午前八時。ホイッスルの音がホールの中に鳴り響いた。
首から提げた笛を吹いた命が、全員に声を張り上げた。
「朝食休憩!休憩後ユニホームに着替えて再集合!」
『はい!』
一糸乱れぬ動きで、部員全員が牌を片付けて自動卓の電源を落とす。
そしてぞろぞろとホールから出ていく。
そして全員が出て行った後……残されたのは、卓上で力尽きた京太郎だった。
「大丈夫?須賀くん」
「な、なんとか……」
命は麻雀卓に突っ伏した京太郎を心配する。
曲がりなりにも名門校の練習密度。初心者の彼がついていけるかどうか心配こそあったが……。
なんとか、そう言える内はまだまだ大丈夫と判断した。
「良かった。朝のウォーミングアップで倒れて貰ったら困るからね」
「う、ウォーミングアップ……!?」
「軽い頭の体操みたいなものよ。大丈夫、ご飯食べたら元気になるから」
そう言って、命は京太郎に手を差し伸べる。
しかし、京太郎はふらふらになりながらもその手を取らず、自力で立ち上がる。
「大丈夫、です!一人で歩けます!」
その手を取ってしまったら、自分の言葉を裏切ることになる。ここまで機会を貰い、力を貸して貰いながらその手を取ってしまったら、口だけの男になってしまう。
京太郎は、自分の疲労よりプライドを取った。
こんな疲れ、少し休憩して朝食を食べればすぐ回復する。ああ、その通りだと意地を張った。
京太郎はよろけながら歩き、出て行った部員たちの後を追って行った。
「……強いね、彼」
「だろ?」
命の隣には、いつの間にか信一がいた。
彼もまた、混じって打っていた。それを京太郎は気付いた様子はなかったようだが。
信一の手には一枚のプリント。そこに書かれていたものは、京太郎のこの練習の中の戦績。
「この二時間、半荘一回を二十分として六回分。相手は天下の東征大生、並の打ち手ならトラウマの一つや二つ刻まれてもおかしくない」
「なのに彼、全然堪えてない。打っている様子を見たけど、点差が絶望的でもまるで諦めた様子がなかった」
「事実、その姿勢が幸に転じ、トップをまくってる。油断なし、慢心なしの全国レベルの雀士をな」
「それが二戦目。三戦目以降はラスを取らず、四戦目は二着、五戦目六戦目はトップを取った」
恐ろしいほどの成長速度。悍ましいほどの心の強度。京太郎の雀士としての実力は、加速度的に進化していっている。
元々、須賀京太郎という雀士は、現在成長期の真っ只中にある。能力が開花したばかりで、それを磨くのが楽しくて楽しくて仕方ない時だ。そこに最高の環境が整えられた修羅道である東征大に放り込んだらどうなるか。
資質がずば抜けて高いのは知っていた。麻雀に執着し、しがみ付いていた気持ちは彼らが嫉妬するほど強いはわかっていた。
──だが、この成長速度は余りにも予想外だった。
「……これ、予想してた?」
ここへ連れてきた張本人へ。彼の資質を見抜いた信一へ、これは計算の内だったかと問う。
「冗談抜かせ。土日の間に、ここの本気の部員を相手に一勝挙げられたらめっけもんだったぞ」
それでも、インハイ予選を勝ち抜いていく力は十分に得られる。京太郎のこの脅威の成長ぶりは、信一にとっても想定外すぎた。
「それが早々に二連勝。これは……」
「ああ、お前が本気で指導したらこうなるな」
かつて弘世命が為した伝説の逸話。初心者の小学生を育成し、当時のトッププロを圧倒した。
今も東征の内外で語り継がれるそれは、命自身にしてみればあまり突いて欲しくない黒歴史みたいな扱いになっているが。
京太郎の成長速度は、その焼き写しに見えた。対局をすればするほど、累乗するように成長していく。
しかし、命は京太郎に対して直接的な指導を行っていない。
精々が、一回対局した程度である。
「……何吹き込んだ、命」
「私のせい!?一緒に居た時間は信一の方が長いじゃないの」
「お前以外いるか?言っとくが俺は京太郎に殆どモノを教えてねえぞ。精々が切っ掛けを与えただけだ」
「わ、私だって、精々心得を教えただけだもの」
「……何だ、心得って」
「私の流儀よ。能力なんて使ってない、麻雀で出来ることをやっただけだって」
「麻雀を愛しなさいってか。そう京太郎に言ったのか」
命の心に掲げる流儀は、信一も知っている。
麻雀を愛せ。さすれば応えてくれる。それが命の強さの源泉であり、その信仰に一切の歪みがないからこそ事実、麻雀も応えている。
ふと、信一は気付く。資質に関して言えば京太郎に並ぶ者はいない。麻雀に対する執着は、命すら上回る。
その執着が、命が諭したことによって愛へと変換されてしまえば……。
「……おい待て、まさか京太郎の奴、独学で……」
「……!」
そこまで言ってしまうと、命もハッとなる。
理屈が、通ってしまう。麻雀への愛が強ければ強いほど、麻雀は応えてくれるというのなら。これ以上の適任者はいない。
だが、命との対局を一回経験しただけで、こうなるのかとまた首を傾げる。京太郎は天才じゃない。一を見て十を知るほどの才能を持ってはいない。
ヒントは、一体どこから?何を見ながら、京太郎はここまでの成長を遂げたのだ?
「……練習材料なら、ある」
「何?」
「ここの東征大部員、512名。その全員が、須賀くんにとっての見本よ」
「……それがあったか」
東征大麻雀部員512名。その全員は、弘世命を頂点と奉じ、その流儀と信念に倣った。
各々に
東征大とは、いわば命のレプリカ。命の強さの源は、彼らの強さの源となっている。
見本は沢山、目の前にあった。それらを模倣し、愛し方を倣い、自分の力へと変えていっている。
その成長スピードは、彼ら二人の手のひらから飛び出していくほどに……。
「……アッハッハ!いや、面白いなオイ!すっげーぞ京太郎!どんだけ俺らを驚かせれば気が済む!?」
嬉しくて、仕方ない。愉快で、仕方ない。
初めて出逢った時から、信一は京太郎に驚かされっぱなしだ。その資質に、熱意に、執着に。
そしてそれが、そのまま力になったら。どれだけ愉快なことになるのだろうか。想像しただけで怖気と興味が収まらない。
「……想定の斜め上どころか、真上を飛んで行かれるなんて。舐めていたつもりは皆無だったが、こうも予想を裏切ってくれる……」
何て嬉しい予想の裏切り方。やっと出逢えた極大の資質の持ち主、待ってて良かったと本当に報われている。
胸が高鳴る、頬が熱くなる。ああ、恋に落ちそうだと命は浮かれている。
是非、自分を超えていってくれ。この場所を踏み台にしていってくれ。そうそう容易く超えさせる気はないが、初めてなのだ。教えた者に超えられる喜びというものを、教えてくれ。
「……信一、ついてこい。あのバカを叩き起こしに行くぞ」
獰猛に笑う、一人の雀士としての顔を。
「おうとも」
こんな楽しみ、三人だけで独占するのはしのびない。
自分たちは誓った。楽しむのは、四人でだと。
──最強を、ここに呼ぼう。
東征大麻雀部、部室校舎の地下一階は、部員全員が収容可能な大食堂がある。
朝練習がある日は毎日、ここで朝食を作ってもらっている。対外試合で赴く場合を除いて……つまり、ほぼ毎日はここで食事を摂るのが東征大麻雀部の部員の日課である。
本日の朝食は鯵の干物の焼き魚に挽き割り納豆、豆腐とわかめの赤味噌の味噌汁、ほうれん草のおひたしに沢庵、そして四合はあるんじゃないかと疑うほどの、丼ぶりに入った山盛りのご飯。飲み物はウーロン茶と緑茶でお好みで選べた。
食いきれるのかと京太郎は最初は引いたが、今は腹が空いてしょうがない。いくらでも入りそうだった。
朝のウォーミングアップと称した朝練で、とてつもなく頭を使った。そして能力を多用した結果か、全身のエネルギーが空になっている。体がブドウ糖を欲していた。
『いただきます!』
五百人以上の大号令の下、一斉に目の前の食事にかっ込む。
こんなにも箸が止まらないのは京太郎自身も初めてで、面白いようにどんどんご飯が減っていく。
二十分もすれば、盆の上は空の器しか残っていなかった。それでいて、腹は八分目と丁度いい具合。
(こんだけ食わないと、やっていけないわけだ……)
それだけカロリーを消費するほど、過酷で密度の高い部活。
トップエリートを厳選して、それでこの練習量。そして初心者を相手に遠慮も油断も慢心も躊躇もしない本気の姿勢。他校の者にとってみれば、恐怖以外の何物でもない。
これで全国の頂点が取れないはずがない。取れない方がおかしい。
人事を尽くしているからこそ、結果がついて来ている。たとえそれが、運に左右されやすい麻雀でも……否、運に左右される麻雀だからこそ、最強の座に立ち続けている。
ここまで麻雀に情熱を傾けているからこそ、天運を掴み続けているのだ。
(……命さんにコツを聞いてから、なんだかぐんと強くなれた気がする)
麻雀を愛せ、命が言った通りに京太郎は実践した。
見本は沢山いた。東征大麻雀部部員、全員が京太郎にとっての手本だった。彼らの動きを観察、模倣し、牌と卓、そして対戦相手に最大限の敬意を払った。
結果、いい勝負ができるようになった。本気の彼らにトップを取ったり、一段跳びどころか百段跳びの速さで成長している実感がある。
これには京太郎自身が恐怖するほど驚いた。こんな短時間で、人は強くなれるのかと。
そしてさらに驚かせたのは、能力の変化。
能力の感触……京太郎の持つ感覚も、大きな変化が起きた。
好配牌を招きよせ、高い手を叩きだすツモを引き寄せる力。シンプルでわかりやすく、それだけに強力なオカルトだった。京太郎自身の目標としては、このオカルトを使いこなし、さらなる高みへと昇ることを目指していた。
しかし、対局を重ねていく内に……能力そのものに変化が生じるようになる。早く安く上がる手、もっと高く上がる手、絶対に放銃しない手、他家に安手で上がらせる手……など、様々な道筋が見えるようになった。
そして、条件や縛りを加えることで更なる能力……例えば、嶺上で上がったり、東場や南場で勢いがついたり、一巡先を視たり、ドラを集めたり、海底で上がったり、ダブリーを必ずできたり、向聴を押し付けたり、聴牌を封じたり、裏ドラが必ず乗るようになったり……多種多様な能力が見えるようにさえなった。しかも使おうと思ってしまえば簡単に使えてしまう。そしてさらに経験を重ねてしまえば、能力を使う際の条件すらも取り払ってしまえる気もするのだ。
命は言っていた。『自分に能力なんて便利なものはない』と。やっていることは麻雀で、皆同じなのだと。麻雀でできることをやっているに過ぎないのだと。
かつて信一は言っていた。九種九牌を繰り返していた時に、『ちゃんと法則があるのだ』と。和は納得していなかったが、ああなるほど。これは説明しずらいと合点がいった。
「
気づいた瞬間、急に世界が広がった気がした。視野が広がったと言い直した方が正しいか。見えぬもの、わからぬものが……わかるようになった。
この世には、不思議なものなど一つもない。オカルトなんてあり得ない。どんな現象であろうと、理屈は存在するのだ。
ああ、和は正しかった。そんなオカルトあり得ない。だってオカルトなど何もないのだから。ただ、目に見えるもの全てが正しいわけじゃなかった。
信一は最初から、答えを提示していたのだ。
「……隣、いいか」
京太郎へとかけられた声。横を見ると、白衣を着てサングラスをかけた、盲目用の白い杖を突く白髪の青年がいた。
一見、齢五十以上と見紛えそうな風貌だが、その色黒の肌はまだ若い。視野が広がった京太郎が見ると、同年代と看破した。
「手伝いますか?」
京太郎は腰掛ける椅子を引いて、座る手伝いをしようとするが、彼は手を出して静止させた。
「ああ、大丈夫。目は見えずとも視えている」
「……?」
そう言って、白髪の青年は自力で京太郎の隣へと座る。
目は見えずとも、視えている。謎かけかと京太郎は頭を捻った。
「君が須賀京太郎、だな?」
「……?はい」
「身長は182、髪は染めて金だな。中々筋肉質な体をしてる……室内競技でもやってたかな」
「!?」
声にならぬ、驚き。ピタリと身長を当てられ、目は見えないはずなのに髪の色も当てられた。そして、ハンドボール……室内競技の経験があることも見抜かれた。
本当は見えているんじゃないのかと。その杖とサングラスは擬態じゃないのかと、京太郎は疑った。
否、普通は目で見ただけでスポーツ経験があること……その種目すらも見抜けられるか?
「俺は盲目さ。ただ、目で見るよりモノが視えるだけ」
「な、なんで考えてることが……」
「君の心音と脈拍、そして僅かな体の震えが教えてくれる。図星の反応の後、疑念特有の心音パターンへと移り変わった。正直で好きだよ、そういう素直な反応は」
まるで何もかもを見透かされているかのようだった。突然現れたこの男、何かが違う。
この東征大の部員が集まった食堂。あのホールで集まっていた時とは違い、ピリピリとした緊迫感はないものの彼らの発しているオーラは健在だ。今でこそ京太郎も慣れたものの、最初はとんでもなく居心地が最悪だった。
しかし、この青年の周囲はまるで白い絵の具で塗りつぶしたかのように何も感じない。彼の周りだけが、空白地点だと言う風に。
信一とも、命とも違う。別のタイプでの異次元。
そして、自分と真逆の位置にいるタイプと京太郎は理解した。
「誰、なんですか……あなた」
「すまない、自己紹介が遅れた」
──怪物。佐河信一はかつてそう称された。
──修羅。弘世命はそう畏れられた。
「東征大付属、普通科三年。麻雀プロ団体、草薙ウィード・キッズ先鋒。能海治也」
──天才。そう、彼は称された。
「信一と命から話は聞いてる。歓迎する、盛大にな」
今の
現役の高校生にして、男子プロの最強候補の一人に数えられる、トップランカーである。