あなたが生きた物語   作:河里静那

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35話

 

「……タケル。俺の名前は……シロガネ、タケル」

 

そう呟く自分の言葉が、何か違うように感じた。

一歩離れた場所からその様子を見ているように、録画された映像を見ているように。酷く、現実感がない。どこか、腑に落ちない。

言葉を発したのは、本当に自分なのか?

俺の名前は本当に、シロガネタケル……なのか?

 

──……シロガネ……タケル。そうだ、白銀武……だ。

 

俺は、白銀武。

……何だろう、この違和感は。何か、とても大切なことを忘れているような……。

ずきん。

思考を巡らすと、頭蓋に五寸釘が打ち込まれたかのような激痛が走る。考えるのをやめてしまえば楽になる、そんな気がした。

けれど……だめだ、この違和感をそのままにしてしまっては、きっと取り返しの付かないことになる。それは恐怖。大切なモノを失ってしまう予感。

 

右手を額に当て、割れそうになる頭を抑えこむ。

考えろ、思考を止めるな、この不安感の正体を探れ。

そもそも、これは一体どういう状況なんだ? 今はいつだ? 俺は何でこんなところにいる?

ずきん。

頭に突き刺さる釘がまた一本増えた。考えを巡らす度に一本、鼓動が脈打つ度に一本。

……くそっ! これくらいなんだ!

スミカだってこの痛みを乗り越えたんだ、俺だってっ!

 

──……スミカ? ……スミカって?

 

ずきん。

これまでに無い、強烈な痛み。思わず口から呻きが漏れる。

それでも、考えは止めない。止めてしまっては、いけない。

 

──スミカ……そうだ、純夏だ。

 

ずきん。

何度も何度もやり直して、俺はやっと純夏に会えて……それで、どうなった?

……そうだ、桜花作戦だ。207Bの仲間達とオリジナルハイヴへと突入したんだ。

大切な、仲間達。その顔をひとりひとり思い出していく。

純夏、霞、冥夜……冥夜? 冥夜ちゃん? 無現鬼道流の同門の? なんで?

 

──……なにか、おかしい。

 

ずきん。

他には誰がいた?

後は……委員長、彩峰……慧ちゃん? だって慧ちゃんはまだ衛士になんてなってない……あれ、それは冥夜ちゃんも一緒で……でも、俺の同期で……

他にはっ!?

後はたまと、美琴と、碓氷……。

 

──……碓氷?

 

ずきん。

いや、違う。碓氷はいなかった。

碓氷は部下で、明星作戦で俺を助けてくれて……。

……あれ? 俺は碓氷大尉に会ったこと、あったか……?

 

──……記憶が、混乱している。

 

ずきん。

思い出せ、記憶を遡れ、違和感の原因を突き止めろ。

武御雷は誰から託された? ……月詠中尉?

そうだ、月詠さんだ。冥夜ちゃんのメイドで、斯衛の中尉で……。

……違う。月詠中尉なんて、そんな呼び方は……真那ちゃん?

 

──真那ちゃんっ!

 

ずきん。

優しく微笑む彼女の顔が心に浮かび上がる。

生まれた時から、ずっと、ずっと、一緒にいた人。いてくれた人。

いつも真っ直ぐで、強く、厳しく、感情のままに、優しい。

自分は、彼女とは違う生き方を選んだ。もう、一緒に歩いて行くことは出来ないかもしれない。

それでも。とても、とても。

とても大切な。一番大切な、人。

幻の彼女がゆっくりと口を動かし、自分の名を呼んだ。

 

ずきん。

頭が痛い。冷や汗が雫となって滴り落ちる。

楽になりたい。流れに意識を委ね、溶けて消えてしまいたい。

……だけど……だけどっ!

 

──……俺は……僕はっ! 僕はっ!!

 

右手を額から外し、高く掲げる。

そしてその手を固く握りしめ、己の頭をめがけて渾身の力で振り下ろした。

鈍い音が室内に響き、頭の内部から溢れていたものとは違う、外部からの痛みが濁った意識に光を灯す。

直後、糸の切れた操り人形のように体が弛緩する。そしてそのまま重力に逆らうことなく、ベッドの上に体を投げ出した。

頭に貼り付けられていた電極が、音を立てて剥がれていく。その確かな現実の感触が、自分を取り戻せたことを教えてくれた。

 

「……モトコ、先生。……さっきの、訂正」

 

目の前で行われる奇行に目を奪われていたモトコの耳に届く、彼の声。

 

「僕は、蒼也。国連軍A-01連隊所属、黒須蒼也=クリストファー少佐、です」

 

そして蒼也はにいっと、口の端を上げてみせる。

焦燥した顔には、普段通りの悪餓鬼の笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

一体、何が起きているのか。シロガネタケルとは誰のことなのか。

長時間眠っていたせいで現実と夢の区別がつかなかった……それなら意識さえ明晰になってしまえば、それで問題は解決する。

だが、どうやらそんな単純なことではないらしい。

 

蒼也の目が覚めてから電極が外れるまでの間、脳波を始めとした各種データは異常な数値を示していた。これは、彼の脳内において通常とは違う、何か特別な働きが起こっているという証拠。

まず、体性感覚野、帯状回、前頭葉、小脳など、様々な場所において観測された神経活動。ここからは、何か大きな痛みが彼を襲っていると読み取れる。外傷がない以上、くも膜下出血や脳梗塞を疑うべきだが、その徴候は見られない。

 

そしてもう一つ、海馬の異常な活性化。海馬は記憶と空間認識能力を司る脳内部位だ。彼はもともと、この働きが常人より遥かに優れていた。これが戦場で敵の動きを見切る能力の源なのだろうと推測していたが……それを差し引いても、この数値は異常だと言わざるを得ない。

脳科学者としての血が疼くのを感じる。

 

「……混乱が収まったようで何よりね。

 ところで、自分の状況、説明できる? さっきのシロガネタケルって、誰のことなのかしら?」

 

彼に痛み以外の何らかの自覚症状があるのか。それを確認しておかなくてはならない。

まずは……シロガネタケル、この名だ。知っている限り、彼の周囲にも自分の周囲にもそのような名を持つものは存在しない。

 

「ごめんなさい、モトコ先生。……そのまえに……少し、休ませ……て……ください……」

 

横になった姿勢のまま、蒼也がそう言った。瞳がゆっくりと閉じられていく。

……間もなく、規則的な寝息が聞こえてきた。

 

脈拍、体温、瞳孔運動などを確認。……問題はなし。ただ、寝ているだけのようだ。

 

「……夕呼に報告しておかないといけないわね」

 

妹は現在、これまでの人生でおそらくは一番多忙な状況に置かれている。

些細な事であれば解決してから結果を報告するなど、のしかかる負担をできるだけ軽減してあげるべきだろうが……。

彼は夕呼の計画にも深く関わっている。現状は分かっているが、それでも状況を告げておくべきだろう。

モトコは眠る蒼也に毛布を掛け直してやると、レポートをまとめるべく自室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

1999年8月5日、午前8時5分。

アメリカ軍が日本帝国、大東亜連合への事前通告なしに投下した二発の五次元効果爆弾──G弾は、ハイヴのモニュメントと呼ばれる地表構造物を破壊し、BETA群をほぼ一掃。人類は、史上初となるハイヴの奪還に成功した。

さらにはそれに呼応するように、西日本を制圧していたBETA群が一斉に大陸へと向けて撤退を開始。戦術機甲部隊による追撃戦、艦砲射撃などによって敗走するBETA群に大損害を与え、明星作戦は歴史的な大勝利という形で幕を下ろした。

人類に希望を与え、BETAの存在しない未来をもたらすかに見えたG弾。だが作戦後、各国においてG弾脅威論が噴出することになる。

 

その理由の一つは、明星作戦においてG弾が無通告で使用されたことが引き金だった。

投下直前に撤退勧告がなされたとはいえ、戦闘の中で撤退とは最も難易度の高い行為の一つである。当然というべきか、退却が間に合わずG弾の効果範囲内に取り残され、BETAと共に消滅していった兵士が数多く存在した。

ほんの一年前に安保条約を一方的に破棄して撤退したアメリカが、恥じらいもせずに明星作戦に部隊を送り込んだ理由。これについては様々な憶測と疑念を呼んでいるが、恐らくは無通告のG弾使用、これそのものが目的だったのであろう。

結果だけを見れば確かに効果的であったと言えるが、これにより日本国民と大東亜連合軍を構成する各国国民の心に更に深い反米感情を刻み込んだのは確実である。そして、それがG弾批判へと繋がった。

第四計画への牽制と、第五計画の優位性を誇示するためのG弾投下。それが結果的に第四計画と香月夕呼博士に利をもたらしたという事実は、もはや歴史の皮肉と言う他ない。

 

他の理由としてあげられるのが、そのあまりの威力の高さである。

たった二発の爆弾がハイヴを根こそぎ消滅させたという事実。爆心地となった横浜ハイヴ跡地の様子と各種のデータは、ユーラシア各国首脳の顔を青ざめさせるに十分だった。

核の比ではないその破壊力。それが自国内で振るわれることを想像したならば、G弾に対して警戒心が生ずるのも仕方のないことであろう。

 

更には横浜ハイヴ跡地周辺において、謎の重力異常が観測されたことが挙げられる。

その原因がG弾にあることは明白であり、それが人体と生態系にいかなる影響を及ぼすのかは今後長い時間をかけて検証していく必要がある。そして安全が確認されていない以上、その使用には制限がかけられるべきであると、そう考える者が出てくるのも当然のことだ。

 

ここに追い打ちを掛けるように、アメリカがこの重力異常が発生することを事前に承知していたにも関わらずそれを隠していたこと、そしてG弾の破壊力があれ程の威力にもかかわらず予想値を遥かに下回っていた、つまりは完全に制御できるものではなかったことが、とある人物の調査により発覚する。

その人物──国連軍統合参謀会議議長、他でもない国連軍の総司令官その人は、アメリカの影響力の強い国連軍内部における自分の立場が危うくなることも恐れず、それを公表した。

これにより、アジア及びユーラシア各国ばかりではなく、アフリカ諸国の一部においてもG弾脅威論が噴出し始める。

 

対して、南アメリカ諸国等のアメリカを元々支持していた国々は、G弾の威力が実証されたことによって、より強硬にその使用を主張し始めた。

 

 

 

国家間の思惑が乱れ飛ぶ中、第四計画を主導する香月夕呼博士は国連に対し、横浜ハイヴ跡地に国連軍基地を建設することを要請。

国連軍統合参謀会議はこれを即座に承認。国連軍横浜基地建設着工と同時に、アメリカ軍に対し即時撤退命令を下した。

これには、各国におけるG弾脅威派の、第五計画に対する牽制が背景に存在した。

 

そして、香月博士がこの地に第四計画の本拠地を欲した理由。それは、とある人物の確保にあった。

それは、自身の計画に最も適合しているであろう者。より良い未来を掴み取る力を、誰よりも所持しているであろう存在。

これまで黒須蒼也が最もそれに近いと考えられていたが、彼を遥かに上回るであろう、適合性。

 

それは──ハイヴからの生還者。

建設中の横浜基地の地下深く。青い光に照らされた彼、あるいは彼女の前で、魔女が嗤っていた。

 

 

 

 

 

 

 

1999年、9月。

横浜ハイヴ跡地、地下。

 

シリンダーに収められた、脳と脊髄。

そのホルマリン漬けにされた標本としか見えない脳は……生きていた。

見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触ることも出来ないその状態を、果たして生きていると呼んでもいいものなのか。感覚的、あるいは倫理的には疑問が残る。だが確かに、生物学的には生命活動を維持しているのだった。

 

将来的にここは、横浜基地の中でも特に機密度の高い場所となる予定である。

基地建設は通常では考えられないほどの速度で行われており、この場所を含む第四計画占有区画に限っていえば、来年初頭には稼働が可能となるはずだ。そして、その時点で帝国大学より研究機関が移設されることになっている。

それまで僅か四ヶ月。だが、その四ヶ月をただじっと待つことなど、この最高の素材を前にして何もしないでいることなど、香月夕呼という人間に出来ようはずもなかった。

 

この時、香月の脳内からは既に、黒須蒼也という人間は過去の存在とされていた。

00ユニットへの最高の適合者と思われていた彼であるが、それ以上の存在に出会えたのだ。

だが、これにより彼の衛士としての価値が下落するということはない。ならば、今後はあくまでA-01の指揮官、軍部における片腕として使っていけばいい。あの能力は得難く、役に立つものであるのには違いないのだ。

そう考えていたのだが……どうやら、それも出来なくなってしまったようだ。

 

彼は、壊れてしまった。

G弾の爆発に合わせて意識を失ったことを皮切りに、一度目覚めた後も、日に何度も昏倒しては目覚め、また気絶するということを繰り返している。

五次元に干渉するG弾の効果と、彼の能力が不適合を起こしたのだろうか。その原因究明には科学者として純粋な興味もなくはないが、現状における優先順位は限りなく低い。半ば趣味の範囲のことに割く時間など、存在しないのだ。

 

故に、香月は蒼也を切り捨てた。

機密を知ってしまっていること、そして将来的に第四計画の看板役を務めてもらう可能性があること。このことから、手放すことはしない。だが今後、彼が一線で活躍することはおそらくもう、ない。

 

A-01は現在、帝国軍練馬駐屯地の一区画を間借りして、そこに待機させてある。

横浜基地第四計画占有部の可動と同時に呼び寄せ、新たに加わる新任も合わせて編成し直す必要があるだろう。

まあ、それは伊隅あたりを指揮官に任命し、彼女にやらせればいい。何なら、サポートとしてまりもを貸してやってもいい。

 

とにかく……。

今は、この脳についての調査が最優先だ。

五感を失ったこの脳の持ち主にとって最後に許された自発的行為、思考の状態を調べるのだ。

そして今、仮設された足場の上で、社霞が脳とのコミュニケーションを試みていた。

 

第三計画の申し子である、彼女の能力。

他者の思考を読み取る“リーディング“と、己の思考を投影する“プロジェクション”。それを使って脳と対話するのだ。

どちらの能力も希少であり、使い方によっては恐るべき力を発揮する。だが、残念ながら万能ではない。思考内容をイメージ、付随する感情を色として読み取り反映する能力であり、考えていることが一字一句わかるというものではないのだ。

それでも、この状態の脳とコンタクトを取るには、これしか方法がない。

 

そして、毎日、毎日。ここに住み込んでいるかのように足繁く通う社のお陰で、一つ嬉しい情報が判明していた。

この脳は、確かに思考している。

その内容はハレーションを起こしているように支離滅裂で意味不明のものであり、ただ強いとしかわからないなにがしかの感情が溢れだしているという状態。

何を考えているのかはわからないし、これにまともな自意識を取り戻させるのには骨が折れそうだ。

だが、生きている。精神的な死を迎えていない、植物状態ではないということが判明したのは大きな成果だった。

 

後は社がじっくりと自我を取り戻させ、自分は00ユニット本体を完成させれば。

そうなれば、ついに第四計画の成就する時が、来る。

香月の手が、目を瞑り必死に思考を読み取りそして送り出す、社の頭に乗せられる。

アタシは、残酷な人間だ。

こんな小さな子に、世界の命運を託そうというのだから。

 

──社、アタシは必ずやり遂げるわよ。

 

報いは、いずれ受ける。

だが、それはすべてが終わった後のこと。

それまで、自分には立ち止まることなど許されていない。全力で、走り抜ける。

社。アンタに平和な世界ってのをプレゼントしてあげるから。だから……手を、貸して頂戴。

頭に乗せられた手が、無意識の内にゆっくりと動かされ、髪を撫でる。

その時……。

 

「きゃっ!」

 

社が可愛らしい悲鳴を上げて、一歩退いた。

このような反応を彼女が示すなど、非常に珍しいことだ。見開かれた目と、なにか言いたげに震える口唇が、彼女が受けた衝撃の大きさを物語っていた。

香月がじっと、自分の手を見る。

 

──アタシが撫でたから……じゃ、ないわよね?

 

思わず見当違いのことを考える香月に、社が必死の視線を向ける。

 

「……今、何を考えているのか、わかりました」

 

香月がにやりと笑う。

 

「……ひとこと、だけですけど。とても、強い……叫ぶような、感情でした」

「教えて、社。コイツは何て言っていたの?」

 

人間との関わりを極端に恐れる社にとって、この脳は積極的に関わろうとした初めての相手。

その特別な存在が発した、初めての言葉。

それを噛みしめるように、友の想いを代弁すべく、社は厳かに告げた。

 

「……タケルちゃんに会いたい、と」

 

香月の顔が、驚きに歪んだ。

 

 

 

 

 

 

 

1999年、9月。

帝国軍練馬駐屯地。

 

「あら、お熱いわね」

 

社を連れて病室に入ってきた香月の第一声。

蒼也の横で合成林檎を剥いていた碓氷が、体をびくりと硬直させる。

 

「ふ、副司令っ! どうしてここにっ!? あっ、今日は休息日で、別にさぼってた訳とかじゃなくてですね、休みだから少佐のお見舞いに行こうかなって思っただけで、別にそれ以上何かあるってことでもないわけで、ですから、その……ああもう、あたし何言ってんだろ……あっ、敬礼っ!」

 

──この娘……まりも並みに弄りがいがありそうね……。

 

百面相、自己嫌悪、一転して軍人らしく敬礼。取り乱しまくる碓氷の姿に、嗜虐心がそそられる。

このまま弄り倒して遊ぶのも面白いのだろうが……非常に残念ながら、今はその時ではない。

 

蒼也はここ一ヶ月、基本的にこの病室のベッドの上で過ごしている。

本当にいつ意識を失うかわからない状態なので、間違っても戦術機などには乗せられない。A-01の誰もが認めたくなく、碓氷などはきっと良くなると信じているが……もう、衛士としての蒼也の生命は終わった。残酷だが、それが周囲の認識であった。

 

「副司令……そろそろ、いらっしゃる頃だと思ってましたよ」

 

その蒼也が、笑う。

悪戯を成功させた、悪餓鬼の顔で。

 

「本当はこちらから出向くのが筋でしょうけど、ここのところ頭痛に悩まされてまして。実は、こうしている今もです。体調管理は衛士の義務だというのに、情けない限りですよ」

 

そう言ってわざとらしく肩をすくめ、碓氷には一転、自然で優しげな笑みを向けた。

 

「碓氷、今日は有難う。それで……悪いんだけど、席を外してもらえるかな」

 

無言で頷き、蒼也に、そして香月に敬礼を行う碓氷。

心の中では長く伸びた後ろ髪をこれでもかと引かれながら、それでも振り返ることなく退出していった。

それを見送った香月が、くるりと蒼也に振り返る。

 

「アンタ、碓氷とそういう関係だったの」

「別にそんな訳じゃありませんよ。単に、負傷した上官を心配して見舞いに来てくれた、それだけのことです」

 

心持ち、蒼也の目が伏せられた。

 

「僕と碓氷がそういう関係になることは……ありません。僕は、必要とあらば碓氷だって切り捨てる人間ですよ」

「あの娘は、それでもいいなんて言いそうだけどね」

 

ゆっくりと、首を振る。

 

「僕は……そこまで強くはありませんよ」

 

香月には蒼也の心の内が理解できた。彼女自身、同じような考えを持っているのだ。

一番大切な人をこの手にかける必要があるのなら。それで苦しむのであるのなら……そもそも、大切な人を作らなければいい。

自分達の手は、血に汚れすぎている。

……まあ、それはそれとして、からかう材料があるならそれは見逃さないのが香月でもあるのだが。

 

「それで、確か……タケルちゃんに会いたい、でしたっけ?」

 

会話の流れを途切れさせることなく、本当に何気ない素振りで、蒼也は大上段から切りつけた。

科学者の顔に戻った香月の、その冷徹な視線が蒼也を射る。

 

「2001年12月24日、第四計画は打ち切られることになります。香月副司令……貴方は、00ユニットを完成させることは出来ません。……このままでは、ですけどね」

 

香月に何かを言わせることなく、返す刀でもう一撃。

病室内を、沈黙が支配した。

香月の視線が蒼也を刺し貫いたまま数分が過ぎ、やがて彼女は口を開いた。

 

「黒須……アンタ、何を“視た”の?」

「その前に。この病室、セキュリティは問題ありませんか?」

「それは心配しなくていいわ。仮にもA-01の連隊長の部屋よ。防諜面ではこの基地で一番の病室よ」

「それを聞いて安心しました。あと、それともう一つ。……霞ちゃん」

 

急に名前を呼ばれて、社の体がぴくりと硬直した。兎の耳のような頭飾りがひらりと揺れる。

 

「霞ちゃんに僕の思考を読ませるのは、お勧めしません。僕はこうしている今も絶え間なく頭痛に襲われていて、思考を読むとその痛みまで共感してしまうかもしれない。……正直、霞ちゃんには厳しい体験になると思います」

 

香月の視線が社へと移り、わずかに怯えた様子を見せる社のそれと交錯する。

その社に一瞬だけ優しげな笑みを向け、香月は蒼也へと向き直った。

 

「社の力も知ってるのね。……いいわ、読むかどうかは、一旦アンタの話を聞いてから判断しましょう」

 

香月の言葉に一つ頷くと、蒼也はゆっくりと話し始めた。

あいと、ゆうきの、おとぎばなしを。

 

 

 

 

 

──まず、あの脳の持ち主の名前ですが、鑑純夏といいます。彼女には秘密にしているけど好きな人がいて、学校に通って、将来はBETAと戦うことになるのだろうかと不安に思っていて……そんな、どこにでもいるような、ごく普通の女の子でした。

 

──その彼女ですが……BETAの横浜侵攻の際、彼女の幼馴染みと、その他大勢とともにBETAに捕らわれてしまいます。

 

──幼馴染みの名は白銀武。彼は、捕らわれたハイヴ内で果敢に鑑純夏を守ろうとし……そして、彼女の目の前でBETAに惨殺されます。

 

──その後、彼女は人体実験の被験体にされました。BETAからしてみれば、人間が鉱物を研究するような、そんな感覚だったのかもしれません。実験内容については、今は割愛します。ただ、言うのも聞くのも悲しい……そんなものだったとだけ。そして彼女は、脳と脊髄だけの姿となりました。

 

──同じような状態にされた他の人間達が、ついには意思が折れて生命活動を停止させる中、彼女は生き続け、そして願い続けました。タケルちゃんに会いたい、と。そしてその強靭な意志の力が奇跡を起こしました。

 

──ところで、横浜ハイヴ内に備蓄されていたG元素ですが、想定より大幅に量が少なかったんじゃないですか?

 

──鑑純夏は、明星作戦で投下されたG弾によって時空間の歪みが発生した際、ハイヴ内に存在したG元素を触媒にして平行世界の白銀武を召喚したんです。

 

──白銀武は2001年10月22日に、この世界に出現します。何故この日なのか、それには彼と彼女の思い出が関係してくるのですが……それはまあ、いいでしょう。

 

──平和な、BETAの存在しない世界からやってきた白銀ですが、横浜基地に拾われて何とか衛士としてやっていきます。ですがその年の12月24日、オルタネイティブ4は打ち切られ、後にオルタネイティヴ5のバビロン作戦が発動。白銀もやがて戦死を遂げます。

 

──しかし、物語はここで終わりではありませんでした。白銀は再び2001年10月22日に目を覚まします。彼は、命を落とす度に何度も何度も、同じ時間を繰り返していたんですよ。鑑純夏の、もう一度タケルちゃんに会いたいという願いによって。その記憶を、虚数空間に流出させて。真っさらな状態で、はじめから。

 

──一体、何度繰り返したのか。やがて、そのループにも終わりがやってきます。その繰り返しの中で鑑は00ユニットとして復活し、もう一度白銀と出会うことが出来ました。

 

──そして、00ユニットとしての力を使い、ついには喀什のオリジナルハイヴの攻略に成功します。しかし払った代償は大きく、鑑は活動を停止。円環の理から抜け出した白銀は、元の世界へと帰って行きました。……その戦いの記憶を、忘れたくなどなかった大切な思い出を、またも虚数空間に奪い取られて。その世界の誰からも、忘れ去られて。

 

 

 

 

 

「これが、僕が“視た”ものです」

 

長い話が終わった。

蒼也の言葉が紡がれなくなり、静寂が訪れた病室。

ふと。社は、自分の頬に、何かが触れるような違和感を覚える。

そっと、指を這わせてみる。……濡れていた。

 

──これは、涙?

 

私は、悲しいのでしょうか? 悲しんでいるのでしょうか?

よく、わからない。

これが悲しみという感情だとして、何故自分はそれを覚えたのか。

自分の生まれ育った境遇を、悲しいものだと思ったことはあった。もっと普通の環境に生まれ育っていたならと、夢見たことはあった。

それでも、たった今、心の底から沸き上がるこの奔流は、それまでのものとは違うものであったのだ。

それは、社霞という人間が初めて手に入れた、本当の感情。

自分が一方的に語りかけるのみであった。それでも、返事など帰ってこなくても、自分にとって初めて心と心を直に触れ合わせた相手。

その彼女が辿った、凄絶な運命。

社は、今。悲しみという感情を、真に知ることとなった。

 

 

 

香月が口元に手を当て、何か考えこんでいる。

蒼也はそれ以上の言葉を発しない。ただ、香月の考えがまとまるのを待つ。

やがて、香月が口を開いた。

 

「……理論的には、説明がつくわね。これが全て妄想だとしたら、アンタ一流の作家か詐欺師になれるわよ」

 

褒められているのかな? 判断に迷う。

 

「つまり今のアンタは、鑑に呼ばれてこの世界にやってきた白銀とやらが、イレギュラー的に乗り移った存在……ってこと?

 ……いや、違うわね」

 

もしそうなら、ループの記憶を持っていることが説明できない。

ならば他の可能性は? 因果律量子論、そして黒須の持つ能力。そこから導き出される答えは……

 

「G弾が世界の壁に穴を開けた際、アンタの持つ並行世界を覗き見る力が、虚数空間に流出していた白銀の抜け落ちた記憶を拾い上げた……が、正解かしら」

 

蒼也の顔に笑みが浮かぶ。やはり、副司令は頼りになる。

 

「流石、夕呼先生。もちろん因果律量子論への造詣に関しては僕は副司令の足元にも及びません。理論を立ち上げたのが副司令なんですから当たり前ですけどね。

 ……でも、僕が辿り着いた答えも同じです。そう、僕は白銀じゃない。救世主なんかじゃない。手に入れた記憶に拒絶反応を起こされて、思い返す毎に頭痛に苦しむ……そんな、白銀の模造品ですよ」

 

夕呼先生って、何よ。いつからアタシがアンタの先生になったのよ。

それにしても……白銀の模造品、ねえ。

その言葉から何かを思いついた香月が、ふっと笑う。

 

「……さしずめ、タングステンといったところかしらね」

「タングステン? 徹甲弾とかに使われる、あれですか?」

 

まあ、アンタの知識じゃそっちが先に出てくるでしょうね。

仕方ない、教えてあげましょうか。

 

「タングステン。アンタの言うとおり非常に固いから徹甲弾の弾芯なんかに使われるけどね……その比重が近いことから、イミテーションにも使われるのよ。金やプラチナ──白銀の偽物に、ね」

 

香月の言葉に、きょとんとした顔を返す蒼也。しかし段々と、その顔が笑いに歪んできた。

白銀の偽物、タングステン。そりゃあいい、僕にピッタリじゃないかっ!

ひとしきり、声を上げて笑う。

 

「副司令、貴方にこそ作家の才能があるんじゃないですか?」

 

気に入った。

フリッグ01からはもう引退しなくてはならないし、これからの僕はタングステン01だ。

蒼也はもう一度、声を張り上げて笑った。

 

 

 

 

 

ひとしきり笑い、やがて一息ついた蒼也が、香月の瞳をじっと見つめる。

ふざけた様子など一切見せない、真剣な顔。

なによ、こいつ。こういう顔もちゃんと出来るんじゃない。香月の思考が少しだけ乱れた。

 

「副司令。僕と手を組みませんか?

 オリジナルハイヴを攻略した戦い、そこに行き着くまでの過程。その全てが、綱渡りなんてもんじゃない、薄氷を踏むなんてもんじゃない、危ういものでした。勝ったとはいえ、本当に奇跡としか言いようのないもの。あれをそのままなぞるなんて、僕には御免です」

 

香月も、じっと蒼也を見つめ返す。

ふんっ。良い顔するじゃないの。……いいでしょう、認めてあげるわ。アンタは使い魔から昇格。これからは、魔女の共犯者よ。

 

「了解よ、黒須。白銀が来る二年後までに、どこまで環境を整えられるか。持てる限りの全てを出し尽くしなさい。アタシが、協力してあげるから」

 

互いに不敵な笑顔を向け合う二人。

しかし次の瞬間、蒼也がベッドへと崩れ落ちた。

 

「……ごめんなさい、副司令。でも、今日はもう限界。

 白銀の記憶を覗くのって、結構堪えるん……です……よ……」

 

そして蒼也は、意識を失うように深い眠りへと落ちていった。

なるほど。これがここひと月のコイツの惨状の理由ね。

他人の記憶を宿す。それがどれほど自身の脳に負担を強いているのか、この様子を見れば想像がつく。

一度、モトコ姉さんに相談しておく必要があるだろう。彼女は脳医学者としては一流だ。何か手助けになることを教えてくれるかもしれない。

 

「それにしても……タングステン、か。本当に、アンタにお似合いよ」

 

とても硬く、とても重く、レーザーを使わなければ刻印も出来ないほどに丈夫な、タングステン。

そのタングステンを、魂に宿す男。

 

「今日のところはゆっくりと休みなさい、黒須。すぐに忙しくなるんだから」

 

これで、勝てるかもしれない。

いや、勝ってみせる。

完全なる自身による成果でないことに忸怩たる思いがない訳でもないが、それでも。

 

──見ていなさいよ。アタシが天才だってこと、結果で証明してみせるから。

 

誰に対するものなのか、傲慢で不遜な笑みを浮かべたた香月が、社を連れて病室から去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

意識が深層から浮かび上がってきた時、周囲には既に夜の帳が落ちていた。

どれくらい眠っていたのか。時計を確認しようとして室内を見渡し……

 

「あ、目が覚めましたか」

 

枕元に座る女性と目があった。

 

「……碓氷? 何で碓氷がここに?」

「副司令に、少佐が目を覚ますまで異常がないか見張っていろと命令されまして」

 

……夕呼先生。

本当に、あの人は。

 

「僕はどれくらい寝ていた?」

「6時間程です」

 

……6時間も、か。

頭の奥に鈍痛がまだ残るが、大分すっきりとした。副司令との交渉が上手く行って、抱え込んでいたストレスがなくなったからかもしれない。

 

「ごめんね、碓氷。折角の休みを潰させてしまって」

「いえ、少佐が気になさらないでください。副司令の命令だから仕方ないですし……それに、休みと言っても、どうせ一緒に過ごす人もいないんですから」

 

何故か胸を張るようにそう言う。

僅かに、何かを期待しているかのような、そんな視線。一体、何をアピールしたいというのか。

それに気が付かないほど鈍い蒼也ではなかったが……

 

──ごめん、碓氷。

 

心の中で謝る。

この娘は良い子だ。いつか、ふさわしい相手を見つけて欲しいと、心から願う。

……僕じゃ、駄目だから。僕にはもう多分、誰かを幸せにすることは出来ないから。

 

「そうだ、少佐。お腹減ってますよね。なにか持ってきましょうか?」

「いや、気にしなくていいよ。後で何か適当に……」

「駄目ですっ! きちんと食べないと、良くなるものもなりませんよっ!」

 

ずいっと、身を乗り出すようにして言う碓氷。

思わず、顔に笑みが浮かんでしまう。

 

「……ありがとう。それじゃ、何か食べやすいものをお願いしてもいいかな」

「はい、了解しましたっ! サンドイッチでいいですか? すぐ持ってきますねっ!」

 

満面の笑みを浮かべ、駆け出すように病室から出て行く碓氷。

その温かい気持ちが、純粋に嬉しかった。

 

 

 

一人になった病室の中、蒼也は立ち上がった。扉を開けて廊下に出て、窓から外を見る。

横浜はあっちの方かな? 検討を付けて視線を伸ばすも、その先は地平線の彼方。

それでも、そのまま視線を逸らさず、しばしの間、見つめ続けた。

 

──白銀。あの世界にはもう、君のことを覚えている人はいないのかな。

 

世界を渡るとは、元いた世界から存在が消え去ること。

その痕跡は、どこにも残りはしない。それが、人の記憶の中であっても。

 

──でも、僕が覚えている。

 

君の喜び、君の怒り、君の悲しみ。君が必死に闘いぬいたこと。

君の、人生の物語。

約束しよう、白銀。僕が、それをずっと覚えていると。僕の最後の時まで、覚えていると。

そして、君が守りたかった全てを、僕がきっと守ってみせると。

 

だから、許して欲しい。

君の記憶を使わせてもらうことを。君の記憶を使って、この世界の人類は、きっと勝利を掴み取ってみせる。

僕が消えてなくなる、その時までに。必ず、勝ち取ってみせる。

 

「少佐っ! 寝てなきゃ駄目じゃないですかっ!」

 

廊下の先から、碓氷の声が聞こえてきた。見れば、右手に乗せられた盆の上にはこれでもかと山盛りになった合成サンドイッチ。左手にはコーヒーポット。

この状態で、どうやって病室の扉を開けるつもりだったのだろうか。

その様子に、またしても笑みが溢れる。

 

世界よ、君は本当に美しい。

このかけがえのないものを守るために。その為に使えるのなら、僕は──後悔、しない。

 

「ほら少佐、部屋に戻ってくださいっ! ……というか、ごめんなさい……扉を開けてくれませんか……」

 

何かを呟きかけた蒼也だったが、首を振ってそれを飲み込む。今は、碓氷が与えてくれたこの時間を大切にしよう。

そういえば、彼女もきっと食事はまだのはず。……なるほど、それでこの量か。

 

「碓氷、良ければ一緒に食べようか」

「はいっ!」

 

こぼれるような、碓氷の笑み。

そして蒼也は扉を開くと、彼女が用意してくれた食事を食べるために共に病室へと戻っていった。

 

 

 


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