特別になれない   作:解法辞典

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このペースで投稿していければ三月中に完結は出来そうですが、推敲したい部分があるので四月の頭までかかるかもしれません。
それでも、小説自体が作者の自己満足の塊ですので、投稿頻度くらいは呼んでくれる人の為に頑張りたいな、と今更ながら思う次第です。

誤字等ございましたら報告よろしくお願いします。


第二十八話 壊れゆく

 項羽は勝ちを確信していた。どうにも、肩透かしをされたような気分だった。それと同時に相手の有り方に納得をした。

「成程、『壁』とは良く言ったものだ。」

 高昭が作り出した絶妙な間合いを、上回る暴力で一蹴しながら項羽は笑った。

「お前の最大の攻撃で、俺の本気の防御は貫けない。逆に、お前が俺の本気の一撃を避けるのは、どうあがいても防ぎきれないからだろうな。防御力さえ底が知れてる。残念だが、人間の身で一等賞を取ったところで、覇王の尺度で羽虫と同格程度ではなぁ!」

 間合いの外から放たれた項羽の斬撃を、高昭は飛んで回避した。更に距離を詰める項羽と、空中に気の足場を作り肉薄する高昭の攻撃が衝突した。

 殺意を込めた高昭の貫手は項羽の喉元を狙った一撃だった。冷静に身を捩った項羽は攻撃を受け流しながら高昭の顔面を鷲掴みして、後方の地面へと叩きつけた。

「負けを認めろ。万策練ろうが、届くまい。」

 仰向けに倒された高昭の眼前に迫る項羽の獲物は、近づけすぎたのか、頭から叩きつけられたからなのか、項羽には高昭の焦点が武器に定まらないように見えた。

 攻めに回れば一瞬で終わると、項羽が勝ち誇ったように高昭を見下ろしていると、高昭は何でも無いように上体を起こし始める。目と鼻の先に迫った獲物に気付いていないかのように、高昭は頭を上げる。

 反射的に項羽が高昭に当たらぬように、刃を退けると、高昭は流れるように項羽へと左拳を振りかぶった。

「『風』を喰らえ。」

 高昭にとって最速の一撃。

 寸前で防御を間に合わせた項羽は、多少のダメージを負う事を覚悟して、距離を置く為に吹き飛ばされた。高を括るように、値踏みしながら戦っていた項羽は、目の前の男が正気でないと、漸く気づいた。殺人を許容しない理性が存在する事を、許容せざるを得なかった。何よりも理解できないのは、殺す事に躊躇わない事ではなく、死ぬ事に躊躇いが無い事。

「死ぬ気か?何の躊躇いもなく頭を上げて――。」

「その理論が正しければ、刃が脳天貫けた筈だろうに!」

 宙に五枚の数、気で出来た足場を生成した高昭は、不規則な動きで項羽への距離を詰める。項羽の必殺級の一撃であれば、周りに浮かぶ足場も含め辺り一面を吹き飛ばせる。先刻まではそれで良かったが、高昭の先ほどの行動が項羽の判断を鈍らせた。

 昨日まで日常で過ごした項羽――葉桜清楚にとって命を、蝋燭の火を扇ぐように消すのは本能が拒絶を起こしてしまっていた。

 それは恐怖に似た感情。自身の手を血で汚してしまう事への躊躇い。

「伏せろ!」

 聞き馴染みのある声で恐慌から抜け出した項羽は、指示された通りに伏せる。背後から迫る矢の雨から身を守る為、高昭は空中に、気で出来た足場をばら撒き、簡易的な盾として攻撃をしのぎ切った。

「増援か。」

 距離はまだ遠いが、高昭は向かってくる武士が三人見える。立ち上がった項羽との距離が開かぬように、高昭は再度空中に足場を作り、空中で留まる。

「形勢は一気に傾いたが、まだ続けるか。」

 人数で上回り、駆け付けた武士共の頼もしさから心に余裕が出来た項羽が問いかける。だが返事をした筈の高昭の声は聞こえなかった。口は動いているものの一切音として認識できなかった。

 代わりに、轟音と共に少し離れた地面が少し抉られている事に、項羽は気づく。

 増援からか項羽は一旦緩んだ緊張感をそのままにしている。駆けつけた三人の内でも、事の重大さが分かったのは与一だけだった。与一は、矢筒の残りをありったけ打ち放つ準備を一息で終わらせると、多少でも事態を好転させる為に、普段出さない程大きな声をだした。

「パラボラだ!横に飛べ!」

 与一の、全身全霊を込めた一斉射が放たれるのと同時に、高昭が叫び声を上げる。高昭を巨大なエレキギターとするならば、知らず、宙に敷き詰められていた気で出来た足場も巨大なアンプリファイアであった。

 ――パラボラ兵器。

 高昭の出す音の波形を全て一箇所の収束させ、エネルギーによる爆発を起こす荒唐無稽、絵空事のような出来事。高昭はそれで以って、項羽の上半身を消し飛ばす算段だった。気の壁の緻密な配置だけでなく、声帯に気を馴染ませてより大きな音を出す技巧は流石であった。

 しかし、与一の目にも止まらぬ早打ちもまた、神業。次々に放つ矢の一つ一つに気を込めて、着弾する矢に新しく矢を射って積み上げる。高昭の音速の攻撃と比べて、その音速に狙いを定める僅かな微修正を入れる間、その僅かな隙をついて行動を開始した決断力。項羽が守れる程の壁として矢を組み上げ、作り上げた技術と精神力。英雄の名に恥じない功績だった。

 攻撃は阻まれた。

 砂埃が薄れてくると、立ち上がる項羽と、与一が築いた矢による壁がかろうじて一部残っているのが分かる程度であった。

「良くやったぞ与一。」

「うん。正直見直した。」

 義経と弁慶が、息を切らす与一を労う声をかけると、与一は余力を振り絞って高昭を狙って弓を絞った。

 対する高昭も左腕を地面と水平に上げ、その掌を銃口のように向けている。

「あんな架空兵器をここまで仕上げれば十分だが、即席の防御も貫通できない程度が本命であるものかよ。」

「来るぞ!」

 項羽が声を上げると、義経と弁慶は与一を守るように衝撃に備えた。

「渦雷。」

 高昭の呟きは轟音にかき消された。

 夜の闇を走る光の線は、少しずつ数を増やす。地面を抉り、殺到する渦雷は、辺り一帯に轟音を響かせながら、高昭の目の前を全て吹き飛ばす為の一撃。まず、与一の放った矢が、無残にも砕かれる。項羽が迫ってくる数本を切り刻むが、高昭が生成する速度には追い付けない。粗雑に吐き出された様に見えるが練り上げられた気の鞭は、差し出された左手の掌を中心に回転しながら、項羽達に殺到する。

「背後に回るものは義経たちがやる。清楚は正面から!」

「言われなくても!」

 先に展開されていた漂う気の壁は、脆く、高昭の渦雷で粉々に砕け散る。だが、一回鞭が当たるごとに生まれる衝撃波が渦雷の真の威力を引き出す故に、外側に出た気の鞭が反射して内側に戻る回数が増える事は、それだけで直撃に晒される項羽への命の危険が跳ね上がる。

 小さい裂傷が増える中、項羽は歩みを止めない。一歩を踏みしめながら、自らの獲物である方天戟を振るい続ける。渦雷に飲み込まれながらも項羽は、その轟音の只中で、背後から自身の名を呼ぶ声をしっかりと胸に刻んでいた。

「そうだ。俺は、旗印としての項羽としてではない。昨日を生きていたたった一人の人間として、覇王であることも背負って生きる為に、こうして戦いの最中に立っている。」

 項羽の振るう斬撃は、遂に渦雷より激しくなる。渦雷より先に、宙に浮く気の壁を打ち砕き、背負う仲間に届かぬ程に、渦雷を切り刻んだ。高昭との距離が、後一足で間合いに入ろうかという所で、項羽は足を止める。苛烈を極める高昭の技を真っ向勝負で討ち果たすと覚悟を決めたのだ。

「聞こえているかは知らんが、根競べだ!」

 目にも止まらぬ、項羽の武器捌き。比べて、高昭はこうなれば体から気を捻り出して応戦するしかない事は、この場の誰もが分かっていた。だが、項羽は、後ろに義経たちが居るというだけで、負ける未来が思い浮かばない程だった。流れは着実に、項羽のものになりつつあった。

 

 

「ガス欠か。」

 獲物を肩に担ぎながら、項羽は高昭を見下ろしていた。気を使い果たした高昭は、膝を折り、武人でありながら、肩で呼吸する程疲弊している。

「まだ続けるつもりか。」

 項羽が問いかけると、高昭は立ち上がり構えを取る。

「無論だ。」

「その有様で、か。」

「黙って構えろ。」

 項羽だけではない、義経たちも、高昭の構えが意味を成していない事を理解した。

 気を滾らせる事で、騙し騙し動かしていた高昭の右腕は、拳を握る左腕とは違う。だらしなく下ろされる右腕は、固く拳を握る事が出来ず、数本の指は痙攣を起こしている。

 気を使い果たした上で、立っている事すら本来であれば異常だった。普通の武道家でさえ、あらゆる行動に知らず、無意識に気で補助をしてしまう。項羽でさえ、気が半分も使えなければ格段に戦闘能力は落ちる。元より、昼間に川神鉄心を戦っていなければ、もっと早くに高昭を沈めていただろう。

 項羽は、尚も戦おうとする高昭を止める為に、方天戟を構えた。

「今、楽に寝かしてやる。」

 軽く殴って気絶させようとする項羽の判断は間違ってはいなかった。気の尽きた高昭に全霊の一撃を喰らわせれば、命ごと吹き飛ばしかねなかい。

 しかし、項羽は何もかも見誤った。

「俺は、『修羅』だと、言った筈だ!」

 項羽の予想を遥かに上回る速度で、高昭の左拳が唸った。まるで衰えていない一撃。油断していた項羽の顎を無慈悲に打ち抜く。項羽は、予測してない出来事に加え脳震盪を起こして、思考を停止させていた。

「這いつくばってろ、今、そこで。」

 油断に溺れた項羽に対して、高昭には容赦も、武人として不意打ちした事の恥も持ち合わせない。高昭は、『火』を放つと、完全に項羽の意識を刈り取ってみせた。地に沈む項羽を見てやっと反応できた義経だったが、気絶した項羽が高昭の足元に伏せっている事を理解すると、刀を鞘に戻して足元の落とした。

「義経たちに交戦の意思はない。だから……。」

「こんな腑抜けに興味はない。」

 高昭は項羽を義経に向けて投げる。慌てたように弁慶が抱え込むのを、高昭は佇まいを直しながら見ていた。そして、高昭の右腕を見て、義経は高昭が油断を誘う為の演技をしていた訳ではない事が分かった。今も、力なく垂れている。

「理解できないね。」

「何がだ。」

 弁慶がぶっきらぼうに告げると高昭は聞き返す。

「急に冷静になって気味が悪いんだよ。」

「弁慶なんてことを言うんだ。」

 口の悪い弁慶に義経が注意をするが、弁慶の視線が高昭から離れる事はなかった。弁慶だけでなく与一も不測の事態に備えて弓に手をかけているのが相対する高昭にも分かる程だった。

 実際、戦いを続行すれば軍配が高昭に上がる可能性は無い。

 それでも与一と弁慶が攻撃を仕掛けないのは、項羽を見逃した事への義理が理由ではない。傍から見れば支離滅裂な高昭の行動が、理解不能である為である。

 怒りに支配されていた筈の高昭は、今や落ち着いている。容赦は無いが、『修羅』と呼ばれる程に狂暴とは決して言い切れない。

「そっちの陣営に個人的な恨みがあるのが一つ大きな理由。もう一つは『修羅』がざわついたのが理由だ。敵の本丸を狙った理由はそれだけだ。」

「倒したから冷静になったと、信じろと?」

「違う、捨て置いても良いと考えたからだ。」

 興味なく答える高昭に義経は眉を顰め、声を低くして問いた。

「捨て置くだと?」

「本質的に間違ってなけりゃ振るう拳もありはしない。項羽自身が人を殺める機会を二度も見逃した事から、俺が項羽を殺す意味が無くなった。」

「殺す、と言ったか。」

 何でもないように吐き捨てる高昭に与一は聞き返す。底冷えするような言葉を聞いて弁慶は再度警戒を深める。

「危険な奴は全員死ねばいいと思ってるさ。殺してやりたいともね」

 それだけ答えると高昭は義経達に背を向けて歩き出した。高昭の行動はこの場に居る誰もが共感も理解も出来ない。させようとしない。

 高昭が善人ではないと分かっても、義経は自分たちも同じように善人から踏み外している事を自覚している。自らの行いが自分たちだけでなく他の人にも痛みを伴うのは受け入れなければいけない事実。しかし清楚を一人にする事と天秤にかけた時、知らない誰かよりも清楚への思いが勝る。例え間違いであっても、少しでも肩代わりを出来るのならという思い。それは義経だけではなく、与一も弁慶も感じた事。

 義経は、右腕を抱えて歩く高昭を見て声をかける。

「辛いなら言った方が良い。親しい友人だって、家族だっているだろう。」

 それは義経にとって、清楚がそう感じていた時に言って欲しいと思っているが故に、口から出た言葉。既に始まってしまったこの戦いとは違う。高昭が何かを起こそうというのなら、同じ思いをする人間が出るかもしれないという警告に似た思いだった。

 高昭は、その言葉を聞いて少し立ち止まり、返事もせずに夜の闇に消えていった。

 

 

 家に着いて、高昭が見上げるといつもは明かりの差さない部屋に人影が映るのが分かった。紗由理が部屋に居るというだけで、数年ばかり昔を思い出した高昭は玄関に入って呟く。

「ただいま。」

 返事は無かった。

 着替えを済ませて、茶の間で腰を落ち着かせていると、紗由理が二階から降りてくる足音が聞こえた。高昭は、震える右手を机の下に隠して待った。

 もう日付が変わろうとしている頃である。

 寝間着姿の紗由理は入口で立ったまま、暫く言葉を紡がなかった。そして、高昭に目線を合わせずに紗由理は小さな声で心の内を語る。

「私だって、皆の敵を討ちたかったよ。」

 紗由理は自分の無力さを思って、固く自分の服を掴んでいた。

「本当は、私が弱いのが悪いんでしょ。高昭が辰子ちゃんたちを守れなかったのも、私が家を出て一緒に戦うのを許して貰えないのも。」

 知らず、心が弱っている姉の姿を見て、高昭は困ったように笑う事しか出来なかった。

「随分、笑い方が下手になったのね。」

「そうかな。」

 表情を崩した高昭を久々に見て、紗由理の表情に少し明るさが出てくる。高昭に向かうように座った紗由理は目線を合わせようとして、座高の違いからか疲れたように視線を下げた。そして、一切の物が置かれていない机の上に、紗由理の腕が無造作に乗る。

「父さんに、何か言われた?。」

「『明日の夜まで家を出るな』って言ってたわ。子供じゃないのに、あの人は頭を撫でれば良いとでも思っているのかしらね。」

 溜息を吐く紗由理の様子を見て、高昭は愛想笑いをするばかりだった。

「今の当主は高昭なんだから、高昭が許可を出してくれれば私も明日は乗り込んで見せるのに。」

 紗由理は、わざとらしく肩を落として見せた。だが、高昭から直接止められていない以上は、家に留まったのは紗由理の意思だ。

「でも、姉さんは心配されて、父さんがそう言ったんだろ。」

「そうだけどさ。」

 昔の記憶より優しく接してくる両親に、紗由理はまだ慣れない。思い返してもどの時期からとは紗由理も覚えていないが、高昭に当主を譲ってから父親との会話は増えたのは確かだった。それまでは忙しかったから親としての責を果たせていなかったとも考えられた。もしかしたら、そうではなくていつの間にか良心の考えが変わっていたのかも知れない。愛が殆ど感じられず、武術も最低限しか継承して貰えず、関わりさえも絶とうとしてきた風に見える両親。古い記憶の姿と比べれば、原因が何にしても紗由理にとっては、今は多少なりとも良い両親である事には変わりない。

「でも、何か昔は反りが合わなかったというか……。」

「姉さん。そんなに呆けてどうした。」

 高昭の呼びかけで紗由理は我に返った。意識が深くまで落ちてしまいそうだった。何か忘れているものを、何か思い出してはいけないものを、心の内に封じられているような妙な感覚だった。

 紗由理にとって考えたくもなかった両親。最近になって、その両親を考えると、頭の隅で何かが引っかかる。

 ――そっちに行っては駄目!紗由理は知らなくて良い事なんだから!

 幼い頃、確かに紗由理は母親にそう言われた気がした。川神に来るよりも前の話だった。

「引っ越してくる前の事。」

 紗由理は自分の心に問うように呟く。大事な何か、忘れてはならない事を思い出せそうで、思い出せない。頭の中に靄がかかるようで、幼少期の事でも有ったので、大学に通う程に年を取った紗由理は忘れてしまった大事な記憶。それが、両親を嫌う原因だったのかも知れなかった。

「確か、そう、場所は。」

「姉さん。どうしたんだ。」

 不意に高昭に話しかけられて、紗由理は肩を震わせた。気が動転して見上げると、紗由理の目には心配そうに見つめる高昭の顔が映った。

「今日は色々あって疲れてるんだろう。眠いなら無理をしない方が良い。」

「別に、そうじゃないんだけど。」

 そう言った紗由理には二の句が思い浮かばなかった。自分が何を考えていたのか、思い出せなくなってしまった。覚えているのは、何かを思い出そうとしていた事だけだった。

「やっぱり疲れているみたい。おやすみなさい。」

「ああ、おやすみ。」

 

 

 修羅に堕ちる事が至極簡単な事だと、少なくとも高昭はそう考えていた。

 項羽と戦って高昭が分かったのは、命懸けで戦ったところでまるで実力が届かなかった事。油断に油断を重ねた相手に不意打ちしなければ勝ち目はなかった。何せあれだけの大口を叩きながらも、高昭はまだ修羅に落ちきれていないのだから当然でもあった。

「不出来なのだろうな。」

 武人として、高昭は『壁』の域を超える事は出来なかった。

 油断した項羽の意識を刈り取る事は一定以上の武人なら可能である。そもそも黒田の奥義、黒田の体術は気を一切用いないものである為、他の武道家と違い気による身体能力の強化を行わなくても普段と変わらぬパフォーマンスで威力を出す事が可能なのだ。あの行動は劣悪な騙し討ちに他ならない。修羅とは卑劣で卑怯な事とは違う。

 高昭は歴代の黒田の武術以上に自らの武を高める事が出来なかった。一族で一番素質がある、だが『壁』を超越する事はなかった。武人としてだけではない。高昭自身が至らないのは結局、人として心技体が欠けているからだと考える。

 そしてそれは、人として、武人として、『壁』としてだけではない。修羅へとなるにも高昭は出来損ないだと、自身で結論付ける。

「右腕、だけではない。俺は何より心が弱かった。」

 皆が寝静まったからこそ、高昭は声に出して懺悔を口から漏らす。

「怒りで我を忘れて修羅に落ちかける等、あってはならない事だ。それだけじゃない。『壁』として、人として規範的であろうとしたのに、俺はあの握手に応じなかった。」

 身を『壁』と捧げる覚悟を決めていた筈の高昭は、燕の握手を拒んだ事をずっと悔いていた。自分の勝手で、燕の武人たる精神性を示す行為を汚してしまったと、今も思い悩んでいる。

 一つ間違いないのは、高昭は、自分が修羅外道に落ちて当然の人間だと思っている事。

「こんな俺が一つでも何かを成せるというのなら、喜んで修羅に堕ちてみせる。人でなしの、中途半端な修羅に成りかけている俺が。例え全てを失ってでも。」

 食卓から高昭は視線を外す。もう、遅すぎる夕飯を食べる気分ではなかった。ゆっくりと立ち上がると、高昭は歩き始める。夜の静けさに廊下が軋む音が染み入る。乱れる事のないリズムは、歩みを止める気を持ち合わせない高昭の心情を表すかのようだった。

 進む先は、開かずの間と皆が呼ぶ部屋。黒田の当主でも滅多に入らない部屋であり、過去の歴代黒田が対戦した武道家の技が事細かに記されている資料の眠る部屋である。

 扉を開ける事で感じる埃っぽさに多少、高昭は目を細める。そして、高昭はびっしりと詰まった本棚の中から一つの本を取り出した。

「唯一、秘奥義は資料に無く当主自らが後継者に教えると聞いていたが――。」

 その本を高昭は集中して軽く気を流し込むと、淡く発光し始める部分が浮かび上がってくる。

「気を使わない事を真髄として教えながら、緻密な気のコントロールを要求する。初めて気づいた時に、漸く合点がいったよ。初代の残した五つの奥義と一つの秘奥義。」

 高昭は嬉しそうに、本の余白に浮かび上がった文字を口ずさんだ。それは黒田の秘伝の書であり、奥義の全てが記される代物。

「捉えることの許さぬ、烈風。霜林、掴むことかなわず。瞬にて敵を討つ、閃火。剣山、時として最大の攻勢。」

 

 

「秘なる奥義は、渦雷に非ず。禁伝・陰撃ち。死を以って死を制す。」

 

 

 

 

 

 

 地獄よりも深く堕ちようと、二度と曲げぬと覚悟が滾り、握りしめるは殺人拳。

 理想に殉じて踏み出した時には、運命を蝕む過去の不首尾が喉元に届き、覆水は盆に返らない。


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