金曜日の放課後。佐河信一は、学生鞄として使っているスポーツバックの他に、キャリーバックを引いていた。
手にはスマートフォン。電話帳のお気に入り欄の一つの番号にかける。
コール音が数ループした後、向こうの電話相手が出た。
「よう、俺俺。いや、オレオレ詐欺じゃねぇよ。ああ、今日連れてくよそっちに。その辺の手続きよろしく。……あ?試合入ってなかったか?プロ一人ボコったら半年ほど有給くれたけど。それ手切れ金じゃないかって?んなわけないじゃん、サボって未だユース扱いだけどよ、チームで一応最強戦力だぜ。俺と勝負になるプロなんてすこやん以外いんの?浬さんと治也除いて」
携帯を相手に饒舌に話す信一。その表情は快なりと笑っていた。
通話相手がかつて激戦を繰り広げた宿敵であり、同時に親友である彼に、ようやく頼ることができる。それが嬉しくてたまらない。
「……ありがとよ。じゃ、またな」
通話を切り、上機嫌な顔のまま清澄高校の廊下を疾走する。
目指すは一年の教室。長いこと探して、ようやく見つけた逸材。
「行くぞ、京太郎!ボサっとすんな!」
満面の笑みで、一年の教室に入り込む。
教室にいた生徒は全員固まった。教師ですら同じだった。
この時間は、帰りのSHRの最中。信一も同じ時間で、別の教室にて聞いていなければならないのを、サボってここに来たのだ。
「……あ、あのなぁ、佐河。今、SHR中だから、な。ちょっと待って……」
「電車は待ってくれねぇんだ、タクシー校門で待たせてっから早く行くぞ」
「聞けよ……」
信一は教師の言葉をまったく耳に入れず、視線が自分に集まっている中に、京太郎を見つけた。
佐河信一は清澄随一の不良。教師たちの間でも話題になることも多い。サボりの常習犯にも関わらず、成績優秀。学生議会長の竹井久に並び、手を焼かされる生徒の筆頭に挙げられる。
露見したことはないが、黒い噂も絶えない。中学時代の輝かしい戦績も含めて、彼の生徒間の知名度は高い。
彼も学生鞄の他に、宿泊用と思われる荷物を机の側に置いていた。
「先輩、そりゃないっすよ。せめてもう少し待ってくれませんか?」
「俺たちは三年待った」
「……それは卑怯っすよ」
しょうがない、と。京太郎は荷物を持って席を立った。
三年待った。京太郎もそれを引き合いに出されたら、屈するしかない。京太郎を待っているのは、彼ではなく彼らなのだから。
これから行く場所には、彼らがいる。新たなる好敵手の誕生、その覚醒の産声を聴くために集っている。
「じゃ、先生。さよなら」
挨拶は忘れずに、京太郎は教室を出ていった。
二人はそのまま、廊下を走って校舎を出ていく。校門で待たせていたタクシーに乗り込んで、どこかへ行って消えてしまっていた。
その様を、クラスメイトや教師はただただ、見ていることしかできなかった。
「という訳で、予定してた通り、明日から合宿だから」
麻雀部の活動の終わり際。当初の予定していた通りに、麻雀部の合宿を執り行う旨を伝えた。
欠員を抱えても、やらなければならない。才能こそあれど、一年の三人はまだまだ粗いところがあるのだ。
「あの、部長……京ちゃんは……」
「須賀くんは須賀くんで、強くなろうと努力しているわ。もしかしたら、一番伸びるのは彼かも」
「部長。聞きたいのは、あの人にどこに連れて行かれたということです」
一年生の彼女たちが聞きだしたいのは、京太郎が信一にどこに連れて行かれたか。
帰りのSHRで京太郎が連れて行かれたというのは、クラスメイトである咲が知っている。合宿を欠席するというのも、事前に彼から伝えられている。
しかし、京太郎はどこに行くかとは彼女たちには言わなかった。
「京太郎は、何も言わなかったじぇ」
「けど、部長たちは知ってますよね」
久とまこはそれを知っている。信一が部室に来た時に、スマホの画面で見せられたモノがそれに違いないと彼女たちは踏んでいた。
久はやれやれと、勘がいい彼女たちに苦笑する。
「……考え付く限り、高校生雀士にとっての最高の環境よ」
「そして、最悪の地獄じゃけえの」
「もったいぶらずに教えてほしいじぇ」
痺れはとっくに切らしている。
京太郎は、どこに行ったのか。それを早く知りたいのだ。
「静岡の東征大付属。麻雀をやる人なら、誰もが知ってる雀士の殿堂よ」
「東征……大……」
「うっわぁ……」
行先を聞かされた瞬間、和と優希は頭を抱えた。
まさか、そんなところに京太郎は飛び込んでいったのかと憂慮する。
高校麻雀をやっているものであれば、殆どの者が知る最高峰。在籍する部員は、補欠ですら卒業後にプロに誘われるほど。所属していること自体がステータスであり、現在の現役の男子プロの四割が、東征大出身者である。
曰く、『東征大付属における頂点とは、十代の頂点と同義である』と、東征大出身のプロ雀士が何年か前にこう言った。その言葉を、そのままに体現した修羅道なのだ。
「どんなところなんですか……その、東征大って」
唯一、知識のない咲が訪ねる。和と優希が絶句するほどの魔境、どんなところなのか知らなければならない。
「部員は全員、推薦によって入部しているわ。中学の段階から、既に入部資格の有無が測られてるの」
「プロユースか、東征大か。男子のトップエリートは、もう何年も前からそうなっとる」
多額の奨学金と、東征大のブランドによって、全国から選ばれ集められた才能たちを、ぶつけ合わせて珠にする。それを続けて、全国最強を名乗り続けている。
「見る?牌譜」
「あるんですか?」
「あるもなにも、ホームページで公開されてるもの。普段の練習のものから、他校との練習試合まで」
牌譜とは、いわば雀士のデータが詰まった塊である。データに精通した者であれば、それだけでその雀士を丸裸にすることだって出来る。
それをインターネット上にあげる暴挙。それは、研究してくださいと言っているようなものだった。
……だが、それでも。そうまでもしても、東征大の天下を阻むことは出来なかった。
「研究してもしょうがない。そういう連中だって念を押しておくわ」
そう言って、久は咲に牌譜の入った封筒を渡す。
「……はい」
それを受け取った咲は、京太郎の身を案じる。
もしかしたら、今日までの京太郎がいなくなってしまう……そんな錯覚さえ、覚えてしまうのだ。
静岡県、静岡市の静岡駅。長野から電車で移動を続け、ここに到着した頃は、とっくに日は傾いていて星々が輝いていた。
佐河信一、そして須賀京太郎の二人は飯田線で五時間近く揺られ続け、豊橋駅から新幹線で上って静岡までここにきた。
移動による疲れが顔に出ている。特に京太郎はヘバッて自分の荷物を持つこと自体が苦痛になっている。
「だらしねえな、京太郎。べばったか」
「そりゃ、あんだけ揺られてたら疲れますよ」
「言っとくが、疲れてる暇はないぞ」
「な、なんで……」
「そりゃ、もちろん」
言い切る前に、彼ら二人の前に車が止まった。
高級志向の白い国産車のセダン。しかも、新型であまり走らせていないのだろうか、ボディは新品そのものであった。
窓ガラスが開いて、そこから運転手の顔が見えた。
ストレートの、長く伸ばした髪。
とても綺麗な、美貌。年の頃は二十代の前半くらいに見える。
背は女性にしては高い方というのは、座っている様だけでわかる。
身にまとったスーツがとてつもなく似合っており、化粧も薄くいやみったらしくない。
格好よさと美麗さを突き詰めたらこうなるような、そんな理想形を形にした女性。
思わず京太郎は見惚れてしまっていた。
「乗って」
凛々しい、声。それでようやく、我に返った。
それに従って信一は後部座席に乗り、京太郎もそれに倣った。
「
「は、はい!」
「緊張してるの?まあ、無理ないかもね。一応とはいえ、こんな奴の知り合いだから」
柔和に微笑む命に、ドキリと胸が高鳴る。
ただ、可愛いだけなら和の方が上かもしれない。京太郎の好みで言えば、胸も大きくない。
しかし、全身から溢れるオーラ……雰囲気が、とても柔らかで心地よい。
こんなに綺麗で、一緒に居てみたいと思わせる人は、今までに見たことはなかった。
信一の知り合いということは、東征大の関係者だろう。つまり、麻雀部のコーチか何かだろうかと京太郎は考えていた。
「誰がこんな奴だよ」
「この時期に他校の生徒と合同練習をさせろなんて無茶苦茶、叶えるのにどれだけ骨を折ったと思ってるの」
インターハイ前のこの時期、実戦経験を積もうとどこもかしこも練習試合を必死に組もうとしている。
超名門の東征大も同じく。むしろこぞって必死に頼まれる側ではあるが、互いの都合が良くなければ対外試合は組めるものではないのだ。
どの地方もインターハイ予選が近いこの時期は、各地から名門校がこの静岡へとやってくるのだ。
「大阪から姫松に千里山。東京から白糸台。この週末に来るんだけど……もしかして、狙った?」
「
「もう一足先に来てるわよ。というより、この車は私のじゃないもの。浬先輩は別の学校の指導が入ってたから無理だけど」
「だと思った。お前の趣味じゃないから変に思ってたが。京太郎、ほんとお前運がいいな」
新参者の京太郎は話が読み込めない。
ただ、自分が大きな迷惑を被ったというのは理解が出来た。
「……あの、やっぱり俺のせいですか」
「いいのよ。須賀くんは何も悪くないわ」
後部座席から少しだけ見える横顔だが、朗らかに微笑んでいるのが見えた。
冗談抜きで、惚れそうになる。
和に抱いていたものは、憧れに近いものであった。
もしかしたら。もしかしたら、これこそが本当の……。
「私だって、貴方を待っていた一人だもの」
えっ、と京太郎は俯いた顔を上げる。
「東征大付属麻雀部、部長兼監督兼一軍大将。それがコイツの肩書だ」
今回の目的の、東征大の麻雀部……その部長。そう明かした信一は、ニヤニヤと悪い笑みを浮かべていた。
あらあらと、苦笑する命。まるで、こういうことは慣れているかのように。
「ついでに言えば、俺と同じく……三年前と四年前のインターミドルの決勝卓のメンバー、その一人でもある」
「……ということは、まさか……」
「────私、男よ」
──瞬間、京太郎の芽生えようとしていた恋心は砕け散った。