あなたが生きた物語   作:河里静那

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41話

 

2000年、5月。

帝都、墓所。

 

御影石を、磨く。丁寧に、想いを込めて。

ふと見あげれば、空は見事な五月晴れ。額ににじむ汗を袖で拭い、また磨く。

もとよりしっかりと手入れがなされている墓だ。ここまでせずとも十分に綺麗なのだが、不義理にも今までこの場に来れなかった贖罪も込めて、磨き上げる。

墓石だけでなく、敷き詰められた玉砂利もさっと洗い、花立てや水鉢も念入りに。

 

やがて鏡となった御影石に映り込む、自分の顔。

うん、ここまでやれば十分かな。

お供えは菊の花と、今となっては中々手に入らない本物の日本酒。

水鉢に水を張り、墓石に水をかけ、線香に火を付ける。

そして、合掌。

 

──おじいちゃん。今まで来れなくて、ごめんね。

 

月詠家代々之墓と刻まれた石の、その向こうに浮かび上がるのは、瑞俊の少し怒った顔。だが、蒼也は見逃さない。その眼尻が、どうしようもなく下がっていることを。

瑞俊は孫には随分と甘い人だった。師の座を紅蓮に託してからは、特に。

思えば、彼が蒼也に鬼の一面を見せることなど、ついぞなかった。真耶や真那、時には4人の母親から逃走した蒼也をこっそりとかくまってくれたのは、いつもきまって瑞俊だった。

そんな大好きだった祖父が戦場に散ってから、既に一年と九ヶ月。そしてその間、蒼也は一度もここを訪れてはいない。

 

言い訳がましくも聞こえるが、それも仕方のない事ではあった。

新任ばかりのA-01を鍛え上げ、明星作戦に参加し、そしてその後は第四計画を主導する魔女の共犯者となったのだ。人類の未来を、地球の重さをその背に背負い。一日が、一時間が、一分が惜しまれる日々。そんな毎日の中、私的な感傷に割く時間など残されていなかった。

 

今も多忙な暮らしが変わった訳ではない。

2001年10月22日、この日までにやり遂げ無くてはならない事柄は、まだまだ多く残されている。

水面下における下準備にはどうにか目処が付いた。だがだからこそ、これからが本番。下拵えされた食材を調理する時が来たのだ。

これからはまた一段と忙しくなる。悠長に墓参りなど、ますます難しくなるだろう。だからこれが最後の機会と、無理に時間を作ってやってきた。

それに、二つほど祖父へと報告しなくてはならないことがあったから。

 

──おじいちゃん。僕ね、真那ちゃんと一緒になることにしたよ。

 

まずは、一つ目の報告。

きっと、祖父も喜んでくれる。いや、やっとその気になったのか、ずいぶんと時間がかかったものだと呆れられるかもしれない。

本当は、一人で生きて一人で死ぬつもりでいた。その覚悟はとうの昔、父が死んだ夏にできていた。

だが、今なら分かる。あれは覚悟なんて大層なものじゃなかったと。ただ、状況に流されていただけだったのだと。

今、蒼也の胸に宿る決意の強さとは、雲泥の差。必ずやり遂げ、生き残り、真那と幸せになるという想い。きっと、これこそが覚悟と呼ぶのに相応しいものなのだろう。

 

幻の祖父の笑みが強くなった、そんな気がした。

ありがとう、おじいちゃん。祝福してくれるんだね。

平行世界を覗き見る力を持つ蒼也とはいえ、死者との会話が可能な訳ではない。あるいは能力を限界を超えて発現させるならば、脳が焼かれ死に瀕するその間際に、代償として別世界の祖父との会話が許されるかもしれないが……少なくとも、今はその時ではない。

それでも、おめでとうという祖父の言葉が、確かに蒼也の耳へと届いていた。

 

だが……

 

──それから、もう一つ。僕はこれから、おじいちゃんや父さんに顔向けできなくなるようなことをします。

 

二つ目の報告。

これを話せば、きっと止められる。怒られる。考えなおすようにと諭される。

笑みの浮かんだ祖父の顔も、苦渋に染まったものへと変わるだろう。

だが、それでも。

 

ねえ、おじいちゃん。僕は思うんだ。

おじいちゃんは、自分の誇りと命を懸けて、斯衛の人達を、日本に住む人達を守ったよね。

そりゃあ出来れば死にたくなんてなかったろうけど、それでも後悔なんてしていないよね。

そして、それはきっと、父さんも同じで。

 

僕は、二人に負けたくない。

月詠瑞俊の孫であり、黒須鞍馬の息子であることに胸を張りたいんだ。

その為にも、やらなければならないことから逃げ出して、後悔なんかしたくない。

僕の決断が間違っていると、そう思う人も多いと思う。だけど、僕はこれこそが最良の未来を引き寄せる道だと、そう信じるんだ。

そして、これは僕にしかできないことだから。

 

おじいちゃん、父さん。

もしかしたら、二人だったら別の方法を見つけ出せるのかもしれない。けど、僕は二人とは違う道を歩く。

応援してくれとは言わない。頑張れなんて言ってもらおうとは思ってない。でも、僕が自分の道を選んだことだけは、認めてほしいんだ。

 

──ごめんね、おじいちゃん。もうすぐ始まる、もうあまり時間がないんだ。そろそろ行くね。

 

墓へと向かって深々と腰を折る。

そしてそのまま踵を返すと、真っ直ぐに前を向き、歩き去った。

一度も、振り返ることのなく。

墓の向こうに浮かび上がった瑞俊の顔に浮かんだ表情がどのようなものであったのか。

それを知る者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

五一五事変。

この年、5月15日に勃発した一連の事件は、後にそう呼ばれることとなる。

 

BETA侵攻の只中という危機的状況の中での、日米安全保障条約の一方的な破棄。国土を取り戻すために命を懸ける将兵を嘲笑うかのような、明星作戦において事前通告無しに投下された二発のG弾。それら度重なるアメリカの傍若無人な振る舞いに対し、それでも弱腰の態度を取り続ける政府。

日本に各所に熾き火のようにくすぶり続けた不満の種が、ついにこの日、発芽するに至った。

 

行動を起こしたのは、日本帝国軍の先鋭的な若手将校ら。彼らは武力を持って政府奸臣を打倒し、将軍の権力を復活させることにより、財政界にはびこる腐敗、更には一般市民における様々な困窮が収束すると考えた。

いわゆる、クーデターである。

 

彼らの思想、行動は当時においても後世においても、一定の支持を得てはいる。

だが当然のことながら、それ以上に批判の声のほうが大きい。

特に、仮に蜂起の全てが思惑通りに進んだとしてもその後の見通しが著しく甘い点は、彼等の選択を肯定的に捉える者からしても弁護のしようがない。

彼等の計画の成就とは即ち、他国に内政介入の良い口実を与えてしまった修羅場に、頼りとしていた臣下が粛清され頼る者もいなくなったまだ年若い将軍をたった一人で放り出し、全てをその背中に無理やり背負わせることに他ならなかったのだ。

彼等は、将軍もまた一人の人間であるという事実に気がついていなかった。優れた見識と人格を持ち合わせた一角の人物とはいえ、未だ人生経験の少ない十代の女の子だという当たり前のことが見えていなかった。将軍の権勢さえ取り戻せばそれでいいと。それだけで全ては丸く収まると。そう、思考停止してしまっていたのである。

 

だが、後世において五一五事変について語られる際、彼等が批判の最前面に立たされることはない。

彼等は愚かであった。だが、少なくともその動機に私心はなく純粋なものであり、同情の余地はあった。

しかし、その余地すらない醜悪な黒幕が、彼等の後ろには存在したのである。

 

それは、アメリカ合衆国。

G弾反対派の各国勢力の増大により、アメリカは自国の支配力の低下、特に極東方面におけるそれが消え去ったのを自覚した。同時にこれは、オルタネイティヴ第五計画が第四計画に大きく後れを取ったことも示す。

そしてその権勢の回復するための手段として、考えつく限りにおいて最も卑劣な物の一つを選択した。

それが、日本において意図的にクーデターを勃発させ、それを自らが鎮圧してみせるという謀略である。これにより日本の最前線国としての責任能力のなさを露呈させ、その後のBETA戦争、及び人類同士の争いの主導権を握る。そして、最終的には日本を事実上の属国とする腹づもりであった。

この企てが完全な形で成ったとするなら、日本は戦後から再びやり直すこととなったであろう。

しかし周知の通り、この黒い陰謀は失敗に終わったのである。

 

クーデター勃発の報を受けるやいなや、太平洋上に待機させていた第7艦隊を向かわせたアメリカだが、作戦中の拠点となる筈であった国連軍横浜基地は主権国の判断を無視して行動することはできないと、この受け入れを拒否。

横浜は第四計画のお膝元であり、素直に要請を受けないであろうことは当然、予測がついていた。そこでアメリカは、事前に統合参謀会議に働きかけ、上層部からの圧力を持って横浜を従わせるべく手筈を整えていた。

 

しかし、ここに誤算が生まれる。自軍の最大のスポンサーであるアメリカの意思に従うべきであるはずの人物、国連軍の最高意思決定機関を握る議長の謀反である。彼は事態の詳細な情報を入手するまでは判断できないと、のらりくらりと決断を先延ばしにし、あからさまな時間稼ぎに出たのだ。

そして、それにより生まれた僅かな空白時間に、帝国斯衛軍及び、斯衛より正式に要請を受けた横浜基地の精鋭が出撃。瞬く間にクーデター部隊を鎮圧してみせたのである。

この戦いの際、斯衛軍の武御雷、そして横浜基地の不知火は、およそ戦術機としての常識を疑う機動を見せ、決起部隊を翻弄したという。

 

飼い犬に手を噛まれる形で謀略が失敗に終わったアメリカは、以前より反抗的であった議長の更迭を図ろうとする。極東を支配するのは先延ばしとなったが、なかなか隙を見せなかったこの人物を排除する口実ができたとするなら、これまでに費やした金と時間も全くの無駄だった訳でもない。

だが、それすらもアメリカには許されていなかった。

実行部隊の鎮圧とそのシンパを洗い出して終わりとなるはずだったこの悲劇、あるいは喜劇は、未だ終幕には至らない。更にこの後に数幕を残していたのだ。

 

事件後、日本が世界へと向けて発表したクーデターの詳細報告。それは同時に、裏で糸を引いていたのがアメリカ中央情報局であったという告発文書でもあった。

当然、これにはでっち上げだ、濡れ衣であると抗議するアメリカであったが、突きつけられた数々の確かな証拠を前に、張り上げた声にも威勢がない。当事者の証言から人と金の流れ、更には文書として残していなかったはずの計画書までもが白日の下に晒されたのだ。これらは、仮にアメリカが真に白であったとしても黒く染まらずにはいられない、それほどのものであった。

 

最終的に、あくまでも情報部の独断であって政府は関係ないとしながらも、アメリカは自国の介入を認めざるを得なかった。そして、ついにはウォーターゲート事件以来史上二度目となる、大統領の首がすげ変わる事態とまでなったのである。

 

これにより、アメリカは極東はおろか全世界的にその影響力を弱めることになり、世界の指導者の座から脱落。未だその軍事力は世界最大ではあるものの、今後のBETA戦争は他でもない日本が主導していくこととなる。

 

更にはアメリカから日本への賠償として、いくつかの取り決めがなされる。

表立っては、日本に有利な形での安全保障条約の再締結を始めとした有形無形の援助。水面下においては、第四計画、香月夕呼博士が欲した様々な装備や資料の引き渡し。

そしてそれらの中には、かつて光州の悲劇によって咎人とされた故彩峰萩閣中将の名誉の回復があった。彼の判断は人道的見地からして決して誤りとはいえず、とった行動もまた十分に根拠のあるものであった、と。彼が背負った罪は消え去り、更には帝国軍規によりその階級を大将へと進ることとなる。これにより、残された家族の心を縛り付けていた頑迷な氷も、幾分かは溶かされることとなった。

 

日本国民の意識においても特筆すべき変化がある。将軍を守った国連軍に対する評価がそれだ。国民の間で、アメリカ軍と国連軍、少なくとも横浜基地は一線を画す存在であると認識され、その後の国防においては帝国軍、斯衛軍、国連軍の間で協力体制がしかれることとなったのである。

そして、三軍の友好の証として。日本政府高官の関係者、更にはこれまで秘匿とされていた将軍の縁者までもが、その進む先を国連軍へと定めたのだった。

 

以上が、五一五事変の顛末となる。

大きな痛みを伴うものではあったが、結果としては日本にとって益をなす出来事であったといえよう。

 

 

 

 

 

……だが、歴史に残った事実、これらが五一五事変の全てではなかった。

決起部隊の裏のアメリカ中央情報局。そして、そのさらに奥に。最後まで表に出ることのなかった、さらなる深い闇が存在したのである。

 

 

 

 

 

この一連の事件の発端はどこにあったのだろうか。

2000年5月15日、クーデターが勃発したその日だろうか。あるいは、アメリカが結果的に自らを失脚させる謀略を画策しはじめた時からだろうか。あるいは……。

 

彼、この事件に深く関わることとなる人物、日本帝国本土防衛軍帝都防衛第1師団第1戦術機甲連隊所属、沙霧尚哉大尉にとっての始まりは、前年の冬。

雪の降りしきる帝都にて、かつての戦友であり、かわいい弟分であり、そして親友である人物から、久しぶりに会えないかという連絡を受けた時からであった。

 

 

 

 

 

 

 

1999年、12月。

帝都。

 

店内は随分と混み合っているようだった。

彼が店に入るやいなや掛けられる、いらっしゃいという威勢の良い声。だがそれに続けて、すみません満席なんですよと、店員が申し訳無さそうな顔で告げてくる。

それが嘘でないことは、さして広くもない店内を見渡してみれば一目瞭然。

全てのテーブルとカウンター席はすでに埋まっており、一人の者も連れ立ってきている者も、思い思いに憩いの時間を楽しんでいるようだ。

皆、良い顔をしている。庶民の財布にも優しい値段で、それなりに旨い酒と肴を出す店なのだろう。もちろんすべて合成食材だろうが、それでもこういった場と雰囲気で飲む酒は格別に美味く感じるものだ。

 

店内の雰囲気が伝わったように、彼の顔にも笑みが浮かぶ。

外で酒を飲むだけの余裕が日本国民に戻ってきた。それが、嬉しい。そしてその為に尽力してきた自分を、彼──沙霧は誇らしく感じる。

もちろん自分一人の力ではない。むしろ、自分などいてもいなくても変わらぬ些事な存在だったかもしれない。それでも、大陸の激戦を経験し、日本が侵されるのを目の当たりにしてきた彼は、目の前に広がる日常の風景を何よりも愛おしく思うのだ。

 

これで、心に刺さる棘さえなければ、もっと純粋に自分と仲間たちの成果を誇ることが出来ただろう。横浜ハイヴがあのような形で攻略されてさえいなければ。

……やめよう。今はそのようなことを考える時間ではない。ゆっくりと頭を振り、湧き出てくる黒い感情を振り払う。

 

それにしても。

自分が配属されている基地のすぐ近くに、このような飲み屋があったとは。

あの日、消滅する横浜をこの目にして以来。何かに急き立てられるような強迫観念に追われ、ただひたすらに研鑽を積む日々を過ごしてきた。そんな気持ちに余裕の持てない状態では、娯楽の場に詳しくないのも当然か。顔に浮かぶ笑みに、自嘲のアクセントが加味される。

 

「いや、先に連れが来ているはずなんだが」

 

気がつけば、店員が困ったような顔で自分を見つめていた。どうやら思考の海に沈みかけていたようだ。我に返って、そう告げる。

改めて、店内を見渡してみれば、基地に務める者の顔もチラホラと。声をかけようかとも思ったが、仲間内で楽しんでいるところに上官が顔を出すなど、無粋な真似はやめておくとしよう。

それよりも、目的の人物は……

 

「あ、尚哉さん! こっちこっち!!」

 

一番奥のテーブルで、大きく手を振る姿。浮かんだ笑みが、一段と濃いものとなる。

彼を呼ぶ声に、沙霧の存在に気づいた軍関係者が慌てて立ち上がり敬礼をしようとする。それを片手で制し、混みあったテーブルの隙間を縫うようにして、彼の下へと歩みを進めた。

思い返される、大陸での日々。沙霧の時間が、巻き戻されていく。

これまでの人生で最も濃い、充実した時間。沙霧にとっての黄金時代をを共に過ごしてきた仲間。思えば、記憶のページをめくると、いつも彼が側にいたように思う。

 

「元気そうだな」

 

黒須蒼也が、そこにいた。

 

「ええ、尚哉さんも変わりないようで……いや、少し老けたんじゃないですか?」

 

昔と変わらぬ、悪餓鬼の笑みを顔一杯に湛えて。

 

 

 

 

 

数年ぶりに蒼也と過ごす時間は、思っていた以上に楽しいものとなった。

酒などあまり嗜まない沙霧だが、久しぶりに飲んだという以上に酔いが回っているようだ。それだけ、気が緩んでいるということなのだろうが……今日くらいはいいじゃないか。今日くらいは、何も考えずに旧友との再会を楽しむことにしよう。

 

共に戦った思い出を話し、そして今はもういない仲間たちの最後を誇らしく語る。更には互いの最近の様子など。別に自分はそう話し好きというわけでもないが、話題には事欠かず、会話は止まらない。

ただ、現在の軍務についての話題だけは慎重に避けていた。所属基地に連絡が来たことから、蒼也は沙霧の近況は語らずとも知っているであろう。逆に沙霧には蒼也が軍で何をしているのか知る術はない。ただ、国の為、世界の為に国連の秘密計画に携わっているということのみ、知っている。本来この情報すら知る権利はないのだが、己の権限でと語ってくれた彩峰中将の顔が思い返される。

 

それでも、蒼也が戦い続けていること、それは判っていた。

重慶からの帰還者から噂に聞いた、戦場の最も新しい伝説。ただBETAを狩り、何も告げずに去っていく、存在する筈のない、青い不知火。

そして明星作戦においてその伝説を沙霧もまた、目の当たりにしたのだ。

一目で分かった。あれは、蒼也だと。

と、いうより。支援砲撃の雨が降り注ぐ只中を敵陣深くまで斬り込み、無傷で光線級を殲滅するなど。あんな真似が出来る人間が他にいてたまるものか。

 

だから、聞かずとも、語らずとも。互いがまだ戦士であることを知ってさえすれば、それでいい。

そう、思っていた。……のだが。

 

「そうだ、尚哉さん。僕……戦術機、降りることになりました」

 

なので、しれっと紡がれたこの一言に、固まることとなってしまった。

戦術機を、降りる。衛士から引退すると……そういうこと、か?

馬鹿なっ!

指揮官として彼ほどの人材はいない。共に戦い、彼の予言を聞き続けてきた自分ならばこそわかる。それは人類の損失だと、そう断言できる。

だが、蒼也が自分から衛士を辞めるなどと言い出す筈がない。ならば、上層部の判断か? なんという愚かなことを。彼を戦いの現場から外すなど、有り得ていいはずがない。

 

「……実は、夏の戦いで負傷してしまって。もう、乗れないんですよ」

 

そう、寂しそうに笑う。

夏の戦い……明星作戦か。だが、いかに激しい戦いだったとはいえ、そう簡単に蒼也が負傷することなど──

 

そこで、思い当たった。

いや、夏と言われた時点で本当は判っていた。今も瞼の裏に張り付いて決して消えることのない、あの風景。

すべてを無に還す、漆黒の球体。闇の爆発。忌まわしき……G弾。

あの地においては今も重力異常が発生しており、新しく草木が芽吹くことはないという。その影響を最も間近で受けたであろう人間に、何らかの不具合が発生するのもまた道理。

 

……またか。またなのかっ!

またしてもアメリカが、大切なモノを奪い去っていくのかっ!

無意識のうちに拳を握りしめていた。血が通わず、白く染まっている。歯を噛み締め、表情のなくなった顔も、また同じく。

そんな沙霧を慰めるように、ことさら明るく言葉を続ける蒼也。

 

「今は、横浜基地の司令部にいます。色々と事務仕事をこなしたりなんだり、結構忙しいんですよ」

「……お前は、それでいいのか?」

「何も問題無いです。僕がいなくても任せられる頼りになる人材がいますから。A-01っていう部隊が新設されたんです。あの部隊はすごいですよ。間違いなく、BETA大戦の常識を覆すような、そんな部隊になります」

「お前が前線に立つよりも、か?」

 

じっと、蒼也の目を見つめる。

彼の言い分は単なる強がりではないのか。内心、悲観にくれているのではないのか。

だが、蒼也は沙霧の視線に怯むことなく、目を逸らすこともなく、見つめ返してきた。

 

「ええ、もちろん」

「……そうか」

 

きっと、思い悩みもしたことだろう。だが、確かにその顔は晴れ晴れと、傲岸なまでに前を向いていた。

ならば、自分がこれ以上水を差すこともない。少しだけ、彼が悩んでいる時に力を貸せなかったこと、そして彼が自分を頼ろうとしなかったことに、悲しみを覚えはしたが。

 

「それに……僕だって、ずっとこのままというわけじゃないですよ。いつか、また、乗ります」

 

安堵のような、苦笑いのような。なんとも言えない笑いがふっと込み上げる。

そうだ、こいつはこういう奴だった。本当に、どこまでも我儘な奴だ。

 

「さてと、暗い話題はこのへんにしておいて、と。尚哉さん、最近は慧ちゃんとはどうなんですか?」

「どう、とは?」

「そんな、皆まで言わせないでくださいよ。いやらしい」

 

あら嫌だと、そんな風情で肩を叩いてくる。お前はどこぞのオバサンか。

しかし、話題が変わったことは有難いのだが、よりにもよって慧の話とは。

 

「……もう、ずいぶんと会っていない。会ってくれないんだ」

 

絞りだすような声。

彼女のことを想うと、己の無力さに恥じ入りたくなる。あまり語りたくないというのが本音だ。だが、先ほどの蒼也の決意を見せられて、自分は後ろを向いたままではいられない。

 

「中将の件が、今も彼女の心を縛り付けてしまっている。心無い者達からの非難の声も随分とあった。……俺は、彼女の助けになれなかった……」

 

彩峰中将には、敵前逃亡者という不名誉な烙印が押された。そして、国土を侵された日本国民は、その憤りを手近なところへとぶつけていた。戦う力を持たず、未来に希望を持てない中で、彼等は自身の精神の安定を保つためにも生贄を必要としていたのだ。

即ち、中将や大陸派遣軍がもっとしっかりとしていれば、こんな事にはならなかった、と。そんな、身勝手な理論。

 

彼等は紛れもなく被害者には違いない。だが、だからといって自分より弱い者をその捌け口にすることが許されようはずもない。酷い落書きのされた彩峰家、更には慧の頬に殴られたような跡を見出した沙霧は激怒した。そして、これからは中将に代わって自分が慧を守ると。守らせてほしいと。そう、彼女に告白した。

だが、慧は一言こういったのみだった。もう、誰も信じられない、と。

 

「俺にはどうしたらいいのか、わからなかった。今も毎月、文を届けてはいるが、果たして目を通してくれているのか」

 

小器用な生き方ができる男ではない。沙霧には、大陸で戦い続けた中将が自分の命惜しさに逃げ出すようなことは決してしないと。慧のことを守りたく、心から大切に思っていると。ただ、自分の正直な気持ちを、書き連ねることしかできなかった。

 

「何時か、時の流れが彼女の心を癒してくれる日がくる。今はそう信じるしかない」

 

沈痛な表情の沙霧に、蒼也は伝えたかった。

大丈夫、慧ちゃんはきちんと立ち直ることが出来る。素晴らしい仲間に恵まれて、しっかりと前を向くことができるようになる、と。

白銀の記憶の中、彩峰慧は。自らの二本の足で、しっかりと大地を踏みしめ、明日へと向かって歩いていたのだから。

 

「ところで、お前の方はどうなんだ?」

「どう、って?」

「皆まで言わせるな。いい加減、良い人の一人もできたんじゃないか?」

 

沙霧からしてみれば、話題を変えたいだけの。先ほどのやりとりの立ち位置を逆転させただけの、冗談のつもりだったのだが。

 

「婚約者が出来ました」

 

だから、小憎たらしいまでの満面の笑みで、そう頷かれたた時には。ぽかんと口の開いた、間の抜けた顔を晒す羽目になってしまった。

だが、一転。

湧き出てくる、この日一番の、笑い。

溢れんばかりの喜びと。独身者としての、ほんの僅かな憤りと。

 

素晴らしい! 願わくば、彼が幸多き未来を歩まんことを。

店内の喧騒を掻き消すような、ひときわ大きい沙霧の笑い声が響いていた。

 

 

 

 

 

存分に食べ、飲み、会話を楽しみ。気がつけばもう良い時間となっており、今日のところはお開きとすることに。

名残惜しくはあるが、何。この日本の平和が続く限り、またいくらでも機会はある。

その為に。帝都を、日本を、愛する者を守るために。自分が、自分達こそが全てを斬り裂く剣となり、堅牢なる盾とならなければならない。

蒼也には感謝しなければならない。今日の時間を過ごしたことで、我武者羅でしかなかったここ最近の自分の気持にも、幾分かの筋道が見えてきた気がする。今日、この店で見た笑顔が、これからも続くようにしなければならない、と。

 

「降ってきたか。通りで冷えるわけだ」

 

店を出た沙霧が、空を見上げて呟く。

今年の冬は例年より随分と雪が多い。日本侵攻に伴い破壊の限りを尽くされた自然環境の影響なのだろうか。それでなくても、大陸の気候変動により気象条件が不安定になっているというのに。

地球を人間の手に取り戻したとしても、自然が元の状況に戻るには何世紀もの時間を必要とすることなのだろう。空から降り注ぐ純白の欠片。幻想的とも言える光景が、何とも言えない悲しみを誘う。

 

「酔い覚ましにはちょうどいいんじゃないですか?」

 

手の平の上に雪の欠片を乗せ、蒼也がそう返してきた。雪球を作ろうとしているようだが、いかんせんまだそこまでの雪は積もっていない。ぶつけられないじゃんなどという、不穏な言葉は聞こえなかったことにしよう。

 

「これから横浜まで帰るのか?」

「ですね。外泊許可はとってないので」

「随分かかるだろう。悪いことをしたな、もっとそちら寄りの場所で会えばよかったか」

「でも、そうすると今度は尚哉さんが大変でしょう。それに、大丈夫。車を待たせてますから」

「……いい身分だな」

「これでも、少佐ですから。それに、体のこととか色々あって、一人じゃ出かけさせてもらえないんですよ」

 

何と言えばいいのか、上手く言葉を返すことができなかった。アメリカに対する憤りが、再び鎌首をもたげてくる。

 

「何なら、送って行きましょうか?」

「よせよ。若い娘でもなし、そんな必要はないって」

「残念。若い娘呼ばわりしようと思ってたのに。……なら、少し歩きませんか?」

「まだ話し足りないのか?」

 

蒼也も別れを惜しんでくれているのだろうか。

嬉しいような、仕方ない奴だというような、そんな気持ち。男があまり未練がましくするもんじゃないと、軽く諌めようとして──蒼也の目に真剣な光が宿っているのに気がついた。

 

「あまり、ああいった賑やかなところでは。……本当は、尚哉さんには話さないほうがいいんじゃないかって、そうも思うんですけど」

「……歩くか」

 

帝国軍朝霞駐屯地の近くにある大きな公園。日中は市民の憩いの場となっているが、夜ともなれば行き交う人も少なくなる。まして、この気温で雪まで降り始めているのだ、今は人っ子一人いないだろう。その場所へと歩みを進めた。

 

黒い闇と、白い雪。その中に存在する、ただ二人だけの人間。いつか、人の消え去った北京の町並みをこうして二人で歩いたな、と。沙霧はそんなことを思い出す。

 

店での朗らかな様子とは裏腹に、蒼也の面持ちは暗い。沙霧の数歩先を、とぼとぼと、歩く。

やがて、街頭の明かりの下で立ち止まった。ゆっくりと振り返り、頭ひとつ高い場所にある沙霧の顔を見上げる。

その顔に、先ほど見せた迷いの色は、もうなかった。

 

「今……国内で、政府を打倒しようとする動きがあります」

 

静かに紡いだ蒼也の言葉が沙霧の耳へと届き、その心へと刻まれていった。

 

 

 

 

 


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