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「あ――お母さん? お母さん!!」
ぼうっとした様子で何処か遠くを見つめていた桜は、母親、遠坂葵の姿を見た途端、大きな声で泣きながら駆け出していった。大粒の涙を流す瞳に、葵の元に駆けていく足取りに、先程までの虚脱した様子は無い。
「お母さん、私……。私、怖かったよぅ!!」
彼女は母親の胸に飛び込むとわんわんと泣きじゃくる。
年相応の少女の姿がそこにあった。
「桜、桜ぁ、良かったぁ……。もう、会えないって、会っちゃいけないんだって……」
その涙に釣られたのか、感極まった様子で、桜へと抱き付く凛もぽろぽろと涙をこぼしている。
「ゴメン。ゴメンね、桜。もう大丈夫よ。もう、絶対にあなたを離しはしないもの」
そして、二人の愛娘を抱き締めた、遠坂葵もまた泣いていた。
その様子は昼下がりの公園の広場にあっては少々奇異な光景だったらしい。増して直ぐ傍に、堅気の人間に見えない風体の雁夜が付いていれば猶更である。彼等は暇を持て余した奥様方の好奇の視線を集めていた。
親子の感動の再会に水を差さぬ様に、雁夜が周囲に
ぽろぽろと涙をこぼしていた三人に次第に笑顔が戻る。
彼がずっと望み、欲し、そして、決して手に入らなかった物がそこにあった。
雁夜は目頭が熱くなるのを感じ、暫し、眉間を押さえて空を仰いだ。
少女の心を覆った絶望の殻は今割れた。
空は雲一つ無く晴れやかで、眩しい位だった。
“時臣、こりゃあ一発で済ます訳にはいかないな。
葵さんの分に、凛ちゃんの分に、桜ちゃんの分。
最低でも三発はぶん殴ってやらないと。
いや、ムカつくし、俺の分と、ああ、あの時の借りもあったか……”
雁夜は次第に笑顔に変わっていく三人を穏やかな顔で見つめ、手を握って、開いて、また握る。内にあったモヤモヤとした感情が、丁度今の天気みたいに澄み渡っていく様に感じた。同時に、雁夜は胸がチクリと小さく痛むのを感じた。
泣き、笑う、葵と凛と桜の三人。
彼女等親子の再会は一枚絵の様に、綺麗で、感動的で、そして、雁夜が追加する物を思い浮かべる事が出来ない位に完成していた。
“家族ってのは、こういう物なんだろうな”
暫し、雁夜が黙して待っていると、凛が彼の元へと走ってきた。
「ん? 凛ちゃん、どうかしたかい?」
「あ、あの、雁夜おじさん。桜の事、ありがとうございました。本当にありがとうございました!!」
凛が真面目な顔で頭を下げる。
雁夜はふっと微笑むと、その頭をわしゃわしゃと撫で、豪快な笑みを返した。
「なぁに子供が気ィ使ってんだよ。行っておいで」
そうして、凛の背中をその大きな手で押してやる。
“さて、コーヒーでも買ってくるかね”
踵を返して自動販売機へと向かう雁夜と、ボールを持った赤毛の少年の目が合った。
「おじさんがあの子を助けてくれたの?」
赤毛の少年はおずおずと聞いてくる。
「ん? いや、大した事はしてないよ。どうしてだい?」
「いや……その、あの子最近元気が無くって、でも、今日は笑ってたから」
「ン? へぇ、成程。あの子に惚れてるのか?」
「い、いや、俺は、その、そんなんじゃ……」
口籠る少年に、雁夜は笑いかける。
「ハハ、恥じる事じゃないさ。男は皆、惚れた女の涙には弱いもんな」
「おじさんもそうなの?」
「勿論、そうさ。好きな人には、いつも笑っていて欲しいと思ってる。君もいつか大人になった時、大切な人を護れる様な大人になりな。それと……、好きな相手にはとっとと告白した方が良いぞ」
照れて更に口籠る少年の頭をぽんぽん撫でながら、雁夜は苦笑する。
我ながら耳の痛い台詞だ、と雁夜は思った。
†††
「さ、雁夜君、入って。直ぐ客間の用意をするから」
「あ、ああ、調べたい事もあるし、用意が出来るまでは書斎にいるよ。聖杯戦争についての文献が無いか探してみる」
「ええ、分かったわ。ほら、凛、桜、外から帰ったら手を洗ってうがいをする事」
玄関の戸を閉めながら、雁夜はパタパタとスリッパを鳴らして洗面所へと歩く三人を見送る。少し彼は困惑していた。葵の家(遠坂邸である)に呼ばれるという状況に戸惑っていた。
彼等四人は公園を後にすると、連れだって深山町の商店街で夕食の買い物を済ませ、丘の上にある遠坂邸まで話しながら歩いた。時刻は既に夕暮れに差し掛かり、空は赤く染まっていた。葵と凛と桜、それぞれ手を繋いだ影が住宅街の白壁に映っていた。
そして、雁夜は今、遠坂邸にいた。
臓硯と一戦交えた雁夜は当然帰る場所が無かったし、彼は聖杯戦争に関する書物を漁る為に、時臣の書斎に用があった。怯える桜が雁夜と離れたがらなかった事もある。そして、何より、桜を無理矢理奪還した事で、雁夜は葵達三人を護衛する必要があった。
桜を奪還し、遠坂に引き渡す。雁夜がやった事とは言え、遠坂の横紙破りと見られるのは避けられまい。臓硯は盟約に基づいて桜の返還を迫る事が出来る。
これは当主である時臣の不在と、間桐の人間である雁夜が噛んでいる事を理由に保留に出来るだろう。間桐家は碌に外と交流を持っていない為、余所の家が何か言ってくる事もまずあるまい。
問題は、臓硯が強硬手段に出る可能性があるという事だ。
無数の結界、霊的防御に護られた遠坂邸は正に魔術要塞と呼ぶべき堅固さではあるが、時臣不在の今、この家には魔術師が一人もいない。臓硯が桜を攫おうと思えば訳無いだろう。葵にはそれに抗うだけの力が無い。故に、雁夜が護衛として傍にいる必要があった。
そう、それだけだ。
それだけなのだが、雁夜は変に浮足立っていた。
無論、彼とて最低限の分別は弁えている。家主の留守に転がり込む間男になるつもりは毛頭無い。彼は葵達母子の幸せを望んでいる。それを壊す様な事を出来る筈が無い。
ただ、葵にアナタと呼ばれたり、凛と桜にパパと呼ばれる妄想が頭を過ぎっているだけである。頭の中で、遠坂家の家族写真の時臣のいる位置を自分に置き換えたりしているだけだ。人には精神の自由がある。
色々と手遅れであった。
二十年越しの恋慕がこじれていた。
結局、彼はどうしようも無く葵に惚れていて、時臣の手に入れた家庭は彼が渇望した理想その物だった。おまけに、雁夜はすっかり凛と桜に対して
「おじさん、どうしたの? お母さんがうがいしないとダメだって」
気が付けば、桜がニヤけている雁夜の事を不思議そうな顔で見つめていた。凛は怖がって一歩退いていた。
「あ、ああ、そうだね、桜ちゃん。そうするよ」
雁夜は思い切り冷たい水で顔を洗い、抗し難い夢妄を振り払うと書斎へと向かう事にした。
本来、然したる伝手も知識も持たない雁夜は、聖杯戦争の情報と、召喚陣の敷設等々は全て臓硯の協力を得るつもりだった。しかし、こう拗れに拗れ、殺し合いまで発展してはそれも不可能である。
開き直って堂々と間桐邸に帰り、臓硯に
“次こそは確実に殺る”
突発的に戦闘になってしまったが、冬木に戻るに当たって、雁夜は宿った令呪を使ってサーヴァントを召喚し、その召喚した英霊の力を以て臓硯を滅する計画を立てていた。
彼が聖杯戦争に参加する真の目的はこれである。
その為の触媒も彼は用意していた。
とある退魔の大英雄所縁の聖遺物である。
自身の魔力と体内の魔蟲が最も活性化する満月の夜の丑三つ時に召喚を行う事を雁夜は決めていた。まだ暫し時間がある。それまでは葵達を護りながら、桜に簡単な魔術の基礎でも教えようと思っていた。
“しかし、桜ちゃんの才能は厄介だな”
雁夜は書斎の本を一つ一つ確認しながら、頭では別の事を考える。
桜の事だ。
雁夜の予想通り、桜は素晴らしい魔術の才を秘めていた。否、拙い事に、予想を遥かに超えて、と云うのが正しかろう。天賦の才と云うのは多かれ少なかれ、人を歪める。桜の才は放っておけば彼女を憑り殺すレベルの代物だった。
桜の属性は、架空元素虚数。
“ハッキリ言えば、良く分からん”
それが雁夜の
通常、魔術師の生まれながらに持つ属性は五大元素、地、火、水、風、空の五つの内のいずれかである。雁夜が水で、時臣が火だ。どちらもポピュラーな属性であり、その分応用も利く。
およそ天才と呼ばれる魔術師の中には複数の属性を併せ持つ者がいたりもするのだが、飽く迄例外である。ただその例外も魔術師として優れていると云う話であって、隔絶している訳では無い。
桜の才能はソレだ。存在しない六番目の元素。
雁夜とて幼い頃から臓硯に魔術の
分かっているのは、この才が封印指定物であるという事だけだ。桜の才が魔術教会に知られれば、遠からず彼女は
時臣が間桐に桜を養子に出した訳が良く分かる。魔道の庇護が無ければこの娘は生きていけない。才能を伸ばそうにも架空元素を扱う魔道の家となれば、時臣の伝手を使っても探し出す事は不可能だろう。
しかし、やりようはある。
間桐の蟲を使った肉体改造は自身の生まれ持った属性すら変質させる事が可能だ。
臓硯が桜に施した蟲による凌辱によって、桜の属性は間桐の水に変質しつつある。雁夜の刻印蟲と吸孔蟲を与えて長期的に身体を慣らしていけば、水属性の魔術は勿論、間桐の特性や自身の起源を利用した強力な魔術も使えるようになるだろう。
幾つか問題もある。
蟲による属性の変質は、桜の元々持つ虚数属性の劣化を伴う事だ。
貴重な才能が潰れる。恐らくあらゆる魔道を志す者にとって、それは度し難い蛮行だろう。しかし、危険と隣り合わせの才能なら無くなってしまった方が本人の為だ、と雁夜は思う。
元々臓硯を打倒し自由を掴む手段として魔術を見ている雁夜は一般的な魔術師観という物を持ち合わせていなかった。
「それにしても、アイツの書斎はどうなってんだ? ちょこちょこ封印された魔本の類があるな」
古書の中には魔力を帯び、意志を持つに至る物がある。付喪神とも呼ばれる貴重なマジックアイテムだ。貴重な物になると数百から数千万の値が付く。時臣の書斎の棚の上の方の段にはそれが複数冊保管してあった。書斎内に張り巡らされた結界と要石で封印されている。
“人が近付くと封印が強まる様になっているのは、葵さんや凛ちゃんに万一が無い様にって事なんだろうな”
状況に合わせて結界が自在に機能を変え、万一を防ぐ。その術式の細やかさは、流石時臣だと雁夜は思う。実に相変わらずの様だ。
雁夜は要石をズラし、その内の一冊を手に取る。
途端本がひとりでに開かれ、そのページに真っ黒な手形が浮かび上がった。それだけではない。見る間に手形が膨れ上がり、黒い腕となって雁夜の頸へと迫った。魔本の指が雁夜の頸へと巻き付き、万力の如き力で締め上げる。
咄嗟に雁夜は伸ばされた魔本の手首を掴んだ。
ゴキリ、と骨の砕ける音がした。
「あっ――」
魔本の手首が握り潰されていた。
瞬間、黒き腕は消滅し、魔本は床へと落下する。
雁夜は魔本を直ぐさま拾い上げ、ページを捲るが一切反応は無い。
彼は恐る恐る表紙を見る。そこにはガーヤト・アル・ハキームと書いてあった。彼はふっと微笑する。そして、そのまま何も見なかった事にして、本を書斎の机の上に置くと、目的の文献の探索を再開した。