懐かしさすら感じる清澄の麻雀卓。この部室にたった一つしかない卓のこの席に座ると、帰ってきたのだなと深く思う。
そして思い出す。ここで、この場所で、無力だった自分がいたことを。ずっと勝てなくて、負け続け、陰で涙を飲んでいた自分がいた思い出が、昔々の遠い記憶のように思えてしまう。まるで何ヶ月も、何年も昔のように……。
麻雀部から離れていた時間は、そんなに長くなかったはずなのに。それほどにまで濃い数日だったのだと、信一と過ごした日々を思い返す。
(そう、だな。ここから、なんだな)
はじめるのは、ここから。
いくら強くなっても、いくら高い目標でを掲げようとも。未だ自分は
須賀京太郎にとっての麻雀の原風景とは、この清澄の部室である。しかしその思い出は苦々しいものであった。
ここに居たかつての自分は、強くなりたいと願った。力を欲し、飢えていた。デジタルでもアナログでもオカルトでも何でもいい……麻雀を楽しみたいと、そう出来るだけの力を得たかった。
何故、どうして?自問するより、先に答えが出てきた。
わかりきったことだったから。それこそが、自分の最初の目的だったのだから。
(最初っから、そうだった)
──俺は、彼女たちに認められたい。
咲に、和に、優希に、染谷先輩に、部長に。俺も麻雀部の一人なのだと、認めて欲しかった。
昔も、そして今も変わらない最初のスタートライン。一番最初に立てた目標。そこから踏み出さずして、自分の宿願を叶えられるか。
まず、地に足をつけよう。今までふわふわと色んなところに飛んでいた。必要だったとわかっていても、寄り道だったのは否めない。ああ、大きな大きな遠回りだった。しかし、この遠回りこそが最短距離だった。
男女の違いというだけではない。自分はどこか隔てられていた。彼女たちはそのつもりではなかったかもしれないが、少なくとも京太郎自身は肩身の狭さを感じていた。女所帯の部活では仕方ないかもしれないが、それでも認められたいという気持ちは変わらない。
(俄然、負けられなくなったな)
負けるつもりは毛頭なかったが、勝ちの意欲がさらに湧く。
負けたくない。勝って、認められたい。
──俺は清澄高校麻雀部の須賀京太郎だと、声を高らかに言えるようになりたい。
「やるか」
瞬間、京太郎の全意識が麻雀へと集中する。スイッチを入れたかのような完全な思考の切り替え。表情も心音も体温も、外部に知られてしまうあらゆる情報の総てを己の意思で律し、仮面を被ったようなポーカーフェイスを作り上げる。
こうなった京太郎の内を読むのは、治也ですら苦心する。それほどの閉心術を京太郎は得ている。
かつてと違う状態……和がペンギンのぬいぐるみを抱えながらいるのすら、気にもとめていない。合宿で久から言われた通りに実践している和の新スタイルに、京太郎は興味を抱いていない。
現に咲と優希は、京太郎の豹変ぶりを多いに驚いている。須賀京太郎とは、こんな顔が出来た男だったかと。幼馴染の咲ですら驚く程の、心の隠し様だ。
……これが、須賀京太郎なのか?東征大で、何が彼を変えてしまったのか。
「行くじぇ」
本気でやらないと、やられる。根拠のない直感ではあるが、馬鹿にできないものだった。
優希は頭は良くない。論理や理屈は向いていないと自認しているが、野性的な勘は冴え渡っている。感覚を信じて行動している。だからこそ、今までの自分の知る京太郎を忘れなければならないと察した。
理由はわからない。根拠はない。ただ、ヤバイ。優希にはそれだけで十分過ぎるほどに警戒に値する。この京太郎は、初心者のヘボ雀士の京太郎ではない。死線を幾つも潜ってきた、歴戦の雀士であると認識を改めた。
そして咲も、京太郎には違和感を感じ取っていた。かつての京太郎には何もなかった。持っている武器が皆無だった。脅威ならば脅威だと、彼女は感じ取ることが出来る。悪い言い方をすれば、取るに足らない存在だった。
だが、例外がある。佐河信一と打った時は、何も感じられなかった。何も感じさせなかった。棲んでいる領域が違い過ぎて、咲の感覚が麻痺してしまっていた。京太郎は逆で、静か過ぎる。凡百の雀士ですら感じる僅かな波濤すらない。まるで死人だった。死人と変わらないほどに気配を押し殺した伏虎だと、彼女を恐れさせた。
東一局0本場。合同練習後、そして合宿後の初対局が幕を開けた。
起親は優希。ドラは{三}。
(それじゃあ、
負け続けた、かつての自分の仇討ち。そして彼女たちへと、自分は強くなれたと伝えるメッセージとして。
──ちょっとだけ、本気といこうか。
「リーチだじぇ!」
優希 打:{横南}
三巡目にして、優希の親リーチ。
相変わらず、この速攻は脅威だと京太郎は思う。しかも一撃が重いのだ。かつての自分は反則だろうと影で愚痴っていた。
彼女もまた才ある者。決して侮ることのできない、全国レベルの実力者。
「ポン」
{横南}{南}{南}
──だが問題ではない。
京太郎が経験してきた領域は、一巡目が肝要。速すぎる速攻?重い一発?
(
京太郎のオタ風の一鳴きで優希の一発を消す。
京太郎からしてみれば、止まって見える。危機感がない。意識を卓に巡らせていない。彼らと較べてはならないのだろうが、脆弱そのものだ。
彼女たちを見下すつもりはない。この方法を知らないだけなのだから。知ってしまっても、会得しようとしないだろうから。その精神もまた、とても尊いのだから。
京太郎 打:{北}
(ちょっとからかってやるか)
和 打:{①}
「ポン」
{①}{①}{横①}
京太郎 打:{⑨}
間を置かない京太郎の連続副露。その速度は雷の如く。
チャンタか混一色か対々和か、混老頭も可能性に入れる。
大きい手を臭わせ、和と咲を勝負の土俵から降ろす。ただでさえ優希の親リーチがある。無闇やたらに突っ込む必要はない。
この局は京太郎と優希の一騎打ち。退かない優希と退くことを知らない京太郎。反りが合わなければ……当然、衝突する。
東場の一局で、優希と張り合う。東征大を経験していなかった頃の自分ではありえなかった。
……その五巡後に、変化が生じる。
京太郎:{発}{発}{発}{西}{西}{中}{中} {中}
──京太郎、倍満ツモ。混老頭対々和混一色発中。優希に競り勝った上でのこの大物手である。
初っ端からの倍満ツモは、優希に点数以上の大きなダメージを与えるだろう。何せ得意としている東場で、起親で、彼女より速く、倍満の親被りの一撃をくらえば、精神的に大きく姿勢を崩すことになる。
(それじゃあ、つまらない)
僅かに口元を釣り上げる。これでは、面白くない。
優希を挫くことは簡単だ。今ここで和了してしまえば、勝手に彼女は調子を崩してこの勝負の場に出ることは出来なくなるだろう。
それじゃあ、ダメなのだ。何も面白くない。
京太郎 打:{中}
京太郎、意味不明の{中}強打。
倍満ツモを放り棄てる暴挙。それを喜々としてやってのける。
……そしてこのまま、京太郎はツモ切りをし続け、優希もツモれず、流局。
「テンパイだじぇ」
「ノーテン」
「ノーテンです」
優希:{四}{四}{四}{四}{五}{六}{8}{8}{2}{3}{4}{⑥}{⑦}
晒された手牌。優希、リーチタンヤオドラ4の跳満手。
咲と和から当たり牌が零れることはなくとも、自力でツモる自信があった。しかし、その確信が見事にスカされた。
「聴牌」
京太郎:{発}{発}{発}{西}{西}{中}{中}
「えっ」
京太郎の手牌を見て、そう声を漏らしたのは優希だった。
京太郎の捨て牌には和了牌である{中}がある。しかも京太郎は、ニ副露した後全てツモ切りであった。
優希の跳満手を上回る、倍満手。しかも和了できなかった彼女と違い、和了できていたのだ。
速度で優希に勝ち、火力でも勝っていた。しかしそれでも和了することなく見逃した意図……。
「おいおい、京太郎。それ、上がってたんじゃないか。ウッカリしてるじぇ」
「ん?ああ、そうだな」
優希はそれを、京太郎の初歩的なミスと受け取った。意図などないと、己を誤魔化した。
でなければ倍満を見逃す理由がない。高打点を与えながら親を流すことが出来る。そのメリットはとても大きいものだ。その上東場の自分がどれだけ厄介であるのか、京太郎が知らないはずがないのだから。
「……とりあえず、八翻縛りだ」
──だがこの見逃しが意図したものであったなら。
瞬間、優希の小さな両手両腕に大きな鉄杭が突き刺さり、卓に縫い付けられる。その数片手四本ずつの計八本。
「痛っ!?」
実際には痛くはない。全ては幻で、手に血が流れるのはおろか穴すらあいていないし、鉄杭もない。
全ては京太郎が見せた能力のイメージ。だがあまりにも惨くリアルな光景な故に、本当に自分の手に鉄杭が突き刺さったのではないかと錯覚してしまった。
(な、なんだったんだ、今の……?)
想定外の……いや、想定しないように目を背けていた最悪。この時点でやっと、優希はそれを危惧した。もう手遅れであるというのに。
京太郎は、わざと倍満を捨てた。そのまま和了するより、大きいメリットを得られるとわかっているから。
東一局流れ1本場。ドラは{東}。
(何だ、これ……!?)
体が、異様に重い。そして流れを掴んでいるという感覚が、まるでしなくなった。
流れを握ろうとすれば、杭で空いた穴から通り抜けていくような……。まるで全身に風穴を開けられたかのような、空虚感。
まだ東場の一局だというのに。自分はこんなにもヘバるのが早かったかと疑うが優希は首を横に振る。
南場に入った時の集中力が霧散するような……いや、それより酷い。
──こうなるような力なのだ。こうなる力を京太郎は使ったのだ。
(東場の優希は手強いからな。ちょっとやらしい手を使わせてもらった)
今の京太郎の加減は、先の淡たちと打った時より一歩強い程度。しかしその一歩が大きな差を作ってしまう。
対淡戦に使用した和了封印。それにバージョンアップがされている。
和了を放棄することにより、他家を和了させない。その能力をそのままに加え、放棄した役の翻数分の枷で縛り、封印する。
京太郎は倍満手の放棄……優希に八翻の縛りを与えた。それは優希個人を対象にした縛りではなく……卓そのものと一緒に縛ったものである。
八翻縛り……倍満以上の手が場に出ない限り、彼女は和了することを完全に封じられる。つまり、京太郎、咲、和の三人の誰かが倍満以上を和了しない限り、優希はこの半荘の間ツモもロンも完全に封じられていることになる。
倍満を犠牲にしても、お釣りがくる。麻雀という競技は他家を和了させなければ勝てるゲームであり、相手を一人蹴落とすというアドバンテージは、役満を蹴っても大きいものだ。
(……少し、意地悪だったか)
和は気づいた様子はないが、咲は京太郎の方を見ている。彼女になにをしたのだ、と気づいている。
彼女たちに
やってしまったものはしょうがない。反省こそするが、後悔はしない。
この局も誰も和了すること叶わず。京太郎と咲のみが聴牌し、優希が聴牌することができずに親は流れる。
東二局流れ2本場。親は和。ドラは{⑥}。
京太郎の異質で強大なオーラ。察知することすら許されないほどに静かでありながら、内包しているエネルギー量は桁違いになっている。動きこそ無いものの、流れを掌握しているのは京太郎であるのは咲も優希も気付いている。
──それに呼応してなのか……否、気付いてなどいないだろう。今の彼女は、自分本位のペースを刻み、己の麻雀をするだけの存在に成り代わったのだから。
だが、通常よりずっと早く。彼女は羽化した。
(……発熱?ああ、ナルホド……そういうカラクリか)
和に生じた変化。それを目敏く京太郎は察知。
急な体温上昇、原因は脳の処理能力の
京太郎は彼女のプライベートなことはあまり知らない。憧れの対象で見てはいたが、それ以上踏み込んだりはしなかった。故に、あまり和のことを知らなかったりする。
彼女がプライベートではマイナーな少女趣味であること。家事が堪能であること。両親が共働きであること。東京の進学校の転校の話がもちかけられていること。
──ネット麻雀では、トッププレイヤー『のどっち』であることを。
しかし、知らずとも京太郎は察した。これが原村和の本領であり、デジタルの権化へと化した状態であり……。
──『本物』を知る者として、我慢ならない代物であった。
「……良い線はいっている。発想は間違ってない」
そう、良い線を行き過ぎている。的を得過ぎている。和の場合、突き詰めればそうなるのだろうと京太郎は予測していたから、わかっていた。
……だからこそ、ソレが許せない。腹立たしく、憤らせるしかない存在だ。
ただの紛い物であるのなら、京太郎は気にも留めなかった。そこに魂があるのなら、意思があるのなら、彼女の打ち方なのだから。
……しかし今の彼女は、意思無き機械だ。性能の良すぎるだけの、ただのコンピューターでしかない。牌しか見ない、ただの麻雀マシーンでしかない。
まるで、そそられない。魅力がない。血の通わないCPUの方がまだ味がある。なまじ、見た目が人の形をしているのがさらに憤らせる。
その遥か上を行く『
「──紛い物が。身の程を弁えろ」
京太郎から滲み出るのは、怒りと殺意。同じ部活の仲間に……ましては、か弱き女子に向ける感情ではない。
冷たく静かで暗い、何もかもを焼き尽くす凶悪な青い炎。京太郎のオーラがそう変化し、ただじっと機械と化した和を睨む。
機械の彼女は、怒りを向けられても柳に風。こたえた様子はない。
咲と優希は、突如豹変して憤怒を露わにした京太郎の変化についていけない。
以前までの彼は、和に対してそんな態度はしなかった。
彼女の何が、京太郎の逆鱗に触れたのか……彼以外には、この部室の誰にもわからない。
「気が変わった。お前は全力でぶち壊す」
戦争ではなく、虐殺。蟻を踏みつぶすが如く蹂躙すると、決定した。
東二局、流れ2本場が開幕する──!