目を覚ました時、ただ、寒いと思った。
姉さんとの決着を終えて、適当なところに墜落し、『陰撃ち』で衝撃を逃した。そして今は走っている。体はボロボロである事は、自分自身が一番わかる。それでも俺は、矢張り、女々しくも右腕に傷をつける事は出来なかった。もう、手を繋ぐ事はないと分かっていても、割り切れるものでは無い。
そうだ。寒いのだ。
悲願であった。誰かの役に立つのが、役割を遂行するのが、今まで出来なかった事。だが、今日初めて、俺が与えられた役割である『黒田紗由理を救う』という父さんから授けられた役割を全うする事が出来た。何も出来なかった俺が、やっと、両親の望みを叶えられた。
だというのに、まるで達成感が無かった。
不思議と、納得がいった。俺に心が狂っているのは、どうやら本当の事であるようだった。それが正解であるようだ。心から望んだ、両親の願いを叶える事。それは、全く俺の心に影響を及ぼさなかった。であれば、少しは納得がいく。
どうやら、俺は死ぬべきである。
丹田を壊されたあの日から、もしかしたら生まれながら、俺は狂っていたようだ。『修羅』であったようだ。
だから、誰かに迷惑をかけないうちに、死ぬべきである。
「だから、道を開けてくれないか。」
道を塞ぐ三人に、俺は、問いかける。
委員長、まゆっち、母さんが、俺の行く道を阻んでいた。当然であるが、皆は俺と違って殆ど怪我を負っていない。だが、時間稼ぎのつもりか、暫く返答は無かった。
そして、母さんが一歩、一歩とこちらへ進んでくる。
元、とはいえ生化学者である。麻酔や睡眠薬の類を警戒しながらも、母さんの動きを見つめる。そして母さんは――。
俺を抱きしめていた。
「母、さん?」
思考が、定まらない。何故?何故だ?
涙を流している。俺に謝っている。雨音がうっとおしくて、泣き声で、聞き取れない。
「母親、失格だった。ごめんなさい。」
違う。
「私とあの人が間違っていたわ。」
違う。違う。
「高昭に辛い思いをさせてしまって、許されるとは思ってない。でも、お願い、もう一度だけ家族として愛させ――。」
「違う!ふざけるな!」
俺は、母親だったものを思いっきり突き飛ばした。
地面に転がり、泥に濡れても、向ける視線が気に食わなかった。
「俺は、父さんや母さん、姉さんを、その言葉を信じて、その言葉の為に生きてきた。お前らの望むとおりに、認められる為に!」
「でも、私たちは間違っていた。」
「黙れ。」
「高昭は、高昭の基準では十分ではなかったのかも知れない。でも、間違っていた私たちと違って、板垣の皆や他の人は、貴方を評価していた。」
「黙ってくれ。」
俺は、そいつの首を掴み持ち上げ、睨む。
だというのに、どうしてそんなに優しい目をしているのか。俺は、目の前の人間が理解できなかった。
「俺の十余年はどうなる。母さんの目にはどう映っていたんだ。」
「そう、やっと高昭を見る事が出来た。これから貴方を知っていきたい。」
――シャラ。
俺の耳に届いたのはそんな音。言い表せない感情の中で、やっと拾った音は、まゆっちが俺に切りかかる音だった。
「目を覚ましてください!実の親に手をかけるなんて。」
そう、地面にたたきつけられた母さんは、身を震わせながら、雨にかき消されそうな、か細い声を絞り出している。死んでいない。寸前で、まゆっちが妨害したからだった。
「目は、覚めたよ。俺の、十余年にわたる、長い長い夢だった。」
俺は笑った。この顔は笑っている筈だった。
しかし、俺はもう、どうしてこの顔が笑っているのかすら分からなかった。
「家族ってのはさぁ。生まれ落ちた時から、無償の愛があって、その上で色んな事を経験する中で深まっていくと思ってたんだ。だから、振り向いてさえしてくれれば、俺に愛を、無償の愛を、教えてくれると思ってた。」
でも違った。違ったんだ。
俺は、幼き日に父さんが拳を振り下ろした時の顔を忘れない。
それは無表情だった。
俺は、夕方にすれ違う母さんの顔を忘れない。
それも無表情だった。
俺は、姉さんが亜巳さんたちに見せる笑顔を忘れない。
それは、俺に向けられる事のない満面の笑みだった。
そして、俺は分からなかった。
そんな皆の表情の意味が、分からなかった。
「薄ぼんやりと、感情は理解できる。だが、本質的な、何もかもが俺の心にはない。それが理由かもしれないが、修羅の技を使おうと、過去の文献のような破壊衝動が無い上に十分に理性的に過ごしてきた。人でも、壁でも、修羅でも、出来損ない。」
まゆっちと委員長を見据える。当然、二人も目を逸らす事は無い。
「そんな俺が一人死んで、誰かが救われるのなら、安いと思わないか?」
「思いません。」
「思わねえな。」
はっきりとした否定。その言葉を聞いて、心に浮かぶ感情は、恐らく悪くないものであるのだろう。この感情を断定するには、俺は余りにも不出来だ。この感情を肯定するには、余りにも虫のいい話だ。
なにより、これ以上生き続けるのは疲れた。
相対するまゆっちは、刀を抜き放ったまま動かず、委員長は母さんを引きずって離れている。
「もし、高昭くんが死にたいという自分勝手を私たちに押し付けるのなら。私も自分勝手な理由で、この場に立っていて、ここでぶつかり合っても、文句はありませんか。」
「ああ、今更誰かの顔色を窺う気はない。」
「だったら。」
納刀し、居合の構えを取るまゆっち。肌を刺す闘気は、この日初めて、俺の心臓を鷲掴みにする感覚を覚えさせる。
俺を、『修羅』を止めに来た人は、今までこんな形の覚悟を持っていなかった。
「黒田高昭と、決着をつけさせて貰います。最初で最期の戦いであっても、ただ一人の黛由紀江として、絶対に負けません。」
「決着?負けない?どういう事だ。」
「明確な優劣を決めなければなりません。」
まゆっちがこの場で賭けているのは命ではなく、武人としての誇りなのだろう。そして委員長がこの言葉を聞いても口を挟まずに母さんを引き摺って退避している以上は、俺を止める事が目的ではない事がよく分かった。
「武道四天王、知っていますね。」
「知っては居るさ。」
「新しい世代に受け継ぐ時が来たとして、少し前までなら、川神百代と松永燕、黒田高昭、そして黛由紀江であると、胸を張って主張できました。」
「俺は殺人拳だ、辞退するだろう。」
「そうですね。例え葉桜清楚が候補になろうと、高昭くんが辞退しようと、然程の変わりはありません。ですが――。」
気迫が、まゆっちがの周りにある水滴を、水溜まりを吹き飛ばす。殺意ではない思いの力が、これ程までに強いものは見た事が無かった。
「きっと比べられてしまう。武道四天王という同じ土俵に立てなければ、そして貴方が死んでしまえば、同年代の黒田高昭より本当に強いのか、強かったのかと勘繰られてしまう。」
「故に、戦うのなら修羅である俺である必要があるという事か。」
「身体能力のみを追求する筈の黒田の奥義がありながら、あの日に、見せられた秘奥義の噛み合わない性質を見た時から分かっていました。貴方の本質が修羅であると。絶対に雌雄を決するのなら、修羅である黒田高昭と戦わなければ意味が無い。」
一度も戦った事は無かったが、俺にとっても心残りの一つであったのかもしれない。確かにまゆっちとは戦わなければならない。
「未来に怯えない為に、未来の幻影も修羅である高昭くんも断ち切って見せます!」
「誇り共々、殺してやろう!」
初手を仕掛けるべきは俺だった。
居合を攻撃に打たせるのは悪手であり、迎撃に使わせて及第点。欲を言えば防ぐのが理想的だが、それは不可能に近い。万全であっても難しい。
セオリー通りなら攻めるべき場面。だが、そうする訳にはいかない。
明確な理由は二つ。右腕の不調で、攻撃の方向に当たりをつけられる事。そして攻めに行ける程、俺の体は万全では無いという事だ。
如何に陰撃ちでダメージを軽減できると言っても所詮は軽減に過ぎない。体中に分散させて保持する以上は、満遍なく体が傷つく。それに、何戦だ?昨日から俺は何回戦った?
体力も限界で、体はボロボロ。心を癒す手立ても無い。だというのにどうしてか俺の心音は速まっていく。
漸く俺は、死へと向かっているようだと実感が湧く。
高揚しているのだろうか。だから軽い気持ちでまゆっちを挑発したくなる。手をくいっと此方に曲げて、そっちから来いと、挑発したくなるのだ。
見えやしない剣筋。ノータイムで放ってきた攻撃は、確実に勝負を決めに来た一撃であった。
しかし、まゆっちの刀は俺が防御に使った左腕を切り裂く事は出来なかった。耳を劈くような爆音がまゆっちの攻撃を退け、ついでに当たりの水を巻き上げる。
俺の仕掛けだ。
見えない程に速いまゆっちの太刀捌きへの対処法。何時か戦いたいと思っていたのは俺も同様。故に対策は最低限持ち合わせている。
「疑似的な反応装甲ですか。」
「さあ、どうだろうな?」
一見して看破する洞察力は流石と言わざるを得ない。気で作った膜を二層、体の周りに展開し、何かの接触と同時に爆発させる。攻撃を防ぐ為の手段としては三流も良いところで、左肘が御釈迦になりかけたが、俺にはこれで十分。
何せ、体を駆け巡る衝撃は、陰撃ちの残弾なのだから。
両の足で地面を踏みしめる俺と、反応装甲の爆発で腕が上がったまゆっち。のこのこ自分から俺の射程に入った標的には、最速を以て答えるのみ。
その顔を伝う水滴を雨ではなく冷や汗で塗りつぶしてやる。
――風の構え。
隙を突いた一発は、標的であった水月に当たる事は無かった。
まゆっちは紙一重にて躱すなり切りかかって来る。上段から、今度は首筋に目掛けて振り下ろされる。初手より随分と遅い攻撃。剛の剣、普段使わないそれを俺が失念していたのは事実。攻撃単体で一番衝撃の出るチョイス。加えて此方は意思に関わらない反応装甲によって単に刃先が触れるだけでも十分にダメージを負う。
まゆっちは二重の衝撃で俺の首をへし折りにくるつもりだ。折れずとも、脳が揺らさせると不味い。俺より一撃の速度に勝るまゆっちに、射程圏内で隙を見せるのは、論外だ。
しかし、どうしてか。こうして命の瀬戸際に立っていると実感が湧くと、心が熱くなってくるような気がしてならない。生きる意味を失った俺は、どのように生きるかではなく、どのように死ねるかと考えてしまう。
ただ首を刎ねるならば川神一子でも出来た。
ただ防御を貫くだけなら黒田紗由理でも出来た。
黛由紀江はどうだ?活人剣の使い手が俺を殺そうとするか?する訳がない。ならば選ばなければなるまい。首を折られて惨めに這い蹲って生き永らえさせられるのか、自決という甘い誘惑の為に死にかけの体に鞭を打って競り勝つのか。
自問自答の是非も無い。
「甘い!」
迫り来る剣戟。それを繰り出すまゆっちの軸足を蹴り砕かんと右足で前蹴りを放つ。相打ち上等の攻撃で、当たれば彼方の片足を不能にする。代償が脳震盪だろうと首の骨だろうと、よーいドンの殺し合いなら、気迫に勝る俺が勝つ。負けるはずがない。賭ける重みが、思いが違う。
だからさっさと死ね。
「避けられない事はありません!」
紙一重、俺の蹴りを避けるまゆっち。だが、まゆっちの攻撃も直撃は出来ず、俺の瞼の皮を切る程度という結果に終わる。
嗚呼、咄嗟に目を潰そうとする判断は天晴れだ。直接殺す気は無くとも、俺を相手に五体満足を保持させたまま負けを認めさせようとしていたほかの連中とはまるで違う。
流れる血が、左目の視界を奪う。あと僅か踏み込まれていたらぐちゃぐちゃになって居たのだろうか?背筋を震わせる怯えが、どうしようもない程に、俺を高ぶらせる。
「ぶふぅうう!」
血霧を吹きつけた。
俺だけ視界を狭められたのでは不公平で、気に入らない。故に使った程度の小技。こんな豪雨で血霧は役に立たないだろう。
だからと言って、無価値ではない。今俺との距離を見誤ったまゆっちが攻撃を失敗する確率が少しでも上がればそれだけでよかった。
――カチッ。
その音は、聞き間違いではない。相対する人物が刀を鞘に納める。
切られた。
小細工でどうにもならない絶技だ。反応装甲なんて全く意味もなく。俺は袈裟懸けに、二度、切られた。
なるほど、認識できない攻撃は、『陰撃ち』という全霊の技術を用いてもダメージを分散できないみたいだ。俺が認識している時点では、まだ反応装甲による気休めの爆発も起きてない。大分ざっくりとやられたようだが、鮮血が舞うのも、もう少し時間がかかるようだった。
まゆっちが剣を振るった残像すら、見えない。もしかしたら、俺は殺されたのかもしれない。そんな考えさえ浮かぶくらいに、頭の理解は追いついていないようだった。
しかし、仮に死んでいて、それを受け入れる事は出来ない。何となくまゆっちには負けたくなかったし、死ぬのなら自らの手でしなければならない。
取り合えず、一歩踏み出す。もう一歩、あと一歩踏み出す。そうだ偉いぞ、もう一歩だけ動かせ。そうすればだいたい俺の攻撃が避けられない位置になる。
――まず音が世界に戻って来る。
右足を軸に、『火の構え』を放つ。
――反応装甲が誘爆を始める。
その軌道は間違いなく、まゆっちの胴体を横薙ぎに捉えていた。
――体に二つの刀傷が出来る。
――そして、俺とまゆっちの体が、世界が、攻撃を認識した。
体は、最早痛みを認識しなかった。その程度の問題ではない。多量を血を流し、限界を超えた動きをした体は、投げ捨てられた人形のように、動け、というシンプルな命令を無視し続ける。
前のめりに倒れこむ。
俺の攻撃は、まゆっちに届く事は無かった。
外れたのではない。切られた事で、体が動かなかったからではない。行動を予測されていた俺の攻撃は、まゆっちの迎撃に阻まれたのだ。
だとしても、立ち止まる訳にはいかない。霞む目で、正面の道が見えなくとも、俺は自分の手以外で死ぬ訳にはいかない。
「私の勝ちです。」
刀を鞘に納め、まゆっちが俺に告げる。
それは事実だ。俺は勝てなかった。疲労は理由にもならない。通用しなかったのだ。『修羅』としての技は使う事すら許されず、純粋に力量不足を思い知らされた。
「俺の負けだ。」
しかし、まゆっちは間違えている。
だからどうした。俺は生きて、こうして生きている。使える陰撃ちの残弾は未だに体を駆け巡らせている。その分散させつつも小さくは無い衝撃が俺の寿命を縮めても、俺以外に発散させる術は無い。
「それでも俺は止まる事は無い。四肢を切られようと、俺は死へ向かって進み続けるだろう。声帯を潰されようと、俺は諦めたと言う事にはならない。」
右手は、まだ感覚があった。道路のコンクリートに指をひっかけ、体正面の切り傷が開こうが、這って、体を引きずる。
目の前に、誰が立ちはだかろうと関係ない。
「そう、ですね。私が高昭くんをどうにか出来るとは思っていませんでした。それでも私は、一つ、高昭くんが死ぬ事に対しての悔いを残さなくて済みます。」
悔い。そんなもの、俺にだってあるに決まっている。だけどきっと言えば決意は揺らいでしまう。
「俺には、悔いは分からないな。そういう気持ちが分かっていたらこんな事してないんだろう。」
「……そうですか。私は、貴方の母親を連れていきます。このまま野ざらしには出来ませんから。」
まゆっちは、俺の背後に回り、何処かへ歩みを進めた。いつの間にやら、最初と立っていた位置が変わっていたようで、俺は目指すべき場所すら視認できず、ただ這いつくばるしかなかった。
それでも俺は、くたばってはならない。俺が、誰かに殺されてはならないと心に誓っているからだ。このまま死ねば、まゆっちに殺された事になる。
俺が唯一、自分の意思で選んだ、死という行動は、俺自身の手で行わなければならない。
急に、体が、浮いた。
「聞こえっか、高昭。」
「何、してん、だ。」
俺の左脇に体を入れて支えている人物。首も回せず、顔も見えないが、なんとなく誰なのかは直ぐに分かった。
「本当は、俺も止めるつもりだったんだ。でも、そんな事できやしなかった。なんつーかさ、そういうの肌に合わないんだ。板垣達には悪いけど、くそっくらえと思う。」
耳を疑う言葉。
こいつはこうやって、誰かの思いを、頑張りを、簡単に踏みにじれる奴だ。その性格が、俺は嫌いだ。常に打算で物事を考えているようで、自分の考えが変われば急に他人の都合を無視する奴である。
だとすれば、俺に手助けをする意味はなんだ?
俺が死んだとして、こいつが得をするのだとすれば……。いいや、誰がどのように考えようと関係は無い。俺は、自ら命を絶たなければならないという事実に揺るぎは無い。例えどんな手段でも、こいつの肩を借りてでもなさねばならない。
「高昭のしかめっ面を見てると懐かしいな。」
「懐かしい、何言ってんだ?」
「ああ、昔は板垣と一緒にいないときのお前はそんな顔してたんだよ。」
昔か。無駄だった筈の十余年という人生が、振り返ってみると懐かしい。やり切った筈の、なし終えた筈の現在よりも、昔のがずっと、俺の心は満たされていたんだろう。
俺は間違っていたんだろうか?何か、もっと良い選択を出来たの筈なのか?
「にしても、俺もこれからどうすっかな。ここまで堂々と手助けしたら皆から責められるんだろうな。」
「別に捨て置けば良かったんだ。俺は、一人でも行ける。」
「その忠告を聞くような奴はこんな所まで来ないだろ。友達に手を貸すって時に良し悪しの区別をつける必要があるのか?後先なんて考える前に体が動いちまう。」
楽しそうに笑う声が聞こえる。
こいつは、物事を真面目にしないが、他人への助力は惜しまない奴でもあった。与えられてきた事だけをやってきた俺とは違う。人の心の隙間に入り込む才能は、俺にはないものだ。
しかし、今日、それを武器にここまで来たのだろうか。人脈を使ったと仮定するには、こいつとまゆっちは珍しく協調性が無かった。単独ここに来て、何故助ける理由なくこいつは、俺に肩を貸しているのか。
「そろそろ思いつめた顔やめろよ。」
「は?」
「お別れの時は笑顔って信条なんだ。だから笑え。ニコー。」
態々擬音を口で言って、顔を向けてくる。視界は霞んで見えないが、俺には、脳裏に焼き付いたいつの日かの笑顔を思い出せる。
こいつだけじゃない、皆の笑顔を思い出せる。教室で昼飯を食べながら、帰り道で話しながら、買い物をしながら、家でゲームをしながら、手を繋ぎながら、笑顔を見た事を思い出した。
そうか、認められずに足掻いて苦しみながらも俺が生きてきた理由、これ以上にない値打ちものは、見落としていただけだったのか。人生に見出すべき価値は、もっと特別なものだと思っていたが、全然違った。
今更、気付いて、だが後戻りはしない。出来ない。それでも、皆の笑顔という思い出は、俺が食いしばって歩く活力を与えてくれるんだろう。
願うなら、俺の笑っていた顔が、皆の記憶に残っていて欲しい。
「ありがとう。あとは一人で歩いて行ける。」
「そうか。高昭が決めたことに口出しはしねえよ。」
穏やかな口調だ。今も笑顔で居てくれているのだろうか。体はボロボロだが、もう少し歩く程度なら何とか出来る。
感触を確かめるように少し歩いて、振り返った。目の前にいる人物の表情は、矢張り霞んで見る事は出来ない。
「なあ、高昭教えてくれ。俺はお前にとってちゃんと望まれた役割をこなせていたか?」
役割か。俺にとっての当てつけ、と言い切る事は出来ない。俺は望まれた役割を殆どやり遂げる事が出来なかったが、こいつは俺の考えもしないような事を平気でやるような奴だった。
「きっとそうだったよ。」
「なら良かった。」
「じゃあな、『親友』。」
不意を打たれた様な息遣いは、確かに、雨音に消されていた。目を丸くさせる為に言った言葉ではなく、俺の本心。
俺が唯一、心底見下しているこいつは、偽りなく罵倒し合って、本心で語れる友人。
生涯、最高の親友。
「そっか、そうだよな。」
笑い声が聞こえた。俺たちが突飛な事をすると、決まって腹を抱えて笑うような奴だ。
「ああ、またな、親友。」
なあ、俺は笑えているかい?
雨は弱まる事なく、薄れゆく認識の中で辿り着いた場所の直下に流れる川の音も聞き取れる程の勢いだ。しかしもう、橋の上から飛び降りるには、体力が残っていない。倒れこむように橋の手すりに背を預けた俺は、一区画だけが崩れ落ちるように、体内に残しておいた衝撃を『陰撃ち』で打ち込むのだった。
決して軽くは無い俺の体重がこの場を崩すまで、静かに待つ。これ以上に、出来る事は無く、もうする必要も無かった。未練は、あるのだろうか。十分に、身に余るほどの幸福を、受けてきたつもりだ。無価値な人生だったのかもしれない。俺は何も成す事は無かったし、思い通りにならない事だらけだった。
それでも楽しかった。幸せだった。これ以上なく十分に満たされた。傷ついて壊れかけの心も、支えがあるから保っていられる。
俺は姉さんのように、特別な事をして、誰かの特別になんてなれなかった。残したのは傷跡だけなのかもしれない。もう、前も見えない。辺りは血で染まっているのだろうか。願わくば、この雨が全てを洗い流して欲しい。
俺という存在ごと、洗い流して欲しい。
死なせたくないと願う事に、理由なんていらない。敢えて言うなら、形は違えど愛ゆえに。
まだ生きていたいと少しでも願ったのは、君が笑ってくれたから。やっぱり君が好きだから。