「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……セリス」
「……はい」
「……月が、綺麗だな」
「……はい」
1979年1月。
帝都、神社。
この日、世界は新しい年を迎えた。
人々は、旧年を無事に過ごせた感謝と、新年が良い年であるようにとの願いを込め、歌い踊り、あるいは杯を合わせ、喜びを分かち合う。
世界中の至る所で、大晦日から夜を徹しての大騒ぎが行なわれているが、人々のその楽しげな表情の中に陰りが見え隠れするのは決して気のせいではないだろう。
特に、欧州に住まう者達にとって、この祝うべき新しい年に待ち構えているであろう災禍に考えが及んでしまうのは、いたし方の無いことであるのだから。
東欧が陥ちた以上、次に戦いの舞台となるのは、まさに彼等の生きる土地なのだ。
人々は先の見えない未来、いやどうしても想像してしまう最悪の未来に、思い煩わずにはいられなかった。
ここ帝都においてはどうだろうか。
世界の情勢を知ってはいるはずなのに、道行く人々の顔に思い悩む色はあまり見て取れない。
知識として人類が劣勢であることは知っていても、BETAの姿形や戦いの悲惨な現状等は機密として報道規制がかかっていて、一般人にとっては現実感が薄いのである。
また日本とBETAとの間には未だ健在な国家が多数あることもあり、どこか対岸の火事といった他人事感があるのだろう。
日本が戦渦に巻き込まれる前に、BETAなんてきっと誰かが倒してくれるさ。
大多数の人間はそのように考えているのだ。
それが、鞍馬には歯痒い。
何故、そこまで暢気なのだ? 何故、それほどに鈍感なのだ?
地上に存在する地獄、欧州の現状を知れば、そんな顔などしていられないだろうに!
危機感を感じさせないようにしているのは政府の方針でもあり、彼等に罪は無いことをわかりつつも、心中穏やかではいられない。
初詣に来た人で賑わう神社の境内で一人、唇を噛む鞍馬。
その握り締められた拳が、暖かいもので優しく包まれた。セリスの手だ。
セリスは鞍馬の瞳を見つめると、焦っちゃ駄目と、ゆっくりと首を振る。
……そうだな。ありがとう、セリス。
彼女の気遣いに微笑で礼を返し、しかし鞍馬は自問する。
俺は何故こんなに急いているのだろう?
この緩やかな流れのような場所にいると、酷く心が落ち着かない。
帝都で過ごしたこの2ヶ月。その穏やかな日常、平和な日々。何故か、それが偽者のような、作り物のように思えて……
ここは俺のいる場所ではない……? 馬鹿な、そんなことあるものか!
愛する妻と子と3人、共に歩む為。その未来の為に俺は戦っているはずだ。
……きっと、リハビリで無理をした疲れが残っているんだ。そうでなければ、この幸せに違和感など感じる訳が無いのだから。三ヶ日はゆっくり休むことにしようか……
気持ちを切り替え、参道を再び歩き出す。
どこからかCode991の警報が聞こえてきたような気がしたが、それを頭を振って無理矢理追い出した。
1979年、1月。
帝都、月詠邸。
鞍馬対真耶、真那連合軍の戦いは熾烈を極めていた。
三者共にその顔は黒く塗りたくられ、もはや本来の肌の色が見える箇所はほとんどない。
これが最後の勝負と、真耶が打った羽を、燃える眼差しで打ち返さんとする鞍馬。
もらった! と、大人気なくも渾身の力をこめて振るった羽子板は……虚しく空を切った。
「鞍馬おじちゃんの負けー♪」
「おじちゃん、よわーい♪」
「墨塗るよー、顔出してー♪」
「もう塗るとこないよー。いいや、全部かけちゃえー♪」
歌うように囃し立てる真耶と真那。
手にした小瓶を、しゃがんだ鞍馬の頭の上で逆さにし、黒い雨を降らせる。
大笑いする二人を「こらっ! やりすぎっ!」と月乃が叱るが、その声もまた笑いを抑えきれずに震えているので説得力が無いことこの上ない。
二人と月乃の追いかけっこが始まったので、一息入れようと縁側に座る鞍馬。いや、風呂へ向かった方が正解か……
「遊んでもらっちゃってありがとうね、鞍馬さん。でも、そんなになるまで手加減しなくてもよかったのに」
雪江が口元を隠しながら労いの言葉をかけてくる。
いや、笑ってくれても良いですよと、やや憮然とした顔の鞍馬。
「それに、別に手加減はしてないですよ。結構本気でした」
なにをそんな、馬鹿なことを……
鞍馬の言葉を冗談だと思った雪江は、今度こそ笑い飛ばそうとして……その手に持つ羽子板を見てそれを飲み込んだ。思わずごめんなさいと謝罪の言葉を口にしてしまう。
鞍馬は、羽子板を左手で持っていたのだ。
擬似生体が移植されたその左手は、見た目にはなんら問題は無く、怪我をした事実を知らなければ生身と区別は付かない。
腕力、握力といった筋力面も、十分に培養された擬似筋肉を使用しているので自身の本来の腕とほぼ差は無い。
日常生活を送る分には、今のままでも十分な状態まで回復を見せていた。
ただし、鞍馬が求めているもの、戦術機を以前と同じように操ることは、今の状態では不可能と言わざるを得なかった。
動きの正確さや、とっさの際の反応速度が圧倒的に足りないのだ。
利き腕ではないとはいえ、3歳の子供──真耶はもうすぐ4歳だが──との羽根突き勝負で、ごらんの有様なのだ。
この状態で戦術機に乗りBETAと戦うというのは、自殺と同義であろう。
BETAとの戦いが始まって以来、擬似生体は急速に発達した。だが、まだまだこれからの技術でもあるのだ。移植をしたところで日常生活を送れるのがやっとという者も多い中、鞍馬の腕の状態はまだ恵まれた方である。
軽はずみなことを言ってしまったと暗い顔をする雪江に、しかし鞍馬はいう。
「気にしないでください。それに、ようやくこの腕の使い方が分かってきたところなんです。生身の腕とは違って、少し先読みして動かすように意識するというか。
……上手く言えないですけど、手応えを感じてるんです」
そう言って左手を握って顔の前まで上げ、にこやかに微笑む。
過去、数多の武家の子女を魅了してきた笑みではあるが、墨に汚れたこの状態では、しかし笑いを誘うものでしかなかった。
溜まらず噴出した雪江に、そこまで笑わなくてもと顔が苦く歪んだ。
風呂へと向かうその途中、左手を再び握り締め、頷く鞍馬。
もうすぐだ。焦ってはいけないが、もうすぐまた奴等を……狩れる。
その心に浮かぶ暗い情念。その危険さに気付くものは、鞍馬自身を含め、今はまだ誰もいなかった。
1979年、2月。
帝都、月詠邸。
真耶、真那と一緒に遊ぶのは、思いの他リハビリの助けとなる。
この数ヶ月で鞍馬はそれを学んだ。
正月の羽根突きもそうだし、今セリスも一緒にやっているこの折り紙もそうだ。
丁寧に角を合せて折り、一枚の紙から立体的な物を作り出していく。この指先を細かく使う作業は今の腕には難しいが、それだけに回復へと繋がっていく。
他には綾取りや鞠突きなど、二人と遊ぶのは鞍馬の日課となっていた。
子供の頃は折り紙などほとんどやったことはなかったが、今この年になって急速に上手になっていく。人生、本当に先は分からないものだ。
余談だが、このときに覚えた折り紙や綾取りが、鞍馬が戦場へと復帰してから後、部下と打ち解ける為の材料として大いに役に立った。
鶴を折って歓声が上がるとは思わなかったとは、その際の自分と周りとの温度差に驚いた鞍馬の弁である。
鞍馬の手が器用に鶴を作り出していく。
その順調に回復していく左腕を見て、セリスは自分の心に沸きあがった暗い感情と必死で戦っていた。
(……それ以上、治らなければいいのに……)
……私はなんて事を思っているんだ。
鞍馬があんなにも一生懸命、治そうとしているのに。それなのに……
でも!
……もう一度鞍馬が戦場に立ったら、二度とここには帰ってこない気がする……
鞍馬は、戦いを欲している。
人類の未来の為ではなく、家族を護る為でもなく、ただBETAと戦うことを望んでいる。
帰国してから共に暮らした4ヶ月で、本人すら気がついていないであろうその情念に、セリスは気付いてしまったのだ。
復讐心からなのか、戦場に慣れすぎてそれが日常となってしまったからなのか、そこまでは分からない。
でも、このまま送り出してしまったら、きっと近いうちに鞍馬は……今度こそ死ぬ。
それは確信だった。
出来得ることなら、腕が完全に治ったとしても戦場には立たないで欲しい。
後方勤務や、教官としてでも人類の勝利に貢献することは出来るはずだ。
しかし、それは言えない。それは今までの鞍馬の戦いを、彼の決意を否定することに繋がってしまう。そんなことは出来ない。
なにより、鞍馬は決して首を縦に振らないだろう。
でも、このままでは……
突撃級に轢き潰される、要撃級に叩き砕かれる、戦車級に食い破られる、要塞級の衝角に貫かれる、光線級のレーザーに焼かれる、鞍馬の姿が心に浮かぶ。
そんなこと、許すわけにはいかない。
誰かが共にいて鞍馬を死から引き離さなくてはならない。
……私が! 私が自由に動けるなら、その背中を護れるのに!
思い悩むセリス。その手に触れるものがあった。
葛藤する母の心に気付いたのか、蒼也がハイハイをしてセリス元までやってきて、その手を掴んだのだ。
小さな手から流れ込んでくる暖かいもの。
……ごめんね、貴方が悪いんじゃないのよ。貴方のことが邪魔だなんて思ったわけじゃないのよ。
蒼也を膝の上に乗せ、その頭を優しく撫でる。
セリスの心は揺れ動いていた。
母と、妻との間で。
その夜、瑞俊の部屋を訪ねるセリスの姿があった。
二人の話し合いは、夜が更け空が白むまで続いた。
1979年、5月。
帝都、国連軍事務所。
日本には国連軍は駐屯していない。
だが、志願兵を受け付けたり、鞍馬等のように何らかの理由で国内で過ごしている国連軍兵の窓口となるため、帝都にその事務所が存在している。
この日、その事務所内にて、一枚の書類を提出している鞍馬とそれに付き従うセリスの姿があった。
「黒須鞍馬少佐。軍への復帰願いですね、確かに承りました」
書類を受け取った係員が鞍馬に敬意の篭った視線を向ける。
「私は文官ではありますが、国連の侍の名は聞き及んでおります。
貴方が軍に復帰されるとなれば、BETAとの戦いも良いほうへと傾くこと間違いないでしょう」
「私にそんな力はありませんよ。ですが、その手助けとなれるよう、この身の全力を尽くしましょう」
「期待しています。配属先が決定しましたら、改めてご連絡差し上げます。それまではご自宅にて待機願います」
御武運をと告げる係員に、ありがとうと敬礼を返す。
鞍馬の左腕は、ついに以前の状態まで回復するに至った。
正確には、本来の動きをこなせるよう、かつてよりもより早く状況を判断し、腕を動かす指示を飛ばせるようになったのである。鞍馬の執念の賜物といえるだろう。
この異能とも呼べる先読みが可能になった結果、左腕だけでなく体全体の反応速度が引き上げられることになった。
戦術機を操る上で、BETAと戦う上で、これは新たなる大きな武器となるであろう。
今から、奴等にそれを試すのが楽しみだ。
鞍馬の瞳に暗い光が灯る。
それを見て、セリスは一つの決断を下した。
その夜、鞍馬はいつかのように、縁側に座り月を見ていた。
この平穏な生活にも、間もなく別れを告げるときが来る。
蒼也が寝付いたのだろう、セリスが傍に来て座った。
「……すまない」
鞍馬には分かっていた。
セリスが、心のうちでは自分が戦場へと舞い戻るのを望んでいないことを。
それでも尚、引止めの言葉を決して口にはしない彼女に、鞍馬は心よりの感謝と……謝罪を口にする。
何に対してのものなのか、皆まで言わなくてもセリスには伝わる。それも分かっていた。
鞍馬もまた、セリスの気持ちが分かるのだから。
「貴方が頑固なのは今に始まったことじゃないですから。そうと決めたら絶対に曲げないんだから」
ほら、やっぱりちゃんと伝わってる。
そのすまなそうな表情と裏腹に、心に静かに喜びが溢れる。
彼女との確かな繋がりを感じる鞍馬だが、次の言葉を予想することは出来なかった。
「ひとつ、私にも我侭を通させてはもらえませんか」
セリスの、真面目なことを話す時は敬語になる癖。
彼女の方へと体を向き変え、耳を傾ける。
「私も、軍に復帰します」
鞍馬の目が見開かれる。
何を言っているんだ。蒼也はどうするんだ、まだ一歳になったばかりだというのに。
「蒼也のことは、雪江さんにお願いしました。
月乃さんも斯衛に復帰されるそうで、3人の母となると言ってくれました」
床に指を突き、深々と頭を下げるセリス。
「母親失格と思われましょうが、今、貴方を一人で戦いへと赴かせるわけには参りません。
貴方の傍で戦わせてください。
貴方の背中を護らせてください。
そして……貴方が戦場に倒れるその時は……私も一緒に逝かせてください」
深深と更ける静かな夜。
月の照らす光の音すら聞こえそうな。
その光に照らされるセリス。
その瞳に宿る決意。
月光に照らされるその面は、ただただ美しく。そして悲しかった。
俺は、何をしていたのだろう。
何が、セリスの気持ちは伝わっている、だ。
帝都へと戻っての、この半年。自分のことばかりを考えて、セリスの抱えた気持ちを少しも分かろうとしていなかったのか。
彼女に、ここまでの決意をさせるほどの。ここまでの顔をさせるほどの、そんな痛みを。
鞍馬は恥じる。
セリスも、出来得るならば軍への復帰など望まないに違いない。
蒼也と共に穏やかな日々を過ごせるものならそうしたいのだろう。
それをさせないのは、俺なのか。
だが……。
鞍馬は戸惑う。
だが、何がここまでセリスを追い詰めたのだ。
俺が戦場に立つのを望まないのは分かっている。だが、それだけではないだろう。
ならば……。
鞍馬を見つめるセリスの瞳。
真っ直ぐに、決してぶれることはなく。
言葉は無く。ただその瞳が雄弁にその理由を物語っていた。
……そうか。
一緒に逝かせてくれという、そのセリスの言葉を。その決意を受けて。
鞍馬は、ようやく己の心の内に気付く。
月の光が、その闇を照らし出す。
戦いを待ち望んでいた、その過ちに気付く。
「……結局俺は、初陣の時から何一つ成長していなかったんだな……」
感情のままに、獣のようにただBETAだけを見据え殺戮していたあの戦い。
生き残らせてくれたのはセリスだった。
あの時も、それからも。
……そして、きっと、これからも。
蒼也、すまない。
やはり、俺は父親失格だ。
君から、母親まで奪おうというのだから。
「……セリス。俺が戦いに倒れる時、君も共に逝くというのなら。
そうならないよう、俺の背中を護ってくれないか……
共に、戦おう。……共に、生きよう」
「はい……よろこんで」
重なり合う二人の姿を。
ただ、月だけが見守っていた。
1979年、5月。
この日、人類とBETAとの戦いにある一つの転機が訪れることとなる。
それまでの統括の無い戦闘がBETA支配域の急拡大を招いたとし、今後の対BETA戦争を国連主導にて行うことが国連安保決議として採択されたのだ。
これにより加盟各国はハイヴ攻略等の能動的交戦を独自に行なうことが出来ず、その対BETA交戦権は自衛権及び集団的自衛権に限定され、鹵獲品も国連の管理下に置くことが明文化された。
バンクーバー協定の発効である。
これは一見人類の結束を象徴する協定に思えるが、実際には成長したハイヴ内にのみ存在する貴重な資源であるG元素を、大国あるいはライバル国に独占されることを恐れたが故の結果という側面も持つ。
しかしながら、これにより攻略対象ハイヴの存在する地域の軍の他、他方面の軍あるいは後方国家群からも人的物的な支援が投入されることとなったのは事実であり、まさに人類一丸となるハイヴ攻略戦が現実となったのだ。
パレオロゴス作戦を超える、鞍馬の夢見た全人類の共闘の始まりである。
これを受け、国連内において新たな部隊の設立が求められた。
大規模作戦における、その準備段階においては培った経験を持って各国部隊に教導を執り、実戦においては最前線にて果敢にBETAを駆逐し、人類の未来を切り開く。
対BETA戦争を主導するという立場上、そのような旗頭となる存在が必要になったのである。
隊長の人選には苦慮することになった。
戦術機の操縦技術に優れ、高い指揮官適性を誇り、周囲を納得させられるだけの実績とカリスマ性を併せ持ち、ハイヴ攻略戦を含む大規模作戦への参加経験があり、それでいながら各戦線との兼ね合いを考慮するならば現在連隊や大隊を率いる立場に無い方が望ましい。
だが、果たしてそのような都合のいい人物が存在するのだろうか?
……いた。
国際連合安全保障理事会組織、統合参謀会議直轄対BETA特殊作戦部隊。
通称“ハイヴ・バスターズ”大隊。
人類の剣の誕生である。