風の聖痕 新たなる人生   作:ネコ

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第8話

 周囲は春と言うこともあり、桜が咲き乱れ、鶯が鳴いている。空は昨日に引き続き晴天に恵まれ、雲ひとつ漂っていない。そのような陽気な中を、内心不機嫌な状態で和麻は歩いていた。

 宗主からの呼び出しは、厳馬から期限を言い渡された翌日───昼までだった授業が終わり、帰宅してすぐにあった。昨日の今日で何の用かと、和麻は宗主の元へ向かう。

「呼び出しに応じて参りました。

 和麻です」

「入るといい」

「失礼します」

 和麻の畏まった言い方に、重悟は気軽な声で返す。それでも、和麻の対応が変わることはなく、他人行儀な作法で部屋へと入ってくる。

 その様子に、重悟は寂しそうな表情をするが、それも一瞬の事。和麻に座るよう促し、座ったことを確認してから話しを始めた。

「昨日はすまなかった。ああすることしかできなかったのだ。

 それでも、分家の者は納得しまいが……。

 事前に説明できなかったこと……すまなく思う」

 昨日に引き続き、再び謝罪の言葉を口に出して、深々と頭を下げた。そこからは、心底後悔しているのが伝わってくる。

 宗主として、他の者が見たならば恐れ多いと、本来であれば、恐縮してしまうような行動を平然ととったことで、重悟の誠意は十分に伝わる。しかし、和麻の言い方が変わることはなかった。

「終わったことですので、気にしておりません」

「そうか……」

 全く気にしてない旨を告げられ、重悟は下げていた頭を上げる。この話題をこれ以上話すことはないと、続けて言おうとしていた言葉を飲み込み、和麻の言葉に相槌を打つと、少しずつ話題を変えていった。

「あの後、厳馬に何か言われたか?」

「はい。今後のことについて少々」

「…………」

 言われた内容をぼかした上で、平然と応答する和麻に、重悟は唖然としてしまう。和麻が言われた内容について、重悟はある程度予想がついていた。石頭の頑固者。厳馬であれば、あの集会の場で交わされた内容を、実行に移したのだろう。

 和麻のこれからのことを考えて、重悟はある提案を和麻へ行う。それは、分家はともかく、厳馬が聞けば、絶対に反対するようなことだった。

「今後の事なのだが───

 その前に……神凪に風牙衆というのがあるのを知っておるか?」

「───ある? 外の組織ではなく? あの者たちは神凪の一部だったのですか?」

 重悟の言葉に、和麻は軽く驚く。綾乃との対戦のため、綾乃と関係ない情報は省いてきた。今では、綾乃が次にどういった行動をとるかなどの、思考すら読めるようになってきている。しかし、その分、他のことに関しての知識は少なかった。

「……そうだ。まずは、風牙衆のことについて説明しておこうか……」

 そこからしばらく、重悟は風牙衆の成り立ちから話始める。

「神凪と風牙。炎術師と風術師。遥か昔のことだが、このふたつは長い間争っていたそうだ。

 勝ったのは言うまでもなく神凪。そして神凪は、争った結果ボロボロになり、力のなくなった風牙を哀れに思い、神凪の傘下として組み込んだ」

 重悟は一旦言葉を区切り、和麻を見る。和麻の表情には、先ほどのような変化はない。

「そうして、出来たのが風牙衆だ。

 ……そこから風牙衆には、神凪の仕事の事前調査など、風術を使ったことを主にやってもらっている」

 少し言いにくそうに重悟は語る。苦虫を噛み潰したような言い方に、和麻は眉を潜めるが、それもほんの一瞬の事だった。すぐさま表情を元に戻す。

「……これが、今に繋がっているわけだ。そして、ここからが本題になる。

 ……今後のことだが、お主も風術師であれば、風牙衆に入ってみぬか? 無理強いはせぬし、試しに入ってみるのもよい」

「……それについてはお断りします」

「そうか……」

 断られたことに、重悟はガックリと肩を落とした。

 

 神凪と風牙衆の関係は、悪い方へと向かっていた。最初の方こそ、ただ、本当に滅びそうになっていた相手の手をとっただけ、だったのだ。しかし、その考えは時間と共に、次第に薄れていった。

 そして、考えが薄れていくだけならばよかったが、時代が変われば人も変わる。

 昔は、強くなければ生き残ることさえ難しかった。それほどの戦いをしてきた。己を磨き、破邪の力を持って妖魔を討ち滅ぼしていった。

 しかし、それがいつまでも続くはずもなく、周囲の妖魔たちは、滅ぼされるか、封印されるかしていき、ほとんどいなくなってしまったのだ。

 残されたのは、炎術師としての絶大な力。その力は、それまで妖魔たちに向けられていたからこそ、問題視されなかったが、向ける相手がいなければどうか……。いつ自分に向けられるのかと、周りが勝手に思い込み、神凪へと揉み手を擦って近付いていく。そうして段々と、持ち上げられることが当然だという、傲慢な考え方へと神凪の者たちは勘違いし変わっていった。

 中にはそうでない者もいたが、そういった者たちはこぞって、自らの力を高めることしか頭になかった。

 神凪の考え方を諌められるものなどいない。長い歴史の中で、神凪全体の意識は歪められ、それは風牙衆へも波及していく。

 力こそが正義なのだと思うようになった神凪は、炎術よりも弱い風術を馬鹿にし始めたのだ。

 最初は些細なことだった。何時もと同じように、依頼のあった妖魔を退治する際に、風牙の者がひとり失敗し、窮地に追い込まれたのだ。その風牙の者だけでは、相手を倒すことは叶わない。殺られそうな場面へと、颯爽と駆けつけた神凪の者が、妖魔を瞬きの合間に倒してしまった。

 そして、それを酒の肴として、宴会の席で話題に出した。出した話題は徐々に膨らんでいき───風牙衆の者が失敗した───風牙衆の者だけでは敵を倒せない───風牙衆は弱い───風術は弱い……と、認識がズレていく。

 弱いから庇護しているのだ。庇護されているのだから、なにをされても文句は言えまいと、思考はエスカレートしていき、今では奴隷の如く思っている者までいる。

 そのような考えを宗主となった重悟は嘆き、変えたいと思った。しかし、長い間蓄積されてきた考え方や意識は、そう簡単に変わるものではない。

 だからこそ、神凪である和麻が、風牙衆に入ることで、意識の改革をしようと思ったのだ。

 その願いは和麻へと届かなかったが……。

 

 和麻には、風牙衆に入らなければならない理由は特になかった。逆に、入ったことで何かあるのでは?───と、重悟を疑い始める。

「では、個人的に仕事の依頼などをしても構わぬか?」

 こちらならばどうかと、重悟は和麻を窺う。

「……内容によります」

 言い渡された期限までに、お金を稼ごうと考えていた和麻にとって、重悟の言葉は渡りに綱だったが、内容を聞かないうちから、判断をすることはできなかった。

「綾乃と共に妖魔を祓う仕事だ。

 基本的にお主が戦うことはない……戦うのは綾乃のみ。お主にはサポートを任せたい」

「サポートと言っても色々とあります。具体的にどのようなことでしょう?」

「綾乃が動きやすいように、場を形成することだ。

 ……まだあれは幼いからな」

「…………」

 重悟の答えに、和麻は目を閉じて考え始めた。重悟の答えは曖昧なものだ。しかし、言いたいことは伝わってくる。

 妖魔を祓うことに関して、先程の話から、調査や探査は風牙衆がやってきたことが分かる。それを和麻に割り振ろうという内容だ。

「……相手と報酬次第で考えます」

「そうか!」

 和麻の熟考して出した答えに、重悟は嬉しそうな表情を見せる。

「では……周防!」

 重悟の呼び声に、突如としてスーツ姿の男が現れた。その現れ方に、和麻は目を見開き驚く。風術師として、周囲の警戒は常にしてきた。そして、探知には自信を持っていた。それにも関わらず、感知できなかったのだ。驚愕しない方がおかしいだろう。

「段取りをつけてくれ」

「分かりました」

 周防は、現れた時と同じように消えていく。それを和麻は警戒して見ていたが、どうやって消えたのか、知ることはできなかった。

 

 

 

 数日後に連絡手段として、携帯電話を渡された和麻は、その週の土曜日の夜間───綾乃と共に仕事の場に向かっていた。その運転手には周防が、初仕事ということもあり、保険として大神雅人も一緒についていく。

「眠い」

「我慢しろ」

 綾乃の呟きに、和麻は即答する。その和麻の言葉で、車の中だというのに、精霊たちがざわめき始める。

 原因は綾乃だった。不機嫌そうな表情を隠そうともせずに愚痴を漏らし続ける。

「眠たいものは眠たいの!

 大人には分からないかもしれないけどー。

 それに明日のこともあるから早く帰りたい……」

 言った傍から、欠伸をし、頭を前後左右にふらふらと不規則に振り始める。それを呆れたように見ながら、窓を少し開けて風を入れ換える。

 まだ、春に入ったばかりな上に、深夜と言うこともあって、風は冷たい。その風に当てられて、綾乃は強制的に目覚めさせられる。

「寒いっ!! 閉めてよ!」

「着くまで頭を冷やしていろ」

 綾乃の言葉を無視して、和麻はこの先にいる敵について、目を閉じて意識を集中していく。

 冷たい反応しか返さない和麻を睨み付けて、綾乃は和麻が開けた窓を閉めようと手を伸ばす。しかし、尽く和麻の無意識の対応によって、その手は打ち落とされていった。

 その後も攻防は少し続いたが、綾乃が腰を浮かしていたことと、道の舗装がなくなった箇所に車が入ったことが重なり、綾乃は和麻の膝の上に身体を預ける形になる。

 初等部とはいえ女の子である。少し年上の異性───しかも膝の上に乗ったとあらば、恥ずかしいという思いを抱くには十分だった。乗ってしまった直後は、思考が混乱して身体は固まっていたが、意識を取り戻してからは、急いでその状態から逃れようと暴れだす。

 その暴れるという行為に和麻の無意識は反応し、暴れる綾乃の首筋へと手刀を叩き込んだ。それにより、綾乃は完全に意識を失い、そのまま和麻の膝の上で倒れこむ。

 それを前の座席に座って、黙ってルームミラーで見ていた雅人は、綾乃の我が儘を簡単にあしらってしまう和麻に感心していた。

 

 現地の状況を把握して戻ってきたところで、和麻は膝の上に乗る違和感に気付く。車内は薄暗く見通しは悪いが、和麻には関係なかった。車内の空間を把握し、それを頭の中に、映像として映し出す。

 そして、その違和感の正体を突き止めたところで、深く溜め息を漏らした。

「あと一キロほど進んだところで停まってください。そこからは車では行けないので歩きになります」

「分かりました」

 周防の返事に頷いて、和麻は綾乃をそのままに、先の事について話を進めていく。

「時間としては───

 往復を考えて三十分ほどで戻ります」

「三十分とは……難しくはないか?

 弱いとは言え、今回は範囲が広いのだぞ?」

「問題ありません。敵は既に捕捉してあります」

 雅人の心配そうな言葉に対して、簡潔に答えを返す。必要以上に口を出すなと言わんばかりだ。

 実際、和麻は綾乃の意見に賛成だった。主に早く帰るという点はだが……。

 

 前金として数万円を既に和麻は貰っている。失敗した場合は、後金無し。通常の術者に頼むよりも遥かに安いが、初めての依頼であり、和麻としても文句はなかった。むしろ、移動手段についても、用意がされていることに驚いたほどだ。

 ここに来るまでの過程で、和麻がしたことなど、ないに等しい。和麻は綾乃と一緒に行くだけが依頼内容のようなものだった。

 そのような内容の依頼に、文句などでるはずもない。

 綾乃のサポートとして、もうすぐ到着することもあり、敵の前で眠気などにより、余計な苦戦をされては困ると、目を覚まさせるつもりで和麻は窓を開けたのだが、敵情視察から意識を戻してみれば、綾乃は膝の上で寝ている始末。それほど眠かったのかと、和麻は意識を切り替えて、綾乃を寝かせることにしたのだった。

 途中から舗装の途切れた山道を進んでいく。辺りに街灯などの灯りはもちろんない。

「ここで停まってください。

 ……おい、ついたぞ」

 車は停まり、それに伴ってエンジンも停止される。車から出ていた音が消えたことで、和麻たちの近辺は静寂に包まれていった。

 到着したことで、スースーと、静かな寝息を立てている綾乃を、多少乱暴に揺すり起こそうとするが、綾乃はなかなか起きない。起きる気配がない。

「行ってきます」

 再び溜め息を漏らし、和麻は車のドアを開けると、綾乃を風で包み、小脇に抱えるようにして走り出した。

「待て!」

 雅人の必死な制止の言葉を振りきって、和麻は山の中へと綾乃と共に消えていく。

 雅人は焦って後を追うが、炎による視界は、木々に阻まれて奥まで見えない。それに加えて、和麻の身体能力は既に雅人を越えていたのだ。そこに風術が合わされば、追い付けるはずもなかった。それでも、責任感から雅人は、和麻たちの後を追い続ける。

 車には周防がひとり待つことになった。

 

 和麻は一直線に、今日の相手に向かって走っていく。今日の相手は熊だった。熊に悪霊が取り憑き、山に入った者を襲っているのだ。今回はその除霊になる。

 元が熊だけあって、縄張りが山みっつほどあるらしく、そのせいで、対象の活動範囲が広範囲になっていた。

 

 最初は何も知らずに、地元の猟友会に頼んでみたが、銃に怯えるどころか、逆に襲ってきた。そして、極めつけは、銃で撃たれたにも関わらず、死ぬことがない───と言うことだった。

 ここまでくれば、異常だと言うことが誰でも分かる。それが、回り回って神凪へと、依頼として入ってきていた。

 本当であれば、神凪を雇うのには、高額な金額がかかるし、その辺の雑霊などは相手にしない。しかし、この半年ほど前からは、綾乃の実践経験を積ませることを目的に、雑霊であろうとも、普通に比べれば、かなり安い金額で仕事を引き受けていた。かなり安いと言っても、数十万はするのだが……。

 

 熊の全長は、三メートルに達しているかのように見受けられた。それほどまでに、熊と相対した時、和麻には感じられた。

 熊が、和麻たちに気付き、唸り声を上げ始める。それと同時に綾乃も目を覚ました。

「うーん……。なーに?」

「さっさと起きろ。仕事の時間だ」

 熊の殺気で、寝惚けながらも目覚めた綾乃を手離す。それまで、風の力で浮かんでいた綾乃は、浮力が消えたことで、四つ這いに近い形で地面へと落とされた。

 寝惚けていた綾乃は、それで少しは目が覚めたのか、自分の回りを明かるくして立ち上がり、目を擦りながら和麻に対して不機嫌そうに抗議し始める。

「んんー? ……何で私の部屋にあんたがいるのよ」

「いつまでも寝惚けてないであっちを見ろ、来てるぞ」

「あっち?」

 綾乃が、和麻の指差す方に目を向けると、低い唸り声を出しながら、走ってきている熊が見えた。

 綾乃は現状が理解できずに、目を見開いて呆然と立ち尽くしていた。

 夢なのではないのか……綾乃はそんなことを考えながら、迫り来る熊を見つめる。見つめたからといって、熊の速度が緩むことはない。

 刻一刻と熊は綾乃へと近付いていく。

 後少し、というところまで来た段階で、このまま何もせずに、立っているつもりなのか―――そんな不安が和麻を襲ってくる。

 そうしたことから、再び和麻から綾乃へと声が掛けられた。

「いつまでそうしてるつもりだ。早く焼いてしまえ」

 綾乃は、呆然と立っていたせいだろう。和麻の指示に無意識に従い、大量の炎を顕現させると、それを全て熊へと向ける。

 熊は急遽現れた炎に驚いて立ち止まると、すぐに野生の本能で、その炎が危険だと感じ取ったのか、一目散に逃げの体勢に入る。

 しかし、熊は綾乃に近付きすぎていた。炎の速度は熊が走るよりも早く、逃げたと言えるほどの距離も行かずに、熊を包み込んでしまう。熊はその場で雄叫びを上げると、動かなくなった。

 そうして、炎が燃やした跡には、熊だった物の残骸が残り、それも風でゆっくりと倒れていく。

 確実に滅ぼしたことを確認し、和麻は綾乃へ向けて歩いていった。

「帰るぞ」

「───生き物……殺しちゃった」

 今まで妖魔や悪霊など、実体を持たないものを相手にしてきたせいだろう。初めて実体を持つものを相手にし、あまつさえそれを焼いてしまったのだ。綾乃はその事にショックを受けているようだった。

「……あの熊は死んでいた。気にするな」

 事実を言ったに過ぎないが、綾乃は泣きそうになりながら、助けを求めるようにして、上目遣いに和麻を見上げる。

 和麻はそのようなことに囚われず、綾乃の手を掴み、引きずるようにして、元来た道を戻っていくが、あまりの歩く速度の鈍さに、和麻は綾乃の背に手を回し、お姫様抱っこで進み直す。綾乃は事態を把握できずにボーッとしたままだった。

 しばらく進むと、前方に明るい光が照らし始める。

「心配したぞ、お前たち。どこにも怪我はないか?」

 明かりの中心に居たのは雅人だった。

 雅人は途方に暮れた顔をしていたが、和麻たちを見つけると、ホッとひと安心してから、心配そうに声をかけてきた。

「特に外傷はありません。依頼も完了しました」

「そうか……よかった」

 和麻は気にした様子を見せずに、簡潔に答えると、再び歩みを続ける。雅人も、今度こそ見失わないようにと、その後ろにピッタリと付き従った。

 そこからは、和麻の最初に言った通り、三十分で車まで戻り、家路につくことになる。その間綾乃は、和麻に寄り添うようにして、服を握り離さなかった。

 

 

 

 継承の儀から半月ほど経った頃。初めて母親である深雪に呼び出しを受けた。

(この家の奴等は自分から赴こうとか思わないのか?)

 内心愚痴を漏らしながら、和麻は深雪の部屋へ入る。部屋の中は、特に豪華な飾り付けがしてあるわけでもなく、一般的な和風の一室だった。家具などの調度品は高いだろうが、それも必要最低限しかない。その中で、深雪は待っていた。

「呼ばれましたか?」

「あなたは、いつまでここにいるつもりなのです?」

「───?」

 深雪の言葉の意味が分からず、和麻は眉をしかめる。厳馬から聞いているのではないのか……と、考えて、厳馬が、わざわざそのようなことを話すとは想像ができず、知らないのは無理もないと考え直した。

「来年の春。その手前までですが、それがどうかしましたか?」

「神凪では無き者が、この屋敷に居ても言い道理はありません。

 ここに一千万あります。

 あの人がなんと言ったか存じませんが、ここから早急に出ていきなさい」

 深雪の言葉はお願いではなく、命令だった。顔も見たくないと、それ以降の話を打ち切り、お茶を啜る。そして、嫌なものでも見るような視線を和麻へと向けてきた。

「分かりました」

 一千万あることを確認してから風呂敷で包み直し、部屋を後にする。特にこの屋敷に未練もなければ、思い入れもない。出ていくに当たって問題はなかった。

 部屋へと戻った和麻は、携帯を取り出し電話を掛ける。

「もしもし、今お時間宜しいですか?」

『構いません』

「この辺りで、安い賃貸のアパートを紹介していただきたいのです。

 今日中に」

『……分かりました。折り返し電話します』

「よろしくお願いします」

 電話を掛け終えて、和麻は部屋の整理に取り掛かる。特に大きな荷物はない。敢えて言うならば、服が嵩張るくらいだろう。

 十分ほどで、折り返しの電話が掛かってきた。

『幾つか見繕いました。案内しますので、玄関までお越しください』

「ありがとうございます。今から向かいます」

 電話を切って、すぐさま玄関へと向かう。そこには、既に、周防が車を回して待っていた。

 和麻は軽く会釈をし、車に乗り込む。周防もそれに倣い、軽く会釈をしてから運転席に乗り込んだ。

 車の中でこれから行く先の資料を渡される。それに軽く目を通してから、和麻は幾つかの資料を抜き取っていき、周防に手渡していく。

「今渡したところでお願いします」

「分かりました」

 手渡された資料を一瞥し、周防は車を出した。

 始めに向かったのは、神凪邸から程よく離れた場所にあるアパートだった。立地条件もよく、近くに駅あり、スーパーありと揃ってはいるが、値段もそれなりになる。

 実際の地理感覚を頭に叩き込み、部屋を軽く見せてもらった後、次の場所に向かう。

 そこは、駅からも遠く、近くにスーパーなどの買い物をする場所もないが、静かなところだった。学園からも少し離れてしまうが、うるさくない分丁度よいと、和麻はすぐに決めてしまう。

「ここのアパートにしたいと思います。管理会社と契約をしたいのですが……」

「こちらで、手続きをしておきます。金額は紙面通りで構いませんか?」

「いえ、私も立ち会います。交渉もこちらで行いますので、紹介まででお願いします」

「分かりました」

 和麻の言い方に対して、特に嫌な顔も見せずに、周防は、隣に立っていた管理人に目配せしてから頷く。

「それでは、一階の管理人室へ」

 管理人の案内のもと、一階へと向かう。和麻の決めた部屋は、三階の端の部屋。

 ひとりで住むには広いが、月五万と、土地のことを考えれば、それなりに安い。

 本来保証人などがいるところを、事前に数年分支払うことでなしにしてもらい、契約を結ぶ。お金は現金をその場で支払い、代わりに鍵を受け取る。

 周防は何も言わずに、和麻のすることを見届けていた。

 神凪邸へと戻る途中も、周防は特に何も和麻に聞かなかった。和麻からも特に話すこともなく、黙りこんだままである。

 その代わり、神凪邸へ着いてから、ひとつだけ訊ねてきた。

「引っ越しの手配を致しましょうか?」

「必要ありません。そのような大きな荷物はありませんので」

「失礼しました」

「こちらこそ、急に無理を言って申し訳ありません。

 今日はありがとうございました」

 和麻は、礼を述べると屋敷の中へと入っていった。それを確認してから、周防は車を移動させる。

 その日、神凪邸に住む者がひとり減った。

 


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