白糸台高校三年、弘世菫は弟の弘世命を嫌悪している。その関係は、冷え切っているとさえ言っていい。
中学時代まで、そんなことはなかった。普通の仲の良い、二卵性双生児の姉弟だった。
しっかり者の菫と、思いやりのある命。近所では評判の、模範的な少年少女だった。
そしてそんな彼らが、大ブームを巻き起こしている麻雀に出逢ったのは、小学生の頃。
命には、初めて触れた麻雀牌が、眩く輝く宝石のようにさえ見えた。
こんな綺麗なものがこの世にはある。こんな綺麗なものを使って遊べる遊戯がある。
彼が麻雀に夢中になるのは、まるで必然のことのようになった。
麻雀を始めたばかりの頃の実力は、命も菫もどっこいどっこい。
しかし競うように腕は上達していき、いつの間にか近所の同年代で彼ら姉弟に敵う相手はいなくなった。
中学に上がった時、命はインターミドルに出場し、一年生で個人戦優勝。団体戦も、彼の活躍で優勝を飾った。
名門、東征大付属からも声がかかり、弟は大好きな麻雀で順調な麻雀人生を歩んでいく。
そんな弟が誇らしいと、菫は思っていた。
──その、全て何もかもをぶち壊したのが、あの三人の化け物たちだった。
鹿児島県代表、突然変異の『怪物』──佐河信一。
南大阪府代表、在る事そのものが『奇跡』──男神蘇芳。
静岡県代表、盲目の『天才』──能海治也。
二年目の夏のインターミドルで、突如として現れた超新星たち。予選で見せた、超常的とすら生ぬるい闘牌を記した牌譜と映像は、命を戦慄させた。
必ず自分は、この三人と当たる。そして、勝負にもならないほどに負ける。そう、確信した。
負けるのはいい、麻雀は勝ち負けを決めるものであり、敗北も常。許容はできた。
しかし、勝負にならないというのは、命にとって許せないものだった。
麻雀は四人でやる遊戯。故に、やるなら四人とも楽しまなければならない。
どんな結果に終わろうといい。しかし、全力で楽しめない麻雀など、麻雀じゃない。
彼らと対等に戦える『力』がないのは、彼らと楽しんで麻雀ができないのは……自分に麻雀に対する『愛』が足りないからだ。
麻雀が大好きだからこそ、ここまで命は来ることができた。それを今まで疑わなかったし、これからも疑わない。それ以外ができないし、知らないのだから。
──故に、それを貫くだけだった。
その誓いを刻んだ翌日。命を除いた団体戦メンバー四人の退部届が出された。
既に、全国への出場が決まっていた。彼ら四人の退部理由について、菫は未だ真実を知らない。
だが、確かなことがある。
その時にはもう、昨日までの弘世命はいなくなっていた。
……『人』であることを捨て。『鬼』になり。『修羅』となった。
麻雀に、魂を売り渡したのだ。
あの三人に比肩する力を見せつけ、インターミドル史上類を見ない激闘が繰り広げられた。
結果こそ敗北に終わったが、決勝戦が終わった後の命の顔は晴れやかなものだった。
麻雀を楽しむことができた。それだけでよかった。
────それ以外はもう、何もいらなかった。
一年後のインターミドルも変わり映えしない面子で打ち。卒業後、命は東征大へ。菫は白糸台へと進学する。
……そして、菫は耳にする。命が東征大で為した伝説の悪行を。
優しかった頃の、思いやりのあった頃の命であれば、あんなことは決してしなかった。
人の気持ちを理解できる、命であれば……決して。同じ『人』であれば、そんなことをすればどうなるかわかるはずだというのに。
だからこそ、菫は確信したのだ。
命は『修羅』に堕ちたのだと。
「よっと」
東征大に到着したマイクロバスから、一番乗りで飛び出したのは愛宕洋榎。
彼女にしてみれば、久しぶりの東征大。かつて一度ここに練習試合に来て、そして手痛い敗北を経験し、苦汁を飲まされた。
本物が集まる場所。ここの最強が全国最強。それは決して誇張ではなく、真実だった。
男子は数ばかり多いだけの腑抜け……その価値観を根底から覆された。
大負けして涙を飲んだ記憶は、今でも鮮明に思い出せる。
監督である赤阪郁乃のここに来た目的は、負けてもいいから最強を知って来いと後ろ向きである。
しかし、彼女はここへリベンジに来た。その気概で来ている。
負けるつもりで打つ麻雀は、自分の麻雀ではないのだから。
「来たでー、東征大。この洋榎様が、その生意気な鼻っ柱折ったるからなー!」
「てい」
「あいたっ!?」
そんな彼女を、後頭部へのチョップをしたのは彼女の従妹の船久保浩子。
いきなり宣戦布告をし始めた洋榎を止めるには、これが一番手っ取り早い。
「何すんねん浩子!人が折角啖呵切っとる時に!」
「こっちはわざわざ、お願いしてここに来とるんや。それはそっちも同じやろ」
「げ、オカン……」
逸る洋榎の最大のストッパーになるのは、他でもない彼女……母である雅枝だ。
しかし今は、母である前に千里山女子の監督。公私のけじめをきっちりつける彼女は、母と呼んだ娘をギロリと睨む。
そんな風に睨まれれば、関西屈指の打ち手の彼女といえど人の子であるため、たちまち萎縮してしまう。
「おおう、主将があんな大人しくしとるの初めて見た……」
「家じゃ、怒られた時はいつもあんなやで」
「そうなん、絹ちゃん?」
次々とバスから降りてくる姫松の面々は、いつも強気な主将があんな弱気な面を見せていることに意外だと思っている。
しかし、洋榎の妹の絹恵にしてみれば、こんなことはいつものこと。憧れの姉も、母には勝てないのは良く知っている。
「末原さん、道中はありがとうございました」
「いえ、船久保さん。こっちも色々と参考になりました」
お互いに頭を深く下げて、礼を言い合う。
ここに来るまでの道中、末原恭子は浩子と牌譜の検討をしていた。
その内容は、無論──東征大のもの。インターネットで誰にでも公開されている牌譜だ。
牌譜は雀士の情報が詰まったもの。データを重視する彼女二人には宝の山で、格好の分析対象──には、ならない。
「どや、浩子。あっち側の参謀と検討してみて」
「中々いい経験になりましたよ。別の視点から見るっていうんは、思わない発見も見つかるっていうことです」
「で、見つかったか?対東征大の突破口」
「ないですね。ホンマふざけてますわアイツら」
「ないんかい!」
散々他校の生徒と検討を重ねた結果が、ない。これには千里山の元エース、江口セーラが思わず突っ込みを入れた。
彼女もまた、ここへは勝つつもりで来ている。去年ここへ来て、手痛い敗北を経験したことも覚えている。
千里山の悲願、全国優勝。それを成すのなら、ここで勝ち星を挙げるくらいはしなければならないとさえ思っている。
「……言っておきますけど、あの末原さんはメッチャ有能です。凡人や何や僻んでましたけど、発想と着眼点に関しては天才的って言うても違いありません」
試しに彼女に過去の千里山の牌譜を見せたところ、速攻で傾向と対策を練り上げて打ち出したのを見て浩子をビビらせた。
現エースの園城寺怜の牌譜を見た瞬間、彼女の持つ異能が未来予知だと気付きかるほどに。
「伊達に姫松の参謀は張ってない、か。それに浩子のデータ量を加えたらもうわからんこと無いんちゃうか?」
「無いですね。もしもう一回学校選べるいうんやったら、あの人のいる学校にいたかもしれません」
「おいおいおい……」
自校の頼れる参謀のハッキリした裏切り発言。これにはセーラも反応に困り、雅枝も苦笑い。
浩子の分析と情報量、恭子の発想と対策。この二つが掛け合わせれば、確かにどんなに特異な打ち手だろうと太刀打ちできないだろう。
あり得たかもしれないドリームコンビ。末原恭子が千里山に来ていたら、もしくは船久保浩子が姫松に来ていたら……大きく変わっていたに違いない。
だが、所詮はもしもの話。それは一旦置いといて、と身振りで話を戻す。
「……で、そんな二人がわからんかったのが、東征大っちゅーとこやな」
「そりゃ、メッチャ強いとこなんは最初から知っとるけど……」
「何々、何の話ー?」
新たに、清水谷竜華と二条泉が、園城寺怜を連れ添ってバスから降りてくる。
丁度いい、と浩子は現エースを例えに使う。
「簡単に説明しますと……園城寺先輩の一巡先を見る力、ありますね?」
「……?それが、どうかしたん」
「アレ、その気になればみんな使えるのが……
「……お、おう」
一瞬、浩子を除く千里山の誰もが反応に困った。
今の千里山のエース、園城寺怜は一巡先を見ることができる。
その力があったからこそ、昨年の秋季大会から三軍の平凡な雀士だった怜が名門千里山でエースにまで駆け上がることができた。
それが、東征大の皆は、使うことができる。
「い、いやいや……それって、怜だけの力だけやないん?」
「そうですよ!そんな突拍子もない……」
「その固定概念が……いや、そもそも麻雀における能力って、何やと思いますか?」
「そ、そりゃあ……」
雀士の中には、時たま超能力じみた打ち方をする者もいる。まるで、何がくるのかわかっていたような雀士や、自在に場を支配する雀士……そんな雀士を、彼女たちは沢山見てきた。
能力とは、才能。説明こそできないが……できないからこそ、それで片付けてきた。
才能がないから、自分に能力がない。無能力者と能力者との差異とは、そう片付けるしかなかった。
無論、能力があるから強いというわけではない。それを逆手に取って戦う浩子や、関係ないと正面から堂々と討ち果たしてしまうセーラと、無能力者でも渡り合うことは十分に可能である。
「男子のトップレベルが集まる東征大です。その中には中学時代に能力を持ってインターミドルで暴れとった選手もいました」
「まあ、いないわけがないな」
今現在、女子で能力を持った雀士が跋扈している。男子でも、中学時代にそうしなかった雀士がいなかったわけがない。
インターミドルで優秀な成績を残した男子選手は、プロユースか東征大の二択。そうとまで言われるのが、現在の男子麻雀だ。
「もちろんその能力はその選手固有のもんでした。ですが、東征大入学後のその選手は、いきなり複数種類の能力を使うようになりました」
「……は?」
「能力持ちの選手は、全員持っている能力を部員同士で共有するばかりか、あるはずのない能力すら会得しており、能力を持っていなかった人ですら、同じレベルに引き上げられています」
「んな、アホな……」
「軽く見積もっても百、下手したら千を超えるオカルトを、東征大部員の全員は持っています。しかもそれらを自在に操って、併用すらも可能です」
「……いや、それ」
どうやって、勝つ?セーラも泉も、竜華も怜も、監督の雅枝すら浩子からもたらされた事実に、愕然とする。
対処のしようがない。数百、数千のオカルト持ち、しかも自在に切り替え、併用も可能と使いこなしている。しかもそれが、部員全員がだ。
対策を講じ、対応することができない。オカルトは一人一つという固定概念が、今まで東征大の強さの秘密を知る事ができなかった。
真実が入った宝箱に謎解きの鍵がかかってた。その謎を解き、鍵を開けてみると中にあったのは絶望。とんだパンドラの箱だ。
オカルトが、能力が、持っているヤツが強いとは思わない。しかし、これは度が過ぎている。
「わかったことは、それだけではありません」
「どういうことや」
「牌譜のインターネット公開を始めたのは二年前。それ以前の牌譜も見てたんですけど……彼らのOBには、多数の能力所持などありませんでした」
「つまり、牌譜の公開を始めた頃からソレが出来るようになったってことか」
「さらに言えば……一人だけ、いたんです。中学時代から、能力をたくさん持っていた奴が。その人が入学し、部長に就き、インターネット公開をし始めた時期が、丁度重なるんです」
「……まさか、浩子」
一年生で、名門東征大の部長に就くなんて所業を成した者など、一人しか知らない。
インターミドルで大暴れをした、他者と隔絶するほどの力を持ち、現役のプロですら歯牙にかけない高校生。
そして、人の心を抉ることに長けた人物。長らく意味のわからなかった牌譜の公開する意図。それは真実に辿り着いた者に、さらなる絶望を叩き付けるため。
部長、監督職の就任の際のいざこざ。それは名門校の彼女らも当然耳にしており、当時の東征大出身のプロのトップランカーを引退に追い込んだ事件とその主犯は、今でもプロのブラックリストの頂点に立っている。
渾名は『修羅』。麻雀のために、人の魂すら捨てた男。
「ほんま、いい性格してますよ……弘世命ってヤツは」
浩子は、苦々しく吐き捨てた。
人の心を折ることに、どこまでも長けている。おまけに恐ろしく強いくせに、容赦を知らない。
その指導能力の高さは、あの伝説から窺い知れている。能力の複数所持など、その指導の一端でしかないのだろう。オカルトですら操る手腕は、人外としか評せない。
人を捨てたからか、人の痛みを理解できない。だからこそ、どこまでも嗜虐することができる。
「失礼。不肖の弟の名前が聞こえたような気がしたのだが」
ふと、声をかけられて、千里山の彼女らは顔を上げた。
話題の渦中にある人物と瓜二つの、人物。
弘世命の二卵性双生児の、双子の姉。
「白糸台の、弘世菫……」
白糸台高校。招かれた三校の内、唯一大阪からではなく東京から来た学校。
女子最強の声も名高い、全国一位の高校だ。インターハイ二連覇の偉業を果たし、今年は前人未到の三連覇へ向けている。
彼女らも、団体戦に出場する校内チーム、『チーム虎姫』のメンバーのみがここに来ている。
「あ、いえ。別に悪く言ったわけではなく……」
「いいんです。アレのことですから、敵も多く作ってます。それをとやかく私は言えませんよ」
口調は穏やか。が、発している空気はまるで剣呑。
駅から合流して、同じバスに乗っていたというのに、白糸台とは一切の交流はなかった。
その原因として、彼女たちの発している雰囲気が近寄りがたかったというものがあった。
「菫、行くよ」
「ああ、わかった」
菫と、もう一人。同じような雰囲気を放っているのが、女子チャンプ──宮永照。
普段から無口で何を考えているのかわからない少女であるが、今日はいつも以上に殺伐としたものをまとっている。
……同校の他の三人ですら声を掛けずらかった程に、彼女二人の雰囲気はピリピリとしていた。
菫が一礼し、他の白糸台のメンバーと合流して東征大麻雀部校舎へと向かっていく。
「……行きましょう、私たちも」
ここは、正しく修羅道。
──人を捨てた者たちが集う、修羅たちの巣窟。