1998年、8月。
国連太平洋方面軍、白陵基地。
鏡を見つめる。
映しだされているのは、茶色がかった色素の薄い髪と瞳を持つ青年の姿。自分の、姿。
ほんの数日前まで、この姿が自分のものだとどうしても認識できなかった。意識と現実との間を分厚い膜が遮り、まるで水の中から地上の様子を伺っているような、そんな感覚。そんな日々。
日々とはいっても、一体どれほどの期間だったのか……それすらわからない。
様々な精神安定剤に催眠治療。オーバードース寸前まで薬漬けになり、現実から目を背けた結果だ。
処置を施した医師や指示を出した副司令を恨むつもりなどはない。薬で症状を抑えられるならと、自分もまた望んだことでもあったのだから。
だが、落ち窪んだ眼窩に痩けた頬、死滅した脳細胞を代償に手に入れた平穏は……やはり仮初めの物でしかなかったようだ。視界の端にチラチラと見え隠れする、壊れかけたF-16の姿がそれを証明していた。
自らの心を縛る恐怖と長く付き合い、折り合いがつく終着点を探っていくのであれば、ああいった薬物は確かに治療の役に立つのだろう。だが結局のところ、あれは症状を癒す薬などではなく、あくまでも抑えるものでしか無い。最終的に必要となってくるのは、己を律する強さ。そういうことなのだろう。
どこからか蝉の鳴き声が聞こえてきた。
更衣室の中、壁に据え付けられたカレンダーを確認する。現在の日付は既に8月も半ばを示していた。己を見失ってから、既に一ヶ月以上もの時間を無為に過ごしていたことになる。
重慶のBETA群はどうなったのだろうか? 日本への侵攻を防ぐことは出来たのか?
知りたい。乾きにも似た感情が、心の中に焦りという名の砂漠を広げていく。この乾いた大地を潤す、情報という名の水が欲しい。
だが……
その気持を振り払うように頭を振る。今は、己との戦いの時だ。
自らの不始末の結果、仲間が、日本がどうなったのかを知りたいと思うこと……それは弱さ。
今の状態の自分に知らされていないということは、それは精神状態を悪化させる類のものということなのだろう。それを分かっていながら微かな希望に縋り、救済を願うかのごとく良い顛末を期待する……そんな権利など、今の自分には、ない。
もう一度、鏡を見つめる。
目ばかりが爛々と輝いた、血の気の失せた幽鬼のような顔。
その顔めがけ、拳を叩き込む。
──……僕は……負けないっ!
蜘蛛の巣のように罅が入った鏡。
そこには衛士強化装備を着た蒼也の姿が、歪んで映しだされていた。
踵を返し、部屋から出て行く。
硝子の欠片がこぼれ落ち、床で砕けて光の雫をまき散らした。
衛士強化装備を着こみ臨戦態勢となった蒼也が向かった先は、当然のごとくハンガー……ではなく、元いた病室だった。
モトコ女史のいう二つ目のトラウマ克服法、トラウマとなった出来事を客観的な目線から追体験させること。それが今から、この病室で行われようとしている。
蒼也がわざわざこんな物騒な格好でここにいる訳は、強化装備を介すれば身体や精神のデータを詳細に読み取ることが可能だからである。フラッシュバックや、さらなる恐慌状態が引き起こされそうになった場合、それを事前に察知して対処することが出来るのだ。それに万が一、錯乱して暴れまわるような事態になったとしても、強制的に鎮静剤を打ち込む機能も備わっている。己の誇りにかけてそのような事態を招くつもりはないが、保険をかけておくに越したことはない。
ベッドに腰掛ける蒼也。その傍らのモニターから伸びるコードを、香月モトコ医師が強化服へと繋いでいく。
部屋の中には他に二人の人物の姿が。一人は香月夕呼副司令。そして、もう一人は。
「楽にしてくれて、構わない。もっとも……そう、畏まるような場所でもないがね」
初めて見る顔だった。
浅黒い肌に口髭、髪は軍人らしく短く、後ろへと撫で付けられている。その髪には随分と白い物が混じってはいるが、少なくとも外見上はそこまで高齢というわけではない。母や叔母達と同年代か少し上くらいだろうか?
国連軍C型軍装の襟には准将の階級章。蒼也の知る限り、白陵基地に国連軍人の将官は存在しない。となれば、この人は外部の人間か、あるいは……
「私は、パウル・ラダビノッド。この白陵基地に、司令として赴任してきた者だ。よろしく頼む」
なるほど、後者のほうだったか。ならば、白陵基地は完全に国連軍のものへとなったということなのだろう。
では、今まで駐屯していた帝国軍はどこへ行ったのだろうか? 様々な可能性、特に日本にとって良くはない事態が脳裏をよぎる。
……いけない。先程、今は自分との戦いだと心に誓ったばかりなのに。
「黒須……蒼也、少佐。君には一度会ってみたいと……そう、思っていた」
ラダビノッドの深い光を秘めた瞳が蒼也を見つめる。
深いのは色ではない。込められた想いが、深い。きっと、数々の戦場で数多の生と死を見続けてきたのだろう。こういう人物を、歴戦の勇者と呼ぶのだろう。
まだうっすらと靄のかかった思考の中、彼の人となりを分析する。蒼也が彼に抱いた第一印象は、信頼できる人物というもの。それが全てと判断するのは危険極まりないが、第一印象というものは意外なほどに的を射ている場合が多い。それは単なる勘などではなく、実際にはそれまでの人生経験から導き出されたものなのだ。
「申し訳ございません、司令。本来であればこちらからご挨拶に伺うべきところを」
「いや、気にしないでくれたまえ。今は体を治すことが先決だ。……それに、君に会いたいと思っていたのは、この基地に来てからのことでは、ない。もっと……ずっと、昔からのことだからな」
「……准将?」
ラダビノッドの口元が綻み、優しげな色がその顔に浮かぶ。
我が子を見守る親のような、温かい笑み。
「君は、母上によく似ているな」
「……では、准将は」
「ああ。私は君の父上、鞍馬少将の部下として、“ハイヴ・バスターズ”に在籍していた。副隊長を勤めさせてもらっていたよ」
ラダビノッドのその瞳は今も蒼也を見つめながら、しかし別の誰かを映し出しているのだろうか。
彼は蒼也の向こうにいるその誰かに話しかけるかのように、言葉を続けた。
「青春と。そう呼ぶには我々は些か年をとってはいたが……彼と共に戦ったあの13年間は、血と汗と硝煙によって彩られた血生臭い日々でありながら、それでも今も尚、色褪せぬ輝かしい思い出として、深く私の心に刻み込まれている」
噛みしめるようにそう言うと、ゆっくりと、ラダビノッドは瞳を閉じる。静かに、心の中の誰かと対話しているように。
やがて、彼は瞼を開いた。
「大佐と過ごした……ああ、失礼。少将と……」
「大佐で、いいと思います。部下だった人から少将なんて呼ばれることを、父は嫌がると思いますから」
「……ああ、私もそう思う」
なんだろう、この人と話していると不思議と心が落ち着いてくる。
フラッシュバックで掻き乱され、薬で無理矢理削り取られた疲弊した精神が、穏やかな海のように凪いでいく。
「大佐と過ごしたあの日々を、いつか君に話したいと思っていた。いかに、彼が勇敢であったか。いかに人類のために尽くしていたか。そして……いかに、君のことを想っていたか。それを、君にこそ知って欲しいと、そう思っていた」
ひとつ、息をつく。あの日のことを、思い返す。
長い間果たせなかった義務を、ようやく果たせる日が来た。彼と約束したわけではなかったが、これは自分の責務であると、そう心に決めていた。鞍馬大佐の生き様を、その子へと誇らしく語るのだと、そう誓っていた。
「……蒼也君。少し、昔話に付き合ってはもらえないかね。無論、無理はしなくていい。君のバイタルはモトコ女史が確認しているが、もし辛くなったら、すぐに言ってもらって構わない」
少佐ではなく君と、ラダビノッドは蒼也のことをそう呼んだ。
それが何だかくすぐったいような、不思議な気持ちを湧き起こす。呼ばれ方は違うけれど、まるで父さんが目の前にいるような。そんな、懐かしくほっとする気持ち。
「はい、司令。是非……聞かせてください」
「ありがとう。少し、長い話になる。どうか、楽にして聞いてくれたまえ。
……私が初めて大佐と出会ったのは、今から20年近くも前。1979年の、夏のことだった……」
そして、彼は話し始めた。
喜びと、悲しみに満ちた、懐かしい思い出話を。
ラダビノッドは語る。
時にゆっくりと、時に口早に。淡々と、感情を込めて。雄弁に、訥々と。
“ハイヴ・バスターズ”発足式の後に行われた隊内の勝ち抜き戦、鞍馬とセリスのエレメントが17連勝を飾ったこと。
仲間たちの信頼を勝ち取り、始まった戦いの日々。
第二次パレオロゴス作戦での彼の勇姿。さらにロヴァニエミハイヴ攻略作戦においてはハイヴ突入までもを果たしたこと。
北欧戦線へと戦いの場を移し、河川や湖沼に船舶を配置しての砲撃支援戦術を確立させたこと。
そして、今も対ハイヴの基本戦術となっている間引き作戦の立案。これには、もう三人きりしか残っていない、バスターズの生き残りの一人が深く関わっていた。
それで満足はせず、時間稼ぎにしかならない間引きに替わる新たな戦術を、必死に模索していたこと。
作戦本部と前線での温度差に苦しんだこと。
一転、インド亜大陸戦線に戦いの場を移してからの獅子奮迅の活躍ぶり。
更にその戦い方を他部隊に教導することで、絶大な支持を得たこと。
その教導は帝国軍に対しても行われ、日本へと向かった際の蒼也自身も含む懐かしい面々との再会。
後顧の憂いをなくし、まさに一騎当千の働きを見せたその後の戦い。
ラダビノッドは語り続ける。
ある、一人の衛士の戦いを。ある、一人の男の生き様を。
そして、場面がついに最後の戦いへと移り変わろうとした時。
──……これって……もしかして……
共に司令の話を聞きながら、しかし蒼也のバイタルから注意を逸らすことのなかったモトコ。彼女の脳裏にひとつの可能性と、そこから導き出された仮説が浮かびあがった。
「……お話中申し訳ございません、司令。話もだいぶ長くなってきましたし、この辺りで一旦休憩を挟んではいかがでしょう?」
この可能性は無視できない。これは夕呼へと伝えておいたほうがいいだろう。
モトコはラダビノッドの話に口を挟み、場を一旦閉じようとした。
「僕なら大丈夫ですが」
「いや、君は病人なのだ。医師の意見は、聞くべきだろう」
「ありがとうございます。それに黒須少佐、休憩を取るだけよ。これで終わりってわけじゃないから安心しなさい。……司令、よろしければ、何か飲み物でもいかがですか?」
「いただこう」
ラダビノッドの言葉を受けて席を立つ。
扉へと向けて歩き出しながら、ふと思い出したような演技をし、振り返った。
「副司令が天然物の良いコーヒーを隠していますから、それを淹れてきましょう。夕呼、手伝ってくれる?」
「……何でそれ知ってるのよ。まったく、このアタシを顎で使おうなんて、この基地で姉さんの他にいないわよ」
わざとらしい様子で肩をすくめながら、夕呼が姉に続く。
部屋から出るとき、置き土産に一言残すのを忘れない。
「黒須、おとなしく繋がれてなさいよ」
はいはい分かっていますよと、これまた肩をすくめる蒼也だった。
「……で、どうしたの? なにかあの場では言えないことでも?」
「流石、察しがいいわね」
副司令執務室にてコーヒーを淹れながら、夕呼が尋ねる。
先程の場の切り方は明らかに不自然だった。わざわざ自分の秘蔵のコーヒーを指定するあたり、他に聞く者のいないこの場所で話したいことがある、そういうことだろう。
「司令がBETAの話をしているときね、彼のバイタル……安定していたわ」
「……いいことじゃないの?」
「安定しすぎているのよ。BETAがトラウマになっているとは思えないほどに」
モトコが煙草に火をつけた。
病室で、更に司令の前とあっては流石に我慢していたモトコ。その分のニコチンをまとめて摂取しようとでもいうのか、根本まで一気に灰になるほどに強く煙を吸い込む。夕呼がジト目で、机の上に放置されていた紙コップを差し出した。淹れたての芳醇な香りを放つコーヒーを少量そこへと注ぎ、短くなったタバコを放り込むモトコ。
夕呼の視線に抗議の色が加わった。
「もしかしたら、思い違いをしていたのかもしれない。私も、あなたも……彼自身も」
「トラウマの原因は他にある……ってことかしら?」
「一因には違いないでしょうけど、直接の原因だとは思えないわね。私の予想が正しければ……ラダビノッド司令を連れてきたあなたの判断、最良だったのかもしれない」
「どういうこと?」
新しい煙草から紫煙をくゆらせ、モトコが言う。
「トラウマ、この場で癒えるかもしれない……ってことよ。
……全ては、もう終わったこと、過去のことなのだから。それを、彼が認められれば。受け入れられれば……」
──酷なことをしているのに変わりはないけれどね……。
そんな、申し訳なく思う気持ちが見えなくなるよう包み隠すかのように、モトコはふうっと大きく煙を吐き出した。
「さて、どこまで話していたかな」
「スワラージ作戦からですね」
病室へと戻り、それぞれに持参したコーヒーを振る舞うと、話はすぐに再開された。待ちきれないといった風情。
司令もそうだが、それよりむしろ蒼也。まるで親が読み聞かせる話の続きをせがむ子供のように、ラダビノッドへと身を乗り出している。
その様子を見て、モトコは確信した。蒼也は、父の話を聞きたがっている、彼はこれまでに知り得なかった父の情報に飢えている。
ちらりとバイタルを確認する。案の定だ。バイタルはこれまでとは違う数値を示し、蒼也の心が本人にも自覚のない緊張状態にあることを示していた。そして、これらが示す事実は……。
スワラージ作戦。それは“ハイヴ・バスターズ”最後の戦い。
彼等が戦ってきた中でも特に機密性の高い部分がある作戦であり、オルタネイティヴ計画に参加していないモトコがこの場にいるために一部の情報はぼかして話されている。もっとも、この作戦に関してはラダビノッド自身すら、今も知らされていないことが多いのだが。
故に、彼は自身が体験した、自分の目で見、耳で聞いたことだけを話す。
作戦直前、緊張していることを隊員に知られないように取り繕う様子。
予定通りに順調に進んでいた作戦だったが、最終段階で予期せぬ問題が発生したこと。
それを解決するために彼がみせた、人間としての限界を超えたとしか思えない程に見事な一機駆け。
そして、ハイヴへの突入。
仲間を失いながらも、反応炉を目指して突き進んだこと。
彼の戦い。彼の生き様。
黒須鞍馬の物語。
そしてついに、長い話の終わる時がやってきた。
最後の、大広間での戦い。
崩れ落ちる、鞍馬のファイティング・ファルコン。
その瞬間、蒼也の脳裏に、あの夏の日に“見た”映像が再び浮かびあがった。
いや、あの時以上だ。あの時、気を失ってしまい見えなかったその先、それまでもが、頭の中で再生されていく。
──……良いっ!──
父は、笑っていた。
──良い、人生であった!!──
悔いも、未練もあっただろう。
それでも、彼は満足そうに。己の生き様を誇っていた。
……そうだったんだ。
蒼也の心の中で、何かがコトリと音を立てて嵌った。
わかってしまった。
自分は、BETAを恐れていたのでは、なかった。
父を、鞍馬を失ってしまうかもしれない。そのことに、怯えていたのだ。
彼を盲信するあまり、彼を英雄視するあまり、その死を未だに受け入れることが出来ずにいたのだ。
それ故に、父の死を連想させる、あの自分では対処しきれないBETAの群れを見て、恐慌をきたした。
彼のことを英雄と呼ぶものは多い。だがそれは、彼の本質を見ずに、都合の良い色眼鏡を通して見ているだけの絵にすぎない。
その中で最も分厚い、最も色の濃いレンズを通して見ていた者は……他でもない、自分であった。
父は決して死ぬことなどないという、都合の良い願望を投影していた、愚かな自分。
──みんな……ありがとう──
すぐ側から、父の声が聞こえてきた気がした。
ああ、そうか。そうだったんだ。
もっと、話を聞かせて欲しかった。
もっと、教えを請いたかった。
もっと、一緒にいたかった。
しかし、それはもう出来ない。
……でも。
鞍馬は死んだ。もう、いない。
けれど、その想いを背中に背負うことなら出来る。
その意志を胸に宿すことなら出来る。
彼の魂と共に生き続けることなら……出来る。
なら……僕は生きよう。
犯してしまった罪は大きい。失ってしまった命は多い。
けれど、ここで歩みを止めてしまっては……彼等に、父に報いることなど出来はしない。
いつか僕が罪を償い、地獄の炎に焼かれるその時まで。
前向いて……生き続けよう。
いつしか、ラダビノッドの話は終わり、病室の中には静謐な空気が満ちていた。
蒼也の瞳から零れる、ひとすじの涙。
「……今までありがとう、父さん……」
誰に聞かせるでもない言葉が、自然と口から突いて出た。
「そして……さようなら」
そんな蒼也を、温かい目で見守るラダビノッド。
ようやくひとつ、肩の荷が下りた。
──大佐、安心してください。あなたの息子は、逞しく成長していますよ。
病室の窓より空を見上げる。
どこまでも蒼い、その向こう。微笑む鞍馬の姿が見えた気がした。
蒼也の治療が終わってより数日後。
相変わらわず人気のないPXで、A-01の仮の隊長と副隊長が遅い昼食を取っていた。テーブルの上には合成食の乗ったトレイの他、いくつかの書類が広げられている。
その人物データが書かれた書類を見ながら、ああでもないこうでもないと頭を悩ます二人。食事の時間すら惜しんでのミーティングであり、彼女らの勤勉さは讃えられるものであろう。だが、口に物を含んだままの討論、手にした箸を指揮棒代わりに書類を指す様……とても人様には見せられない嫁入り前の姿がそこにあった。
とはいえ、彼女等がこの上なく真剣なことには間違いない。今話しているのは中々に頭を悩ます問題なのだ。
たった十二人の特殊部隊。存在している価値を疑わざるを得ないこの状況を改善すべく、衛士訓練学校の神宮司軍曹が十分な力量を持っていると判断した者たちを、予定されていた日程を早めて送り出してくれることになった。
まず、十二人。そして春までにもう十二人。これでなんとか、とりあえずは大隊の体裁を整えることが出来るのだが……
指揮官が、足りなかった。
重慶より帰還した今の中隊の指揮を取っていたのは蒼也。小隊長が伊隅と碓氷。本来であればこの三人が中隊長となれば済む話なのだが、現状、蒼也を当てにすることは出来ない。
となると、小隊長としての経験すら無い隊員の内の誰かをいきなり中隊長に任命しなければならないのだが……正直なところ、指揮官適性の高い人物がいないのだった。
彼ならなんとか……いやしかし。彼女ならどうにか……いやまてよ。いっそのこと、変則的な二個中隊で編成したほうがまだ現実的だろうか?
「……ああー、もうっ! こういうのはトップの仕事なんだから、連隊長がやればいいじゃない、副司令がさっ!」
伊隅が投げやりな口調で言い放つ。
そのままグッと腕を上げ、椅子を傾けて体を後ろに反らすように、ひと伸び。手には箸を持ったまま。
「みちるー、行儀悪いぞー」
「なによ、今更」
逆さまになった視界でPX内を見渡しながら、ぶすりと返事。
別にいいじゃないのさ。誰も居ないんだから、ここ。
「それにさー、ホントに副司令が決めちゃったら……後で仕事、倍に増えるよ、きっと」
あー。
副司令だもんねー。
心の中で大いに納得。
香月の名誉のために書き加えるなら、仮に彼女が実際に編成を担当したとしても、それが見当違いの内容になるようなことはない。確かに香月は軍事の専門家ではないし、さしたる興味も抱いていない。だがそれでも最善に近い結果を叩きだすのが香月夕呼という女性であり、彼女が天才である所以であろう。この場合、真に伊隅等が心配するべきはむしろ、香月のストレス発散の対象となることである。
それはさておき。
碓氷の言葉に納得はしたものの、しかしそのまま肯定するのもなんとなく面白くない伊隅。何か気の利いた返事はないものかと考えながら、碓氷を視界に捉えないように体勢を維持。
対する碓氷も、机に肘をついた両手に顎を乗せ、口に咥えた箸を上へ下へと唇でもて遊ぶ。
先程までの真剣な空気が、一瞬でだらけたものに変わってしまった。
無理もない。いくら優秀な軍人といえども、彼女らはまだ二十歳そこそこの若い女性なのだ。時には気を抜かなくては、やってられないこともある。食事の時間中くらいいいではないか。それに幸い、今なら誰も見ていないことだし。
……と、思ったのだが。
「うん、中々考えられてるねー。でも、実は僕、もっと良い案を持ってるんだけど……聞きたい?」
声は碓氷のすぐ後ろからした。つまりは、しっかり見られていた。
なんでよりにもよってこんな場面を。いくら人がいないと言っても、しっかりブリーフィングルームを確保するべきだった……って、そんなことどうでもいいっ!
今の……今の声ってっ!!
跳ねるように飛び起きる。
果たしてそこには、二人の弱みを握ったとばかりに悪戯めいた笑みを浮かべる彼の姿が。
随分と、やつれている。頬がこけて、2枚目だった顔が2.5枚目位になっている。だが、間違いない。間違いなく、彼だ。
「その編成表に、出来れば僕の名前も入れてくれないかな?」
相変わらずの口調で、そんなことを言う。
自分の顔が、自然と笑みを作るのがわかった。それに、にこりと微笑み返してくれる。
あ、まずい。泣いちゃいそう。
目をぎゅっと瞑って涙を堪える。
碓氷はと見てみれば、振り返った姿勢のまま固まっていた。
口に咥えていた箸が、ポロリとこぼれ落ちる。
……あ、抱きついた。
碓氷って、結構激しい愛情表現するのね。もしかして、本気……だったり?
まあ、いいわ。それならそれで応援するし。
でもそんなことより、今は言うことがある。彼が戻ってきたら、こう言おうと決めていた。
「……少佐、おかえりなさい」
うん、ただいま。
泣きじゃくる碓氷を胸に抱いたまま、照れくさそうに、彼はそう返事をしてくれた。
「落ち着いた?」
「……はい……お恥ずかしいことを……」
恥ずかしがってうつむく碓氷に、さすがにどう扱ったものかと、少々おっかなびっくりな様子の蒼也。
蒼也もトレイを持ってきて、三人は今、共に食事の続きを楽しんでいる。
これはもういらないわね、あとで纏めてシュレッダーにかけよう。散らばっていた書類をまとめながら、伊隅はそう思う。少佐が戻ってきたのだから、もうこんなものは必要ない、その事実が嬉しい。
別に蒼也が戻ってきたからといって、それで日本が取り戻せるわけでもない。それなのに何故だろう、心に巣食っていた不安が綺麗に取り除かれているのを感じた。
部下に安心感を与えることが出来る。この人がいれば戦えると、そう思わすことが出来る。それがきっと、良い上官というものなのだろう。
私も、そういう上官となれるよう頑張ろう。机の下でぐっと拳を握り、伊隅はそう心に誓った。
他愛もないことから、少し真面目なことまで。
蒼也のいない間に心に溜まっていた、様々なことが吐出されていくうちに。
ふと、蒼也が空を見上げた。
厳しい……悲壮と言ってもいい、そんな顔で。
「……少佐?」
碓氷が訝しげな声を出す。
それが聞こえていないように、蒼也はうつむき、そして顔を上げて瞳を閉じ。
次に目を開いた時、そこには決意の表情が浮かんでいた。
すくりと立ち上がる。
そしてそのままPXの端まで歩いて行くと、窓を大きく開けた。
伊隅と碓氷の奇異の視線に晒されながら蒼也は、窓の向こう、遥か西の空へと向かって敬礼を行った。
それは見事な、敬礼だった。
1998年、8月。
京都。
燃え盛る火炎に朱に染まる街、紅い巨人が剣を振るい、赤い血を撒き散らす。
朱、紅、赤。
見渡すかぎりの、赤。
「……すごい」
今の呟きは誰のものだろうか。
斯衛第16大隊の者達は目の前の光景に魅入られ、呆けたように巨人の一挙手一投足を只、見つめ続けていた。
決して動きそのものが異常な訳ではない。まるでちょっと散歩に行ってくるとばかりの気安さで、普段と変わらぬ足取りで、歩みを進めているだけ。
それなのに、当たらない。襲い来る突撃級の巨体も、振るわれる要撃級の腕も、飛びかかってくる戦車級も、振り下ろされる要塞級の脚も衝角も。
その全てを置き去りにして、紅い瑞鶴が駆ける。
そして、思い出したように虚空を斬る。振るう剣の先に敵が現れ、赤い花が咲く。
ふと、ゆるりとした動作で横を向く。今まで体のあった場所をダイヤモンドよりも硬い爪が素通りする。
機体を駆る月詠瑞俊の、その心に満ちるは歓喜。
京が陥ちたにもかかわらず。人が大勢死んでいるにもかからわず。……自分もまた、今日この場で命を落とすにもかかわらず。
それでも、湧き出づる喜びを抑えることが出来なかった。
──辿り着いたっ!
達人と呼ばれても、鬼の名を冠しても。振るう剣の軌跡が、どこか違うように感じていた。
星の数ほど振るった剣に、それと同じ数だけの違和感。どこかずれた思い。
だが……。
なった。
今、なった。
今この瞬間、儂はついに一振りの剣となった。
その磨き抜かれた刀身に映る敵の姿。己の心に映る敵の挙動。
最早死角など、ない。
故に、斬る。
ただ、斬る。
生まれ落ちてより八十余年。儂のこれまでの研鑽は、今この時のためにあった。
だから、斬ろう。
子を孫を戦へと送り出しながら、自らはのうのうと生きながらえていた無念の日々も、無駄ではなかった。
ならば、斬ろう。
例えこれが、消える寸前の蝋燭の灯火であったとしても。
この窮地を、見事、斬り伏せてみせようぞ。
駆ける。
己の前に、明日へと続く道を切り開きながら。
駆ける。
己の背中を、若者たちに魅せつけながら。
突如、瑞俊を取り囲んでいた群れが二つに裂ける。
鳴り響く警報。
巨人を照らす光が膨れ上がり、そして弾けようとせん、その刹那。
瑞俊は、傍らで蠢いていた戦車級へと剣を突き刺した。
そして刺し貫かれても尚、蠢き続ける異形を眼前へと掲げると……
……雄叫びを上げ、目の前に現れた道を、その終着点へと目掛け、駆け出した。
飛ぶように距離を縮める巨人へと、断続的に光の矢が降り注ぐ。
生きた盾で覆われていない範囲が、それに削り取られていく。
剣の先に磔にされた異形の命が、途絶えようとしている。
光の数と強さが増してくる。
そして瑞俊は──笑った。
──鞍馬よ。蒼也は立派な男へと成長したぞ。
生きた盾が死んだ盾となったその時、ついに瑞俊は光を吐き出していた元へと辿り着く。
白刃が振るわれ、周囲四方より赤い噴水が飛沫を上げた。
そして、その先にもう一体。
今斬ったものとは比べ物にならぬ巨体の、その単眼が輝く。
──待っておれ、土産話を聞かせてやろうっ!
月詠の太刀、月穿ち。
体ごと叩きつけんばかりの、右の平突。
光の中へと消え去る一人の武人の、その生涯最後の一撃が、敵を貫いた。
男は斯衛として生を受け、斯衛として京に散る。
面にのせるは武人の誇り。心に秘めるは家族への想い。
月詠には一匹の鬼が棲むと謳われた──
──それが、鬼の最後であった。