1話
1976年、1月。
帝都、月詠邸。
「随分と冷えると思えば、降ってきたか」
夕日に照らされる枯山水に、ひらりと舞い降りる雪。
それを見やりつつ、初老の男が呟く。
月詠瑞俊。赤を纏う斯衛の重鎮、月詠家の現当主である。
齢60を越え、武人として一線を退いて久しい。
だが、その眼に宿る光は「月詠には一匹の鬼が棲む」と言われた頃と比べ、些かも衰えるところが無い。
むしろ、積み重ねた年月が、更なる鋭さを与えているかのようにも思えた。
瑞俊は瞼を閉じ、何かを思い悩むようにひとつ吐息を漏らすと、視線を庭よりもとにあった場所へと戻し、問いをかける。
「決意は固いのか」
そこには瑞俊へと向かい、机をはさんで並び座る一組の男女の姿。
共に年の頃は20代の半ばといったところだろうか。
「お叱りはもとより覚悟の上。当主よりの恩を仇で返す真似となるのも百も承知。
なれど、この想い、遂げさせていただきたく」
瑞俊の刺すような……いや、真剣で切り裂くかのような視線を真っ向から受け止め、男が返す。
男の声姿には気負う様子も強張る様子もなく、あくまでも自然体のまま。強い意思の篭る瞳を持つ、揺るがぬ自信がそこにある。
不遜ともとられかねない態度であるが、不思議と憎むことができない。そんな男であった。
名を、黒須鞍馬という。
月詠の分家の一つ、黒須家の現当主である。とはいえその家格は傍流の中でも末席に近い位置にあり、かろうじて斯衛の白を許されている程度に過ぎない。
しかしながら、そのような出自にもかかわらず、鞍馬の存在は斯衛の中で決して小さいものではなかった。
生まれ持った天稟を、たゆまぬ努力によって磨き上げた剣の腕。
機械の体に意思を宿すかのような戦術機の操縦手腕。特に、試験運用中であり来年より実戦配備されることとなる撃震を駆る姿は鬼神の如く。
また、そこにいるだけで、一言言葉を発するだけで周囲の人の心に安心をもたらす存在感。
器量に優れていることもあり、それらは見る人を惹きつけてやまない。
白という家格ながら、山吹の家の娘との婚姻や、赤への婿入りの話は両手の数では足りない。真偽は定かではないが、青への養子の話すらあるという。
瑞俊の末の娘が未だ嫁ぎ先を選ぼうとしないその理由を、鞍馬はわかっているのだろうか?
次代の斯衛を担うにふさわしい、そしてそれを期待されている男であった。
しかし鞍馬は、その期待を、その責任を、その想いを、全てを捨て去り斯衛を去ろうとしている。
聡明な男である。その行為がもたらす影響は全て承知の上であろう。
それでも尚、鞍馬の背を押すその理由は、彼の隣に座っていた。
いささか緊張した様子を隠しきれてはいないが、鞍馬と比べるのは酷というものであろう。十分に胆力の座った女子と見えた。
慣れぬ着物を纏い、慣れぬ正座をするのは苦しかろうに、それをおくびにも出さず、視線を瑞俊へと向けている。
しかし、その着物こそが拭いようのない違和感を与え、彼女の出自を嫌でも明らかにしていた。
米国人の娘であった。
名を、セリス・ソーヤーというらしい。
英語訛りの、ややたどたどしくはあるが十分に伝わる日本語でそう自己紹介された。
在日米軍の衛士であるという。
──なぜ、よりにもよって米国人なのだ……
先の大戦の敗北より時が過ぎたとはいえ、未だに帝国内において米国人への敵愾心は根強い。
斯衛ともなれば、それはなおさら顕著となる。
鞍馬が斯衛の誰ぞと結ばれるのであれば、その色に関わらず大いなる祝福が与えられるに相違ない。
武家とではなく市井の娘との婚姻であっても、その将来性を惜しむ声こそあろうが、喜びをもって迎えられるであろう。
なれど、米国人の娘となると話は全く異なってくる。
米国が同盟国である以上、制度として認められないということは決してない。
だがその結果、鞍馬には非国民の謗りが与えられるであろうこと想像に難くない。
斯衛の妻ともなれば、公的な場へと顔を出す機会も多々ある。そして、鞍馬へは敵国と結んだ男として、妻へは将来の斯衛の重鎮を奪った女として、共に敵意に包まれた視線に晒され続けることになるのだ。
そして、そうさせないために、妻に不要な負担を強いないそのために、鞍馬は斯衛を去ることを選んだ。
本来、斯衛とは、去ろうとして去れるものではない。
武家という血そのものが、斯衛という組織に組み込まれているといっても過言ではないのだ。
まして、鞍馬は傍流とはいえ当主である。
その斯衛を去る。つまりそれは、武家としての黒須家の断絶を意味していた。
「斯衛を去るということが、どういう意味を持つのか、わかっているのであろうな」
この男は全て承知だ。承知の上で、その顔に優しげな笑みを浮かべ、隣に座る片割れを見やるのだ。
それをわかっていて尚、瑞俊はそう問わずにはいられなかった。
「もともと、武家というにもおこがましい小さな家です。両親も親族も既になく、黒須家は私を残すのみ。未練も迷惑をかける相手もございません。
先祖に顔向けできない向きはございますが、そこは九段にてお叱りを受けることとしましょう」
鞍馬の幼い頃、両親と親族の乗った飛行機が事故を起こし、彼の血縁は絶えていた。
むろん、後見として月詠家がたっており、完全なる天涯孤独というわけではないが。
瑞俊は再び瞼を閉じ、瞑目する。
そして悟る。この男の決意を翻すことは不可能だ、と。気まぐれでこのようなことを言い出す男ではないのだ。
その生涯を、彼女と添い遂げる覚悟なのであろう。
「殿下には、なんと?」
「……我、斯衛を去ろうとも、非国民の謗りを受けることとなろうとも、この心は殿下と共に。
なれば、斯衛の外よりこの日本を、全人類を守護させていただきまする」
その言葉を聞き、目を見開く瑞俊。
これほどの男がここまで言っているのだ。ならば引止めなどするべきではない。
なれば、その行く道を祝福し、前途を祈ってやることこそが、自分に出来る唯一のことではないのか。
「よかろう、委細、承知した!
黒須鞍馬よ、今この時よりお主は斯衛ではない。黒須家当主、黒須鞍馬ではない。只の個人、黒須鞍馬である!」
「……当主、いや月詠翁。ありがとうございます」
鞍馬は、畳に両手を付き、深々と頭を下げる。
そして、別離のときがやってきた。
「されば月詠翁、これにて失礼仕ります。
許されるならば、いずれ九段にてお会いしましょう」
それは、生きてはもう会わない、会わせる顔がないという意味。
決して表には出さなかったが、娘にしか恵まれなかった瑞俊にとって実の息子のように思っていた男との、それが別れであった。
「これからどうするつもりだ?」
「妻と共に、国連軍に仕官しようと思っております」
「……そうか」
せめて帝国軍に。そんな思いが瑞俊の心をよぎる。
いやしかし。斯衛ほどではないにせよ、帝国軍でもまた米国人の妻を持つ男に、そしてその妻に向けられる目は針の筵となろうか。
それも当然に考慮し、国連軍を選んだのであろう。
……未練だな。そんな想いを飲み込み、息子との別れに瑞俊は晴れ晴れとした顔を向ける。
「鞍馬、壮健であれ!」
「はっ! 月詠翁におかれましても、お達者で!」
そして、室内より二人分の温もりが消え去った。
瑞俊は降りしきる雪を、ただ見つめ続ける。
夕日は既に沈み、暗闇に包まれる枯山水の中、雪だけが白く輝いていた。
暫しの後、その口から本人も意識しない小さな呟きがこぼれる。
「……馬鹿者が……」
その呟きもまた、雪に吸い込まれるかのように消えていった。