ゴールデンウィークも明け、中学生活にも慣れてくる時期だろうか。授業中の教室は緩んだ雰囲気が漂っていた。入学当初の緊張感から開放され、教科書を読むフリをして隣の席の友人と筆談をしたり、眠たげな眼で船を漕いでいる生徒の姿も見える。大多数は真面目に授業を受けているが。
「マイナス同士の足し算は、マイナスを付けて数字同士を足す。大丈夫か?よーし、この問題を解いてみよう」
懐かしの中学時代の恩師の授業である。しかし黒板の前で話している先生には申し訳ないが、ボクは持ってきた小説を読んでいた。生来の影の薄さと『視線誘導』の技術を惜しげもなく使用し、ときに教科書や文具の影で、ときに机の下でと連日のように小説を読み漁る。正当化するつもりはないが、さすがに分かりきった中学の授業をもう一度受けるのは苦痛だった。
「じゃあ次の問題は……」
この先生の指名する順番で、次はボクの番か。しかし、わざわざ面倒な発言などするつもりはない。最小限の動作で先生の視線を隣の席へ誘導。目論見どおりに隣の席の女子が指名される。
さて、これで安心して読書に励める。この本ももうすぐ読み終わるし、放課後にはまた図書室に行かないと。せっかくだから高校の予習でもしておこうかな。こんな風に、意外と授業中も充実しているボクであった。
そして放課後。教室中に響くように女子の声がした。
「すみませーん。黒子くんっていますか?」
その声に振り向いたクラスの男子の目がそこに釘付けになった。そこにはよく知った顔があった。元帝光中マネージャーの桃井さんである。いや、この時代では元ではないが。
記憶にある印象とは違い、この頃の髪型はポニーテイルにしていたようだ。少し幼い様子が過去に来たんだと思い出させる。小さく手を上げて彼女の前で挨拶をした。
「あ、ボクです」
「え?……ふわあっ!!」
急に目の前に現れたボクを見て奇声を上げる。上から下まで視線を動かしたのち、驚いた様子でパクパクと口を動かした。こんな弱そうな選手が、と困惑しているようだ。そういえば、この間の試合のときはいなかったか。
「え、えーと。今日から一軍に合流です……よね?第一体育館に案内します」
「はい」
どうやら図書室に行くのは明日になりそうだ。
先日の試合で、ボクと灰崎君は一軍への昇格を果たしていた。桃井さんに連れられて、一軍専用の練習場へと向かう。灰崎君はクラスが別なので、別のマネージャーが呼んでくるそうだ。もちろんボクにとっては、案内されるまでもなく知り尽くした場所だけど。道中はひたすら困惑したままの桃井さんに質問攻めにされていたが、すぐに古巣の第一体育館に到着した。その扉は記憶と寸分足りとも変化がない。
「じゃあ、ここが一軍専用のコートだよ」
桃井さんの声に頷いて、ボクはその扉を開け放つ。その瞬間、ボクの網膜には未来の強敵たちの姿が幻視された。
「おっ、来た来た」
『DF不可能の点取り屋』と呼ばれ、天衣無縫のスタイルで最強の攻撃力を誇ったPF。青峰大輝は楽しそうに笑う。
「ええー。昨日も見たけど、何か弱そう」
あまりに恵まれた身体能力(フィジカル)は、ただそれだけで有象無象を踏み潰す。高さと速さと強さを兼ね備えたC、紫原敦は失望を込めてつぶやく。
「……これが本当に、帝光中の切り札になるのか?」
百発百中という表現すら生ぬるい。フォームを崩されない限り必中の精密機械。完全なる3Pシューター、SGの緑間真太郎は怪訝そうな表情で眼鏡を触る。
「やあ、待っていたよ。黒子くん」
かつて帝光中の『キセキの世代』を率いた主将。その支配力は味方だけでなく、敵にまで及ぶ。全てを見抜き、見透かし、支配する脅威のPG。赤司征十郎は普段通りの平静な様子で手を上げて挨拶をする。
「ようこそ。帝光バスケ部一軍へ」
3年の主将が重々しい様子で口を開く。
「そして、肝に銘じろ。今、この瞬間からお前の使命はただひとつ。――勝つことだ」
申し訳ないが、その信条には賛成できない。だが、問題はないだろう。結果的にはそうなるのだから。静かにボクは頷いた。
「おっし、待ってたぜー。練習始まる前に1on1しよーぜ」
色黒の少年がボールを持って楽しそうに駆け寄ってきた。
「ええと、青峰君?」
「あれ?知ってんのか。オレは青峰大輝だ、よろしくな」
「黒子テツヤです。よろしくお願いします」
コートに誘われ、ボクは彼からボールを投げ渡される。
「昨日の試合見てたぜ。レギュラー相手に勝つなんてすげーじゃん。オレとも勝負してくれよ」
期待に目を輝かせるその姿に、ボクは過去の彼を思い出し、ふっと表情が緩んだ。
「いいですね。やりましょう」
「よっし。そろそろ練習も始まるし、5本先取な」
ゆったりとドリブルを開始する。まっすぐに青峰君の瞳を見つめ、この時代では初めての対戦を楽しんだ。もちろん、結果は言うまでもない。
数分後、ガラリと体育館のドアが開けられた。同じくマネージャーに連れられてきたのは、灰崎君だった。館内に入るやいなや、床にへたり込むボクに声を掛ける。
「何してんだ?早くも疲れ切ってるみてーだけど」
怪訝そうな面持ちの灰崎君に、無言のままボクは顎でコートを示す。そこには呆れた様子の青峰君が頭をかいていた。
「あー。何か弱いものイジメみたいになっちまったな。どうなってんだ。いくらなんでも」
「はは、わかったわかった。ってか、何でオマエいっつも1on1勝負受けんだよ。負けんの分かってんのに」
納得顔で灰崎君が笑った。
「勝ち負けじゃなくて、人間観察したいんですよ。対面して初めて分かることもありますし」
「せっかく一軍に来たんだ。仇くらいは取ってやるよ」
好戦的な笑みを浮かべて、彼は青峰君の佇むコートへと這入っていった。その不敵なまでの自信は、あの才能のためだろう。
「よお、テツヤ程度を倒して良い気になられちゃ困るな。今度はオレと勝負しようぜ」
「いや、別に良い気にはなってねーけど。まあいいや。灰崎、だったよな。望むところだ」
青峰君の雰囲気から、ボクとの対決で緩んだ気配が消える。次第に集中力が高まっていく。互いに一年同士。将来『キセキの世代』と称される程の逸材同士でもある。今の時期の青峰君では比べ物にならないが、それでも一般のレベルでは十分に才気溢れていた。ボールを保持したまま、目線とボディフェイクで揺さぶりを掛ける。
「へえ、やってみな」
それに対して余裕を見せる灰崎君。先攻を譲り、ゆったりと腰を落として待ち受ける。その自信の源はその埒外の能力『強奪』を持つがゆえなのか。
「青峰が抜いたっ……!?」
右と思えば左。ストップと思えばゴー。ボールを大きく動かし、トリッキーに相手を翻弄する。その天衣無縫の軌道はストリート仕込の技術だった。
「チッ……やるじゃねーか」
悔しげに灰崎君が呻く。動物的なカンと身体能力によって慌てて追いすがろうとするが、崩された体勢では如何ともしがたい。先取点は青峰君のものとなった。
「おおっ、青峰が取ったぞ!」
観戦している先輩達から声が上がる。どうやら1年同士の対決を楽しんでいるらしい。練習時間前だからか、特に監督も止めるつもりはなさそうだ。雑談をしながら皆がこちらを眺めている。
「次はそっちの番だぜ」
興奮した様子で青峰君はボールを渡す。それに対して灰崎君は獰猛な笑みを浮かべたままだ。ギラついた瞳で睨みつけ、ぺロリと舌なめずりをする。
「いいねえ。その技、欲しいな」
余裕の態度で受け取ったボールを指の上で回し、愉しげに笑う。訝しげに眉根を寄せる青峰君だったが、もう警戒しても遅い。すでに彼の前で、自身の『技』を見せてしまった。
――灰崎君の固有スキル『強奪』はその全てを奪い取る。
「さあて、虐殺の始まりだぜ?」
左右に大きくボールを動かすトリッキーなドリブル。同時に前後にも身体を振り、相手を翻弄する。これは青峰君のドリ――
「あれ?」
彼の手からボールがすっぽ抜けた。
唖然とした表情で固まる灰崎君。直後、どっと笑い声が起こる。
「あははははっ!無理して真似しようとすんなよ!」
「そういや、昨日の試合でも虹村の真似してたよな。何だよ、この間のはマグレじゃねえか」
お調子者扱いされ、灰崎君の顔が次第に怒りが現れ出した。ブルブルと身体を震わせて、殺気を込めて青峰君を再び睨みつける。
「……次はそっちの番だぜ」
「お、おい。八つ当たりすんなよ。勝手に真似しようとしたんじゃねーか」
「ぶっ潰す」
しかし、固有スキル『強奪』を狙いすぎたせいで視野が狭くなり、あっさりと敗北するのだった。
ボクの観察したところ、やはり現時点では『キセキの世代』と呼ばれる才能はまだ開花していないようだ。高い身体能力やストリート仕込みの技術はあるが、あくまで常識の範囲内。未来の青峰君が有する埒外の固有技能『型のない(フォームレス)シュート』はおろか、常人の括りを超越した『敏捷性(アジリティ)』ですら、いまだ使いこなせていない。いや、気付いてすらいないようだ。それについては以前の歴史と同じである。
だが、灰崎君は違う。先ほどの1on1。一見すると失敗に思えるが、しかし彼は青峰君のドリブル技術を盗んでいた。いたはずだ。でなければ、あの驚いた顔の理由が付かない。
『強奪』には二つの工程が必要となる。ひとつは相手の動きを盗む観察眼。そしてもうひとつ。他人の身体の動きをそのまま模倣することは非常に困難である。盗んだ動作を自己流にチューンし直し、最適化すること。それによって、他人の技を奪い取り、使いこなすことが可能となるのだ。おそらく後者がまだ不完全なのだろう。
灰崎君の開花はすでに始まっている。
「これでラストだ!全員集合!」
そんなことを考えていると、ようやく地獄の練習が終わりを告げた。現実逃避であった。小学生時代に体力だけはつけておいてよかった。そうでなければ、今頃は間違いなく倒れていただろう。筋力や技術が伸びないのは分かっているので、とにかく体力作りに専念していたのだ。おかげで中学1年のボクでも練習にはついていける。もちろん、シュートやドリブルのミスを連発して先輩達に怒られたが。
「知っていると思うが、全中の予選まであと2ヶ月を切った。ここからは一層厳しい練習となる。全員、心して取り組むように」
主将の号令でコーチの元へ集まり、チームの士気を引き締めるように鋭く言い放つ。
「同時にレギュラーもこれから決めることになる。実力があれば1年だろうと試合には出てもらうぞ。これまで以上の奮起を期待する」
ざわりと、場の空気が揺れた。上級生は負けられないと、新入生は下克上をと、それぞれ決意を新たにしたのを肌で感じる。
「それでは!今日は最後に5対5のミニゲームを行う!」
まずはAチーム。コーチに呼ばれたのは、3年の先輩達を主体としたメンバーである。現スタメンの多くがそこに含まれる。
「では、次はBチームのメンバーだ」
まずは同じくレギュラーの3年生がビブスを渡される。しかし、その後のメンバー構成は明らかにある意図を持っていた。予測不能の期待と不安が混ざった表情で、コーチは言葉を続ける。
「赤司征十郎、青峰大輝、灰崎祥吾……」
わずかな驚きを顔に浮かべて、コーチは辺りに視線をさまよわせる。そして、一拍を置いて、言い放った。
「――黒子テツヤ」
はい、と返事をしてビブスを受け取る。得体の知れないものを見るような眼で、間違いなくこれまでの人生で未体験であろう選手を前に、コーチは固い表情で口を開いた。
「どうやら、お前の真価は練習では測れないようだ。レギュラーを獲りたければ試合で示せ。どれだけスペックが劣っていようと構わない。帝光は勝利が全てだ。結果を出せば文句などあろうはずもない」
「わかりました。何の問題もありません。光が多ければ多いほど、影は色濃くなりますから」
ただただ当然といった調子で、何の感情も見せずに淡々と声を返す。気負いも不安もボクの内心には欠片も存在しない。当たり前の結果に落ち着くことを確信しているからだ。記憶の中にある彼らよりも大分幼い様子の仲間達に視線を向ける。
ボク自身は見えなくとも、結果は見せてあげますよ。光り輝く鮮烈な、圧倒的な勝利という結果を――