鬼哭劾―朱天の剣と巫蠱の澱―   作:焼肉大将軍

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前夜祭の終わり(後)

 

 

 †††

 

 

 遠坂邸の屋根の上に立つ男の襤褸が裂け、その姿が露わになる。

 血の如き真っ赤な鎧と、なお紅い、禍々しき朱の鬼面。

 男の手には月があった。

 男の掴んだ神々しき霊弓が、新月の闇夜に美しき弓張月を描き出している。

 

「弓矢八幡・雷上動。安心しろ、痛みは無い。苦しみも無い。抵抗する意味も、死の実感すらも無いだろう。そんな物を感じる前に、貴様等はこの世界から消え失せる」

 

 男は静かに告げ、弓を引き絞る。

 霊弓から迸った魔力が、番えた矢へと収束する。空間を覆い尽くす魔力の波動は、見る者に重圧となって降り注いだ。しかし――

 

「ナメんじゃ無いわよッ!!」

 

 バーサーカーは臆する事無く背後に雁夜を庇って仁王立ちすると、その頭に掛けた鬼面を自らの顔へと回した。瞬間、彼女の様子が一変する。

 

 変化は一瞬。

 鬼の面が生物の如く脈動し、彼女の皮膚と同化する。次いで悍ましき魔力がバーサーカーから迸り、彼女の周囲に蜃気楼の如き歪みを形成した。

 

「ア――アァアアアアアアアァアアア―――!!」

 

 少女が吼えた。

 バーサーカーの喉から迸った慟哭は、最早言葉を成さずに天を衝く。それは大気を震わせ、木々を揺らし、その場全ての者を圧する怨嗟の咆哮。

 鬼面の奥に浮かぶ常軌を逸した眼光。髪を振り乱し、両手に大鉈を構えたバーサーカーに、最早先程までの可憐な少女の面影は見当たらない。

 

 この時、この場で唯一透視能力を持つ雁夜が健在であったならば、直ぐにバーサーカーの変化に気付いたであろう。今、彼女のステータスは以前とは比べ物にならぬ程に上昇している。

 それは理性を失い、狂気に呑まれ、醜悪なる怪物に成り果てた末に漸く得られる力。

 

 今、正にバーサーカーは狂戦士(バーサーカー)と成ったのだ。

 彼女もまた、間違いなく人域の踏破者、英霊である。

 

「狂気に呑まれ、鬼に堕ちるか。哀れな……」

 

 しかし、バーサーカーを見た鬼面の男がそう吐き捨てる。

 と同時に、ギリ、ギリと音がした。

 引き絞られた弦の音色、だけでは無い。

 

 それは世界の歪む音。

 鬼面の男とバーサーカーとの間、射線上の空間が引き絞られる音である。

 

 弓矢八幡・雷上動。

 それは神仏たる文殊菩薩が造り、その化身、猿号擁柱と呼ばれた神代の弓聖、養由基から源頼光が賜った霊弓である。養由基の放つ矢が文殊菩薩の智慧による未来視によって必中を誇る神業であるのに対し、鬼面の男の放つソレは武神、八幡ノ神の権能の限定行使により空間を歪め、的と己の距離を(ゼロ)とする事で必中足らしめる魔技。

 

「その慟哭もここで終わる。せめて安らかに散るが良い」

 

 言葉と共に矢が空を切る。

 瞬間、逆巻く恐るべき魔力の波動と共に、地上に彗星が奔った。

 それは空間湾曲による擬似的な光速超過。放たれた矢は正に雷となって敵を穿つ。

 

 故に、如何な膂力であれ、如何な防御であれ、その一射を凌ぐには不足である。

 遠坂邸の一角が爆砕し、衝撃波と共に粉塵が舞い上がった。衝撃に周囲へと弾け飛んだ飛礫がバーサーカー達の背後にあったブロック塀を薙ぎ倒し、公道へと降り注ぐ。砕けた電柱が倒れ、二度三度と火花が瞬いた。

閃光と轟音、逆巻いた暴風に押され、凛達は尻餅を付いて倒れる。耳と目が麻痺し、恐怖で身体は硬直している。それでも、彼女達は叫ばずにはいられなかった。

 

「雁夜おじさんッ!!」

 

 巻き上げられた粉塵に隠れ、雁夜達の安否は不明である。

 しかし、如何に幼い子供でも絶望的な状況だと本能で分かった。

 アレは嵐や雷、地震や津波と同種の物だ。人の手に余る事象である。

 

「よくもッ!! よくも、おじさんを――」

 

 白む視界で、それでもカッと頭に上った熱に従い、凛が叫ぶ。否、叫ぼうとした。

 しかし、言葉は途中で途切れた。

 鬼面の男が殺気を湛え、真っ直ぐに彼女を見据えていたからである。

 

 それはこの日、初めて鬼面の男が見せた本気の殺意。

 心臓を鷲掴みにされた様な錯覚を覚え、凛は微動だに出来なかった。

 

 ぽたり、と血が落ちた。

 舞っていた粉塵が次第に収まり、倒れ伏す雁夜の姿が露わになる。彼から数メートル離れた場所にクレーターが出来ていた。鬼面の男の放った矢の着弾箇所である。

 

 正しく隕石でも落ちたのかという有様だった。

 バーサーカーの姿は無い。

 否、その二十メートル程、後方。遠坂邸の前に止まった車の中に彼女はいた。

 

 衝撃に撥ね飛ばされた彼女は、背後のブロック塀をぶち抜き、道路に止めてあった乗用車に背中から突っ込んだ。車が大きく跳ね、ガラスは砕け散り、サイドドアは陥没。彼女はそのまま車内へと転がり込み、衝撃に横滑りした車が向かいの家の門に激突して止まる。

 

 再び、ぽたり、と血が落ちる。

 鬼面の男の弓を持つ手から真っ赤な血が滴っていた。

 

「何者だ?」

 

 男が凛へと問うた。否、その後ろの木陰に向かってである。

 同時に何かが空を切って男へと奔った。

 男が横に跳んでそれを回避し、その足元の屋根瓦が次々と砕けて宙を舞う。

 無数の石火が瞬いた後、凛の背後の木陰からスッと一つの影が進み出る。

 

 一人の男である。

 百九十を超える長身に、闇に溶け込む黒の神父服。カソックの上からでも見て取れる鍛え上げられた鋼の如き肉体。戦闘を目前に熱を持たぬ瞳。物静かな、影の様な男だった。

 振り返った凛が男を見て驚きの声を上げる。

 

「き、綺礼、なんでアンタが……。いや、それより――」

「ふむ、凛、これは一体どういう状況だね? いや、良い。先ずは師の家を荒らす狼藉者を片付けるとしよう」

 

 男、言峰綺礼は凛の頭にポンと手を乗せるとニコリともせずに言った。

 

「凛、君は下がっていなさい。ああ、いや、奥様を頼む」

 

 綺礼の指先が袖の中に一瞬隠れ、次の瞬間、ぞろりと黒い刀身が顔を出す。五指に握られた四本の刃。代行者特有の投擲武装「黒鍵」である。

 

 言峰綺礼。

 聖堂協会所属、元第八の代行者にして、遠坂時臣に師事する魔術師見習い。凛の兄弟子にあたる人物である。言峰と遠坂の盟約に従い、今は聖杯戦争に参加する時臣と共に行動していると凛は聞き及んでいた。

 それがどうしてここにいるのか?

 疑問はあったが、凛は黙って疑問を呑み込むと葵のもとへと駆けていく。

 

 そちらをちらりと一瞥すると、言峰綺礼は真っ直ぐに進み出る。確りとした足取りであった。鬼面の男と相対する綺礼に臆した様子は欠片も見当たらない。

 彼は倒れ伏す雁夜を見た。

 綺礼は未だ状況が呑み込めてはいない。何故、師の家が戦場になっているのか分からなかったし、彼は雁夜とも面識が無かった。しかし、凛達が彼等の身を案じている事は分かった。

 

 故に、彼は自らが成すべき事を判断する。

 

「貴様、邪魔立てする気か――ッ!!」

 

 男が矢を番え、弓を綺礼へと向ける――より速く、綺礼は鬼面の男へと黒鍵を投擲した。予備動作無しで放られた四本の黒鍵が空を切り、男へと降り注ぐ。

 先程、雁夜を射抜く筈だった男の矢が逸れた原因。それこそがこの投擲剣。雷上道から矢が放たれるより一瞬早く、綺礼の放った黒鍵が男の腕を掠めていたのである。

 

 闇に紛れる黒い刀身、飛来したそれは宛ら砲弾。着弾と同時に屋根瓦が弾け飛び、黒鍵が遠坂邸の屋根を貫いて虚空に消える。

 辛くもそれを回避した鬼面の男が息吐く間もなく、綺礼の放った次弾が空を切る。綺礼の投擲する黒鍵は神速なれど、鬼面の男にとって避けられぬ速度では無い。

 

 しかし、余りに数が多過ぎた。避けると同時に、身を躱した先に間髪入れず、逃げ道を塞ぐ様に無数の黒鍵が飛んでくるとあっては避け続けるのは不可能である。

 鬼面の男は避け切れぬと判断すると、その手甲で黒鍵を受けた。避け切れぬ黒鍵を叩き落とし、次弾が迫るより前に雷上動で敵を討つ。その動きは淀み無く、その判断に痂疲は無い。男の腕ならば次弾が届くまでの一刹那に、容易く綺礼の頭を射抜くだろう。ただ一つの誤りは、その黒鍵を投擲しているのが埋葬機関の代行者、言峰綺礼であるという事である。

 

 黒鍵を受けた瞬間、男の身体が衝撃で弾き飛ばされ、屋根瓦を砕いて遠坂邸に埋没した。

 

 鉄甲作用。

 埋葬機関秘伝の黒鍵投擲術である。

 それは作用反作用の法則を容易く超越する。今、綺礼の放つ黒鍵の着弾時の衝撃は通常の数十倍にまで跳ね上がっているのだ。そして、綺礼は敵の動きが止まったと見るや否や、更に黒鍵を投擲する速度を上げる。

時間にして凡そ二十秒、遠坂邸の屋根は無数の黒鍵に貫かれ半壊した。

見るも無残な有様である。しかし――

 

「ッ、その程度で、この俺が殺れると思うなッ!!」

 

 男が吼えた。

 男は瓦礫の中から飛び出ると、更に飛来する黒鍵を躱しながら、抜き放った太刀を滑らせる。弧を描いて地面に吸い込まれた一刀に次いで、蹴りが屋根へと打ち込まれ、ベキベキという破砕音と共に切り落とされた遠坂邸の一角が綺礼へと降り注いだ。

 影が落ち、降り注いだ瓦礫の山が綺礼の視界を埋め尽くす。

 

「下らん――主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた――火葬式典」

 

 詠唱と共に投擲された黒鍵が、降り注ぐ遠坂邸の屋根を貫く。同時に、降り注いだ瓦礫の山が炎に包まれ燃え上がり、黒鍵に貫かれた穴を起点に 左右にバラけて落下する。

 両断された燃え上がる瓦礫はゆっくりと左右に分かれ、綺礼を避ける様に落下した。しかし、同時に綺礼へと一つの影が落ちる。

 銀光の瞬きと共に、屋根から飛び降りた男の一刀が綺礼へと奔った。

 

「その動きは読んでいる」

 

 綺礼は後方に大きく跳び退き、これを回避。同時に、片手を自らの背後に回す。

 着地した鬼面の男が刀を振り被り追撃の構えを見せた所で、綺礼の背後で光が爆ぜた。綺礼の手を離れた直径数センチの火球が爆裂し、強烈な閃光を放ったのだ。

 それは一瞬男の眼を晦まし、勝負を決定付ける。

 

 綺礼はダンッ、と黒鍵を地面に突き立てた。否、正確には背後で炸裂した閃光によって、敵を覆い隠す程に巨大化した己の影に黒鍵を突き立てたのである。

 

「読んでいる、と言っただろう? 動こうとしても無駄だ。私の影がお前を掴んで離さない。そして――」

 

 綺礼は懐から一冊の書物を取り出す。聖書であった。それが開かれるとバラバラと凄まじい速度で独りでにページが捲られていく。次いで紙片が宙を舞った。

 

「これで終わりだ。――神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」――鳥葬式典」

 

 宙を舞っていた無数の紙片が詠唱と共に黒鍵へと変貌する。それだけでは無い、彼が今まで投擲した黒鍵の尽くが中空へと浮かび上がり、くるりと反転すると、その刃先を標的へと向けたのである。

 綺礼が胸の前で十字を切る。

 

 瞬間、無数の黒鍵の弾雨が鬼面の男へと殺到した。

 動けぬ獲物を抉り啄ばまんと無数の飛刃が宙を舞う様は正に鳥葬。

男は微動だにしない。否、綺礼の影縫いによって微動だに出来――

 

「この程度で、俺を殺す? 笑わせるなよ、小僧。――神力・星兜」

 

 言葉と共に、男の全身の筋肉が膨れ上がり――無数の黒鍵の雨が降り注ぐ。飛来した刀剣による絨毯爆撃。石畳が衝撃に弾け飛び、地面が揺れる。

 撒き上がった粉塵の中から、一つの影が跳び出て、綺礼へと迫った。

 綺礼は咄嗟に自らが影縫いに使った黒鍵に目をやった。彼が陰に突き刺した黒鍵は如何なる力が加わった物か、刀身が半ばで圧し折れ、柄が砕け散っている。

 影縫いが破られた事を悟ると、綺礼は即座に迎撃態勢を取り、黒鍵を投擲する。

 

 鉄甲作用によって投擲された黒鍵はその威力故に受ける事が出来ない。それは敵も承知の筈。綺礼は男が紙一重で避けてこちらに向かうなら黒鍵を抜いて跳び掛かろうと思った。大きく避けて跳び上がったなら黒鍵を投げて迎撃しようと思った。しかし、

 

 男は投擲された黒鍵を片手で易々と薙ぎ払った。

 

「遅いな。終わりだ」

 

 一体如何なる膂力を秘めているのか。男の腕が伸ばされる。徹甲榴弾にも比肩する黒鍵数発を纏めて弾く剛腕は人間など藁の様に引き千切るだろう。

 

「――ヌルい」

 

 しかし、綺礼は伸び来たる男の腕、その手首を手の甲で受け、軌道を逸らす。そして即座に手首を返して男の腕を掴んで引き寄せると同時に、一歩踏み込んだ足を引いた。踏み込んだ男の足と綺礼の足とが交差する。

受けから始まり、踏み込んだ敵の足に自らの脚を絡めて体勢を崩す梱鎖歩、空いた脇腹へとカウンターで放つ必殺の頂肘まで、一連の動作は一呼吸の内に完了する。綺礼渾身の頂肘、肘打ちは確実に男の鎧を砕き、肋骨を粉砕して敵の内臓を爆裂せしめるだろう。

 

 しかし、綺礼は不意に梱鎖歩を解き、掴んだ手を離すと舌打ち一つを残して横へと跳躍。男から距離を取った。

 

「綺礼ッ!! 危ないッ!!」

 

 遅れて凛の絶叫が綺礼の耳へと届いた。

 瞬間、死が降り注ぐ。

 

「アァ――アァアアアアアアァアアア―――!!!」

 

 暫し沈黙していたバーサーカーが跳躍し、頭上から鬼面の男へと躍り掛かったのだ。

 

「チッ、この――」

 

 鬼面の男の言葉が途中で途切れる。

 轟音と共に石片が宙を舞った。バーサーカーの大鉈による一撃は、ショベルカーの掘削の如く、石畳を数メートルに渡り大きく抉ってその下の地面ごと中空へと跳ね上げた。

 

 同時に瞬く無数の火花。

 柄から伸びる綱を掴んで振り回すバーサーカー大鉈、綺礼の投擲した無数の黒鍵、鬼面の男が抜き放った刃がそれぞれ激突し中空に火花を咲き誇らせたのである。

 

 しかし、それも一瞬。

 バーサーカーが跳ね上げた土砂石片が落下し、巻き上がった際の粉塵に紛れて鬼面の男は両者から距離を取って大きく跳躍。彼は半壊した遠坂邸の屋根の上へと着地する。

 鬼面の男が言った。

 

「フン、今日は随分と邪魔が良く入る。まぁ、良い。当初の目的は果たした。これ以上は結界も綻ぶ頃合だ。この勝負は預けよう。貴様等全員、次は死を覚悟しておけ」

「逃げる気か? いや、逃がすと思っているのか?」

 

 黒鍵を構え、綺礼が言った。男は苦笑を返し、バーサーカーを指差す。

 バーサーカーは血走った目に殺意を溜め、膝を付き肩で息をしていた。低く唸る声にも先程までの力は無い。不意に彼女が手で自らの顔を、その顔に張り付いた鬼面を覆った。

 

「グ、グゥゥウァアアァア――あ、うぅ……」

 

 嗚咽と共にバーサーカーの顔から鬼面が落ちた。同時に彼女の瞳は理性と憔悴の色とを取り戻す。

 魔力切れだ。

 遂に狂化は愚か、宝具の使用に回す魔力すらも尽きたのだろう。狂化を施した英霊の戦闘には莫大な魔力を要する。元より死に瀕した雁夜からの魔力供給で追いつく筈も無い。

 先程の強襲も、自前の貯蔵魔力による最期の足掻きに他ならない。

 全く動けなくなる前に、彼女は無理を押して勝負に出た。

結果は御覧の有様である。

 

「そちらのサーヴァントもガス欠でアウト。俺はこの場は見逃してやる、と言っている。貴様が本当に勝てるつもりなら追って来い。殺してやるよ」

 

 鬼面の男は太刀を鞘へと収めると、右手の手甲を外した。男の右手の地肌が露わになる。

 

「だが、そう急く事もあるまい。貴様等が今回の聖杯戦争に参加するつもりなら、どうせ殺り合う運命なのだからな」

 

 男の晒した右腕には、朱き無数の紋様があった。

 皆が息を呑む音がした。

 それは紛う事無く聖杯戦争のマスターである事の証明、令呪に他ならない。問題はその数だ。男の腕に描かれた令呪、その数はどう見ても十画を超えている。

 

 通常、参加者に宿る令呪は三画のみ。その例外は聖杯戦争の審判として聖堂教会から派遣される監督役と、裁定者として聖杯に召喚されるルーラーのサーヴァントのみ。

 その意味を察した綺礼が表情を強張らせる。

 

「貴様……。その無数の令呪、まさか父を――」

「逸るなよ。これは俺が今回の聖杯戦争の為に掻き集めていた物だ。過去の聖杯戦争において、敗退者共の残存令呪を回収していたのは監督役だけじゃァねェって事さ」

 

 令呪とはサーヴァントを律する鎖であり、膨大な魔力の塊。

 能力の強化は勿論、己のサーヴァントをその意志に反して自刃させる事も、空間転移に拠って引き寄せる事も可能な三度限りの切り札であり、マスターにとっては自らより遥かに強大な英霊を御する上での生命線なのだ。

 圧倒的な優位と言わざるを得まい。

 

「開催の地、トゥリファスにて待つ。臆せぬならば来るが良い。ああ、そうだ。そこで倒れている死にぞこないにも言っておけ。不覚が許されるのは今宵までだ。精々、本当の戦いが始まるまでに強くなっておけ、とな」

 

 鬼面の男は雁夜を指差してそう言うと、大きく後方に跳躍し夜の闇へと消えていった。

 

 同時に一帯を覆っていた人払いの結界が解除され、戦闘の終了を告げる。

 男の気配が消え、後には静寂とボロボロになった遠坂邸のみが残った。いずれ戦闘痕を見た付近の住民が警察に通報し、この場所も次第に騒がしくなるだろう。

 この場に残された各人は追撃よりもそちらへの対処を考えねばなるまい。

 余りにもアッサリとした幕引きであった。

 

「フン、この状況――追うのは無理だな」

 

 綺礼は男の消えた方向を見つめ、一人呟く様に言った。

 綺礼は自らの腕を見る。彼の右腕はへし折れ、あらぬ方向へと曲がっていた。先程、鬼面の男の掌打を逸らした方の腕である。

 

「完全に捌いた筈だったが――。どうやら、見逃された様だな……」

 

 綺礼の二の腕のカソックは破れ、そこからは朱き三画の紋様が覗いていた。彼に宿った令呪である。或いは鬼面の男が退いたのは、この綺礼の令呪を見たからなのかも分からなかった。

 

“あと数分……。否、数秒も在れば敵はこちらを皆殺しに出来た筈だ……。

 

 無闇に追い詰める事によって、英霊を喚ばれる事を畏れたか?”

 綺礼は顎に手を当て、思考に耽る。

 周囲の被害は甚大。更に綺礼は未だに事態を把握出来ていない。

 そもそも何故、遠坂邸で戦闘が起こっていたのか?

 あの鬼面の男は何者か?

 あのサーヴァントは?

 倒れている男は何者だ?

 疑問が次々と湧き上がったが、綺礼は凛達の安否を確認するのが先だと思い直した。少なくとも眼前のサーヴァントとそのマスターと思わしき男に戦闘の続行は不可能だ。

 

 綺礼が踵を返して凛達の方へ向かおうとすると、バーサーカーがその足を掴んだ。その手は弱々しく、無様に縋る様に、否、実際、英霊ともあろう者が藁にも縋る思いなのだろう。必死に綺礼の足に縋り付いている。

 

「お、お願い。マスターを、助けて……」

 

 バーサーカーが言った。絞り出す様な声だった。

 

“私が魔術師であると知って主の治療を求めたか?

 だが懇願する相手を間違っている。”

 

 そう綺礼は思った。自分も聖杯戦争に参加するマスターである以上、敵と成り得る人間を治療する理由は無い。増して、綺礼は雁夜の事を何も知らないのだ。自身の傷の手当てもしなければならない。

 

 それは極めて打算的な判断だった。

 そこに綺礼自らの思考、心情を差し挟む猶予は全く無い。

 故に彼は気付かなかった。

主の治療を願って敵に縋る少女の手を振り払う時、綺礼には我知らぬ内に、己の胸の奥底でチリと浮かび上がる感情がある事に。彼は無自覚にその感情に蓋をし、冷静に振舞う。

 

「ふむ、すまないが――」

「綺礼ッ!! お願い!! おじさんを、雁夜おじさんを助けてッ!!」

 

 綺礼の言葉は、彼へと跳び付いた凛の必死の懇願に遮られた。身体を両手で揺さぶられ、へし折れた右腕に奔る激痛に綺礼は顔を歪める。しかし、凛はそれに気付かず、猶も激しく綺礼の身体を揺すって懇願する。

 

「ぐ、ッ、り、凛……。取りあえず、手を離してはくれないか?」

「あッ、ご、ごめんなさい」

 

 謝る凛を前に、彼は頭を掻いて一つ大きく息を吐く。

 

「ふむ、そうだな。それでは、凛、状況を説明してくれないか?」

 

 

 †††

 

 

 心臓が今にも張り裂けんばかりに脈打っているのは決して走っているせいだけでは無い。

 脳裏に渦巻く後悔と焦燥が主たる要因に違いなかった。

しかし、落ち着く事など出来なかった。

立ち並ぶ民家の屋根を蹴って、一直線に目的地へと夜の街を駆け抜ける。

 心臓が破れても良い。

 足が千切れても構わなかった。

 ただ彼女を――、彼女達を救う事が出来たらそれで良い。

 ただ一念に突き動かされ、目的地へと辿り着く。

 門扉を蹴破って中へと転がり込んだ。

 

 そこには絶望があった。

 

 間に合わなかったという事実だけが、絶望的な光景を突き付けてくる。

 世界が歪んでいる様に感じた。

 自分が震えている事に気付いたのは、ずっと後になってからだ。

 

 大切な人だった。

 ただ一人、愛した人だった。

 彼女を護ろうと思った。

 彼女の大切な物全てを護ろうと思った。

だから、強くなると誓った。

 なのに……。

 真っ赤な血に塗れた彼女の死体がそこにあった。

 死んでいる。

 死んでいる。

 生きているはずが無い。

 胴体を失って生きている人間などいるはずが無い。

 彼女の肩から上の部分だけが血だまりの中に沈んでいた。

 

 どれ位、それを見つめていたのかは分からない。

 一瞬だった様な気もするし、数十分だったのかも知れない。

 俺は半狂乱に成って彼女の娘達を探した。

 護ると誓った彼女の大切な物。

 命に代えても救いたかった人達。

 やっと見つけた彼女達は――

 

 

 悪夢に魘され手を伸ばす。

 

「あ、葵さんッ――葵さんッ!!」

 

 夢中で彼女の名前を呼んだ。

 その指先が誰かに触れる。逆光になって霞んだ視界に映った人影を、雁夜は夢中で抱き締めた。断裂した全身の筋肉が悲鳴を上げたが彼は気にしなかった。ただ失う事が恐ろしくてならなかった。その腕を離せば彼女が永遠にいなくなってしまうのではないかと思った。

 

 彼の身体はガタガタと震えていた。

 初めて蟲蔵に入った晩も、臓硯と対峙した夜も、兄弟である鶴野と殺し合った時ですら、否、鬼面の男に殺される瞬間にすら、ここまで怖いと感じた事は無かった。

 恐怖と言う感情なぞ、とうの昔に蟲の餌になった物だと思っていた。

 柔らかな手の温もりが頭に、回された背に伝わる。

 次第に震えが止まり、恐怖が消える。

 

 あんなに狼狽していたのに、腕の中の彼女に触れられるだけで、不思議と雁夜は落ち着く事が出来た。すると今度は気恥ずかしくなってくる。ただでさえ、自分が不甲斐無いせいで護るべき葵達を危険に晒してしまったのだ。本来、合わせる顔も無い失態である。

 だと言うのに、取り乱した挙句に葵に抱き付くなど――。

 しかし、雁夜は抱き締めた腕の力を抜く事が出来なかった。

 

“ああ、葵さん。俺はやっぱりアナタの事が……”

 

 漸く、雁夜は自覚する。

 それは隠しようも無い彼の本心だった。

 積年の想いだ。元より諦められる筈が無かった。

 たとえ彼女の心が時臣へと向いていようとも。

 たとえ彼女が時臣の妻となっていようとも。

 

 その程度の事で、諦められる筈が無かったのだ。

 武の修業に明け暮れていた為か、雁夜の恋愛観は間桐を出奔する当時のままで止まっている。否、長年の夢妄、積愁の念が拗れに拗れて膨れ上がっているのだ。

 自分に嘘を吐き、彼女の幸せを願うなどと耳触りの良い言葉で自分を誤魔化すのは、最早不可能だった。不可能だと悟ってしまった。

 

 抱き締めた腕の中に感じる女性特有の丸みと柔らかさ。

 鼻腔を擽る甘い酒の匂い。

 正に天にも昇る様な心地だった。

 ん? 酒?

 

「えっと、あの、葵さ――」

 

 雁夜は恐る恐る腕の中の女性へと目をやる。

 

「あ、震えは治まった? えーと、それじゃあ、マスター。出来たら放してくれると嬉しいんだケド……」

 

 そこには恥ずかしそうに俯くバーサーカーの姿があった。

 どうやらずっと葵さんと勘違いしてバーサーカーを抱き締めていたらしい。

 雁夜は何も言わず、ぎこちない動作で首だけを動かして辺りを見回す。首関節のモーターがどうやら壊れたらしい。ギギギと音を立てそうな挙動だった。

 

 どうやら遠坂邸の客間であり、ベッドの上である。これを誰かに見られると非常に拙いのでは無いか? 否、何もやましい所は無い。そもそも自分は葵さん一筋なのである。それは先程、再確認したばかりでは無いか。

だが、取りあえずこの場を葵さん達に見られる事だけは避けなければ。そもそも召喚の際も誤解によって――と、雁夜の頭脳は一瞬にしてフル回転し、自問自答を繰り返しながら取るべき行動を過去の経験から引っ張り出そうとする。

 

 しかし、石柱を投擲された時と違い、こちらは幾ら過去の経験を思い返してみても正解は見付かりそうも無かった。当然である。存在しない物を探すなど正に徒労という物だ。

 

 待て、何でも無い事の筈だ。

 落ち着いて一言バーサーカーに詫び、何事も無かった様に振舞えば――。

 そこまで考えた時、目を輝かせ、興味津々といった体でこちらを見つめる凛と桜の二人と目が合った。

 

 

 †††

 

 

 時は少し遡り、遠坂邸の応接室。

 遠坂葵と言峰綺礼はそこにいた。

 マホガニーのテーブルを挟み、向かい合ってラウンジチェアに座っている。テーブルの上に置かれたヘレンドのティーポットから紅茶の良い香りが漂っていた。

 応接間は運良く先の戦闘による損壊を免れた場所である。

 

「言峰さん、先程は危ない所を助けて頂き、本当にありがとうございます。ですが、貴方は主人と行動を共にしていたのでは? それが何故こちらに?」

 

 葵は深々と綺礼に頭を下げると、浮かんでいた疑問を口にする。その顔と口調には不安がありありと滲んでいた。

 凡そ三年前、時臣が弟子を取ると言って連れてきた男がこの言峰綺礼だった。

 綺礼は真面目な男で、魔術を忌避して然るべき聖職者でありながら貪欲に魔術を学ぶ様は、時臣を大いに喜ばせた。三年の間に形成された彼の綺礼に対する信頼は揺るぎなく、娘の凛にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。

 

 葵も真摯で礼節を忘れぬ所作を決して崩さぬ綺礼の事を信頼していたし、その聖職者らしい禁欲的、模範的な態度は凛に見習わせたいと思っている程だった。

 一番弟子の称号を奪われた凛は事ある毎に彼に反目していたが、言峰綺礼は自他共に認める正に時臣の片腕とも言える存在である。

 それが何故、聖杯戦争開始が差し迫ったこの時期に一人日本へと帰って来たのか?

 

 綺礼は師である時臣と共に聖杯戦争に向けての準備に動いていると葵は聞いていた。二ヶ月程前に時臣は自らが在籍していたロンドンの時計塔に行くと言って冬木を発っており、冬木国際空港で二人を見送った事を葵は覚えている。

 既に二人共が今回の聖杯戦争の開催地へと入っているものだと思っていたのだ。

 綺礼の存在は時臣に何かあったのではないかという不安を葵に抱かせるに十分の物だった。

 

「はい、奥様。時臣氏の指示で私は一度こちらへと戻る事になったのです。貴方達の身にも危険が及ぶかも知れぬ、と師は心配しておられました。私が間に合ったのは運が良かった。いや、彼のお陰でしたね」

「ええ、雁夜君がいなかったら、私達家族は今頃……」

 

 葵の表情が曇る。恐怖がぶり返してきたのだろう。

 事実、綺礼の到着が今少し遅れていたら、彼女達の命は無かった。

 綺礼は葵の様子を見て、少し話題を変える事にした。

 

「ふむ、奥様。彼とはどの様な御関係で? 随分と親しい間柄と見受けられますが」

「幼馴染なんです。私と、時臣の。尤も、時臣は失踪した彼を恨んでいるかも知れません。彼の魔術師としての才覚に一番期待していたのはあの人でしたから」

「失踪?」

「ええ、雁夜君と時臣は良く腕試しというか、魔術比べをしてて……。私は兄弟の様に思っていたんですが、彼はライバルだと思っていたんでしょうね。男の子ですから。時臣に負けて、彼が時計塔に行くと分かって、家を飛び出したんです」

「ほう、そんな事が」

「主人は随分とショックを受けていました。あの人があれ程怒っていたのを私は初めて見た気がします」

「ですが、彼は帰ってきた。聖杯戦争に参加する為に」

 

 綺礼は葵の話を聞き、やはりあの雁夜という男はここで始末しておくべきなのでは無いかと思った。意識の戻っていない今は、彼を始末するまたとない好機に違いない。

 負け続けてきた男。

 再び姿を現した彼が師に敵対しないとどうして言えるだろうか?

 確かに彼には葵達の件で借りがあるのかも知れない。

 だが、だからこそ弟子である自分が汚れ役を引き受けるべきでは無いのか?

 

 だが――と、そう考える一方で綺礼は雁夜に興味を覚えていた。

 鮫がどれ程薄まろうと血の匂いを嗅ぎ分けるのと同じく、綺礼本人にすら無自覚に、彼は嗅ぎ取っていたのだろう。人の魂の削られる様な足掻きと、それの報われぬ瞬間にこそ訪れる真の絶望。悲劇の織り成す血の匂いを。

 後は全てが蛇足だ。

 我知らぬ内に彼は理論武装し、獲物が死なぬ様に理屈を付け、自らを言い負かす。

 綺礼が暫しそのまま自問自答していると、葵が言った。

 

「その、言峰さん。事情は分かりました。この家もこの有様ですし、私達は実家の禅城を頼ろうと思います。貴方は直ぐに時臣の元に戻って下さい」

 

 綺礼が来た事で救われたのは事実である。

 しかし、綺礼という強力な戦力を護衛としてこちらに縛り付けておく訳にはいかない。敵は尋常な相手では無いのだ。味方は一人でも多い方が良い。

 葵の言葉に綺礼は頷く。

 

「分かっております。ただし、直ぐという訳にはいきません。貴方達の安全を確実に確保する必要がありますし、何より目的の物を持ち帰らねばなりませんから」

「目的の物? それは何なのです?」

 

 綺礼の答えは大凡葵にとって予想外の言葉だった。

 

「英雄王に代わる英霊を召喚する為の触媒です。ブカレストに向かった我々は敵の襲撃を受けました。そして、時臣氏の元に届くはずだった聖遺物、英雄王ギルガメッシュ所縁の品を敵に奪われたのです」

 

 









ソロモンよ私は帰ってきた!!

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