鬼哭劾―朱天の剣と巫蠱の澱―   作:焼肉大将軍

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旅立ちの準備(後)

 †††

 

「雁夜ッ!!」

 

 バーサーカーの絶叫が道場内に響く。

 千切られた雁夜の耳を見た瞬間、彼女の理性は沸騰した。

 

 魔力に拠って編み上げられた武装が瞬時にその手の内に出現し、その小さな身体が獲物を前にした豹の如く沈み込む。叩き付けられたその殺気に武丸が笑みを歪め――

 

「やめろ、バーサーカー。手を出すな。これは俺の戦いだ」

 

 バーサーカーの動きを雁夜が止めた。

 彼の口調は至極落ち着いたものだったが有無を言わさぬ迫力があった。

 

 バーサーカーには理解出来ない。

 そういう戦いでは無かったはずだ。

 そも、この男を招いたのは葵達の護衛にする為ではなかったのか?

 戦う理由など無い筈ではないか。

 

 バーサーカーが判断に迷っている一方で、雁夜もまた迷っていた。

 千切られた耳をどうするか。

 雁夜の治癒魔術の腕ならば治療は容易い。それこそ数秒もあれば完全に傷を癒着させ血を止める事など造作も無い。

 しかし、傷口を一度癒着させてしまえば、この勝負の後で千切れた耳を元通りにくっつける事が難しくなる。治癒は飽く迄も治癒であって、復元では無い。

 

 一方で治癒しなければ、失血による体力の損耗は免れない。

 紫電蟲による心拍上昇等の一部の技にもリスクが付き纏う事になる。

 隙だらけだった己の頸椎や目を狙わなかったのはこれが理由なのだろう、と雁夜は思った。そして、師の問いにどう応えるべきなのか、と。

 

「兵は拙速を貴ぶ。先手を取る事は勝負事の大原則だ。基本は必殺。無理ならば出来る限り削る事。目を潰す。動脈を抉る。四肢を折る。相手が武器を手にしている場合はこれを封じる。援軍の気配があれば喉を潰す。そんなところか。さぁ、どうする?」

 

 武丸が言いながら無造作に雁夜との距離を詰める。

 強いられた選択に対し、雁夜が取った行動は攻めの一手。

 耳の治癒を行わず、全身の魔蟲を励起させて、一瞬で勝負を決める腹である。

 

「良い気付けになりました。本気で行きます」

 

 何処か弛んでいた事は間違いない。

 呆けていた、と言っても良いだろう。

 実戦では無いと高を括った愚かさを右耳ごと千切り取られ、雁夜の意識が実戦へと切り替わる。奥歯を鳴らす。魔力を流す。

 餌の気配に体内の魔蟲が呼応する。幾千、幾万の魔蟲の覚醒。音ならぬ音。呪が自らの内側でうねりを上げる音を聞く。

 緊張と高揚の相克。

 

 一瞬の内に雁夜は戦闘態勢へと移行する。

 対峙する両者の間の空気が切り替わる。その一瞬に――武丸が先程千切り取った雁夜の耳を放り投げた。千切られた耳は放物線を描いて宙を舞い、雁夜の視線がそれを追って一瞬泳いだ。瞬間、ダンッと武丸の足元で床板の砕ける音が響く。

 雁夜がそちらに視線を返した時には、既に雁夜の眼前にソレは在った。

 回転しながら飛来する床板の破片である。武丸が踏み割った床板を雁夜に向けて蹴り上げたのだ。

 床板の影に隠れ、武丸の姿が一瞬、雁夜の視界から消えた。

 雁夜は咄嗟に床板を片手で弾く――その瞬間、彼の右の視界が消失した。

 

「ぐ、このッ――」

 

 衝撃に仰け反りながら、雁夜は背後に落ちた硬貨の音で何があったのかを悟る。

 指弾だ。

 指で弾き飛ばした硬貨で、蹴り上げた床板ごと雁夜の右目を正確に射抜いたのである。

 千切った耳を投げる動作に視線を集め、もう一方の手で硬貨を握り込むと同時に、踏み抜いた床板を跳ね上げて死角を作り、そこへ指弾を叩き込む。

 死角から突如出現する弾丸を防ぐ術は無い。否、気付かぬ内に封じられていた。

 

 雁夜は即座に体勢を立て直したが、同時に武丸はその右の死角へと滑り込んでいる。危機を察した雁夜が跳び退こうとするも既に遅い。

翻った武丸の左拳が雁夜の顎を捉えた。

 接近と同時の左の連打。二つ三つと拳を叩き込まれ、雁夜の頭がピンボールの様に跳ね回る。

 

 が、それも一瞬。

 顎を捉え引き戻される拳。その袖口を右手で掴むと同時に、雁夜は左腕を振り被る。その瞬間、ズラリとその左手の平を貫いて蟷螂の鎌に似た魔蟲の牙が飛び出した。

 

「行くぞ。死ぬなよ、師匠……」

 

 言葉と同時に閃光が瞬き、左腕が翻る。

 師の首を狙った横薙ぎの一閃は、しかし、空を切った。

 

「甘いんだよ。いつまで敵の身体を気遣ってやがる」

 

 左手の手首を返して、袖口を掴んだ腕を取り、外に捻る。

 死の刃を前に武丸が取った行動はそれだけだ。しかし、たったそれだけの動作で、雁夜の膝は崩れ、つんのめった雁夜の左腕は宙を薙ぐ。

 

「ッ、合気――ガッ!!」

 

 雁夜の言葉はその途中で吐血に変わった。

 

「弱点はこれを突く。徹底的に、だ。死ぬなよ、雁夜……」

 

 雁夜の左腕を掻い潜ると同時。雁夜がその術理を理解した直後。その危機を直感する前に、がら空きになった雁夜の左脇腹に、武丸の右フックが突き刺さっていた。

 

 そして、それは一撃では終わらない。

 即座に二撃目の右フックが全く同じ軌道を描いて雁夜の脇腹へと突き刺さる。雁夜の身体が衝撃に浮き上がり、くの字に折れた。

 一撃目の際、既に肋骨が砕けた事は互いに承知している。

 雁夜は咄嗟に跳び退こうとして、それが無理だと悟る。

 身体は浮き上がり、右腕を掴まれていた。

 腕を引いて相手の身体を引き寄せ、距離を殺すと同時に体勢を崩す。三発目の右フックは雁夜の脇腹では無く、頭部へと奔った。

 ギリギリで引き戻した左腕でガードが間に合うも、武丸の剛腕は受けた腕ごと雁夜の頭部を激しく揺さぶった。衝撃が脳を揺らす。

 

 武丸の攻め手は全く冷静で、ソツが無い。

 上下の打ち分けがある以上、雁夜はガードを上げざるを得ない。故に自然にガードに上げたその腕で、雁夜は自らの口元を武丸の視線から一瞬隠した。

 

 隠すのは一瞬で良い。

 既に二撃目で砕けた肋骨が内臓へと突き刺さり、大量の血が腹から迫り上がっている。

 雁夜は口内に止めていたそれを、武丸へと勢い良く噴き出した。

 

 その血を使った目潰しは――果たして、道場の床を赤く染めただけに終わる。

 血を噴き出したのと殆ど同時に、武丸は後方に跳び退く事で血の目潰しを回避していた。

 

「……随分と引き際が良い事で。いくらなんでも小細工一つにビビり過ぎでしょう?」

 

 雁夜は軽口を叩きつつ、潰れた右目、折れた肋骨に、傷付いた内臓の治癒を開始する。一方で彼は必殺の機を逃した事を痛感していた。

 

「退き時と見れば躊躇うな。対魔術師、異能者戦の要諦だ。お前等の小細工は容易く臓腑を焼く。迷ったら一度退き、敵の能力を見極めろ。ま、今のは迷う必要が無かった。狙いの本命は電撃だろう?」

 

 師の言葉に雁夜は苦笑いを返す。

 先の攻防、雁夜の狙いは紫電蟲による電撃にあった。

 血を噴き出しての目潰しで師に隙が出来るとは思っていない。喩え目を眩ませた所で、無空と聴勁を使って普段と遜色無い動きが出来るだろう。故に、掴んだ左手を離して折角の有利を手放すとは思わなかった。最低限視界だけを護るか――視界さえ捨てて攻撃を続行する。

 

 そう読んで、目潰しと同時に掴んだ腕に血をぶち撒けて導通を上げ、紫電蟲による電撃を叩き込む。一度感電すれば身体は強張り、掴んだ指を自力で離す事も出来なくなる。その時点で勝敗は決する、はずだった。

 腕を掴まれた瞬間に電撃を行わなかったのは、体表上に金属の類があれば皮膚の表面を通って電気がそちらに流れ、不発に終わる可能性があった事。そして、もう一つ……。

 

 兎も角、肋骨を犠牲に張った必殺の罠をあっさりと看破され、状況は圧倒的に不利な事は間違いなかった。右目は当然として、砕かれた肋骨も直ぐには再生しない。

 否、それよりも――。

 

「何、良い様にやられてンのよッ!! 何を遠慮してンのか知らないケド、そんな卑怯者に負けンじゃないわよッ!! さっさと本気出しなさい!!」

 

 結局、黙って見守る事にしていたバーサーカーが、堪え切れずに野次を飛ばす。

 その言葉に雁夜は苦笑する。

 無論、雁夜は遠慮などしていない。

 問題は、バーサーカーにはそう見えているという事だ。

 そう見える程に、動きが鈍っている。

 

 原因はハッキリしていた。

 雁夜がその体内に寄生させた魔蟲の反応が鈍っているのだ。

 雁夜の体内に寄生した魔蟲の総数は億を超える。彼等は雁夜の魔術回路はおろか神経や血管、内臓に筋肉といったあらゆる部位に寄生し、既にその生体機能の一部と化している。

 普段、食事をするのに箸の握りを意識しない様に、雁夜にとって体内に巣食う魔蟲は自身の手足も同じ。中でも生体活動に根差した魔蟲の操作は息をする様に扱える。

 それが狂っていた。

 

“先日の戦いで無茶をした影響か、神便鬼毒酒の後遺症か。

いや、違うな……。”

 

「どういう心境の変化ですか? 随分と、卑怯な手を使う」

「ふむ、ようやく気付いたか」

 

 雁夜の言葉に武丸は笑みを浮かべる。

 その口に銜えた煙管が上下に揺れ、紫煙が言葉と共に宙に舞った。

 

「魔蟲の活性が酷く弱い。それに、先程の小手返し。合気の生体反射を利用する技は、俺には効果が薄いと知ってる筈だ。首への斬撃が迫った場面で使う技じゃァ無い。効く確信があったって事でしょう?」

「ククッ、御名答。敵の力は悟られぬ様にこれを削ぐ。状況なり心理で縛るも良し。今回は手っ取り早い手段を使わせて貰った。多種の霊草と毒蟲を煎じた物を煙草と共に燻した香だ。お前の魔蟲の働きを鈍らせる。

普段から魔蟲に頼り切ってる奴には効果抜群だった様だな。

 ああ、それと、敵の力を推測するのは良いが、決め付けるのはウマくない。俺の合気を魔蟲の痛覚遮断程度で防げると思わない方が良い」

「それは卑怯な手段を使ってる人間の台詞じゃァないですね」

 

 言いながら雁夜は自身の傷の治癒状況を確認する。

 

“内臓に突き刺さった骨の癒着は粗方完了。視界は魔蟲の複眼でカバー可能。

 活性の落ちた魔蟲の掌握も殆ど終了。

 戦闘態勢は整った。さて、どうするか――”

 

 と、そこまで考えた所で、

 バンッ!!と大きな音を立ててバーサーカーが戸を開け放った。

 

 ただ戸を一つずつ開けているだけではあるが、その後ろ姿には鬼気迫るモノがあった。怒りに打ち震えているのだろう事が背中越しにでも理解出来る。

 

「バーサーカー……。その、手を出すなと――」

「私が煙たかっただけだから。何も問題無いわよね?」

 

 そう振り向いたバーサーカーの微笑には、一切の有無を言わさぬ迫力があった。

 雁夜はバーサーカーへの追及を止め、愉しそうに笑う武丸へと集中する。

 

“換気して貰ったバーサーカーには悪いが、恐らく煙管はブラフだ。”

 

 そう雁夜は結論付ける。

 雁夜の操る魔蟲はその体内に寄生している物だけでは無い。元々葵達の警護の為に一定数の魔蟲を遠坂邸近辺に配置しているし、この屋敷の周囲も同様だ。

 ここに葵達を避難させ、聖杯戦争から護ると決めて直ぐに彼は屋敷の周囲へと魔蟲を展開していた。異変があれば直ぐに気付く。

 だが、それらの魔蟲に変化は無い。活性が落ちているのは雁夜の体内の魔蟲のみ。殊更神経系に根を張る魔蟲の被害が甚大である事に比べ、多少なり煙を吸ったであろう独立型のモノに対して影響が無さ過ぎる。

 また、師は戦闘が始まってから煙管の火皿に詰めた刻み煙草を交換していない。駅からの道中や屋敷で話の間に吸った煙で魔蟲の活性が落ちればどこかで気付いた筈だ。

 

 結論として、煙管はブラフで、別の方法で毒を盛られた可能性が高い。

タイミング的には恐らく初撃で耳を千切った時に違いない。傷口から毒を入れたにしろ別の方法にしろ、耳を千切れば雁夜は痛みを遮断する。結果、毒に気付くのが遅れる。

 

 では、ブラフを張った理由は何か?

 煙草の紫煙を毒と錯覚させてこちらの行動を制限する。実際、バーサーカーが扉を開けたから不発に終わったが、そうで無ければ扉を蹴破って庭へと移動していた可能性は高い。

 でなくば、もう一度毒を使うつもりでいるか……。

 

「さて、次は何を教えてくれるんです? 不意打ちに毒と、卑怯な小細工を披露して終わりってわけじゃあ無いでしょう?」

「ク、ククッ、本当に、魔術師ってヤツは――トロケそうなほど甘い。その卑怯な手際に翻弄され、今の今まで気付かなかった未熟に対して、逆に何か思う所は無いのか?」

 

 師の問いに雁夜は押し黙る。

 武丸は袴の脇開きに片手を仕舞い、もう片方の手で煙管を掴んで燻らせると、紫煙と共に言葉を吐き出す。

 嗤っているが、その眼に喜楽の色は無い。

 その言葉の端々に火薬の匂いがあった。

 

「お前は今から一体どういう戦いに出向くと思っているんだ? 敵が卑怯な手を使ったから負けました、とでも言うつもりか? 墓の下で言えりゃァ良いけどなァ。覚えておけ。卑怯とは敗者が最期に云う言葉だ」

 

 言い終わると同時に、雁夜の額が弾けた。

 全く間を置かず、道場の床に三つパチンコ球が転がり、一つは雁夜の背後の壁へとめり込んだ。雁夜の指先、顎を伝った血が床に落ちる。

袴の脇開きに手を入れ、出所を隠した指弾。一息に放たれたパチンコ球は袴の生地を突き破ると、雁夜へと奔った。

 

 一つが空を切り、一つが叩き落とされ、一つが防御した指の骨を砕き、一つが額を割る。

 それに合わせ、武丸は跳んだ。

 

 サイドステップを挟んで、雁夜の潰れた右目の死角から跳び掛かる。振り被る事無く、踏込の推進力を拳に乗せる。突きが目標に当たる瞬間はまだ踏み込んだ前足は空中にあり、接近と攻撃を一手で兼ねる刻み突き。

 

 ここからゼロコンマ数秒の攻防があった。

 咄嗟に滑り込んだ左手が顎を捉える筈だった武丸の右拳を逸らす。しかし、突きを捌いた雁夜は同時に振り被ろうとした右腕を咄嗟に止めた。

武丸の踏み込んだ右足が雁夜の右足を踏み付けていた。

 武丸はそのまま払われた右腕を戻さず、雁夜の上着の襟を取ると、踏み込んだ勢いを乗せて左膝を跳ね上げ――それを雁夜は右腕で受ける。

 

 無論、跳び膝蹴りの衝撃を腕で完全に止める事は出来ない。

 足を踏み付けられた事で動きを制限されていた雁夜の上半身は大きく仰け反り、そこへ不可避の左拳が振り下ろされた。

 底拳を利用した振り下ろしは、空手などでは俗に鉄槌打ちと呼ぶが、彼等の流派では全身のバネを使って繰り出すソレをその象形から雷と呼んだ。

 

 その威力を雁夜は知っている。

 頭部を失った羆の死骸を山籠もりの際に幾度と無く目にしていた。

 降ってくる死に対し、しかし、雁夜に恐怖は無い。

 

 雷が奔った。

 雁夜の左腕から奔った紫電が武丸の身体を貫いたのである。

 襟を掴んだ師の腕を取ると同時の紫電蟲の一斉励起。電撃が武丸の身体の自由を奪い、その腕が空を切る。同時に、その身体を雁夜は中空へと蹴り上げた。

 百キロを超える武丸の巨体が宙を舞う。

 

“ここで決め――”

 

 雁夜がそのまま追撃に移ろうとした瞬間、その視界を鈍色の輝きが塞いだ。

 煙管だ。師が銜えていた煙管が雁夜の左目へと向かって落ちてきたのだ。咄嗟に雁夜はそれを左手で弾き飛ばし――失敗を悟る。

 

 雁夜の左腕を一本の針が貫いた。

 同時に蹴り上げられた武丸は猫の様に身を躱し、天井へと着地する。

 雁夜は一歩飛び退き、腕に刺さった針を引き抜く。二寸程の長さの鉄の針。煙管の中に仕込まれていた含み針である。

 

「影打ちと言う。一射目の煙管の死角に隠した針だ。単純だが、見切る事は難しい。ああ、動くなよ? 毒が回るぞ」

 

 武丸の声は上から響いた。

 彼は床に降りる事無く、天井に立っている。

 足の指で天井の竿縁を掴んで立っているのだ。

 雁夜は答えなかった。

 彼は状況を確認している。

 右腕は折れていた。解放骨折である為、一度骨を正常な位置に戻して治癒魔術を行う必要がある。そもそも時間を要する為、戦闘中の回復は絶望的だ。

 

 左腕の毒については目下対処中。筋肉を絞めて上腕動脈を圧迫する事で止血は完了。現在、蛭血蟲が傷口に噛み付き、血ごと毒を吸い出しにかかっている。

 右腕は動かない。左腕は動かせば一気に全身に毒が回るだろう。

 

 両腕を封じられた状況である。

 雁夜の頬を冷たい汗が伝った。

 

「魔術を修め、武技を練る。正に俺の上位互換とも言えるお前が、何故これほどに遅れを取るのか……。多少は理解出来ているか?」

 

 武丸の問いに雁夜は苦々しい笑みを浮かべる。

 さて、何と言ったものか……と彼が思っていると、背後のバーサーカーがボソリと言った。大鉈を掴んだその手には青筋が浮かんでいる。

 

「何故も何も、アンタが卑怯な事ばっかしてるからじゃない……!!」

「フン、この程度は実戦における駆け引きの一部に過ぎん。毒にせよ、指弾にせよ、一つ一つなら何も問題なく捌けていた筈だ。何度も言った筈だぞ? 一つの事を成さんと欲すれば十の布石を打て。事を起こさんとすれば事前に事を成せ。お前のヌルさは別にこの一戦に限った事じゃァ無い」

 

 武丸は無表情で続ける。

 

「仔細までは知らんが、お前は既に命懸けの戦いに二度敗れている。一度は敵の思惑に嵌り、一度は怒りに我を忘れてな。結果、我が身だけで無く、その庇護すべき対象をも危険に晒した大馬鹿者。それを恥じ、悔い改める気も無いというのなら介錯してやるのも師の務めだろうよ。さて――」

 

 武丸が天井から落下する。

 彼は猫の様に身体を翻し、床へと着地するとニヤリと笑った。

 

「そろそろ、毒が回ったようだな」

「……なん、で……毒が――」

 

 言葉が口からこぼれ、そのまま雁夜は片膝を付く。

 視界が歪み、舌が麻痺して上手く言葉にならない。立ち上がる事が出来なかった。

 

「吸血によって毒を吸い出すというのは応急的に良く使う方法ではあるが、常に感染のリスクが付き纏う。特に口内が傷付いていたり、体力が落ちている場合には避けるべきだ。お前が毒の排除に使った蟲も例外じゃァ無い。お前等魔術師は魔術によって多くの物事に対して簡単に対処出来るが、それ故にとても傲慢で、無防備だ。電撃を使うならもう少し考えるべきだったな」

 

 この時、武丸は複数の毒を使用している。

 一つは多種の霊草を煎じた強力な虫下し。初手で雁夜の耳を削いだ時に、傷口に同時に塗り込む事で魔蟲の活性を大幅に下げている。

次に、針に仕込んだ多種の毒虫から抽出した神経毒。

 初期症状は眩暈に四肢の痺れ等。意識は明瞭なまま症状は急速に進行し、やがて中枢神経が麻痺する事で呼吸困難に陥り、死に至る猛毒である。

 

 無論、一つ一つであれば雁夜には大した効果が無い。

 強力な神経毒も麻痺の症状が進行する前に、体外の魔蟲が血ごと毒を吸出し、速やかに体内の魔蟲が解毒してしまう。故に、武丸は先ず解毒を行う体内の魔蟲の活性を下げ、毒の吸い出しにかかる魔蟲には死んでもらう事にした。

 耳の失血を止めなかった雁夜は回復の為に蛭血蟲を出し、その状態で迎撃の為に電撃を使っている。電撃は武丸だけでなく、雁夜の体表上の蛭血蟲をも焼いていた。

 後は傷付いた魔蟲が毒を吸出しに掛かって自爆したというだけである。

 

 それは雁夜の自覚していない弱点だ。

 彼は己の痛覚を遮断する事に抵抗が無い。

 だから、傷付く事に躊躇いを持たない。

 大切な者が傷付く事に酷く怯えている癖に、それ以外が傷付く事にはまるで抵抗が無い。

 自らの事も、自らを支える魔蟲の事も頭から抜け落ちている。

 それは生物として根幹的な欠陥ではあり、同時に間桐雁夜の強さの源泉でもある。

 

「武術とは研鑽、練磨の歴史だ。例えば脳内麻薬のコントロールによる死の直前の集中力。それが蔓延るとそれをカモにする術が出てくる。二階堂兵法の心の一方等がそれだな。死の直前の集中力は視覚以外の五感を切り捨てる事で超人的な反応速度を得る物だ。自然、切り捨てられた感覚が無防備になる。

 お前のソレも同じだ。体内に寄生させた魔蟲に頼った戦法はお前の強さではあるが、同時に弱点でもある。そして、弱点と見ればこれを突くのは勝負の鉄則だ。

 魔蟲に頼る事に慣れ過ぎているから対応が遅れる。簡単に解毒出来ると考えているから毒への対処を怠る。さて、そろそろ呼吸も出来なくなる頃だ。そのままだと死――」

 

 大鉈が武丸の言葉を途中で裂いた。

 

「アンタの勝ちよ。クソ野郎」

 

 前方から飛来した大鉈が肩肉を食い千切ったと見るや、後方に凄まじい力で引き寄せられ視界が回転、次いで襲い掛かった衝撃によって壁へ激突した事実を知る。

 バーサーカーがその手の大鉈を投擲すると同時に躍り掛かり、武丸の襟首を掴んで壁へと放り投げたのである。

 バーサーカーは倒れた武丸には目もくれず、雁夜へと近寄る。

 

「マスター、毒を抜くわ。直ぐに――」

 

 

 

 使われた神経毒は末端神経を麻痺させるがその思考を奪う物では無い。

 雁夜は酷く澄み切った思考で、己の四肢が壊れていくのを感じていた。

 

“あの時と同じだ。

 あの時と同じなら、やるべき事は決まっている。”

 

 十に満たぬ齢で蟲蔵に入ったあの時。

 魔蟲に全身を蹂躙され、苦痛で脳が焼き切れそうになったあの時。

 感覚を捨てる必要に迫られたあの時と同様に――

 

 山籠もりで衰弱し、逃げる事も出来ずに羆に喰われそうになったあの時。

 動かない肉体を捨てる必要に迫られたあの時と同様に――

 

“改造すれば良いんだ。そういう能力にすれば良い――。”

 

 皮下で魔蟲が顫動する。その全身に赤黒い罅が奔った。無論ただの罅では無い。動脈や筋と見紛う程に巨大な神経が皮膚に浮き上がっているのだ。

 

 毒によって麻痺した神経を不要と断じ、魔蟲の総体が創り上げる新たなる経絡。

 無数の魔術師達が子々孫々と血の練磨の果てに魔術回路を増強していく営みの、その生涯の何と遅き事か。否、比するソレは人間の業では無い。

 見よ。魔蟲が擬似魔術回路として浮き上がり、即座に成形されていく様を。

 

 バヂリッ、と雁夜の浮き上がった経絡上を紫電が奔った。一度では無い。その上半身に一定の間隔で電流が奔り続ける。

 

「マ、マスター!! 何を!?」

 

 半ば悲鳴に近いバーサーカーの声が上がった。

 同時に、雁夜の口から呼吸音が漏れる。

 体内に巣食った紫電蟲の電撃によって強制的に横隔膜に筋収縮を引き起こし、無理矢理呼吸を行っているのである。

 

 一つ、二つと大きく呼吸し、欠乏していた酸素が全身に循環すると、雁夜は立ち上がった。

 そして、雁夜と武丸。二人は何事も無かったかのように向かい合う。

 

「行くぞ。全力で来い」

 

 武丸の言葉に雁夜が応える。

 互いに決着が近い事は分かっている。

 大尾が近い事は誰の目にも明白だった。

 

「ッ――!? ――!! ――ッ!!」

 

 バーサーカーが何事か叫び、戦いを中断させようとしている。しかし、既に二人の眼中には無い。如何なる言葉もその耳へは届いていない。

 

 雁夜の全身を紫電が奔る。

 次第にそれは激しくなり――雁夜は武丸へと跳び掛かった。

 

 先の鬼面の男との戦いの記憶を思い出した訳では無い。

 しかし、雁夜はこれが自らの奥義であると確信していた。

 紫電蟲の一斉励起による電撃の強制駆動。

 意志を持つ、雷に至る。

 

 残影のみをその場に残し、雁夜は跳躍んだ。

 肉体の駆動限界を遥か超越した人間大の雷が武丸へと奔る――

 

「見事――と言ってやりたいが、この場は俺の勝ちだ」

 

 武丸の反応は、雁夜にとって冷や水を被せられた様な――否、その物である。

 

「oṃ Varuṇa-samudgate svāhā!!」

 

 向かい来る雁夜を前に、武丸は指を組む。刀印が切られると同時に、雁夜の眼前に数リットルの水の塊が出現し、雁夜は勢いのままに水の塊へと突っ込んだ。

 瞬間、水を伝って雁夜の纏っていた電撃が周囲へと迸る。一瞬の明滅と共に道場内の電灯が弾け飛び、全身を焼かれた雁夜の動きが止まった。そこへ――

 

「電気は水に吸われる様に流れる。制御出来ない力は自らを焼くと知れ」

 

 武丸の右拳が、雁夜への胸へと撃ち込まれた。

 一瞬の静寂。その後に――

 

「何で、師匠が……魔術を――」

 

 呟きと共に、雁夜は糸が切れた様に倒れ込んだ。

 

 

 

 

 






色々と反省すべき点は多々あるが、どうしたものか……。

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