プロローグ
絃神島北区第六層――1年を通して陽光が届くことのない地下深くの研究所街に、その建物は存在していた。
灰色の薄汚れた年代の入った小さなビルであり、全ての窓が鉄板で塞がれ、出入口は有刺鉄線に覆われており、傍目にはただの廃ビルにしか見えない。
だが、魔術の心得がある者ならば、ビルの周囲に張り巡らされた、幾重もの結界の存在に気づくだろう。普通の人間では近づくこともできない程の、強力な人避けの結界である。
そのビルの所有者は”魔族特区”の管理者――人工島管理公社だった。
訳ありの未登録魔族や、司法取引による協力を取りつけた犯罪者を隠匿し、保護するための
そのような施設の性質上、内部の警備は刑務所レベルに厳重だ。銃器で武装した警備員が二十四時間体制で警戒に当たり、部外者の侵入を拒んでいる。
「よっす~お疲れ~」
――そんな施設の特性と、閉鎖された空間という二重の重苦しさを放つ場所に、似つかわしくない陽気さでが検問所の門を叩く者がいた。
スーツ姿に両手にビニール袋を手にした、どこにでもいるだろう中年男性という門前払いされても当然という風貌なのだが、検問所の職員らは近所付き合いでもするかのように、男と陽気に言葉を交わすと手続きに添って身体チェック等を行うと、検問所の通過を許可するのだった。
「これ、皆で食べてね~」
「いつもわざわざすみませんね」
「いいっていいって。君らの頑張りのおかげで、こっちも楽させてもらってるかんね」
片手のビニール袋を職員に渡すと、男は建物の内部に入る。廊下を歩く中、警備の職員にすれ違うと労いの言葉をかけていき、職員の誰もが男に敬意を持った趣きで敬礼するのであった。
最奥部に辿り着いた男は、隔壁に備え付けられたパネルに、指紋や網膜認証といった最新の認証システムをパスしていくと、重々しい駆動音と共に隔壁が解放され、その内部へと足を進めた。
古臭さしかない外観とはうって変って、隔壁の内部は近未来的な研究所と言える内装をしており、最新の魔導研究用の機材が揃えられていた。
そして、室内には助手変わりの
「よっす~ケンケン元気~?」
「…その呼び方は止めろ神代勇太郎」
マブダチと言わんばかりに気軽に話しかける勇太郎に、叶瀬賢生はうんざりした様子で釘を刺してくる。
…が、勇太郎は気にすることもなく、勝手にそこらにある椅子に腰かけると、テーブルに手にしたビニール袋から取り出した缶ビールやつまみを乱雑に置いて酒盛りしだした。
メイガスクラフトが起こした事件で逮捕された後、その才を惜しんだ公社によって、司法取引という形でこの研究所に軟禁されることとなった賢生の元に、こうして定期的に押しかけてくると騒ぎ出すのが恒例行事となっていたである。
そんなことが許されているのも、この酔いどれがアイランド・ガード本部長という肩書を持っているからこそであるが。
「ほれ、お前さんの分もあるぞえ、ありがたく頂くがよいわ!」
「いらん、帰れ」
「えー、自業自得で軟禁されてるダチに差し入れに来たのにつーめーたーいー」
「お前と親交を結んだ覚えはない。後、そのギャル口調を止めろ、気色悪い」
キャピキャピした仕草をかます中年を、心底面倒臭そうにあしらいながら作業を続ける賢生。
そんな彼の反応に、ぶ~、と拗ねたように頬を膨らませるとビールをヤケ飲みしてつまみのスルメを頬張るおっさん。
気晴らしが済むと、懐から一通の手紙サイズの封筒を取り出す。
「おらよ夏音ちゃんからの手紙」
「……」
間近のテーブルに置かれた封筒を、賢生は一瞬だけ視線を向けるが、すぐに作業に戻ってしまうのだった。
事件の後、離れ離れとなった父に、夏音は定期的に手紙を書いており、それを届けるために勇太郎は彼の元を訪れていたのだ。流石に返信までは公社が許可せず、そもそも賢生自身が目を通そうとしないと伝えても、彼女はそれでもは父に伝えたいことがあると、止めることはしなかった
「父親失格だ~って自己嫌悪すんのは結構だけどよぉ。せめて目を通すくらいしても罰は当たらねーと思うけどね」
「……」
「罵詈雑言が書かれてたらどうしようって、絶縁状でも入ってるんじゃねーかって夢が現実になるのが怖いかい?」
その言葉に、賢生の手がピタリと止まり、完全に沈黙してしまう。勇太郎はそんな彼に構わず言葉を続ける。
幼くして親を失い孤児として育ち、暮らしていた孤児院すら事故で失うという悲惨な人生を生きてきた妹の娘である夏音を、我が子として引き取り。来たる災厄に備え、何より彼女の幸せのために非人道な実験を行ってまで守ろうとした。
だが、今となって思えば、娘の意思を無視し、身勝手な愛情で暴走したろくでなしの父親でしかなく――いや、父を名乗るのもおこがましい愚か者でしかなかったのだ。縁を切られても当然だが、それを認めるのが――彼女との繋がりが断たれることに、どうしても怯えてしまっているのだ。
「あの子がお前を嫌って憎んで蔑んでたら、こんなにマメに文なんか寄越さんよ。彼女を娘だと想ってんなら――ちゃんと向き合ってやれよ」
「……」
先程までのだらけきった顔とは打って変わって、真摯な顔で問いかける勇太郎に、賢生は沈黙したまま口を開こうとはしない。
こればかりは時間に解決を委ねるしかないか、と、『さけるチーズを限界まで裂くぜチャレンジ』をしようと開封しようとするが。ピクリッと何かに気づいたように動きを止めた。
そんな彼の様子に気づいた賢生が深刻さを滲ませながら声をかける。
「どうした?」
「どうやら、招かれざる客が来たらしい」
その言葉と同時に、この建物の周囲に張り巡らせていた障壁が破壊されたことを感知し、危険が迫っていることを否応なしに実感させられるのだった。
酔いなど微塵も感じさせない動作で立ち上がると、勇太郎は賢生にこの場を動かないよう告げると、建物の外へと駆け出す。
通路を疾走する中、入り口より激しい銃声が鳴り響きだすがすぐに、絶叫へと変わっていく。
入り口を飛び出すと同時に、視界に映る検問所には数人の警備員が1人の青年と対峙しており、勇太郎は警備員らの前に立つように着地した。
「神代本部長!!」
「賊は奴1人、か?」
侵入者を観察すると、純白のコートを着て、シャツと帽子の柄は赤白チェック模様で。左手には髑髏の彫刻がついた銀色のステッキを持った、一見すると奇術――手品師といった趣の青年であった。
「は、はい。ですが…」
警備員の視線を追うと、検問所の門付近に、侵入者を阻もうとした者達が立っているが、皆全身の肌が鉛色の光沢に覆わており、まるで銅像のような姿をなってしまっていたのだった。
「ああ、彼らは死んでいませんよ。まあ、生きているのかと言われると微妙ですけど」
彼らに起きた現象を分析していると、青年は、右手を見せびらかすように顔の高さに掲げながら無責任に言い放った。その右手の袖口からは、粘性を帯びた
「正直、あんなのより叶瀬賢生が張った障壁の方が厄介でしたよ」
「錬金術師…。確か
「へえ、かの『獅子の牙』が僕のことを知っていてくれるなんて光栄だね」
「指名手配されているからな」
「ああ、そっか。まあいいや、それなら僕がここに来た目的も知っているよね?」
「ケンケン――つーよりあいつが持ってるもんか。よくここがわかったな」
「こういったことに詳しい
どこかこちらを小馬鹿にしてくるように、愉快そうに帽子をツバをいじる青年。それに対し思わずといった様子で勇太郎は舌打ちした。
賢生がここに軟禁されていることについては、公社内でも一部の幹部しか知らない重要度の高い機密であった。故にこのような事態は起きてはならないことなのだが、現実として起きてしまったということは、公社が何らかの意図をもって仕組んだということなのだろう。時折顔を合わせる狸共を思い浮かべ、反吐が出る気持ちを抑えつつ、なすべきことをすべく思考を切り替えるのだった。
「その様子だと俺がいると知ってて押しかけて来たらしいが。自分で言うのもあれだが、大した自信だこった」
「僕としては、あなたと戦うのはまっぴらごめんなんだけどね。どうしてもそうしたいって言う人がいてね」
まるで、手品の目隠しに使う布を扱うかの如く、天塚がその場を譲るかのようにしながらマントを翻すと。そこには眼鏡をかけ、賢生同様にアルディギア王宮宮廷魔導技師を示すスーツを纏いその上に白衣羽織った初老の男性が立っていた。ただ、その肌の白さから日系人ではないことが伺える。
天塚のように、指名手配犯のリフトにも該当しない未知の人間の登場に、勇太郎は一層の警戒を強めた。
「はて、どちら様で?」
勇太郎の問いに、男は答えることなく、懐からハンドベルを取り出すと、それをチリンッと軽く振って鳴らすと。男の背後から獣のような唸り声がいくつも聞こえてくると、複数の群れと言える数の大型犬――いや、狼が姿を現した。それも魔獣の分類される種族であった。
――ただ、どの個体も胴体こそ狼だが、頭部に鹿のような角や鮫のような形状の歯を生やしていたり、尻尾が蛇になっていたりと、明らかに自然界に存在しない造形をしたものばかりであった。
「キメラ、か」
キメラとは、錬金術の一種で、異なる生物同士を組み合わせることで、その生物が本来持ちえない特性を持たせて生み出される生物のことを指す。
だが、生命を弄ぶ行為として忌避される面も持ち、聖域条約でも軍事的利用に厳しい制限が課されている分野であった。
「――――」
にィと白衣の男が怪しく口角を吊り上げながら、やれ、といった風にベルを鳴らすと、異形の狼らが一斉に勇太郎へと襲い掛かる。
「おらァ!」
角を突き立てようと跳びかかってきた個体を、勇太郎は手刀で角ごと両断し、鮫状の歯で噛みつこうとする個体は、口の中に両手を突っ込み、歯が皮膚に食い込みはするものの、貫通することなく、そのまま上顎と下顎をそれぞれ掴んで力任せに引き裂いた。
「大変だねぇ。こんな状況でも手加減しなくちゃならない立場ってのもさ」
狼を相手どる勇太郎を天塚は嘲笑う。本来であればこの程度の相手など勇太郎にとって一瞬で片づけられるのだが、世間から秘匿されたこの区画では、人目を避けるために派手な行動はできず力をセーブするしかないのである。
秘匿性こそがこの区画最大のセキュリティなのだが、それが破られた以上、その秘匿性が守る側にとって足枷となってしまう。
「それじゃここは任せるよ」
白衣の男にそう告げると、天塚は建物へ侵入しようと歩き出す。
それを警備員らが阻もうと、手にしている
弾幕をまともに浴びた天塚の白いコートがズタズタに引き裂かれていくも、それでも彼は何事もないかのように笑っているのだった。
そして、右手をかざすと、袖口から迸った黒銀の液体が生き物のように蠢きながら警備員らに襲い掛かった。
「う、うわぁ!?」
「ひィ!?」
纏わりついた液体が、まるでコーティングするかのように全身を包んでいき、検問所にいた者達同様に銅像のように固められてしまうのだった。
「ッ!」
天塚を止めようとする勇太郎だが、取り囲んだ狼らがそれを阻むべく次々と襲いかかる。
そんな彼を尻目に、天塚は悠々とした足取りで建物に侵入し、賢生がいる最奥部を目指す。
「ええいっ、邪魔じゃァァァ!!」
友の危機に、多少の被弾は無視して強引に包囲を突破しようとする勇太郎。それに対応するように白衣の男がベルを鳴らすと、数体の狼が、1人だけ下半身のみ金属に覆われた警備員へと襲いかかかった。
「チッ!」
警備員を庇うべく割って入った勇太郎を、四肢を抑えるように狼が噛みついてく。その程度でダメージなど受けることなく、軽々と振り払っていくが、不意に違和感が全身を襲う。
倦怠感と眩暈と吐き気がし突然起きた現象に、ある仮説が脳裏をよぎる。
「(毒、か?」)」
過去にも似た経験をしているが、狼にそういったものは仕込まれている様子はなく、原因を探るべく敵を観察する。
「いやぁ、上手くいって良かったよ。これを生み出すのに随分苦労したんだ」
ようやく口を開いた男性は、心底安堵するような口調で笑みを受かべる。そして、見せつけるように水平に伸ばしていた右手の人差し指には、一匹の蚊が乗っているのだった。
「君に効果がある毒の生成。そして、乱戦下なら気取られずにに近づき、強靭な皮膚を貫通できる針を持つ個体を生み出すのに10年はかかってねぇ」
「そいつは大したもんだ。最もこんなもんで俺をどうにかできると思ってんなら、幸せな脳味噌してるがな」
確かに神代の肉体に影響を与える程の威力を持つ毒など、自然界に存在せず、高位の吸血鬼が操る眷獣でもなければ生み出せないシロモノであり、人為的に生成したのなら学会で表彰されてもいい偉業と言えた。
ただ、勇太郎にとってはさして支障がでない程度の物であり、男をしばき倒すのになんら問題はないのだが。
「まぁ、君にはそれが限界だけど――まだ未成熟な君の子息には十分だと思わないかね?」
「!」
男が放った言葉に、勇太郎の目が一際険しくなる。歳と共に肉体として完成された勇太郎と違い、まだ10代という不完全な肉体の勇にはこの毒は十二分に脅威をなり得るのだ。
敢えて勇太郎がいるタイミングで襲撃してきたのも、自らの成果を試すためであり、男の
「さて、テストは終了だ。これで失礼させてもらうよ」
成果に満足した様子で、男は狼らを殿として残すと踵を返して立ち去っていく。
勇太郎はそれを追うことはせず、賢生の安否を確かめるべく建物の内部へ駆け出す。男もそうするだろうと踏んで、悠々と引き揚げていったのだろう。
狼らが追いかけてくることもなく、すぐに研究所に辿り着くと、隔壁は鋭利な刃物で切り取られたようにして破壊されており、室内では破壊されて散乱するオートマタと、血だまりに倒れ伏している賢生が視界に飛び込んでくる。
天塚の姿は既になく、壁が隔壁同様に破壊さており、そこから逃走したらしい。
「ケンケン!!」
急ぎ駆け寄ると、容体を確かめる。肩から心臓にかけて斬り裂かれており傷口からは止めどなく血が流れ出ており、直ぐにでも適切な施設での処置が必要とされる状態であった。
応援が来るまでの間に止血しようとする勇太郎の腕を、まだ意識のあった賢生が力を振り絞って掴む。
「……私はいい、それ…よりも、奴を…“
「ド阿呆ッッッ。お前を見捨てたら、夏音ちゃんに二度と顔合わせられねぇだろうが!!!あの子のことは勇を信じろ!!!」
掠れた声で懇願する友を一蹴すると、可能な限り止血を試みる勇太郎。
だが、それを嘲笑うかのように何かが転がって来る音が響き、ボウリング玉サイズのダンゴムシが数体、体を丸めたまま侵入してくると、まるで風船が膨らむように膨張していくではないか。
「ッ!?」
これから起きることを予期して勇太郎は、急ぎ賢生に覆い被さる。
それと同時にダンゴムシが盛大に爆発すると、その衝撃で研究所が崩壊していき、2人を巻き込んでしまうのであった。