けていては成功できない。そうね、それはそのとおりよ。でも、そのリスクをきちんと管理して、最低限の安全を確保することが前提。貴方みたいに危険に身を晒す事を躊躇せず、ましてや、それを良しとするような人間には当てはまらない」
言い返す言葉も無い。
完璧に自分が悪いと自覚している。
「あの状況では仕方ない。そう言われたら私たちは何も言えないわ。命が掛かっていたのだから。でも、分かってる? 『オルカは危険性のない場面でしか使ってはならない』。この意味がわかってるの? 貴方には沢山の想いが乗せられているの。守るため、大いに結構よ。私だってセラを守るためなら同じことをやったわ。でも私は、全ての可能性を充分に吟味する。私は絶対に怪我をしない。それで助けられた側が傷つくのを知っているから」
わかってる。
沙良は、力があるというだけで、すぐにそれを選んでしまった。他にも選択肢があったかもしれないのに。それで、自分が傷つくことになった。
頬に、ソフィアの冷たい手が添えられる。
「貴方が傷ついて、それで私たちが何とも思わないとでも思ったの?」
ソフィアの零れ続ける涙に、沙良は身が裂かれるような思いを感じる。
「……ごめんなさい」
沙良の沈みきった顔をこれ以上見てられないのか、ソフィアは沙良に背を向ける。
「このことはしっかりと報告させて貰うわ」
ソフィアはその怒りを隠すことなく、出て行ってしまう。
沙良は、ソフィアの姿が見えなくなると、扉越しに様子を伺っていた二人に声をかける。
「リナ、フィーナ。入っておいで」
二人は気まずそうに顔を見合わせながら入ってくる。
「セラ……」
「いいんだ。今回のことは僕が悪い」
「でも、沙良さんはイチカさんを守ろうとして――」
「それでも、だよ」
「――そう、ですか」
「ソフィが本気で心配してくれてたのは分かってるから。だからあの怒りは大人しく受け止めるよ」
「沙良さん」
「Al mal tiempo, buena cara. (悪い天気の時は、明るい顔で)」
「辛い時こそ笑顔で、セラは……強いね」
「弱いよ。だから笑ってないと潰れちゃいそうなんだ」
そうして沙良は瞳を閉じる。
すると、空気を読んでくれたのか。二人は音を立てずに席を外してくれる。
沙良はゆっくりと眠りに落ちていった。
◆ ◇ ◆
ふと眠りから覚めた沙良は、カーテンが全て開けられていることに気づいた。
(誰か来ているのかな?)
重たい体を動かし、横を向いてみると、鈴音が一夏に顔を近づけていた。
「何してんの、鈴?」
「さっ、沙良!? 起きてたの!?」
「いや、今起きたの」
「べ、別にさっきのはそういうんじゃ無くて……」
段々声量が小さくなる鈴音に沙良は首を傾げる。
「そんなに大きな声を出すから、一夏起きちゃったよ?」
その言葉に、未だ一夏に顔を近づけた状態で固まっていた鈴音は慌てて、一夏から離れる。
「……何してんの、お前」
「おっ、おっ、おっ、起きてたの!?」
鈴音は沙良の時以上に驚きの声を上げる。
「お前の声で起きたんだよ。で、どうした? 何をそんなに焦っているんだ?」
「あ、焦ってなんかないわよ! 勝手なこと言わないでよ、馬鹿!」
しかし、その姿はどう見ても焦っている。
「んーよく寝た」
「おはよう」
「お、沙良。起きてたのか」
「さっきね」
「そういえば、勝負の決着ってどうしようか。再試合も決まってないんだよな?」
「そのことなら、別にもういいわよ」
「え? なんで?」
「い、いいからいいのよ!」
一夏は納得はしていないようだ。
それゆえに、黙って頭を下げる。
「い、一夏?」
「その、なんだ……。悪かったよ。色々と。すまん」
「一夏……」
「俺、あの時からずっと考えてたんだ。なんで鈴があんなに怒ってたのか」
そう切り出す一夏に鈴は面食らったような顔をする。
「でもさ、俺って馬鹿だから、全然わからなくて。意味が違うのかと思ったけど、あまり思い浮かばなくて。でも、俺、鈴と仲直りしたいんだ」
それは一夏が鈴音に真正面から向かい合って出した答え。
「これからもこんなことで怒らせてしまうかもしれない。でも鈴とは仲良くしていたいんだ。許してくれないか?」
鈴音は真剣な一夏を直視できないのか、赤い顔を一夏に見られないように俯きながら答える。
「ま、まあ、あたしもムキになってたし……。いいわよ、もう」
「で、一夏は他にどんな意味を思い浮かべたの? あまりってことは何個かは考えたんでしょ?」
一件落着した所に、沙良が爆弾を放り込む。
「ちょっ、ちょっと沙良!?」
鈴音が慌てるが、一夏は迷いも無く答える。
「もしかしたら『毎日味噌汁を~』とかの話かとも思ったけど、それは流石に深読みしすぎたかな」
「――――っ!?」
鈴音が、ピキッと動きを止める。
沙良もまさか一夏がそこまで考えていたなんて思っていなかったため、驚いてしまう。
(あの、一夏が!? あの何を言っても曲解して捉える一夏が!?)
本人が聞いたら怒るであろうが事実である。
「鈴?」
一夏は少し挙動がおかしい沙良よりも、完全に停止している鈴音に声をかける。
「へぇっ!? そ、そうね! 深読みしすぎじゃない!? あは、あははははは!」
急に笑い出した鈴音に、不思議そうな表情を向ける一夏。
これで気づかないなんて相当鈍い。
「そっか、それならいいんだ」
「……」
自分で否定しておきながら、悲しそうな顔を見せる鈴音。
『馬鹿、チャンスだったのに』
沙良は
『だ、だって……』
『鈴のそういうところも一夏の鈍さに拍車をかけてるんだよ?』
『うぅ……』
「沙良、鈴、俺はもう動いても大丈夫らしいから、部屋に戻るな。沙良はしっかり休んでおけよ」
「うん、ありがとう」
沙良は一夏に手を振れないため、にっこり笑うことで返答とする。
一夏は、沙良に笑い返すと、そのまま、保健室を出て行ってしまう。
残された鈴音は沙良の視線が自分に向いているのに気づいた。
「な、何よ?」
「勿体無い」
「も、もう少し、慰めてくれたっていいじゃない」
「……」
「何よ?」
「鈴の意気地なし」
「う、うわぁぁぁ!!」
鈴音は走り去って行くのだった。
◆ ◇ ◆
学園の地下五十メートル。そこにはレベル四権限を持つ関係者しか入れない、隠された空間だった。
機能停止したISはすぐさまそこへと運び込まれ、解析が開始された。
そこで、千冬は繰り返しアリーナでの戦闘映像を見ている。
「…………」
室内の薄暗さは、千冬の冷たさをより一層引き立てた。
「織斑先生」
ディスプレイに割り込みで開かれたウィンドウには、ブック型端末を持った真耶が映っていた。
「どうぞ」
許可により自動で開かれるドアをくぐり、真耶は普段の姿からは想像も出来ないほどの堂々とした動作で入室した。
「あのISの解析結果が出ました」
「ああ、どうだった?」
「はい、あれは――無人機です」
世界では、未だに完成されていないと
「どのような方法で動いていたかは不明です。最後の自爆により機能中枢が焼き切られていました。修復も、おそらく無理かと」
「コアはどうだった?」
「……それが、登録されていないコアでした」
「そうか」
どこか確信のある表情をする千冬に、真耶は怪訝そうな顔を見せる。
「何か心当たりでもあるんですか」
「いや、ない。今はまだ……な」
そう言う千冬の瞳には怒りが燈っていた。
登録されていないコア。
それは束しか作ることの出来ないもの。
しかし、一番の被害を受けたのが、沙良である時点で、束と言う線はほぼ消えた。
喧嘩などで怪我を負う事はある。
そういうことではなく、束は沙良に対しては絶対に敵意を向けたりしない。
そして、沙良の管制室で見せた態度。
あれは束が、その研究が馬鹿にされたときに良く見せていた物と似ている。
(落とし前を付ける、か)
おそらく、沙良はあれが何か知っていたのだろう。
「ゴーレム」
それは、沙良の呟いた言葉。
そのことから、作ったのは束だろうと千冬は確信していた。
しかし、その権限は束の手から離れていた。
沙良の態度から見て盗まれた可能性が強いだろう。
千冬はISを盗むなんて馬鹿なことをする組織を二つ知っている。
それは、あの事件にも関わっていた連中。
千冬は拳を強く握る。
「次、私の家族を傷付けてみろ。その時は――」
そう言って千冬はまたディスプレイの映像に視線を戻す。それは教師の顔ではなく、戦士の顔に近かった。
かつて世界最高位の座にあった、伝説の操縦者。その現役時代に、勝るとも劣らない鋭い瞳は、ただただ映像を見つめ続けた。
◆ ◇ ◆
敵機襲撃事件から一週間が経った。
生徒会室には水色の髪色をした女生徒が、暢気に鼻歌を歌う。
「~~~~♪」
彼女は浮かれていた。
なんせ、今まで距離を置かれていた妹に、昼食を誘われたのだから。
話すことはあまり無かったが、その一歩近づいたということが彼女にとっては大きなことだったのだ。
今も机に詰まれた書類に目を通し、署名を書きながら、横で仕事をする幼馴染に自慢話をしている。
その幼馴染の妹は、クラスの子に用事があるといって遅れている。
(ああ、楽しかったな。簪ちゃんとのご飯)
今の彼女は、生徒会長として見せてはいけない類の顔をしているのだろう。
横に座る幼馴染が、怪訝な顔をしている。
しかし、そんなことお構いなしに、彼女は鼻歌を歌い続ける。
そんな時、彼女たちのいる生徒会室がノックされた。
「はい、どうぞ」
彼女は、先ほどまでのだらけ切った表情をしまい、生徒会長らしい毅然とした態度をとる。
「失礼しまーす」
入ってきたのは、生徒会役員の布仏本音。
そして、
「失礼します」
監視対象であった、深水沙良だった。
――これはっ……!?
先ほどまでの浮かれ気分と違い、彼女は焦る。
最近まで自ら監視をしていた人物が訪れてきたのだ。何か感じるものがあってもおかしくない。
それに、つい最近まで彼は怪我で休養を取っていた筈だ。
それがいきなり生徒会室に足を運ぶだなんて、何も無いと言う方が信じがたい。
「あら、怪我は大丈夫かしら。有名人の深水沙良君?」
彼女は、ここ最近、彼を監視していた。それは更識家直々の命令。
スペインの英雄。
凄腕の研究者。
それは、有名すぎて隠し切ることが出来ない。
だが、他に有名な事柄がある。
篠ノ之束の唯一の理解者。
それが、世の沙良への評価だ。
更識家は沙良を通じて篠ノ之束の足取りを追うことができないかと考えていたのだ。
しかし、楯無はそれを快くは思っていない。
全く知らない人間というわけではなく、何回か表の場で挨拶を交わしている。
それに、彼は、楯無がこの世で一番大事にしている妹と仲良くしている。
最初は、彼が妹に近づいているのを見たとき、これ以上ないほどに警戒したが、それは杞憂に過ぎなかった。
妹は彼のおかげで明るくなった。
そんな彼を利用するのは彼女には少し気が重かった。
彼は、親しくさえなってしまえば、ただのお人よしだ。
もちろん、敵対してしまえば容赦は無いが。
そんな彼と今、相対しているのだ。
冷や汗が流れる。
更識が日本の暗部として力を持っているように、SQ社はスペインの要として力を持っている。
そのSQ社の開発を一手に引き受ける彼には、国をも簡単に動かす影響力がある。
つまり、彼は彼女に敵対できるだけの力を持っているのだ。
「ええ、少しばかり生徒会の活動に興味があり、少し会長にお話を伺えたらと」
白々しい。
彼女はそう感じた。
彼はこう言っているのだ二人で話せる場所を作れと。
「ええ、いいわ。部屋を移るのも手間になるでしょう。虚ちゃん、本音ちゃん。その資料を職員室まで運んでくれるかしら」
彼女は幼馴染たちに指示を出すと、彼に腰掛けるように、手で示す。
彼は、虚と本音が出て行くのを確認してから、腰を下ろす。
「流石の手際ですね」
「あら、何のことかしら」
実際、彼女はそれが何のことを示しているか絞り込めていなかった。
「接近した敵ISの第二波を、学園に近づかせること無く始末するなんて流石は生徒会長ですね。助かりましたよ」
「――――っ!?」
「なに驚いているんですか?」
「どうして、それをあなたが?」
「どうしてって、僕は当事者ですよ? 織斑先生から聞いただけですよ」
「そ、そう」
確かに可笑しい事ではない。
しかし、態々あの織斑教諭がそれを生徒に伝えるとも思えない。
どっちだ。ブラフか、事実か。
「流石は十七代目。その年で楯無の名を持つだけはありますね」
「――――っ!?」
拙い、拙い、これは拙い。
相手は調べてきている。
それに対して、受身になったこっちは切れるカードが少ない。
その上で、こちらのカードである敵ISの増援殲滅が封じ込まれてしまう。
彼女は更に冷や汗が流れるのを感じた。
「さて、交渉を始めましょうか。大丈夫です。僕にも、貴女にも、双方に損の無い話だと自負していますから」
彼は指で何かを弾くような動作を取る。
不思議に思ったが、その答えは自らの携帯端末が答えてくれる。
机の上に出しておいた端末が勝手に動き、どこからかデータを引っ張り出してくる。
更識家秘蔵の機密データ。
それは携帯端末に保存するような代物ではない。
それは、目の前の人間にハッキングされたことを意味する。
それも遠隔で、楯無の端末を利用して。
「おっと、予想以上に呆気ないもので。人員の入れ替えを打診しては?」
「……流石は、最高峰のハッカー。いい性格してるわね」
「お褒めのお言葉光栄です」
これは暗に断ればどうなるかを示しているのだろう。
世界は武力では動かない。常に情報をもってして動いているのだ。
バイブレーションが鳴り、彼の端末と思われるアドレスからメールが飛んでくる。それを見て、楯無は目を丸くする。
「これは……?」
「どうです? お互いに利益のある話だと思いません?」
今回の交渉に当たっての提案文。
確かに、悪くない。
向こうが要求している物も、楯無ならば容易に準備できる。
この条件を飲めば、楯無は、更識家の中で利権を握ることが出来る。
現在の『名前だけの当主』という立ち位置から、名実共に『当主』となれる。
それに、大切な妹のためにもなる。
「ここまでこちらに譲歩されると、裏があるようで頷きにくいわね」
楯無は内心はどう思っていても、簡単に頷くようなことはしない。
相手の思考を読まないと、飲み込まれる。
「裏なんてありませんよ。僕はただ自分と身内の自由と安全。それと友達の夢を叶えてあげたいだけですから。十七代目は、妹さんの夢を叶えてあげたくないのですか?」
「あら、十七代目じゃなくて、たっちゃんと呼んでもいいのよ?」
「そうですね、十七代目としては呑み難いですか? 個人としてのメリットは大きですけど、当主としてのデメリットを考えるとってことですか? ちっちゃい人間だ。上に立つ器ではありませんね。だから、名目だけの当主なんですよ」
あからさまな挑発に、楯無は感情を出さない。
この交渉は最初から交渉の形を成してはいない。
断るという選択肢が無い交渉など、何が交渉だ。
出来ることは向こうの譲歩を引き出すこと。
しかし、最初から譲歩されている提案を受けて、これ以上何をすれば良いというのだ。
「最初から選択肢を与えないくせに良く言うわね」
断れば、それで彼の思うように動くことになる。
「それでは?」
「ええ、呑むわ。その提案を」
「そうですか、それは良かった」
彼は、言質を取ると、へにゃとソファーに深く沈んでいく。
「ちょっと?」
「緊張したぁ。交渉なんて慣れない事するもんじゃないね」
テーブルにインカムを投げると、手足を伸ばした。
「…………」
「あ、もちろん今の流れも録音してあるからね」
「交渉を考えたのは……?」
「そりゃあ会社の人間だよ。どうしても頷かせてって言ったらこんな提案文に」
「…………」
先ほどの迫力はどこに行ったのだろうか。
目の前にいる彼は、普通の少年に戻っていた。
「ていうか会長、名ばかりの当主なんですか?」
先ほどの交渉時に始めて知ったのだろうか。その言葉は裏があるとは思えない。
「それを、貴方がどうにかしてくれるのでしょう?」
「貴女が味方につけばの話ですけどねー」
「味方でいる時だけは、協力してやる。なんて上から目線かしら」
「当たり前じゃないですか。僕のほうが圧倒的上ですよ?」
さも当然のようにいう少年。今は交渉人の指示を受けていないため、彼自身の言葉だ。
「そうね、ロシアと日本は、私がなんとかするわ。だから」
「ええ、僕は貴女の力になりましょう」
「あら、スペインは動かしてくれないの?」
「何を、僕自身がスペインのような物ですよ」
その彼の目は冗談ではなく、ただ事実としてそう捉えていた。
「じゃあ、よろしくね。たっちゃん」
伸ばされる腕。
食えない男だ。そう思い、楯無は握手に応じるのであった。