風の聖痕 新たなる人生 作:ネコ
空港へと一機の飛行機が到着する。その飛行機を空港の窓から無事に着陸するのを確認した綾乃は、ゲートの前に移動すると、和麻が出てくるのを今か今かと高鳴る胸を抑えながら柵の最前列で待機していた。
続々と出てくる人の波を見て、綾乃の心臓は次第に早鐘を打ち始める。待っているこの数分が、綾乃には何時間にも感じられるほどだった。
それは唐突に現れる。見た目は最後に見たあの時から変わっていない。そう───外見的に一切の変化が見れなかった。変わったところと言えば、着ている服と雰囲気だろう。
どこか刺々しかった印象は無くなり、どこか周囲と一体となっているような、自然な立ち居振る舞いをしていた。
綾乃は和麻へと駆け寄るのも忘れて、微かに眼元に涙を浮かべながら和麻がゲートを潜り出てくるのを待つ。
しかし、その時を綾乃は図らずも見失ってしまった。見間違いかと目を擦り再度ゲートを見るがゲートを潜っていたはずの和麻の姿が無い。
まさか、今まで見たものはすべて幻だったのかと、慌ててゲートへ向かおうと足を一歩進めたところで綾乃は肩を掴まれた。
「───!?」
反射的に飛び退り、肩を掴んだ相手を確認する。確かに和麻を確認するために周辺への意識は薄くなってはいたが、気付かないほど意識を低下させていたつもりは無かった。それなのに……と相手を確認した所で、その相手に思わず抱きついてしまう。
「和麻!! おかえりなさい!!」
綾乃は、和麻を離すまいと抱きつきながら顔も見ずに話し掛ける。雰囲気が変わっていても、それは和麻に間違いなかった。
しかし、次の瞬間。綾乃の勘が危険を知らせるのと同時に和麻からすぐさま離れた。
自分の身体が意思とは別に動いたことに戸惑いながら、綾乃は信じられない気持ちで自身と和麻を交互に見た。微かに感じる違和感に、綾乃は和麻を注意深く見ると、その違和感の原因にたどり着く。
「和麻……その手袋は何?」
違和感の正体は、和麻の右手に装着された黒い手袋だった。抱きつく前にそのようなものを着けてはいなかった。しかし、今は着けている。それはなぜか───。
綾乃が考え付く前に和麻から返答があった。
「これは、相手の記憶を見探るものだ。脳に直接触れることで、相手が忘れていることすら探ることができる」
和麻は何でもないことのように答えるが、綾乃はなぜそれを使うのかと、少しずつ嫌な予感が膨れ上がっていく。
「何故それを私に使おうとしたの?」
「お前が俺のことを知っていそうだったからな……。
人と言うのは、案外物忘れが酷い。忘れていることが多々ある。だから、これで確実に真実が知りたい。俺の失われた過去のために」
「えっ?」
綾乃や近くに居た周防達も含めて、和麻の言葉に唖然としてしまう。まさかと言う思いもあったが、納得できる部分もある。記憶があれば、それこそ連絡を取るはずだ。それが無いと言うことは、このような状態になっていてもおかしくはない。
しばらくの間、なんとも言えない空気が漂った。
「ここが、俺が育った場所か……」
「何か思い出した?」
「───見たことがあるような気はするな」
和麻は綾乃たちに連れられて神凪邸へと来ていた。行きなり謎の道具で、何かしようとしてきたことに対して綾乃は非難することなく、記憶がないことに対して逆に心配する。
雅人と周防は、本人という確信が未だ持てないためか、何時でも対応できるように一定の距離を取って和麻に接していた。
霧香たちは言わずとも更に一定の距離を空けてついてきている。
門を抜けて、玄関の向けて歩いている途中。和麻は立ち止まると、ある方向に顔を向けて見つめる。綾乃達も、和麻が立ち止まったことで同じく止まった。
「何か気になるところでもあった?」
「ああ」
歩いていた方向を変えて、和麻は見つめていた方向へと歩き出す。何となく懐かしく感じながら着いてみると、そこは道場だった。
和麻は無意識に土足のまま道場へと入っていくと、入った瞬間に和麻へ向けて凄まじい蹴りが放たれた。
和麻は何事もなかったかのように避けると、道場内部を見回す。しかし、襲撃者の攻撃はそれだけではなかった。腹部を狙った蹴りを避けられた次の瞬間には、その蹴りの反動を利用して肘打ちへと変化させる。
和麻はそれすらも分かっていたのか、肘の位置に手を向ける。肘打ちの速度は、ただそこに置いただけの手に防げるようなものではなかった。
しかし、肘が当たった瞬間。和麻は僅かに上げていた足を床に下ろす。それと同時に、道場内で足を下ろしただけでは出るはずのない音が響きわたる。
そう、和麻の下ろした足元の床板は見事に割れていたのだった。術者の踏み込みにも耐える床板が───
ひと通り見渡した後に和麻は攻撃してきた者を見る。
「何をしに戻ってきた」
「───俺の敵か?」
「どうやら寝惚けているようだな。礼儀すら守れんとは」
「───」
攻撃してきた相手───厳馬との噛み合わない会話に、これ以上の会話を危険と感じたのか、外部から声が掛けられる。
「和麻様。ここは土足禁止です。それと、先ずは神凪家の当主に会っていただきたい」
和麻は先程のことなどどうでもよくなったのか、道場を出ようとしたところで、そこで修練していた子供から声を掛けられる。
「兄さま?」
和麻はその言葉には答えず、道場を出る際に、声を掛けてきた子供を横目に見ていった。
聞き取りは、宗主と和麻の二人のみ。重悟の部屋にて行われた。
ただし聞き取りといっても、交互に質問しそれに回答していくと言ったものだ。
和麻としては、面倒な作業であったが、相手が素直に答えているため、強行手段には出ていない。ひと通り聞いてはみたが、和麻の記憶が刺激されることはなく、あまり有益な情報が得られないと分かると、沈黙し考え込む。
「和麻の経歴については、こちらで準備する。一時間もあればある程度揃うだろう。
他に必要なものはあるか?」
「今すぐというものは特にない」
和麻は、重悟の心配など気にも止めずに答える。
「今後どうするのだ?」
「もらった資料を元に色々と巡るつもりだ。
取り敢えずは屋敷内を見せてもらう」
和麻は立ち上がると、まだ話しを続けようとする重悟を目で制して部屋を後にする。
部屋を出た先には綾乃と煉が待っており、和麻が出てきたのを確認して近付いてきた。
「どこに行くの?」
「兄さまは記憶喪失なのですか?」
「お前が俺の弟か……」
二人からの質問を無視して和麻は近付いてきた煉を見ると、一言呟く。
「本当に弟か?」
「───? 勿論ですよ」
和麻の言わんとしていることが理解できなかった煉は、和麻の呟きに不思議がりながら肯定する。
「───まあいい。それでお前が綾乃だな」
こちらは特に聞くまでもなく、断定情報として和麻は口に出す。
綾乃は、自分のことを少しでも覚えていたのかと、嬉しそうにするが、記憶が戻ったのではないと、認識を改める。
「少しは思い出せそう?」
「どことなく見たことのある場所……その程度の認識だ。
特に思い出すようことはないな。
それよりも、この屋敷を案内してくれ」
「任せて!」
綾乃は和麻を引き連屋敷の中を案内していく。しかし、その姿を見て、不満に思う者がほとんどであることに綾乃や煉は気付かない。
ひと通り案内したところで、煉が口を開く。
「そうだ兄さま! 母さまに会ってみてはいかがですか? 何か思い出すかもしれませんよ!」
名案とばかりに煉は提案する。煉にとっての母親は、とても優しく、慈愛に満ちたものだった。その愛情は当然和麻にも注がれているものと思ったのだが、それが間違いであると知っていた綾乃は複雑な顔をする。
和麻が思い出すかもしれないが、嫌な思い出として記憶が戻ったのでは、神凪から遠ざかるかもしれない───そのような思いが頭をよぎったのだった。
膠着した空気は、そこへやって来た周防により払拭される。
「和麻さま。書類が出来ましたのでお渡しします」
和麻は周防から封筒を受け取ると、中の書類に目を通す。そこには、生まれから不明になるまでの経歴が載っていた。それを見て和麻は周防に訊ねる。
「ここに記載されている住所に行きたいんだが」
「車は表に準備してありますので何時でも出立することはできます」
「では案内してくれ。お前たち案内してくれたこと礼を言う。ありがとう」
和麻から礼を言われると思っても見なかった綾乃は、和麻たちが去っていく方向を、呆気に取られたように見つめた。
案内された部屋に到着し、準備されていた合鍵にて中に入ると、誰かが使用しているのか、床に埃などが溜まっておらず、綺麗に掃除されていた。
それを見て怪訝に思いつつも、和麻は近くの部屋の中に入る。そこは服が少し散らかったままになっている部屋だった。和麻はその服を避けて移動し、その部屋にある衣装ケースや棚を確認していく。そこには、和麻の考えを覆すものが揃っていた。
「確認したいんだが、俺は妻帯者ではない───間違いないか?」
「間違いありません。ちなみに、置いてある品につきましては、綾乃お嬢様と柚葉様、お二方の物がほとんどです。和麻様の物については、あちらの部屋にまとめてあります」
和麻は廊下から部屋に入ろうとしない周防の言葉に、顔をしかめて、頭痛がするのか頭に手をやる。
「俺は独り暮らしだと書いてあっだが、この状況はどう言うことだ?」
「それは、心配したお二方が、和麻さまが何時でも帰って来られるようにと、それぞれこの部屋を綺麗にしていたのですが……いつの間にか住むようになった次第でございます。補足しておきますと、ここの維持費についてもお二方にて立て替えてあります」
勝手に暮らしていることに対して文句のひとつも言いたくなるところだったが、周防の言葉でそれを飲み込む。今後ここに住むかはともかく、自分がいない間維持をしていたことには変わりないのだから。
周防は鍵を和麻に手渡すと、携帯を同じく取り出し続けて手渡す。
「連絡につきましては、この携帯にてお願いします。使い方は分かりますか?」
「───ああ。問題ない」
和麻は渡された携帯を少しいじりながら、周防へと返事をすると、携帯をしまいこむ。
「では、これにて失礼いたします」
「色々と助かった」
「これが仕事ですので」
周防は軽く頭を垂れると、すぐに踵を返して出ていく。和麻はそれを見送り、これからどうするべきかと悩んだところで、何者かが近づいてくるのがわかった。
和麻は大人しくその場にて待っていると、勢いよく扉が開き、見知った人物が入ってくる。
「そこの部屋は入っちゃダメーーー!!」
和麻がある部屋の扉の前にいることを見た綾乃は、素早く和麻と扉の間に割って入り両手を広げる。
「ここは俺の家のはずたが?」
「えっと……その……そう! ここは私の家でもあるの!」
綾乃の言葉に、周防が去る前に話していた内容を思い出す。
「そう言えば、立て替えているんだったな」
「うんうん」
「そういうことなら、居ても不思議ではない……か」
綾乃は和麻の言葉に我が意を得たりとばかりに首を縦に激しく振った。
「もうすぐ夕方だ。時間もあることだし、話を聞きたい」
「立ってるのもなんだし、リビングで話すね」
綾乃は和麻の手を引きながら部屋から離すようにリビングへと向かい、ソファーへと腰を下ろす。
「何故わざわざ俺の隣に座る? 向かいのソファーが空いてるだろう?」
「私と和麻は(依頼に行く車の中では)いつもこんな感じだったの! 昔と同じようにしてた方が思い出しやすいと思うし……」
綾乃は和麻の腕に抱きつきつつ、少し目をそらしながら答える。それを見て和麻は真偽のほどを疑ったが、実害はなさそうだと判断し、指を立てひと言呟いてから綾乃へと身体を向けた。
綾乃は、抱きついていたところを剥がされたために、多少の不機嫌さを露に、頬を膨らませる。
「気になっていたことではあるんだが、俺とお前の関係はなんだ?」
「───!? それは……えっと……和麻と私は───」
綾乃がその先を紡ぐ前に、誰かが家の鍵を開ける音が響く。
「誰か来たようだな。ここの立て替えは、二人だったと聞いている。鍵を持っているのはそいつか?」
和麻は立ち上がり、玄関へと向かいながら綾乃へ問いかける。
「───多分」
綾乃はせっかくの機会が流されたことで、先程よりも更に不機嫌そうな顔になっていた。
「────」
玄関を開けたまま、和麻を見て呆然と立ち尽くす人物の資料を頭の中から引き出し、和麻はその名を口に出す。
「柚葉か……」
「か……」
「か?」
「かず───」
「あー!! 和麻あんたどこいってたのよ!! どれだけ心配したと思ってるわけ!?」
柚葉が声に出そうとしたところで、一緒に帰ってきたであろう人物が声高に言い放つ。
「全く、次から次へと……」
資料に載ってなかった人物の登場に、和麻は思ったままを言うが、その内容が癇に触ったのか、一気に和麻へ詰め寄り捲し立ててくる。
「あんたがどれだけ柚葉たちを心配させたと思ってるのよ! いい? 3年よ! さ・ん・ね・ん!! 少しでも悪いと思ってるわけ!? その言い方だと全く思ってもないわよね!? 恋人なら連絡のひとつもやったらどうなの!!」
「ちょっと待て」
「なによ! 言い訳は男らしくないわよ!?」
言い立てる女性───紗希の言葉を遮り、和麻は不思議そうに声を出した。
「結局のところ、お前は誰なんだ?」
「──────はっ?」
和麻の言葉に沙希は一瞬我を忘れて黙ってしまい、聞き返してしまう。
「聞いてなかったのか?」
「和麻待って。和麻が説明するとややこしくなりそうだから私が説明する。
二人ともまずは私の話を聞いて」
綾乃は和麻の前に立ち、柚葉と沙希に諭すように話し掛けた。ふたり───特に沙希は和麻の言葉から立ち直れずに黙したままだった。
「単刀直入に言うと、和麻は記憶喪失なの。」
いきなりの話に柚葉と沙希はついていけず、何も言えないまま綾乃に視線で先を促す。
「行方不明だったのは記憶を失っていたから。今も少しは覚えてるけど、断片的なことばかりみたいなの。
これから、和麻の記憶が戻るよう行動しようとしてるところ。だから、今の和麻へ何を言っても伝わらないということだけ覚えておいて」
綾乃の言葉を受けて、柚葉は心配気に、沙希は不審そうに和麻へと視線を向ける。
綾乃の言葉に和麻はもの申したい気持ちではあったが、状況をこれ以上ややこしくしても仕方がないと、口を閉ざす。
「それで? 具体的にこれからどうするの?」
沙希の言葉に、綾乃は頷く。
「もちろん一緒に生活するのよ。その内思い出すかもしれないし……こればかりは、和麻次第かな?」
綾乃は和麻に振り返ると、確認の意味を込めて和麻に問いかける。
和麻としても、記憶が戻るのであればと、特に迷うことなく答えた。
「それで構わない」
和麻の言葉に綾乃は満足そうに頷くのだった。
柚葉の両親が、男がいる場所へ嫁に行く前の娘を住まわせるはずもなかったが、既に大学生であったことと、同棲相手が男だけではなく、綾乃もいること、更に言えば、身元がはっきりしており、和麻が記憶喪失ということが後押しされて、一緒に住むことが許された。
隠れて付き合われて何かが起きるよりも、自分達の把握できる場所で行動された方がいいというものだ。父親は最後まで反対だったが、柚葉だけではなく、母親まで賛成に回られては打つ手がなかった。反対したことで家出をしてしまえば一緒である。
そうして、3人の共同生活が始まった。
平日は、綾乃と柚葉は学生のため昼間はおらず、和麻ひとりで行動し、土日は二人揃って和麻の道案内を行う。そこへ沙希が加わったり、綾乃の友達が加わったりもしたが、あまり変わることはなかった。
そういった生活が2ヶ月ほど経過したところで、綾乃へと神凪から連絡が入る。
「分かりました」
携帯を切り、溜め息を吐いて綾乃は和麻に向き直ると用件を伝える。
「和麻。神凪家の生業は聞いてる?」
「ああ、一応聞いてる。俺も携わっていたようだしな」
「和麻も一緒に来てほしいの。もしかしたら、そこで何か思い出すかもしれないし……。明日なんだけど……」
綾乃は柚葉に対して、申し訳なさそうにしながら、和麻へと伝える。
「構わない」
「私のことは気にしないで。そういった方面は、私には分からないから」
柚葉は、身振り手振りで慌てたように綾乃へと返事をした。
「ごめんね。明後日は私が大人しくしてるから」
綾乃と柚葉の取引に、和麻は我関せずと、明日の準備をするために部屋へと戻っていった。
翌日。どんよりと曇った空を見上げて、綾乃は眉をしかめながら、和麻と共に車へと乗り込む。
「あんまり、よい天気じゃないわね……」
綾乃の呟きに、和麻は不思議そうに問い返す。
「天候に左右されるのか?」
未だに神凪の力を見たことのない和麻は、その程度の力しかないのかと思ってしまう。
「雨が降りそうだからね……。感知があまり得意じゃないから、精密な力の操作ができなくて……。
───でも、気にしないで! 力の強弱にはほとんど影響ないし、和麻は私が守るから!」
綾乃は、和麻が戦闘に関して不安があると思い、断言するように力強く答える。
和麻はそんな綾乃を少し冷めた目で見るが、当の綾乃は和麻の反応に首を傾げてしまうのだった。