「ねえ、そろそろ帰るよ」
「……うん、大丈夫、もう少しだから」
「それ、さっきも言った」
「もう、稽古の時間なくなっちゃうじゃない」
「……第一次月面戦争。人類史上、初の地球外生物と人類との接触及び戦争の始まり……やっぱり詳しいことは書いてないなあ」
「だめだ、聞こえてないし」
「そーうーやー」
「……1973年4月19日、中国新疆ウイグル自治区喀什にBETAの着陸ユニットが落下。中国とBETAの戦争が始まる……なんで中国は他の国と協力しなかったんだろう?」
「なんで蒼也は熱中すると周りが見えなくなるんだろう?」
「……あれ、真那ちゃんだ。珍しいね、図書館で会うって」
「ねえ、蒼也。殴っていい?」
1988年、2月。
帝都。
冬の短い陽は既に西に沈み、空に僅かに残された茜色も藍色に侵されていく。
間も無く世界は闇色に包まれるであろう、俗に逢魔時と呼ばれる時間。
黄昏の中、二つの人影が並んでいた。
大人のものではない、小さな影。
繋いだ手を引く少し大きな影が、歩きながらもうひとつの影へと言う。
「ほら、すっかり暗くなっちゃったじゃない。だから早く行こうって言ったのに」
責めるような、諭すような。
僅かに幼さを残す少女の声には、そんな保護者を自認する響きが含まれていた。
月詠真那、12歳。
通っている斯衛幼年学校の最上級生であり、校内では知らぬ者とていない。
頭脳明晰、容姿端麗。一騎当千、威風堂々。そんな言葉が良く似合う者など、そうそういはしないのだから。
そしてその家格は、学内でも数少ない赤。
同い年の従姉妹である真耶と共に、いずれ斯衛を担うことになるであろうと将来を嘱望されている少女である。
そんな彼女が普段学校ではあまり見せない穏やかな表情で手を引くのは、優しげな顔立ちにニコニコとした笑みを絶やさない、どこかおっとりとした少年。
彼もまた、学校中の有名人である。真那達とはまた別の意味で。
その理由は、彼の顔を見れば分かる。中性的な美少年と言えなくも無いが、その目鼻立ちはどう見ても日本人のものではない。
基本的に武家の子女しか通わない斯衛の学校において一際異彩を放つ、米国の血が混ざった少年。
真那にとって3歳年下の弟のような存在。
名を、黒須蒼也という。
「不思議だよねー。ちょっと本を読んでただけなのに、気がついたらもう真っ暗。ほんと、冬は昼が短いねー」
「ちょっとじゃないっ! 3時間っ! もう、待ってるほうの身にもなってよね」
学校では車での送迎が禁じられているわけではないし、実際に行なっている家庭も多数ある。だが、月詠家の子供達は公共の交通機関を使って学校へと通っていた。
倹約を旨とし、民の範となるべきという、祖父瑞俊の方針である。
「あはは、ごめんねー。でも、待っててくれなくても大丈夫だよー。ちゃんと、一人で帰れるから」
「3年生の子を、こんな時間に一人で歩かせられませんっ!」
「大丈夫だってばー。真耶ちゃんは心配性だなー」
こっちの気も知らずに、マイペース過ぎるわよ、まったく。
そんな蒼也を、思わずじろりと睨み付けてしまうが、気がついているのかいないのか。また「あはは」と笑って流された。
……もう、仕方ないなあ、蒼也は。
言葉を継ぐのを諦めて歩みを進める真那だったが、彼女が蒼也を心配するのにもきちんとした訳がある。
一部の生徒から目をつけられているのだ、蒼也は。
最初の事件は、入学して間も無くのこと。
数人の上級生が学校帰りの蒼也を見かけて絡み始めた。
「お前、アメリカ人なんだって? なんで斯衛の学校にいるんだよ?」
「武家の人間でもないのに、くんなよ。他所の学校行けよなー」
彼等には、自分達は皇帝陛下、将軍殿下をお守りする為の選ばれた存在であると言う自負、或いは驕りがあった。
にもかかわらず、敵国とも言えるアメリカ人の子供が同じ学校に通っているなんて、一体どういうことなのか。
武家の者として厳しく躾けられた子女が通う学校とはいえ、まだ成熟とは程遠い少年少女達である。中にはこういった、少々素行に問題のある者がいないわけではない。もっとも、それは大人の世界でも同じことだが。
彼等も別に、最初から蒼也を袋叩きにしよう等と思っていたわけではない。
ただ、自分の方が上の立場にいるんだと、そう見せ付けたかっただけなのだろう。
だが、蒼也から返ってきた思わぬ言葉に、頭に血が上ってしまった。
「僕は日本人だよー。父さんも日本人だし、母さんはアメリカ出身だけど、父さんと結婚したから日本の国籍だよ?」
ごめんなさいといった言葉か、萎縮して何も言い返してこないかを期待していた少年達は、まったく怯えた様子もなくそう言う蒼也の姿に「生意気だっ!」と、思わず手が出る。
そして、それをヒョイッと躱す蒼也。こうなるともう引っ込みがつかない。
逃げ道を塞ぐように囲み、詰め寄ってくる上級生に、どうしたものかと、やはりのほほんと悩む。
(んー、どうしよっかなー。逃げちゃった方がいいかな? 話せばわかって……くれるかな?)
一向に怯えた様子を見せない蒼也に、上級生達が手を振りかぶったその時、
「貴様等、何をしているっ!!」
颯爽と現れたのが真那だった。
この時4年生の真那であるが、既に学内において剣で彼女と互角に戦えるのは真耶のみ、2学年上にいる斑鳩の少年が何とか勝負になる程度という腕前を誇っていた。
他に、決して負けることは無いが、何故かどうしても勝てないと言う相手ならもう一人いるのだが……。
そんな真那の登場に、あからさまに逃げ腰になる上級生達。
彼らにもプライドと言うものがあり、問答無用で背中を見せることは避けたい。だが、戦って勝てる相手とも思えないし、赤の者と喧嘩したなど、ばれれば大問題だ。
どうすると、目配せで相談し合う彼らに、怒りを湛えて詰め寄る真那。
ええい、なるようになれ。開き直って強気に出ようとしたその時、空気を読まない声が彼らを止めた。
「あ、真那ちゃんっ! どうしたの、稽古があるから先に帰るって言ってなかったっけー?」
「えっ!? ……い、いや、ちょっと寄り道してて……」
「だめだよー、寄り道なんてしちゃー」
「い、いいじゃない別にっ! ついでに、本当についでに、一緒に帰ってやろうかと思って……って、ちょっとっ、蒼也っ!」
ずれた言い訳を始めようとする真那の手を取り「そうなんだ、ありがとー」と歩き出す蒼也。思わずぽかんと見送る上級生達。
ふと、思い出したように振り返り、
「先輩達、さようならー」
と、にこやかに手を振った。
それからというもの、彼等は蒼也が一人のときを狙い、ちょっかいをかけてくるようになった。
とはいえ、大抵の場合は真那か真耶が現れて逃げ出すか、いつの間にか蒼也のペースに巻き込まれて有耶無耶にされてしまうかで、深刻な問題となったことはないのだが。
それに、これで蒼也も瑞俊より剣を学んでもう6年近くになる。万が一の事態になったとしても、そうそう遅れを取るようなことは無い。
のではあるが、ついつい過保護になってしまう真那である。
今日も、図書館で一人勉強をしてから帰るという蒼也を放っておけず、こんな時間まで付き合う羽目になった。
「もうちょっと男らしくできないのかな、この子は」
「えー、普通だよー。真那ちゃんが逞しすぎるんだってー」
「……蒼也、覚えておきなさい。それは女性に対する褒め言葉じゃないわよ?」
まったくもう。
本当に、もう少し頼りになってくれれば、安心して卒業できるのに。
2ヵ月後に中等部への進学を控えている真那は、一人で学校に通うことになる蒼也が心配で仕方ない。
もう今更だけど、やっぱり普通の学校に通った方が良かったんじゃないのかな……
そうとも思う真那だ。
実際、入学前から、いじめの標的になるのでは? という懸念は家族の間であった。
だが、斯衛の学校に進むことを望んだのは、他ならぬ蒼也自身である。将来の夢を衛士とする蒼也にとって、それが近道であることは明らかであったのだ。
武家の人間ではない蒼也がそのまま斯衛に入れることは無いが、それでも斯衛学校を卒業したとなれば随分と箔がつく。例え帝国軍へと進むことになったとしても、色々と有利に働くことは間違いない。
だが、問題もあった。
武家でない以上、纏う色は黒となる。だが、黒とは目覚しい武功を上げた者が斯衛へと召し抱えられたものであり、芽が出るどころか種が蒔かれた段階でしかない幼年学校に黒がいるなど、本来許されることではない。
月詠家の後見があるとはいえ入学を断られても何ら不思議ではなかったのだが、校長を始めとした教師陣には父である鞍馬のことを覚えている者も多く、あの鞍馬の子ならば将来の斯衛の為になるという期待と、そして断絶したとはいえ白であった黒須家の者ならばとの酌量もあり、ついには入学の許可が与えられた。
そして、蒼也は世にも珍しい黒を纏う者として、幼年学校に入学したのである。
最後まで心配していた真耶と真那の反対意見は、
「僕、二人と一緒の学校に行きたいな」
の一言で粉砕され、今に至る。
二人とも、蒼也にはどうしても甘くなってしまう。
甘やかしてばかりでは良くないという自覚もあるのだが、幼少の頃に「お姉ちゃんになる!」と鞍馬に誓ったこともあり、ついつい過保護になってしまうのだ。
ほんと、もう少し男らしければ、もっと安心できるのに、ねえ。
あの叔父様と叔母様の息子なんだから、素材は悪くないはずなんだけど。
ふうっ、と。
ひとつ小さな溜息をつき、家路を急ぐ真那であった。
「ただいまーっ!」
「只今戻りました」
「お帰りなさいませ。お二人とも、遅くまでお疲れ様です」
守衛の者に帰宅を告げ、玄関へと歩みを進めようとしたところ「お客様がいらしておりますよ」と告げられた。
門を守るのは普段から温和な老人だが、その顔がいつに無く微笑んでいるように見えたのは何故だろう?
月詠の者として、客の前で恥ずかしいところは見せられないと、襟筋正す真那。
頓着しない蒼也を捕まえて「ほらっ、ここ、曲がってる」と、身だしなみを整えてやる。
……これでよしっと。
「蒼也、粗相の無いようにきちんとするんだよ」
「はーい……逃げちゃ駄目かな?」
「駄目」
そんな様子を見ていた守衛の老人が「くくく」と笑いを堪えているのに気がついた。
ああ、またやっちゃった。
もう、全部蒼也が悪いんだ。叔父様は今も人類の為に戦っているというのに、何で蒼也はこうなんだろう。
……蒼也も、大きくなったらかっこよくなるのかな?
つい考えてしまったそんな思いを、ぶんぶんと頭を振って追い出す。
ああもう、ほんとに全部、なにもかも、蒼也のせいだ、そうだそうだ。
「蒼也、ほら、いくよっ!」
なんだろ、真那ちゃんなんか機嫌悪くない?
……まあ、いっか。
ぶっきらぼうに手を引く真那に、やはりのほほんと微笑みながらついていく蒼也だった。
玄関をくぐると、瑞俊の高らかな笑い声が響いてきた。
応接間からではなく、家族で食事を取る居間から聞こえてくるところを見ると、客人は随分と親しい間柄の者らしい。
どなただろう?
お爺様がこんなに楽しそうに笑っているなんて……分家の御当主衆のどなたかかしら? 煌武院家の方なら、居間にはお通ししないものね……
どちらにせよ、粗相は出来ない。まずはきちんと挨拶をしなければ。
居間へと通ずる襖の前に膝を着き、声を掛ける。
「失礼します。真那です、只今戻りました」
襖の縁に手を掛け、すぅっと静かに開き、中へと向かって一礼……出来なかった。
視界に飛び込んだ、あまりに予想外すぎる人物を見て固まってしまった。
「今度は間違えないぞ、真那だ」
「叔父様、酔ってらっしゃるんですか? 真耶がここにいるんですから当たり前でしょう?」
「……厳しいな、真耶は」
「あら、しっかりしていていいじゃない。素敵なレディだわ」
その様子に、瑞俊と雪江が楽しそうに笑い声を上げる。
室内には、他に二人の人物が。こちらが客人……って、客じゃないっ!!
「叔父様っ! 叔母様っ!」
「久しぶり、真那」
「真那ちゃん、綺麗になったわね」
「あ、ありがとうございます……じゃなくて、どうしてっ!?」
今ひとつ状況が理解できない真那だが、それ以上に置いてきぼりなのが蒼也だった。
誰なんだろ? こんなに慌ててる真那ちゃんって珍しいな。
でも、早く進んでくれないと中が見えないんだけど……
いいや、追い越しちゃえ。
「えっと、蒼也です、こんばん……わ」
真那の横からひょいと顔を出す蒼也。
知らない人が二人いる。
雪江母さん達くらいの年の男の人と、外国人の女の人。
会ったことのない人……記憶に残っているうちには。
見たことのない人……写真の中以外では。
知らないはずの人だけど……誰だか、すぐに分かった。
フラフラと立ち上がる。おぼつかない足取りで前に出る。
おかしいな、良く前が見えないや。
変だな、上手く声が出ないや。
さっきまで笑っていたお爺ちゃんと雪江母さん、何だか嬉しそうにこっちを見ている。
真耶ちゃんは……何だかとっても楽しそうだね。
真那ちゃん……まだ固まってる。
それと、怖いくらいに真剣な顔をした二人。
うん、知ってる。間違いない。僕は、この人たちを知ってる。
搾り出すように、声を出した。
「……父、さん……母さ、ん……」
セリスがはじかれたように立ち上って駆け寄り、痛いくらいに我が子を抱きしめた。
鞍馬がゆっくりと近づき、座って目線の高さを合せ、その大きな手を蒼也の頭の上に置いた。
3人とも、泣いていた。
とても、とても幸せな、涙だった。