ヴァルハラの乙女   作:第三帝国

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第三者から見たバルクホルンの話、今回はどこぞの国民的作家視点です。



幕間の魔女「騎士鉄十字の家系」

バルクホルンはその確実な家系をゲルマニア騎士団まで遡ることができる古いユンカーの家柄である。

 

その傍証は騎士とウィッチがことごとく死した1410年のタンネンベルクの戦いの後、

生き残った数少ない騎士とウィッチに対し支払われた給料支給記録においてフォン・バルクホルンの名を確認できる。

 

「ユンカー」

 

という言葉を扶桑語で直訳すれば貴族または地主貴族になるが、その実態は、

 

「武士」

 

と表現するのがより正しい。

それも太平の世で世襲官僚化した織田幕府時代の武士ではなく、

あり方は自ら荘園を経営し、戦に馳せ参じる鎌倉時代の坂東武者に近かった。

時代が資本主義、産業主義に向かうにつれて大部分が困窮化していったことも武士に似ていた。

 

余談だが、筆者は最近東プロシャに旅行した。

カールスラントでも北の辺境、土地は貧しく、冬は白夜が見える北の厳しい大地である。

が、数世紀にわたって開拓を続けた結果、カントをはじめとする著名な文化人を数多く生み出した歴史ある土地である。

同時に長年の困難が、命令に対し絶対的な服従を誓う軍国プロシャ王国の精神的気風を育てたのがその特徴といえる。

 

そして、このあたりにユンカーが多い。

ユンカーというその本来の意味は、

 

「若殿」

 

という意味らしい。

侯爵や伯爵の息子たちがゲルマニア騎士団に属して騎士として戦ったいたからだそうだ。

ゴトフリード・ノルディング・フォン・バルクホルンもそんな若殿の子孫の末裔であるため、同時代のあらゆるひとびとから、

 

「最後のプロシャ騎士」

 

とか、厳つい顔立ちからフレデリック大王時代の豪傑極まる騎兵将軍ツィーテンの再来などといわれた。

 

しかし、本当はどうなのであろう。

事実かれは代々軍人の家系にも関わらず、軍人になろうというきもちはまったくなかった。

 

かれが東プロシャでおくった少年と青年時代。

顔と名こそ厳ついが、その実おだやかで心優しい惣領息子であったにすぎない。

事実、かれは読書と庭いじりを愛し、戦火の後には晴耕雨読の日々を夢見ていた。

 

「あの人は戦争が無ければ、大尉あたりで予備役になって、どこかの大学の優しい助教授になれただろう」

 

と、義妹のゲルトルート・バルクホルンは、

メッケル少佐が関ヶ原合戦図を見て「西軍の勝ち」と断言したように、親しい人にいった。

 

しかし後年まさかこの優しい助教授の妻に自分がなろうとは、夢にもおもっていなかった。

戦時中、エーベルトから義兄と許嫁ないし、婚約を勧められた際には大いにおどろき、

 

「とつぜん、清水の舞台からとびおりるよう、いわれた気分」

 

と、扶桑人の坂本と宮藤に自身の動揺を扶桑の諺と共に語った。

相手が同じ騎兵将校か、この辺のいきさつが秋山好古に求婚された多美に似ている。

 

はなしは、もどる。

 

騎士団幹部の大半、騎士団総長すらも戦死を遂げた悲惨極まる戦いを生き延びたのは大変な幸運であり、

人は戦いに参陣したバルクホルンのウィッチに何らかの特異な固有魔法を有してあったかのように考えがちである。

(実際、今日においてはウィッチとして数々の奇跡を成し遂げた宮藤芳佳の例を挙げて、そう結論づける者は多い)

 

だが、それ以降において、まったく名を残しておらずそれは否定せざるえを得ない。

たとえ、特異な固有魔法を有していたとしても、それだけで戦場を生き延びるのはむつかしい話だからだ。

次にバルクホルンの名前が出て来るまでに、長い中世の停滞から抜け出した時代、近世初頭までまたねばならない。

 

しかしそれも男は傭兵ランツクネヒトの中隊長として、女は古参兵ウィッチとして名前が出る程度である。

要するに戦乱の世において、ならず者たちを率いて、戦争という商売をしていたに過ぎないらしい。

 

しかし、1640年に一つの転機が訪れた。

 

後年、数で勝り、当時最強とうたわれたバルトランド軍を独力で倒し、後に大選帝侯と称えられる君主、

ブランデンブルク選帝侯の位を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルムが指揮する常備軍の幹部将校団の一員に加わったのだ。

 

そして、ここからバルクホルンの歩む道が定まった。

男は将校として、女はウィッチとして歴代に渡ってプロシャ王国へ仕えるようになったのだ。

 

バルクホルンの名が一躍有名になるのは、1756年の七年戦争だった。

騎兵将校ゲルハルトと義妹にしてウィッチのルイーゼがロスバッハの戦いで騎兵突撃の一番槍を果たしたのた。

 

プロシャ軍は約2万、対するガリア、ザクセン、オストマルクの連合軍は合計5万。

その大軍の真正面から騎兵突撃を敢行して、これを成功させたのだ。

 

「バルクホルンは男女ともに、騎兵将校の平均をはるかに超えるまで馬術に習熟し、命令には忠実で、部下の扱いがうまい勇者」

 

と、騎兵将軍ツィーティンが手放しで誉めちぎったように、

現在に至るまで巷で言われている「勇武のバルクホルン」の原型がここで既に完成された。

 

義妹のルイーゼも気難しいことで知られるフレデリック大王からの覚えもよく、

自身の身辺を警護する近衛ウィッチとして昇進を打診され、家門の将来は安泰のはずだった。

 

しかし、ルイーゼは栄達よりも義兄の妻、家庭の実質的支配者の地位を選んだ。

ゲルハルトも戦後は軍や宮中での栄達よりも、義妹の夫であることを選び、自らの領地へ引きこもった。

 

普通なら、バルクホルンの軍事的栄光はここで終わりである。

だが2人の間に出来た子供や孫たち、その子孫はプロシャ王国が関わる戦争の全てに参加した。

 

(中略)

 

対してゴトフリードの父は戦争を好まぬ人物であった。

だが商売に関して才があり、多くのユンカーが経済的に没落してゆく中で逆に資産を増やすことに成功した。

 

しかも増やした資産を惜しげなく慈善事業や、領民の生活向上に投資していたため、名士、君子人と誰からも慕われた。

母もそんな父に似合いの人で、たいへん明るい質を持つ、常になにかを愛さずにいられない女性であった。

 

結果、かれはユンカーの世継ぎというよりは、

適度に裕福な商家の頼りなげな惣領息子と呼ぶのがふさわしい、人柄のよい人物となった。

 

かれの悲劇は軍人になってしまったことである。

しかも、人柄とは裏腹に外見はまったく厳つかった。

悪くいえば馬鈴薯のようだと評し、良くいえば勇武の相だといわれた。

 

ゆえに、かれはそうした評価にあわせて生きなければならなかった。

特に先祖代々が勇武をもって知られる家系であるから、それに従わざるを得ず、そうなった以上はそう生きねばならなかった。

 

とはいえ、かれが軍に入った当初、欧州は未だ平穏そのものであった。

扶桑海事変が勃発した時も叔父が指揮する槍騎兵連隊で平時の将校として勤務していたに過ぎない。

 

だが、その叔父がまったくの親心からかれの将来を再度決めてしまった。

 

「これからの時代は戦車だ」

 

騎兵将校として教育を受けてきたかれは、そのことでまた面食らうことになった。

 

今日でこそ、戦車こそ陸戦の王者で騎兵の末裔という立ち位置であるが、

当時、戦車とは最新兵器でありながらも未だ海のものとも、陸のものとも区別がつかないゲテモノであった。

 

そもそも第一次ネウロイ大戦の最中に開発された戦車とは、

 

「陸上戦艦」

 

という発想で生み出された。

くわえて、この開発を後押ししたのは海軍大臣のウィンスト・チャーチルであった。

つまり、陸戦兵器でありながら、潮のかおりが漂う異質同体、それが戦車であった。

 

正直なところ、叔父を好くべきなのか憎むべきなのか、かれにはよくわからなかった。

相手が善意に満ているぶん、始末におえないからだ。

 

そんな最中、かれの実家に遠戚の少女が新しい家族としてやって来た。

 

ゲルトルート・バルクホルン。

 

後に第501統合戦闘航空団、通称ストライクウィッチーズの部隊創設に携わり、

ネウロイの巣を破壊、しかも複数回関わった上に自身も世界有数の偉大な撃墜王として君臨することが約束されていた。

 

この時ゲルトルートは親と兄弟姉妹を妹のクリスを除き、全てを亡くした孤児に過ぎなかった。

しかし、世界が戦争という暗い波濤へ乗り出しつつある時代、騎士鉄十字の家系はその準備を整えたのであった。

 

 

※福田定一著「騎士鉄十字の家系」(東京広告技術社刊)第三版より引用

 




関ヶ原の話はやっぱり外せない(確信)

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