53
月が巡る下、イシュマウリさんは変わらず静かに佇んでいた。
「あまたの月夜を数えたが、これほど時の流れを遅く感じたことはなかった。その輝く顔でわかる。見事月影のハープを見つけてきた。
……そうだろう? さあ見せておくれ。海の記憶を呼び覚ますにふさわしい大いなる楽器を」
笑みを浮かべたイシュマウリさんが両手を広げると、エイトさんの手からハープがふわりと浮いて引き寄せられるように彼の腕の中へと収まった。
「……この月影のハープもずいぶん長い旅をしてきたようだ。そう、君たちのように。よもや再び私の手に戻る時が来るとは……いや、これ以上はやめておこう」
何やらこちらを見て苦笑を浮かべられた。おそらくだがテアーに関係でもしているのだろう。
「さあ荒れ野の船のもとへ。まどろむ船を起こし旅立たせるため、歌を奏でよう」
そう言い放つと一瞬にして私たちは荒れ野に立っていた。あれだ、遺跡のようなところに移動した時と同じだ。
って、馬車――も、来てますね。はい。フォロー不要でしたね。
「これはどういう事じゃ!? わしらはさっきまで……むー!!」
みんな戸惑っていたものの、ヤンガスさんが空気を読んで騒ぎ出した王の口を塞いだ。グッジョブ。さすが見かけによらず空気が読める男。
「この船も月影のハープも、そしてこの私も。みな、旧き世界に属するもの」
懐かしむように、また慈しむようにイシュマウリさんは細い指で船体にそっと触れた。そうして束の間思いを巡らせるような沈黙が流れると、くるりと振り返りハープに手を添えた。
「礼を言おう。懐かしいものたちにこうしてめぐり会わせてくれた事に。
……さあおいで。過ぎ去りし時よ。海よ。今ひとたび戻ってきておくれ……」
ハープの音色に誘われるように、仄かに青白く輝く魚が舞い踊り始めた。
さらにイシュマウリさんの足元に水のような影が湧き出してきた。が、途中で消えてしまった。
「ありゃ? こりゃどうしたんでげすか?」
思わずといった様子で呟いたヤンガスさん。それはイシュマウリさんも同じだったようで、驚いたような顔をしていた。
「なんと! 月影のハープでもだめなのか。これでは……」
その言葉にやはり想定外であったのだとわかり、こちらも困惑する。
「どうにか……出来ないのでしょうか」
姫様の言葉に私はどうしたものかと悩む。テアー改め、にゅーちゃんに頭の中で呼びかけてみるが沈黙を保っているし、肝心のイシュマウリさん自身もまさかの事態に驚いたままだ。
あ、いや。こっち見た。こっち来た。
「気づかなかったよ。そなたは呪いをかけられているのだね?」
あ、姫様でしたか。
イシュマウリさんに語りかけられた姫様はぎゅっと私の手を握ったので、大丈夫だと私も握り返す。
「はい。今はリツお姉さまのおかげでこうしていられますが、馬の姿になる呪いをかけられました」
「……言の葉は魔法のはじまり。歌声は楽器のはじまり。呪いに封じられし姫君の声。まさしく大いなる楽器にふさわしい。それに……」
イシュマウリさんは姫様から私へと視線をずらすと一つ頷いた。
「客人との繋がりもある。ならば……高貴なる姫よ、どうかチカラを貸しておくれ。私と一緒に歌っておくれ」
突然のお願いに姫様だけでなく、エイトさん達も面喰らうが、姫様は数秒間を置いてこくりと首を縦に振った。
「お役に立てるのでしたら」
その答えにイシュマウリさんは笑みを浮かべ、再びハープを奏で始めた。
姫様は緊張の面持ちでいたが、意を決したようにハープに合わせて、その小さな口を開いた。
完全に即興だ。それなのに高く澄んだ、それでいて伸びやかな歌声が柔らかなハープの音と合わさって、最初からそう決められていたかのように優しい音色を形作っていく。
姫様の歌声に聞き惚れていると、不意に魔力の栓が緩み私から姫様へと流れ出した。それはそのまま姫様からイシュマウリさんの持つハープへと流れ、再び彼から海の幻が溢れ始めた。
一度溢れ出した幻は瞬く間に空高くまで広がり、地面に食い込んでいた船体をゆっくりと重力の戒めから解き放った。
浮かび始めたのは船だけではなくエイトさん達の身体も同様で、イシュマウリさんが腕を振って船上までの
「さあ別れの時だ。そなたらも行きなさい」
イシュマウリさんの言葉に合わせて私たちの身体も、ついでに馬車も浮かびあがり、船の上へと持ち上げられた。
イシュマウリさん自身は地上に立ったままで、振り返ると口が動いていた。
「旧き海より旅立つ子らに船出を祝う歌を歌おう……」
遠いはずなのに何故か聞き取れたその言葉の後、うっすらと船に向かって流れる力を感じた。すると船はゆっくりと前進を始め、朝日が昇る頃には本物の海の上へと来ていた。
未だ幻の海の上に浮かんでいる状態で、どうするのだろうと思っていると、次第に幻の海が下がり最後には幻と本物の海が混じるようにゆっくりと着水した。
「何がなんだかアッシにはどうにもわからないでげすが……」
「寝ぼけた事を言うな! すべてわしのかわいいミーティアのおかげじゃわい!!」
もっともなヤンガスさんの発言に、王がゲンコツ付きの鋭いツッコミを入れている。相変わらず相性が悪いようで。
「姫様はとても歌が上手なのですね」
「いえ……ミーティアなど、本当はとても人前で披露出来るものではないのですけど」
姫様、それを言ったら私は鼻歌すら人前で出来なくなります。
「でもお役に立てたようでホッとしました。とても緊張しましたけれど」
はにかむ姫様に私もつられて微笑み、船体を見渡す。
「まっ、ようやく船が手に入ったって事だけは確かでがすね! 兄貴!」
「喜ぶのはまだまだ先よ。私達にはやるべき事がある。ドルマゲスを追わなくちゃ。そのために苦労してこの船を手に入れたんだもの」
「オレ達がいた東側の大陸にはもうドルマゲスはいなかった。となれば、だ。海を西に進めばどこかで奴の足取りがつかめる。だろ? エイト」
「そうだね。まずは向かってみてみないとだけど……」
盛り上がっていたゼシカさん達だが、エイトさんの言葉が途切れたのを見て首を傾げた。
「リツさん」
「さすがに操船技術は持ってないので、動かし方は不明です」
『ですよね』という顔でエイトさんも船体を見回す。他の面々は『あ』という顔をしている。
うっすらね『このまま行こうぜ!』ってノリで話してるなと感じてはいたけど。まさか船の操作について何も考えていないとか……誰か操船技術に詳しいからとか……ないですね。知らないという顔ばかりですね。
「確証はないんですけどね。あれを見てもらえます?」
言って船の中央、メインマストに相当するであろう柱の、上の方でクルクル回っている風見鶏みたいな奴を指差す。
「あれで動力を作り出しているみたいです。イシュマウリさんが最後に力を注いだみたいですね」
手押しポンプの呼び水みたいなものだろう。一度動き始めたアレから持続的に力が船体へと流れている。
「動力はあるみたいなので、あっちの舵でどうにか動かせるのではないか。と、推測までしたところです」
どっちが前でどっちが後ろなのかよくわからない箱型の船だが、一応舵は片方側についていた。
エイトさんが早速舵に近づいて、とりあえず握ってみた。
すると、船は滑るように海上を走り始めた。その安定した航行に歓声が上がるが、あんまり楽観視出来ない。
「岩礁にぶつかったら一発で沈没または座礁ですけど、大丈夫です?」
姫様に断って舵の傍までいって小声で尋ねると、エイトさんは頷いた。
「危険なところへは進めないみたいです。この船、普通じゃないと思います。進むにしろ止まるにしろ、僕の意思を読み取っているようですし」
何その高性能。現代の船だってそこまでの機能ないぞ。
「えーと、じゃあ現在位置の特定とか大丈夫ですかね? 星座とかそういうの全くわからなくて」
「それなんですけど、見てください」
舵の前方を示され、視線を移すとそこには古めかしい地図があった。
「陸の形が少し違いますが、世界地図だと思います。そこに船のようなマークがあるんです」
言われて見れば確かに船のようなマークが、ゆっくりとだが動いている。急ぎ馬車の中から地図を取って戻り、古い地図と照らし合わせてみる。
「……ちょうど荒野の南あたりですね」
場所的に現在位置を示すもので十中八九合っているのだろうが、推進力自動生成かつ危険自動回避かつGPS付きって、どんだけ機能ぶち込んでいるんだ。以前乗船した船にはそんなものなくて普通に帆船だったから、これが高性能過ぎなのだろう。所謂、この世界のオーパーツ的な代物といったところか?
船の操作が出来そうなのは喜ばしいが、それはそれとして問題が残っている。私もテアーの件でテンパっていたとはいえ、やっちまった感があって現実逃避していた。
「エイトさん。どうしましょう」
「どうしたんです?」
「月影のハープ、アスカンタの王様に返してません」
エイトさんは舵を握ったまま数秒沈黙した。エイトさんも失念していたようだ。
「……一応、いただけるという話ではありましたが……………………謝ってきます」
すんません。ほんと、すんません。ハープを取り戻した時、話を切り上げることに意識が向いててすっかり忘れていたのだ。
「早い方がいいですね。兵を集めていましたから」
「なら、あそこに少し停泊しませんか?
建物が見えますし、あれを目印にしてルーラで飛べば早いです」
「そうですね。そうしましょう」
エイトさんにしては珍しく焦った感じで舵を切った。
いや、そりゃまぁ焦るか。国宝借りパクしたようなもんだし。どうしよう、投獄とかされたら。国際問題になりそうだけど王に人間姿で交渉してもらうか? 余計に問題が大きくなる気しかしない。だめだ。考えるのは止めよう。碌な想像しかしない。エイトさんに任せよう。
「えーと、ではその間、私は物資の調達をしてますね。航海にどの程度かかるのかは……」
「以前サザンビークに使節団が向かった時には二週間程度の移動日程だったと思います」
「サザンビークっていうと……西の大陸の国ですね。陸地移動も考えると、船での移動日程は長くても一週間ぐらいですかね」
どっかで聞いた国だなと思いつつ、地図で場所を確認し旅程を考える。単純に西の大陸を目指すならその程度でいいのだろうが、あちこち行くならもう少し余裕が欲しいとこだ。
別の大陸に移動すると聞くと、もっとかかりそうな気がしてしまうが、やはりこの世界は私の世界とは規模が違うのだろう。重力とか惑星の形とか気になるが考えてもしょうがない。
「基本的には二週間程度の支度を整えるようにしておきますね」
水の事を考えなくていいのはかなりでかい。食料だけでもまぁまぁな量にはなるが水もとなると、管理できる自信がない。
そういえば、酢漬けとかあるだろうか? 見たことがないので自前で作らないとないかもしれない。
他にも必要なものがあるか確認するため、エイトさんに断ってから船内に入る。
中は思ったより普通の船で、客船だったのかきちんとした個室がいくつかあった。調理場らしきところもあり、火を使っても問題なさそうだ。寝泊まりのことを考えるとまずは掃除で、その後寝具を整えた方が良いだろう。
そう考えながら、まだ確認していない最後のドアを開けると予想外の物体がいた。
「あ、テアー」
「へへへ。僕らも乗っちゃった」
「驚いてる驚いてる」
「やったねー」
キャイキャイ言って飛び跳ねているのは、船まで先導してくれたスライム達だった。
何でここにいるのか、というのはおそらく言葉通り驚かせる為なのだろうが……
「船に乗っちゃったら、今までのところから随分離れちゃうよ? 大丈夫?」
「へーきへーき。僕らはねぇ、ちゃんとかんがえてるんだよ」
「るすばんをしてあげるの」
「誰もいないと困っちゃうでしょ?」
「でしょー」
「僕たちあたまいいよねー」
そういえば、普通は船員が大勢いるので考える必要も無いが、私たちの場合船を離れる際に誰かが残るというのは現実的では無い。
かといって、スライム達にそれが出来るとは思えない。気持ちはありがたいが、誰かがやって来た時に魔物では討伐されかねない。さらに言えばスライムでは戦闘能力に限界がある。
わらわらと周りで跳んだりふよふよ揺れたりしている彼らを眺めながら考えるが、あまりいい案は浮かばない。次善策程度なら浮かぶが。
取り敢えずその辺のことも相談する必要があるので、スライム達がいる事を他のメンバーに話しておく。まぁ話す前から私にじゃれついている状態なので、見ればわかるとククールさんには言われたが。
そうこうするうちに小さな島の桟橋に近づき、これまた自動で架け橋が下された。