1996年、2月。
帝都、月詠邸。
驚いた。目を見開き、ぽかんと開いた口を隠すように手を当て、しばし聞こえた言葉を反芻する。
次に悲しんだ。何故と言う単語が脳内を駆け巡り、瞳にじわりと熱いものが満ち始める。
数瞬後、喜んだ。彼を引き止める良い考えが頭に浮かび、それを口にしようとして……
最後に、どこか納得したような顔をし、ふうと吐息を一息漏らした。
養成校から帰宅した蒼也より斯衛ではなく帝国軍、それも大陸派遣軍へと進みたいと打ち明けられたセリスの百面相は、諦めの表情で締め括られた。
「……親子揃って斯衛を飛び出すなんてねえ」
本当、あの人にそっくりなんだから。
息子が父の背を追うことをどこか嬉しくもあり。そしてやはり戦場へと向かうという我が子を思えば当然、悲しくも寂しくもあり。
微笑とも苦笑とも言えない微妙な笑みを僅かに浮かべ、セリスは今は亡き夫を思う。
鞍馬は頑固な男だった。そして自分の選択に後悔をしない男でもあった。セリスに似て柔和で優しそうな顔をしているが、そう言うところは鞍馬にそっくりな蒼也だ、説得は無理だろう。
それに、養成校を出たとなるともう立派な大人、一人の人間としてその意思は尊重されるべきだ。
「分ったわ、蒼也。母さんは止めない。でもね、これは覚えておいて。……あそこは、本当に恐ろしいところよ。そんなことは分っているって思うかもしれないけど、それ以上に、その何倍も何十倍も怖いところ。
だから、約束して。絶対に、油断しないって。絶対に、自惚れないって。そして絶対に、諦めないって」
「わかったよ、母さん。絶対に油断しない、自惚れない、諦めない」
「約束よ。……母さんね、今でも父さんのことを怒っているのよ。あの時、これで最後だと諦めて自決した父さんのことを」
セリスの目がどこか遠いものを見るものに変わる。
「母さん……」
「分ってるのよ、ああしなければ部隊は全滅していたかもしれない。任務は失敗していたかもしれないって。でも、それでも……諦めて欲しくなかった。生き足掻いて欲しかった」
眼を瞑り上を向いたセリスの眦から、ひとしずくの涙がこぼれた。
「……だめね、年を取ると涙もろくなって。それにごめんなさい、出征前の息子に言うような話じゃないわよね、こんな生々しい話。でもね、蒼也。それが……戦場なのよ」
年を取ったとはいっても鍛え上げられた肉体が今も若々しいセリスが、再び開いた瞳に鋭い眼光を乗せて蒼也を見つめる。
背筋に怖気が走った。こんな母の眼を見るのは初めてだった。……戦士の眼をしていた。
「セリスさんもそれくらいに。今日のところは家族全員で食事をしましょう。これから蒼也さんの卒業まで、出来るだけ沢山。蒼也さん、食べたいものはあるかしら? カニ鍋だったら助かるんだけど」
蒼也のもう一人の母、雪江が場をとりなす。
雪江は真耶を生んで以来、結局斯衛へと戻ることは無く月詠の家を守り続けていた。
とはいえ、随分とこの家も寂しくなったものだ。広い屋敷に今も暮らすのは瑞俊と雪江にセリス、そして蒼也の4人だけとなっている。
月乃とその婿、それに花純は既に斯衛の兵舎が住まいとなっており、この月詠の家は云わば実家、盆と正月くらいにしか帰ってはこない。雪江の婿も週末ごとに戻ってくるくらいだ。
3年前に養成校を卒業した真耶と真那も、それぞれの軍務についており状況は同じだ。
真耶は、月詠が代々仕えてきた五摂家が一つ、煌武院家の悠陽殿下のお側役として煌武院の屋敷で暮らしている。
真那は帝都を離れ、月詠と同じく煌武院の分家の一つである御剣家の冥夜様の元にいる。
月詠家と御剣家は同じ赤として同格、御剣が斯衛の本流を離れた今となってはむしろ月詠の方が上とも言えるにも拘らず何故、お側役という御剣を立てる任を下命されたのか。それに不満の声が上がってもおかしくは無いのだが、この件について月詠から異が唱えられることは無かった。
仕える煌武院家からの命ということももちろんあるが、それ以上に……いや、月詠とてはっきりと明言されているわけではないのだ、これ以上は言わぬが花、か。
ところで、何故カニ鍋に限定なのだろう?
「えーっと……家族、全員?」
「ええ。家族、全員」
「でも、真耶ちゃんと真那ちゃんはほら。お側役が離れるわけにも……ねえ?」
「ずっとは無理ですけど、今日と卒業の日、旅立ちの日。それくらいは許してもらいましょう」
「でもほら、やっぱり軍務は大切だし、無理はしなくてもいいんじゃないかなー、なんて……」
微妙に早口になり、上ずった声でそう言う蒼也。雪江の目がきらりと光る。
「蒼也さん? 家族が揃うことに何かご不満でも?」
「はい、いいえっ! 不満なんてとんでもないっ! 大歓迎であります、マムっ!」
あぶない、あぶない。姉妹の中で一番おっとりとして優しい雪江ではあるが、それでもやはり武家の人間なのだ。本気で怒らすと洒落にならない。
しばし、冷気を伴った視線を蒼也に向ける雪江。名は体を現すというが、部屋の温度が数度下がった気がする。
蒼也は心の中でたっぷりと百は数えたろうか。実際にはほんの数秒後、月詠家に春来る。
「セリスをたしなめておいて、お前がそれではいかんだろう、雪江」
「……あら、ごめんなさい、私としたことが。やっぱり大事なことを相談も無く決められたことに怒っていたのかしら? ねえ、蒼也さん?」
ちくりと嫌味を言いつつも、雪江の雰囲気が元に戻った。おじいちゃん、ありがとう。カカカと笑う瑞俊に目線で感謝の意を示す。
鞍馬の訃報が届いた後、瑞俊は正式に花純に家督を譲り、隠居に入った。
本来であればとうの昔に譲っていてもおかしくは無かったが、ここまで遅らせたのは心のどこかにいつか鞍馬が帰ってきたときに家督を譲りたいという気持ちがあったのだろうか。
最後の弟子となる3人を紅蓮の手に預け、そして家督を譲った今、瑞俊の背中は本当に小さくなってしまったように思う。今も修練は怠らず体は健康そのものとはいえ、ぽっくりと逝ってしまわないか時折不安を感じる。
曾孫でも出来れば元気になるんだろうけど、真耶ちゃんも真那ちゃんも全然そう言う気配無いからなあ。自分のことを棚に上げ、そんなことを思う蒼也だった。
「それにの、雪江の気もわかるが、全員揃うのは無理じゃろ。今から呼び寄せても帝都におるものはともかく、真那は間に合わんて」
御剣の屋敷から帝都までは電車でおよそ2時間。今から連絡しても今日の夕食を共にするのは厳しいものがある。瑞俊の言葉でそのことを思い出し、蒼也は胸をなでおろした。いずれ向き合わねばならないとはいえ、真那と会うのは出来ることなら先送りにしたい。
真那は苦手だった。
心の理性と感情の天秤が理の側に大きく傾いている蒼也にとって、時に感情をむき出しにする真那はどうにもこうにも扱いづらい。更に、幼い頃から何くれと無く蒼也の世話を焼きたがる彼女だったが、鞍馬の訃報を受けてからはそれがより顕著になったのだ。
BETAの幻影に怯え夜に一人で震えている時、枕持参で蒼也の部屋にやってきて、朝まで一緒に寝てやると少し恥ずかしそうに添い寝してきた。
己の限界を知るべく気を失うまで剣を振っていた時は、何故もっと自分を大切にしないと腕を振り乱して怒っていた。
未来を視る訓練をつもうと車道に躍り出た時など、自らも飛び出して蒼也を突き飛ばし、叔父様が亡くなって悲しいのは分るがお前が後を追ってどうなるんだと、涙を浮かべて縋り付いてきた。
養成校で首席の座を不動のものとした時には我が事のように喜び、ようやく立ち直ってくれたのかと強く強く抱きしめてきた。
いつも真っ直ぐで、強く、厳しく、感情のままに……優しい。
蒼也はそんな真那が苦手だった。出来れば、今は会いたくなかった。……きっと、悲しませてしまうから。
「ま、まあ、真那ちゃんはまた今度と言うことで。これないんだったら仕方ないよね。残念だなー」
「……いや、そうでもないぞ」
背後から聞こえた声に、蒼也の動きが固まる。
ギギギと、人形の首を動かすように振り向いた先には、たった今話題にしていた人物が、何故か冷たい目をして立っていた。
「蒼也さんが帰ってきたとき、お父様が碁を打ちに出かけていたでしょう。大事な話だから帰ってきてから話すというから、真那さんも今のうちに呼んでおこうって思って、先に連絡しておいたの。
蒼也さんの一大事って言ったら、真那さんたら慌てて直ぐ戻るって」
雪江がにこやかに死刑宣告を告げてくる。
そうか、既にカニが用意してあるのはそう言う理由か。
背筋に冷たいものが、ひとしずく。
「で? 大事な話と言うのは?」
ラスボスが、現れた。
夕食の席。
いつか鞍馬が帰宅した時のような家族が一つの座卓を囲む食事、その中央には大きなカニがぐつぐつと煮えている。
既に食べごろを過ぎつつあるが、皆、押し黙っており誰も手をつけない。鍋を見もしない。そもそも箸を持ってすらいない。
あー、早く食べないと出汁が出ちゃうよ、もったいないなーと、この空気を作り出した原因が一人だけ、それでも遠慮はするのか鍋以外のものをちまりちまりと摘んでいた。
やがて最も上座に座する花純が、先程のセリスと同じようにふうっと一つ息を吐き、やはり同じ答えを導き出した。
「分ったわ、蒼也。あなたの好きになさい」
皆がほっと息を吐き、緊張が途切れた。
花純ならばそう言うだろうと思ってはいたが、もし蒼也の選択に反対を示したとしたら、頑固な2人のことである。双方納得せず、最悪の場合には蒼也が勘当を言い渡されていたかもしれない。
「ありがとうございます、伯母さん」
「当主たる花純がこう言うのじゃ。皆も異論は無いな? では、食事を始めるとしようか。蒼也の前途と皆の壮健を願い……」
「待ってくださいっ!」
瑞俊が杯を掲げようとした時、両手を座卓に打ち付けつつ立ち上がる者があった。衝撃にグラスが踊る。
「あります、異論」
皆の注目を一身に集めつつ、燃え移れと言わんばかりに怒りの視線に炎を乗せて隣に座る蒼也を見るのはやはり、真那であった。
「叔母様達は理由を聞くまでも無いと納得してらっしゃいますが、私は納得いきませんっ! 何故、帝国軍なのだっ!? 何故斯衛では駄目なのだっ!? 答えろ、蒼也っ!!」
詰め寄る真那に、困ったように顔を掻く蒼也。
どういえば納得してくれるかな? でも、真那ちゃんだしなあ、今は何を言っても駄目な気がする……。
どうしたものかと、何と言おうかと悩む蒼也を尻目に、矢継ぎ早に真那は言い募る。
「大体だ、そんな大切なことを何の相談もなしに自分一人だけで決めると言うのが間違いだっ! そんなに私達は信用が無いのかっ!?」
これには、雪江がうんうんと頷いている。
「それに、斯衛は将軍殿下と摂家の方々を守るのが第一義とはいえ、この国を守る為なら斯衛でもかまわないはずだ、何故に打って出たがるっ!? まさかお前、叔父様の仇が討ちたいなどと考えているのではなかろうなっ!?」
「えっと、真那ちゃん、聞いてくれる?」
「その気持ちは分る、分るがっ! 復讐心で戦っても身を滅ぼすだけだと、何故それが理解できないっ! 鬼の道を現すこと無かれ、無現鬼道流の教えを忘れたかっ!?」
「ほら、話をするにもまずは落ち着いて、ね?」
「BETAを打ち滅ぼしたいと願う気持ちは万民に共通のもの、だがっ! 牙無き人々を守る為の剣はより素晴らしいものではないのかっ!?」
「……はー、よいよい」
「聞いているのか、蒼也っ! 何とか言ったらどうなんだっ!!」
「はー、どっこいしょー、どっこいしょ」
「皆もっ! 何とか言ってやって下さ……何ですかっ! 人が真剣に話をしていると言うのにっ!」
真那が手を振るいつつ振り返ったとき、熱弁を聞いていた皆は何故か一様に下を向き肩を震わせていた。……どう見ても、笑いを堪えている。
こんな大切な話をしている時に、なんて不謹慎なっ!
更なる怒りにますます視野を狭窄させ、矛先を蒼也だけでなく居並ぶ皆にも向けようと大きく息を吸い込み……
「はい、真那ちゃん、お水」
「……あ、ありがとう」
言葉が途切れた瞬間にタイミングよく渡されたコップを、つい受け取ってしまう。
確かに、感情のままに大声を出しすぎて喉が枯れそうだ。心の片隅で蒼也に感謝しながら、中身を一気に飲み干した
一息ついたところで、お説教再開。
「らいたいっ! みなわっ! そうやにあましゅぎ……」
あら? なんだろう、舌が上手く回らない? 急に視界がグルグルと?
「……そーや? おまえ、いまのおみじゅ……」
「あ、ごめんね、真那ちゃん。おじいちゃんのお酒と間違えちゃった」
こっ! このっ!
「……びゃっきゃやろー……」
呂律が回らずに何を言っているのかも不明瞭な罵声を浴びせつつ、蒼也の腕の中に崩れ落ちるように、真那は意識は己の手の中から離れていった。
静まり返る室内。
嫌だなあ、皆。何でそんな、何とも言えない目で僕を見てるの?
「……蒼也、流石に……それは無いんじゃないか?」
呆れたとも、恐ろしいものを見るともつかない顔で真耶が言う。
一同が揃って、同意するように頷いた。
「……蒼也、お前は真那の看病。真那を説得できるまで食事は無しだ」
固まる皆の中で月乃が一人、杯をあおりながらそう告げる。
「責任は自分で取れ」
ちょっと、やりすぎちゃった……の、かな?
場の空気が読めず、困ったように顔を掻く蒼也がいた。
頭が痛い。
どくんどくんと、やけに響く音が喧しく聞こてきて、それに合せて響くように、ずきんずきんと頭が痛む。
どくん、ずきん、どくん、ずきん。
……ああ、これは自分の鼓動の音か。だんだんと、意識がはっきりしてきた。
今は何時だ? 随分と暗い。皆はもう寝たのか? いや、違う。目を閉じているのか。開けようとしたが……瞼が重い。
どうやら横になっているようだ。最後の記憶で自分が倒れるところを思い出す。あの記憶の続きか? いや、違うな。毛布が掛けられ、枕で頭を高く上げられているのが分る。随分と暖かい枕だ。
喉が渇く。口の中がねとねととする。
意図せず口から呻きが漏れた。
「あ、気がついたかな?」
顔の前……上? から声が聞こえる。
瞼の上に、意外にしっかりと大きな手が乗せられるのが分った。……ひやりと冷たくて、気持ちが良い。
「だめだよー、真那ちゃん。お酒弱いんだから、あんな一気飲みなんてしちゃ」
こ、このっ! いけしゃあしゃあと……。
文句を言ってやりたかったが、口から出てきたのは「う゛ー」という唸り声だけだった。
気持ちが悪い。
「お水、飲んだ方がいいよ。少しは楽になるから」
ゆっくりと、頭を左右に振る。それだけで頭にがんがんと響いた。
遠くの方から、誰かの笑い声が聞こえてくる。
皆はまだ起きている。……なら、それほど時間は経っていないのだろうか。
「大丈夫、ちゃんとしたお水だってば。飲みたくなったら言ってね。用意してあるから」
動くのは億劫だったが、もう少しこのままでいたいと考えている等と思われては大変だ……あと5分したら起きよう。
瞼の上に乗せられていた手が離れる。あっと、声が漏れた。
その手が、今度は真那の豊かなみどりの髪をゆっくりと梳る。
人の髪に許可無く触れるとは失礼な。……今は気力が沸かないから、後で散々に文句を言ってやる。
「真那ちゃん、聞いてくれるかな」
答えは無い。
口を閉じ、瞳も閉じ、言葉無くゆったりと髪を梳かれる。
「僕はね、真那ちゃん。子供の頃から、何か選ばなくてはいけない時にはね、選択肢の中に“逃げる”というのがずっとあったんだ」
灯りを落とした部屋の中、蒼也がまるで独り言のように言葉を紡ぐ。
「真耶ちゃん真那ちゃんから無理矢理剣の修行に連れて行かれそうになったときも。学校で上級生に目を付けられた時も。屋敷におじいちゃんの友人が来て挨拶に行かなくちゃ行けないときにも。
面倒事は全て、適当にごまかしてきた」
窓を開けているのだろうか、冷たい空気が流れてきて真那の頬を撫でた。
「でもね……父さんが死んだとき、それじゃ駄目なんだって思ったんだ。逃げちゃいけない、立ち向かわなくちゃいけない。争いから、自分の運命から。
だからね、僕は戦いに行く。戦って、勝ち取りに行く。
この国を、世界を……大切な人達を、守りたいんだ」
──それに、多分僕は斯衛では上に昇れない。
心の中でそう付け加える。
蒼也は自身の適正、そして能力を指揮官向きのものだと判断しており、それは紛れもなく真実だ。
だが、斯衛と言う組織は個人の武を尊ぶ。蒼也が斯衛で指揮権を持つには並々ならぬ努力と、そして運が必要だろう。
同等程度の能力を持っているものが2名いる場合、どちらを上にするかとなれば結局、色が関わってくる。
必ずしもこれが不公平だと言うわけではない。青や赤といった者はその権利と同じ以上の責任を背負っており、その責に負けぬ為に幼い頃から武芸を鍛え、帝王学を修めている。人の上に立つだけの努力を積み重ねてきているのだ。
だがそれだけに、黒という色で、更にハーフである蒼也が登る道は険しくなる。
蒼也が己の目的を叶える為には、どうしても軍の中での権力が必要になる。だから、帝国軍を選んだ。
大陸での激戦の中であれば、危険と比例するように栄達の道も開けるだろう。
父と同じように国連軍へと進む道もあった。混血と言う不利が解消される上、父の影響もあって更に上を目指しやすいかもしれない。
だが、国連軍に入ってしまえば、赴く戦場が何処になるかはわからない。何処で戦おうとそれは人類の為ではあるのだが、それでもやはり、蒼也は日本の為に戦いたかった。
大切な家族が住む、日本を守る為に戦いたかった。
「明日、父さんに僕の気持ちを伝えに行く。
真那ちゃん……一緒に、来てくれないかな」
独白は終わった。場に静けさが戻る。
遠くからの笑い声、風の音、ゆっくりと髪を梳く音。……互いの、心音。普段なら聞こえない静かな音が場を支配する。
ふと、真那の手が動いた。
ゆっくりと自分の頭の方へと動かし……髪を梳く手の上に重ねた。
「……ひとつ、条件がある」
真那の口から、ゆっくりと、躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「自分のことを僕と呼ぶのと、あと私をちゃん付けするのを止めろ。
……帝国軍に入ってもそれでは、舐められる」
蒼也の顔に優しそうな笑みが浮かんだ。
「ありがとう」
「……ふんっ」
夜が、深深と更けていった。