「かーーーいーーーー。ねー、このこ、まなのおとーと?」
「もー、まなちゃん、ちがうよでしょー。このこは、まやのおとーとだよー」
「これこれ、二人とも。違うじゃろ、この子はじーじーの孫じゃ」
「姉上、あの人は誰でしょうか?」
「さあ? 見たことあるような気がしなくもないけど」
「鬼は死んだ」
1978年、4月。
帝都、月詠邸。
鞍馬が遥か東欧にて東の空を見上げたそのとき、ここ帝都にて黒須鞍馬とその妻セリスの第一子が誕生した。
五体満足、健康そのものの男子と告げられたとき、三人の娘からの冷たい視線にも気付かずに月詠瑞俊はその場で小躍りしたという。
消耗した体を休める為、布団に横になるセリスとその横に寝かせられる赤子。
セリスの顔に浮かぶ、母となった喜びと誇り、子に対する限りない愛情。
生まれてきてくれてありがとう、そんな言葉が自然と口をつく。
「お疲れ様、セリスさん。立派だったわよ。
名前はもう決めてあるのかしら?」
月詠の長女、雪江がそう問う。
出産にあたり、経験のある瑞俊の娘二人が何かと気をつかってくれ、不安に包まれるセリスの心の助けとなってくれた。
その彼女に子の名を問われ、鞍馬と二人で決めましたと、嬉しそうに告げるセリス。
「Christopher Sawyer Cross」
「……はい?」
次女の月乃が思わず間の抜けた声を漏らす。
この二人は赤を纏う斯衛の者であるが、三年前にそれぞれ真耶、真那と名付けられた女子を生み、今は育児の為に予備役に就いている。
他に三女の花純がいるが、彼女は未だにある一人の男性を想っており、嫁ぐ予定も婿を取る予定もないという。
まったく未練がましいんだからとは、二人の姉の共通の思いだ。
当然それ故に現役の斯衛であり、今も軍務のためにこの場にはいない。
「クリストファー・ソーヤー・クロス、です。
ソーヤーは私の旧姓から。クロスは黒須を英語に当てました。
愛称はクリス、クリス・クロス。綴りは違いますが、crisscrossには“十字に交わる”という意味があります。
日本とアメリカを結ぶ架け橋となってほしいと言う意味を込めてつけました」
くりすとふぁー?
発音の練習しなくてはいけないかしら?
まさか英語で答えられるとは、想定外のことに一瞬思考が惑う二人。
が、そこは数年の人生経験が勝る雪江が、いち早く我に帰り声を発す。
「それじゃあ、クリス君って呼べばいいのかしら?」
「いえ、やはり日本で暮らすのですから、英名だけでは不便だろうということで和名もありますよ」
悪戯が成功した顔で、にこっと笑うセリスに、やられたと笑う二人。
セリスがこの屋敷に来て三ヶ月、最初こそやはりアメリカ人であるということにわだかまりがあった二人であったが、一緒に暮らしてしまえば何のことはない、国籍が何であろうと同じ人間なのだと知ることになった。
同じ幼い子を持つ母という立場もあって急速にその仲を深め、今では旧知の親友の如くである。
「ミドルネームを漢字に当て、蒼也と。黒須蒼也です。
なので蒼也と呼んでやってください。
いつか人類が蒼い空を取り戻す日が来るよう、そんな願いを込めました」
「蒼也……良い名前ね」
今度はきちんとした反応を返すことが出来た。
蒼い空を取り戻す。
そこに込められた願いの程は、後方国家である日本に住む私達が真に理解することは出来ないのかもしれない。雪江と月乃はそう思う。
しかし、最前線にて戦い続けた鞍馬とセリスの二人が、万感の想いを込めた名なのだということは良くわかった。
故に、思う。良い名だと。
因みに、瑞俊は先に鞍馬より子の名を聞いているが、その際に今の二人と同じような反応を返している。
それ故、娘達が名を告げられた際の顔を見たくて、今の今までそれを秘密としていた。
娘達の呆けた顔に思わず噴出す瑞俊に向けられる目は限りなく白い。
が、そんなことで臆する瑞俊ではない。
「蒼也君、ほれ、儂がじーじーだよー」
相好を崩しまくりもはや原形を留めていないのではなかろうかという顔で甘い声を出し、またも娘より冷たい視線を向けられる。
三年前に孫が生まれてより険が取れ、好々爺と化していた瑞俊ではあるが、人前でここまで己を乱すことは今までなかった。
それが今この有様となっているのは、二ヶ月前の節分がきっかけとなる。
『じーじー、じーじー』
「おお、どうした二人とも?」
枡に豆を一杯に詰め込み、真耶と真那が走り寄ってくる。
二人の顔は何か楽しいことを見つけたときの、わくわくとした輝きに包まれている。
意図してはいないのだろうが、見事に合わさった声が笑いを誘う。
『ねーねー、じーじー、おにー?』
「鬼? 確かに、かつてはそう呼ばれたこともあったがの……」
その言葉を聞いて、二人の顔に浮かぶ輝きが否応に増していく。
そして二人は瑞俊のその顔めがけ、手にした豆を撒きつつこう言ったのだ。
『おにはー、そとー』
どうやら、誰ぞより「鬼の瑞俊」の名を聞き及んだらしい。
節分の意味も由来も理解しておらず、ただ鬼に向かって豆を撒くと言う行為に喜色満面であった。
強面のままに豆を受けていた瑞俊の、その面が崩れる、崩れ去る。
そしてやおら地面に倒れ付すと、のた打ち回りながら言ったのである。
「うおー、やーらーれーたー。
真耶も真那も強いのー、さすが斯衛の子じゃのう」
キャッキャ、キャッキャと豆を撒く孫に、打たれながら満面の笑みの爺。
そして……
娘を探しに来た雪江に月乃、その後に続く花純にセリス、四対の瞳が信じられないものを見たと固まっていた。
月詠には一匹の鬼が棲むと謳われた──それが、鬼の最後であった。
1978年、6月。
帝都、月詠邸。
蒼也が生まれて二ヶ月。
セリスは任官して以来始めてともいえる平穏な時を過ごしている。
ただの居候でいるるのも心苦しく、名目上はこの屋敷の女中でもある為に色々と家の手伝いをしようとするのだが、そうすると「四番目のお嬢様」にそのようなことはさせられないと本来の使用人達が困った顔をしてしまう。
なかなか、ままならないものである。
瑞俊からも、今はその力を赤子の為に注げと休むよう言われており、蒼也の世話と身の回りの掃除の他は、真耶と真那の遊び相手がセリスの主な仕事となっていた。
雪江と月乃の二人もそろそろ斯衛への復帰を考えており、セリスが娘の面倒を見てくれるのならば非常にありがたい。
ちなみに、この二人には残念ながら衛士適正がなかった為、CPとして軍務についている。
セリスとしても子供達の面倒を見るのに何も異存はない。
真耶も真那もセリスに良く懐いてくれて可愛らしく、蒼也の良いお姉さんになってくれそうだ。
「はーい、そーやちゃん、だっこですよー」
「真耶ちゃんだめえええええええええええ」
とはいえ、二人ともまだまだやんちゃな時期。
少し気を抜くと思いもかけないことを色々としでかしてくれる。
今も、ちょっとお茶を淹れている隙に、真耶が蒼也を抱きかかえ連れ出そうとしていた。
思わず上げてしまった大声にビクッと固まる真耶。
それを「ごめんね、まだ首が据わってないから、もう少ししたら抱っこしてあげてね」と優しく言い聞かせるセリス。
「くび……すわる……?」
ところが、真耶はセリスの話など聞いていない。言葉の中のそこだけに注目し、眉間に皺を寄せうんうんと悩み始める。
首が据わるって、いったいなんのこと?
真耶が座るはもちろんわかる。足が座るといわれたらなんとなくわかる。でも首が据わるって?
ついには蒼也の首から足が生え、自分へと向かって歩いてくるという怖い考えに行き着いてしまい涙目に。
声を上げて泣き出しそうになる真耶を、ああ泣かしてしまったと一生懸命宥めているその隙に。
「そーやちゃーん、ごはんですよー」
真那が、草の花と葉で作ったサラダを蒼也に食べさせようとしているのであった。
昼食を終え、子供達はお昼寝の時間。
中央に蒼也を、左右に真耶と真那の川の字で、三人揃って仲良く寝ている。
本当に、みんな寝顔は天使よね。私も一緒に休ませてもらおうかな?
それとも、雪江さんと月乃さんを呼んでお茶でも淹れようかしら?
どうしたものかと迷っていると、部屋の入り口より「お邪魔するわよ」との声が。
三女の花純である。
斯衛の衛士である彼女は、帝都城の居室にて過ごすことが多くあまりこの家には帰ってこない。
ところが、蒼也が生まれてからというもの何かと口実をつけては帰ってきて、ついでだったからと産着やらおもちゃやらを買ってくるようになった。
「別にあんたの為じゃないんだから、ついでがあっただけなんだからねー」
と、言葉もまだ伝わらない蒼也に話しかけ、ニコニコと微笑みながらその頬をつんつんと突付く。
爺馬鹿と伯母馬鹿、どっちの方が馬鹿かしらねーと、上の二人に笑われているのだが、セリスに対してはなにやら含むところもある様子。
今も、部屋の中をぐるりと見渡すと、机の上を指でつつっとなぞる。その指を見て落胆すると、次は箪笥の上で同じ事を。さらに障子の桟で繰り返すと、今度はぱあっと顔が輝き、その指をずいっとセリスに突きつける。
「ちょっと、セリスさん。貴方一体どういう掃除をしてらっしゃるのかし『どこの小姑だ!』はうっ!」
そして、部屋の入り口よりその様子を見ていた上の二人に頭を叩かれるのだった。
花純がセリスにこういった態度をとるのは、やはり私がアメリカ人だからであろうかと、残念だけど徐々に仲良くなれるよう頑張ろうと、セリスはそう思っていたのだが、最近どうやら違う理由かららしいと気がついた。
ある意味、国籍のわだかまりよりも取り扱いが難しい問題ではあるが、子供まで生まれ、しかもその子が可愛いらしくて仕方ないとあっては流石の花純も諦めた様子。
あとは時間が解決してくれるだろう。
ちなみに、上の二人はまた少し違う見解だ。あれはセリスと絡む為の口実のようなもので、本当は仲良くなりたいんでしょと、全てお見通しの生暖かい目で見守っていたりする。
セリスは幸せだった。
愛する我が子の蒼也がおり、頼りになる友人である三姉妹がおり、見守ってくれている月詠翁がおり。
日本に来たときは、まさかこんなに穏やかで心休まる毎日が送れることになろうとは夢にも思っていなかった。
ただ、一つのことをのぞいては。
鞍馬がいない。
そう、愛するあの人は、今も戦場で命を懸けているのだ。
2月に発動したパレオロゴス作戦の結末もわからない。その規模の巨大さにもかかわらず、あの作戦は秘匿作戦とされていたのだ。
それ故、予備役中尉に過ぎないセリスにその詳細を知る術はない。
もっとも、おそらく失敗したのだろうと予想はつく。
ミンスクハイヴを陥としたのであれば、その戦果を誇るべく全人類へと向けて発表されているであろうから。
では、あの人は、鞍馬は無事なのだろうか?
子供達と向き合っているときは考える余裕もないが、ふと一息ついた瞬間に涙が零れることがある。
そんなとき、雪江がそっと涙をぬぐってくれ、月乃が肩を抱いてくれ、花純がそっぽを向きながら手を握ってくれる。
鞍馬を愛することで、自分は弱くなってしまったのかもしれない。
昔の私は、人前で涙など見せなかった。ただ一人でも強くあれた。
けれど、それは仮初の強さにしか過ぎなかったのだろう。
代わりに手にしたこの繋がりは、一人の強さよりずっと堅固なものに違いないのだから。
今はただ護られるだけの存在でしかないが、いつかわたしがこの人達を護ろう。
それを誓い、セリスは笑顔を作るのだった。
数日後、月詠翁が伝手より入手したという報せを、セリスは聞かされることになる。
一つは良い報せ。
それは鞍馬が健在であるというもの。
戦いに散った大隊長に代わり、少佐となって隊を率いているとのことだ。
一つは悪い報せ。
まるでパレオロゴス作戦の報復であるかのように、BETAの大侵攻が開始されたという。
「鞍馬……お願い、無事でいて……」
そう星に願うセリスは、胸に湧き上がる悪い予感を振り払うことが出来なかった。