SUSANOWO麻雀紀行   作:Soul Pride

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 ──きっかけは、ある休日の日。

 

「合同合宿?」

「そうだ。四校一緒で合宿をしてほし──」

 

 藤田靖子の持ちかけようとした話題が出た瞬間、彼女の携帯の呼び出しが鳴った。

 久はどうぞ、と促した。

 一体誰だとスマートフォンの着信元を見た瞬間、靖子の顔がわかりやすく表情が変わった。

 口の中いっぱいに、苦味の強い粉末か何かを押し込まれたかのような、そんな顔に。

 電話に出るのを、躊躇った。やかましく着信音とバイブが鳴り続けているのと、靖子の顔色を見た久は、その時点で電話の相手が想像がついてしまっていた。

 

「……もしもし」

「混ぜろ」

 

 第一声がそれであった。

 主語がなく、具体的な内容がまったくわからない。いきなり混ぜろと言われたところで、何をどう答えていいのか困るところだ。

 

「何だ、急に」

「四校合宿だ。今さっき話題に出したろ」

 

 バッ、と靖子は背後に翻った。誰も、いない。

 左右も見渡すが……この近くに、少なくとも視界の範囲内には他の者は久以外にはいなかった。

 

「近くにいねーし、覗いてもいねーよ」

 

 薄ら笑いが混じってそう言われた。行動が手玉に取られていて、カッと顔が熱くなった。

 いくら相手が佐河信一とはいえ、年下にこうも玩ばれると威厳がどんどんと消失していく気がしていた。

 あの県予選を経て、あの『怪物』はますます人外さに磨きがかかった。この程度は訳もないということだろう。

 ……自分に対する威厳云々は竹井久(こいつ)相手も同じか。仲が悪いと言っておきながらなんだかんだで似たもの同士かと考えると……勘付いたのかムっとした表情になっていた。

 

「どっから聞いた?人に話したのはさっきだぞ」

情報源(ソース)なんざどうでもいい。混ぜろ、こっちはそれだけだ」

 

 どうでもいい訳がないだろうと、そう反論しそうに口が開こうとした手前に……電話相手の信一の声色がどこかおかしいことに靖子は気付いた。

 らしく、ない。佐河信一は強引で横暴で自分勝手だが……よっぽどの時以外は、常に態度には余裕があった。特に、自分を含む大人やプロといった相手。ユースチームにいた時は傲岸不遜を貫き通し、誰が相手だろうと中指を立てるのはしょっちゅうだった。

 口調が逸っている。いつも通り普段通りを装ってはいるものの、緊迫感が声に滲み出ている。電話という、声だけの情報でもここまで露わになってしまっているのだ。面と向かっていたのならもっとボロが出ていたに違いない。

 見下している藤田靖子(プロ)を相手に、余裕を無くしている?それも、自分に悟らせてしまう程に。

 

「……随分と、焦っているようだが」

「チッ……!」

 

 聞こえる舌打ち。図星だと、それは認めているも同じだ。

 

「ああ、焦ってるさ。つーか、焦らない訳がねーだろ」

 

 あの個人戦を、あの対局を見て。誰よりも追い詰められていたのが誰であったかなど、語るまでもない。

 

「だろうな、あの個人戦を観てしまえば納得できたよ。いいモノを見せて貰ったよ、あの面子以外で追い詰められた『怪物』なんてレアだ」

 

 ──そして、こうして弱音を吐いている今のお前も。それだけで、靖子はいい気分になれた。

 溜息を吐く音が、向こうから聴こえた。信一もまた、あまり気乗りはしていないのだ。化物(ともだち)ならともかく、彼女に頼るなどそれこそ無いに等しい。

 だが、頼らざるを得ない。今の自分に、下げる頭を惜しむわけにはいかないのだ。

 

「まあ、百歩譲って色々言いたいことを押し殺すが……何故今更、明らかに自分より実力の低い選手たちの合宿に興味を持った?」

 

 まさか下心を持っているわけではあるまい、と実は地元に許嫁がいるという情報を靖子は知っている。耳にした時は、年下のガキが生意気なと歯ぎしりしたものであったが。

 佐河信一と、四校合宿に参加する選手たちを比べれば、どう贔屓目に見たとしてもレベルが違い過ぎている。束になってかかっても、天秤が動じることはありえない。

 合宿の目的は長野県下のトップ選手のさらなる実力の向上。その研鑽と刺激を与える場として企画した。その中に、佐河信一が混じる。そうなった場合、女子選手たちに与える影響度は凄まじいものになったとしても、彼に得られる程のものがあるかは疑問だ。

 彼が持っていて、彼女たちが持っていない知識・技術・能力は数多くあったとしても、その逆はゼロではないか。たとえあったとしても、それが彼ら化物の麻雀に通じるとはとても思えない。そう言い切れてしまう。

 そんなことは本人がよく知っているはずだというのに。どうして、そうする必要があるというのか。

 

「……俺が欲しいのは、現状を打破する閃き(インスピレーション)だ」

「閃き?」

「材料はとっくに自分の中で揃ってんだ。それを俺の形にするためのモデルを、多く見ておきたいんだ」

 

 佐河信一は、『天才』能海治也に及ばずとも、極大の才能の持ち主だ。そして才能の方向性も非常に多彩多芸であり、麻雀という分野においてでも東征大式の打ち手に手札の量で匹敵するほどだ。麻雀に特化した能力者を相手に、(せかい)の外からの力を転用し、麻雀用に変換して渡り合える。

 しかし、その才能の巨大さは……信一本人が、未だ全容を把握しきれていなかった。

 今まで、自分の力を十全に使えていると思い上がっていた。自分の大切(たから)たちと和解して本来の絆を取り戻し、紛れもなく最強の自分であると納得がいった状態だった。

 それを、限界まで追い詰められたあの対局にて、気付かされた。

 

「──全戦力って、わかるか?」

「はぁ?それがどうか──!?」

 

 瞬間、靖子の脳裏に次々と思い浮かぶものが出てきた。

 ──化物の最奥、暴走、制御不可の暴力装置、決して踏み込んではいけない領域、化物を真に化物とするもの、別世界の展開、世界の生まれ変わり、天才型にとっては死、自己の摩滅、弘世命──。

 記録、記憶、知識、経験……靖子自身全く身に覚えのないそれを……信一の言う全戦力という事柄の意味を、まるで思い出すかのように理解した。

 

「理解したか?」

「したが……お前、何を?ああいや……」

 

 ────全戦力(それ)が今のお前なのか。

 

 靖子は信一により共有された記憶を知り、そうなっていることを納得した。

 記憶の共有化という業自体は、異端に属する彼にとっては遊びも同じ。超能力じみていようとも、靖子にとっては驚くことではない。

 佐河信一の全戦力。その意味は本来、彼の死を意味した。信一を基点に、彼と繋がる別世界……神々の世界を現実に展開するという、歴史上類を見ない大厄災を引き起こす。

 だが今、信一は変わらず生存している。世界に対しても、害悪を及ぼしてはいない。

 全戦力(そう)なっていると自覚したのはあの対局を終了して間もなく。生きている今の状態が、どういう理屈の上で成り立っているのか。信一の中で、考えられる説はたった一つしか存在しなかった。──それが如何に荒唐無稽だとしても。

 

「人が神と呼ぶ概念……それをそのまま腹ん中に閉じ込めたのが俺だ」

 

 ──全戦力状態の佐河信一は現在、世界を一つ分、余さず残さず呑み込み咀嚼し消化した。

 信一が多様する神々をはじめ、国内国外文化文明問わず……祈りが形になったすべての神を……名前だけ知っている神、名前すら知らない神話の神すら、よく知らぬままに腹の内に収まっている。

 

「スケールが大き過ぎて嘘くさいんだがな」

「言うな。俺だって、半信半疑だ」

 

 実際に自身の身で起きている信一が、実感がない。自己検診(セルフチェック)をしても、特に健康状態が変わってはいなかった。

 しかし、自身が呑んだ神々への信仰心が、自分の身へと注ぎ込まれていることを確かに感じていた。現在進行形で絶え間なく、いついかなる時でさえも。

 神となることの弊害、信仰を受ける際の、個人の意思の摩耗はない。単なる暴力装置になることはない。向けられているのはあくまで神へであって、その(せかい)である信一ではないからこそだろう。

 まるで『奇跡』みたいな状態だ。危うすぎる均衡を保っている今、彼はどうにでも転ぶことが出来てしまう。

 結果として、馬力は驚くほどに向上した。無限としか表現のしようのないエネルギー量。世界一つ食らっているのだから、当然といえば当然だ。今までの全力を行使しても、一切の息切れもしなくなっている違いない。

 ──代償として、力の指向性を見失い、性質が無色透明となって……総合的に佐河信一は著しく弱体化している。

 戦い方(スタイル)を、喪失した。正確に言うならば、今までの力の使い方ができなくなった。意思で武装し、神を使い、超然とした振る舞いで圧倒するやり方を、失ったのだ。

 何にでもなれるが故に、何にでもなることはない。才能(いろ)が曖昧になってしまった今の信一は、強固な自我によってなんとか己を保っていられている。

 なんでも出来る。なんでもわかる。同時に無知無能。世界という持て余す物を持ってしまい、途方に暮れた。今の自分がどこにいるのかわからず、宙に浮いたまま気持ちが悪い。

 炸薬の塊。信一を評するならこれ以上の表現はない。同様の存在を挙げるならばかつての京太郎、そして──。

 

「今なら命の心境が僅かながらでも理解出来る。これは、相当に辛い」

 

 全戦力状態より戻らず、それ以前を知らない親友、弘世命。今の自分は彼とそう変わらない状態にあると実感している。

 まだ自我が保たれている己は良い方だ。これが何日何週間何ヶ月何年も……続いたら呑まれるし狂う。

 

「どいつもこいつも一緒にしか見えんがな、こっちは」

 

 アリの視点から見てしまえば、人だろうと像だろうと変わらず巨大なものに違いはない。その差異などどうでもいいのだ。

 だが、当人にとっては非常に深刻な事態である。もとより理解して欲しいとも思わない。

 故、この合宿の参加要求だ。────お前は誰で、(しんいち)とはなんだ。お前の眼で、俺を映し取る鏡になれ。他人という視点から、少しでも佐河信一を取り戻す材料にする。

 他人と接する、他人と話す……他者と関わる行為全てが、今の信一にとっての最良の医療行為だ。特に、合宿には直接信一を知らないという条件が付いた者らが集う。初対面の印象という要素は、決して欠かせないのだ。

 

「合宿でなきゃいけない理由は?」

 

 ただ単に他者との交流が必要であれば、別に四校合宿出なくともよい。信一ほどの行動力ならば、見ず知らずの土地人と関わろうとも怖気ついたりはしない。

 それについて、信一は端的に答えた。

 

「合宿についての情報源は何だって言ってたな?」

「……?ああ」

「そんなもんは、無い。今の俺に必要なものに対してアンテナ張って、直感的に拾ったのがそれだっただけだ」

 

 完全な勘。正しくは信一の術理によって知ったのであるから、正確には勘ではないのだろうが、常識の内にある者らにとっては違いが見いだせない。

 自分の内の感覚が必要だと訴えた。であれば、そこに理屈はいらない。その判断と心中し、反射的に動けるのが化物という人種だ。

 見知らぬ他者との交流など、本当はでっち上げた後付の言い訳だ。その通りだが、それだけではない。信一にもわからぬ理由が存在する。

 何かがある。自身のこの現状を一変させる、劇薬染みた代物が、きっと。

 一切の根拠無しに行動に移すのもまた、化物(こいつ)らしいといえばらしいと、靖子は嘆息する。そしてきっと、こいつが望むものがあるに違いないのだろう。情報源における信用度など、化物相手に聞いたこちらが馬鹿なのだ。

 

「……そうなるまでやる必要はあったのか?」

 

 それはあの対局に対する侮辱だとわかっていても、靖子は聞いておきたかった。女子高生たちと違い、理解こそできないが男という生き物が後先考えないバカをすることを、彼女は年齢の分だけ知ってはいた。

 それでも大人しく、須賀京太郎に一位を譲っても、信一の全国進出は確定的だった。そういう計算ができないほど愚かではないはず。

 佐河信一は利口で、頭が良い。突っ走ることしか能の無い奴ではない。時に引くことも選択出来る男だ。

 

「あの対局はそうするしかなかったし、こうなるってわかっててもこうなっただろうさ」

 

 信一は、それが最高の選択だったと後悔はない。

 才能を全て捨ててでも、弱体化しようとも。こうするしかなかったし、これが最善だった。ベターではなく、ベストの選択を勝ち取ったのだと、疑いはない。

 ──そうしなかったならば、勝敗以上に大切なものを失っていた。

 

「……未だ、信じ切れないんだがな」

 

 藤田靖子から見た、須賀京太郎は。確かに化物に足る力を証明したが、どこか物足りなさを感じさせた。

 化物ではなくとも化物と対等に戦える権利を与える化物。常軌を逸した、挑みたいという願いを持たせる『魔王』だ。君臨する彼を倒したいと思ったなら、対峙する勇気を持ったのなら──その時点でその者は『勇者』になっている。

 だが、余りにも。化物というには普通が過ぎた。欠落が、足りてないものが多すぎた。

 初心者だというのもわかる。おそらくはその物足りなさも、経験という厚みが失せているせいのだろうと当たりをつけていた。

 初心者の化物。そんな歪極まりない存在が、いること自体が未だ信じ切れていない。

 

「京太郎がか?ありゃ本物だ。全雀士にとっての希望であり絶望であり、俺たちにとっての────」

 

 ──天敵だ。

 化物を殺す毒を持つ、化物。同族を生み出し、同族を殺すために存在する、魔性の存在における王。

 佐河信一は思い返す。今なお、自身を蝕み続ける──あの試合の勝敗を決した後の、京太郎が残した(ねつ)の、真の恐怖を。京太郎が見つけて至った、彼の麻雀(スタイル)を。

 

 

 

 

 

 勝敗は決した。点は並び、上家取りで信一が勝利という形で。

 だが、京太郎は和了できていた。最後の最後で力尽き、ほんの少しの差が分けた。

 本来ならば、信一が勝てるはずの勝負ではなかった。嶺上開花という役に、宮永咲という京太郎にとっての大切に、憧れに……真っ向からぶつかれば、自分が生命を賭そうとも勝てるわけがなかった。

 化物にとっての大切とは、そういう意味だ。化物(ともだち)は大事だ。しかし、それすらも天秤に釣り合うことがありえない。較べる以前の問題であるのだ。

 ──故に、須賀京太郎の敗北は必定であった。

 

「……そりゃ、負けるだろーが。重いもん抱えりゃ潰れるに決まってる」

 

 倒れ伏せる京太郎を俯瞰しながら悪態を吐くも、信一もまた動けずにいる。最低限歩けるようになるまで回復するには、まだ幾許かの時間が必要になる。 

 同格の化物……否、もう格上となった京太郎を相手に勝てたのは、単に極小の彼方の確率を掴み取ったわけではない。佐河信一の勝利は確定してあった。

 

「勝手に自滅してりゃ、世話ねーわ」

 

 決着の原因は、京太郎の自滅。それに尽きた。

 宮永咲のスタイル……嶺上開花は京太郎の麻雀に息づく根底であり、ここぞというときに抜く最強の鬼札(ジョーカー)だ。だが同時に、自身の生命よりも大事な大切(たから)でもあった。

 すなわち、自分の生命よりも大切な宝を……一時とはいえ勝利と引き換えに質に入れるも同じである。

 そして万が一にでも嶺上開花を使い、敗北するとなれば……それは京太郎の大切たる彼女に泥を塗るも同然だ。

 須賀京太郎が持つ最強の手札である。されど使うのであれば必勝の場面でなければならない。

 如何に満身創痍であれ、相手は佐河信一。勝利の目が那由多の果てをいこうとも絶無だろうと、拾い上げる男だ。

 それがほんの僅かな綻びを生じさせ、京太郎に迷いを植えつけた。化物同士の極限のせめぎ合いにおいて、その迷いは何よりの命取りとなる。

 その上、京太郎自身もまた問題があった。

 宮永咲を、清澄の皆を、大切に想い過ぎていた。そう想うこと自体は化物にとっては息を吸うように当たり前なこと。ただ京太郎は、余りにも強く想っていた。自身の想いに体が耐えられず、重く潰される程に。

 信一が言う自滅とは、このことだ。最強の手札であるが故に、自己すら滅ぼす。京太郎が鍛え、作り上げた最強の剣は、京太郎本人が扱えなくなるほどに進化を遂げてしまっていた。

 

「……焦り過ぎたかね、お前も」

 

 ────俺達も。光の速さの如き京太郎の成長速度は、何もかもを置き去りにした。京太郎に惹かれ、引っ張られて、とんでもない歪みを生んでしまったのではないかと自問する。

 後悔はない。信一も、そして京太郎にも。後悔こそないが……こうやって走り抜けた今、心に残ったのは風が通り抜けるような寂寥感だった。

 まだまだ、先はある。ここが果てなどではない。もっともっと強くなれる。そう信じているし、そうだと知ってはいるが、吹き抜ける一抹の侘びしさを感じざるを得ないのだ。

 

(少し、立ち止まってみろってことかね)

 

 天井を仰ぐと、バタバタと走る足音が耳に入る。数は十、誰が来たなど、音のする方へ目を向けずともわかる。

 

「京ちゃん!」

「信一様!」

 

 血相変えてやってくる清澄と永水女子の十人。血みどろの死闘と言って過言ではない対局を演じていれば、心配するなと言う方が酷だ。

 対局が終わってすぐ、彼女たちは走った。京太郎は倒れ、信一は息絶え絶え。そんな彼らの側に、居なくてはと駆られていた。

 どっちが勝ったなど、どうでもいい。ただ、無事でいてくれというのが願いだ。

 

「救急車、早く!」

 

 竹井久の切羽詰まった表情。なかなか見れるものではないと、信一は薄く笑う。

 染谷まこも、片岡優希も、原村和も、宮永咲も……ほとんど泣きそうな顔で、倒れ伏せる京太郎の側にいる。

 とんでもない幸せ者だ、と信一は妬きそうになる。

 大事だと、大切だと想う者らに、ここまで想われる。想いは確かに報われ、京太郎の力になっている。強くなるはずだと、納得がいく。

 清澄の環境は京太郎の成長を阻む籠になる。信一は最初そう思っていた。だから、東征大の練習以後、京太郎の意思に任せると久に釘を刺したのだ。

 真実、京太郎は清澄の皆から想われていた。それを見抜けなかった自分もまだ、未熟もいいところだと自嘲する。

 

「大丈夫ですか、信一様」

「大丈夫だ、小蒔。一人で立てる」

 

 ようやく、歩ける程度には回復が出来た。気だるさこそ抜けないものの、それはそれで悪くはない。

 倒れたままの京太郎と、それを取り囲む彼女たち。そこへと信一は歩む。

 ギロリと、信一へ睨みつける。京太郎をこうした相手に、敵愾心を抱くのは仕方ないと肩をすくめた。

 

「オイ、京太郎。いつまで寝てやがる」

「……結構、ギリギリなんですけどね」

 

 倒れていた京太郎は信一の声に応え、むくりと上体を起こす。大量の汗を流し、顔色も青くなっている。お世辞にも普通とは言えない状態だ。

 だが、所詮はギリギリなだけだと信一は切って捨てる。

 

「京太郎。俺の、勝ちだ」

「……ええ、俺の負けです」

 

 この期に及んで勝ち負けなど、と久はさらに信一へと憤る。文句の一つでも言わなければ気が済まないと堰を切ろうとするが。

 彼女の前に手を翳され、止められた。その手の主は京太郎であった。

 京太郎にとって、信一にとって。これは大事な儀式なのだ。大事な、確認なのだ。

 

「お前らも、さっさと起きたらどうだ」

「頭、ガンガンする……」

「超痛ぇー」

 

 卓に突っ伏したままの松代の二人も、頭を抱えながら顔を上げた。

 

「勝ったのは、俺だ」

 

 そして彼らにも信一は勝利宣言をする。半ば気を失っていたも同然だったからそれを告げるのは勝者の責務であると、当然のように。

 それを聴いた途端、みるみるうちにくしゃくしゃに歪んでいく。

 ぽっかりと、胸の内に空く洞。じわりじわりと、湧き出てくる激情。鼻を、つんと刺激するもの。

 

「……っあーーっ!!なんだ、これ!?なんか、なんかもうっ!!」

「悔しい……ああクソ、悔しいなチクショーッ!」

 

 ──天を仰ぎ、瞼を抑える手から溢れて頬を伝う、一筋の雫。

 全力以上の力で向かい、全力以上の力で戦い、全力以上に楽しんで……そして敗れた。

 力を出し切ったことに疑いはない。やりたいことをやって、その結果に憂いはない。

 相手は化物、相手は『怪物』佐河信一、相手は『魔王』須賀京太郎。負けて当然、勝てるはずのない相手。

 ……だというのに、このとめどなく来る感情は、激情は……悔しさは、何だ。

 

「また、打とうぜ」

 

 満面の笑みで。永水の皆すらも滅多に見ない、信一の最高の笑顔で。

 この対局を演じた戦友たちに、最大の感謝と称賛を、とびっきりの勝利の勝鬨を以て贈った。

 

 

 

 

 

 インターハイ男子個人戦長野県予選、終了。

 総合順位、一位佐河信一、二位須賀京太郎、三位小呂貞之──以上三名が全国(インターハイ)出場決定。

 最終戦にて倒れた京太郎は、救急車に運ばれ病院に。久とまこが付き添いとなり、上位入賞者の二人を含む一年組を会場に残した。

 ……誰が付き添いで行くと決める際にも一悶着起きたが、ここでは割愛する。

 表彰式は、二位の段が空席のまま行われ、粛々と進められた。女子の方も、二位と三位の段に立つ者らも全国出場を決めて喜ぶことはなく、浮かない表情をしていた。

 閉会式終了後、信一は永水女子の皆と別れる。見送ろうとしたが、彼女たちはそれを断った。

 試合後、佐河信一の内に起きている急激な変化、変質。それを彼女たちは感じ取っていた。当然、信一本人もわかっている。

 最早彼女たち──それどころか史上誰であろうとも──では対処のしようのない領域の変化であり、こればかりは信一本人が向かい合わなければならないものだ。

 

「よう」

 

 ほぼガランとなった会場駐車場に停まる白いセダン。ナンバーも同じ……浬が蘇芳から貰った車だ。

 そのボンネットに腰掛ける弘世命と、その隣に立つ能海治也。運転席には白水浬がいる。

 

「……私と、同じになったわね」

「あん?」

「……いえ、私が無いものを持っていて、私が持っているものが無いというのが正しいか」

 

 命は信一を一目見て、自己との違いを見破った。全戦力状態から戻らぬ自身とはまるっきり逆。全戦力状態の完全なコントロールをするために欲するものを──突出した才能を持っている。

 逆に、信一は命の持つもの──闇に食われないための人を捨てる意思力、『修羅』となる覚悟──即ち、資質(あい)が足りない。

 

「おいおい、待て。俺がお前より資質が足りないだぁ?」

 

 化物同士のシンパシーで、十分に言葉にせずとも理解ができる。

 そして、自分が命より資質が無い。つまり、麻雀に対する愛がないと断言された。

 そう言われて黙ってなどいられない。如何に信一が天才型で、資質が麻雀の力に直接直結しないとはいえ、麻雀に対する執着の深さと大きさは命に負けるなど欠片も思っていない。

 化物たちは人であることを拘る。いかに人外染みようとも、その一線を譲りはしない。人を捨てる覚悟で得られる力があるなら、人のままあることで強くなる力もある。『修羅』に落ちた命が異端で例外なのだ。

 

「そうね、足りない……というより皆無ね。神へ向ける愛が」

「あ?」

「わからない?そもそも繋がってる場所が違うもの。私は麻雀そのもの、貴方は神という概念そのものよ」

 

 佐河信一は天才型だ。天才型は、この世界の外からこの世にない説明のつかないもの(オカルト)を引っ張ってきて利用する。先達たる全戦力状態の命と決定的に違うのはソレだ。

 本来、天才型の全戦力はイコール死だ。別世界の法則を流れ出す基点と成り果て、擦り切れて死ぬ。

 だが、信一は覆した。世界という、人には深く重く広く、どうしようとも手に負える代物ではないものを、たった一人で呑み込んだ。

 時代に寵愛された才、神を踏み倒す意思力、そして──。

 ──須賀京太郎という、身を滅ぼすほどに強力な劇薬。

 それらが合わさり、不可能であるはずの事象を可能にした。生きながらの、神が棲まう世界になった。

 

「神への信仰(あい)だぁ~?ふざけろ」

 

 信一にしてみれば、神は道具だ。それ以下になることはまだしも、それを上回ることはあり得ない。

 神とは祈りの集合体であり、力の塊だ。力があるからこそ人は祈り、奉る。それを凌駕する信一は信仰を持つなどない。崇めることなど、断じてない。

 

「……まあ、それでいいんじゃない?」

 

 その自尊心が信一足らしめているのだから、改める必要もない。

 言いたいことは言った。信一が全戦力の扉を生きて開けたのは驚愕こそしたが不思議ではなかった。何年後、何十年後かわからずとも、絶対に、いつかはやるだろうことをやっただけなのだから。信一には、そして治也には、それができるという確信があった。

 ──世界一つ呑み込む度量を有して、天才型の全戦力は成し得る。彼らにはそれがあるのだと信じていた。

 

「次は俺だ。優勝おめでとう」

「……んだよ、らしくない。負けず嫌いのお前が人を祝うなんざ」

「俺が出てない大会だからな」

 

 祝うよりも、祝われることの方が多い者らである。基本、賞賛と名声には事欠かない。

 プロという立場によって学生の大会出ることができない治也にとっての、存分に麻雀を楽しんだ彼らへの嫉妬の発露だ。

 ……そして、このままを貫くと予想がつく佐河信一への、せめての餞別だった。

 

「──持って、二ヶ月」

 

 ────それがお前の、寿命(タイムリミット)だ。

 治也からの余命宣告を、信一は黙って受け入れた。

 だろうな、と信一も納得している。相当な無茶を重ねすぎた。精神が保っても、器たる肉体は高校生の域を出ない。精神が肉体限界を超えるのを当然にしていても、どうしても生命の入れ物は肉体に他ならないのだ。

 

「救急車に運ばれるべきなのはお前なんだがな」

 

 何が原因で、どういう理屈で、如何なる経緯でそうなったのか。あの試合を見ていればおのずと理解できた。

 信一の体はいくつもの病魔に侵されている。白血病、悪性腫瘍、狂犬病、糖尿病、エトセトラエトセトラ……。対局前は万全の健康体だったのにも関わらず、今では終末医療を施すしかないほどに手に負えなくなっている。

 罹る確率は極小、もしくは絶無。化物として誰よりも無窮に近づいた信一にしてみれば、人の病に蝕まれるなどそれこそありえない。たとえそうなろうとも、使役する神に病魔あるいは医療を司る存在を両手の数で数えられないほど持つ信一にしてみれば、即座に治療することが可能であった。

 ……それが、出来なくなっている。余命を宣告されたのは、そのためだ。

 

「で、どうする?一応、二ヶ月持つぞ。インターハイには間に合う。だが……」

「その後は確実に死ぬんだろ。いや、インターハイで京太郎に当たったら、卓の上で死ぬだろうな」

 

 当たらないわけがない、と信一は確信している。今日のこの敗北で、京太郎は自分の力の程を知り、そして佐河信一の力を知った。そして更に力をつけて成長し、インターハイで再び衝突する。

 その時が己の死に際だ。避けられようもない、そして踏破するにはあまりにも時間が無さすぎる。これを独力で超えるということは、京太郎の心を折るも同然。それが出来るかどうかは可能不可能以前にやりたくない。

 そして、麻雀で死ぬという選択肢は……治也の予想を反し、佐河信一の中ではもうありえない。

 自分の死に繋がる選択は、絶対にしない。死が怖いのではなく……死によって涙する大切(たから)がある。それが何よりも恐ろしい。それが何よりも痛い。

 だからこそ、この選択肢が取れる。今まで取らなかった、命に言われてもありえないと断言したそれに。

 ……情けなくとも、惨めでも。自分は生に執着しなければならない。

 

(……あー、クッソ。恨むぞ京太郎)

 

 須賀京太郎は『魔王』──化物に対する化物、化物を産む化物、化物を導く化物、化物を殺す化物……ありとあらゆる、化物に対する天敵だ。

 で、あるならば……最も信一に効果的な殺し技を、京太郎は打ってきた。

 佐河信一は全戦力に至った。至らされた(●●●●●)。ありとあらゆる苦痛を京太郎に叩き込まれ、限界を超える形で信一は全戦力になった。

 しかし、全戦力になったものの完全な会得には至らない。弘世命(すてた)佐河信一(すてなかった)かの違い、至った方向性(せかい)の違いこそあれど、立っている位置は絶対値でいえばそれほど差はない。

 今の信一は、全知全能にして無知無能。何も存在しない暗黒の宇宙に漂い、地に足につけることができない。今までのように、感覚で神を使うことができない。己の意思と才覚で、敵をねじ伏せられない。自分の体が自分の体でないように、様々な差異が表れており、狂いが生じている。赤く見えていたものが白く見え、聞こえていたものが聞こえなくて、嗅げなかったものが嗅げるようになった。

 病を治すには……今まで必要のなかった過程を踏むことになる。

 自身に繋がる世界……有り余る才能と感覚に任せていた説明のつかない現象(オカルト)を、ちゃんと(●●●●)理解しなければならない。

 オカルトへの理解……それはすなわち、信一にしてみれば道具の構造に関心を寄せると同じであり……神への理解、言い換えれば関心(あい)を持つということである。

 神は道具。道具がどうしてどうなっているかなど、信一は興味も持たない。道具としての機能が果たされればそれで良かった。

 ……しかし、そうはいかなくなった。本当に大事なものを譲らないのであれば、折り合いをつけなければならなくなった。

 最愛の大切(たから)を持ち、全戦力となった信一に、必要を迫ってきた。

 ──神に対するつまらないプライドを捨て、真に向き合う覚悟を。

 ──自身を構成する全てを掻き集め、一に回帰して初心(はじまり)を思い出すことを。

 ────そうしなければ次は、京太郎に絶対勝てない。無駄を削ぎ落とし、鍛え直し、佐河信一を一から作り直さなければ勝機はない。

 重ねるが『魔王』須賀京太郎は化物に対する天敵だ。

 化物に足りないものを容赦なく突き付け、そうしなければならないと必要に迫られる。

 本人が意識せずとも、そういうものであるのだ。

 故に、同時に天敵でありながらも……導くものなのだ。

 そういうものであるということを、痛感させられる。

 ──それが須賀京太郎のスタイル。

 スタイルとは、麻雀における雀士自身による性質よって決まる。才能しかり、気質しかり、拘りしかり。そして多くは、本人の自覚なしに定まる。

 立ち塞がるもの。突き付けるもの。向き合うもの。そして、導くもの。『魔王』と対峙するもの全ては『勇者』であり、その勇気を試される。

 卓から立った後にも、試される。自身のためだけでなく、誰かのためにある麻雀の形。

 

「……命」

「ん?」

「前言撤回だ」

 

 そこに道筋があるというのならば。たとえそこが嫌悪に満ちた己にとって糞尿にまみれた場所であろうと。

 

「知ってんなら教えろ、理解(あい)しかたってヤツを」

 

 踏みしめることを、躊躇いはしない。


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