風の聖痕 新たなる人生 作:ネコ
綾乃の逃した妖魔たちに対する対応も、風牙衆の事件から数ヵ月で終わりを迎えようとしていた。
それは神凪だけの力ではなく、外部からの協力があったからではあるのだが、当初見積もっていた年単位の活動を数ヵ月で終わらせたことは、流石と言えるだろう。
ただ、ほぼ無償で行われた行為であったため、神凪の資産は風牙衆の後始末も含めると、今回の件で3割近くも目減りしたと言える。
そんな神凪ではあるが、対外的な風評としてはそれほど変わりはなかった。
何故ならば、身内に裏切られて謀反を起こされたものの、裏切った者を悉く根絶やしにしたという情報が広まったためである。
裏の世界では、強さを基準とした考え方が定着しているため、今回の事象は、神凪の名を改めて広げる機会となっただけだった。
そのため、外から見れば、内部の弱点と言える者がいなくなり、より強固な絆で結ばれたと考えられたのである。
内情はどうあれ、強さと言う点において評価が変わることはなかったと言うことだ。
表の世間的には、犯罪者集団が金持ちを狙った犯行と言うことで落ち着いており、それは色々な箇所に寄付をしていたことからも、そのような認識が広がっていた。
ただし、対外的には沈静化した神凪において、未だに解決されない問題がある。
重悟が悩んでいるそれは、言わずと知れた一人娘である綾乃のことだ。
確かに今の状況は、和麻との仲を取り持とうと頑張った結果であるから、そこだけを見れば娘が和麻に好意を持つことは良いことだといえる。
しかも、和麻と共に行動することで、炎術師として神炎に目覚めたのだから、『神凪』としては良いことづくめ。しかしながら、人としての常識に疎くなってしまったのは問題だろう。
まるで自分と和麻以外は居ても居なくても一緒というような考え方は、何処か人から外れていっているようなものだ。
そのため重悟は、綾乃を再び学校に通わせているのだが、親友たちと接することで少しは意識の改善はされたものの、未だ解決するには至っていない。
(どうするべきか……)
重悟は悩んだ末に、少し前の話を思い出す。
綾乃が愚痴のように漏らしていた言葉。
(これだ!)
天恵のような閃きに、重悟はすぐに行動へ移した。
少しでもより良い未来を見るために……。
重悟が思い立ってから数日後の日曜日。
綾乃、由香里、七瀬の3人は、休みを利用してある場所に来ていた。
3人は目の前の建物を見て立ち止まっている。
「ほら、綾乃ちゃん」
「私には少し敷居が高そうなんだけど……」
由香里がそっと綾乃の背中を押すが、綾乃の身体は地面に根付いているように小揺るぎもしない。
それどころか、僅かに綾乃の足は後退していた。
「和麻さんのためでしょ! そんなことじゃ良いお嫁さんになれないよ!」
「そうだぞ綾乃。何事もチャレンジしてみるべきだ」
「苦手な部類なのよねぇ……」
由香里と七瀬の励ましの声を聞いてネガティブな発言をしたものの、深呼吸をして顔を叩き気合いを入れると、敵を見るかのように建物を睨み付け、しっかりとした足取りで建物の中へ入っていった。
由香里と七瀬はほっとひと息つくと互いに頷きあい、その後に続く。
3人が来ているのは、都内にある料理教室。
ここに来た理由は、由香里の放った言葉が原因と言える。
その言葉とは───
───和麻さんの妻になるなら、手料理のひとつやふたつは作れるようにならないと嫌われるんじゃない?
という何処にでもありふれた言葉だった。
しかし、綾乃にとっては聞きなれない言葉であり、しかも和麻の事を持ち出されては、綾乃としても簡単に拒否することも出来ず、由香里の言葉に説得されるがまま、休日に料理教室へ来ることになったのである。
七瀬の方は例のごとく由香里から話を聞き、面白そうな事になりそうだとついてきていた。
この3名の費用に関しては、勿論のごとく重悟が負担したのは言うまでもないだろう。
ちなみにだが、由香里と七瀬の二人は、料理についてそれなりに出来るため、実質は綾乃の料理の腕を見るついでに、向上させる目的があったのはいうまでもない。
綾乃たちは、カウンターで受付を済ませ、指示された部屋に入った。
部屋には、他にも料理を習いに来た人たちが数人来ており、椅子に座って料理の本へと視線を向けたり、雑談したりしていたが、綾乃たちが入ってきたことで、視線を綾乃たちへ移し黙礼してくる。
綾乃たちも軽くお辞儀を返して、近くの空いているキッチン台に備え付けられている椅子に座った。
「意外と習いに来てる人がいるのね」
「意外でもないと思うよ? 彼氏や旦那さんに美味しいものを食べさせたいって誰でも考えると思うの」
「余裕があればの話だがな」
「ふーん……」
綾乃はどうでも良さそうに聞き流すと、黒板に書かれたお題を見る。
そこに書かれているのは、カレーという文字。
「私の見間違いかしら……。カレーって書いてあるんだけど……」
「大丈夫。私にも見えるから」
「カレーってあのカレーよね?」
「お魚さんのカレイを思い浮かべてたらビックリだよ?」
「流石に綾乃でもそれはないだろう」
「あんたたち……。私をなんだと思ってるのよ……」
綾乃は由香里たちを睨み付けたものの、カレーに付随している、ある単語が気になり問い掛ける。
「ところでキーマカレーって何?」
「ええ!? さっきあれだけ知ってるような口振りだったのに!」
「驚きだな……。それともギャグか何かか?」
由香里はわざとらしく驚いて見せ、七瀬は綾乃の本心を見定めるように見つめる。
「カレーは知ってるわよ。でも、キーマカレーって普通のカレーとどう違うの?」
この綾乃の言葉で、キーマカレー自体を知らないことを察した由香里は、笑顔で綾乃に説明を始めた。
「いい? キーマカレーって言うのは、インド料理の1つで挽き肉カレーって意味なの。でもね、宗教の関係で牛さんや豚さんは使えないから、他のお肉───鳥さんなんかで作るの。とってもスパイシーで美味しいよー」
「鳥の挽き肉カレーかぁ。私は歯応えがある方がいいんだけどなぁ」
綾乃は腕を組み、キーマカレーがどういったものか想像しながら、通常のカレーを思い浮かべる。
思い浮かべたのは、カレーの具材がしっかりと形を残したものであり、特に肉の歯応えがしっかりとしている方に綾乃は魅力を感じた。
そうして、しばらく3人で雑談していると、本日の講師が部屋に入ってきて軽く自己紹介をすると、料理の説明を始める。
「本日行いますのは、前にも書いています通り、キーマカレーとなります。材料については、お手元に配布している紙に記載していますので、各自確認してください」
綾乃は机に配布してある紙を手にとって見た。
そこに記載してある材料は、山羊の肉を筆頭に野菜やスパイスなどが名を連ねている。
現在、綾乃たちのいる調理台の上に置いてあるのは、調理器具と一部の調味料の類いのみだった。
「材料については、各調理台に備え付けてある冷蔵庫や棚に保管してありますので、そこから取り出してください」
その説明を聞いて、由香里が台の脇に備え付けられている冷蔵庫から食材を取り出し、七瀬が棚から野菜を出す。
「これで材料は全部かな?」
「───揃っている」
由香里は確認の意味を込めて問うと、七瀬が紙を見て、数を確認してから答えた。
「あんまり見ないのも入ってるわね」
綾乃はニンニクを手に取りながら呟く。
「材料の確認は済みましたか? ───それでは調理を始めます。先ずは手をよく洗っていただき、野菜の準備から始めましょう」
そうして始まった料理教室。
序盤は意外にもスムーズにいった。
そもそも、最初は野菜を洗うことと、切ることだけなので何かが起こるはずもない。
「普通に野菜のカットは出来るんだね」
「ん? だって切るだけじゃない。どれくらいの大きさにまで切るかも書いてあるし普通でしょ?」
綾乃の前には、細切れにされた野菜たちが、まな板の上で散らばっている。
「これは……普通なのか?」
野菜の皮を剥き終わったもの……。ここまでは七瀬の理解の範疇であったが、その後の行程は理解から外れていた。剥き終わった野菜を綾乃の前に置くだけで、野菜のカットが終わっているのだ。しかも綾乃の手が動いたようには見えず、包丁がまな板を叩く音すら聞こえない。七瀬でなくとも一般人には一種の手品のようなものだろう。
綾乃を注視して見ていても、綾乃の手には包丁が握られているが、その身体はリラックスしているような自然体のままであり、少し動いたように見えるだけだった。
しかしながら、野菜たちはすべて規定の大きさに切られているのだから、七瀬としては綾乃だし出来るだろうで結局は片付けてしまう。
「それにしてもおもしろいね。触ったらバラバラになるなんて、漫画の世界だけだと思ってた」
由香里は七瀬が置いて数秒しか立っていない野菜を掴み、ボウルの上で軽く握るとバラバラになるのを見ながら呟く。
空想上ではよく聞く話だったが、自分の目で見ることになるとは夢にも思っていなかったのだから当然だろう。
そうして、常人には視認不可能な速度で刻まれた野菜たちは、皮を剥かれたままであったが、次々と由香里の手によってボウルに移されていった。
「つまらぬものを斬ってしまった……とか言わないの?」
「? 食べ物よ?」
「由香里……綾乃には伝わらないと思うぞ」
「それもそうね」
野菜を切り終わり、次はフライパンで炒める行為なのだが、ここで綾乃は思わぬ苦戦を強いられることになる。
「綾乃ちゃん! 火力強すぎ!」
「焦げ始めてるぞ!」
「…………」
綾乃に任せていては駄目にしてしまうことが分かった二人は、すぐさまアドバイスを送る。しかしながら、今度は火力が弱くなりすぎ、再び二人からツッコミを受けたことで綾乃の我慢は限界をむかえた。
「普通はコンロでしょ!」
叫ぶと同時にフライパンを手に持つと、炎の精霊に語りかけて食材を直に熱した。
イライラが募っていたためか、綾乃の呼んだ炎の精霊たちは歓喜してフライパンを包み込み、一瞬で中の具材もろともフライパンを消し炭としてしまう。
「フライパンって燃えるんだね」
「普通は燃えないだろ……」
由香里と七瀬の視線を気にせず、綾乃は火力の微調整をモノにするため、次のフライパンと具材を手に取り挑戦を続けた。
流石に1度目の失敗を繰り返すことはなく、具材を炒めることに成功したが、次のステップである調味料を加える段階で再び失敗をする。
「適度って何よ!」
「どうどう」
「私は馬じゃない!」
「ほら、また入れ過ぎだぞ」
「あ!」
そうして、調味料を加えることにも成功し、最後の盛り付けにまで辿り着く。
「長かったね……」
「何度やり直したことか……」
由香里と七瀬は感慨深く出来上がった皿を見て呟く。
「そこまで言うことじゃないでしょ」
綾乃はそんな二人に大袈裟過ぎると、僅かに頬を膨らませながら言った。
その言葉は、感傷に浸っていた二人を現実に引き戻す。
「その言葉は周囲を良く見てから言ってね。綾乃ちゃん」
「そうだぞ。片付けも勿論綾乃にやって貰うからな」
綾乃の周囲には、駄目になった食材や調味料などが散らかっていた。
それを見て綾乃は何でもないことのように請け負う。
「こんなのは簡単よ」
綾乃は周囲の状況を把握すると、寸分の狂いもなく散らかっている物だけを完全に消滅させた。
それは片付けるべきフライパンや調味料にもおよび、確かに綺麗にはなったが、周囲を唖然とさせる。
一番遅れていただけに、周囲からの注目が集まっていたため、余計に目立っていた。
それを見て溜め息を吐くのは綾乃の非常識さを知る二人のみ。
「綾乃ちゃん……。流石にこれは片付けたとは言わないと思うの」
「料理の前に、物の大切さについて学ぶべきだったな」
「来たときと同じくらいには綺麗よ? 寧ろ見える範囲の汚れはすべて消したんだから、これ以上の片付けはないと思うんだけど?」
そんな綾乃の言い分に、二人は深い溜め息を漏らすと、事態の収拾に動き始めた。
後日、この料理教室で作ったものを和麻に振る舞うのだが、和麻は手をつけずに果物のみで済ませてしまい食べなかったのは余談である。
煉は日々の修練を必死に、それこそ身を削って行っていた。
身を削るとはその言葉の通りであり、日に日にその身体からは、余分な脂肪どころか必要であろう筋肉まで落ちてきている。
そのことに本人は気付いていなかったが、修練を見守っていた人物には丸分かりであり、これ以上は見られるものではないと、煉に声を掛けた。
「今日の修練はここまでだ」
「!! まだやれます!」
厳馬は煉の鬼気迫る様子を感じ取り、顔を左右に振ると言い聞かせるように煉の肩へ手を置く。
「今の状態で行っても身に付くまい。それどころか逆効果ですらある。今やるべきことは、己の心と向き合うことだ。───それまでは基礎鍛練のみとする」
「そんな……」
煉は厳馬の言葉にショックを隠せずにいた。
そんな煉へ確認を、自分自身を見つめ直すことを促すように厳馬は問い掛ける。
「何故そんなに強さを求める?」
「…………」
「何のために強さを求める?」
「…………」
煉は黙したまま答えようとはしない。
厳馬の世代であればがむしゃらに鍛練を行ってきた。それを煉に課すことも出来るが、それでは、ある前例の二の舞にならないとも限らない。
強さなど後からいくらでもつけられることを考えれば、今は精神を鍛えることを優先すべき……。
厳馬は煉に考える時間を与えるため、その場に煉を残し道場を後にした。
残された煉は、自分のなかで答えが出せず、然りとて父親が答えてくれるわけもなく、身近な相手───雅人に助言を求めた。
何故雅人になったかと言うと、綾乃に聞けども、精神論や根性論のみであり、全く参考にならなかったからである。その他の人物で話を聞ける人物となると、一族の中で黄金の炎に覚醒しており、その上で神炎を発現させていない───つまるところ神凪の中で一番煉に近い人物と言えるからだった。
「雅人おじさん。少しいいですか?」
「どうかしましたか?」
雅人は、煉の様子を見て少し驚くも、すぐに表情を戻し誰もが安心するような笑みを浮かべる。
「どうやったら……強くなれますか?」
この言葉を聞いて雅人が思い浮かべたのはある人物。
その人物は自らの力により道を切り開いたが、他者を寄せ付けない───寧ろ必要としない精神性まで思考が昇華してしまっている。
しかし、煉が求めることはそうではないのだろうと、先ずは煉の考えを確認することにした。
「どこまでの強さを求めておいでですか?」
「どこまで……」
「今よりもと言うことであれば、手っ取り早く身体作りをお薦めします。神凪として炎の力を上げたいと言うのであれば、厳馬殿の修練を続けた方がよろしいでしょう」
雅人の言葉は煉が求めることに近いようでいて違う。そのため、煉は言葉に詰まりながらも再度不安に思っている事を口にした。
「兄さまや姉さまのように……。神炎は使えないと……。僕は能無しとして……勘当されてしまいます……」
煉の言葉を聞いて成る程と納得する。
(兄の事情を中途半端に聞いたことでの勘違いか……)
煉が考えているような事にはならないと、雅人は断言できる。しかし、その事を伝えても煉が納得しないことは明白だった。
神凪の宗家において、一部を除けば神炎を使えない者の方が現状では少数。しかも、同じくらいの年齢である綾乃は既に神炎使いとして覚醒しているのだから煉が焦るのも無理はない。
雅人は煉の悩みを理解したが、求めている答えを持ち合わせてはいなかった。言うなれば、雅人は術者としては煉と同じ立場なのだ。本来であれば、助言すら烏滸がましい。
だからと言って、自分を頼りに来た者を突き放すことはできなかった。
「神炎使いではない私では、どうすれば神炎を出せるか分かりません」
「……」
「私も神凪である以上、神炎には憧れるし神炎使いになりたいと思っています。そのために調べたことですが、それでも良ければ話しましょう」
「是非お願いします!」
雅人は庭を一望できる縁側へと向かうと、そこへ腰掛け、隣に座るよう煉を誘う。
「神炎を使うには極限の集中力に加えて、自らの意思力が必要と言われています」
「意思力……ですか?」
「ええ。まず、嘆かわしいことではありますが、神凪の者であっても、集中力が無ければ不浄なるものを焼き尽くす金色の炎は出せません。ここまでは、よろしいですね?」
「はい」
煉は言葉を聞き逃すまいと雅人を見つめる。
その辺りの事は厳馬から聞いており、煉は自然と出来ていることではあるが、分家の者たちが金色の炎を出せないことは知っていた。
「次に意思力です。集中し高めた力に対して、自らの意思を乗せることが出来れば……」
「どうやって意思を乗せるんですか!!」
「すいませんが、今の私では集中力を維持することに精一杯で、意思力を込めるところまでは至っていません。ただ、私の考えとしては、自らの考えや想いを乗せる事だと……」
煉は雅人が言い終える前に立ち上がると、礼を言う事もなく駆け出してしまった。
雅人はそんな煉を追いかけるでもなく、独り言のように呟く。
「心配ならば、自ら助言したほうが良いと思いますよ……蒼炎使い殿」
雅人はゆっくりと立ち上がると、その場から去っていく。
廊下の端で様子を窺っていた人物も、雅人が立ち上がると同時にその場を離れていった。