殆ど動かす事の出来ない体。自由に出来るのは、皮肉にも一番正常に動かない筈の右腕だけである。こんな事をしておいて、俺は、右腕を守りたかったんだろうか。人生が終わろうとしているこの瞬間に、手があっても意味が無い事は分かっていた。
霞む目で、右手を見てみる。無傷でも力なく痙攣するこの腕を、俺は――。
「高くん!」
不意に耳に入った声を、聞き間違える事は無い。天ちゃんだ。
返事をしようとして、口に溜まった雨水と血が絡んで咳き込んでしまう。
「無理してしゃべらなくていい。酷い怪我だ、どうしよう。このままだと高くんが死んじゃう……。」
焦る声を落ち着けるように、天ちゃんが俺の右手を握る。握られたからか、多少の温かさで症状が和らいだのか、右腕の震えが弱くなる。
それとも衰弱なのか。
天ちゃんが一層に握る力を強くした。
「誰が高くんにこんな事を!」
怒りに燃える天ちゃんの声を聞いて、死にかけだった俺の意識が戻って来る。
今、なんと言ったか。まるで、俺以外に悪党が居るような口ぶりだった。そして、俺は思い出す。
姉さんは俺の目の前で目を覚ました。
事情を知っていそうな親友はまゆっちと一緒だった。
いや、考え過ぎだ。俺が修羅に堕ちた事を知らない訳がない。その筈だ。
駄目だ。わからない。俺は一番近しい人の考えが分からなかった。最早、思考を巡らせる程に意識を割く事が出来ない。
痛みが思考を乱し、血が頭へと十分に回らない。
「天ちゃん……。」
「大丈夫だから、絶対高くんを死なせたりしないから。」
漸く声を出す事が出来た。雨音に消される程のか細い声だが、天ちゃんの耳には届いたようだった。
懸命に、俺を運ぼうとする天ちゃん。だが、俺の体を引きずる事すら、天ちゃんの力では難しい。
「いいんだ、俺は見捨ててくれ。」
「良いわけがない!亜巳ねえや辰ねえ、リュウも紗由理さんだって、まゆっちも委員長も、皆が待ってるんだ。だから一緒に帰ろう!」
待っていて欲しかった人。それを全て振り切って、俺は此処に居る。
今の言葉で確信を持った。天ちゃんは何も知らないのだろう。姉さんの事も、俺の事も、知らずに此処に来たんだろう。
だとすれば何故、天ちゃんは来たのだろうか。
「俺が、何をしたのかは知ってるのか?だったら……。」
「理由なんて、後で探せばいいだろ。高くんがどっか遠くに行ってしまうよりはよっぽどマシだよ。」
天ちゃんの手が頬に触れる。
小さい手。手が次第に肩に回り、ぼんやりと天ちゃんの顔が近づいてくるのが分かった。
そして、抱きしめられながら、天ちゃんは俺の耳元で、はっきりと告げる。
「返事、しに来たんだ。」
足元に亀裂が走る。俺は、天ちゃんにだけは逃げてほしくて、声を上げようとした。
でも、その口は、何かに塞がれて、言葉を紡ぐことは出来なかった。ままならない呼吸すらも遮られ、俺の意識は薄れていく。
「高くんが好きだ。ウチも好きだ。絶対に一人になんかさせない。だから絶対助けて見せる。」
足場が崩れ行く中で、俺はその言葉を聞きながら、天ちゃんと共に落ちていった。
川の流れ、その勢いは衰える事を知らない。
そこへ落下するのは、天使と、気を失った高昭。ありったけ、天使の持てるありったけの気で作り出した球体は、二人を包み、落下の衝撃を防ぐ。川に沈むことなく流される球体。だが、天使には、激流から脱する術は無い。
高昭にまだ脈がある事を確認すると、天使は、気の操作に集中する。天使の技量では、これだけの規模で扱うだけでも精一杯だった。
どこまで流されるのか。どうすれば助かるのか。天使は考えなしであったが、それでも高昭を助ける為にはこれが最良であったと断言するだろう。
「思えば、守ってもらってばっかりだな。」
天使は、気を失っている高昭に語り掛けるように口を開いた。
「梁山泊の時は二回か。昔っからだよな。初めて釈迦堂さんに会った時も、前に出て庇ってくれてたっけか。なあ、もしかしてその時から好きだったのか?」
周りから天使の耳に聞こえるのは、ごう、という川の音と、雨の音だけだった。高昭の弱弱しい呼吸音は、それらにかき消されている。
「黙ってると、気が滅入ってしまいそうなんだよ。ずっと一緒だったから、居なくなるのなんか想像出来なくて。」
密閉空間の中。高昭から流れてきた血が、天使の靴に染み始める。
加えて、体温が下がっている。それは、高昭だけではない。天使も、雨に晒され続けて来た弊害が出てきている。
このままだと命を繋ぎとめるのに猶予は無い。高昭にとって自分自身が、唯一許されていた行動は、自らが命を絶つ事だけ。それは、気を失っても尚、自らを縛り付けていた。
だから、無意識にでも、由紀江に付けられた切り傷で死ぬ事を拒絶する。
気の維持にこれ以上なく集中していて、それ以上の行動は天使の許容量を超える行動である。だが、無理をしてでも、体温を保つために天使が右腕に炎を出し――高昭はその腕を掴んで、自身の切り傷を焼いて塞ごうとした。
「――っ!」
「何やってんだよ、バカ!」
気を失っていた高昭が起き上がった事も、自らを焼いた事も、天使にとって予想だにしていない事。気の制御が揺らめいて、バランスを崩す。
しかし、展開した球体は直ぐに安定した。痛みで、目を覚ました高昭が、補助し、体に残った少ない気を用いて補強しているからである。
「天ちゃん、焼いて、傷を塞いでくれ。」
「そんな死にかけで何言ってんだ。出来る訳が……。」
「大丈夫だ。」
高昭は、天使に向かって微笑む。
「だって、やっと生きる理由を見つけられたんだ。いいや、生きる理由は貰っていた筈なんだ。気付かなかっただけ。きっと生きてみせる。そうさせてくれるのは、天ちゃんだから。」
笑顔を見せようとする高昭。だが、その顔には、まだ不安が隠しきれていない。家族から無条件の愛を受けられなかった高昭は、他人から受ける愛への答えを待ち合わせていなかった。だから、家族にしてきた以上に、望まれる行いをしなければならないという妄想に取りつかれていた。
今ここで、高昭は死ぬ訳にはいかなかった。誰に止められても振り切ってきた筈の行動は、天使の前で行う事が出来なかった。
死では無く天ちゃんによって俺の人生が報われるのなら、と高昭は考える。
しかし、天使の返答は、高昭の想定したものとは違う。
「だったら黙って見てろ。ウチが助ける。」
握られていた腕を剥がした天使は、未だに座った体勢の高昭の頭に手をのせる。
「守られる側だって、偶には悪くないかもだぜ。漸く回ってきた手番なんだから、ウチに全部任してくれよ。」
その天使の言葉に言い返そうとして、しかし高昭は反論の言葉を紡ぐ事は無かった。ただ小さな声で――そうか、と呟く。
「なあ天ちゃん。」
「どうした?」
「子供の頃、姉さんの行動があって、きっと天ちゃんは俺に会う前から姉さんに好意的な感情を持っていたと思う。きっと俺に対しても悪感情は無かったと思う。」
「まあ、間違っては無いな。」
「誰かへの感情に、その誰か以外の、なんらかの要因が好意を向け始めた理由を占める時、それは呪いだと思うか?」
それは、天使に向けての言葉では無かったのかもしれない。家族という言葉に縛られる高昭自身への言葉でもあり、しかし純粋な天使への疑問でもあった。
同時に、何気ない言葉が高昭の歪みである。天使がその事に気づく事は絶対にない。気付けないが故に、天使は高昭の傍に居る事が出来る。一番関心を持っている筈の天使は、高昭の心に潜む闇への鈍感さがあってこそ、高昭にとって一番の理解者である。
「ガキの頃は覚えてないし、今好きなのは今の高くんだから。ずっと好きなままで居られるのって、絶対、高くんだから、としか言えないし呪いだとしたら随分と弱っちいんじゃないかな?」
「そっか。」
きっと天使の答えは、万人が肯定をするものではない。
高昭にとって、血の呪縛は煩わしかった。だが、それは家族への好意が消えない事ではない。どんな仕打ちを受けようと、高昭はずっと家族が好きで、皆を好きで居続けた。常人には異常と思われても、好きでいて良いという免罪符を、高昭は欲しかった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、高昭が望んだのは、くだらないと吐き捨てられてもおかしくないちっぽけなプライド。殆ど壊れたアイデンティティのたった一つ。家族や友人、板垣の皆、そして天使への感情がきっと愛だったのだろうという漠然とした、何処からか来た高昭本人が持っていた自信。
天使の瞳に映る、死にかけの高昭の姿は、どこか幸せそうだった。
「もういいか高くん。頼むから安静にしてくれ。ウチも気が気じゃないんだよ。」
「どうだろうな。」
曖昧な高昭の言葉を聞いて、天使は溜息を吐く。
「何かしたくてしょうがないってんなら、高くん。ウチの事を名前で呼んで。高くんになら呼ばれてもいいから。」
うるんだ瞳で、天使は高昭を見つめた。それは演技でもなく、天使にとってこの状況は決してふざけた態度が罷り通る場合ではない。その天使の言葉は心残りだったのかも知れない。
高昭は、天使の頭を右腕で撫でながら、やんわりと断る。
「それは、急きすぎだ。時間は、これから作っていけばいい。」
「ヘタレか、この野郎。」
「なんとでも言ってくれ。」
互いに柔らかな笑みを浮かべる。そして、天使はその笑顔を見て、いつの間にか疲れも、不安も無くなっていた。何もしてなくとも、天使にとって高昭が一番の精神的な支えになる。だから天使は絶対に、高昭の命の灯は消させはしない
この一帯へと辿り着いたのは、天使だけではない。
天使より少し遅れて、川下からやって来たのは、紗由理と亜巳であった。二人は、橋の一部が落下し、川に流される何かを目視していた。
明らかに橋の一部とは言えない丸い物体。その中に居るのが高昭と天使である事は、長年同じ時を過ごした二人には分かっている。
「あれを引っ張れば、川から引きずりだしさえすれば!」
「だけどどうするんだい。これだけ増水してたら泳いで引っ張るのは無茶だ。」
此処に居るのは、丹田を封じられて普通の人間と同等の力しかない紗由理と、そもそも一般人の亜巳だけである。
助ける為の策は限られている。二人程度の力で出来る事は少ない。だからと言って、最善を尽くすのは、紗由理にとっても亜巳にとっても当然の事。
「下流の橋を壊して引っかけるか。」
「駄目だね。高昭くんも天も、きっとそこまで持たない。」
紗由理の提案は、亜巳に却下された。天使の状態は知らないとはいえ、高昭は違う。紗由理と戦っていた時点で高昭の傷は既に身体活動への影響を及ぼしかねない程の怪我をしていた。
他の方法を模索するまでも無く、紗由理は固く目を瞑り、そして川を睨む。
「私がやるわ。」
一歩、紗由理が前に出た。全くの素人とは言えないが、この場を打破する達人並みの実力は無い。
それでも、紗由理は川の淵に立って、鎖鎌を構える。責任がある。義務がある。何よりも、高昭へ本心を伝えるという誓いを果たす為には、紗由理が自分自身で助けるという行動で示さなければならない。
「チャンスは、たった一回ね。」
「こういう時に黙って見ているだけなのは歯がゆいね。」
「でも亜巳は、私たちを精神的に支えてくれているじゃない。居てくれるだけで、少し心が軽くなるから。」
二人は押し黙る。もう少しで、本当に最期のチャンスが終わってしまう。一度の失敗は救出の失敗に直結する。目の前を通り過ぎようとするタイミングはたった一回きりしかない。二度と追いつけなくなるかもしれない。
大きく深呼吸した紗由理は、強く、自分の獲物を握りしめた。
「信じてるよ。紗由理。」
「誰にもの言ってるのよ。今の私は、心も、体の全て、細胞や血液に至るまで――。」
この一日は、紗由理にとって大きな転換点。それでも紗由理は丹田を高昭に封印されたが故に、単なる黒田紗由理として変わらず此処に立てている。
両親との関係が良くないのは昔から。
きっと紗由理も、周りの誰もがそのままで居られるようにと願う。だから紗由理は今までの日常に手を伸ばさずにはいられない。
「黒田よ……真っ黒!」
寸分の狂いも無く紗由理は鎖鎌を操り、そして希望を繋いだ。天使と高昭が中に居る球体に巻き付いて捉える鎖鎌を紗由理と亜巳は離さない。
その手中に収めたのが希望であるのなら、そのまま手繰り寄せる事が出来るのは道理である。だが、同時に零れ落ちる可能性も孕んでいるのが、希望。
じりじりと、二人の立つ位置は川へと近づいていく。鎖鎌を引く人間二人に対して、重りとなる人間も二人。急流を下る二人分の重さに、耐えられる筈がない。丹田を貫かれて日を跨いですらいない紗由理は、今まで生きてきて幾度となく行ってきた、力を入れて踏ん張る行いが上手く出来ていない。
焦りが生まれる。
高昭と天使を死なせてしまうのではないかという思いは、そのまま引きずられて死んでしまうという当たり前の考えを、紗由理と亜巳の頭から抜け落ちさせた。それが当然と言えるのは、この場にいる全員が、誰か一人でも欠ける事を想定すらしないからである。そのように考えるには幾分ばかり身勝手なのが、紗由理。親に捨てられてから人の温もりを思い出した亜巳は、誰かが欠ける未来を思い描けない程に幸せな人生を過ごせている。
思いは、確かにこの場にある。しかし、気持ちだけで何かを成し遂げるには、世の中は少々残酷である。
しかし、幸いにも、高昭たちがこれ以上流されるのを留める事は出来ている。立った二人の力と思うには奇跡にも等しい。
鎖鎌でさえいつ壊れるのかわからない状態であって、それでも紗由理と亜巳は決して諦めない。二人の緊張を表しているかの様に張り詰める鎖鎌は、川を流れるデブリが天使たちを包む球体に当たる度に、揺れる。
「お願い天ちゃん。私たちと一緒に戦って!」
そう、歯を食いしばるのは、紗由理たちだけではない。雨風に耐え、今ここまでやって来た誰もが、心と体の痛みを堪えている。例え、普段綺麗な川にデブリが流れていても異常だと判断できない位に精一杯だとしても、全霊を以て物事に対処している証である。
「高昭ィ!」
辺り一面に響く声。
血濡れになりながらも尚、力強い声で叫ぶのは、竜兵。辰子をわきに抱えながら、空を飛んで来た。飛ぶ、というには強引な、松永燕が平蜘蛛を使いぶん投げた二人は、その道中で制空権を抑えようとするマガツクッキーを壊しながら飛ばされて、やって来た。川にその残骸を落としながら、竜兵と辰子が目指すのは一点。高昭へ目掛けて一直線であった。高昭を助ける事や、紗由理と亜巳を手伝う事は二の次。
何より優先すべきは、好き勝手やった高昭への鉄拳制裁。それが竜兵と辰子の合致した意見である。言うまでも無く軽い思いつき、冷静な考えではない。全身がズタボロで、勝った喧嘩の後で高まる気分のうちに、正常な判断が出来る筈もなかった。高昭を救うという目的の下では、最悪手に近い。
ならば止めるか?竜兵と辰子にとっては否、これを止めるくらいであれば、そもそも飛ばして貰う事すらなかった。
竜兵が、辰子を投げる。一直線に向かっていった辰子は躊躇なく、その拳を、球体に叩き込んだ。
まず、中に居る天使は、急にやって来た衝撃に顔を歪ませた。球体の維持を出来なければ、たちまち全員が川に沈んでしまう。形成を保つ為、天使は最後の力を振り絞るように気を込める。そして、球体から水面へ、衝撃が浸透する。
轟音。
天使が感じた衝撃とは比べ物にならない衝撃が、水面に叩きつけられる。急に来た攻撃に、咄嗟の反応では、全ての力をぶつける事は不可能。
高昭が『陰撃ち』を以てして、伝播する衝撃を、即時ではないが受け流した。一度体へと受け止めなければいけないという性質故に、全ての衝撃を水面へと送る事は出来なかい。それは、高昭が万全でないからではない。単に、辰子の全力を受けきる事が出来ないが故である。
そして、衝撃の受け取りをする前から、この球体に巻き付いた鎖鎌より受ける力の方角を理解していた高昭は、辰子の一撃を受け流す事によって、川岸へと近づこうとする。
――バァン。
更に水面が爆ぜる。
推進力を得ると、浮かび上がった球体は、紗由理たちの居る陸地へと目掛けて飛んでいく。その上部に辰子と竜兵は着地する。
四人分の重みを、先ほどの衝撃だけで届かせるのは無茶であった。飛び上がった事により、紗由理と亜巳が幾ら引っ張ろうと回転の支点にしかなりえず、遠心力に抗うだけで精一杯である。仮に、竜兵たちが紗由理たちと共に鎖鎌を引くような事をしていたとしても、事態は好転していなかった筈。
だというのに、勢いは衰える事を知らず、皆の予想を裏切るように、天使たちは無事に、陸地へと辿り着く事が出来た。神風でも吹いたかのような出来事。
鎖鎌で引っ張っていた時の拮抗も、飛び上がった時の不自然な勢いも、この場の誰もが言及する事は無い。単なる奇跡で言葉を閉ざしてしまう。
しかし、紗由理は、対岸に目線を向けるとぼんやりと人影を見る事が出来た。川から出てきたその影は、常人よりも遥かに大きい見覚えのあるシルエット。だが今はそれが誰かを気にしている場合では無かった。
「高くん!高くん!」
天使に黙って無理をした高昭の傷口は、より一層に開いていた。流れる血と傷の具合が悪い事、それは高昭以外にとって、何よりも重い真実。こうして生き永らえている内に向き合って、再会できたからと言って終わりにはならない。どうにかして、高昭の命を繋ぎ留めなければならない。
板垣家の面々と紗由理は悲痛な面持ちで、考えを巡らせる。病院まで運ぶ手立てか応急処置。その術を、この場では誰もが持ち合わせていない。
暫しの沈黙。その静寂に割って入るかのように、水を掻き分ける音がする。道路の水溜まりを掻き分けながら、ヘッドライトで道を照らす一台の車。近くで急ブレーキをかけると中から女が降りてくる。
「紗由理、運転変わって。私が高昭の手当をする。」
「母、さん?」
「呆けてないで早く!」
母親に言われ急いで紗由理は運転席へ入る。
天使と亜巳は高昭を抱えて後部座席に座らせる。八人乗りワゴン車の座席を倒し、横たわった高昭を実の母が手当てを始める。皆が乗ったのを確認して、紗由理はアクセルを踏んだ。
生科学者だった母親に傷の手当てをされながら、高昭は病院へと運ばれていった。
そうして、俺は今、生き恥を晒している。
偶然とはいえ、人生の終着点を青春時代に置こうとした俺の試みは失敗した。どうやら、人というものは自分に死に様を自分勝手に決められるものではないようなのだ。
そして、終着点でない以上は、俺にとっての日常というのはどうにも、太陽が昇ればすぐさま訪れてしまうらしい。
全治何週間か。そんな診断も受けた気がしたが、そんなものにはきっと大した変化は求められない。何せ、俺の人生一番に好き勝手やっても、何一つ変えられなかったのだから。恐らく、ほんの少し前までと変わらない日常が待っている。
あの時、誰にも気づかれないように俺らの居た球体を殴って押した筈の父さんも、駆け付けて応急処置をしてくれた母さんも、それが一晩の幻であったかのように、あの人たちは見舞いにも来る事は無い。
それが俺にとってのいつも通りで、俺以外が望んだいつも通りなのだと思う。皆が望んだ日常の中で、俺に居て欲しいと望まれたから、俺は生き永らえている。ただそれだけの事が嬉しくて、思い止まるには十分な理由。
「何で、出歩いてんだよ高くん。安静にしてないとだろ。」
振り返ると天ちゃんが呆れた顔をして立っている。鞄も持っているという事は学校が終わってからそのまま来たのだろう。
「飲み物くらいは勝手に買わせてくれ。」
「駄目に決まってんだろ!怪我で体中ズタボロなんだからちゃんとベッドで寝てろ。」
俺の手からペットボトルをかっさらうと、天ちゃんは俺の手を引いて休憩室から連れ出す。相も変わらず震える右手を包み込む様に、ぎゅっと握られた天ちゃんの手は暖かい。
病室に戻ると、天ちゃん以外にも来てた輩が二人見えた。
「またほっつき歩いてたのか高昭。」
「これだけ元気なら、直ぐにでも退院出来そうですよね。」
委員長もまゆっちも苦笑いを浮かべている。学校が終わってから見舞いに来る事、数回。遠慮などは最早殆どなく、ベッド傍の椅子に座り、俺への見舞い品という名目で買ってきたのであろうお菓子をつまんでいる。
「そういえば明日は伊予ちゃんも来ると言ってました。」
「くれぐれもその怪我で出歩いて、一般人を驚かせないように。オラとの約束だぞ。」
「わかったよ。」
松風にまで念を押され渋々ではあるが、勝手に動かない事を約束する。
とは言え、入院している原因の八割以上は、まゆっちに付けられた切り傷であり、傷が開かない程度であれば、然程普通に生活するのも可能なのである。
しかし、まあ、敗者であるのだから従っておとなしくするのも道理かもしれない。
「というか、高くんが入院してると屯する所がなくてな。
「まあ、俺らはそうかもだがな。」
「ですね。」
もう何度も来ているのだからいい加減話題に尽きがくるかと思っていたが、どうにもそうではないらしい。意味ありげな笑顔を浮かべながら、委員長とまゆっちは天ちゃんを見ている。
「竜兵さんから聞いちゃったんすよー。二人ともおめでとさん。」
「私も風の噂で、聞きました。おめでとうございます。」
二人の言葉を聞いて、俺の右手を弄っていた天ちゃんの手が止まる。そして恐る恐る、まゆっちに問う。
「……どこまで聞いた?」
「まあ、お前が竜兵さんにどこまで語ったのかは、言うに及ばずだろ。」
「少し注意した方が良いかもしれませんね。幾ら家族の事と言ってもあそこまで詳細に話さなくても良いんじゃないでしょうか。」
友人たちからゆっくりと視線を外し、俺の脇腹に顔を埋める天ちゃん。耳まで真っ赤にして、恥ずかしさに悶えている。どうやら、あの日の事を一から十まで詳細に家族へと喋っていたようだった。
竜兵さんもそうであるが、天ちゃんの口の軽さも大したものである。だとすれば当然、姉さんたちも知っているのであろう。
いや、それ以前に竜兵さんや辰子さんの口の軽さは、折り紙付きである。
加えて目の前の委員長もそうだ。
「言いたいことは分かるぜ、高昭。良いニュースと悪いニュースがある。良いニュースはこの話を知っている人は皆お前らを祝福しているって事。悪いニュースは、この事を知っているのは少なく見積もっても学園で八割を超えているって事だ。」
「そうか。」
どうやら想定以上に、俺は恥を晒して生きているようだ。
それでも、悪戯っぽく笑う親友がいる。
少しだけ申し訳なさそうにしているまゆっちがいる。
天ちゃんが傍に居てくれる。
俺の生きる理由としては、生き恥を晒していても、十分すぎる。俺は、結局何も変える事は出来ず、特別な何かになる事もする事も出来なかった。
だけど、皆と共に過ごす単なる普通な日常が何より大切なものだと、今なら言える。
何故か実家暮らしを再開した姉さんと。
未だに距離感のつかめない両親と。
下らない事で笑い合える友人たちと。
誰よりもしっかりしている亜巳さんと。
相変わらず寝てばかりの辰子さんと。
お節介焼きの竜兵さんと。
そして、世界一大好きな天ちゃんと。
皆と過ごす毎日を噛み締めて、俺は、幸せという筈の感情を心に刻んで生きている。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
後書きに適当な事を綴っていますが、何よりもまず感謝を述べさせていただきたいと思います。
本当にありがとうございました。