「……今日は、ここまでよ」
日が暮れ、完全下校時刻の数分前になったところで、部長の久が今日の部活の終了を宣言した。
今日、この日の部員全員の有様は散々だった。普段は絶対にしないようなミスを連発したりと練習に身が入っていなかった。
その原因は、わかりきっていた。
怪物……佐河信一が蹂躙していった後、京太郎もその後を追うように部室を出て行った。
「……久、どうして京太郎を行かせたんじゃ」
「アイツの言った通りのことよ。選択権があるのは私たちじゃなく、須賀くん自身よ」
一年生組が去ったこの部室で、染谷まこは竹井久に追及した。信一はともかく、京太郎を止めることはできたのではないかと。
その久の解答は、自分たちに止める権利はないというものだった。
京太郎が選んだことであって、それを止める権利は彼女たちにはない。そんな当たり前なことを、忘れていたのだ。いつの間にか、京太郎は自分たちのものであると勘違いしていたようだった。
男子部員で、初心者。女子が五人そろって、団体戦に出場できるようになった今、彼を蚊帳の外に立たせてしまったのは申し訳ないと彼女たちは思っている。
強くなりたいと、切に思っていた。勝ちたいと、強く願っていた。知っていて、気付かぬふりをしていた。
ただ、周りにいたのは屈指の実力者たちばかりで……練習とはいえ真剣勝負だから手加減もなく、実力が向上しているという実感がまるでなかったに違いない。
そして自分に求められているのは、麻雀の実力ではなくただのマンパワーとして。雑用の要員として。部員ではなく、マネージャーとしての面だった。
あのままだと、麻雀部を辞めていたかもしれなかった。否、確実に辞めていただろう。
故にあの麻雀はある意味、咲以上の衝撃だったに違いないと久は思う。
奇跡、偶然、超常、どんな言葉で表現しようともしきれない魔人、佐河信一。
意のままに牌を操っているようにさえ見える、信一の力。決して超えることができないと思っていた咲や和、優希をいとも容易く蹂躙した数々の絶技。京太郎にはそれが、何よりも鮮烈で魅力的に見えたに違いなかった。
同じ力が欲しいと思うのは、無理もなかった。
「……嫌な女ね、私」
「知っとる」
「そこは嘘でも否定してちょうだい」
「本当のことを言った方が効くじゃろうが」
「そうね。痛いくらい」
大きい、そして重いため息。息を吐くと、呼気どころか体のエネルギーすら逃げていきそうだ。
こんなにも嫌な性格な自分に、嫌気が差す。
「……久。アイツに、何を見せられたんじゃ?」
まこが問うのは、スマホに映った信一に見せられたもの。そこに、久が納得せざるを得ない材料があったのは間違いなかった。
「高校のホームページ」
「高校?」
「そこの麻雀部なら、確かに須賀くんを強くできるわ」
「男子で麻雀が強い高校……松代かの?」
「県内じゃないわよ。全国区……インハイ常連の」
「……ああ、山梨の甲斐……」
「惜しいわね。もっと南」
「……マジか」
「マジよ」
まこは、呆気にとられる。
山梨の南、とくれば静岡。その静岡の男子代表の名門となれば、まこは一つしか知らない。
「────東征大付属かぁ……」
うわぁ、とまこは頭を抱えた。
東征大付属。正式名称、東征大学付属震洋高等学校。男子の高校麻雀に関して言えば、名門中の名門である。
高校男子麻雀最強。インハイ常連どころか、インハイ優勝常連と言い換えても間違いではない。
今現在、女子で最強の東京の白糸台と比べても、その格は圧倒的に勝っている。過去十年、春季夏季秋季と、全国・地方で優勝を逃したことはない。
「そりゃ、アイツのキャリアからすれば、誘われてない方がおかしいじゃろうが、今は部外者じゃろうに。どこにそんなコネが……」
東征大が最強と呼ばれる所以は、全国から余さず有力選手を誘致しているからである。
高校男子麻雀が人数の割には女子よりレベルが落ちているのは、主だった選手は中学卒業の時点でユースチームか東征大に誘われているため、全体の実力が下がっている現状だ。下手をすれば、中学よりもレベルが低く見られがちになっている。
無論、佐河信一も例外なく進路候補に東征大があった。それを蹴り、ユースチームに加入して清澄に入学した経緯がある。
「東征大には、二人いるわ」
「二人?」
「アイツの同類」
「あぁ……」
それだけで、まこには納得できる材料になる。信一の同類であるなら、求めているものも同じ。戦いがいのある相手、勝ちたい相手であるのは当然だ。
「じゃけんども、それじゃあここの二の舞にならんか?男子麻雀のエリートが集まる場所じゃ」
「まこ。アイツとその同類が、まともな麻雀を教えると思う?」
「……ないなぁ」
まともな麻雀……和のようなデジタル麻雀を教えたり、牌効率を徹底するなど想像つかない。常識で図れない連中なのは間違いない。
天和を繰り返せば必ず勝てる。それを臆面もなく言い切ったのが信一だ。
信一は言った。同類の打ち手が欲しいと。勝ちたいと思える相手が欲しいと。そのために、京太郎を育てると言った。
その同類が、怪物がそこにいる。
京太郎を怪物にするのなら、超常的な麻雀を覚えさせるだろう。
「まあ、予選まで待ってみましょう。転校も退部もしたわけじゃないしね」
「大丈夫かな、京ちゃん……」
「大丈夫なわけありますか、宮永さん。あの人の麻雀は運頼みで、そんなものを須賀君が覚えようとしたら上手くなるどころか下手になるのが目に見えています」
麻雀部一年生三人は、先ほど校門を出たところ。
咲は信一についていって出ていった京太郎を案じていた。
麻雀云々ではなく、信一という人柄が好きになれそうにない。卓を囲んで、咲は理解した信一の中にあったもの……あの紅蓮地獄を垣間見て、おぞましいと感じたのだ。
「だけどのどちゃん、アレは冗談抜きで神憑ってたじぇ」
「あれはただ運が良かっただけです。あんなの二度とは続きません」
和は信一の麻雀を納得していない。あれを麻雀とは言わない。実際に目にしても、信一の所業を偶然と断じている。
ただ信一の運がよかった。ただ自分たちの運が悪かった。信一がそう言っていた。
幾千、幾万、幾億分の一回。それが偶々今回だった。和はそう納得するしかなかった。
「運が悪かった、から……」
「……どうかしたのか、咲ちゃん」
「麻雀て、不条理だよね」
咲がつぶやいたのは、麻雀につき回る運の要素。
運七割、技術三割と言われるように。麻雀における運の要素は大きい。
無論、技術で埋めることは可能であるが、それだけで埋めることが叶わないどうしようもない差が存在する。
「絶対に上がれる時もあるけど、そうじゃない時もある。役満を目指せる手もあれば、テンパイすらできない局だってある。そうだって、最初から知ってたのに」
改めて考えると、不平等で不条理で、残酷過ぎるほどに理不尽な、麻雀という競技の歪んだ根幹。運が絡むゲームの常。口にしなければなるほど、わからないことがある。
「運がなかった……それって、お前は弱いって言われたような気がしたんだ」
信一が言った言葉の本質に、咲は気づく。それは恵まれない運を憐れんでいたのではなく、最大級の皮肉だった。
麻雀には欠かせない、天運という牙。それを磨く術を知らず、未熟なままなのが悪い。
理外に居る怪物にとっての常識とは、常人の常識とはかけ離れている。
「そんなの……ただの驕りです!麻雀は運だけではありません!」
「……私だって、そう思いたい」
咲も、麻雀がそんな底の浅いものとは思いたくなかった。運だけで捻じ伏せてしまう競技なんて、認めたくなかった。
ただ、あの怪物は結果を残している。あの運に頼り切った麻雀で、数々の轍を残している。
……インターミドル三連続
「……そう言えば、あの人を破った人がいるんだよね?」
あの怪物を。あの魔人を。あの佐河信一を倒すことができる人がいた。
準優勝という経歴が語っている。優勝という肩書を背負っているのは、一体誰なのかと気になった。
「言いたくありません」
「え?」
「あんなオカルト、認めません」
「あ、待つじょのどちゃん~」
頑なに、和はその話題を拒絶する。
オカルトというのは、信一のことなのか。それとも、語らぬ優勝者のことなのか。
速足で歩いていく彼女は、まるで逃げるように。その背を優希は追っかけていく。
麻雀の本質とは、何か?
「十割、運だ」
「……いや、それ言っちゃお終いじゃないっすか」
清澄高校から、そう遠くない雀荘。……否、雀荘というよりマンションの一室。
完全な違法の、高レートの麻雀をやっている高層マンションの雀荘。そこに、高校生二人が卓に座っている。
隣り合って座っている二人の対面には誰も座っていない。開店したばかりで、客がまだ入っていないのだ。
京太郎は入店した時から恐恐としており、居心地が悪そうにしている。
こんなところに出入りしているとバレたら、良くて退学。悪ければ刑務所……そう考えていた。
ビクビクと怯えている京太郎に、信一はふーっとため息を吐く。
「安心しろ。金を使うのは俺であって、お前は打つだけでいい」
「はい!?」
「外ウマって……ああ、わかんねぇか。ここのルールはちょいと特殊でな。二人一組が原則で、金のやり取りは出資者……つまり俺の役なんだが、そいつらの間だけでやる。打ち手同士の差ウマは認めない。金の心配は全くしなくていい」
「特殊どころか標準ルールすら知らないんですけど!?というより知りたくなかったんですけど!?」
「何にビクついてんだ」
「ここに入っているってバレたら、どうするんですか!?下手しなくても退学ですよ!」
「ああ、ねえよ。だってここ、県知事のボンボンの息子が経営してるし。警察は黙認してる。それと他の客の事情に踏み入ることは厳禁だからな」
それでも心配なら、と信一は通学鞄代わりに使っているスポーツバッグの中から、とある物を取り出す。
「コレ、被れ」
「なんスか、コレ」
「仮面。顔バレしたくないってヤツは少なくないからな」
京太郎へと渡したのは、某ハッキング集団で有名なガイ・フォークスの仮面。
それで顔を隠せば、顔バレは防げる。ちゃちな代物であるがないよりはいいという物だ。
「……まさか、勝てっていうんじゃないですよね?勝てなかったら、何億とかの借金とか」
「マンガの読みすぎだっての。そんな勝負は…………多分」
「多分!?」
「悪い。ダチのとこに遊びに行った時に何度か巻き込まれたことがあるからないとは言えねぇ。まあ、大丈夫だ。ここはレートも固定されてるし」
「……参考程度に、教えてもらえませんか?」
「聞かない方がいいよ。金なんて必要以上持ってたって紙切れでしかないから。お前はまだそこまで割りきれないだろ」
金には魔力がある、という話がある。しかしその魔力は魅入られた本人が勝手に見ているものであると信一は信じている。
しかし、信一はそこまで京太郎に要求しない。信一は親友のせいでそこまで割り切ることが出来たが、京太郎にまで同じように求めるのは酷と思ったからである。
棲む世界が、違う。京太郎はつくづく思う。どうして自分がこんな人と一緒にいるのか。
「京太郎。今日はお前に勝てなんて言わない。むしろ、負けろ」
「はい?」
「俺はまだ、お前がどんな打ち手なのかすら知らないんだぜ。勝ち様より負け様の方がよくわかるんだ」
「お金、賭けてるのに?」
「金を使わなきゃ出会えない打ち手がいるんだよ。表に出ない、裏の打ち手………そういう連中とやり合えば違うものも見えるもんだ」
そのためならこの程度の出費は安い、と信一は笑った。
麻雀を楽しむためなら、手段は選ばない。味わえなかった体験をするのなら、どんな方法すら取る。
まず最初にこの高レートの雀荘を選んだのは。麻雀という競技の根幹を身をもって知って欲しかったから。
それを知り得るには、本物の雀士と戦った方が手っ取り早い。昭和の暗黒期から脈々と続く、闇世界の真剣勝負を肌で感じて貰えばわかるはずだから。
「返して、なんて言われても俺は返さないっすよ」
「返してくれんのか?だったら、是非勝ってくれ」
「……?負けた方がいいって」
「そりゃ、実力を見れればそれでいいがな。一番大事なのは、お前が楽しめるかどうかなんだよ」
一番大切で、最も大事なこと。それは京太郎が麻雀を楽しんでくれるかどうか。
金が絡む絡まない関係なく、楽しんで打ってくれるのが至上の目的だ。
「勝って楽しむことができるなら、お前は勝った方がいい。負けてくれなんて言った俺が浅はかだった。許してくれ」
素直に謝る信一に、京太郎は彼の人柄を改める。
どこまでも、どこまでもこの男は麻雀に真摯で純粋なのだ。
故に、負けてくれと京太郎に言った自分を、恥じた。
「……けど、俺にそんな才能なんか……」
「京太郎。才能と資質は、全くの別物だぞ」
信一は、語る。
「才能ってのは、勝手に開花するもんだ。俺は色んな打ち手を見てきたし、中には天才とか神童とか呼ばれる奴と打ったこともある。だけどそういう奴に限って長いこと息が続かないんだ」
壊れて打てなくなった雀士など、いくらでも見てきた。壊してきた雀士も指で数えきれないほどいる。
だからこそ信一は知っている。才能に恵まれた
「京太郎、あの部室に居たのは全国有数の雀士どもだ。それに混じって初心者のお前が打ち続けたら普通は辞めたくなる」
全国を知り尽くした信一は、清澄の女子五人の実力を高く評価している。特に今日、打った一年生三人は潜在能力はかなりのものだ。
初めたばかりの頃は、楽しんで打たなければならない。勝敗に関係なく、麻雀を面白いと感じられるのが肝要なのだ。
そして、圧倒的な負けが続けば嫌になるのが必然。
モチベーションは落ち、熱意は失せ、麻雀そのものが嫌いになるのが当然だ。
「けどな。お前を初めて見た瞬間、直感したよ」
「何を……」
「絶対に、麻雀を辞められないってな」
予感……否、確信そのものだった。
燻った炎のにおい。燃え上がりたいと願う、激情の火炎。
灰山に埋もれて、尽き果てようとしている。消え果てまいと、最期に燃焼する。誰か気付いてくれと、終わりたくないと足掻く焔。
久々であった。想いに、願いに、渇望に、五感が働くのは。
執着しているのだ、それほどまでに。手放してしまえば楽になれる。そう知ってる、知ってるはずなのに、捨てることができない。
体が染みついてしまっている。麻雀を続けたいと心臓が悲鳴を上げている。牌を打ち続けたいと血が叫んでいる。サイコロを回し、点棒を奪い合い、ギラギラと燃えるような真剣勝負がしたいと全身で絶叫している。
須賀京太郎は、完全麻雀体質になりつつある……。そんな男だと、一目で看破した。
信一の霊感や直感は図抜けており、秘めた感情を察することができる。しかしそれは、毎度毎度起こることではない。本当に滅多にない、とても珍しい現象だった。
その前例で最新だったのが、三年前のインターミドル決勝時。自分の人生のターニングポイントで、重要な岐路に立ち止まる都度、現象が起きていたのも同時に思い出した。
そんな京太郎の想いを。見ず知らずの下級生であろうとも、見捨てるわけにはいかなかった。
そんな男が存在する奇跡、自分がやらなければ二度はないと悟ったのだ。
「才能なんてもんはな。いくらでも後付けがきく。勝ちたいんだろ?」
雀士に本当に必要な資質を、京太郎は既に持っている。ならば、下地は整っている。
力が欲しいのならくれてやろう。強運を得たいのなら授けよう。能力を覚えたいのなら、その秘奥を、核を、理を叩き込もう。
「おう」
京太郎は力強く頷く。そのために、ここまで来たのだ。
自分の力で強くなる。自分の力で勝ってやる。
自分の力で、麻雀を楽しめるように、なりたい!
「承った。俺は、その願いの一助となろう」
覚悟を、決意を聞き届けた。
丁度、来店者が入ってきた。慌てて京太郎は、渡されたガイ・フォークスの仮面を被る。
京太郎と同じように顔を割られたくないようにひょっとこの面を被った男や、明らかに堅気でない強面の男、スーツのサラリーマン、高級そうな服を纏った老紳士、見るからに無職のデブなど……。
そして……信一が眉を動かす際物がいた。
「……ホント、お前は運が良過ぎだよ……」
「へ?」
「ホンモノが来た。存分に打て」
卓から立って京太郎の肩を叩いて喝を入れる。笑う、笑う。信一は笑顔になる。
わかる。わかってしまう。姿が、佇まいが、五感が訴えている。出来るやつが混じっている。
一番最後に入ってきた、黒シャツに黒ネクタイ、黒のパンツと黒ずくめの男……どうやら、老紳士の打ち手らしい。
これで、打ち手と出資者が揃い、八人。
面子が、揃う。
「……そこの坊主、ああ面被ってない方……打たないのか?」
「俺出資者」
「……ふーん、ど素人に打たせる道楽かい」
やくざ風の男がそう言うと、肥満体の男を引っ張って卓につかせた。
打ち手は全員、卓につく。北家に京太郎、西家に黒い男、南家にデブ、そして起親がスーツのサラリーマン。
そして出資者は各々の打ち手の後ろに付く。そして全員腕を組み、微動だにしない。対局が終わるまで、ずっとそのままだ。喋ることも許さないし、動くことも許さない。互いが互いを監視し、通しを防止する役目を持っている。
──サイコロが、回る。