みんな……
……ありがとう。
1992年7月26日、15時51分。
帝都、無現鬼道流道場。
侍が歴史の舞台から姿を消して100年以上の時が流れた。
しかし今も尚、熱心に剣の道を学ぶ者達は後を絶たず、ここ帝都には数多くの剣術道場が存在している。
斯衛史上最強を謳われる剣豪、紅蓮醍三郎が師範を務めるここ無現鬼道流道場もその一つだ。
興されてまだ日が浅い流派ではあるが、かの紅蓮醍三郎から直接教えを受けられるとあっては、その扉を叩く者の数には困らない。
しかし現役の斯衛軍少将である紅蓮は多忙の身であり、指導に費やせる時間は限られている。それ故、門弟には誰でもなれるというわけではなかった。実力、才能、心構えなど、何かしら紅蓮の琴線をくすぐる者でなければ入門は許されない為、実際にここで剣を振るう者の数はさほど多くはない。
今も道場で汗を流しているのは両手の指に満たない程度の数しかいないが、その寂しさを補って余りあるほどに彼等からあふれ出る熱気は激しいものがあった。
その末席に、3人の子供の姿が見える。
いや、子供と呼ぶのは失礼だろうか。そのうちの2人は既に少女から美しい女性へと姿を変えつつあるし、残る一人もまだ顔に幼さを残してはいるものの体付きは既に男性のそれだ。
そして、3人共に振るう剣は既に子供のものとは言えない。
月詠真耶、月詠真那、そして黒須蒼也の3人がこの道場に入門して早4年。彼女等の剣の腕、そして心の強さもまた飛躍的に上昇、いや昇華していた。
斯衛軍衛士養成学校に在籍する真耶と真那は2年生にして既に学内最強の座を不動のものとしており、剣術だけでなく座学や戦術機の操縦などを含め、首席には常に2人のどちらかが座している。
斯衛軍中等学校2年生の蒼也も、剣での戦いにおいては入学以来無敗を誇り──もっとも、未だに引き分けに終わる試合も少なくなかったが──、座学においては2位以下を大きく引き離しての首席を独占していた。
今日も3人は学校が終わった後にこの道場へと集い、剣を振る。
この一振りが日本の未来に繋がると信じて。
この一振りが人類の勝利に繋がると信じて。
ふと。
黙々と、只管に、直向に振るわれていた3本の剣のうち、1本の動きが止まった。その剣の持ち主である蒼也は、どこか呆然とした表情を浮かべ、虚空を見つめている。
「どうした、蒼也?」
「まだ終わるには早いんじゃないか?」
そう諌める真耶と真那であったが、カランッと、乾いた音を立てて木刀が床へと転がるのを聞き、正面を見据えていた視線を横へと移す。
そこには、崩れ落ちるように膝を床へとつき、両手で頭を抱え込む蒼也の姿があった。
苦しそうに脂汗を浮かべ、口からは苦悶の呻きが漏れている。
「おいっ! どうした蒼也っ!」
「頭が痛いのかっ!? 師匠っ! 蒼也がっ!!」
尋常のものとは思えないその様子に、周囲がざわめきに包まれるが、その呼び声も喧騒も、蒼也の耳には届いていなかった。
──頭が……割れる……。
頭蓋をハンマーで殴りつけられているような、脳に指を差し込まれぐちゃぐちゃにかき回されているような、今までの人生で経験したことのない激しい痛みに、周囲の様子などに気を配る余裕など欠片もなかった。
目を堅く瞑り、歯を食いしばり、手で自らの頭を押さえつけ、懸命に痛みに耐える。
その堅く瞑られた瞼の裏に、見えないはずの瞳に、映るものがあった。
──なに……これ……?
そこに映ったのは、見たこともない異形の生物。いや、これは生物……なのか?
例えば、幼児が感性と想像のままに存在しない空想上の生き物を粘土細工で作り上げ、それを何倍にも、何百倍にも、何万倍にも醜悪にデフォルメしたらこのようになるのかもしれない。
──……気持ち悪い……。
しかも、それが視界を埋め尽くすほどの夥しい数、蠢いているのだ。
吐き気がする。
この気持ち悪さは、痛みを抑えるためなら自害したくなるほどのこの頭痛によるものなのか?
それとも目を瞑っていても見えてしまうこの生物を見続けているからなのか?
──あれ……は?
異形の中にただ一騎。ただ一騎だけやつらとは違う造形のものがあった。
あれは……戦術機?
斯衛で使われているものではない。日本国内に存在しているものではない。
けれど、知っている。あれは……
──ファイティング・ファルコン……だ。
異形の中にただ一騎。
右腕が潰れ、残された左腕に持つ一本の長剣のみを武器に、ただ一騎の戦術機が群がる化物を打ち倒し続けていた。
蒼也はそこへと向かって手を伸ばす。
見えるのは幻。そこに何もありはしない。
掴むのは虚空。ただ手は空を切るのみ。
だがそれでも、それでも尚。
「……逃げて……」
何故なら、あの戦術機は。あれに、乗るのは。
幻想の戦術機を通し、それを駆る衛士の姿が見える。
「父さん、逃げてえええええええええええええええええええええ!!」
魂から吐き出すような叫びを最後に、蒼也の意識は暗闇に飲み込まれた。
同刻。
ボパールハイヴ中層、地下511m。
セリスが放った銃弾がBETAを屍に変える。
両腕に構えた2門では足りない。背面担架に納められた突撃砲を前面に展開させ、計4門。
引き金を引き絞る。
4つの銃口から放たれる36mm弾が、120mmが、音速を遥かに超える速度で突き刺さり、BETAに次々に穴を穿っていく。
だが足りない。4門でも、足りない。
自機の防御は捨てた。そんなことをしている暇など無い。
只管に、鞍馬を守る為だけに撃ち続ける。
それでも……足りない。
鞍馬へと群がるBETAは、最早数えようとすることすら馬鹿馬鹿しい量になっていた。
「邪魔だあああああああああああああああああああっ!!!」
射線を塞ぐように移動してきた要撃級へ向け、腹の底から怨嗟の叫びを上げ、打ち倒す。
既に鞍馬機の右手は動いていない。
残された左手に長剣を構え、舞うように回転しながら斬撃を放ち続ける機体の右半身は、血を流したかのように赤黒く染まっている。
……纏わりつく戦車級だ。
ごとり。
噛み千切られた右腕が、落下する。
機体のバランスを崩し踏鞴を踏んだ時、右脚が崩れ落ちた。
足元に群がる小型種を巻き込み、緑とも紫ともつかない気味の悪い花を咲かせながら転倒する。
右膝が砕けていた。……これでは、もう2度と立ち上がることは出来ないだろう。
「鞍馬ああああああああああっ!!」
無意識に一歩踏み出した。
跳躍ユニットに火炎を灯し、彼の元へと駆け寄ろうとする。
「大尉、駄目だっ!」
ラダビノッドからの強い制止。
聞こえない。
そんなの、聞こえないっ!!
もう間に合わないなら、もう駄目ならっ!! ……せめて、共に。
──貴方が戦場に倒れるその時は……私も一緒に逝かせてください──
いつか交わした約束を思い出す。
そう。約束したものね……鞍馬。
覚悟を決め、むしろ穏やかな表情を浮かべ、最後の吶喊をなさんとしたその時。
「セリス、すまない……初めて約束を破る」
鞍馬の声が、セリスの足を止めた。
「フサードニクを、地上へと届けてくれ。あの機体は、彼らが手にした情報は、希望の灯火だ。
その光を、消さないでくれ」
……なによ、それ。
何を……勝手なこと言ってるのよ。
「……嫌よ……そんなの副長に頼んでよ……死ぬときは一緒だって言ったじゃないっ!」
「愛している、セリス。俺の最後の頼みだ……生きてくれ」
「だって、鞍馬……貴方がいなかったら……私はっ、私はっ!!」
「ラダビノッド、頼む」
ラダビノッドの駆るバスター02が、セリス機を後から羽交い絞めにした。
そのまま跳躍ユニットの火を吹かし、その場から引き離していく。
「大佐……貴方からは散々面倒を押し付けられてきましたが……今回が最悪ですな」
「すまんな。まあ、これで最後だ。大目に見てくれ」
「……13年。貴方と共に戦ったこの時間、楽しかったですよ。……おさらばです」
「ああ、さらばだ、ラダビノッド。お前は最高の部下だった。
……フサードニク04、貴官等の機体にS-11は積まれているな?」
鞍馬の問いに、フサードニク04──レオニード・ドラガノフ少尉が答える。
初めて聞く彼の声には隠し切れぬ怒りと悲しみが隠れ見え、やはり彼もBETA打倒を掲げる人間だったのだと、この最後になってようやく彼を真の仲間だと思えた気がした。
「ああ、大佐。……存分に、使ってくれ」
「ありがとう。必ず地上へと辿り着けよ。人類を、任せた」
「バスター01、黒須大佐。貴官等の奮闘に……感謝する」
「鞍馬っ! 鞍馬っ!!」
生き残った者達は鞍馬の意図を悟り、その場から全力で離れていく。
鞍馬の名を呼ぶセリスの声も徐々に遠ざかっていき、やがて通信からは何も聞こえなくなる。
生きる者はただ一人、鞍馬のみがその場に残された。
──また、泣かせちまったな。
たった一人の静かな空間、そんなことを思う。
いや、静かではない、か。
戦車級が機体を解体していく耳障りな音が響いているのだから。
──死にたくねえなあ。
瞳を閉じ、今までに出会った人々の顔を瞼の裏に思い浮かべていく。
月詠翁。申し訳ありません、お先に失礼します。
雪江姉さん。蒼也をよろしくおねがいします。
月乃、花純。日本を、殿下を任せた。
真耶、真那。これからの斯衛はお前達に託す。
ラダビノッド。バスターズは頼んだぞ。
オチムシャ、国連軍を率いてくれよ。
蒼也。逞しく育ってくれ。
そして、セリス。君に出会えて、俺は幸せだった……
俺が生き、出会ってくれた全ての人達よ……ありがとう。
悔いはある。未練もある。
だが、これだけは自信を持って言える。
俺は全力で生きた。全力を尽くしきった、と。
ならば……
──ならば誇れ、この生を。
鞍馬は天を掴むかのように、その手を掲げる。
「……良いっ!」
──ならば……笑って逝こう。
掲げた手に拳を作り、固く握り締める。
「良い、人生であった!!」
そして鞍馬は高らかに笑いあげると──
──握った拳を……眼前へと、叩きつけた。
黒須鞍馬は39歳。ボパールに、散る。
半生をBETAの打倒に捧げ、人類の斯衛たらんとした男の。
その短くも美しく燃えた生に──
──今、幕が下ろされた。